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好きだと言ってくれれば
夫が初恋の人の妊婦健診に付き添っていた時、私・夏目澪は一人で、中絶手術の予約をしていた。 視線がぶつかって、ふっと口角を上げて笑ってみ...
Chương (1)
第1章
夫が初恋の人の妊婦健診に付き添っていた時、私・夏目澪は一人で、中絶手術の予約をしていた。
視線がぶつかって、ふっと口角を上げて笑ってみせた。
「奇遇ね」
後になって、二人の末永い幸せを祈ってあげたら、なぜか彼はひどく不機嫌になった。
第1話
「景!」
聞き慣れたその名前に、私・夏目澪(なつめ みお)は息を呑んで、勢いよく顔を上げた。
少し離れたところで男女が向かい合って立っている。女性はふんわりとした優しい顔立ちで、お腹が少しふくらんでいる。男性は背が高くて、凛とした立ち姿……
まぎれもなく、結婚してまだ一ヶ月しか経っていない私の夫、神崎景(かんざき けい)だった。
その光景に、頭の中が真っ白になる。とっさに角の陰に身を隠して、ようやく思考が追いついた頃には、もう二人の声は聞こえなくなっていた。
彼女、妊娠しているんだ。景の好きな人が、妊娠した。
彼が健診に付き添う姿は、あまりにもお似合いで、幸せそうだ。赤ちゃんは、両親に望まれて生まれてくるべきだ。
そっと下腹部を撫でて、しばらく立ち尽くした後、別のフロアへと向かった。
看護師から中絶手術を受けるには原則として配偶者の同意が必要になると言われた。
お腹に手を当てたまま、きっぱりと言った。
「必要ありません。自分の体は自分で責任を持ちます。産むかどうかも私が決めることですから」
同意書に自分の名前だけサインして、外の椅子で待つことにした。
白石結愛(しらいし ゆあ)の声が遠くから近づいてくる。
「そんなことないよ。今のところつわりも全然ないし、きっとこの子がすごくいい子なんだね」
ふと視線を向けると、景と結愛が並んで歩いている。彼の片手には紙袋が握られていて、たぶん結愛の葉酸だろう。
視線が交差する。彼は一瞬足を止めて、驚いたような顔をした。まさかこんな所で私に会うとは思っていなかったのだろう。
立ち上がって、ふっと口角を上げてみせた。「奇遇ね」
景の表情は、あっという間にいつも通りの冷静なものに戻った。
「どうしてここに?」淡々とした問いかけ。低く、どこか上の空のような響きを含んだ声だ。
私はただ微笑んだまま、問い返した。「あなたこそ?」
「ちょっと用事でな。そっちはもう済んだのか?」
「まだ少しかかりそう」
「そうか、じゃあ先に行く」
それだけ言うと、私の横を通り過ぎていく。結愛はこちらに向かって軽く会釈をして、ふんわりと微笑むと、そのまま彼の後を追っていった。
再び腰を下ろした。冷たいプラスチックの椅子がやけに硬く感じる。
やがて手術台に仰向けになって、頭上で無影灯が眩しく点灯する。目を閉じると、目尻から熱いものが頬を伝って流れ落ちた。
病院を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
配車アプリで車を呼んで新居に戻ると、家政婦の田中さんが迎えてくれた。
「奥さま、お帰りなさい。旦那さまはもうお戻りですよ。夕食をお待ちになっています」
食欲はまったくなくて、今はただ眠りたい。「夕食は要らないから」と田中さんに伝えて、階段に足をかける。
田中さんが慌てて追いかけてきた。
「奥さま、顔色が悪いです。どこか具合でも悪いんじゃありませんか?すぐに医者をお呼びします」
無理やり口角を引き上げる。「大丈夫、ちょっと疲れただけ。寝れば治るわ」
