壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない

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壊れた愛の巣に、もう二度と帰らない

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第二子を妊娠中、医師から絶対安静を命じられていた望月晴香(もちづき はるか)は、退屈しのぎに幼稚園の保護者グループを眺めていた。 先生...

Chương (1)

第1章

第二子を妊娠中、医師から絶対安静を命じられていた望月晴香(もちづき はるか)は、退屈しのぎに幼稚園の保護者グループを眺めていた。 先生からメッセージが届いている。 【親子運動会の参加者名簿を作成します。参加される方は、園児名と参加する保護者名の形式で続けてご記入ください】 晴香は息子、賀来知宏(がく ともひろ)の分を入力しようと、画面をスクロールした。 十七番目で、指が止まった。 【賀来一花(かく いちか):父:賀来征司(かく せいじ)】 賀来征司。 それは、晴香の夫の名前だった。 けれど、賀来一花は晴香の子どもではない。 同姓同名だと思った。そう思おうとした。 けれど、その保護者のアイコンを開いた瞬間、晴香は息をのんだ。 男がベビーカーを押して、公園を歩いている写真だった。 横顔ははっきり写っている。左耳の後ろには、一本の傷跡があった。 征司が八歳のとき、木から落ちてできた傷だ。 晴香は、その傷を隅々まで知っている。 数えきれないほど、そこに口づけてきたから。 第1話 第二子を妊娠中、医師から絶対安静を命じられていた望月晴香(もちづき はるか)は、退屈しのぎに幼稚園の保護者グループを眺めていた。 先生からメッセージが届いている。 【親子運動会の参加者名簿を作成します。参加される方は、園児名と参加する保護者名の形式で続けてご記入ください】 晴香は息子、賀来知宏(がく ともひろ)の分を入力しようと、画面をスクロールした。 十七番目で、指が止まった。 【賀来一花(かく いちか):父:賀来征司(かく せいじ)】 賀来征司。 それは、晴香の夫の名前だった。 けれど、賀来一花は晴香の子どもではない。 同姓同名だと思った。そう思おうとした。 けれど、その保護者のアイコンを開いた瞬間、晴香は息をのんだ。 男がベビーカーを押して、公園を歩いている写真だった。 横顔ははっきり写っている。左耳の後ろには、一本の傷跡があった。 征司が八歳のとき、木から落ちてできた傷だ。 晴香は、その傷を隅々まで知っている。 数えきれないほど、そこに口づけてきたから。 震える手で過去の投稿を遡った。三か月前の行事アルバムの中で、征司は、晴香が出張先のホテルに忘れてきたと思い込んでいたポロシャツを着て、二つ結びの小さな女の子を抱き上げていた。 その笑顔は、見たこともないほど優しかった。 彼の隣に立っている女を、晴香は知っていた。 親友の柳原甘奈(やなぎはら かんな)だった。 何より皮肉だったのは、その直後に続いた十八番目の書き込みだ。 【賀来知宏:母:望月晴香】 同じ幼稚園。 同じクラス。 晴香の息子と、その女の娘は、席まで隣同士だった。 晴香はその写真を見つめたまま、望月グループの顧問弁護士に離婚協議書の作成を依頼しようとした。 その瞬間、腹部に激痛が走った。 冷や汗が一気に噴き出す。 晴香は必死に体を支えながら征司に電話をかけたが、何度鳴らしても出なかった。 救急車を呼ぶしかなかった。 救急外来で診察を終えた医師は、厳しい表情で告げた。 「胎児の状態が非常に不安定です。必ず絶対安静にしてください。これ以上強い刺激を受けたら、この子は助かりません」 その日の午後、晴香は退院し、市内中心部にある二人の家へ戻って静養することになった。 主寝室のベッドに力なく横たわり、がらんとした部屋を見つめた。 心が、少しずつ沈んでいった。 夕方、主寝室のドアが開いた。 征司が汗だくで駆け込んできた。 その体には、甘奈がいつもつけている香水の匂いがまとわりついていた。 「晴香、どうして急に病院なんかに行ったんだ?」 征司は近づいてきて、晴香の手を取ろうとした。 彼女は身をよじって避け、スマートフォンを彼の胸に叩きつけた。 