地震の夜、救助隊長の夫は初恋を救った

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地震の夜、救助隊長の夫は初恋を救った

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地震が起きた日、父はけがをした妹の葉山蘭(はやま らん)を背負い、6キロの山道を歩いて、ようやく臨時避難所にたどり着いた。 父は災害対策...

Chương (1)

第1章

地震が起きた日、父はけがをした妹の葉山蘭(はやま らん)を背負い、6キロの山道を歩いて、ようやく臨時避難所にたどり着いた。 父は災害対策本部のテントの外に立っていた。腰を深く折り、ためらうように何度か足を運んでから、ようやくぎこちない笑みを浮かべ、恐る恐る口を開いた。 「原田隊長にお会いできませんか。私は彼の義父ですが、娘がけがをしています。どこかで手当してもらえないでしょうか」 入口にいた隊員は眉をひそめたが、すぐ中へ取り次ぎに入った。 しばらくして、夫の原田怜司(はらだ れいじ)がスマホを手にしたまま本部テントから出てきた。 怜司は父には目も向けず、入口に立っていた隊員へ淡々と言った。 「けが人は他にも大勢いる。誰だって手当を待ってるんだぞ。80歳のお年寄りも、3歳の子もいる。みんな大変な状況だ。救助隊には救助隊の規則がある。身内だからといって特別扱いはできない」 それは隊員への指示だったが、明らかに父に聞かせるための言葉だった。 父の顔に貼りついていた愛想の笑みが、ぎこちなく固まった。どうしていいかわからないように、腕の中で痛みに冷や汗を浮かべている妹へ目を落とす。喉仏が上下し、言いかけた言葉をのみ込んだ。 父は何度も頭を下げ、蘭を背負ったまま脇へ数歩下がった。 「はい……はい。規則なら、仕方ありません。隊長のおっしゃる通りです」 その光景を見た瞬間、私の胸の奥は細い針が刺さったようだった。声を上げようとした、そのときだった。 別の隊員が慌ただしく駆け寄ってきた。 「隊長、北側の避難所から連絡です。負傷者がさらに運び込まれるそうです」 怜司はすぐにそちらへ顔を向けると、手にしていたスマホを入口脇の折り畳み机に置き、その隊員に指示を出し始めた。 そのとき、何気なく机の上のスマホに目をやった。画面はまだ消えておらず、誰かとのやり取りが開かれたままになっていた。 【美咲、心配しないで。特別に救護テントを用意してある。美咲のご両親と叔父さん夫婦はそっちを使えばいい。水と温かい食事もあるし、医者もいる】 園田美咲(そのだ みさき)。彼が学生時代からずっと想い続けてきた人だった。 その瞬間、私は自分がひどく滑稽に思えた。 もう、あなたを自由にしてあげる。 第1話 地震が起きた日、父はけがをした妹の葉山蘭(はやま らん)を背負い、6キロの山道を歩いて、ようやく臨時避難所にたどり着いた。 父は災害対策本部のテントの外に立っていた。腰を深く折り、ためらうように何度か足を運んでから、ようやくぎこちない笑みを浮かべ、恐る恐る口を開いた。 「原田隊長にお会いできませんか。私は彼の義父ですが、娘がけがをしています。どこかで手当してもらえないでしょうか」 入口にいた隊員は眉をひそめたが、すぐ中へ取り次ぎに入った。 しばらくして、夫の原田怜司(はらだ れいじ)がスマホを手にしたまま本部テントから出てきた。 怜司は父には目も向けず、入口に立っていた隊員へ淡々と言った。 「けが人は他にも大勢いる。誰だって手当を待ってるんだぞ。80歳のお年寄りも、3歳の子もいる。みんな大変な状況だ。救助隊には救助隊の規則がある。身内だからといって特別扱いはできない」 それは隊員への指示だったが、明らかに父に聞かせるための言葉だった。 父の顔に貼りついていた愛想の笑みが、ぎこちなく固まった。どうしていいかわからないように、腕の中で痛みに冷や汗を浮かべている妹へ目を落とす。喉仏が上下し、言いかけた言葉をのみ込んだ。 父は何度も頭を下げ、蘭を背負ったまま脇へ数歩下がった。 