「具合が悪い時は絶対に無理をしないでくださいね、すぐにかかりつけの佐藤先生をお呼びしますから」と、背後から心配そうな声が追いかけてくる。
「ええ」とだけ返して、二階の寝室へ向かった。
顔を洗って、歯を磨く。お風呂に入る気力もない。スキンケアさえ省いて、すぐ寝る支度をした。
その時、ドアが開いて、景が入ってくる。こちらへ近づいて、じっと私の顔を覗き込んだ。
「具合でも悪いのか?佐藤先生を呼ぼう」
「いいえ、寝れば治るから」ベッドへ向かって、掛け布団をめくる。
景は後についてくると、黙ってしばらくこちらを見つめる。ふっと笑って口を開いた。
「そういえば、今日病院で何してたんだ?」
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなくて、一瞬、どう答えるべきか言葉に詰まる。
けれど、すぐに気がついた。彼は別に、私が病院で何をしていたかなんて、本気で知りたいわけじゃないんだと。
視線を彼に向ける。その口元には相変わらずの笑みが浮かんでいた。
いつだってそう。余裕があって、どこか人を寄せ付けない。軽薄そうに見えるのに冷たくて、決して本心を見せない。
第2話
私は俯いたまま、静かに首を横に振る。「あなたを追いかけて行ったわけじゃないわ」
「分かってる」景はそう言って、手を伸ばして私の頬をそっと撫でた。
「お前はいつも聞き分けがいい。俺が選んだ女だ、期待を裏切るような真似はしないだろう」
確かに、私は景が選んだ相手だ。
彼との政略結婚を望む家は数え切れないほどあった。その中で、うちには何の強みもない。年商50億円程度のうちの会社は、この界隈では中堅にも届かないちっぽけな企業だと言われている……
それでも彼は私を選んだ。理由は単純。従順で、自己主張が少なくて、彼に干渉しようとしないから。結婚したところで、今まで通り自由気ままに振る舞えるのだ。
彼にとって、この結婚はただ家族に対する体裁に過ぎない。だけど私にとっては、実家の会社を救うための最後の命綱だった。
景を必要としている。正確に言えば、両親が、そしてうちの会社が彼を必要としているのだ。
その結果、うちは欲しかったものを手に入れた。そして今のところ、景もこの結婚に不満はないらしい。
「先に寝るね」無理に笑顔を作って、ベッドに潜り込む。
しばらくして、衣擦れの音と足音が耳に届いた。景は部屋を出ていった。
目を閉じて、体を丸める。少し、肌寒い。次第にまぶたが重くなって、まどろみの中へと引きずり込まれていく。
ふと、誰かに抱き寄せられる感覚がした。少しひんやりとした大きな手が下腹部に添えられて、そこから官能的な手つきで上へと這い上がってくる。
景だ。
ハッと目が覚めて、反射的にその手を押さえた。
「今日は……ちょっと具合が悪いの」
「どこが?」
低く掠れた声が耳元で響く。少し熱を帯びた唇が、首筋に落とされる。
思わず身をすくめてしまう。脳裏に、彼と妊婦姿の結愛が並んで立っている光景が自動的に再生された。心の奥底から、強い拒絶反応が湧き上がってくる。
「本当に気分が優れないの。今夜は、やめて」懇願するように口にする。
彼の手は下腹部に置かれたまま動かない。静かに抱きしめられた状態が続いて、やがて、腕の力を少し強めた。
「寝よう」
結婚してからというもの、彼が家で夜を明かす時は、決まって毎晩こうして私を抱きしめて眠る。
最初は、ほんの少しだけ期待していた。これは彼なりの愛情表現なのだと自分に言い聞かせていた。
けれど、どんなに愚かでも、今日病院で彼と結愛の姿を見てしまった瞬間から、もう自分を騙し続けることはできなくなった。
ただ、分からない。あんなに結愛を愛しているのに、どうして私と結婚したのか。あんなに彼女を愛しているのに、どうして夜になると私を抱きしめるのか。