画面には、彼が公園でベビーカーを押している写真が明るく映っていた。 「緊急会議に行っていたんじゃなかったの?その会議、幼稚園の親子行事で開かれていたわけ?」 晴香は彼を睨みつけた。 征司の顔が青ざめる。 けれどすぐに眉をひそめ、まるで自分が正しいとでも言うように口を開いた。 「そんなに過敏になるなよ。甘奈は一人で一花を育てていて大変なんだ。一花には父親がいない。ああいう行事で父親が来なかったら、ほかの子にからかわれるだろ。俺は少し手伝っただけだ。それだけのことで、病院に運ばれるほど騒ぐ必要があるのか?」 晴香は、もっともらしい顔でそう言い切る彼を見て、吐き気が込み上げた。 かつて、大雪の中で三時間も並び、彼女に温かい焼き栗を食べさせるためだけに待ってくれた男。 その男が今では平然と嘘をつき、他人の娘を宝物のように大切にしている。 ドアの外から、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえた。 甘奈が一花の手を引いて入ってきた。 その後ろには、二人の共通の友人たちまでついていた。 玄関先には、友人たちが持ち込んだ花束や紙袋が並んでいた。 そのうちの一人が、小さなメッセージボードを掲げて笑う。 そこには、丸い文字でこう書かれていた。 【晴香、二人目おめでとう】 彼らは花束や手土産を抱え、口々に祝いの言葉をかけてきた。 本来なら、誰にも踏み込まれたくないはずの寝室で。晴香がようやく息をつける、たった一つの場所で。その祝福めいた声は、彼女の尊厳を静かに踏みにじっていた。 晴香は腹部が痙攣するように痛み、思わずお腹を押さえた。 「お腹が痛いの。医師から安静にして、興奮しないようにって言われてる。出ていって」 だが征司は、彼女が大げさに騒いでいるだけだと思った。 「さっき俺に食ってかかっていたときは、ずいぶん元気だったじゃないか。みんなわざわざ家まで見舞いに来てくれたんだぞ。どうしてそんなふうに場の空気を悪くするんだ」 友人たちも口をそろえた。 「晴香、甘奈は一花を産んだとき、大出血で死にかけたのよ。今までずっと大変だったんだから、征司が少し助けたくらいで何が悪いの?」 「あなたはもう二人目を妊娠しているんだから、少しくらい大目に見てあげなよ」 甘奈が前に出て、果物の詰め合わせをベッドサイドテーブルに置いた。 か細い声で言った。 「晴香、征司を責めないで。全部、私が悪いの。一花がずっとパパがほしいって泣くから、どうしようもなくて、彼にお願いするしかなかったの」 一花は甘奈の後ろに隠れていた。 その手には、征司が買ったばかりの限定版のバービー人形が握られていた。 征司は歩み寄り、一花を抱き上げた。 それから晴香を見た。 「見ろよ。甘奈はわざわざみんなを連れて、お前を祝うために来てくれたんだ。そんな冷たい顔をしていないで、起きてリビングで少し果物でも食べよう」 晴香の胃が激しく波打った。「出ていって」 「いったい誰が騒ぎを起こしていると思っているの?」 晴香は声を張り上げ、甘奈を指差した。 「この女が人を引き連れて私の寝室に押しかけてきて、あなたがこの女の娘の親子行事に付き添ったことを見せつけている。それをあなたは、お祝いだって言うの?」 「晴香」 征司は声を低くして警告した。 「自分が正しいと思って、いつまでも食い下がるな。俺と甘奈は潔白だ。これ以上そんな理不尽なことを言うなら、もうお前のことは知らないぞ」 甘奈はそのタイミングを見計らったように目を赤くし、征司の服の裾をつかんだ。 「征司、私のせいで晴香と喧嘩しないで。やっぱり私、一花と先に帰るわ。晴香は今、気持ちが不安定なの。これ以上、体に障ったら大変だわ」 一花まで泣き出した。 「パパと離れたくない。一花、パパがいい」 征司は胸を痛めたように一花の頭を撫で、晴香へ向けた目には失望がにじんでいた。 「今のお前の姿を見てみろよ。まるでヒステリーを起こした女じゃないか。母親らしい優しさなんて、どこにも残っていない」 征司の表情が完全に冷えきった。 「いい加減にしろ」 晴香はガラスのコップを甘奈めがけて投げつけた。 甘奈が悲鳴を上げ、一花の手を引いて後ろへ逃げる。 一花は足を滑らせて転び、砕けたガラスのそばで大声で泣き出した。 征司の顔色が一変した。 彼は晴香を突き飛ばし、甘奈母娘を背中にかばった。 