Đang tải thông tin quảng bá...
結婚5周年記念日、専業主夫の僕は離婚を決めた
僕・浅倉蓮(あさくら れん)は3年という長い時間をかけて、浅倉凛(あさくら りん)という高嶺の花を振り向かせた。 彼女を妻に迎えるため、築...
Chương (1)
第1章
僕・浅倉蓮(あさくら れん)は3年という長い時間をかけて、浅倉凛(あさくら りん)という高嶺の花を振り向かせた。
彼女を妻に迎えるため、築き上げてきたキャリアをすべて手放し、自ら望んで専業主夫になった。
「子どもを産むのは痛そうで怖い」そんな彼女の一言だけで、僕は翌日には病院へ行き、パイプカット手術まで受けた。
僕たちがこの先もずっと寄り添い、白髪になるまで幸せに暮らしていくのだと、周囲の誰もが疑わなかった。
でも、結婚5周年の記念日、僕は離婚することを決めた。
離婚の手続きを任せる相手は、親友であり弁護士でもある桐生拓海(きりゅう たくみ)。彼が僕に何度も確認してくる。
「本気か?凛と結婚するために、あの有名なファッション誌のオファーまであっさり断ったお前が、今さら離婚したいなんて」
胸を締めつける痛みを押し殺しながら、僕は静かに答えた。「離婚協議書を作ってほしいんだ。それも、できるだけ早く……」
「どうしてだよ?!」拓海は理解できないみたい。
僕はダイニングテーブルの上に置かれた黒百合の花束へ視線を向け、長い沈黙の末、静かに口を開く。
「たったひとつの花束……それが理由なんだ」
第1話
僕・浅倉蓮(あさくら れん)は3年という長い時間をかけて、浅倉凛(あさくら りん)という高嶺の花を振り向かせた。
彼女を妻に迎えるため、築き上げてきたキャリアをすべて手放し、自ら望んで専業主夫になった。
「子どもを産むのは痛そうで怖い」そんな彼女の一言だけで、僕は翌日には病院へ行き、パイプカット手術まで受けた。
僕たちがこの先もずっと寄り添い、白髪になるまで幸せに暮らしていくのだと、周囲の誰もが疑わなかった。
でも、結婚5周年の記念日、僕は離婚することを決めた。
離婚の手続きを任せる相手は、親友であり弁護士でもある桐生拓海(きりゅう たくみ)。彼が僕に何度も確認してくる。
「本気か?凛と結婚するために、あの有名なファッション誌のオファーまであっさり断ったお前が、今さら離婚したいなんて」
胸を締めつける痛みを押し殺しながら、僕は静かに答えた。「離婚協議書を作ってほしいんだ。それも、できるだけ早く……」
「どうしてだよ?!」拓海は理解できないみたい。
僕はダイニングテーブルの上に置かれた黒百合の花束へ視線を向け、長い沈黙の末、静かに口を開く。
「たったひとつの花束……それが理由なんだ」
今日、花束を受け取った時は本当に嬉しかった。
ようやく凛も僕のことを考えてくれるようになって、結婚記念日のサプライズを用意してくれたんだ――そう思ったから。
けれど、花束に添えられたメッセージカードを開いた瞬間、僕の笑みはそのまま凍りついた。
【先生、わざわざ遠方から駆けつけて、叔母のために手術をしてくださり、本当にありがとうございました。家族一同、心から感謝しています。この花は、先生のために僕が選びました。『僕たち』にぴったりだと思ったので、気に入っていただけたら嬉しいです――悠】
手が震え、花束がそのまま床に落ちる。
3年前、父が重い病気で倒れた。
医者からは一刻を争うと言われた。
だが、地元の病院では医療技術が十分ではなく、かといって父の容体では長距離の転院にも耐えられない。
だから僕は、凛に故郷まで来て父の手術をしてほしいと頼み込んだ。
あの時、彼女は何と言ったか?
