真夏の蝉時雨

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真夏の蝉時雨

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桐山涼真(きりやま りょうま)がどん底の貧乏だった頃。40度近い猛暑のなか、彼は私・安藤夏帆(あんどう かほ)に会うためだけに五、六時間も...

Chương (1)

第1章

桐山涼真(きりやま りょうま)がどん底の貧乏だった頃。40度近い猛暑のなか、彼は私・安藤夏帆(あんどう かほ)に会うためだけに五、六時間も歩いてやってきた。 焦げつくような日差しのもと、けたたましい蝉時雨が降り注いでいた。 暑さで溶けてしまいそうなほど汗だくの涼真は、両手を膝について荒い息を吐き、その長いまつ毛から汗の雫がぽたぽたと滴り落ちていた。 のちに彼と結ばれ、幾度となく夜通し喧嘩を繰り返すたび、私は決まってあの時の彼の濡れたまつ毛を思い出した。 その記憶があったからこそ、私は未練なく仕事を辞め、見知らぬ土地へ嫁ぎ、心から彼との子供を望んで辛い妊活すら耐えてきたのだ。 ――ついさっき、私のワイヤレスイヤホンが偶然、彼のスマホに繋がってしまうまでは。 イヤホン越しに聞こえてきたのは、彼の親友である片倉拓也(かたくら たくや)の嘲笑うような声だった。 「夏帆ちゃんってけっこう純粋だよな。いまだに気付いてないんだろ? お前があの夜、昔の女を抱いたのは、たまたま店で再会したあいつが、タダでヤレる『安全な女』として向こうから転がり込んできたからだってことにさ」 第1話 今年の夏は、ずいぶんと早く暑さが訪れた。 桐山涼真(きりやま りょうま)と一緒に真夏の蝉時雨を聞いたのは、もう5年も前のことだ。 あの日は、肌を焦がすような猛暑だった。 私・安藤夏帆(あんどう かほ)がアパートの階段を降りると、耳をつんざくような蝉の鳴き声が響いていた。 その日、涼真は熱を出していて、おまけに家族と大喧嘩をした直後だったというのに。 うだるような暑さの中、街を半周するような距離を五、六時間も歩き続けて、ただ私に会うためだけにやって来たのだ。 彼の長いまつ毛から汗の雫がポロポロと転がり落ちて、地面に小さな染みを作った。 日に焼けて真っ赤になった顔。体は火傷しそうなほど熱を帯びていて、私を見つめる瞳も、どうしようもなく熱かった。 ――それなのに。 今夜も彼は残業で、日付が変わる頃になってもまだ家に帰ってこない。 私は、くっきりと二本線が浮かび上がった妊娠検査薬を手のひらに握りしめ、自然とこぼれる笑みをどうしても抑えきれずにいた。 彼を迎えに行こう。そう思って外に出た時、耳につけていたワイヤレスイヤホンから、ふいにノイズが聞こえてきた。 ハッとして耳元に触れる。急いで家を出てきたせいで、どうやら無意識に彼のイヤホンを持ってきてしまったらしい。 「涼真、涼真?もう家着いたか?」 突然響いた声に、私は息を呑んだ。 「昔はお前の憧れだったあいつ、堕ちるとこまで堕ちて逆に最高だったろ?お前も相当ヤバいよな。家で溜まりに溜まってたんだろ?」 「もしもし……?」 そう口を開きかけた瞬間、ショックで喉の奥の声がピタリと止まった。 「夏帆ちゃんってけっこう純粋だよな。毎日せっせと精のつく料理作ってくれてるんだろ? あーあ、お前があの夜、性欲を処理するためにあいつを抱いたなんて、夏帆ちゃんは今でも知らないんだぜ。タダだし病気の心配もないし、向こうから転がり込んできたんだから、ヤッとかない手はないってな」 私は夜道に縫い付けられたように立ち尽くし、耳から外したイヤホンを指先でなぞった。 