「晴香、お前正気か!五歳の子どもに八つ当たりしてどうするんだ!」 怒鳴り声が響き、額には青筋が浮かんでいた。 晴香は彼に突き飛ばされて後ろへ倒れ、脇腹が硬い無垢材のベッドサイドテーブルの角へ強く打ちつけた。 激しく引き裂かれるような痛みが走る。 息をのんだ晴香は、そのまま棚にすがるようにして床へずり落ちた。 晴香は冷や汗を流しながら、目の前で別の女を必死に守る夫を見つめた。 その瞬間、彼女の心はついに粉々に砕け散った。 震える手でスマートフォンを取り出し、メッセージ画面を開いて送信ボタンを押した。 【長谷川弁護士、すぐに離婚協議書を作成してください。賀来征司には一銭も渡さず出ていってもらいます】 第2話 友人たちは次々と前に出て、晴香を責め立てた。 「晴香、いくらなんでもやりすぎよ。自分の家だからって、そんなふうに暴れていいと思ってるの?」 「征司、早く一花を病院に連れていって、けががないか診てもらいなよ。こんな頭のおかしい女、相手にしなくていいから」 晴香は痛みで冷や汗を流しながら、床に敷かれたウールの絨毯を必死に掴んでいた。手の甲には青筋が浮き上がっている。 「征司」 歯を食いしばり、震える声で言った。 「私と甘奈、どちらか一人しか選べないなら、あなたはどっちを選ぶの?」 征司は立ち上がり、見下ろすように晴香を見た。 「お前を選ぶ。けれど甘奈も手放せない。一花には父親の存在が必要なんだ。どうして二人を受け入れられない?みんなでうまくやっていけばいいだろう?」 晴香は、あまりの馬鹿馬鹿しさに、息をするだけで血の味がするような気がした。 「受け入れる?不倫相手と隠し子を、私に受け入れろって言うの?」 「言い方に気をつけろ!」 征司は眉をきつく寄せ、厳しい声で言った。 「不倫相手だの隠し子だの、何を勝手なことを言っているんだ。甘奈は俺にとって一番大切な女友達だ。一花には何の罪もない。二人をそんなふうに侮辱することは、俺が許さない」 晴香は力なく笑った。涙が目尻を伝ってこぼれ落ちた。 三年前、征司は婚姻届を出した役所の前で、土砂降りの雨の中、膝をついて誓った。 「俺、賀来征司は誓う。一生、望月晴香に少しのつらい思いもさせない。もしこの誓いを破ったら、どんな罰を受けても構わない」 たった三年で、誓いは笑い話になった。 腹部の激痛はいっそう激しくなり、晴香は下半身から熱いものが流れ出すのを感じた。 血が太ももの付け根を伝って流れ落ち、床に滴って、赤く広がっていく。 「征司……お腹が、痛い……子どもを……助けて……」 晴香は痛みに耐えきれず、征司のスラックスの裾を掴もうと手を伸ばした。 だが征司は嫌悪をあらわに、一歩後ずさった。 冷たい目で彼女を見下ろす。 「今度は何の芝居だ?嫉妬に狂って、そんな下劣な真似までするのか?」 そのとき、傍らで甘奈が悲鳴のような声を上げた。 「あっ、一花のおでこから血が出てる!征司、一花が血を出してるわ!」 征司はたちまち顔色を変え、一花を抱き上げた。 床に倒れている晴香には、一瞥もくれなかった。 「行こう。小児科で手当てしてもらう」 彼は甘奈の肩を抱き、一花を腕に抱えたまま、振り返ることなく出ていった。 友人たちも後を追うように散っていった。 去り際、彼らは晴香を嘲る言葉を残していった。 「芝居もやりすぎると誰も見てくれないよ。いい加減、起き上がったら?」 広い邸宅は一瞬で静まり返り、晴香だけが冷たい床に倒れ伏していた。 腹部を絞られるような痛みに、意識が遠のきそうになる。 血はますます流れ出し、絨毯の上に、ぞっとするほど赤い水たまりを作っていった。 家政婦は今日、征司が休ませていた。 家には、彼女を助けてくれる人など誰もいない。 晴香は最後の力を振り絞り、玄関のほうへ這っていった。 高価な絨毯の上に長い血の跡を引きずりながら、ようやく廊下の固定電話に手を伸ばし、119番に通報した。 三十分後、晴香は救急車で病院へ搬送された。 看護師が駆け込んできて、血まみれの晴香を見るなり、切迫した声で叫んだ。 「ストレッチャーを早く!すぐに処置の準備を!」 数人の医師と看護師が慌ただしく晴香をストレッチャーに乗せた。 晴香の意識はすでに霞み始めていた。 耳に届くのは、入り乱れる足音と、医療機器の電子音ばかりだった。 「心拍が落ちています!血圧も低いです!」 「ご家族を呼んで同意書に署名してもらってください!