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息子を捨てた夫が、命で償った日
私、中原柚希(なかはら ゆずき)の六歳になる息子が、学校でコンパスを目に突き刺された。 医師は言った。 「失明するおそれがあります。お父...
Chương (1)
第1章
私、中原柚希(なかはら ゆずき)の六歳になる息子が、学校でコンパスを目に突き刺された。
医師は言った。
「失明するおそれがあります。お父さんにも連絡しておいてください」
私は震える手で、夫の藤原悠真(ふじわら ゆうま)に電話をかけた。
「湊がいじめに遭ったの。これから手術なの。お願い、すぐ病院に来て」
電話の向こうはひどく騒がしく、女の笑い声まで混じっていた。悠真は気の抜けた声で言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
湊はストレッチャーに横たわり、血のこびりついた目元から涙を流していた。
「お母さん、お父さんはもう僕のこと、好きじゃないの?」
私は苦笑いを浮かべ、なだめるように言った。
「お父さんは賭けに負けちゃったから、今だけ湊と距離を置いているの。好きじゃなくなったわけじゃないよ」
湊はそれを信じた。
私まで、危うく信じてしまうところだった。
半年前、悠真は自分の誕生日パーティーで、ずっと心に残っていた女性、白石茉莉(しらいし まり)との賭けに負け、一年間、彼女と夫婦のふりをすることになった。
私はその場で反対した。
悠真は、いかにも正論のように言い張った。
「賭けに負けた以上、約束は守るべきだ。人として、言ったことをなかったことにはできない。
ここにいる全員が証人だ。俺たちは今までずっと潔白だった。だが今日から、茉莉が俺の妻だ。お前とお前の息子は、俺と距離を置け」
第1話
私、中原柚希(なかはら ゆずき)の六歳になる息子が、学校でコンパスを目に突き刺された。
医師は言った。
「失明するおそれがあります。お父さんにも連絡しておいてください」
私は震える手で、夫の藤原悠真(ふじわら ゆうま)に電話をかけた。
「湊がいじめに遭ったの。これから手術なの。お願い、すぐ病院に来て」
電話の向こうはひどく騒がしく、女の笑い声まで混じっていた。悠真は気の抜けた声で言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
湊はストレッチャーに横たわり、血のこびりついた目元から涙を流していた。
「お母さん、お父さんはもう僕のこと、好きじゃないの?」
私は苦笑いを浮かべ、なだめるように言った。
「お父さんは賭けに負けちゃったから、今だけ湊と距離を置いているの。好きじゃなくなったわけじゃないよ」
湊はそれを信じた。
私まで、危うく信じてしまうところだった。
半年前、悠真は自分の誕生日パーティーで、ずっと心に残っていた女性、白石茉莉(しらいし まり)との賭けに負け、一年間、彼女と夫婦のふりをすることになった。
私はその場で反対した。
悠真は、いかにも正論のように言い張った。
「賭けに負けた以上、約束は守るべきだ。人として、言ったことをなかったことにはできない。
ここにいる全員が証人だ。俺たちは今までずっと潔白だった。だが今日から、茉莉が俺の妻だ。お前とお前の息子は、俺と距離を置け」
息子の保護者会の日、彼は言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
私の母が亡くなり、葬儀の手配を手伝ってほしいと頼んだ時も、彼は言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
私が大きな交通事故に遭い、手術の同意書に彼の署名が必要だった時でさえ。
返ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
車椅子に乗って会員制クラブまで彼を捜しに行くと、茉莉はちょうど彼の膝の上に座っていた。周りの人々は拍手しながら、面白がってはやし立てていた。
「二人目!二人目!」
悠真が笑って応じたその瞬間、私はついに堪えきれなくなった。
彼は茉莉を抱き寄せたまま、私に顔を向けることすらしなかった。
「賭けはまだ半年残ってる。俺たち夫婦が二人目を作る話に、部外者のお前が口を挟むな」
茉莉は笑いながら彼をつねった。
「もう行こうよ。はいはい、あなたの負けでいいから。奥さんってば、ほんと冗談が通じないのね。そのうち、この場にいる男全員と私が関係を持ってるとでも言い出しそう。私、とんだとばっちりだわ」
そこで、意識が現実に引き戻された。
息子が手術室へ運ばれていくのを見届けたあと、私は十年ぶりにある番号へ電話をかけた。
【蓮、子どもの頃の約束、まだ覚えてる?】
黒崎蓮(くろさき れん)からはすぐに返事が来た。
【覚えてる。待ってろ。半月以内に帰国する】
子どもの頃、じゃんけんで私は蓮に負けた。彼は、私に自分と結婚しろと言った。
悠真には、守らなければならない賭けがある。
私にもある。
賭けに負けたなら、従うしかない。
それは誰だって同じでしょう。
……
医師によると、手術は局所麻酔でしかできないという。けれど息子には麻酔が効きにくかった。
手術室のランプは四時間つきっぱなしで、私は外で四時間、息子の泣き声を聞き続けた。
その痛みは、自分の体を刃物で切り裂かれるよりもつらかった。
途中、息子の担任から電話がかかってきた。声には苛立ちがにじんでいた。
「藤原湊(ふじわら みなと)くんのお母さん、湊くんのお父さんはいったいどうなっているんですか?学校としては双方の保護者に連絡して、明日、いじめの件について話し合うことになっています。私が電話したら、あの方、なんて言ったと思います?
