遮断されたのは電波じゃない

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遮断されたのは電波じゃない

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永沢陸は、数千万人のフォロワーを抱える、キャンピングカーで旅するインフルエンサーで、私・椎名紬の婚約者でもある。 一年の大半を人里離れ...

Chương (1)

第1章

永沢陸は、数千万人のフォロワーを抱える、キャンピングカーで旅するインフルエンサーで、私・椎名紬の婚約者でもある。 一年の大半を人里離れた山奥や電波の届かない場所で過ごす彼は、「これから圏外になる場所へ行くから、十日から半月くらい連絡が取れなくなるかもしれない」と言っていた。私はその言葉を信じていた。 全国を巡るという彼の夢を応援するため、私は結婚前に購入したマンションを担保に入れ、自分名義でローンを組んだ。キャンピングカーの改造費を工面し、スタッフを雇い、彼のアカウントも一緒に育ててきた。 「今回の旅が大バズりしたら、戻って結婚式を挙げよう」彼はそう言っていた。 大雪に巻き込まれていないか、事故を起こしていないか、人里離れた山奥で命を落としていないか。私は毎日、天気予報を食い入るように見ていた。 同じ地域で活動する女性インフルエンサーが、ある動画を投稿するまでは。 画面の中で、陸は標高5,000メートルを超える雪山の頂に立っていた。私が買ってあげた衛星電話を使って、彼女のためだけに、朝日に染まる金色の雪山――モルゲンロートの絶景を生配信していた。 「すっごく寒い……」甘えるような女の子の声。 陸はすぐにカメラの位置を下に向けて、優しい声で30分間も彼女をなだめ続けた。 同じ日、私は急性虫垂炎を発症して、激痛のあまり救急外来の受付の前でうずくまっていた。 彼に送った百通近いメッセージは、すべて既読にすらならなかった。ようやく気づいた。遮断されていたのは電波じゃない。私だった。 その日から、旅先の陸へ定期的に送っていた保存食をやめた。車のローンの肩代わりもやめた。督促の電話を取り次ぐのもやめた。一日に三回送っていた「気をつけてね」というメッセージも、もう送らない。 資金援助を打ち切って3か月後、陸のキャンピングカーはサービスエリアでローン会社に差し押さえられた。 ようやく彼から電話がかかってきた。その第一声は、詰問だった。「なんで車のローンが引き落とされてないんだ?」 私は手元にある督促状と契約解除通知書の写真を撮って、彼に送りつけた。 「明日から、あの車も、アカウントも、何千万人ものフォロワーも、もう私には一切関係ない」 第1話 永沢陸(ながさわ りく)は、数千万人のフォロワーを抱える、キャンピングカーで旅するインフルエンサーで、私・椎名紬(しいな つむぎ)の婚約者でもある。 一年の大半を人里離れた山奥や電波の届かない場所で過ごす彼は、「これから圏外になる場所へ行くから、十日から半月くらい連絡が取れなくなるかもしれない」と言っていた。私はその言葉を信じていた。 全国を巡るという彼の夢を応援するため、私は結婚前に購入したマンションを担保に入れ、自分名義でローンを組んだ。キャンピングカーの改造費を工面し、スタッフを雇い、彼のアカウントも一緒に育ててきた。 「今回の旅が大バズりしたら、戻って結婚式を挙げよう」彼はそう言っていた。 大雪に巻き込まれていないか、事故を起こしていないか、人里離れた山奥で命を落としていないか。私は毎日、天気予報を食い入るように見ていた。 同じ地域で活動する女性インフルエンサーが、ある動画を投稿するまでは。 画面の中で、陸は標高5,000メートルを超える雪山の頂に立っていた。私が買ってあげた衛星電話を使って、彼女のためだけに、朝日に染まる金色の雪山――モルゲンロートの絶景を生配信していた。 