この声には、嫌というほど聞き覚えがある。 彼の親友、片倉拓也(かたくら たくや)だ。 私が涼真と結ばれたのも、拓也がキューピッド役を買って出てくれたおかげだった。 私たちの結婚式では立会人まで務めてくれた人。 この数年間、私たちが喧嘩をするたびに間に入ってなだめ、涼真のことをこっぴどく叱ってくれたのも、いつも彼だったのに。 心臓が早鐘のように打ち、足元がおぼつかなくなる。 イヤホン越しに聞こえた言葉の数々が、真冬の鋭い氷の破片か、鋭い矢のように、私の体を容赦なく貫いていった。 パニックになり、自分の頭を何度か強く叩いた、その時―― 背後から、不意に誰かの腕に包み込まれた。 シャワーを浴びた後の、爽やかなヘアオイルの香りが鼻をくすぐる。 「どうしたの、ぼーっとして」 歩み寄ってきた涼真は片手にスマホを持ち、もう片方の腕で私を抱き寄せると、私の肩にコツンと顎を乗せてきた。 「なんでこんなとこで突っ立ってんの」 彼は私の耳元で小さく笑う。 「もう若くないんだから、若い子みたいに夜更かしすんなって。ほら、おとなしく家に帰ろ」 涼真の手元で、スマホの画面はまだ明るく光っていた。 彼は隠す素振りも見せず、私が見つめているのに気づくと、わざとらしく目の前でスマホを振ってみせた。 「ヤキモチ焼きだなあ。俺は毎日こんなに忙しいんだから、お前以外に連絡とる相手なんて拓也くらいだよ。何を心配してんの?」 画面に表示された拓也の登録名は、親しげに呼び捨てだった。 ふと、思い出す。 私の連絡先は、名前すら登録されず、ただ電話番号が表示されるだけだということを。 いつか彼に尋ねたとき、「夫婦なんだから、いちいち名前なんか入れなくても番号くらい暗記してるよ」と笑っていた。 けれど、彼は私からの電話に一度も出たことがない。いつだって「仕事が忙しい」という理由で。 言葉が見つからず、また重い沈黙が落ちた。 涼真は私の手を引いて家に向かって歩き出し、私の手のひらに握りしめられていたイヤホンに気づいた。 「なにこれ、どうしたの? ったく……こんなことしてる暇があるなら、ちゃんと休んで体調整えて、早く俺の子供産んでくれよな」 その言葉を聞いた瞬間、私の指先から妊娠検査薬がすり抜け、地面にポトリと落ちた。 涼真は気づいていない。彼は体を入れ替え、私を自分の左側を歩くように促した。 付き合って3年、結婚して5年。彼はいつも私を道の内側にして守るように歩いてくれた。 雨の日は私の方へ傘を傾け、美味しいご飯は最初に一口食べさせてくれて、毎晩必ずおやすみのキスをしてくれた。 彼が私を愛していない兆候なんて、本当に、微塵も感じたことがなかったのに。 パキッ。 間の悪いことに、涼真が一歩踏み出した足が検査薬を踏みつけた。 彼は足元を見下ろすと、不快そうな顔をして、それを道の端へと軽く蹴り飛ばした。 …… 第2話 家に着くと、涼真は無造作にネクタイを外し、床に放り投げた。 その生地には、女の口紅か赤ワインか……乾いてどす黒く変色した染みがいくつかこびりついている。 私は息を呑んだ。 涼真はその時になってようやく、通話の音声が聞こえないことに気づいたらしい。 キョロキョロとイヤホンを探し始める。 「ここよ」 私が差し出すと、彼は慌ててひったくるように受け取った。条件反射で耳にねじ込もうとして――ふと動きを止め、スマホのスピーカー通話に切り替えた。 「お前に隠すことなんて何もないよ。今、拓也に書類の処理を頼んでたとこなんだ。 仕事の話だからお前にはわかんないだろうけどさ。本当は徹夜して終わらせるつもりだったんだよ。でも『そりゃダメだ、家で夏帆が待ってるからな』ってあいつに言ったんだ」 スピーカー越しに聞こえる拓也の声は、先ほどと変わらず平坦だった。 