いつしか眠りに落ちていた。再び目を開けると、室内は真っ暗で、すでに隣に彼の姿はない。
スマホを手に取って時間を確認すると、もう午前9時だ。
バスルームで熱いシャワーを浴びて、手早く体を拭いて、少し厚手の服を着込んで一階へ降りる。
家政婦の田中さんの姿はなく、代わりに若いお手伝いの奈々が掃除をしている。
こちらに気づいて手を止める。「奥さま、お目覚めですか。今、お食事になさいますか?」
こくりと頷く。オープンキッチンで奈々が手早く準備を始める。しばらくすると、「お食事ができました」と声をかけてきた。
アイランドキッチンで簡単に食事を済ませて、部屋に戻ってまた休もうと立ち上がった、その時。
ポーンという到着音が響き、エレベーターの扉が開いて、現れたのは景だった。
視線を向けると、彼の表情はひどく冷え切っていた。瞬き一つせず私を見据えて、こちらへ向かって歩いてくる。
その大きな体躯から放たれる威圧感に、思わず息が詰まる。顔を上げて、彼の視線を受け止めながら「どうかしたの?」と聞こうとしたが、声が出なかった。
「どこが具合悪いんだ?」唐突に、景がそう問い詰めてきた。
ほんの一瞬で理解した。彼は病院へ行ったのだ。そして、すべてを知ってしまったのだと。
「よくもやってくれたな」地の底から響いてくるような、極限まで低く抑えられた声だ。
第3話
私は俯いたまま、何も言えなくなる。そもそも、なぜ景がそこまで怒っているのか分からなかった。まさか、私にあの子を産んでほしかったの?
でも、愛情もぬくもりもない家庭に、自分の子を産み落とすことなんてできない。
景に顎を掴まれて、ぐいっと上を向かされる。無理やり目を合わせられると、その甘く魅力的な瞳からいつもの余裕は完全に消え失せて、底知れぬ凄みだけが渦巻いている。
薄い唇がゆっくり開く。一言一言噛み締めるよう吐き出す。
「澪……お前は俺の子を堕ろしたんだな。何か言うことはないのか?」
冷え切った声で、景が問いただす。
口を開いて、乾ききった喉からようやく絞り出したのは、短い一言だ。「……ない」
しばらく沈黙が続く。やがて景は小さくうなずいた。「そうかよ」
顎から手を離す。氷のように冷たい視線でしばらく私を見下ろした後、振り返り、そのまま立ち去った。
近くで奈々が息をのむ音が聞こえた。そちらに少し顔を向けると、彼女は慌てて視線を逸らした。
私は何も言わず二階へ上がった。寝室のドアを開ける。広すぎる部屋を見渡しながら、しばらく立ち尽くした。
それからウォークインクローゼットへ向かって、荷物をまとめ始める。
とはいえ、自分の物なんてほとんどない。ここで使っている物はすべて、景が用意したものばかりだ。
もっと正確に言えば、景自身が選んだわけでもない。洋服、靴、バッグ、ジュエリー……「神崎家の若奥様」になっただけで、毎日のように高級ブランドから品物が届く。
実家から持ってきたわずかな私物をスーツケースに入れる。情けないほど少なくて、ケースの中は半分も空いている。
荷造りを終えて、ソファに腰を下ろす。足元のスーツケースをぼんやり見つめる。
どうやら取り返しのつかないことをしてしまった。父に電話した方がいいかもしれない。会社を助ける約束は、もう果たせそうにないから。両親はきっと悲しむだろう。
どれくらい時間が経っただろうか。突然、外から義母・神崎雅子(かんざき まさこ)の優しい声が聞こえてきた。
「澪ちゃん」
慌てて部屋を出る。雅子は私を見るなり駆け寄って、両手をぎゅっと握りしめて心配そうに尋ねた。
「どういうことなの?本当に赤ちゃんを……」
景の動きがこれほど早いとは思ってもみなかった。小さく頭を下げる。
「お義母さん、ごめんなさい」
雅子は眉に皺を寄せた。
「どうしてそんなことをしたの?澪ちゃん、どうしてなの?