「すっごく寒い……」甘えるような女の子の声。 陸はすぐにカメラの位置を下に向けて、優しい声で30分間も彼女をなだめ続けた。 同じ日、私は急性虫垂炎を発症して、激痛のあまり救急外来の受付の前でうずくまっていた。 彼に送った百通近いメッセージは、すべて既読にすらならなかった。ようやく気づいた。遮断されていたのは電波じゃない。私だった。 その日から、旅先の陸へ定期的に送っていた保存食をやめた。車のローンの肩代わりもやめた。督促の電話を取り次ぐのもやめた。一日に三回送っていた「気をつけてね」というメッセージも、もう送らない。 資金援助を打ち切って3か月後、陸のキャンピングカーはサービスエリアでローン会社に差し押さえられた。 ようやく彼から電話がかかってきた。その第一声は、詰問だった。「なんで車のローンが引き落とされてないんだ?」 私は手元にある督促状と契約解除通知書の写真を撮って、彼に送りつけた。 「明日から、あの車も、アカウントも、何千万人ものフォロワーも、もう私には一切関係ない」 写真を送信した後、スマホを強く握りしめる。向こうから、陸の重苦しい声が聞こえる。 「紬、どうしても今、そんな話をしなきゃいけないのか?」 ローン会社の担当者が、早く署名するよう促しているようだ。声を潜めて、彼は続ける。 「キャンピングカーが差し押さえられたんだ。今日中に解決しないと、今回の企画は台無しになるぞ。先に金を振り込んでくれ」 「……じゃあ、写真は見たのね?」 「見たよ」 「私の診断書は見なかった?」 陸は苛立ったように言った。「今はそんなこと話してる場合じゃない。今回の企画をボツにするわけにはいかないんだよ」 「3か月前にも言ったはずよ。もう一銭も出さないって」 「あれはただの愚痴だろ。俺は旅の途中なんだ、そんなちっぽけなことまで毎日構っていられない」 腕にある点滴の針跡に目を落とす。 「ちっぽけなこと? 私が救急搬送されたのも、ちっぽけなことなの?」 電話の向こうで、激しい風の音が響く。そこへ、栗原結菜(くりはら ゆいな)の声が割り込んでくる。「陸さん、今夜の生配信はどうする?」 陸は数秒黙り込んだ。 「今回のためにずっと準備してきたんだ。途中でやめるわけにはいかない。 頼む、今回だけ助けてくれ。戻ったらちゃんと話し合うから」 「結菜にモルゲンロートを見せてあげていた時、衛星電話はちゃんと繋がっていたわよね?」 陸は一瞬言葉に詰まる。「……あれは仕事だ」 すると、結菜が電話を代わった。 「椎名さん、責めるなら私を責めてください。旅の途中なんですから、陸さんを追い詰めないであげてください。 彼は本当に疲れているんですよ」 私は督促状、差押通知書、そして結婚式の費用の請求書の写真をまとめて送りつけて、そのまま電話を切った。 夜、陸がSNSを更新した。サービスエリアの隅にぽつんと停められているキャンピングカーの写真。 添えられた言葉は【旅の途中で一番恐ろしいのは、後ろで支えてくれるはずのものが先に崩れることだ】 共通の友人たちから、次々とメッセージが届く。【陸の邪魔をするな】 スマホを伏せると、再び督促の電話が鳴り響いた。担当者は、このまま本人と連絡が取れない場合、緊急連絡先へ連絡すると告げてきた。 陸にメッセージを送る。【母には絶対に知らせないで】メッセージは既読にもならない。 夜中、インターホンが鳴った。玄関へ向かう。ドアスコープを覗くと、外に陸が立っていて、手には焼き栗の袋が握られている。 付き合い始めたばかりの頃、彼はわざわざ遠回りして、私の大好物である焼き栗を買ってきてくれたものだ。 あの時、冷えた手を袖口に隠しながら、「紬の好きなものを忘れるわけないだろ」と笑っていた。 ドアを開けると、陸の視線が、私がドアノブに添えた手に落ちる。「寒いんだから、上着を羽織ればいいのに」差し伸べられた手を、私は冷ややかにかわした。 