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台風の夜、彼氏は幼なじみのもとへ
台風が上陸したその夜、私、佐野帆立(さの ほたて)は地下駐車場に閉じ込められていた。 流れ込んだ濁流がフロントガラスを覆い尽くした瞬間...
Chương (1)
第1章
台風が上陸したその夜、私、佐野帆立(さの ほたて)は地下駐車場に閉じ込められていた。
流れ込んだ濁流がフロントガラスを覆い尽くした瞬間、私は救助隊長を務める恋人の小倉透(おぐら とおる)に電話をかけ、ようやくつながった。
だが、向こうから聞こえてきたのは、彼の幼なじみ、若松芽衣(わかまつ めい)の声だった。
「帆立さんって、ほんと束縛キツいですよね。透くん、今はうちのベランダの窓を補修してくれてる最中なんですけど」
こちらに言い返す隙も与えず、通話は一方的に切られた。
やがて車内の水位は天井近くにまで迫り、私は奥歯を噛みしめて窓ガラスを叩き割ると、必死に濁流をかき分け、車の外へ泳ぎ出た。
地上へ這い上がり、バッテリー残量1%のスマホを確認する。画面には、透からの短いメッセージが届いていた。
【芽衣はタワマンの高層階にひとりで住んでいて、雷が怖いらしい。急ぎの用じゃなければ、台風が過ぎてからでいいか】
額を伝う血を拭い、私は婚約指輪をそっと外すと、迷うことなく泥水の中へ投げ捨てた。
そして、静かにひと言だけ返信した。
【いいよ】
第1話
台風が上陸したその夜、私、佐野帆立(さの ほたて)は地下駐車場に閉じ込められていた。
流れ込んだ濁流がフロントガラスを覆い尽くした瞬間、私は救助隊長を務める恋人の小倉透(おぐら とおる)に電話をかけ、ようやくつながった。
だが、向こうから聞こえてきたのは、彼の幼なじみ、若松芽衣(わかまつ めい)の声だった。
「帆立さんって、ほんと束縛キツいですよね。透くん、今はうちのベランダの窓を補修してくれてる最中なんですけど」
こちらに言い返す隙も与えず、通話は一方的に切られた。
やがて車内の水位は天井近くにまで迫り、私は奥歯を噛みしめて窓ガラスを叩き割ると、必死に濁流をかき分け、車の外へ泳ぎ出た。
地上へ這い上がり、バッテリー残量1%のスマホを確認する。画面には、透からの短いメッセージが届いていた。
【芽衣はタワマンの高層階にひとりで住んでいて、雷が怖いらしい。急ぎの用じゃなければ、台風が過ぎてからでいいか】
額を伝う血を拭い、私は婚約指輪をそっと外すと、迷うことなく泥水の中へ投げ捨てた。
そして、静かにひと言だけ返信した。
【いいよ】
……
吹きすさぶ暴風雨が、コンビニの窓ガラスを激しく打ちつけていた。
私はよろめきながら扉を押し開け、血と泥にまみれた足跡を、店内の床に残してしまった。
若い店員が驚き、カウンターの奥から飛び出してくる。
「お客さん、大丈夫ですか!?事故に遭ったんですか?」
顔から血の気を失ったまま、私は震える唇で答えた。
「充電ケーブル、借りられますか」
「ありますよ。こちらへどうぞ」
店員は私を椅子に座らせると、清潔な毛布と充電ケーブルを差し出してくれた。
スマホの電源が入ると同時に、私はSNSを開く。
タイムラインの一番上に表示されたのは、10分前に投稿された芽衣の写真だった。
オレンジ色のレスキュー服を着た透が、脚立の上で身をかがめ、割れたベランダの掃き出し窓を応急処置している。
添えられたキャプションはこうだ。
【台風の夜、タワマンの高層階は揺れが怖すぎる。わざわざ駆けつけてくれた透くん、ありがとう。そばにいてくれるだけで、こんなに安心できるなんて。台風、もうちょっとゆっくり通り過ぎてくれないかな】
透がコメントしていた。