自分は子どもの父親じゃない、迷惑をかけるなって言ったんですよ!」
喉が詰まった。
あまりにも馬鹿げた事情を、どうしても口にできなかった。
しばらくして、私はただ一言だけ返した。
「申し訳ありません、先生。子どもの父親には、私から連絡します」
電話を切ったあと、私は悠真とのトーク画面を開いたまま、長いこと指を止めていた。
そして、彼のSNSを開いた。
夫婦になって七年、私は彼の居場所を、SNSでしか知ることができなかった。
案の定、最新の動画は三分前に投稿されたばかりだった。
画面の中では、かつて「俺の手は契約書にサインするためにある」と言っていた彼が、温かな料理を何品も並べ、親しげに茉莉の口元へ運んでいた。そして彼のすぐ隣には、中学生くらいの少年がぴったり寄り添っていた。
添えられた一文は、
【父親でいるって、こんなにも幸せなんだな】
息子の悲鳴が何度も何度も響く中、私はその投稿に「いいね」を押した。
それからトーク画面に、こう入力した。
【悠真、離婚しましょう】
第2話
手術が終わったのは、五時間が経ってからだった。
眼球はなんとか残せた。湊は泣き疲れ、病室のベッドの隅で体を丸めて眠っていた。
私はその隙に、着替えを取りに家へ戻った。
玄関のドアを開けた瞬間、私はその場に立ち尽くした。
リビングはまるで空き巣に入られた後のようだった。引き出しはすべて開け放たれ、物が床一面に散乱し、その荒れようは主寝室の入口まで続いていた。
中へ入ると、半年ものあいだ家に寄りつかなかった悠真が、クローゼットの前に片膝をつき、何かを探し回っていた。
「何を探してるの?」
私が尋ねても、彼は答えなかった。ただ黙って手を動かし続けている。
息子のことを思い出し、私はもう一度口を開いた。
「湊が学校でいじめられたの。明日、一緒に学校へ行って。今回ばかりは、本当にあなたが必要なの」
私の服は床に投げ出され、高級な革靴で何度も踏みつけられていた。
悠真は顔も上げない。明らかに上の空だった。
「ああ、湊が学校で何かやらかしたのか?」
まるで話が通じていなかった。
目当ての物が見つからなかったらしく、彼は立ち上がると、その苛立ちをすべて私にぶつけてきた。
「柚希、お前は本当に母親失格だな。俺は忙しいんだ。どうでもいいことで、いちいち俺を呼び出すな」
そう言うと、彼はまた身をかがめ、自分の大事な物を探し始めた。
つまり、担任からのあの電話を、彼は一言も聞いていなかったのか。
それとも、そもそも気にも留めていなかったのか。
あるいは、私からのメッセージなど読んですらおらず、息子がいじめられたことも、私が離婚を切り出したことも知らないのかもしれない。
月明かりだけが差し込む部屋は、息が詰まるほど静まり返っていた。
壁の時計の針が、耳元でかちかちと音を立てていた。
普段なら、茉莉が悠真を家に帰すはずがない。
案の定、長針が一周するかしないかのうちに、彼女から電話がかかってきた。
専用の着信音が一小節も流れきらないうちに、悠真はすぐさま通話ボタンを押した。声は、別人のように優しかった。
「どうした、茉莉?」
相手が何かを言った途端、彼の顔色がみるみる険しくなっていった。
「何だって?陽翔が学校でいじめられた?」
悠真が額に青筋を浮かべるほど怒ることなど、めったにない。
それを今日、私は他人のために目にした。
「分かった。明日は必ず行く。息子のために、きっちりけじめをつけさせる」
電話を切ると、悠真はようやくクローゼットの奥から衣装カバーを引っ張り出した。
「あった!」
中に入っていたのは、コービーの希少なユニフォームだった。
それは、私と息子が何より大切にしていたものだ。
コービーの引退試合のあと、悠真があらゆる伝手を使い、高額で私たちのために落札してくれたものだった。
あの頃、彼は息子にこう言っていた。
「いつかお父さんとお母さんが、湊をレイカーズのホームアリーナに連れていってやる。その時は、このユニフォームを着て行こうな」
その息子は今も、病院のベッドに横たわっている。
私は彼に尋ねた。
「やっと家に帰ってきたと思ったら、そのためだったの?」
悠真は「うん」とだけ答えた。
「茉莉もコービーの大ファンなんだ。彼女と陽翔が、俺がこのユニフォームを持ってるって聞いて欲しがってる。それがどうした?」
彼があまりにも平然とそう言うのを見て、かえって胸のつかえが落ちた。
どうせ、もう未来なんてないのだから。
そうでしょう?
私が黙っていると、彼はなぜか急に腹を立て、声を荒らげた。
「そんなクズを見るような目で俺を見るな!賭けはまだ終わっていない。なら俺は茉莉の夫で、陽翔の父親だ。俺には俺の責任がある!」
責任?