こんな大事なこと、どうして一言も相談してくれなかったの?
一人で病院に行ったの?どんな手術だって危険はあるのよ。
もしあなたに何かあったら、ご両親にどう顔向けすればいいのよ」
胸が苦しくなる。「お義母さん、本当にごめんなさい……」それ以外に、なんて言えばいいのか分からなかった。
雅子は深くため息をつく。そして私の手を引いて部屋に戻った。
「とにかく横になりなさい。こういう時はちゃんと休まないと後で体に障るわよ。
しばらくは外出禁止。最低でも二週間は家で休みなさい。
料理人にも回復にいい食事を作らせるから」
中絶したことを責められると思っていたのに、私に対する雅子の態度は少しも変わらず、それどころか、このままここで休養するようにとまで言ってくれた。
少し驚いて、ためらいながら口を開く。「お義母さん……景はなんて言ってました?」
「何度電話しても出ないのよ。まだあの子とは話せてないわ」雅子は何度もため息をついた。
「あなたたち、何かあったの?まだ結婚して一ヶ月しか経ってないのに……」
「え……景から聞いたんじゃないんですか?」
雅子は一瞬言葉を詰まらせた。「奈々から聞いたのよ」
そういうことか。ますます、景の考えていることが分からなくなる。
雅子は私の顔を覗き込んだ。
「澪ちゃん、お義母さんに教えて。景と何かあったの?もしかして、あの子が……」少し言葉を切る。そしてまたため息をついた。
「あの子は遊び人だけど、結婚したら少しは落ち着くと思ってたのに。あの馬鹿息子!
澪ちゃん、安心して。お義母さんがしっかり叱りつけておくから。
とにかくゆっくり体を休めて、変なこと考えちゃ駄目よ」
胸の奥が温かくなって、こくりと頷く。「はい。ありがとうございます、お義母さん」
雅子は日が暮れるまでそばにいてくれた。景に早く帰るよう電話で催促した後、ようやく帰っていった。
帰り際にも、「絶対に怒らないでね、景と喧嘩しちゃ駄目よ。何かあったらすぐ私に電話しなさい」と念を押された。
第4話
雅子も、きっと悲しんでいるだろう。けれど、優しくしてくれるからといって、その恩に報いるためだけに子どもを産むことはできない。
その時、ノックの音が響いた。返事をする間もなく、奈々がトレイを手に入ってくる。
「栄養のつく薬膳です。少し飲んでください。ここに置いておきますから」
何も答えなかった。奈々はベッドサイドのテーブルに茶碗を置くと、ちらりとこちらを見て、不満げに口を引き結んで出て行った。
この家にやって来たその日から気づいていた。奈々が私を好きではないこと、いや、むしろ見下していることに。でも、気にはならない。しょせん、彼女はただの他人にすぎないのだから。
私が気にしていたのは、景が私にどう接するか、それだけだった。けれどもう、その執着も手放すべき時なのだ。
最初から自分のものじゃないなら、いくら手を伸ばしたところで絶対に手に入らない。なら、もう手を離そう。景を解放して、そして私も、自分の人生を取り戻すために。
薬膳を飲み終えて、器を持って一階へ降りる。それを見た家政婦の田中さんが慌てて駆け寄ってきた。
「奥さま、どうして降りてこられたんですか?今はしっかりお体を休めて、調子を整えなきゃいけない時期なんですよ」
田中さんは私の手から器を受け取った。「夕食はもうすぐできますから。上に戻って何か羽織ってきてください」
掃除をしていた奈々がこちらを一瞥して、また無言で作業に戻る。視線を外して、田中さんに向けて小さく微笑んだ。「寒くないから大丈夫」
田中さんは私の足元に目を落とした。「せめて靴下を履いてください。冷えは禁物ですよ」
「うん」少しの間を置いてから、尋ねる。「景は夕食に戻る?」
「先ほどお電話で伺いました。旦那さまは、先にお食事を済ませるように、待たなくていいと」田中さんはそう言って、小さくため息をついた。
「奥さま、今は仕方ありませんよ。旦那さまも、今は混乱されているのかもしれません。本当は奥さまのことをとても気に掛けていらっしゃいますから」
実際のところ、景がなぜあんなに怒っているのか、私にはさっぱり分からない。だって、代わりに子どもを産んでくれる人がいるじゃないか。彼はそんなに、子どもが好きなのだろうか?