「病院の規則で、他院への出張手術は禁止されているの。仕事は仕事。個人的な事情でルールを破るわけにはいかないから」
その結果、父は転院先へ向かう救急車の中で息を引き取った。
あれは、僕の人生で一番の心残り。
だから父の葬儀の供花には、あえて黒百合を選んだ。
黒百合の花言葉は不可解な死と愛――父に手向けるためにあるようなもの。
でも、本当は「不可解」でも何でもない。父の死は、本来なら避けられたはずなのに。
眠れない夜が来るたび、白髪交じりの髪で苦しそうに息をしていた父の最期の姿が脳裏によみがえり、僕は何度も人知れず涙を流した。
それでも僕は、自分に言い聞かせ続けた。誰にだって、譲れない信念や守るべき原則があるのだから、凛を恨んではいけない、と。
だけど今になって、ようやくわかった。その原則は破られるし、信念も相手によっては曲げられる。
ただ……僕にその価値がなかっただけ。
拓海との電話を切ると、僕は部屋いっぱいに飾っていたリボンや風船を、まとめてゴミ袋へ放り込んだ。
パソコンを開き、「大自然を巡るドライブ」で検索をかける。
雪山、草原、湖……どこまでも地平線へと伸びていく一本の道。
いつかカメラを片手に車を走らせ、大自然の中を一緒に旅しよう、と僕は父と約束していた。
父が亡くなった時、凛は、「その夢を一緒に叶えよう」と、僕を慰めてくれた。
けれど、その年の凛は心臓外科の主治医に昇進したばかりで、息をつく暇もないほど忙しかった。
食事をする時間すら惜しみ、空腹で胃を痛めながらも、カルテに目を通し、論文を書き続ける彼女。
そんな彼女を見ているのがつらくて、僕はとうとう自分の写真スタジオを畳み、専業主夫として彼女を支える道を選んだ。
あの頃の僕は、全国写真コンテストで大賞を受賞し、有名企業からいくつものオファーをもらって、将来は希望に満ちていたが、僕に迷いはなかった。
その後、凛は史上最年少で心臓外科主任となり、業界でも名の知れた存在になった。
僕はずっと、自分の犠牲も、積み重ねてきた献身も、無駄ではなかったと思っていた。
しかし、今思えば、皮肉でしかない……
ドアの開く音がして、僕ははっと現実に戻る。
凛が帰ってきたみたいだ。
リビングまで来てコートを脱いだ彼女は、何もないダイニングテーブルをちらりと見て、眉をひそめた。
「ご飯は?」
パソコンの画面を見つめたまま、僕は視線すら向けない。
「作りたくないんだ。疲れてるから」
凛の眉間の皺がさらに濃くなる。
「私の仕事より疲れることがあるの?」
僕が答えるよりも先に、彼女の携帯が鳴った。
着信画面を一瞥した彼女は、すぐに通話ボタンを押す。
「どうしたの?」
電話の向こうから、穏やかな男の声が聞こえてくると、険しかった凛の表情がすぐさま緩み、唇の端に笑みまで浮かんだ。
「焦らないで。すぐに行くから」
電話越しに、同僚たちのひやかしの声も漏れてきた。
「滝沢看護師長、また助っ人を呼んでるんですか?」
「先生、早く来てくださいよ!看護師長が限界なんですって」
楽しげな笑い声の中に、浮ついた空気も混じっている。
婚姻関係を結んでいる夫は僕なのに、今では僕が部外者のようだった。
電話を終えた凛は、脱いだばかりのコートをまた羽織った。
僕は静かに口を開く。「滝沢さん?」
彼女の動きが一瞬止まった。
「患者さんに急変があったの。人の命に関わってるんだから、そんな変なこと考えないでよね」
そう言い捨てて、彼女はすぐに僕へと背を向ける。
僕はその後ろ姿を見つめた。
先週も同じように、「三日間、出張に行ってくるから」と言って、慌ただしく家を飛び出して行ったっけ。
でも、今やっと分かった。
それは出張などではなく、滝沢悠(たきざわ ゆう)の叔母の手術をするためだったのだ。
「凛」
僕は彼女の名前を呼んだ。
振り返った彼女。「何?」
僕は彼女の目を真っ直ぐ見つめて問いかけた。「今日が何の日か、覚えてる?」