八年付き合い、七年、彼の起業を支えた。
何もないところから、すべてを一緒に築き上げた。
会社の中核技術は、私が身を削って開発したものだ。
成功して名を上げたあと、私は表舞台から退き、彼を支えるためにすべてを引き受けた。悠真は優秀な経営者として、まばゆいほどの称賛を浴びた。
それなのに彼は、たった一つの賭けを理由に妻と子を捨て、別の女の夫になりに行った。
そうか。
あの二人は昔、誤解さえなければ別れずに済んだのだ。
きっと、とっくに結婚していたのだろう。
今はただ、賭けという口実を借りて、果たせなかった夫婦になる夢を叶えているだけ。
他人の息子でさえ、彼は実の子のように扱いたくて仕方がない。
余計なのは、私と息子のほうだった。
「あなたの言う通りね」
私がそう言うと、彼は一瞬、呆気に取られたようだった。
たぶん、私がこんなに落ち着いているとは思わなかったのだろう。
けれどすぐに、点灯した催促のメッセージへ視線を奪われた。
「じゃあ、行く」
私の返事も待たず、彼はそのユニフォームを手に取り、振り返りもせず出ていった。
私はその場に立ち尽くし、しばらくしてから、床に落ちて汚れた自分の服を拾い上げた。
手で払ってみても、汚れは落ちなかった。
なら、もういらない。
病院へ戻る途中、スマホが何度も震えた。
茉莉からのメッセージだった。
【半年前、私が賭けをやめてもいいって言って、あんたに逃げ道を作ってあげたのに、あんたは勝手に帰ったよね。今さら用もないのに、うちの夫にちょっかい出して何がしたいの?】
【逆の立場だったらどう思う?どこかの女が毎日、自分の夫に色目を使ってきたら、気持ち悪くない?】
【少しは距離感をわきまえたら?あなたは平気でも、うちの夫はうんざりしてるの】
続けて、動画が一つ送られてきた。
画面の中で、茉莉はあの希少なユニフォームを着ていた。
カメラが少し揺れ、その後ろにはシャワーを浴びている悠真が映った。
ドアは閉まっておらず、水滴が引き締まった体の線を伝い、一つ、また一つと落ちていく。
かつて私は、彼が異性との距離感をわきまえないことをひどく気にしていた。
彼はそんな私を、心が狭いと笑い、自分には越えない一線があると言っていた。
その一線とは、裸を見せることだったらしい。
今、私はその動画を見ても、吐き気以外に何の感情も湧かなかった。
翌朝、私はいつもよりずっと早く起きた。
出かけようとした時、息子が私の手をぎゅっと握った。
「お母さん、湊も学校に行く。お父さんが、勇敢な男の子が好きだって言ってたから。湊、ちゃんと全部に向き合いたい」
右目には包帯が巻かれ、まだ血がにじんでいた。それでも、もう片方の目は澄んでいて、まっすぐだった。
私はうなずくしかなかった。
園長室のドアを開けた時、まさか悠真がいるとは思わなかった。
彼は園長の向かいに座り、きちんとスーツを着込んで、何かを話していた。
「お母さん、見て!」
湊は声を震わせるほど興奮していた。
「お父さん、やっぱり僕のこと気にしてくれてたんだ!僕の味方をしに来てくれたんだ!」
胸の奥がきゅっと痛んだ。
少なくとも……息子に対して、まだ情がまったく残っていないわけではないのだ。
湊は私の手を引いて中へ走ろうとした。
けれど、その足がふいに止まった。
私の手のひらの中で、小さな手が抑えようもなく震え始める。
息子の顔から、一瞬で血の気が引いた。
私は息子の視線を追った。
悠真は一人の男の子をかばうように立ち、そのそばには茉莉がいた。
彼は指先で机を叩きながら、園長に圧をかけていた。
「うちの息子は素直で聞き分けのいい子だ。コンパスで同級生の目を刺すなんて、絶対にありえない。これは濡れ衣だ。先に被害者ぶっているだけだろう!相手の保護者を呼んで、ここではっきりさせろ!」
彼は正義を振りかざすように怒鳴っていた。けれど、自分の息子がいじめられたことさえ知らなかった。
茉莉もすかさず続けた。
「きっとその子が先に何かしたんです!退学にさせるべきだわ!」
後ろ盾を得て、白石陽翔(しらいし はると)はますます得意げになり、顎を上げて言い放った。
「僕、あの出来損ないが嫌いなんだよ。退学しないなら、今回は目を潰しただけで済ませてやったけど、次は絶対にぶっ潰してやる!」
私はもう、我慢できなかった。
駆け寄るなり、陽翔の頬を思いきり平手打ちした。
第3話
彼は悲鳴を上げ、鼻血が鼻の下を伝って流れ落ちた。
私はそのまま彼を壁に押しつけた。
その瞬間、私の体の中では、「母性本能」という名の感情だけが煮えたぎっていた。それが理性も恐怖も、何もかも呑み込んでいく。
もう一度手を振り上げた時、視界の端で、悠真が息子を乱暴に引き寄せるのが見えた。
乾いた音が、二度続けて響いた。
彼は容赦なく、息子の頬を二発叩いた。
「お前が俺の息子を叩くなら、俺は倍にしてお前の息子に返す。もう一度でも手を出してみろ!」
湊は叩かれた勢いで顔を横に向けた。あまりに強く引っ張られたせいで、上着は肩までずり落ちていた。
ぽたり、ぽたり。
包帯ににじんだ血が目元を伝い、悠真の靴の上に落ちた。
それは、声にならない涙のようだった。
湊はその場に立ち尽くしたまま、泣きもせず、抵抗もしなかった。
ただ、いつだって澄んで輝いていた瞳に、薄い靄がかかっていた。
「悠真!」
胸の奥で、何かが弾け飛んだ。
けれど、彼がもう一度手を振り上げるのを見て、私は動きを止めるしかなかった。
私が手を離したその瞬間、陽翔は唇を突き出し、私の顔に唾を吐きかけた。
「ぺっ!腰抜け!」
ほかのことなど、もう構っていられなかった。
私は駆け寄り、息子を胸に抱きしめてかばった。こらえていた涙が、ついに落ちた。
私は顔を上げ、真っ赤な目で悠真を見た。
「あなたが茉莉と何をしていようと、私はもう何も言わない。あなたがよその女に料理を作ろうが、それもどうでもいい。でも、湊がいじめられたのに助けてくれないどころか、どうして赤の他人と一緒になって、この子まで傷つけるの?」
彼は私を見なかった。
陽翔の鼻血を拭くのに夢中で、痛ましそうに眉をひそめていた。
その表情を見た瞬間、湊を産んだ時のことを思い出した。
難産だったあの日も、彼は同じように眉をひそめ、私の手を握って言った。
「お前と息子のどちらかに何かあったら、俺も生きていけない」
あの人は、今も目の前にいる。
けれど、すべてが変わってしまった。
「どうして?」
私は、どうしても納得できなかった。
「もういい!」
悠真が怒鳴った。
「湊がけがをした件は、俺には事情が分からない。だが、陽翔が間違ったことをするはずがない。茉莉がきちんと育てているからだ。それに比べて湊はどうだ。お前が甘やかしたせいで、こんな子になったんだろうが」
こんな子?
