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さようなら、偽りの家族
私・江口美月の夫――桐谷彰吾は、インフルエンサーの森本絵奈と専属契約を結んだ。 彼女はセレブ妻のキャラクターを売りにして、夫婦間の親密...
Chương (1)
第1章
私・江口美月の夫――桐谷彰吾は、インフルエンサーの森本絵奈と専属契約を結んだ。
彼女はセレブ妻のキャラクターを売りにして、夫婦間の親密さを匂わせる投稿をSNSにアップしているが、彼女が住んでいるあの高級マンションは、彰吾が私のために買ってくれたものだ。
そのことを問いただしても、「ただの演出だろ。いちいち目くじらを立てるな」と、彰吾は面倒くさそうに吐き捨てるだけだ。
胸に湧き上がる疑念を、無理やり押し殺した。
息子の桐谷陽斗がひどい風邪をこじらせて、私は何日も徹夜で看病を続けた。そんなある日、疲労のあまり倒れ込んだとき、陽斗と彰吾のひそひそ話が聞こえてきた。
「パパ、今回は僕が仮病を使ってあげたから、パパと絵奈ちゃん、一緒にいられたんだよ。ママ、すっかり騙されてるね。
今度はパパの番だよ。ママに内緒で、僕も絵奈ちゃんと一緒に住みたい!」
第1話
私・江口美月(えぐち みづき)の夫――桐谷彰吾(きりたに しょうご)は、インフルエンサーの森本絵奈(もりもと えな)と専属契約を結んだ。
彼女はセレブ妻のキャラクターを売りにして、夫婦間の親密さを匂わせる投稿をSNSにアップしているが、彼女が住んでいるあの高級マンションは、彰吾が私のために買ってくれたものだ。
そのことを問いただしても、「ただの演出だろ。いちいち目くじらを立てるな」と、彰吾は面倒くさそうに吐き捨てるだけだ。
胸に湧き上がる疑念を、無理やり押し殺した。
息子の桐谷陽斗(きりたに はると)がひどい風邪をこじらせて、私は何日も徹夜で看病を続けた。そんなある日、疲労のあまり倒れ込んだとき、陽斗と彰吾のひそひそ話が聞こえてきた。
「パパ、今回は僕が仮病を使ってあげたから、パパと絵奈ちゃん、一緒にいられたんだよ。ママ、すっかり騙されてるね。
今度はパパの番だよ。ママに内緒で、僕も絵奈ちゃんと一緒に住みたい!」
寝室のドアの前に立ち尽くす。視線の先には、彰吾の肩に寄りかかって、声を潜めてそんなことを囁く陽斗の姿がある。
水なしで飲み込んだ薬が、まるで巨大な石のように喉につかえている。それに加えて下腹部を襲う激痛に、立っていることもままならない。
彰吾は甘やかすような笑みを浮かべて、陽斗を腕の中に抱き寄せる。
「いい子だ。絵奈も会いたがってたぞ。これは男同士の秘密だからな、ママには内緒だ」
まるで氷の海に突き落とされたかのように、全身の震えが止まらない。逃げるように寝室から後ずさって、洗面所に駆け込む。
蛇口から出る冷たい水が肌に触れて、ようやくほんの少しだけ理性を引き戻す。
ここ数日、陽斗が体調を崩していた。それなのに、どうしても病院へは行きたがらなかった。幼い頃から体が弱くて、食事も人一倍気を使って育ててきた。普段から少し走っただけでも息を切らしてしまう。
気が気ではなく焦りばかりが募る中、出張中だった彰吾がなんとか往診の医者を手配してくれた。
診察を受けて薬を処方されたものの、一向によくなる気配はない。毎晩のように頭が痛いと泣き言を言っていた。
何日も徹夜で看病を続けて、運悪く重なった生理のせいで、気絶しそうなほどの下腹部の痛みに耐えている。