【台風なんかいつまで居座らせてるんだよ。さっさと追い払えって】
芽衣はそれに返信していた。
【台風は追い払っても、あなたなら残ってくれてもいいけど?】
ふたりのやり取りは、見ているこちらがいたたまれなくなるほど親密だった。
私はしばらくその写真を見つめたあと、静かに「いいね」を押した。
スマホの電源が落ちていた間、透からは3件の着信が入っていたらしい。
そして今、再び電話が鳴った。
通話ボタンを押すと、開口一番、透は頭ごなしに怒鳴りつけてきた。
「帆立!俺の電話を無視するとは、いい度胸だな。今、外がどれだけ荒れてるか分かってるのか?俺は救助隊長として一晩中外を駆け回ってるんだぞ。少しは俺の立場も考えてくれよ。よりによってこんな時に音信不通になるなんて、俺を困らせたいのか?」
そのとき、店内のテレビから緊急ニュースが流れてきた。
「市内は百年に一度と言われる記録的豪雨に見舞われ、一部の低地道路および地下駐車場で深刻な浸水被害が発生しています。すでに死者も……」
画面を見つめながら、体の芯から冷えていくのを感じつつ、私は電話口の透に尋ねた。
「今、どこにいるの?」
透は一瞬言葉に詰まり、歯切れ悪く答えた。
「現場に出てるに決まってるだろ!今夜は雨がひどすぎて、救助対応に追われてるんだ。帰れない。お前は大人しく家にいろ。勝手にうろつくな」
「その救助活動って、人の家のベランダを修理すること?」
私が冷ややかに聞き返すと、途端に彼の声が尖った。
「なんだよ、その言い方は?芽衣は30階を超える部屋に一人で住んでるんだぞ。掃き出し窓が割れて、部屋の中まで水浸しなんだ。
彼女は殉職した同僚の妹だ。俺は昔、あいつの兄貴に、一生面倒を見るって約束したんだよ。こんな天気で心臓が止まりそうなくらい怯えてる子を、ちょっと助けに行っただけだろ。それのどこが悪い?お前、なんでそんな冷たい言い方するんだよ?」
私は視線を落とした。鋭いガラスの破片で切り裂かれた自分のふくらはぎが血にまみれ、痛々しく裂けている。
地下駐車場で彼にかけた電話が、芽衣の手で切られた時のことを思い出す。
車内の非常用ハンマーを3度、全力で振り下ろし、ようやく窓を割って、命からがら脱出したのだ。
「……そう。じゃあ、彼女のそばにいてあげて」
私は低い声で告げた。
「皮肉を言うなよ。うちの救助車両はすぐ近くに待機させてあるし、今夜は本当に現場を離れられないんだ。
もう、いちいち焼きもちを焼くのはやめろよ。二十代にもなってるんだから、少しは分別を持て」
透は後ろめたさをごまかすように、そそくさと通話を切った。
店員が救急箱を持ってきて私の前にしゃがみ込み、消毒液で丁寧に傷口を処置してくれる。
綿棒がめくれた皮膚に触れるたび、焼けつくような痛みが走った。
私は歯を食いしばりながら、涙をぽろぽろと毛布の上に落とした。
店員がため息をつく。
「お客さん、この傷、深すぎますよ。病院で縫ってもらわないと。彼氏さんも救助隊の方なんですか?こんな時にそばにいてくれないなんて……」
私は椅子の上で身を丸めた。
5年前、透は土砂崩れの救助中に大怪我を負ったことがある。
肋骨を3本折り、ICUで3日3晩を過ごした。
あの頃、私は救急科の研修医だった。眠る間も惜しんで、彼のベッドのそばに付き添い続けた。
目を覚ました彼は私の手を握り、泣きながら言ったのだ。私に出会えたことが、人生で一番の幸運だと。
それなのに今、彼はたった2キロしか離れていない高層マンションにいながら、私が怪我をしたことにすら気づいていない。
夜が明ける頃、雨足は次第に弱まっていった。
私は立ち上がって毛布を畳み、湿った万円札を丁寧に店員に渡した。
「お釣りはいりません」
「お客さん、多すぎますよ!」