彼の後ろから、結菜が姿を現す。彼女が羽織っているのは、私が送った予備のマウンテンパーカーだ。結菜は玄関に上がろうとしている。 「陸さん、この前ゲストルームに忘れた充電器、いまどこ?」 ドアノブを握ったまま、私は道を譲らない。陸はすかさず彼女をかばうように前に立った。 「あの時、結菜は山から下りてきたばかりで、頭痛とめまいがひどかったんだ。一晩休ませるために連れて帰っただけだよ。余計な心配をさせたくなくて言わなかったんだ」 「あの時、私は病院にいた」静かに言葉を返す。 「つまり、彼女を私たちの新居に連れ込んだってことね?」 結菜は胸を押さえて、怯えたように陸の後ろへ身を縮める。 「私、出ていきます。陸さんはただ、私が倒れるのを心配してくれただけなんです」 陸が彼女の肩を支える。 「市内のホテルはどこも満室なんだよ。 結菜はまだ体調が悪いし、携帯用酸素ボンベもこの家に置いたままだ。 まさか、このまま路上に放り出せって言うのか?お前はそんな冷たいやつじゃなかっただろ」 二人の重なり合う手に視線を落とす。「このマンション、私が全額一括払いで買ったのよ。名義も私一人だけ」 陸は結菜の顔を伺ってから、私を見る。 「わかってる。でも俺たち、もうすぐ結婚するんだろ? そんなケチくさいことを言うな。まずは彼女を入れてくれ」 結菜がゲストルームのほうをうかがいながら、甘ったるい声で言う。 「また前と同じ部屋を使わせてもらってもいいですか?荷物もあそこに置きっぱなしなので、そのほうが都合がよくて」 第2話 私はドアの前に立ちはだかる。陸は廊下をちらりと見て言った。 「とりあえず彼女を中に入れてやってくれ。近所の人に見られたらどうする」 「私が救急車で運ばれたあの時、少しでも心配してくれた?」 陸はスッと目を逸らす。「昔の話を蒸し返すなよ。退院したばかりなんだから、先に入って休んでろ」 結菜はうつむいて目をこする。 「陸さんを責めないでください。 あんな高地で、陸さんだって限界だったのに、私のために一晩中起きていてくれたんです」 彼女は陸を見つめながら続ける。「あの数日間、陸さんのそばにいたのは私だけでしたから」 私はスマホの画面をタップして、雪山の動画を再生した。動画の中では、陸が衛星電話を使って、結菜のためにモルゲンロートの生配信をしている。 「結菜が息苦しくて苦しんでいた時、あんたはそばにいた。 私が救急外来の入り口でうずくまっていた時、あんたはどこにいたの?」 陸が手を伸ばして私を支えようとする。「とりあえず座れよ」 昔、私が熱を出した時も、彼はこうして私を座らせてくれた。陸は口を開いた。 「なあ、お前の痛み止め、まだ残ってる?結菜にも飲ませておきたいんだ」 「いいんだよ、陸さん。私、大丈夫だから」と結菜が首を振る。 陸は水の入ったグラスを彼女の手に押し当てる。「無理するな」 彼が結菜に水を渡すのを見つめながら、私は押し黙っていた。陸はテーブルに焼き栗の袋を置いた。「お前はこれが好きだったこと、ちゃんと覚えてるぞ」 袋を開けると、中身は半分しか残っていない。結菜が袋の口をそっと摘む。 「帰る途中、私が低血糖になっちゃって、陸さんが、先に食べなさいって……」 陸は眉をひそめる。「お前こんなことで文句を言うようなやつじゃないだろ」 私は紙袋を彼の方へ押し返した。「昔はね」 …… 結菜はゲストルームに泊まることになった。 深夜、手術の傷口が痛んで、水を飲もうと起き上がる。ゲストルームのドアは少し開いていて、結菜が裏アカウントでライブ配信をしている。カメラがゲストルームをぐるりと映し出す。 「ずっと車中泊だったけど、陸さんがやっと私をお家に連れて帰ってきてくれた」 コメント欄には【お似合いの二人】という言葉が流れていく。陸がそばで彼女に注意する声が聞こえる。 「紬が映らないようにしろよ。