ほんの1時間前、帰宅した彰吾を玄関で迎えたとき、彼は心底痛ましそうな顔をして私を抱きしめながら、「美月、よく頑張ってくれたね」と労ってくれたばかりだった。
堪えていた感情がどっと溢れ出して、ようやく頼れる大黒柱が帰ってきたのだと、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。これで少しは休めると、そう思っていたのに。
まさか、ほんの少し気を抜いた隙に、こんな身の毛もよだつような言葉を聞く羽目になるなんて。
彼らの言う「絵奈」とは、彰吾の会社が最近契約を結んだインフルエンサー、森本絵奈のことだ。
以前、陽斗が彰吾の会社に遊びに行きたいと駄々をこねたとき、絵奈に子守りを押し付けたことがある。
迎えに行くと、彼女は陽斗にアイスクリームを食べさせていた。それも大きなファミリーサイズのものを、すでに半分以上も。
季節はもうすぐ冬、こんなものを大量に食べさせれば、夜には胃痛を起こして吐き出してしまうのは目に見えている。
瞬時に怒りが込み上げたが、なんとか大人の対応を取り繕って、「陽斗、お腹が弱いからあまり食べられないって、お姉さんに言わなかったの?」と注意した。
陽斗は唇を尖らせて黙り込んだ。すると絵奈は、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながら、陽斗の耳元でこっそりこう囁いたのだ。
「陽斗くんのママ、いつもこんなに怖いの?これじゃ帰りたくなくなるのも無理ないよね」
ふわふわのワンピースを着た彼女を見て、言葉を失った。まだ若くて悪気はないのだろうと、その時は深く追求するのをやめた。
思えばあの後からだ。陽斗が何かと理由をつけては彰吾の会社に行きたがるようになったのは。今にして思えば、本当の目当ては別のところにあったのだ。
そんなことを思い出しながら、鏡の中の自分を見つめる。髪はボサボサで、目の下にはくっきりとクマができている。痛みのせいでにじみ出た汗が前髪を濡らして、肌にへばりついている。目を背けたくなるほど惨めな姿だ。
胸がぎゅっと締め付けられる。自分だけが蚊帳の外に置かれているという、どうしようもない寂しさと悲しみが押し寄せてくる。
身を粉にして我が子を看病していた私は、ただの滑稽なピエロだったというわけだ。
第2話
ぐちゃぐちゃになった感情を無理やり押し殺して、青ざめた顔に無理やり笑みを貼りつけて、寝室へと足を踏み入れる。
私の姿が目に入った途端、陽斗は大げさに「痛い、痛い」と呻き声を上げ始める。
いつも通りを装って、「まだ頭痛い?」と優しく声をかける。
プイッと顔を背けて、彰吾の胸にぐりぐりと顔を押し付ける。「ママが来たらもっと痛くなった。パパ抱っこして!」
子供特有の、隠しきれない露骨な嫌悪感だ。顔に張り付いていた笑顔が引きつって、背筋が凍りつく。
私の顔色が曇ったのに気づいた彰吾が、慌ててフォローを入れる。
「ずっと会えなかったから、パパが恋しかったんだろうな。
美月もこの数日大変だったし、俺が陽斗を会社に連れて行くから、家でゆっくり休んでてくれ」
気遣うような口調ではあったが、その言葉にはどこか気持ちがこもっていないことが痛いほど伝わってくる。
陽斗も待ちきれない様子で立ち上がって、「ママ、もう大丈夫だから。パパと一緒に会社に行く!」とはしゃいでいる。
さすがにまずいと思ったのか、取って付けたように「ママ、ゆっくり休んでね」と付け加える。