店員が慌てて私を呼び止める。
「毛布も充電も、本当に助かったから」
私は足を引きずりながら、扉を押して外へと歩き出した。
第2話
アパートに戻ると、部屋の中はしんと冷え切っていた。
浴室に入り、泥と砂がこびりついた服を脱ぎ捨てる。
傷口にお湯が当たるたび、全身が震えるほどの痛みが走った。
シャワーを終えた私は、ベッドのヘッドボードに背を預け、スマホで芽衣のSNSを開く。
また新しい投稿があった。
写真に写っていたのは、湯気の立つ味噌汁と、焼き魚や卵焼きが並んだ、ふたり分の朝食だった。背景には、キッチンで作業する透の横顔が写り込んでいる。
投稿には、【口では冷たいこと言うくせに、朝からちゃんと朝ごはんを作ってくれた。ちょっと心があったかくなった】と添えられていた。
私は自嘲気味に笑うとアプリを閉じ、救急科の主任に電話をかけた。
「主任、佐野です。来月からの離島診療所への長期派遣、まだ募集していますか?」
主任は驚いたように聞き返した。
「お前、来月、透くんと結婚するんじゃなかったのか?向こうは医師も設備も足りないし、任期は2年だぞ。勢いだけで決めていい話じゃない」
「本気です。まだ枠が残っているなら、私の名前で申請を出しておいてください」
しばしの沈黙ののち、主任が念を押すように言った。
「佐野、本当にいいのか?軽はずみに決めていいことじゃないぞ。あそこは医者も薬も足りていないし、交通の便も悪い」
「すべて覚悟の上でのお願いです。ありがとうございます、主任」
電話を切って10分も経たないうちに、芽衣は例の朝食の投稿を削除していた。
その直後、透から着信があった。
その声には、どこか疲れが滲んでいた。
「帆立、お前、昨夜いったいどこに行ってたんだよ。電話しても出ないし、メッセージも返さない。俺がどれだけ心配したか分かるか?」
「心配してたと言う割には、一晩中芽衣の家にいて、朝食まで作ってあげてたのね?」
私が冷ややかに言い返すと、透は一瞬言葉に詰まり、それから苛立ったように反論した。
「そんなふうに決めつけるの、やめてくれないか。昨日は風がひどくて、芽衣の家のベランダの掃き出し窓が割れたんだ。あいつも足を怪我してた。
俺はレスキュー隊員だ。助けを求められたら、相手が誰だろうと駆けつける。それに芽衣は、殉職した仲間の妹なんだぞ」
そのとき、電話の向こうから芽衣の声が飛び込んできた。
「あっ、透くん、熱っ!ごめんね、わざとじゃないの。おかわり、よそってあげようと思って……」
透は慌ててスマホを耳から離し、気遣うような声をかける。
「動くなよ。俺がやるから。足を怪我してるの、忘れたのか?」
それから、スマホを再び耳に戻した。
「今はそんな話をしてる場合じゃない。家で少し頭を冷やしてろよ。何でもかんでも疑うのは、もうやめてくれ」
そう言って、通話は一方的に切られた。
私は真っ暗になった画面を見つめながら、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
その日の午後、私はひとりでタクシーを拾い、病院へ向かった。
救急科の同僚たちは、私の傷を見て目を丸くする。
「佐野先生、これ……誰かと喧嘩でもしたんですか?いったいどうして、こんなひどい怪我を?」
「台風の日に足を滑らせて、ガラスの破片で切っただけ」
私は軽く答えた。
デブリードマン、縫合、そして破傷風のワクチン接種。
午後いっぱい、長椅子に座りながら点滴を2本受けた。
夕方帰宅し、玄関の扉を開けると、ちょうど透が靴を履き替えているところだった。
活動服の上着を脱いだ彼の腕は日に焼け、逞しかった。
薬の袋を提げた私に気づくと、透は少し目を逸らしながら近づいてきて、それを受け取ろうとした。