あいつ、そういうの嫌がるから」しかし、配信をやめさせようとはしない。 水の入ったグラスを握りしめながら、私はドアの外に立ち尽くしていた。 翌日の午前中、陸に結菜を帰すように告げた。結菜に水を注いでいた陸が、顔を上げて私を見る。 「まだ体調が良くないんだ。もう一日休ませてやってくれ」 「ここは私の家よ」 陸は手を止めずに言い返す。 「俺の家でもあるんだ。 そんなに悪く考えるなよ。彼女はただ、しばらくここに泊まるだけだ」 その時、結婚式を挙げる予定のホテルから電話がかかってきた。ウェディングプランナーが言う。 「椎名様、実は二つのプランをご提案しておりまして、永沢様の最終確認待ちだったのです。昨夜、永沢様からご連絡があり、三日後の披露宴会場は、ファンミーティングの会場として変更させていただきました。 永沢様からは、椎名様が術後で表に出るのが難しいため、結婚式は延期して、せっかくの会場を無駄にしないようにと伺っております」 「そんなこと聞いていません」振り返って陸を睨みつける。陸は目を逸らす。 「キャンセルしたわけじゃない。結婚式を延期して、会場を一日借りるだけだ。 体調が戻ったら、ちゃんと結婚式はやり直すから」 結菜はグラスを握りしめて、ダイニングテーブルのそばに立っている。 「陸さんを引き留めることはできませんよ。彼は、もっと先へ進みたいんです」 彼女のスマホの画面に目をやる。画面にはイベントの進行表が表示されている。そこには、陸と結菜のツーショット対談、そして雪山同行記念ムービーの上映と書かれている。 ウェディングドレスのサロンからもメッセージが届いた。 【椎名様。永沢様より、結婚式のティザー動画は新婦の顔出しをせず、代わりに結菜様が代役として撮影を行うと伺っておりますが、お間違いないでしょうか?】 …… 医師の指示通りに鎮痛剤を飲んでも、冷や汗が出るほどの痛みが続く。それでも、私はホテルへと駆けつけた。下腹部を押さえながら、数歩歩いては立ち止まる。 バッグの中には、督促状、結婚式の契約書、そして一枚のドライブレコーダーのSDカードが入っている。ローンも、結婚式も、マンションのことも、今日すべて決着をつける。 だが、ホテルの入り口には、すでに陸のキャンピングカーの巨大なポスターが飾られている。 私と陸の名前が書かれたウェルカムボードは撤去されて、【帰路は一人じゃない】というタイトルボードにすり替わっている。 ポスターでは、陸がキャンピングカーの傍らに立って、結菜が助手席に座って微笑んでいる。背景は、私がこだわって選んだ結婚式のメインビジュアルだ。 慌てて駆け寄ってきた陸が言う。「なんで急に来たんだ?」 「自分の結婚式が延期されたのに、私には知る権利もないってこと?」 陸は周囲のスタッフを一瞥した。「会場をちょっと借りるだけだと言ってるだろ。ファンももう集まってるんだ、今更中止なんてできない」 「じゃあ、私は何なの?」 陸は視線を逸らす。「こんな所で騒ぎを起こすな」 結菜がウェディングドレスに身を包んでメイクルームから出てくる。 ドレスを試着した日、陸は後ろから私を抱きしめてくれた。 「このドレスは、俺の妻のものだ」と、彼は言っていた。 今、そのドレスは結菜の体に纏われて、ウエストはドレスクリップで彼女のサイズに合わせられている。サロンのスタッフがハンガーを握りしめながら弁明する。 「永沢様から、ティザー動画の撮影では、結菜様はあくまで新婦のカメラテストの代役だと伺っておりまして…… それに、顔も映らないとのことでしたので」 私は尋ねた。「ウエストのサイズ直しは、誰が指示したんですか?」 第3話 スタッフは困ったように結菜を見る。結菜はドレスの裾をきつく握りしめた。陸が一歩前に出て彼女を庇う。 「ただの仮撮影だろ。そんなに真に受けるなよ」 私は彼をまっすぐに見つめる。「ウェディングドレスまで貸しちゃうものなの?」 陸は奥歯を噛み締める。