部屋に戻って、靴下を履いて再び降りてくると、田中さんがすでにアイランドキッチンに夕食を並べてくれていた。
一人で静かに箸を進めていると、エレベーターの動く音が聞こえた。景が帰ってきたのだろう。
「旦那さま!」田中さんの声がパッと明るくなる。「お帰りなさいませ。ちょうど良かったです、奥さまも今お食事を始められたところなんですよ」
「俺はいらない」景の冷ややかな声が響いて、そのまま二階へと上がっていってしまった。
再び、田中さんがため息をつくのが聞こえる。同情され、哀れまれている。今の自分は、誰の目から見てもよっぽど惨めなのだろう。
食後、部屋に戻ったが景の姿はなかった。わざわざ探しに行くこともしない。一人で洗面を済ませて、ベッドに潜り込んだ。
その夜、景が部屋に来ることはなかった。翌朝、下へ降りると、彼がリビングのソファでスマホをいじっている。
田中さんが話しかけても、彼は顔一つ上げようとしない。朝食の間も一言も言わないで、食べ終わるとそそくさと出かけてしまった。
彼が家を出てすぐ、雅子と、義姉の神崎芽衣(かんざき めい)がやって来た。芽衣は妊娠四ヶ月だ。旦那さんが出張中ということで、最近はずっと実家に住んでいる。
だけど、どうしてここに来てしまったのだろう?
「お義母さん、お義姉さんに話したんですか?妊娠中なんですから、家でゆっくり休まないと……」
芽衣は唇を結んで、少し窘めるように私を睨んだ。
「私、そんなにヤワじゃないわよ。
それより澪、こんな大事なことを一人で決めちゃうなんて。ほんと、変なところで度胸が据わってるんだから」
言葉こそきついけれど、その口調には心からの心配が滲んでいる。
俯いてつぶやく。「お義姉さん、ゆっくり休んだほうがいいのに……」
いくら本人が元気だと言っても、妊娠中なのだから用心するに越したことはない。それなのに彼女は、私のためにわざわざ足を運んでくれたのだ。
芽衣はぐるりと部屋を見渡した。「景は?家にいないの?」
「さっき、出かけた」
「あの馬鹿!まったくもう」芽衣はスマホを取り出した。
慌てて手を伸ばして止める。「彼も忙しいし、それに家に田中さんがいてくれるから大丈夫よ」
私を挟んで反対側に座った雅子が尋ねる。「澪ちゃん、このこと、ご両親には話したの?」
一瞬ためらって、首を横に振った。
第5話
雅子が言った。「やっぱり、ご両親には知らせておいた方がいいと思うわ」芽衣も頷いて同意する。
小さく返事をした。「後で、お母さんに電話してみます」
それから少し雑談をして、芽衣に早く帰るように促した。彼女には大事をとってほしい時期だし、今度は私から会いに行くと約束した。
二人が帰った後、部屋に戻って母に電話をかけた。母の反応は予想通りだった。「どうして一人で決めたの?もし何かあったらどうするの」と文句を言って電話を切ってしまった。
それから一時間もしないうちに、両親が揃ってやってきた。
「どうしてあんなことしたの?」母は怒りと悲しみが入り混じった顔で、目元を赤くしている。父はそばに座ったまま、黙り込んでいる。
ベッドの端に腰掛けた母が、私の手をぎゅっと握った。「澪、お母さんに本当のことを言いなさい。ここで辛い思いをしてるんじゃないの?」
「そんなことないよ」無理に笑顔を作ってみせる。
「やっぱり……」母の目から涙がこぼれ落ちた。彼女は涙を拭いながら声を詰まらせる。「全部、うちの会社のために……こんなに辛い思いをさせてしまって」