「はい……はい。規則なら、仕方ありません。隊長のおっしゃる通りです」 その光景を見た瞬間、私の胸の奥は細い針が刺さったようだった。声を上げようとした、そのときだった。 別の隊員が慌ただしく駆け寄ってきた。 「隊長、北側の避難所から連絡です。負傷者がさらに運び込まれるそうです」 怜司はすぐにそちらへ顔を向けると、手にしていたスマホを入口脇の折り畳み机に置き、その隊員に指示を出し始めた。 そのとき、何気なく机の上のスマホに目をやった。画面はまだ消えておらず、誰かとのやり取りが開かれたままになっていた。 【美咲、心配しないで。特別に救護テントを用意してある。美咲のご両親と叔父さん夫婦はそっちを使えばいい。水と温かい食事もあるし、医者もいる】 園田美咲(そのだ みさき)。彼が学生時代からずっと想い続けてきた人だった。 その瞬間、私は自分がひどく滑稽に思えた。 もう、あなたを自由にしてあげる。 …… 父を見つけたとき、父は避難テントの隅のほうにしゃがみ込んでいた。妹はすぐそばの空いた場所に寝かされていた。 父が苦しそうに身体を起こし、服についた土ぼこりを払ってから、妹の額の傷をそっと確かめるのが見えた。 胸の奥が、言葉にならない重さでいっぱいになった。 私は近づき、静かに声をかけた。 「お父さん」 父は顔を上げ、私を見るなり、濁った目に一瞬だけ戸惑いを浮かべた。けれど次の瞬間には、見慣れた愛想笑いを浮かべていた。 「夕奈、来たのか。大丈夫だ。ちょっと擦りむいただけだ。蘭は丈夫だからな。怜司さんの言うことはもっともだ。救助隊には救助隊の規則がある。待っている人があれだけいるんだ。家族だからって特別扱いしてもらうわけにはいかない」 そこまでへりくだる父の姿を見て、私は爪が手に食い込むほど拳を握り締めた。喉の奥が詰まって、声が出なかった。 父はそう言いながらも、ふと本部テントのほうへ目をやった。その目に期待と落胆が一瞬だけよぎった。 私は父の言葉を遮り、妹を抱き起こそうと手を伸ばした。 「もういい。蘭は私が背負う。救護テントならほかにもいくつもあるんだから、あの人に頼らなくてもいい」 父は珍しく声を荒らげた。けれどすぐに声を落とし、すがるように言った。 「違う。怜司さんは、そういうつもりで言ったんじゃない。忙しすぎて手が回らないだけなんだ。隊長だから、公平にしないと部下をまとめられない。お父さんにはわかる。もう少しここで待とう。少し落ち着けば、きっと来てくれる」 父はくどくどとそう言った。私を説得しているようで、本当は自分に言い聞かせているようだった。 手に食い込む爪の痛みで、少しだけ頭が冷えた。十数年、私は怜司をわかっているつもりでいた。けれどこの瞬間、初めて気づいた。私は、彼が心の奥で引いていた境界線の内側に、一度も入ったことがなかったのだ。 私と私の家族は、いつもその境界線の外側に置かれていた。しかしその境界は、別の誰かのためなら、いとも簡単に開かれる。 蘭が弱々しく目を開けた。声はかすれて、ほとんど聞き取れなかった。 「お姉ちゃん。怜司さんを責めないで。お仕事忙しいんでしょ。私、痛くないから」 蘭は必死に笑おうとした。青白い小さな顔に、大きな目だけが痛々しいほど際立っている。その目には、年齢にそぐわないほどの聞き分けのよさがにじんでいた。 鼻の奥がつんとした。涙がこぼれそうになり、私は顔をそむけて深く息を吸った。胸の中で荒れている感情を、無理やり押し込める。 私は立ち上がり、避難テントには振り返らなかった。 「水、あるか見てくる」 臨時避難所は町の小学校のグラウンドに設けられていた。避難テントや救護テントがいくつも並び、あたりは土ぼこりをかぶった人であふれている。うめき声と泣き声が、あちこちから聞こえた。 トランシーバーのざらついた音がその中に混じり、空気中は土ぼこりと消毒液、そしてかすかな血の匂いが漂っていた。 私は支援物資が置かれた隅でミネラルウォーターを数本見つけ、さらに保存食を一袋手に取った。 父のもとへ戻る途中、少し大きめの救護テントの前を通りかかった。入口の幕が半分だけ上がっている。 