私のほうこそ聞きたかった。
六歳の子が、どうしてここまで追い詰められなければならなかったのか。
父親がほかの子の手を引き、自分を知らないふりをした時。
湊は言った。
「お母さん、きっと湊がいい子じゃないから、お父さんは僕のことを見てくれないんだよ」
父親がよその子を寝かしつけていた夜、湊は三十九度の熱を出しても、必死に耐えていた。
終わりのない暗闇の中で、お父さん、お父さんと呼びながら、涙で枕を濡らしていた。
陽翔に「父親に見捨てられた子」と罵られ、壁際に追い詰められ、コンパスで眼球を刺された時。
私はどれほど願っただろう。
いっそこの子が、どうしようもない悪い子だったならよかったのに、と。
悪いのは私だ。
私が諦めきれずにすがったせいで、この子まで巻き込んでしまった。
「離婚しましょう」
そう口にした時、私は不思議なほど落ち着いていた。
「何だと?」
悠真が勢いよく身を起こした。その切れ長の目が、驚きに大きく見開かれる。
「ふざけるのも大概にしろ。先に手を出したのはお前だ。俺はそれを責めていないのに、離婚だと?」
彼はまっすぐ私を見据えた。
いつものように、私を押し切れると思っている目だった。
「三秒やる。今の言葉を取り消せ。俺は気に入らない」
けれど、今回は違った。
私はその視線を受け止めた。
もう愛も、憎しみもなかった。
「お父さん、お母さん!」
太ももにしがみついた息子が、ついに声を上げて泣き出した。
「湊のせいで、もう喧嘩しないで!湊、もう痛くないよ。全部、湊が悪いの……離婚しないで、離婚しないで。お願い……」
湊は私を揺さぶり、私のズボンには彼の血がこすりついていった。
私の息子はあんなに痛いはずなのに、そんな嘘までつく。
私はしゃがみ込み、息子を抱きしめた。
涙が音もなく流れた。
「園長先生、ご覧になりましたよね?」
それまで黙っていた茉莉が、息子を指さした。
「あの出来損な……湊くんは、もう自分の非を認めています。
全部この子のせいです。うちの息子は完全な被害者です。これ以上しつこくするなら、警察を呼びます」
この女!
私は反射的に飛び出し、彼女に平手打ちを食らわせようとした。
けれど、手が宙に浮いたままのところで、甲高い破裂音が響いた。
後頭部でガラスが砕けた音だった。
乾いていて、やけに鋭かった。
耳鳴りが、骨の隙間にまで染み込むように響く。
私は振り返った。
目の前がぐらぐらと揺れる中、悠真は右手に、底だけが残った保温ボトルを握っていた。
指先がかすかに震えている。
「自業自得だ」
私は無意識に首の後ろへ手を伸ばした。
血が、細かなガラス片と混じり合い、指の間から流れ落ちた。
「お母さん!」
息子が駆け寄り、私に抱きついて、胸が張り裂けそうな声で泣いた。
それでも悠真は、私に目もくれず、警察に通報した。
警察はすぐに駆けつけた。
園長室に入るなり、悠真は息子に矛先を向けた。
「俺はこの子の父親です。この子は素行が悪く、盗みもするし、嘘もつく。学校でも好き放題やっていて、今度は同級生にいじめられたと濡れ衣を着せています。
すべて中原柚希がそそのかしたんです。彼女は今、白石茉莉親子にけがまで負わせました。今日、彼女が謝らないなら、白石家は示談に応じません」
彼はいつも、自分は高潔な人間だと言わんばかりに振る舞っていた。
それなのに今は、茉莉のために、こんな見え透いた嘘まで平然と口にしている。
警察はおおよその事情を聞いたあと、判断に困ったようだった。
息子がけがをした時の防犯カメラは壊されていて、しかも私が手を上げたのは事実だった。
最後には警察官でさえ、困ったように私をなだめた。
「藤原さんは自分の息子さんに非があるとおっしゃっていますし、あなたが手を出したのも事実です。こちらとしても、まずは話し合いで解決していただくしかありません。
お子さんのけがはかなり重い。白石家側は、あなたが謝らなければ示談には応じないと言い張っています。ここは一度頭を下げて、先にお子さんを病院で診てもらったほうがいいでしょう」
私は息子を見た。
包帯はすっかり赤く染まり、濃い褐色の血のかさぶたが、青白い小さな顔に乾いてこびりついていた。
私は唇を噛み、血の味が広がるほど歯を食いしばった。
そして最後には、ゆっくりと腰を折った。
「申し訳ありませんでした。手を上げるべきではありませんでした」
視界の中で、茉莉のハイヒールが勝ち誇るように床を鳴らしていた。
顔を上げなくても、彼女がどんな得意げな顔をしているか分かった。
私は、完膚なきまでに負けた。
湊は病院へ運ばれ、二度目の縫合を受けた。
今度は、泣かなかった。
家に戻ったのは、深夜だった。
ドアを開けると、料理の匂いが鼻をくすぐった。
悠真はエプロンをつけ、ちょうどスペアリブの甘酢煮をテーブルに運んでいるところだった。
「帰ったのか?お前、俺がほかの人に料理を作るのが嫌だったんだろ?もう作らない。これからは、お前たちにだけ作る」
第4話
暖かな黄色い灯り。
湯気の立つ料理。
まるで夢でも見ているようだった。
湊はまだ状況をのみ込めず、その場に立ち尽くしていたのに、悠真に手を引かれ、いつの間にか席に座らされていた。
「ほら、お父さんの料理を食べてみろ」
彼はスペアリブを一つ取り、細い両手を組んで、息子が食べるのをじっと見つめていた。