「そうそう。こいつがどれだけ俺に仕事押し付けてるか、夏帆ちゃんも知らないでしょ?ちょっとキツく言っといてくださいよ」 事前の打ち合わせすら必要ないらしい。二人の見事な掛け合いは、あまりにも完璧だった。 私はこみ上げる涙を必死にこらえ、うつむいた。 悲しいのか、辛いのか、どんな感情なのか自分でもわからない。 ただ、何年もの間ずっと騙され続けてきたことへの、おぞましい吐き気の方が勝っていた。 涼真は、私の顔からすっかり血の気が引いていることなど全く気づいていなかった。 彼はキッチンを覗き込むと、私が冷やしておいた特製のスープをランチジャーに注ぎ、アイランドキッチンの最も目立つ場所に置いた。 会社に持っていって、愛妻弁当を見せびらかすのを忘れないようにするためだ。 「毎日こんなの作ってくれてさ、無理すんなよ」 いつものように、私を喜ばせるための甘い言葉。 さらに彼は、部下たちがどれほど自分の妻を羨ましがっているか、今日なんて2人の女性からLINEを交換したいと言われたけど断ってやったんだ、などと自慢げに語り続けた。 「ごめん、ちょっと疲れちゃったみたい」 ご褒美のキスをねだるように顔を近づけてきた彼を、私は乾いた声で押し返した。 そのまま洗面所に駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。 ドアの向こうから、涼真の慌てたような大きな声が聞こえてくる。 笑えてくる。 こんなに長く一緒にいて、私はずっと、とてつもなく巨大な嘘の中にいたのだ。 ……その夜、涼真は一睡もしていなかった。 バルコニーに一晩中座り込み、灰皿にはタバコの吸い殻が小山のように積まれていた。 私が目を覚ました時、ダイニングテーブルには所狭しと色とりどりの朝食が並べられていた。 エプロン姿の涼真は、私が起きてきたのを見ると、血走った赤い目をしばたかせた。 「ごめんな、夏帆。俺が悪かった。ちゃんと気遣ってやれなくて」 彼は苦痛に満ちた表情で目を伏せた。 結婚して間もない頃、彼の会社の資金繰りが悪化し、毎日新規開拓で駆け回る日々が続いた。数ヶ月ごとにあちこちへ転勤を繰り返すような生活だった。 3年前にようやく落ち着き、今の場所に引っ越してくることができた。 当初、私は彼と大喧嘩をした。 「どうしてこんな遠くまで来なきゃいけないの。帰省するのに飛行機や新幹線を乗り継いで半日以上もかかるなんて」と不満をぶちまけた。 彼は何も言い返さなかった。 私が感情をぶつけて泣き叫んだ後、彼はただ私の足元にひざまずき、じっと私を見上げていた。 今の彼と同じ目だった。 あの日のように、熱を帯びた眼差し。 あの時、私の心はドロドロに溶かされ、あっさりと彼を許してしまったのだ。 彼は昔からよくわかっている。私が彼を責めきれないことを。 「まだ仕事残ってるんでしょ?会社に行かなくていいの?」 私はいつものように微笑みながら、彼が差し出した牛乳を受け取った。 心の中は、ナイフで切り裂かれたように痛いのに。 この一晩、彼が何を考えていたのか聞いてみたかった。 ボロを出したのではないかと焦り、その埋め合わせのために優しくしているのか。 それとも、本当に私の体を心配しているのか。 涼真は私のことを愛しているようだ。 でも、全然愛していないようでもある。 私の言葉に、彼は一瞬だけ動きを止め、誰にも気づかれないほど小さく安堵の息を吐いた。 そして、クローゼットでネクタイを選ぶとき、新しいものに付け替えた。 昨夜締めていたあのネクタイは、丁寧に折りたたんで自分のポケットに隠すようにしまった。 その一連の動作はとても慎重で、彼の口元には、隠しきれないかすかな笑みが浮かんでいた。 