「病院に行ってたのか?なんでひと言も言わないんだよ。何の薬をもらってきたんだ?」
私は体をかわし、彼の手が触れないようにした。
透の手は宙で止まり、その表情が曇る。
「帆立、なんだよ。そのあてつけみたいな態度は」
そのとき、彼のスマホが鳴った。
透は私の目の前で電話に出ると、急に声を柔らかくした。
「芽衣、どうした?薬はもう飲んだ?大丈夫、ちゃんと時間通りに飲めば治るって、医者も言ってただろ。うん、夜は鍵、ちゃんとかけとけよ」
私は彼の横をすり抜け、コップにぬるま湯を注ぐと、抗生剤を飲み込んだ。
電話を切った透は少し気まずくなったのか、後ろから私を抱きしめてきた。
「帆立、もう怒るなよ。昨日は本当に仕方なかったんだ。救助隊長として、市民の命や安全に関わる危険を見過ごすわけにはいかないだろ?」
彼は私の首元に顔を埋め、なだめるように優しい声で囁いた。
その体からは、甘ったるい女性用香水の香りが漂ってくる。
私は身動きひとつせず、冷たく言った。
「なんか匂いがする。シャワー浴びてきて」
透は気まずそうに腕をほどくと、不満げにこぼした。
「現場で救助活動に駆け回ってきたんだぞ。いい匂いなんてするわけないだろ……分かったよ。今から浴びてくる」
第3話
「帆立、着替え!洗ったやつ、持ってきてくれ!」
浴室から透のくぐもった声が聞こえてきた。
私はグレーのルームウェア一式を取り出すと、浴室の扉の前まで歩き、わずかに開いた隙間から着替えを差し入れた。
透が手を伸ばして受け取る。
「サンキュ」
私はすぐにはその場を離れなかった。
浴室の扉の前にある棚には、透が脱いだばかりの汚れた服が置かれている。
その上に、彼のスマホが転がっていた。
――ヴヴッ。
突然、画面が点灯した。
芽衣からのボイスメッセージだった。
私は何気なく再生ボタンを押した。
甘えるような芽衣の声が流れ出す。
「透くん、防水のダイバーズウォッチ、うちの枕元に忘れてるよ?今朝、あんなに慌てて帰ったから、置いてきちゃったのかな?今夜、また取りに来る?」
シャワーの音がぴたりと止まった。
浴室の扉が勢いよく開き、透が腰にバスタオルを巻いただけの姿で、湯気をまといながら飛び出してきた。
彼は私の手からスマホをひったくると、後ろめたさと気まずさに顔を赤くした。
何か言おうと口を開きかけたものの、苦し紛れに私へ近づいてくると、私にキスをしようとした。
「いや、聞いてくれ。昨日の夜は……」
私は顔をそむけ、そのキスを避けた。
「昨日は疲れてたし、今日も疲れてる。触らないで」
透の表情が一変した。ばつの悪さを怒りで押し隠すように顔を歪め、スマホを棚に叩きつける。
「帆立、いつまでそんな態度を続けるつもりだよ。芽衣は、俺が昨日ほとんど寝てないのを心配して、朝になったら早く帰って帆立のそばにいてやれって言ってくれたんだぞ。
それなのに、帰ってきてからずっと当てつけみたいなことばかりして……少しは俺の気持ちも考えてくれよ」
私は振り返り、まっすぐ彼の目を見た。
「じゃあ、昨日の夜はどこで寝たの?」
透はいらだたしげに、濡れた髪をかき上げた。
「リビングのソファに決まってるだろ!あの時計は、芽衣のベッドを動かすのを手伝った時、上着を脱いだ拍子にうっかり落としただけだ。
帆立、俺はずっと芽衣のことを妹みたいに思ってるだけだ。あいつの兄貴は、俺を助けるために死んだんだぞ。俺たちの関係を、そんな下品な目で勘繰るのはやめてくれよ」
私はゲストルームの扉を指さし、冷たく言った。
「今夜はあっちで寝て」
透は私を睨みつけ、奥歯を噛みしめた。
「分かったよ、帆立。そこまで話が通じないなら、もう好きにしろ。今夜はお互い、気分よく眠れると思うなよ」
バタン!