その瞳に宿る光は、月明かりよりも優しかった。
私がまだ呆然としているのを見ると、彼は慌てたように立ち上がり、私の手を取った。
「なあ、もう怒るな。全部、俺が悪かった。湊がけがをしていたなんて知らなかったんだ。あの時は頭に血が上って、あんなことを言ってしまった。
お前が嫌なら、この賭けはもう終わりにする。これからは、あいつらとも距離を置く」
彼は歩み寄ろうとしていた。
本当に、私たちに償おうとしているようにさえ見えた。
けれど、その錯覚は一秒も続かなかった。
彼のスマホが鳴った。
画面に表示された「嫁」の文字を見た瞬間、彼は慌てて電話に出た。
茉莉の泣き声が、受話口越しに聞こえてくる。
「悠真、陽翔があなたを呼んでるの。泣いて、何も食べようとしなくて……私、どうしたらいいか分からない!」
悠真は勢いよく立ち上がった。
茶碗が皿にぶつかり、がちゃんと音を立てる。
「柚希、謝ることは謝った。学校の件は、これで終わりにしよう。会社で少し用ができた。先に行ってくる。今夜は待たなくていい」
結局、私たちにこれ以上追及させたくなかっただけなのだ。
彼の大事な「息子」を守るために。
彼はあまりにも慌てて出ていったせいで、服の裾がスペアリブの甘酢煮の皿に引っかかった。
ぱりん。
皿は粉々に割れ、とろりとしたソースが花火のように飛び散った。
湊はしゃがみ込み、床に散らばったスペアリブを拾おうとした。
私はその手首をつかんだ。
「スペアリブはもういらない。お父さんも、もういらない。お母さんが外に食べに連れていってあげる」
それから数日間、私は悠真に一度も会わなかった。
息子のけがも、少しずつよくなっていった。
ある日、湊は朝早くから起き出し、嬉しそうに私に抱きついてきた。
「お母さん、今日は花おばさんの誕生日だよ。いつ行くの?」
私はスマホを開いたが、佐伯花(さえき はな)からの連絡は来ていなかった。
花は私のいちばんの親友だった。
そもそも、私と悠真を引き合わせてくれたのも彼女だった。
湊にとって、彼女は母親と同じくらい大切な存在だった。
毎年、彼女は前もって誕生日会の連絡をくれていた。今年はきっと、忙しくて忘れているのだろう。
「今から行こう」
私は息子と一緒に、ケーキとプレゼントを真剣に選んだ。
ドアをノックすると、出てきた花は一瞬、驚いた顔をした。
彼女はドアを半分だけ開けたまま言った。
「あなたたち……どうして来たの?」
湊は小さく跳ねるようにして、彼女に抱きついた。
「花おばさん、花おばさん!湊から、お誕生日おめでとう!」
けれど花は、いつものように喜んで抱き返してはくれなかった。
その動きは、どこかぎこちなかった。
「花おばさん!ろうそく吹いて、お願いごとしようよ!」
ドアの中から、陽翔の声がした。
次の瞬間、湊は花に押しのけられていた。
背中がドアにぶつかり、鈍い音がした。
私はドアを思いきり蹴り開けた。
食卓では、少し前に茉莉とは距離を置くと言っていた悠真が、今まさに茉莉を抱き寄せていた。
陽翔も、会社の幹部たちも何人かそこにいた。
玄関に立つ私と息子のほうが、場違いな侵入者のようだった。
私は息子の手を引いた。
「行こう」
「柚希」
悠真が私を呼び止めた。
「せっかく来たんだ。食べてから帰れ」
湊が手の中にぎゅっと握りしめているプレゼントを見て、私はどうにかこらえた。
席に着くなり、茉莉が嫌味たっぷりに口を開いた。
「うちの息子と花さんは気が合ってね。それで、うちの子も花おばさんって呼ぶようになったの。おばさんなんて誰がそう呼んでもいいものだし、誰か一人のものってわけでもないでしょう?まさか、気にしないわよね?」
今までそんなことは一度も言わなかったくせに。
よりによって今。
湊が大切にしているものを、わざと一つひとつ奪って、私を不快にさせたいのだ。
場の空気が凍りついた。
湊は自分から空気を変えようと、丁寧に選んだプレゼントを花の前に差し出した。
その声には、かすかな媚びるような響きがあった。
「花おばさん、湊……」
花はそれを完全に無視した。
そして背後から、純金製のトランスフォーマーを取り出した。
「じゃじゃーん。陽翔、見て。花おばさんがあなたに何を用意したと思う?あなたの大好きなトランスフォーマーよ」
陽翔はそれを受け取ると、嬉しそうに飛び跳ねた。
そして息子に向かって舌を出し、得意げに見せびらかした。
湊はその場に立ったまま、手を差し出した姿勢で固まっていた。
まるで、そこにいない人間のように、ひどく惨めだった。
一歳の頃から、私は毎年、湊を連れて花の誕生日を祝いに来ていた。
けれど彼女が湊に、まともなプレゼントをくれたことなど一度もなかった。
本当に、皮肉なものだ。
私は湊を自分のそばへ引き寄せ、笑いながらたしなめた。
「湊、犬にあげるつもりで用意したプレゼントを、どうして花おばさんに渡そうとしてるの?」
「この!」
花が怒り出そうとした時、彼女の隣にいた会社の幹部が突然立ち上がった。
足元はふらついていて、明らかに酔いが回っていた。
彼は茉莉にグラスを掲げた。
「それでは、白石さんの悠舟グループ副社長ご就任を祝しまして。今後は部下として働くことになりますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「副社長?」