そのまま、彼は足早に仕事へと出かけていった。 毎朝、私にネクタイを締めさせるという、ずっと続けてきた習慣をすっかり忘れて。 …… 第3話 涼真は、私がずっと後ろをつけてきていることなど微塵も気づいていなかった。 彼は今日、いつもと違う車に乗っていた。 普段はなるべく目立たない車種を選んで乗っているくせに、今日に限って限定モデルの派手なスポーツカーを引っ張り出している。 少し離れた路地越しに見つめていると、彼は手に持っていたランチジャーの蓋を開け、私が作ったあの冷製スープを躊躇なく道路脇の排水溝へとドボドボと流し捨てた。 直後、私のスマホが2回震えた。 見ると、綺麗に空になったランチジャーの写真が送られてきている。 【夏帆、今日のスープすごく美味しかったよ。明日も作ってほしいな】 ――疲れた。 全身からスーッと力が抜け、私はシートに深く背中を預けて、長いため息を吐いた。 自嘲するような笑いが、自然と口元に浮かぶ。 やがて車は涼真の会社の下に着いた。彼はそこで待っていた拓也と軽く頷き合い、拓也からバラの花束を受け取った。 その花束の包みもアレンジも、涼真が記念日ごとに私に贈ってくれるものと全く同じだった。 その後、涼真の車はUターンし、会社とは全く逆の方向へと走り出した。 その瞬間、私はハッと気づいた。なぜ彼が今日、わざわざ違う車に乗ったのかを。 結婚したばかりの頃、涼真は「こんな幸せ、まるで夢みたいだ。お前がどこにいるか心配でたまらない」と言って、私に1台の車をプレゼントしてくれた。 お互いのスマホにGPSアプリを入れ、いつでも居場所とルートが分かるように設定して。普段、彼が通勤に使っているのはその車だったのだ。 ビジネスの世界で培った狡猾なごまかしのテクニックを、彼はまさか、妻である私に対して使っていたなんて。 私は手を伸ばし、頬を伝う涙を乱暴に拭った。 今日はひどく天気が良くて、眩しい日差しが目に突き刺さって痛い。 涼真の車が停まったのは、ある路地裏のバーだった。 治安が悪くて不衛生だと有名な場所で、彼のような上品ぶった男には似つかわしくない。 だが、彼は慣れた足取りで迷いなく店内へ入り、奥の個室へと消えていった。 それ以上、彼を追いかける気力はもう残っていなかった。 私は道端に立ち尽くし、ぼんやりと店の入り口を眺めていた。 やがて、そこから見覚えのある女の姿が出てくるまでは―― 涼真が起業したばかりの頃にいた、大学時代の後輩の女だ。 もう3、4年は顔を見ていなかった。 私たちの婚約パーティーの日、涼真の胸元のブートニアが少し曲がっていたことがあった。 その時、彼女は隣にいた私を堂々と無視して彼の前に立ち、いとも自然な手つきで涼真のブートニアを直してみせたのだ。 もちろん、二人の間にはもう何もないのだと、当時の私は信じて疑わなかった。 付き合い始めた頃、涼真自身から「あいつとは一時期、ちょっといい雰囲気になったことがあった」と正直に打ち明けられていたからだ。 彼が隠さず話してくれたから、私も受け入れることができた。 大人同士なのだから、過去のことははっきりさせておけばそれでいい。 それに、私は彼の会社の株も持っているし、社内には私の耳目となってくれる人たちもいた。二人が怪しいという噂はただの一度も耳にしなかった。 何より、相手は涼真だ。 私が彼を信じない理由なんて、どこにもなかった。 あの日、家に帰った後、私は「あの子をあなたの側から外して」と頼んだ。彼は一瞬の躊躇も見せず、すぐに了承してくれた。 確かに、彼は嘘をついていなかった。 彼は約束通り、彼女を自分の秘書から外した。――ただ、自分のベッドからは外していなかったというだけだ。 