緊急処置の準備を!」 看護師は手術同意書を手に廊下へ走り出し、大声で呼んだ。 「望月晴香さんのご家族はいませんか?賀来征司さんはどちらですか?」 廊下には、誰もいなかった。 晴香はストレッチャーに横たわったまま、最後の一滴の涙をこぼした。 唇を強く噛みしめ、声ひとつ漏らさなかった。 痛みで、神経はすでに麻痺していた。 心の奥にわずかに残っていた期待も、流れ続ける血とともに完全に消えていった。 看護師は額に汗をにじませ、電話を握って救命室へ戻ってきた。 「先生、賀来さんに電話がつながりません!すぐに切られました!」 「かけ続けて!患者さんは大出血しているのよ。同意書がなければ手術に入れない!」 医師が厳しい声で急かした。 看護師は震える手で、もう一度征司に電話をかけた。 電話がつながった。 「賀来さん、奥様が大出血を起こしています。緊急処置が必要です。今すぐ来て、同意書に署名してください!」 看護師は電話に向かって必死に叫んだ。 電話の向こうから、征司の苛立った声が聞こえた。 「いつまで騒ぐつもりだ?一花はおでこをけがして泣いているんだ。あんなくだらない芝居に付き合っている暇はない。もう演技はやめろって伝えろ!」 通話は無情にも切れた。 看護師は電話を握ったまま、信じられないという顔でその場に立ち尽くした。 晴香は全身の力を振り絞り、ゆっくりと目を開けた。 「持ってきて……私が、自分で署名します」 第3話 晴香は震える手でペンを握り、同意書に歪んだ字で自分の名前を書いた。 冷たい器具が体内に差し込まれる。 激痛が全身をのみ込んだ。 晴香は麻酔を断った。 この痛みを、意識のあるまま、はっきりと覚えておきたかった。 傍らで医師がため息をついた。 「あの男、本当にひどいわね。さっき小児科へ薬を取りに行ったら、小さな女の子を抱いてあやしていたの。隣には女までいたわ。妻が大出血で処置を受けているのに、他人の子の擦り傷に付き添う余裕はあるんだから」 看護師も憤ったように言った。 「本当ですよ。同意書にサインしに来ることすらしないなんて、冷血にもほどがあります」 晴香は目を閉じた。 涙が音もなく、こめかみの髪へ染み込んでいく。 手術は終わった。 三か月にも満たないあいだ彼女のお腹に宿っていた小さな命は、もう戻らなかった。 病室へ戻されると、晴香は静かに天井を見つめた。 取り乱すことも、声を上げて泣くこともなかった。 彼女の心は、もう完全に死んでいた。 晴香はスマートフォンを取り出し、姑である賀来佳代子(かく かよこ)にメッセージを送った。 【お義母さん、征司がまた柳原甘奈と関係を続けていました。子どもは流産しました。三年前の財産分与放棄の合意書を有効にしてください】 佳代子からは、すぐに返信が来た。 【なんてことを……晴香、安心して。すぐ手配するわ。あんな女、絶対に賀来家には入れないから】 晴香はスマートフォンを置き、目を閉じて休もうとした。 そのとき、病室のドアが荒々しく蹴り開けられた。 征司が怒りをあらわにして飛び込んできたかと思うと、晴香の掛け布団を一気にはぎ取った。 「よく寝ていられるな?一花は怖がって高熱を出して、ずっと泣いているんだぞ!今すぐ俺と来て、甘奈に謝れ!」 晴香は力なく目を開けた。 声はかすれていた。 「今、処置を受けたばかりなの。子どもは、もういない」 征司は一瞬だけ固まった。 だがすぐに、嫌悪に満ちた冷笑を浮かべた。 「まだ芝居を続ける気か?医者はもう、切迫流産を抑える処置をしてくれたんだろう。俺を騙すにしても、もう少しまともな言い訳を考えろよ。子どもがいなくなったと言えば、俺が心配するとでも思ったのか?」 彼は晴香の腕を掴み、ベッドから無理やり引きずり下ろした。 晴香は足に力が入らず、膝を冷たい床へ強く打ちつけた。 処置を終えたばかりの体に激痛が走り、全身が痙攣する。 「征司、放して……」 晴香は痛みで冷や汗を流した。 けれど征司は、さらに手に力を込めた。 彼女の肩を強く押さえつけ、病室の外へ歩かせようとする。 「放せだと?お前は一花をあんなに怖がらせたんだ。今日は必ず土下座して謝らせる。お前が謝りに行くくらいで駄目になる子なら、死んだって仕方ないんだ。生まれてくる必要なんてない」 晴香の胸は、生きたまま肉をえぐり取られたように痛んだ。 彼女は顔を上げ、まるで見知らぬ男のように変わり果てた夫をじっと睨んだ。 