私は眉をひそめた。
どうりで私に声をかけなかったわけだ。
隠し事があったのね。
もう隠しきれないと思ったのか、花は開き直ったように鼻で笑った。
「柚希、私だってうちの会社の株主なの。公平に言わせてもらうけど、家庭でも仕事でも、茉莉のほうがあなたよりずっと実力があるわ。この数年、あなたはずっと台所に立ってばかりで、とっくに社会から取り残されているのよ。
この件は悠真が提案したの。私たちも全員一致で、茉莉が副社長になることは、会社にとって利益こそあれ、損はないと判断したわ」
第5話
私は悠真に視線を向けた。
彼は目を伏せ、食器をいじりながら、わざと私の視線を避けていた。
私はその場を見渡し、一人ひとりの顔に目をやった。
悠真のことは、何もないところから、私がここまで支えてきた。
花の持ち株は、私が譲ったものだった。
ここにいる幹部たちも、私が一人ずつ引き上げた人間ばかりだ。
みんな、私が心から信じていた人たちだった。
その最後に、私は彼らに寄ってたかって狩られ、骨までしゃぶり尽くされようとしている。
笑える。
要するに、私にはもう価値がないと思っているのだ。
けれど彼らは忘れている。
中核技術は、まだ私の手の中にある。
「いいわ」
私は笑ってうなずいた。
「ただし、条件が一つある。悠真、私と離婚して」
「認めない!」
意外にも、悠真は激しく反応した。
「俺は離婚しない」
茉莉が慌てて彼の耳元に顔を寄せ、何かを囁いた。
悠真は整った眉をわずかにひそめたあと、狼のような目で私を見据えた。
「いい。離婚には応じる。ただし、条件を一つ加える。お前には一銭も渡さない」
「いいわ。私も一つ加える。息子の親権は私がもらう」
私は冷静に言った。
「お前!」
悠真は、私がここまできっぱりと言い切るとは思っていなかったのだろう。
拳を固く握りしめたが、結局、何も言わなかった。
離婚協議書に署名したその時、茉莉が私の耳元に顔を寄せた。
「柚希、まさか中核技術を握っていれば、悠真があんたから離れられないとでも思っているの?
あんたの二人の弟子なら、もうとっくに買収してあるわ。すぐにあんたは会社から追い出される。何もかも失って、身一つで放り出されるのよ」
私はペンをテーブルに置き、笑った。
「それなら、先にお祝いしておくわ」
欲しかったものを手に入れると、私は息子の手を引き、振り返らずにその場を後にした。
教えたのは、あくまで表に出してもいい部分だけ。
いちばん大事なものまで渡すほど、私は愚かではない。
中核技術の核は、私自身なのに。
蓮と悠真の会社は競合関係にある。
これまで悠真のために、私はあえて蓮とは距離を置いていた。
けれど、今は違う。
悠真をここまで押し上げられた私なら、蓮だって同じように押し上げられる。
彼が泣きながら私に助けを求めてくる日を、楽しみに待つことにしよう。
離婚協議書に署名してから、湊の機嫌は目に見えてよくなった。
ご飯もよく食べるようになり、眠りも穏やかになった。悪夢にうなされて目を覚ますことも、もうなくなった。
担任から幼稚園の卒園式に参加するかと電話があった時も、湊は笑ってうなずいた。
卒園式の日。
人混みの中で、悠真たち三人はひときわ目立っていた。
三人そろって親子コーデをして、これ見よがしに歩いている。
前に、私たちもおそろいの服を買ったことがあった。
息子と私は着たのに、悠真だけは子どもっぽいと言って、どうしても着ようとしなかった。
着たくなかったのは、私たちと一緒だったからなのだ。
イベントが始まった。
最初の親子競技は、二人三脚だった。
保護者と子どもが片足を結び、どの組が先にゴールするかを競う。
ひもを結んでいると、隣にいた茉莉が挑発するように私を睨んできた。
合図が鳴った。
私と湊は息を合わせて走り出した。動きはぴたりと揃い、すぐにほかの組を大きく引き離した。
茉莉たちも含めて。
けれど、ゴールまであと三メートルというところで、茉莉が追いついてきた。
百七十センチほどある体を、思いきり息子にぶつけてきたのだ。
「痛っ!」
息子が悲鳴を上げ、膝を地面に強く打ちつけた。
たちまち皮膚が裂け、血がにじんだ。
「立って!」
私は息子に言った。
湊は何も聞かず、歯を食いしばって立ち上がった。
そして力任せに、再び前へ走り出した。
ゴールは、もう目の前だった。
今度は私が、茉莉の胸元に肘を叩き込んだ。
彼女は踏ん張りきれず、顔から地面へ倒れ込んだ。
陽翔も巻き込まれ、何度も転がった。
「ああっ、痛い!」
茉莉は唇を切ったらしく、うまく発音できないまま叫んだ。
「柚希、どうしてわざとぶつかってきたの?」
さっきの私は、本気で力を入れてすらいなかった。
派手に転んだのは、彼女がわざと大げさに倒れたからだ。
悠真が大股で歩み寄ってきた。
血を見た瞬間、悠真の目に激しい怒りが宿った。
「柚希!」
「先にぶつかってきたのは彼女よ」
茉莉は、いかにも被害者ぶった顔で言った。
「競技なんだから、多少ぶつかったり転んだりするのは仕方ないでしょう。私はただ、うっかりぶつかっただけなのに、そんなに根に持っていたの?うちの息子まで大けがするところだったのよ」
陽翔には、全身どこにもけがらしいけがなどなかった。
それなのに彼は、わっと泣き出した。