二人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑い合っている。その瞳の奥には、隠しきれない喜びが踊っている。
苦い感情に戸惑いと無力感が混ざり合って押し寄せる。喉が詰まって、声を出すこともできない。だが、二人は私の異変など気にも留めず、いそいそと出かける準備を始めている。
陽斗に先ほどの弱々しい面影はすでになく、お気に入りのスケッチブックまで抱え込んでいる。誰かにプレゼントを渡すのだという。私に隠れるように彰吾にだけ中身を見せて、いたずらのように目を細めた。
彰吾は「すごく上手に描けてるじゃないか」と笑顔で褒める。二人はまた、何かを共有しているかのような笑みを交わす。
そのスケッチブックは、陽斗が普段から一番大切にしている宝物だ。私が見ようとするといつも隠して、「ママにはサプライズだから」と言っていたものだ。
実は、こっそり中を覗き見たことがある。描かれていたのは二人の大人と、一人の子供。あの時は、私へのプレゼントだとばかり思って密かに喜んでいた。
今になって分かった。母親である私はとっくにそこから排除されて、絵を見ることも許されていないのだ。
彰吾は陽斗と耳打ちしながら手をつないで部屋を出て行く間際、思い出したかのように「休んでてくれ」と適当な言葉を投げかけた。
リビングで呆然と立ち尽くす。渦巻く悲しみが少し落ち着いてから、ようやく我に返って、ソファに寄りかかるように腰を下ろす。
肉体的、そして精神的な痛みが容赦なく襲ってくる。しかし、思考だけは異常なほど研ぎ澄まされている。疑う余地などない。彰吾は浮気をしている。
私の知らないところで、絵奈は、この家の隅々にまで入り込んできていたのだ。あろうことか、我が子である陽斗までもが、彼らと同じ陣地に立っている。
過去の些細な違和感を頭の中でパズルのように組み合わせながら、スマホで絵奈のSNSアカウントを開く。
彼女はすでに、そこそこ名前の知られたインフルエンサーになっている。会社と契約したばかりの頃は、美容系で売り出していたはずだ。
だが今はどうだろう。ずらりと並ぶ動画に添えられたキャプションを見るたび、胸が冷たくなる。
【うちの社長さんとの口喧嘩。また怒られて泣かされちゃった(涙)】
【取引先から社長へのライブチケット、お裾分けでもらっちゃった】
【やらかし記録更新中。今日は社長のスーツにタピオカこぼしちゃった、どうしよう?】
コメント欄は好意的なコメントで溢れかえて、例外なく二人の関係を尊いと持て囃すものばかりだ。
【エリート社長×天然ピュア女子、このペア尊すぎ!】
【付き合うなら絶対に圧倒的スパダリ!】
これらがただのマーケティング戦略だというのなら、まだ良かった。しかし、彼女が最後にアップした旅行の動画が、私の中に残っていた僅かな希望を完全に消し去った。
その動画は、二人が旅行の荷造りをしているところから始まっている。背景に映っているのは、間違いなく彰吾が私のために買ってくれたあのマンションだ。
画面の中で、絵奈は小鳥のように男の胸に飛び込んで、甘えた声でこう言う。「ねえ、何日くらい一緒にいてくれるの?」
男の姿はほんの一部しか映っていない。次の瞬間、彼の手がカメラを奪い取って、画面は真っ暗になる。そして、透き通るような、それでいて甘やかすような低い笑い声だけが響く。
「そんなに構ってほしいの」
7年も寝食を共にしてきたのだ。彰吾の声を聞き間違えるはずがない。そのたった一言が鋭い刃となって、胸を深くえぐる。