彼女は真剣に考えることもなく答える。「6月1日?」
僕はふっと笑った。
やっぱり忘れている。
今日は、僕たちの結婚記念日。
5年目だ。
そして、僕らにとっての最後の年。
「何でもないよ」
僕は視線を逸らした。
「仕事、頑張って」
凛が僕を見て、何かに気づいたような顔をした。
少し黙って、彼女が素っ気なく言う。
「対応したらすぐに戻ってくるから。何か夜食でも買って帰ってこようか?」
首を横に振る。
「大丈夫」
もう二度と、そんなことはしなくていい。
凛が家を出た後、僕は一人で予約しておいた店に向かった。
恋人で賑わう店内に、一人で座った僕。
店員が声をかけてきた。「お客様、お連れ様はいつ頃いらっしゃいますか?」
僕は笑顔で答える。「来なくなりました」
今後、彼女が僕の前に座ることは二度とない。
食事を終えた僕は、ディーラーに連絡を取った。
「頑丈なオフロード車を探しているんですけど、自然の中を走り続けられるようなやつを、予算1600万くらいでお願いできますか?」
ディーラーは、この要求に合うものがあるにはあるのだが、取り寄せに1週間かかると言う。
7日あれば、この腐った婚姻関係を捨てるのには十分だ。
「じゃあ、その車でお願いします。来週取りに行きますので」
通話を終えた僕は、検索ブラウザを開いてドライブの関連情報を調べる。
様々な写真を見れば見るほど、5年間眠っていた夢が再び鮮やかに息を吹き返してきた。
すると、拓海から電話がかかってきた。離婚協議書を作成したため、メールで僕に送ったと言う。
僕は小さく「うん」とだけ答えた。
少しの沈黙の後、彼がためらいがちに聞いてきた。
「蓮、お前はあんなに凛のことが好きだったのに……本当にいいのか?」
僕は拓海に聞き返す。「凛が誰かのために、自分のルールを曲げてまで必死になる姿を見たことある?」
「ない」と、拓海は正直に答えた。
「僕は見たんだ」
窓の外に広がる広い夜景を見つめ、口元には皮肉な笑みが浮かぶ。
「まあ、僕のためじゃなかったんだけどね」
第2話
電話を切るとすぐに、レストランのマネージャーの声が聞こえてきた。
「浅倉様、ご予約のお席へご案内いたしますね。どうぞこちらへ」
「浅倉様」という名前に、僕ははっと声のした方へと視線を向けた。
凛だ。
彼女の隣には、悠の姿もある。
肩を並べて歩く二人。
白シャツの袖をまくり上げている凛のその表情には、疲れが滲んでいる。
彼女の隣を歩く悠が何か面白いことでも言ったのか、凛が笑った。
その光景を見た瞬間、僕は胸の奥に鉛のような重たい何かが詰まった気がした。
以前、凛が仕事から帰ってくると、僕は決まって彼女をつかまえて、その日にあった出来事を夢中で話していた。
しかし、彼女はいつも興味なさそうで、相槌一つ打つことすら稀だった。
それでも僕は、仕事で疲れているんだから、仕方ない。返事をする気力も残っていないだけなんだ、と自分に言い聞かせていた。
けれど今は分かる。彼女は疲れていても、ちゃんと笑えるのだ。
ただ、僕にはそうしないというだけで……
「浅倉さん?」
どうやら悠が僕に気づいたようで、わざとらしい笑顔で歩み寄ってきた。
「なんでこんなところに一人でいるんですか?」
僕は何も答えない。
それでも、彼が勝手に喋り始めた。
「今日、大きな事故があって、怪我人がたくさん搬送されてきたんです。
昼からずっと忙しくて、今さっきやっと最後のオペが終わって、もう空腹で倒れそうだったんです。
そうしたら、先生が突然このレストランのことを思い出して、ここには旦那さんの好きなタラのソテーがあるからって、僕を連れてきてくれました。あなたの分もテイクアウトするって言ってたんですから」
言い終えると、彼は凛に視線を向け可愛らしく笑う。
「先生って本当に旦那さんのことが大好きですよね。いつもあなたのことばっかり考えてるんですから。
本当、羨ましいです。僕にもそんな素敵な妻が欲しいですよ」
僕のことが大好き?