三年前、彼は彼女を抱きしめながら未来を語った。 子どもは二人ほしい。その子たちを命に代えても守ると言っていた。 今、その彼が、自分の子に向かって、死んで当然だと口にした。 「わかった。謝りに行く」 晴香は静かに言った。 抵抗せず、征司に引きずられるままになった。 征司は眉をひそめた。 突然おとなしくなった彼女に、意外そうな顔をした。 「妙な真似はするなよ」 彼は鼻で笑い、ようやく手を離した。 晴香は壁に手をつき、少しずつ立ち上がった。 血がまた太ももを伝って流れ落ち、白い病衣に赤い染みを作った。 征司は前を歩き、彼女を振り返りもしなかった。 廊下の空気は冷たく、薄い病衣をまとった晴香の体を容赦なく刺した。 一歩進むたび、下腹部の重い痛みが増していく。 それでも晴香は、眉ひとつ動かさなかった。 ナースステーションの看護師が晴香の姿を見つけ、慌てて駆け寄ってきた。 「望月さん、処置を受けたばかりなんですよ。歩いてはいけません!また出血します!」 征司は足を止め、冷ややかな目で看護師を一瞥した。 「この病院の看護師は、エキストラの副業までしているのか?こいつにいくらもらって、芝居に付き合っているんだ?」 看護師は怒りで顔を真っ赤にした。 「賀来さん、奥様は本当に流産されたんです!手術同意書だってご自分で署名されたんですよ!どうしてそんなことが言えるんですか!」 征司はまったく信じなかった。 晴香を指差し、冷笑した。 「自分で署名した?本当に流産したなら、今ここに立っていられるわけがないだろう。晴香、お前の芝居はどんどん本格的になるな。看護師まで買収するとは」 晴香は反論しなかった。 看護師の手をそっと外し、淡々と言った。 「大丈夫です。まだ死にませんから」 看護師は悔しそうに足踏みしたが、どうすることもできなかった。 征司は背を向け、また大股で歩き出した。 「早くついてこい。ぐずぐずするな」 晴香は、その後ろについていった。 第4話 晴香は甘奈の病室の前まで歩いていった。 病室の中では、甘奈が一花を抱き、優しくあやしていた。晴香が入ってくるのを見るなり、彼女はたちまち傷ついたような顔を作った。 「晴香、やっと一花の様子を見に来てくれたのね。一花、あなたに怖い思いをさせられてから、ずっと熱を出しているの。本当にかわいそうで……」 征司はベッドのそばへ歩み寄り、痛ましそうに一花の額に触れた。それから晴香を振り返り、厳しい声で怒鳴った。 「何を突っ立っている。早く来て謝れ!」 晴香はその場に立ったまま、無表情で甘奈を見つめた。 甘奈はわざと声を落とし、二人にしか聞こえない声で挑発した。 「晴香、おとなしく私を受け入れてくれるなら、私たちはまだ親友でいられるわ。征司の妻の座は、遅かれ早かれ私のものになる。あなたでは私に勝てないのよ」 晴香は冷ややかに言い返した。 「恩を仇で返すような最低の人間を見ると、吐き気がするわ。私がその立場にしがみついているとでも思っているの?」 甘奈の顔色が変わった。 次の瞬間、彼女は顔を覆って泣き出した。 「晴香、私のことが嫌いなのはわかってる。でも、そこまで言うなんてひどいわ……私はただ、一花を普通の家庭で育ててあげたいだけなのに」 泣き声を聞いた征司は怒りに駆られ、晴香を殴ろうと手を振り上げた。 「まだ甘奈を悪く言うつもりか!」 ぱんっ。 乾いた平手打ちの音が病室に響いた。 打たれたのは晴香ではなく、甘奈だった。 佳代子が数人のボディーガードを連れて病室に駆け込み、甘奈の鼻先を指して怒鳴りつけた。 「この恥知らずの泥棒猫!人の家庭を壊しておいて、ここで勝ち誇った顔をするなんて、いい度胸ね!誰か、この女を引きずり出しなさい!」 ボディーガードたちはすぐに前へ出て、甘奈の腕を掴み、外へ引っ張ろうとした。 甘奈は恐怖に引きつった声で叫んだ。 「征司!助けて!」 一花もつられて大声で泣き出した。 征司は目を血走らせ、狂った獣のように飛び出した。ボディーガードを蹴りのけ、甘奈を必死にかばう。 「母さん!何をしているんだ!どうして甘奈を叩くんだ!」 佳代子は怒りで全身を震わせ、征司の鼻先を指して怒鳴った。 「叩かれて当然でしょう!晴香が流産したのは、この女のせいよ。うちの孫まで奪っておいて、被害者みたいな顔をしないで!」 征司はまるで聞く耳を持たなかった。 