何気なく中を見た瞬間、足が地面に縫い止められたように止まった。 中には簡易ベッドが数台並び、清潔な白いシーツが敷かれていた。 白髪の老婦人がベッドに腰かけて水を飲み、その横では中年の男性がみかんの皮をむいている。若い女性は、泣きぐずる子どもをあやしていた。 隅では赤い医療用ジャケットを着た医師が救急箱を整理している。 温かな黄色い灯りに照らされたその場所は、静かで、整っていた。外の混乱とは、まるで別の世界だった。 ボランティアベストを着た若い女性が、お湯の入ったポットを持って入っていった。声は明るく、甘い。 「美咲さん、お湯が沸きました。ご両親の分もお持ちしましょうか」 すると、テントの奥から柔らかな女性の声がした。どこか気だるそうな、鼻にかかった声だった。 「ありがとうございます。助かります。この水筒をおじいちゃんに渡してもらえるかしら?胃が弱いから、温かいものじゃないとだめなんです」 声の主が、怜司が学生時代から忘れられなかった美咲だと、すぐにわかった。 私は拳を握りしめた。全身の血が、すっと冷えていくようだった。 第2話 彼は、規則だから特別扱いできないと言った。誰に対しても公平だと言った。80歳の年寄りも、3歳の子もいるのだと。 では、美咲の祖父は?彼女の両親や叔父夫婦は? あの人たちはいったい何なのだろう。その規則の例外が許される特別な人たちなのか。それとも、怜司の世界では、最初から優遇されて当然の人たちなのか。 私はその救護テントをにらみつけた。喉の奥に、毒を含んだ炎の塊が詰まっているようだった。熱は胸の奥まで広がり、内臓まで煮えるように苦しい。 十数年の献身も、十数年かけて信じてきた支え合いも、その温かな光景の前で、粉々に砕けた。 怜司は彼女の家族をあれほど丁寧に守っている。その一方で、私の父には何度も頭を下げさせ、がれきに囲まれた中で、血のにじむ妹を背負ったまま、いつ来るともわからない手当を待たせていた。 それどころか、父たちに一度も目を向けようともしなかった。 私は勢いよく振り返り、父と妹が身を寄せているテントへ一気に走って戻った。急ぐあまり、地面に横たわっていた鉄筋につまずきそうになった。 私がテントに駆け込むと、父は私の顔色に気づき、慌てて立ち上がった。 「夕奈!どうした?水をもらえなかったのか?大丈夫、大丈夫だ。蘭には、さっきそこの人からもらった水を飲ませたばかりだから……」 父は汚れたホーローのカップを取り出した。中には、少し土ぼこりがかかった水が半分ほど残っていた。 その瞬間、必死に保っていた冷静さも理性も、完全に崩れ落ちた。 けれど父は何も知らない。 私は何も言わず、再びテントの外へ飛び出した。 父はすぐにあとを追い、テントを出たところで私の腕をつかんだ。そして、洗いざらして白っぽくなった上着の内ポケットから、しわだらけのビニール袋を取り出した。 中に入っていたのは菓子パンだった。袋は少し潰れていたが、封は開いていない。地震の前に買ったものだろう。父は自分では食べず、私たちのためにずっと取っておいたのだ。 父はどこか遠慮がちで、機嫌をうかがうような目で本部テントのほうをちらりと見た。 そして声を落として言った。 「夕奈。これを怜司さんに持っていってくれ。きっと忙しくて、飯も食っていないだろう。少し硬いけど、食べないよりマシだろ」 父はその菓子パンの袋を私の手に押し込んだ。ざらついた指先が手の甲をかすめ、紙やすりのように痛かった。 「家から持ってきたって言えばいい。誰にも見られていないし、規則にも触れないだろう」 そう言って、父は無理に笑ってみせた。目尻のしわが深く寄り、濁った目には、ただ切実な願いだけが浮かんでいた。 私は手の中のパン袋を見下ろした。父のほこりまみれの上着、擦り切れた袖口。そして地面に横たわり、額からまだ血をにじませている蘭。 喉まで込み上げたものを、私は強くのみ込んだ。 「ここで待ってて、お父さん」 菓子パンの袋を握りしめ、私は重い足取りで、温かな黄色い灯りのともる救護テントへ向かった。 テントの入口は、まだ半分めくられていた。 