「みんなが見てるんだぞ。俺に恥をかかせたいのか?」 司会者が進行の確認にやってきて、感謝のコーナーについて触れた。「ブーケ」という言葉が耳に入って、振り返ってステージを見る。 私のウェディングブーケは解体され、結菜の胸元のコサージュに作り変えられていた。残りの花は、舞台やフォトスペースの装飾として無惨に散らされている。私は陸に問う。 「あのブーケ、私がどれだけ悩んで選んだか知ってる?」 陸は一瞬沈黙して、吐き捨てるように言った。「たかが花束一つだろ。後でまた新しく買ってやるよ」 叔母から電話が入る。結婚式は無しになったのかと聞かれる。なぜSNSのタイムラインに、陸と結菜のファンミーティングの様子が次々と流れてくるのかと問い詰められる。 「女はあんまり意地を張るもんじゃないわよ」と、叔母は言った。その声は、陸の耳にも届いていた。 「ほら見ろ。みんなも、お前にもっと大人しくしろって言ってるじゃないか」 陸は私を引き寄せようと手を伸ばす。「イベントが終わったら、一緒に家に帰ろう」 「どこの家に?」 陸の手が空中でピタリと止まる。 …… ファンミーティング開始直前、結菜が低血糖を起こした。壁に寄りかかって「大丈夫」と呟く彼女を、陸はみんなの前で抱き上げて、控室へと向かう。 誰かがスマホを掲げて、「やっぱりあの二人が結ばれるべきだよね」と囁くのが聞こえる。 その場に立ち尽くしていると、私のスマホが震えた。ローン会社からのメッセージだ。 【緊急連絡先に連絡いたしました】 母・椎名洋子(しいな ようこ)からの着信。 「紬、さっきあの人たち、ご近所さんのいる前で私に聞いてきたのよ。 陸くんのためにマンションを担保に入れたって本当なの?」 「お母さん、落ち着いて。今すぐそっちへ行くから」 「紬を責めるつもりないわよ。ただ、かわいそうで……」 電話の向こうから看護師の声が聞こえる。「落ち着いてください。また血圧が上がっていますよ」 背を向けて立ち去ろうとした瞬間、陸に手首を掴まれた。「まずはステージでの挨拶を終わらせろ」 彼の手を見下ろす。「母が病院にいるの」 陸は一度力を緩めて、すぐにまたきつく握り直す。 「紬のお母さんのことを心配してないわけじゃない。でも、今夜だけは絶対に失敗できないんだ」 彼は私を睨みつけるように見据える。 「お母さんが病院のベッドで、お前がネットで叩かれてるのを見るのは嫌だろ?」 私の足が止まった。司会者がステージで「本日はサプライズゲストとして、陸さんの婚約者も駆けつけてくれました!」と煽って、客席のファンが冷やかすように沸き立つ。 陸は私の手を強く引いて、無理やりステージへと連れ出した。 雨の降るあの夜、薬を届けてくれた時、彼は「お前が病気の時に、俺が帰らないわけないだろ」と言ってくれたのに。 振り払おうとした手は、びくともしなかった。 司会者が、車のローン未払い騒動は事実かと尋ねる。陸は答える。 「俺と紬の間の、ちょっとした誤解です。彼女は最近体調を崩していて、精神的にも少し不安定で」 会場からは「なんだ、彼女のやきもちか」と笑い声が漏れる。結菜がマイクを握って、悲しげに目尻を下げる。 「椎名さんに悪気はありません。ただ、陸さんが遠くへ行ってしまうのが不安でたまらなかっただけなんです」 客席からは同情するような声が上がる。その時、巨大スクリーンに雪山の映像が映し出された。 映像の中で、結菜は私が買ったマウンテンパーカーを羽織って、私が仕送りした携帯用酸素を吸っている。 陸は例の衛星電話を掲げて、カメラを黄金に輝く雪山へ向けている。エンディングのテロップにはこう書かれている。 【圏外の秘境で、手を離さないでいてくれてありがとう】 割れんばかりの拍手が湧き起こる。陸が声明文の書かれた紙を渡して、私の耳元に顔を寄せる。「これを読み上げれば、すべて水に流すから」 その紙には、私の異常な支配欲のせいで陸の旅のスケジュールを妨害した、と書かれている。