実の母に向かって怒鳴り返す。 「流産だって?そんなの、晴香が母さんを騙すための芝居に決まってるだろ!甘奈は俺に一花を産んでくれた。賀来家にとっては功労者だ!たとえ戸籍上の妻じゃなくても、俺にとっては大事な家族なんだよ!」 佳代子は信じられないという顔で息子を見つめ、怒りのあまり二歩ほど後ずさった。 「あなた……本当にどうかしているわ!その泥棒猫のためなら、実の母親まで捨てるつもりなの?」 征司は歯を食いしばり、一歩も引かなかった。 「今日、彼女を追い出すつもりなら、俺は甘奈と一花を連れて賀来家を出る。これからは、俺なんて息子はいなかったと思えばいい!」 晴香は傍らに立ち、冷めた目でこの茶番を見ていた。 愛人のために実の母親にまで刃向かう征司の狂った姿を見ていると、馬鹿馬鹿しさを通り越して笑えてくるほどだった。 佳代子は胸を押さえ、大きく息を喘がせていた。征司を指す手までも震えている。 「そう……そうなのね!この親不孝者!その女のためなら、家まで捨てるというのね!」 甘奈は征司の胸に隠れながら、唇の端に得意げな冷笑を浮かべた。 そして誰も見ていない隙に、ベッドサイドテーブルのガラスのコップをそっと床へ押し落とした。 ぱりん、と音を立ててコップが割れ、破片があたりに飛び散る。 甘奈は驚いたふりをして一歩下がり、つま先で鋭い破片をいくつか正確に晴香の足元へ蹴り寄せた。 「征司、怖いわ……おばさま、私を殺すつもりなのかしら……」 甘奈は涙に濡れた顔で泣きじゃくった。 征司は痛ましそうに彼女を強く抱き締め、晴香を憎々しげに睨みつけた。 「これがお前の望んだ結果か?この家をめちゃくちゃにしなければ気が済まないのか?」 晴香は何も言わなかった。 佳代子は怒りのあまり息を詰まらせ、白目をむいて、そのまま後ろへ倒れていった。 「お義母さん!」 晴香はとっさに一歩踏み出し、佳代子を支えようとした。 しかし征司は、晴香が甘奈に危害を加えようとしているのだと思い込んだ。 彼は勢いよく振り返り、力任せに晴香を突き飛ばした。 「甘奈に近づくな!」 晴香はもともとひどく衰弱していた。 その一押しで完全にバランスを崩し、床へ激しく倒れ込んだ。 反射的についた両手が、ちょうど甘奈が蹴り寄せたガラス片の上に重なった。 鋭い破片が掌に食い込み、血が一気にあふれ出す。 晴香は痛みに息をのんだ。 とっさに腹部だけはかばい、そこへの衝撃をできるだけ抑えたが、額には大粒の冷や汗が浮かんだ。 それでも征司は、彼女に一瞥すらくれなかった。 そのまま晴香をまたぎ越え、倒れた佳代子を抱き上げて病室を飛び出していく。 「医者だ!早く医者を呼べ!」 第5話 征司は佳代子を抱えて病室を飛び出し、床に倒れている晴香には一瞥すらくれなかった。 甘奈は傍らに立ち、血まみれになった晴香の両手を見下ろして、肩を震わせて笑った。 「晴香、見た?征司の中では、あなたなんて他人以下なのよ。その手が使い物にならなくなったら、これからどうやって子どもを抱くのかしら。ああ、ごめんなさい。あなたの子どもは、もう死んだんだったわね」 晴香は歯を食いしばり、彼女の嘲りには応じなかった。 掌に刺さったガラス片を、一つ一つ無理やり引き抜いていく。血が床に滴り落ち、目をそむけたくなるほど凄惨だった。 晴香は壁に手をついて立ち上がった。 今は弱っているふりをして耐える。反撃の時を待つために。 そして足を引きずりながら、病室を出ていった。 邸宅へ戻ると、晴香はスーツケースを引っ張り出し、自分の荷物をまとめ始めた。 ほどなくして、階下から騒がしい声が聞こえてきた。 征司が甘奈と一花を連れ、当然のような顔で家に戻ってきたのだ。 使用人たちは大小さまざまな箱を運び込み、征司の指示で、息子の知宏の部屋にあったおもちゃをすべて片づけていた。 「こんな要らないものは全部捨てろ。一花が好きなピンクの家具に替えるんだ」 征司が大声で命じた。 執事は困ったような顔をした。 「旦那様、ここは坊っちゃんのお部屋です。奥様がわざわざ整えられたお部屋で……」 「俺の言う通りにしろ!知宏はサマーキャンプに行っている。帰ってきたら別の部屋を用意すればいい」 征司は苛立たしげに遮った。 晴香は二階の階段の踊り場に立ち、冷ややかにその光景を見下ろしていた。 あの部屋は、晴香が知宏のために自分の手で整えたものだった。 