第3話
病室のベッドで点滴を受けながらも、絵奈が投稿した動画が頭から離れない。彼女の動画に映る「社長」との日常は、彰吾とのいちゃいちゃ記録そのものだ。
彰吾は、彼女がタピオカミルクティーをこぼしてスーツを汚したとき、代わりの服を選ばせるという名目でショッピングモールへ連れ出して、実際には彼女にいくつものブランド品を買い与えている。
彼女が行きたがっていたライブのチケットを手配して、さりげなくプレゼントしたかと思えば、開演後にちゃっかり隣の席に座って偶然を装ったりもする。
かつて私には一度も向けてくれなかったそんな細やかな気遣いを、今は彼女を喜ばせるために惜しみなく注いでいるのだ。
挙句の果てには、陽斗に仮病を使わせて私の気を逸らして、出張と偽って彼女と旅行にまで行っていた。
胸の奥が鈍く痛む。虚しさも惨めさも通り越した先にあったのは、底知れぬ悲しみと怒りだ。
「熱がありますね。数日入院した方がいいでしょう」
点滴を替えに来た医師は、私の顔色が悪いことに気づいて、眉をひそめる。
「ご家族は?入院になるなら、着替えなどを持ってきてもらうよう連絡してください」
力なく笑う。「入院の手続きも準備も、全部自分でできますから」
病室の手配を済ませて、重い体を引きずって病院内のコンビニへ向かう。点滴スタンドを押す手は小刻みに震えていて、壁に寄りかかって少し休もうと立ち止まったとき、見覚えのある姿が視界に飛び込んでくる。
少し離れた場所にいるのは、陽斗と手を繋ぐ彰吾だ。そして、彰吾が気遣わしげに支えている人は……他でもない絵奈だ。
「普段からあんなに跳ね回るのは危ないって言ってたろ?いい大人なのに足首を捻挫するなんて」
彰吾の大きくて厚い手が絵奈の腰に回されて、彼女を自分の胸元へと引き寄せる。眉をひそめて叱ってはいるものの、その声には隠しきれない心配が滲んでいる。
呼吸が止まりそうになる。スマホを握りしめる手が震える。画面には、彰吾から届いたばかりのメッセージが表示されている。
【美月、本当にごめん。急な会議が入った。終わったらすぐそっちに行くよ】
彰吾が絵奈をベンチに座らせて、その場に片膝をついて彼女の足首を優しくマッサージするのを、ただ見つめていることしかできない。すると、陽斗も慌てて駆け寄って、彰吾の真似をし始める。
「パパ、早くお薬もらってきて!僕が絵奈ちゃんをモミモミしてあげる!」
彰吾は、自分の真似をして小さな手で絵奈の足に触れる陽斗を、目を細めて見守っている。陽斗は小さな顔をしかめて、心配そうに尋ねる。
「絵奈ちゃん、これで少しは楽になった?」
絵奈は嬉しそうに陽斗の頬を両手で包み込む。「陽斗くん、えらいね。すっごく良くなったよ!」
そのあまりにも幸せそうな光景が、残酷なほど目に焼き付く。下腹部が激しく痙攣し、頭は割れるように痛む。額に浮かんだ汗が頬を伝って目に入って、染みて目を開けていられない。
それでも今の私には、裏切られたという激しい怒りだけが頭の中を支配している。今にも崩れ落ちそうな体を無理やり支えながら、無理やり笑顔を作って、歯を食いしばりながら一歩を踏み出す。
「あなた、会議じゃなかったの?」
第4話
その声に、彰吾は弾かれたように振り返る。私の冷たい視線とぶつかると、彼はばつが悪そうに目を逸らす。
「陽斗の具合がまた急に悪くなって、病院へ連れてきたんだ。そこでたまたま、絵奈に会って……」