ローンの滞納も、結婚式の延期も、結菜の介入も、すべての責任を私に押し付ける内容。 そして最後の一行は、陸、結菜、そして来場したファンへの謝罪の言葉だ。 「これ、あんたが書いたの?」 「スタッフが用意したものだ。でも、俺の考えと同じだ」 「じゃあ、あんたも私が足を引っ張ったと思ってるのね?」 陸は無言だ。客席からは「謝れ!」、「陸の邪魔をするな!」という怒号が飛ぶ。 再びスマホが震える。母からのボイスメッセージだ。「紬、お母さんは大丈夫だから。焦らないで」 その音声の最後には、医師の「これ以上、患者さんを刺激しないで」という声が混ざっている。 ステージを降りようとする私を、陸が力ずくで押さえつける。彼は私の腕を掴んで、低い声で囁く。「紬、頼む。まずはこれを読め」 結菜の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。「椎名さんがどうしても私を受け入れられないなら、私が身を引きます」 客席から飛ぶ罵声が、スピーカーの音を掻き消すほどに響き渡る。陸は私を睨みつけて、私の手首の骨が軋むほどに指の力を強める。「俺を困らせるな」 私はマイクを握りしめた。「陸、あんたが言う『圏外で連絡が取れない』って、本当に電波がなかったからなの?」 陸が慌ててマイクを奪い取ろうと手を伸ばす。ドレスの裾を握りしめていた結菜の手が、ピタリと止まる。私はバッグから、ドライブレコーダーのSDカードを取り出す。 「あんたが初めて圏外へ行った時、私はキャンピングカーにドライブレコーダーを取り付けたんだ。 その後、車を整備に出した時、バックアップを取っておいたの。これはそのオリジナルデータ」 私はスマホを掲げる。「そのデータは弁護士にも送ってあるし、このスマホにも入ってる。今ここで再生することもできる」 陸は歯を食いしばりながら言う。「紬、いい加減にしろ」 「ただ皆さんに、一言だけ聞いてもらいたいだけ」 巨大スクリーンが一瞬暗転する。車内の録音データが再生されて、陸の笑い声が会場に響き渡る。 「紬からの電話はシカトしろ。俺と連絡がつかなくなったら、あいつ、今夜確実に金を工面しに走るからな」 血相を変えた陸が、ケーブルを引き抜こうと飛びかかってくる。だが、次の言葉はすでに再生されている。 「この前のマンションの担保だって、そうやって引き出したんだからな」 第4話 音声データが流れ終わった瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。 さっきまで「謝れ」と騒ぎ立てていたファンたちの手も、スマホを掲げたまま宙で固まっている。 オーディオケーブルへ伸ばした陸の手が、そのまま止まっている。 司会者がいち早く我に返って、場を収めようとする。「えー、何かの誤解かと思われます。皆様、まずは落ち着いて……」 司会者には見向きもせず、私は陸から目を逸らさない。「誤解なの?」 陸がこちらを振り返る。その顔色はすっかり青ざめていたが、それでも必死に声を潜めて言う。 「紬、こういうのを一部だけ切り取って判断するな。あれはただの冗談だったんだ」 「冗談?」 私は次の録音データを再生する。「じゃあ、最後まで聞いてみる?」 スピーカーからキャンピングカーのドアが閉まる音が響く。誰かの声がした。 「陸さん、椎名さんをこんな風に騙すの、ちょっとエグくないすか?この前だって、金のためにマンションまで担保に入れさせてるし」 陸の笑い声が続く。「あいつが本気で離れていくわけないだろ。俺が旅先で野垂れ死にするのを、誰よりも怖がってるんだから」 客席から、息を呑む音が漏れた。録音は続く。結菜の声だ。さっきステージで泣いていた時よりも、ずっと冷静な声色。 「でも、もし圏外じゃないってバレたらどうする?」 陸が答える。「バレないって。