本当に僕のことが好きなら、今日が二人の結婚記念日だということを忘れるだろうか?
本当に僕のことを想ってくれているのなら、夜中に男とこんなにも雰囲気のいいレストランに食事に来たりするのだろうか?
本当に彼女の心に僕がいるのなら、なぜ僕の父の命を見捨てたんだ?他の男の親戚のためなら、いくら遠くともすぐに駆けつけて行ったというのに……
僕は悠を見つめ、静かに言った。
「彼女が僕をどう思っていようと、あなたには関係ないことですよね?」
悠の表情から少しずつ笑みが消え、彼は戸惑いを見せ始めた。
「ごめんなさい……何か気に障るようなことを言ってしまいましたか?僕は、本当にそう想っただけで……」
彼の声はどんどん小さくなり、目には涙も浮かんでいる。
僕は何も厳しいことなんて言っていないのに。
それを見た凛が割って入ってきて、悠を背中で庇った。
その彼を守るような姿が、僕の心を容赦なく抉る。
「蓮、彼に悪気がないってのは分かってるでしょ?なのに、どうしてそんなこと言うわけ?」
彼女の声には怒りが滲んでいた。
「今日は患者さんが多くて、彼は一日中忙しかったの。だから、そんなに突っかかるようなこと言わないで」
周りの客までもが凛の肩を持つ。
「医療関係者は本当に大変だよね……」
「手術して疲れているのに、それでも夫の夕食を買うなんて、十分立派な奥さんじゃない」
「男の独占欲って本当に怖いわね」
ああ、そうか。
悪いのは僕一人ということらしい。
これ以上言い争うのは嫌だったので、僕は店を出ようと席を立った。
凛の横を通り過ぎようとした時、彼女に腕を強く掴まれる。
その慣れ親しんだ体温に、一瞬だけ心が揺れた。
しかし次の瞬間、衝撃的な言葉が耳に届く。
「まずは滝沢さんに謝って」
僕は自分の耳を疑った。
「何て?」
「さっきあなたの言葉で彼が傷ついたんだから、謝ってって言ってるの」
凛の後ろで悠が弱々しく僕を見ている。まるで怯えた子鹿のようだ。
そして、凛は彼を庇いながら、まるで怪獣でも見るような目つきで、僕を睨みつけている……
僕はふっと乾いた笑いをこぼした。
「凛、僕の言葉のどこが間違ってた?