ゲストルームの扉が乱暴に閉められ、その振動でシャンデリアが揺れた。
私はひとりで主寝室に戻り、ダブルベッドに身を横たえた。
深夜2時、スマホが一度だけ震えた。
主任からのメールだった。離島への医療支援に関する正式な派遣承諾書が添付されている。
私はファイルを開き、末尾の署名欄に名前を入力すると、そのままスマホの電源を切り、深い眠りに落ちた。
翌朝、外から聞こえる楽しげな笑い声で目が覚めた。
寝室の扉を開け、リビングへ出ていく。
芽衣は私のスリッパを履き、私がいつも使っているエプロンを身につけて、コンロの前でぎこちない手つきで目玉焼きを焼いていた。
透はその後ろに立ち、目玉焼きの焼き方を丁寧に教えていた。
扉の音に気づき、ふたりが同時に振り返った。
芽衣は少し気まずそうに私を見た。
「あっ、帆立さん、誤解しないでくださいね。私、その……」
透が一歩前に出て、代わりに答える。
「一昨日の台風がひどすぎて、芽衣が住んでる高層マンション、断水も停電もしてるんだ。ひとりで置いておくのは危ないと思って、朝一番に連れてきた」
芽衣も慌てて頷く。
「そう、そうなんです。ちょっとお手洗いをお借りしたくて……それに、ついでに朝ごはんも作らせてもらおうと思って……」
言い終えると、彼女は少し焦げた目玉焼きを載せた皿を2枚、テーブルに並べた。
そのうち見た目がましな方を透の前に押しやり、小声でつぶやく。
「透くん、私、料理が苦手だから……焦がしちゃった」
透はため息をつくと、まだ見た目のましな方の皿を私の前に移した。
「ほら、帆立。お前はこっちを食べろよ。芽衣がせっかく作ったんだから、文句を言うなよ」
私は焦げた目玉焼きを見つめたまま、表情ひとつ変えずに言った。
「この部屋、来週で解約するから。ここが気に入ってるなら、ふたりでそのまま住めばいい。もう隠れてこそこそする必要もないでしょ」
第4話
芽衣はたちまち目元を赤く潤ませた。
透が拳をテーブルに叩きつける。
「何をわけの分からないこと言ってるんだよ?この部屋は3年契約で借りたんだぞ。それを今さら解約するって?」
私は動じなかった。
「昨日のボイスメッセージ、聞いたから。透、お互いもう大人でしょう。人を馬鹿にするのも大概にしてよ。
彼女の面倒を見ることが、あなたにとって何より大切な責任だって言うなら、これ以上、お互いの時間を無駄にするのはやめましょう」
透は怒りで胸を激しく上下させた。
「帆立!いい加減にしろよ!うっかり落としただけだって言ってるだろ!普通、そこまで言うか?」
芽衣が涙をこぼし始め、肩を震わせた。
「帆立さん、ごめんなさい。全部、私が来たせいですよね。トイレを借りようなんて思わなければよかった……そこまで気にするとは思わなくて。
もう帰ります。水も電気も止まった家に戻りますから。外でどうなっても、もうおふたりには迷惑をかけません……!」
そう言ってエプロンを外し、立ち去ろうとする。
透が彼女の腕をつかみ、私に向かって怒鳴った。
「お前、本当に話が通じないな!彼女は被災者で、殉職した隊員の遺族なんだぞ!医者のくせに、なんでそんなに冷たくなれるんだよ?お前が受け入れられないって言うなら、俺たちが出ていく!お前はこの空っぽの部屋に、ひとりで寂しく引きこもってろ!」
「いいよ」
私は頷いた。
透は一瞬動きを止めた。
私を鋭く睨みつけると、芽衣の手を引き、扉を力任せに押し開けて出ていった。
その後の数日、私は休みを取り、荷造りを始めた。
解約の手続きも滞りなく進んだ。
引っ越しの前夜、救急科の同僚、佐伯枝里子(さえき えりこ)からビデオ通話がかかってきた。
画面に映っていたのは、市内最大の高級ショッピングモールだった。
カメラの向こうでは、透が芽衣に付き添い、婦人服店で買い物をしていた。
芽衣はブランドの紙袋をいくつも提げ、楽しそうに笑っている。
透はその横で彼女のワンピース選びを手伝っており、その眼差しは、彼女を甘やかすような優しさに満ちていた。
枝里子は電話の向こうで苛立ちを噛み殺しながら、吐き捨てるように言った。
「何なの、あの最低男。救助中に大怪我した時、病院に3日間ずっと付き添ってたのは誰よ。貯金まで崩して、あれこれ世話を焼いてやったのは誰?