外に立つと、中から食器の触れ合う音と、声を潜めた笑い声が聞こえた。 「怜司、これ食べて。母があなたのために残しておいた牛肉の煮込みなの」 美咲の甘ったるい声がした。 それに答えたのは、聞き慣れた低い声だった。けれどそこには、私が一度も聞いたことのない気安さと笑みが混じっていた。 「うん、うまい。美咲のお母さんは料理が上手だな」 私はその場で固まった。指に力が入り、ビニール袋の中のパンがぎしりと音を立てる。 入口の隙間から、怜司が折りたたみテーブルの横に座っているのが見えた。ほこりまみれの救助服の上着は脱ぎ、きれいな濃色のTシャツ1枚になっている。 美咲は隣に座り、彼に料理を取り分けていた。そのそばには彼女の祖父、両親、叔父夫婦、それからボランティアにあやされている子どもがいる。 テーブルには温かい弁当がいくつも並んでいた。野菜も肉もあり、まだ湯気が立っている。美咲の祖父の手元には水筒が置かれている。水筒はふたが開いていて、しょうが湯の甘い香りが漂っていた。 怜司は器を持ち、飯をかき込んだ。頬が少しふくらみ、横顔には暖かな灯りが柔らかく縁取るように落ちていた。 外から吹き込む夜風に、私は思わず身を震わせた。 自分の姿を見下ろす。全身ほこりだらけで、爪の間には泥が入り込み、髪は乱れて額に張りついていた。 そして手の中のビニール袋を見る。中には、くしゃくしゃに潰れた菓子パン。 彼はここで温かい食事を取り、大切な初恋の人と、その家族に付き添っている。 そのころ私の父は、隅で背中を丸めてうずくまっている。妹は地面に寝かされ、傷口から血をにじませたまま、きれいな水を一口飲むことさえできない。 胸の奥が、細かい針で何度も刺されるように痛んだ。 私は勢いよく目の前のテントの幕をめくり、中へ入った。 テントの中は、一瞬で静まり返った。 第3話 全員の視線が私に集まった。美咲の箸は宙で止まり、少し驚いた顔で私を見た。 隣にいた中年の女性が眉をひそめ、とっさにテーブルの上の弁当を奥へ寄せる。 怜司は顔を上げた。私だとわかると、一瞬だけ眉を寄せたが、すぐ何事もなかったような表情に戻った。 「どうしたの?」 彼は箸を置き、落ち着いた声で言った。 「ここは容態の重い被災者の重点救護テントだ。関係者以外は勝手に出入りできない」 私は彼を見つめた。手の中の菓子パンの袋をさらに握りつぶされていた。 「お父さんが、あなたに食べ物を持っていけって」 自分でも知らない声だった。あまりにも静かで、他人の声のように聞こえた。 「忙しくて、食べる暇もないだろうからって」 私は菓子パンの袋を折りたたみテーブルの隅に置いた。そっと置いたはずなのに、その音は静まり返ったテントの中で妙にはっきり響いた。 怜司はその袋に一度目をやっただけで、手を伸ばさなかった。 「いらない。こっちにも食べ物はある」 彼は眉をわずかに寄せ、無表情のまま言った。 「お前のテントへ戻れ。こっちはまだ仕事があるから」 「仕事?」 私は短く笑った。視線をテーブルいっぱいの料理へ、落ち着いた顔で座る美咲の家族へ走らせ、最後に彼の顔へ戻した。 「原田怜司。あなたの仕事って、何?」 彼の眉間のしわが深くなった。 彼は声を落とし、警告するような口調になる。 「夕奈、ここで騒ぐな」 私はテントの外を指した。 「騒ぐ?お父さんはがれきに囲まれた中で背中を丸めて、しゃがみ込んでいるの。あなたの規則を破ったらいけないと思って、テントの中へ入ろうともしなかった。 蘭は地面に寝かされたまま、額の傷からまだ血がにじんでいるの。痛くて唇を噛み切りそうになっても、声ひとつ上げなかった。あなたは忙しいから、迷惑をかけちゃいけないってわかっているから」 声が震えた。足元まで揺らぐようだった。 「それでも規則だと言うの?」 私は美咲の祖父、両親、叔父夫婦、そして楽しそうに笑っている子どもへ順に視線を向けた。 「じゃあ、教えて。あの人たちはどうしてここにいられるの?どうして温かい水も、温かいご飯も、そばに医者もついてるの?」 美咲の顔がさっと白くなった。彼女は立ち上がり、どうしていいかわからない様子で怜司を見る。 