僕ら夫婦の問題に、ただの同僚が口を出す必要はあると思う?」
「同僚」という言葉に、僕は精一杯の皮肉を込める。
凛は言葉に詰まり、その問いに答えられなかった。
僕は彼女の手を振り払い、レストランの出口へと突き進んだ。
外の冷たい風を浴びて、溜まっていた憤りがスッと消えていく。
一歩踏み出してようやく分かった。僕を縛るものなんて、もう何もない。
家に帰るとすぐに、拓海から送られてきた離婚協議書を、ネットからダウンロードした離婚届と共にプリントアウトした。
来週の土曜日までには、すべてが終わっているはず。
第3話
その夜、僕は眠らずに黙々と荷造りをしていた。
何かしていないと、胸の奥に開いた虚ろな痛みに押しつぶされそうだったから。
夜が明ける頃、僕は押し入れの奥から埃を被っていたカメラ機材を引っ張り出した。
電源を入れると、液晶画面に明かりが灯る。
その瞬間、鼻の奥がツンと熱くなった。
よかった。まだ壊れていない。今からでも遅くないんだ。
カメラを抱えてリビングに戻ると、携帯が鳴った。
不動産屋からだった。
「浅倉様、先週奥様とご覧になった物件ですが、大家さんとの話がまとまりましたので、来週末にでも契約は可能ですよ」
僕は手を止めた。すっかり忘れていた。
少し前、凛が昇進して彼女の給料が上がった。
すると、今のマンションは狭いから、もっと広いところに引っ越そうと彼女が言い出したのだった。
提案したのは彼女だ。
しかし内見も物件探しも、不動産屋への連絡や間取りの検討、ローン計算……最初から最後まで、すべて僕一人でこなしてきた。
彼女が一緒に内見へ来てくれたのは一度きり。
その日、僕は嬉しくて、寝室になる場所を見ては、どんなインテリアがいいかなどと夢中で尋ねた。
だが彼女は携帯を見つめたまま、興味なさそうな様子でこう答えた。「いいんじゃない。あなたに任せるよ」
その時、僕にははっきりと見えていた。彼女のラインの画面に光る、悠のアイコンが……
結局、何部屋か見ただけで、彼女は悠に呼び出されて帰ってしまった。
そのことを思い出し、僕は淡々とした口調で答えた。「あの家、やっぱり結構ですので」
「えっ?どうしたんですか?奥様もかなりお気に召していたようですが……」
手の中のカメラを見つめながら、僕は冷たく笑った。
「離婚するんです」
電話の向こうが静まり返った。
僕はそのまま電話を切る。
荷造りを終えた頃には、もう昼近くになっていた。
離婚協議書と離婚届を鞄に押し込み、車で病院へ向かう。
5年間の結婚生活。それも、この薄っぺらい紙一枚で片付いてしまうらしい。
あまりにも軽すぎて、なんだか笑えてきた。
昼休憩の時間なので、凛はおそらく彼女の事務室にいるだろう。僕はそのまま事務室のドアをノックした。
しかし、中から出てきたのは悠だった。
彼が驚いた表情を浮かべる。「浅倉さん?」
僕は部屋の中を覗き込み、凛がどこにいるのか確認しようとした。
すると、悠が僕の視線を遮るように立ち塞がり、声を潜めて言った。
「先生は昨晩から働き詰めで、午前中はずっと診察だったので、今は疲れて眠っています。何か用ですか?」
僕は彼を見つめた。
少し乱れた髪に、心なしか皺になった服。
そして、この男は凛の事務室から出てきた……
突然強い吐き気が込み上げてきた。
鞄を握りしめ、さっと顔を背ける。
「書類にサインをしてもらいたくて」
すると悠が僕の鞄に入っていた書類をちらりと見て、笑みを浮かべた。
「先生はお疲れなんです。せっかく寝てるのに起こすのは可哀想なので、僕が預かっておきますよ。起きたら渡しておきますから」
断ろうと思った。
しかし、もう一秒たりとも凛とは顔を合わせたくない。
僕は書類を悠に渡した。
「お願いします」
背を向けてその場を立ち去る。
さっきの光景が頭の中で何度も再生された。
凛の事務室で、一緒に昼休憩をとっていた二人。
あまりにも自然で、まるで最初からそうであるべきだとでもいうように。
胃の不快感がどんどん酷くなっていく。
僕はトイレに駆け込み、洗面台の前で何度もえずいた。
しかし、何も吐き出せない。
そのまま冷水で顔を洗い、トイレを出たのだが、その瞬間腹部に激痛が走った。
視界が一瞬で真っ暗になる。
僕はその場で気を失ってしまった。