それが今じゃ、救助隊長の手当を使って、ブランド物を買い漁って、あの女に貢いでるんでしょ。瓦礫の下で死にかけた時、誰に助けてもらったのか、もう忘れたわけ?」
画面の向こうで、芽衣は誰かに撮られていることに気づいたようだった。
彼女はわざと透の肩に手を乗せ、カメラに向かって挑発的な笑みを浮かべる。
突然、画面が大きく揺れた。
透が枝里子のスマホを乱暴に奪い取ったらしい。
「帆立!人に俺の悪口を言わせるなんて、やることが陰湿なんだよ!言いたいことがあるなら、俺に直接言え!
芽衣は足を怪我してるんだ。俺は歩きやすい靴を買うのに付き合っただけだろ!毎日毎日、人に見張らせて……自分で気持ち悪いと思わないのか?お前は黙って家にいろ。明日帰ったら、今度こそはっきりさせるからな!」
枝里子がスマホを奪い返し、怒鳴りつけた。
「この恩知らず!その泥棒猫と一緒に、どこへでも消えうせなさいよ!」
そのまま電話は切れた。
私は深く息を吐き、灯りを消して目を閉じた。
……
翌朝、引っ越し業者のトラックが時間通りに到着した。
荷物はすべて、離島の診療所へ送るよう手配した。
私はリュックひとつを背負い、3年間暮らしたこの部屋に鍵をかけた。
駅へ向かう道すがら、透から再び電話がかかってきた。
私はそのまま通話を切り、彼の連絡先をすべてブロックした。
古びたローカル線を乗り継ぎ、さらに小さな連絡船に揺られること数時間。
私はようやく、赴任先の離島へたどり着いた。
港で待っていた古びた軽トラックの荷台にリュックを積み込み、海沿いの細い道をがたがたと揺られながら進む。
島で唯一の診療所に着いた頃には、すっかり日が傾いていた。
そこは、想像していた以上に不便な場所だった。
潮風にさらされた古い木造の建物。
窓枠にはところどころ錆が浮き、室内には消毒液の匂いと湿った海風の匂いが入り交じっている。
出迎えてくれた自治会長は60代の元漁師で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。
笑うと、白い歯がのぞく。
「佐野先生、よく来てくれたなあ。こんな何もない島まで、本当にご苦労さま」
自治会長はそう言って、嬉しそうに私のリュックを受け取ってくれた。
私が礼を言おうとしたその時、診療所の机に置かれた古い固定電話が、突然けたたましく鳴り響いた。
自治会長は怪訝そうな顔で机に歩み寄ると、鳴り続ける電話の受話器を取り、スピーカーに切り替えた。
「はい、診療所です。どちらさまですか?」
次の瞬間、電話の向こうから透の切羽詰まった声が響いた。
「佐野帆立はそちらに着いていますか!?婚約者の小倉透です!彼女に代わってください!」