怜司の顔は完全に険しくなった。 「夕奈、落ち着け」 彼は立ち上がり、私と美咲の家族の間に立った。声は硬く冷たい。 「美咲の家族は事情が違う。叔父一家はがれきの下に2日間も閉じ込められて、ようやく救出されたばかりだ。叔父さんは内臓を損傷して、今も救命処置を受けている。祖父は80代の高齢で、いとこはたったの3歳だ。こういう人たちに支援の優先度が高いと判断するのは当然だ」 彼はそこで言葉を切り、値踏みするように私を見た。 「蘭は少し擦りむいただけで、命に関わるほどでもない。救援物資は限られている。どちらを優先すべきか、それくらいわかるだろう」 少し擦りむいただけ。 彼は、蘭の額に骨が見えるほど深く入った傷を、少し擦りむいただけと言った。 全身が震えた。爪が掌に食い込み、血が指の間からにじんだ。 「怜司」 自分の声が氷のように冷たく聞こえた。 「私と結婚するとき、あなたは何て言った?私の親は自分の親で、私の妹は自分の妹だって言ったよね。なのに今、蘭は少し擦りむいただけで、彼女の家の3歳の子供は小さいからちゃんと手当しないといけないって言ってるの?」 私は一歩前へ出て、彼に詰め寄った。 「あなたは規則で動いているの?それとも、自分の気持ちで動いているの?」 怜司の目がかすかに揺れた。唇が動いたが、言葉は出てこなかった。 背後で美咲がそっと彼の服の裾を引き、小さな声で言った。 「怜司、よかったら……夕奈さんの妹さんもこっちへ呼んだら?ここはまだ少し余裕があるし……」 怜司は彼女の言葉を遮った。口調に、有無を言わせない響きがあった。 「ダメだ。ここはもう満員だ。これ以上は入れられない。夕奈、出ていけ。仕事の邪魔をするな」 彼は私に背を向け、折りたたみテーブルの前へ座り直すと、また食事を続けた。 「出るとき、入口の幕を閉めていけ。美咲は冷たい風が苦手なんだ」 私はその場に立ち尽くした。彼が箸で、美咲の母が作った牛肉の煮込みをつまみ、口へ運ぶのを見ていた。 外から、蘭の抑えた泣き声が聞こえた。子猫の鳴き声のように細かった。 十数年張りつめていた糸が、その瞬間、ぷつりと切れた。 魂が抜けたような足取りで元の場所へ戻ると、父は私の目が潤んでいることに気づいた。 父は口を開きかけたが何も聞かず、ただそっと私を抱きしめた。 第4話 夜中、蘭が突然うわごとを言い始めた。 全身が焼ける鉄のように熱く、私の腕の中で小さな顔を真っ赤にしていた。唇がかすかに動く。 「お姉ちゃん、寒い……」 父は飛び起き、手の甲で蘭の額に触れた。顔から一気に血の気が引く。 「だめだ。熱が高すぎる」 父は蘭を抱き上げ、背負い直すと、本部テントのほうへ向かおうとした。 私は父の服の裾をつかんだ。 「お父さん、どこへ行くの?」 父は振り返らなかった。 「怜司さんに頼みにいく。蘭はこのまま朝まで持たない。今すぐ医者に診てもらわないと」 私も一緒に行こうとしたが、足元の力が抜け、危うく倒れそうになった。 体勢を立て直して顔を上げたときには、父はもう蘭を背負って十数メートル先へ歩いていた。 夜風の中から、父の声が泣き声交じりに聞こえる。 「俺が頼めばいい!夕奈はここで待ってろ!」 私は歯を食いしばり、後を追った。少し離れてついていく。足裏に砕けた石が食い込み、ひどく痛んだ。走ることに必死で、途中で靴が脱げても拾う余裕はなかった。 避難所の校庭には、まだ数台の仮設照明がともっていた。父はよろめきながらテントの間を抜け、暖かな黄色い灯りのともる本部エリアへ走っていく。 近づく前に、当直の隊員2人に止められた。 「すみません。ここは本部エリアです。関係者以外は入れません」 父の膝が折れ、もう少しで地面につきそうになった。声は焦りと涙でかすれていた。 「お願いします。原田隊長を呼んでください。娘が高熱で危ないんです。どうか、ひと言だけでも伝えてください」 若い隊員たちは顔を見合わせ、そのうち1人が中へ取り次ぎに向かった。 私は近くの支援物資置き場の陰に隠れ、拳を握りしめて待った。 5分ほどして、怜司が出てきた。