「骨が折れた!痛いよ!」
「柚希、湊、謝れ」
悠真は拳を握りしめて言った。
「僕たちは悪くない。謝らない!」
まさか、その言葉を叫んだのが息子だとは思わなかった。
湊は首をこわばらせ、私の前に立ちはだかり、初めて悠真に逆らった。
悠真も明らかに驚いたようだった。
怒りで胸が激しく上下している。
「お前のもとにいるせいで、湊はすっかり礼儀知らずに育ったな。今日、二人が謝らないなら、このままでは済ませない」
悠真が後ろ盾になっているせいで、茉莉も強気だった。
彼女はよろめきながら立ち上がった。
「謝るだけで済むと思っているの?柚希、いつも息子を愛しているって言っているわよね。なら、息子のためなら何だってできるでしょう?」
彼女は目の前の地面を指さした。
「ここで土下座して。みんなの前で、自分が母親失格だって認めなさい。それから、白石副社長にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした、どうかお許しください――そう言うの」
私は彼女の得意げな顔を見つめ、指の関節が鳴るほど拳を握りしめた。
「ふざけないで」
悠真が冷たく鼻で笑った。
「忘れるな。俺たちはまだ離婚が成立していない。お前には仕事もなければ財産もない。裁判所が本当に、お前に子どもを渡すと思っているのか?」
「悠真、約束を破るつもり?」
「自業自得だ!」
彼は私を射抜くように睨んだ。
「頭を下げるかどうかは、自分で選べ。だが息子の親権については、お前に争う資格すら残さないと保証してやる。その時は俺が直々に――しつけ直してやる」
その鬼のような表情に、湊は怯えて私の後ろへ隠れた。
周囲には人が大勢いた。
悠真が連れてきたボディガード。
幼稚園の先生。
面白がって見物する保護者たち。
ひそひそ声が、蝿の羽音のようにまとわりついてくる。
「ひどいわね。息子を取られたくなくて、母親なのにそこまでするなんて」
「旦那さん、あの人に耐えられなくて逃げたんでしょう?他人の子の父親になったほうがましだなんて、よっぽどよね。自業自得だわ」
「今日あの人が土下座なんてしたら、明日には動画が京市中に広まるわよ。もうまともに外も歩けないんじゃない?」
頭の中が、がんがんと鳴っていた。
指先は氷のように冷たく、痺れている。
七年も夫婦だった男が、私に死ねと言っているのだ。
第6話
私が黙り込んだままでいると、悠真は電話を手に取った。
「渡辺弁護士、離婚協議書を作り直してくれ。今度は親権を争う……」
「待って!」
理性より先に、口が勝手に動いていた。
「やるわ」
「お母さん、だめ!」
湊が止めようと駆け寄ろうとしたが、悠真のボディガードに力ずくで押さえつけられた。
「湊、目を閉じなさい。お母さんからの命令よ」
湊は昔から、私の言いつけをよく守る子だった。
泣きすぎて息もできないほどなのに、それでも素直に目を閉じた。
私の子。
聞かないで。
見ないで。
これさえ耐えれば、お母さんがあなたを連れていけるから。
大勢の視線が突き刺さる中、私はゆっくりと膝を折った。
両手を地面につき、額が触れそうになるほど頭を下げる。
頭上から、誰かの息を呑む気配と、押し殺した笑い声が降ってきた。
悔しさで奥歯を噛みしめると、口の中に鉄の味が広がった。
自分の声が聞こえた。
まるで、誰か別の人間の喉から絞り出された声のようだった。
「私、中原柚希は……母親として失格です……白石副社長……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした……どうか、お許しください……」
言い終える前に、茉莉が私の腕を踏みつけた。
細いヒールが、骨の上でぐりぐりと押し込まれる。
「ご飯でも食べてないの?もっと大きな声で言いなさいよ。ここにいる全員に、あんたがどんな女なのか聞かせてあげなさい」
陽翔も私の顔に唾を吐きかけた。
「ぺっ!価値のない女!」
私は地面にうつ伏せになったまま、涙を床に落とした。
それは唾と混ざり合った。
その瞬間、ようやく分かった。
茉莉が奪いたかったのは、私の結婚だけではなかったのだ。
母親である私の尊厳まで、自分の手で踏みにじりたかったのだ。
屈辱がどれほど続いたのか、もう分からなかった。
私は地面に座り込んだまま、長いこと何も考えられずにいた。
全員の注意がこちらに向いていた、その時だった。
一人の男が、隙をついて会場に紛れ込んできた。
次の瞬間、陽翔の悲鳴が響いた。
「お父さん、助けて!」
男は鋭い刃物を手に、陽翔の首元へ突きつけていた。
「動くな。動いたらこいつを殺す!」
悲鳴が上がり、その場にいた人々は一斉に逃げ惑った。
茉莉は真っ青な顔で叫んだ。
「息子を傷つけないで。欲しいものがあるなら、何でも渡すから!」
犯人は会場を見回し、軽蔑するように鼻で笑った。
「俺たち庶民は生きていくだけで精いっぱいなのに、なんでお前ら金持ちはブランド物で着飾って、子どもを年間1000万もする幼稚園に通わせられるんだよ。不公平だろ!」
金目当てだと分かると、悠真は慌てて前に出た。
「金が欲しいだけだろう?俺は悠舟グループの社長だ。金なら用意できる。いくら欲しい?」
彼は犯人をなだめながら、次の瞬間、湊を引き寄せた。