おもちゃの一つ一つまで、晴香が丁寧に選んだ。 それなのに今、征司はためらいもなくそこを空にし、隠し子の遊び部屋に変えようとしている。 甘奈は一花の手を引いて階段を上がってきた。 晴香の姿を見ると、わざと大きな声で言った。 「征司、このお部屋、本当に素敵ね。一花もきっと気に入るわ」 征司も階段を上がってきた。 晴香の足元に置かれたスーツケースを見るなり、眉をひそめる。 「また何を拗ねているんだ?荷物なんかまとめて、どうするつもりだ」 晴香は無表情で彼を見た。 「あなたたちに場所を譲ってあげるのよ」 征司は彼女に歩み寄り、すべてわかったような顔でため息をついた。 そして晴香を抱きしめようと手を伸ばす。 「晴香、甘奈を一人にしておくのは心配なんだ。しばらくこの家に置いてやるだけだ。安心しろ、俺はお前と離婚するつもりはない。俺だって十分譲ってるだろ。もう意地を張るな。これまでと同じようにしていればいい」 晴香は身をよじって彼の手を避けた。 胃の奥から吐き気が込み上げる。 「触らないで。気持ち悪い」 征司の手が宙で固まった。 その顔が沈んでいく。 「なんでそうやって突っかかるんだよ。俺だってここまで譲ってるだろ。まだ何が不満なんだ?離婚を持ち出せば、俺が折れるとでも思ってるのか?」 晴香は、上から物を言う彼を見つめた。 もう、口論する気力さえ残っていなかった。 「疲れたの。もう言い争いたくない」 彼女は淡々と言った。 征司は、晴香が折れたのだと思い込み、満足げにうなずいた。 「わかればいい。お前はしっかり休んでいろ。俺は一花の部屋がどうなったか見てくる」 彼は知宏の部屋へ向かいながら、使用人に言いつけた。 「奥様をちゃんと見ていろ。勝手に外へ出すな」 専任の監視役を、二十四時間つけた。 それが、征司が晴香に与えた「思いやり」だった。 晴香は部屋のドアを閉め、スーツケースのファスナーを引いた。 それから、佳代子から郵送だれた離婚届の受理証明書を見て、冷ややかに笑った。 それから数日、晴香は寝室に軟禁された。 ドアの外には二十四時間ボディーガードが立ち、「奥様の静養をお守りするため」という名目で、実際には晴香の自由を奪っていた。 階下からは毎日、三人家族のような楽しげな笑い声が聞こえてくる。 征司はリビングで一花とかくれんぼをして遊び、甘奈はキッチンに立って手料理を作る。 まるで幸せな家庭そのものだった。 使用人たちが晴香に向ける視線も、最初の同情から、いつしか軽蔑へと変わっていった。 「奥様も自業自得よね。旦那様に逆らってばかりいるから、とうとう部屋からも出られなくなって」 「本当よ。柳原さんはあんなに優しいし、私たちにもよく心付けをくださるのに。奥様は一日中怖い顔をしているんだもの。愛想を尽かされても仕方ないわ」 晴香は聞こえないふりをした。 毎日、食べて眠るだけ。部屋に満ちた静けさは、息が詰まるほど重く沈んでいた。 その日の午後、征司は会社の会議に出かけた。 甘奈は栄養食を持って晴香の寝室に入り、後ろ手でドアの鍵をかけた。 「晴香、この数日、居心地はいかが?」 甘奈はベッドのそばへ歩み寄り、晴香を見下ろした。 晴香はベッドの背にもたれたまま、まぶたさえ上げなかった。 甘奈は冷たく笑い、栄養食をベッドサイドテーブルに乱暴に置いた。 「寝たふりなんてしないで。今日はね、あなたに一つ秘密を教えに来たの」 甘奈は晴香の耳元へ顔を寄せ、声を低くした。 その声には、悪意に満ちた喜びがにじんでいた。 「実はあの日、病院の処置室の前で、医者があなたは流産したって話しているのを聞いたの」 晴香の指がびくりと強くこわばった。 爪が深く掌に食い込む。 「はっきり聞こえたわ。でも、征司には教えなかった。だって、あなたのお腹にいた余計な子なんて、死んで当然だったもの。まずはお腹の子、次に知宏……あんたのこどもがみーんな死んでくれたから、一花が正真正銘、賀来家でただ一人の子どもになれるんだから」 第6話 晴香は激怒した。 その瞬間、理性が音を立てて崩れ落ちた。 彼女はベッドから勢いよく起き上がると、甘奈の髪を鷲づかみにし、そのまま床へ引き倒した。 「きゃあ!」 甘奈が悲鳴を上げ、必死にもがく。 晴香は彼女に馬乗りになり、両手で首を絞め上げた。目は真っ赤に血走り、怒り狂った雌獅子のようだった。 「死ぬべきなのは、浮気したクズと、人の家庭に入り込んだ女のほうよ!