救助服を着て、髪は少し乱れている。顔色はよくなく、目の下には青黒い影があり、今しがた起こされたようだった。 「お義父さん?」 父を見ると、彼は不機嫌そうに眉をひそめた。 「こんな時間に、何ですか?」 父は荒い息をしながら、背負った蘭を少し持ち上げた。 「怜司さん、蘭の熱が下がらない。さっきからうわごとを言っていて、触ると火みたいに熱いんだ。すぐ医者に診てもらわないと。頼む!なんとか医者を呼んでくれないか」 父はそう言いながら怜司へにじり寄った。目には必死の願いが浮かんでいた。 怜司は一歩下がった。真っ赤に熱を出している蘭の顔へ視線を滑らせたが、表情は変わらなかった。 「お義父さん、今どれだけ大変か、知っているでしょう。医者は交代なしで働きっぱなしで、重症者がまだ大勢います」 怜司の声は落ち着いていた。 「いったん蘭を連れて戻ってください。濡らしたタオルか布で額を冷やしてあげてください。明日の朝一で救護隊員を行かせます」 父は一瞬固まった。唇を震わせ、また口を開く。 「冷やしたんだ。でも効かない。さっきから意識もぼんやりしてる。本当に危ないんだ。怜司さん、頼む。お願いだ」 そう言って父が膝を落としかけた。暗がりにいた私は、掌に爪を食い込ませた。血が指の間を伝って落ちる。 父の膝が地面に触れそうになった、そのとき。本部テントの中から、甘えるような声が聞こえた。 「怜司、頭が痛いの。風が入ってきてるのかな。入口、ちゃんと閉まってるか見てくれる……?」 美咲だった。 怜司はすぐ振り返り、返事をした。 「すぐ行く。後で救護テントまで送るから少し待ってて」 それから父に向き直る。 「お義父さん、美咲の具合が悪いんです。少し声を落としてください。蘭のことは明日にしましょう。とりあえず今は戻ってください。他の人に迷惑です」 父は砕けた石の上に膝をついたままだった。背中の蘭は全身が熱く、呼吸も荒い。 父の声はかすれていた。 「怜司さん……」 怜司は振り返り、すばやく入口の幕を持ち上げた。 「戻ってください」 テントの幕が落ちる直前、美咲の甘えた声が聞こえた。 「頭が重いの。熱があるかも。触ってみて?」 私は支援物資置き場の陰からゆっくり出て、父のそばへ歩いた。足音に気づいて父が顔を上げる。濁った目は涙でいっぱいだった。 「夕奈……」 私は父の前にしゃがみ込み、その背中から蘭を受け取った。 「行こう」 「夕奈、怜司さんは……」 「あの人は、もういないと思って」 父は呆然と私を見つめ、それ以上何も言わなかった。 避難所の外にはたまにしか車が通らない細い田舎道があった。その道を500メートルほど歩いたころで、遠くに車のヘッドライトが見えた。 私は道の真ん中へ飛び出し、車を止めた。急ブレーキの音とともに車が止まり、男性が窓から顔を出す。 「どうしたんですか?こんな夜中に」 「すみません!妹が高熱で危ないんです。町の診療所まで乗せてください。お願いします!」 男性は意識のない蘭を見て、迷わずミニバンから飛び降り、声をかけた。 「早く乗って。ちょうど町へ支援物資を運ぶところだ」 町の診療所に着くと、医師は蘭の状態を見た瞬間、すぐ処置室へ運び込んだ。 私は廊下の長椅子に座った。全身から力が抜けていた。 父は隣でうつむき、肩を震わせていた。 夜が明けかけたころ、医師が出てきて、危険な状態は脱したと告げた。ただ、あと30分遅れていたら、高熱によるけいれんで脳が損傷し、取り返しがつかなかったかも知れないと言った。 私は笑った。笑っているのに、涙がこぼれた。 スマホの電源を入れ直すと、怜司からのメッセージが十数件、一気に流れ込んできた。 【どこにいる?】 【夕奈、意地を張るな。明日には蘭を診てくれる医者を手配する】 【返事をしろ。外へ出るのは危険だ】 【返事しないつもりか?いい加減にしろ】 最後の一通は午前5時に届いていた。ようやく焦りがにじんでいる。 【避難所中を探したのに、お前たちが見つからない。夕奈、けがしている蘭を連れてどこをうろついているんだ?】 私は疲れ切った指で眉間を押さえ、画面に短く打ち込んだ。 【怜司、離婚しよう】