「へえ、そう。で、陽斗はどうなの?私もちょうど入院することになったから、着替えとか荷物を持ってきてくれない?」
強張る頬を引き上げながら、あえてそれ以上は追及しなかった。しかし、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、絵奈の目にはあっという間に涙が浮かんだ。
彼女は下唇を噛んで、怯えたように彰吾の袖を掴む。彼の背後に隠れるように身を縮める。
「美月さん、どうか誤解しないでください。私、この町に出てきたばかりで、病院に行くのも一人で……社長はただ、そんな私をかわいそうに思ってくれただけで……」
今にも泣き出しそうな姿は、まるで私がひどい言葉で彼女を虐げたかのようだ。
彰吾はいたわるように絵奈を引き寄せて、庇うように彼女の前に立ちはだかる。おまけに陽斗までが絵奈の腰に抱きついて、まるで敵でも見るかのように私を睨みつける。
「ママ、絵奈ちゃんはかわいそうよ。ママには僕がついててあげるから。パパはこの後絵奈ちゃんを送っていかないといけないんだ」
陽斗の言葉に、彰吾もすぐさま同調する。「ああ、彼女はこの後まだ仕事があるからな。俺は後でそっちに行くよ」
彼の口調には苛立ちが混じっている。特に、隣にいる絵奈があからさまに萎縮しているのを見てからは、まるで私を物分かりの悪い子供でも見るかのような目を向けている。
濡れたまつ毛を伏せている絵奈が、ちらりと私を見て、すぐにまた目を逸らす。
その若々しく澄んだ瞳の奥には、隠しきれない優越感と哀れみがはっきりと浮かんでいる。まるで容赦ないスポットライトのように、私の惨めな姿を白日の下に晒している。
陽斗がうっとうしそうに私の袖を引っ張る。「ママ、具合悪いだろ?早く病室へ戻ろう」
息子の幼い声が鋭い棘となって突き刺さって、私はこの現実を受け入れるしかない。
この三人は、とっくの昔に強固な絆で結ばれて、私だけが完全に蚊帳の外に追いやられているのだ。
胸の奥から込み上げる悲しみはどうやっても抑えきれず、喉のつかえを無理やり飲み込む。
「……わかった。仕事、頑張って。陽斗もそっちに任せるわ」
体裁を繕って笑みを浮かべ、背を向ける。点滴スタンドを押す手は痛みのあまりガタガタと震えているが、それでも必死に背筋を伸ばして歩き出す。
病室に戻ると、こめかみを刺すような痛みに耐えきれず、もう立っていることもできない。目の前が真っ暗になって、次の瞬間にはベッドに倒れ込み、泥のように眠りに落ちていく。
目を覚ましたときには、すでに翌日だ。様子を見に来た医師からいくつか注意を受けていると、ちょうど彰吾が病室に入ってくる。
「旦那さんですか?今頃来るなんて遅いですよ。患者さん、昨日から一口も食事を摂っていませんからね」
医師の厳しい言葉に、彰吾はバツが悪そうに愛想笑いを浮かべる。「仕事が少し立て込んでいまして」
医師が病室を出て行くのを待って、スマホで絵奈のアカウント画面を開くと、彼の目の前に突きつける。「絵奈と……どこまでいってるの?」
彰吾は、テーブルの上のりんごを手に取って、皮を剥こうとしていたが、その動きをピタリと止める。そして反射的に私のスマホを奪い取る。
「俺を疑ってるのか?俺と絵奈の間に何があるって言うんだ。これは全部会社のためで、ただのキャラ設定だろ」
じっと彼を見つめ続けていると、その後ろめたそうな表情はみるみるうちに怒りへと変わっていく。
「絵奈のアカウントが会社にどれだけの利益をもたらしてるか分かってるのか?