征司の妻の座が欲しいんでしょう?全部あげるわ!征司なんて、私が捨てたゴミよ。欲しいなら持っていけばいい。でも、私の子を呪ったことだけは許さない。殺してやる!」 甘奈は首を絞められて白目をむき、両手をむやみに振り回した。晴香の腕には、いくつもの引っかき傷が刻まれていく。 ドアの外にいたボディーガードたちが物音を聞きつけ、慌ててドアを破るようにして駆け込んできた。そして無理やり晴香を引き離した。 晴香は押さえつけようとする手を振りほどき、乱暴に突き放して距離を取った。冷たい目で、床に崩れた甘奈を見下ろす。 「出ていって」 甘奈は首を押さえて激しく咳き込みながら、憎悪に満ちた目で晴香を睨んだ。 「覚えてなさい。必ず後悔させてやるから」 深夜、邸宅に突然、警報音が鳴り響いた。 二階の廊下から濃い煙が広がり、誰かが恐怖に震えた声で叫んだ。 「火事です!一花お嬢様のお部屋が燃えています!」 晴香は上着を羽織って部屋を出た。 廊下は大混乱に陥っていた。 征司が全身ずぶ濡れになり、意識を失った一花を抱えて濃煙の中から飛び出してくる。 甘奈が駆け寄り、胸が張り裂けるように泣き叫んだ。 「一花!私の一花!征司、早く助けて!」 火はほどなく消し止められた。 一花は煙を吸い込んだため、病院へ緊急搬送された。 邸宅の庭で、征司は血走った目で晴香を睨みつけていた。その眼差しには、激しい憎しみが滲んでいた。 「お前がやったんだろう?昼間に甘奈の首を絞めたと思ったら、その夜に一花の部屋が火事だ。お前はどこまで残酷なんだ。五歳の子どもにまで手を出すのか!」 晴香は冷たい風の中、背筋をまっすぐ伸ばして立っていた。 「私はやっていない。この邸宅には至るところに監視カメラがあるでしょう。映像を確認すればわかるわ」 執事が震えながら進み出て、どさりと地面に膝をついた。 「旦那様……監視カメラに映っておりました。夜中に、奥様が寝間着姿で、こっそり一花お嬢様のお部屋へ入っていかれました。そのしばらく後に、部屋から煙が……」 征司は執事の手からタブレットを奪い取った。 画面には、晴香によく似た体つきの女が、人目を忍ぶように子ども部屋のドアを開ける姿が映っていた。 晴香は氷の底へ突き落とされたような気がした。 ようやく、甘奈が昼間に言った「後悔させてやる」の意味を理解した。 これはすべて、甘奈が仕組んだ自作自演の芝居だった。 晴香を陥れるために、実の娘の命まで賭けたのだ。 「まだ言い訳があるのか!」 征司は晴香を蹴り倒した。 晴香の膝が石畳に強く打ちつけられ、骨の奥まで響くような痛みが走る。 彼女は顔を上げ、十年も愛してきた男を見つめた。 その男が、突然ひどく見知らぬ人間に思えた。 「あなたが信じるなら、もう言うことはないわ」 征司は目を血走らせ、晴香の襟元を掴むと、庭の中央まで引きずっていった。 「そこに土下座しろ。一花に謝れ」 征司は低く怒鳴った。 「一花に何かあったら、ただじゃ済まさない。自分が何をしたのか、そこで頭を冷やせ」 激しい雨が降り出し、晴香の薄い服を容赦なく濡らしていった。 ボディーガードが彼女の肩を押さえ、庭石の上に無理やりひざまずがされた。 晴香は抵抗しなかった。 ただ虚ろな目で、雨に煙る庭を見つめていた。 冷たい雨が髪を伝い、頬を濡らし、やがて古傷から滲んだ血と混ざって落ちていく。 痛みはあった。 けれど、その痛みでさえ、胸の奥に開いた穴には届かなかった。 雨に打たれながら時間が過ぎていく。 一分一秒ごとに、征司への愛が静かに削られていった。 空が白み始めたころ、ようやくボディーガードは彼女の肩から手を離した。 「奥様、病院から連絡がありました。一花お嬢様は危険な状態を脱したそうです。旦那様からのご指示です。奥様が再び一花お嬢様に危害を加えないよう、すぐ郊外の旧宅へ行って反省するように、と。おとなしくなれば、また迎えに行くとのことです」 晴香は泥水の中から起き上がり、顔についた雨を拭った。 そして静かにポケットから、離婚届の受理証明書を取り出し、ボディーガードの顔へ投げつけた。 「これを征司に渡して。自由にしてあげる、と伝えて」 そう言い残し、晴香は邸宅の門を出て、タクシーを拾った。 彼女はスマートフォンを手に取った。 画面が暗くなる直前、最後に残っていたメッセージはこうだった。 【運転手さん、望月家の本邸までお願いします】