父は隣で深いため息をついた。
本当は、辛い思いなんて少しもしていなかった。それどころか、景と結婚できると知った時、私は有頂天になって、自分が世界で一番幸せな人だと思っていたくらいだ。
景のことが好きだった。中学生の頃からずっと。そう、中学から高校まで、彼とはずっと同級生で、もう十年近く密かに想いを寄せていた。
結愛も、私たちの同級生だった。だから、痛いほどよく知っていた。景の好きな人が結愛だということを。
あの頃、結愛は学校一の美少女で、景は誰もが憧れる存在だった。二人はお似合いで、誰もが彼らを運命のカップルだと信じて疑わなかった。
私はただ、景への気持ちを心のずっと奥底にしまい込んで、誰にも言えずにいるしかなかった。
高校を卒業して、私たちは離れ離れになった。景と結愛は同じ大学に進学して、付き合い始めたと風の噂で聞いた。
けれど、どうしてだろう。神崎家が政略結婚の相手を探すとなった時、景は結愛を手放して、私を選んだのだ。
ただ、私が素直で従順だから?でも、それだけの理由で彼と結婚することになったとは、どうしても思えなかった。
母はまだ父を責めている。娘を不幸に突き落とした、と。
「もういいだろう!」父が低い声で母の言葉を遮った。「俺だって、娘が可愛くないわけじゃないんだぞ」
父は顔を上げて、私を見た。「澪、もし……ここでの生活が本当に幸せじゃないなら、もう離婚しなさい。この後、一緒に家に帰ろう」
「でも会社が……」
「会社はどうでもいい」父の目も潤んでいる。「母さんの言う通りだ。お前の幸せが一番なんだから」
ふっと、心がひどく軽くなった気がして、心からの笑みがこぼれた。「お父さん、お母さん。私なら大丈夫。本当に、ここではよくしてもらってるから」
ただ、景が私を愛していないだけ。もし彼が私と離婚して結愛と一緒になりたいと望むなら、当然、喜んで身を引くつもりだ。
でも、彼が言い出さないうちは、この「神崎の妻」という座に居座り続けようと思う。
会社は父が人生をかけて守ってきたものだ。自分だけのことを考えて、わがままを通すわけにはいかない。
心が軽くなったのは、両親がプレッシャーをかけなくなったからというだけじゃない。私自身が、「諦める」と決めたからだ。
もう、景を好きでいるのはやめよう。好きでなくなれば、きっと楽になれる。
お昼時、両親と一緒に食事をしているところへ、景が帰ってきた。家に客がいることに一瞬足を止めて、こちらへ歩み寄ってくる。「お義父さん、お義母さん」
「ああ」父は淡々と返事をして、以前のように景の前で萎縮するような態度はもう見せなかった。
母は何も言わず、私のお皿におかずを取り分けてくれた。「澪、野菜ももっと食べなさい」
「うん」
食事が終わって、両親は帰宅の途につこうとしていた。帰り際、父がまた尋ねてきた。
「澪、しばらく実家に戻ってこないか?その方が、母さんも看病しやすいだろう」
第6話
口を開きかけたその時、景が先に声を上げた。
「お義父さん、お義母さん、澪のことは安心してください。俺がちゃんと面倒を見ますから」
喉まで出かかった言葉を飲み込む。父は私をちらりと見て、景に向かって頷いた。
「それではよろしく頼みますよ、神崎さん。私たちはこれで」
「お義父さん、お義母さん……」景は数歩歩み寄って、明らかに何か言いたげな様子を見せる。