俺がやってることは全部、この家のためじゃないか。それなのにお前は……サポートもできないくせに、毎日被害妄想を膨らませて、俺を疑うのか?」
図星を突かれて逆ギレする彰吾の姿を見ていると、あまりの滑稽さに思わず笑いが込み上げてきそうになる。言い訳もしようとせず、逆ギレして私を責め立てるなんて。
「ここ病院ですよ。静かにしてください」通りかかった医師がドアをノックして注意する。彰吾はひどく顔をしかめて、その眉間には私への苛立ちが刻まれている。
「つまらないことで騒ぎ立てて、みっともない真似をするな」
彼は腹立ち紛れに、半分剥きかけたりんごをゴミ箱に投げ捨てると、まるで施しでも与えるかのようにこう言う。「お前が病人だから、大目に見てやるよ」
長いこと何も食べていないせいで、胃がキュッと痛む。重い体を起こしてテーブルに手を伸ばしたが、そこにはもう何も残されていない。
絶望的なほどの虚無感が、私をむしばんでいく。愛してくれていた頃は、ただの雑炊でさえ、見た目も味も完璧に作ってくれたのに。
愛が冷め切ってしまった今は、私が病気で起き上がるのもやっとだというのに、朝ごはんを食べたかどうかも気にかけてはくれない。
第5話
病室のベッドで、すっかり冷めきった弁当を口に運びながら、絵奈がアップした最新の動画を眺めている。
【誰かさんが、半日かけて買ってきてくれた限定のフルーツタルト!】
その店には見覚えがある。病院のすぐ近くにあるベーカリーで、毎日数量限定で販売されて、デリバリーも一切行っていない。
とっくに麻痺していたはずの心が、またしても鈍く痛む。彰吾が病院へ見舞いに来たのは、ただの「ついで」に過ぎなかったのだ。
自傷行為のように、絵奈の最新動画を何度も繰り返し再生する。動画の中から、あどけない子供の声が響いてくる。
「絵奈ちゃん!僕のママになってくれる?」
コメント欄では推測が飛び交い、一番上に固定されたコメントはこうだ。
【この子、もしかして社長さんの子供?前に絵奈ちゃんが、母親に捨てられたかわいそうな子がいるって言ってたよね】
絵奈は返信こそしなかったものの、そのコメントにしっかりと「いいね」を押していた。
事実を完全に捻じ曲げたそのコメントに、怒りが一気に沸点に達する。しかしそれに続いて襲ってきたのは、残酷な現実が胸をえぐるような痛みだ。
彰吾はこの事態をはっきりと把握しているはずなのに、何一つ弁明しようとはしない。陽斗でさえも、本気で絵奈を母親にしたいと願っている。
私が入院して数日経つというのに、彰吾からは電話一本、メッセージ一通も送られてきていないのだから。
退院して家に戻ると、定期契約している食材の宅配サービスから、最近の注文についての確認の電話が入る。
陽斗は胃腸が弱いため、私はわざわざ栄養士の資格まで取って、毎日新鮮な野菜を取り入れたメニューを考えてきた。
それなのに、最近の陽斗はこう言って嫌がるようになったのだ。「ママの料理って、いつも同じようなものばかり。ハンバーガーが食べたい!」
あの時、てっきり彰吾が会社でデリバリーでも頼んで食べさせたのだと思って、「ああいうのは栄養のバランスが良くないから。ママの料理は栄養満点よ」と注意した。
すると彰吾は、鼻で笑ってこう遮ったのだ。「でも陽斗はそれ嫌いだろ。せっかく作っても無駄じゃないか。最近は料理までまともにできなくなったのか?」
何気ない皮肉だった。けれど、その一言は容赦なく胸に突き刺さる。
ふと、どうしようもない疲労感に襲われる。この結婚生活は、もうどこから修復すればいいのか分からないほどに壊れきっている。
彰吾とのチャット画面を開いて、【離婚しよう】と打ち込もうとした、そのとき、突然電話が鳴った。電話口から、怒りと焦りが入り混じった彰吾の声が響く。
「陽斗がいなくなった!母親のくせに、一体どういうつもりだ!」
いなくなった?その言葉が、巨大な岩のように私の上に重くのしかかる。
宝物のように大事に育ててきた我が子だ。たとえ心にどれだけの恨みや悲しみを抱えていようと、今の私には母親としての本能的な心配しかなかった。