そして、そのまま犯人の前へ押し出した。
「子どもを人質に取ったのは、交渉したいからだろう?こっちが俺の実の息子だ。人質を交換しろ。そうすれば、ゆっくり話し合える」
一瞬、息が止まった。
私は這うようにして立ち上がった。
「悠真、そんなこと絶対に許さない!」
けれど、息子のもとへ駆け寄るより早く、三、四人のボディガードに地面へ押さえつけられた。
「悠真!やめて!」
湊は悠真の手で、犯人の腕の中へ押し込まれた。
恐怖のあまり、体は固まっていた。
「言え。いくら欲しい……」
「だめ!」
悠真が口を開いた途端、茉莉が叫んで遮った。
「こういう犯人は欲が深いのよ。一度払えば、また要求してくる。いくら渡してもきりがないわ。あなた、お金も子どもも両方失うつもりなの?」
第7話
私は目を真っ赤にして、悠真を見た。
彼はうつむいた。
迷っていた。
刃物の先が息子の喉元に突きつけられているのに。
それなのに彼は、迷っていた。
「払う!」
私は泣き叫ぶように言った。
「いくらでも払う。欲しいだけ払うから」
犯人の表情が、ほんの少し緩んだ。
その瞬間、茉莉が慌てて口を挟んだ。
「その人、さっき一銭ももらわずに離婚協議書へサインしたばかりよ。お金なんて一円も持っていないわ。あなたを騙してるのよ!警察が来るまで時間稼ぎをしているだけ!」
私は一瞬で悟った。
彼女は犯人をわざと煽っている。
私の息子を、生かして帰すつもりなどないのだ。
「俺を騙しやがったな!」
犯人の手に力がこもり、息子の首に細い血の筋が浮かんだ。
「騙してなんかいない!」
私は押さえつけていた腕を振りほどき、地面に膝をついた。
「私には友人がいるの。上場企業の会長で、黒崎蓮という人よ。彼に頼めばお金は借りられる。いくらだって払う!」
「黒崎蓮」という名前を聞いた瞬間、悠真の顔に初めてひびが入った。
その目は私に注がれ、火のように私を焼き尽くそうとしていた。
「黒崎蓮?お前、まだあいつと連絡を取っていたのか?」
「悠真、そんなでたらめを信じないで」
茉莉は顔を上げ、犯人に向かって大声で叫んだ。
「黒崎蓮を知らない人なんていないでしょう?京市で最年少の上場企業会長よ。そんな人が、既婚者で何も持っていない離婚寸前の女なんか相手にすると思う?夢を見るのも大概にしなさいよ!
その女はあなたに一円も払えないわ。それどころか、警察が来たら、その場で始末してくれって言い出すに決まってる。たとえ投降したって、幼稚園で刃物を振り回したのよ。重い罪になるに決まっているでしょう。よく考えなさい!」
彼女の唇が動くたびに、犯人の怒りは煽られていった。
そしてついに、犯人は刃物を振り上げ、息子へ突き立てた。
「湊!」
刃が湊の胸に突き刺さった瞬間、私と悠真は同時に駆け出した。
二度目の刃が振り下ろされる寸前、私は素手で刃をつかんだ。
手のひらが裂ける激痛に耐えながら、力ずくで刃物を奪い取った。
血しぶきが飛んだ。
武器を失った犯人は、すぐに警備員たちに取り押さえられた。
悠真は息子を抱き上げようと近づいた。
けれど、血にまみれたその姿を前に、どうしても手を伸ばせずにいた。
「湊……お父さんは、わざとじゃ……」
「消えて!」
私は彼を押しのけた。
血を見た人々は一気に混乱し、周囲は押し合いへし合いになった。
救急車が到着するたび、保護者たちは我先にと乗り込んでいく。
私の息子を気にかける人など、誰もいなかった。
「最後の一人、乗れます!ほかにけがをした方はいませんか、早く乗ってください!」
救急車の中から、看護師が大声で呼びかけた。
「乗せてください!」
私は片手で息子のまだ血が流れ続ける傷口を押さえ、もう片方の腕で彼の体を支えた。
「乗せてください!息子を助けてください!」
けれど、私が足をかけるより早く、茉莉に強く引き離された。
「悠真、陽翔が足をひねったみたいなの。後遺症が残ったらどうするの?この子は将来、スポーツ選手になるのよ!」
悠真の視線が、二人の子どもの間を行き来した。
彼はなかなか決められずにいた。
「湊はまだ目を開けてるじゃない!うちの子は痛みで気を失っているのよ!」
茉莉は涙声で訴えた。
「陽翔を先に乗せる」
「悠真!」
私はもう、まともに声を出すことさえできなかった。
「あなた、湊が死ぬのを黙って見ているつもり?」
「湊は死なない」
悠真の目は、妙に確信に満ちていた。
「次の救急車もすぐ来る」
そう言うと、彼は私を強く突き飛ばし、陽翔を抱いて救急車に乗せた。
扉が閉まったその瞬間、私の世界は完全に崩れ落ちた。
「お母さん……」
息子の声は、今にも消え入りそうだった。
「来世も、湊はお母さんの息子になるね……」
私は息子を抱き上げ、必死に走った。
空が回り、地面が足の下で狂ったように後ろへ流れていく。
視界は血でいっぱいだった。
私は泣きながら懇願した。
「湊、眠らないで!お願い、眠らないで!」
けれど、心も体も限界まで擦り減っていた私は、息子より先に力尽きた。
地面へ向かって倒れていく。
覚悟していた衝撃は、来なかった。
白い光の中で、蓮の揺るぎない瞳が見えた。
「柚希、ごめん。帰ってくるのが遅くなった」
私は最後に、澄み切った青い空を見た。
それから、ゆっくりと目を閉じた。
この瞬間から、私の中で悠真は――
もう完全に、他人になった。