拓也のあの下劣な言葉が、一晩中、頭の中で渦巻いていた。 忘れられない。絶対に忘れてはいけない。 私はその足で一番近くの産婦人科に駆け込み、診察を受けた。 お腹の子は、すでに妊娠2ヶ月を迎えていた。あと数日もすれば、エコーで小さな手足がはっきりと見えるようになる頃だ。 我が子を迎える喜びを、これまでに何度思い描いてきたことだろう。 けれど、こんな残酷な形でその日を迎えることになるとは、想像すらしていなかった。 「今日、手術はできますか」 第4話 私は深くため息をつき、そう尋ねた。 お腹の中の赤ちゃんは、自分がこの世に生まれてくるべきではないと悟ったかのように、一瞬きゅっと下腹部を張らせた気がして、やがて静かに息を潜めた。 私は自分のおへそのあたりにそっと手を当て、その小さな心音をどうにか感じ取ろうとする。 マイホームを買ったあの日から、我が家には子供部屋にする予定の空き部屋が2つあった。 この数年で、私は少しずつベビー用の家具を買い揃えてきた。涼真が「未来の我が子へ」と気の早いプレゼントを買い込んできたせいで、すでに部屋の半分が埋まっている。 私たちはきっと、素晴らしい親になれると信じて疑わなかった。 それなのに今の私は、この子を産んであげる資格すら失ってしまった。 嘘で塗り固められた張りボテの家庭に、無垢な命を産み落とすわけにはいかない。 「本当に、この子を諦めるということでよろしいですね? 中絶手術にはリスクが伴います。必ず、ご家族の緊急連絡先を記入してください」 医師は同意書を私の手元へと押しやった。 私はペンを握ったまま、長い間ためらった。 それでも最後には、涼真の名前を書き込んだ。 私は心の底から彼を愛していた。だからこそ、この結婚生活からそんなに綺麗さっぱりと無傷で立ち去ることはできない。 彼には、自分の子供がこの世から消え去る瞬間を見届ける義務がある。 それが、私から彼へのせめてもの復讐だ。 私はゆっくりと目を閉じ、こみ上げる涙をグッと飲み込んだ。 「はい、間違いありません」 私だけの身勝手なエゴで、両親から十分な愛を与えられないと分かっていながら、この子を産むことはできない。 その日、病院はそれほど混んでおらず、受付から手術の準備まであっという間だった。 手術室へ入る直前、私は涼真のLINEに短いメッセージを一つだけ送信した。 【離婚しましょう】 その後、私は冷たい手術台へと運ばれ、自分の体からひとつの命が剥がれ落ちていくのを静かに待った。 この瞬間、私の心は不思議なほど凪いでいた。 怒りも湧いてこないし、想像していたような引き裂かれるような苦痛もない。 ただ、ひどく虚しかった。 自分の捧げてきた愛と年月が、あまりにも無価値に思えてならなかったのだ。 手術の麻酔が効き始め、私は目を閉じたまま夢を見た。 夢の中には、20歳の頃の涼真がいた。 彼は私に向かってそっと手を伸ばしかけ、しばらく宙をさまよった後、気まずそうにその手を下ろした。 うつむいた彼の、しっとりと濡れたまつ毛が、その瞳の奥の感情を隠している。 夢の中の彼は、悲しそうにこう言った。 「今の俺が君を大切にしていないから、君はわざわざ『この頃の俺』の夢を見たの?」 ――そこで夢から覚めた。 ゆっくりと重い瞼を開ける。 現実の涼真が、ベッドの傍らに立っていた。額から流れる汗が頬を伝い、シャツの襟元をぐっしょりと濡らしている。 彼は全身を小刻みに震わせ、微かに掠れた声で私を呼んだ。 「夏帆……」 私は彼の血の気を失った顔を一瞥し、ゆっくりと視線を下へと移していった。 言葉を発しようとするだけで、下腹部に引きつるような鈍い痛みが走る。すごく、痛い。 それでも私は、一文字ずつはっきりと告げた。 「涼真、服のボタン、掛け違えてるよ」