心臓がドクンと嫌な音を立てて、激しく締め付けられる。
第6話
電話が切れて、頭の中が真っ白になる。車のキーをひったくるようにして家を飛び出したものの、思考は完全に混乱している。
彰吾は詳しい状況を説明しないまま、スマホのバッテリーが切れたらしく、一方的に通話が途絶えてしまった。
何度も陽斗のキッズ携帯にメッセージを送ったが、何の反応もない。
当てもなくマンションの周辺をあちこち探し回ったが、手がかりはまったくない。今はただ、彰吾から早く連絡が来るのを祈るしかない。
陽斗のクラスメイトの親や担任の先生にも連絡を入れた。車を走らせて、陽斗とよく行く公園や通りをくまなく探し回ったが、それでも見つからない。
彰吾の電話はいくらかけても繋がらない。絶望に打ちひしがれて、ハンドルを握る手は震え、額から流れ落ちた汗がぽたぽたと膝に落ちる。
だがそのとき、不意にある考えが頭をよぎった。まるで何かに導かれるように、絵奈のSNSを開く。数時間前、彼女は都心の繁華街でショッピングをしている写真を投稿していた。
冷や汗を流しながら車を走らせて、あるレストランの大きな窓際に座る絵奈と陽斗の姿を見つけた瞬間、一度は安堵で胸をなでおろしたものの、直後にどす黒く複雑な感情が押し寄せてくる。
なぜなら、彼女の隣には、満面の笑みを浮かべて座っている彰吾の姿がはっきりと見えたからだ。
ふらつく足取りでレストランの入り口に向かって、店員を捕まえると、引きつる笑顔で尋ねる。「すみません、あの窓際の席のお客さん……いつ頃いらっしゃいましたか?」
店員はいぶかしげに私を見たが、それでも答えてくれた。「そうですね、もう3、4時間はいらっしゃるかと」
最後の望みが、無残にも断ち切られた。呼吸が乱れて、息を吸うたびに鋭い痛みが走る。彰吾が私にあの電話をかけてきたのは、まさに4時間前のことだ。
沸き上がる感情を必死に押し殺して、私は彼らの隣のテーブルに腰を下ろした。薄い装飾用のパーティション越しに、彰吾の声が恐ろしいほどはっきりと聞こえてくる。
「陽斗、ご飯も食べたし、話をよく聞いて。
今回は陽斗が悪い。黙って絵奈についていくなんて。パパがどれだけ心配したか分かるか?」
絵奈の甘ったるい声が響く。
「私も悪かったの。陽斗くんが車の後部座席に潜り込んでたのに気づかなくて。
でも、すぐに彰吾さんに連絡したじゃない。きっと陽斗くん、この2日間誰も構ってくれなくて、すごく退屈だったよ」
語尾を間延びさせたその言い草は、明らかに私への当てつけだ。これを聞いて、胸に抱いていた疑念が確信へと変わった。
やはり彰吾は、とっくに陽斗を見つけていたのだ。それなのに私には一言の連絡もよこさず、まるで馬鹿のようにそこら中を走り回らせていた。
震える手を必死に抑えつけて、彰吾に電話をかける。隣の席から聞き慣れた着信音が鳴り響いて、次の瞬間、ぷつりと途切れた。
信じられない思いで通話を切られたスマホを見つめていると、パーティション越しに、その声がはっきりと耳へ届いた。
「ふん、この数日は俺を疑ってばかりで、今頃になって陽斗を心配しやがって。
少しは焦らせてやればいいんだ」
彰吾の口調はひどく軽くて、他人の不幸を面白がるような響きすら含んでいる。陽斗までもが、不満げに口を尖らせる。
「ママなんていらない。僕は絵奈ちゃんがいい」
先ほどまで、40度近い猛暑の中で陽斗を探し回っていたせいで、汗で濡れた背中はまだ乾ききっていない。おまけにガラス越しに差し込む強烈な日差しのせいで、額にはびっしりと汗が吹き出ている。
それなのに、今は氷の海に突き落とされたように、震えが止まらないほど冷え切っている。それは絶望と虚無が入り混じった、骨の髄から滲み出るような悪寒だ。
手のひらに食い込むほど強く握りしめていた拳を、ついにほどき、ゆっくりと立ち上がる。
すでに取り返しのつかないこの結婚生活。これ以上縋り付いていれば、傷だらけになるだけだ。