しかし、両親はすでにエレベーターのボタンを押して、扉は閉まってしまった。
景は振り返ってこちらを見る。その深く暗い瞳には、読み取れない感情が渦巻いている。
彼に向かって小さく頷いて、背を向けて二階の部屋へと戻った。
景はずっと後ろを歩いて、そのまま部屋についてくる。ドアを閉めると、彼は冷たく鼻で笑って、皮肉たっぷりに父の言葉を反芻した。
「神崎さん、か」
「チッ」と不機嫌そうに舌打ちをする。「勝手に子を堕ろしておいて、被害者ぶるのか。両親の前で俺の悪口を言うなんて、大した度胸だな」
どうしてそんな風に受け取るのだろう?振り返って、きっぱりと返す。「言ってないわ」
彼はソファに腰を下ろして、背もたれに両腕を広げてふんぞり返った。
「じゃあ説明してみろよ。お前はどういうつもりだ?お義父さんとお義母さんはどういうつもりなんだ?」
「お義母さんが、この事は私の両親にも知らせるべきだと言ったから、そうしただけ。二人はただ私を見に来ただけよ」淡々と、事実だけを説明する。
景は明らかに、この話を終わらせる気はないようだ。面白がるようにこちらを見つめる。その甘い瞳には、皮肉めいた笑みが浮かんでいる。「両親は他に何も言ってなかったか?」
言ったわ。離婚してもいいって。でも、私は小さな嘘をつくことにした。
「特に何も。ただ、体をしっかり休めなさいって」
景は眉を片方軽く上げた。「そうか。なら、せいぜいゆっくり休むんだな」
もう一度彼をちらりと見てから、ベッドへ向かう。景がリモコンを手に取って、カーテンを閉める。分厚い遮光カーテンが、寝室から一筋の光さえも奪い去った。
衣擦れの音と足音が聞こえて、直後、隣のマットレスが沈み込む。景もベッドに入ってきたのだ。背後から抱き寄せられて、自分の体がビクッとこわばるのを感じた。
彼もそれに気づいたのだろう、冷たい声で聞いてくる。「どうした?」
目を閉じて、短く答える。「なんでもない」
大きな手が下腹部にそっと置かれる。しばらくして、景は服の裾をめくり上げて、直接肌に触れてきた。驚いたことに、その手のひらは温かい。
何をするつもりなのか分からない。そこをしばらく撫でていた彼が、不意に聞いてきた。「痛いか?」
瞬間、あの冷たい手術台に横たわっていた時の記憶が蘇る。手術は無痛だったから、大して痛くはなかった。
子どもを失ったことについても、実はそれほど悲しんではいない。どうせ、まだ形にもなっていない胎芽に過ぎなかったのだから。「痛くない」ポツリと呟く。
景はそれ以上何も言わなかった。たいして眠気はなかったはずなのに、彼の腕の中にいると、次第にまぶたが重くなり……いつの間にか深い眠りに落ちていた。
再び目を覚ましたのは、スマホのバイブレーションの音だった。景が低く舌打ちをして、私を抱いていた腕を少し緩めてスマホを手に取る。
「もしもし」電話に出たその声は、どこか苛立っていた。電話の向こうから、女の声が漏れ聞こえる。結愛の声だ。一瞬で、頭が冴え渡る。
結愛と彼が何を話しているのか、よく聞き取れなかった。ただ景が何度か相槌を打って、電話を切ったことだけは分かる。
彼は片手で私を抱き寄せたまま、もう片方の手でスマホの画面をスクロールしていた。しばらくして、景は腕を離して、ベッドから起き上がった。
「お前はもう少し寝てろ。ちょっと出かけてくる」
結愛のところへ、行くのだろうか。