あいつ、衛星電話の請求書の明細なんて見ない。ただ支払いだけするんだ」 結菜が少し黙った後、小さく尋ねる。「それって、彼女を信じすぎじゃないの?」 陸は笑った。「信じてるんじゃなくて、あいつが俺から離れられないだけだ」 ここまで聞いても、何も感じなかった。もっと取り乱すかと思っていたのに、実際にこれらの言葉を耳にすると、不思議なほど心が凪いでいる。 陸は一時的に私を忘れていたわけではない。私がどれほど心配するか、必ず彼を助けようとすること、彼のためなら自分をどこまで犠牲にするか。すべてを計算し尽くして、利用していたのだ。 陸が血相を変えて前に飛び出してくる。「もういいだろ!」 視線を上げる。 「何をそんなに焦ってるの?圏外で遭難なんてしてなかったことがバレるから?それとも、私が救急搬送されたあの日も、本当は電波が繋がっていたことがバレるから?」 陸の声が弱々しくなって、懇願するような色が混じる。「紬、家に帰って話そう。ここは人が多すぎる。お前だって、まだ体調が戻ってないだろ」 「家?」私はふっと笑った。「どの家のこと?結菜が泊まったあの家?それとも、担保に入れて、私を縛り付けているあのマンションのこと?」 陸の目頭が微かに赤くなる。彼が伸ばしてきた手を、一歩下がって避ける。結菜は顔を真っ青にして、ついに口を開く。 「椎名さん……あの時は、何気なく聞いただけなんです。私、知らなかった……」 彼女の言葉を遮る。「知らなかったって、何を?陸に婚約者がいること?それとも、あのマンションは私が一括で購入したものだってこと?」 結菜は口をパクパクとさせたまま、言葉を失う。 私は衛星電話の通話明細のスクリーンショットを開いて、巨大スクリーンに映し出す。 「私が救急外来にいたあの夜、21時17分から22時03分まで、陸と結菜は46分間通話していた。同じ時間帯、私は陸に百通近いメッセージを送っていたわ」 スクリーンには、送信されたまま無視された大量のメッセージが並ぶ。一番最後は、7秒のボイスメッセージだ。 陸はそのボイスメッセージのアイコンを食い入るように見つめて、顔からスッと血の気を引かせた。「あの日……お前、どうしたんだ?」 彼を見据える。「今さら聞いても、もう遅いわ」 「紬」陸の声が掠れる。「本当にお前が救急外来にいるなんて知らなかったんだ。もし知ってたら……」 「知るわけないわよね」淡々と返す。「だってあんた、『紬からの電話はシカトしろ』って言ってたんだから」 その一言で、先ほどの録音の言葉を再び彼の胸に深く突き刺す。陸は一言も発せなくなる。 左手の婚約指輪を外して、あの謝罪声明文の上に置く。紙に書かれた【異常な支配欲】という文字が、指輪の下に隠れる。 「この結婚、白紙に戻すから」 陸は指輪を手に取ろうと手を伸ばすが、ピタリと動きを止める。彼はようやく悟ったのだろう。 私が単に怒って拗ねているわけでも、彼に機嫌をとってもらうのを待っているわけでもないということに。 結菜が突然一歩前に出て、震える声で言う。「陸さん、説明してよ!ちゃんと解決するって言ってたじゃないか!」 この一言で、客席はさらに静まり返った。陸は彼女を振り返る。その目には、初めて見る冷たさが宿っている。「今さら何を説明しろっていうんだ?」 二人のやり取りを最後まで聞く気はない。バッグを手に取って、ステージを降りる。司会者の横を通り過ぎる際、マイクを返した。 誰かが小声で尋ねる。「椎名さん、じゃあお母さんは……」 足を止めて、静かに答える。「今から病院へ行きます」 振り返ることなく外へ出て、タクシーを拾い、そのまま病院へ向かった。背後から陸が私の名前を呼ぶ。これまで聞いたことのないような、取り乱した声だ。 「紬、待て!俺が送るから!」だけど、私は一度も振り返らなかった。 会場では、無数のカメラが光っている。その場に取り残された陸は、降り注ぐ無数の視線に晒されて、初めて逃げ場を失う。