目を覚ますと、消毒液の匂いが鼻をついた。
看護師と目が合うと、彼女がほっとした様子で声をかけてきた。「目が覚めたようですね」
上半身を起こしたが、まだ頭がふらつく。
「これは……?」
看護師は真剣な面持ちで検査結果のシートを差し出した。
「精管結紮の手術で、炎症を起こしてたみたいなんです。
まだこんなに若いのに、どうしてそんな手術をされたんですか?」
第4話
僕は、指の関節が白くなるほど診断書を強く握りしめた。
――どうして、パイプカットなんてしたんだろう。
そんなの、もちろん凛のためだった。
仕事に人生を懸けていた彼女は、「妊娠で人生を犠牲にしたくない」と、かたくなに子供を持たない選択をしていた。
僕は彼女を大切に思っていたから、子供は欲しかったけれどそれを受け入れた。
だから結婚してからも、ずっと避妊用具を使い続けていた。
でもつい先日、凛があるネット記事を目にした。
それはある子供を持たない夫婦についての記事で、夫は中年になってから子どもが欲しくなって後悔したが、その頃には妻はもう出産できる体ではなくなっていた。結局、夫は外で愛人をつくり、その女性との間に子どもをもうけたという。
その記事を読んだ凛は、不安そうにしていた。
だから僕は凛を安心させるために、周囲の反対を押し切って、翌日には病院へ行ってパイプカットの手術を受けた。
結婚5周年記念日にそのことを伝えて、もう二度と心配しなくていいと安心させるつもりだったのに。
でもまさか、その機会さえ彼女に奪われるなんて……
だが幸いなことに、看護師の話によれば、パイプカットの手術からそんなに時間が経過していないため、再建手術をすれば生殖機能は回復するらしい。
再建手術を受けるか迷っていたその時、病室のドアが勢いよく開いた。
昼間に悠に預けた書類ケースを手に、顔を強張らせた凛が入ってきた。
次の瞬間、その書類ケースが僕に投げつけられる。
彼女は眉間にしわを寄せながら僕に言った。
「サインはしておいたから。家の購入なんてプライベートなこと、二度と病院に持ってこないで。滝沢さんに見られたら、どう思われるか」
僕は思わず笑い出しそうになった。
凛はそれが、住宅の契約書だと思い込んでいるらしい。
どうやら中身も見ず、サインをしたようだ。
それならそれでちょうどいい。無駄な言い争いをしなくて済んだ。
離婚協議書と離婚届を鞄に入れると、僕はずっと重くのしかかっていた何かが胸から離れるのを感じた。
僕が無言でいると、凛の表情が少し緩んだ。
「とにかくあなたは休んで。私は仕事に戻るから」
彼女の顔を見ていたら、こう聞かずにはいられなかった。
「ねえ、凛。僕がどうして病院にいるのか、気にならないの?」
彼女は少し呆気に取られた後、淡々と答えた。
「胃の調子が悪いんじゃないの?いつものことでしょ。
良くなったらすぐに帰って。医療資源を無駄にしないでね」
僕の心臓は、何かに握りつぶされるように締めつけられた。
確かに僕は胃が弱い。
だからかつて彼女のポケットには、いつも胃薬が入っていて、僕の調子が悪くなると、すぐに水を汲んで薬を飲ませてくれた。
しかし、彼女のポケットから僕の胃薬がなくなったのは、いつからのことだろう……
先週、彼女の白衣を洗濯したとき、ポケットからは男性用のカフスが出てきた。
銀色の、イニシャルが刻まれたもの。
そして、それは悠の袖についていた。
もう、いいや。
疲れた。
問い詰める気力さえ、残っていなかった。
僕は凛を見つめ、パイプカットの手術の話を切り出そうとした。
その時、病室のドアが再び乱暴に開けられた。
「先生!」
若い医師が、血相を変えて飛び込んできたのだった。
「32号室の患者さんの様子が急変して!ご家族が興奮して滝沢看護師長に掴みかかっていて……とにかく、すぐに来てください!」
凛の表情が一瞬で変わり、すぐに病室を出ていった。
僕のことなど振り返らずに。
彼女の心は、完全に悠のことで埋め尽くされている。
ドアの外へ消えていく背中を僕は見つめた。
その瞬間、僕の中に残っていた最後のかすかな未練が、完全に消えた。
どうしてこんな人のために、自分の人生や子どもの将来まで諦める必要があるんだろう。
僕は目を閉じて、決心する。
ナースコールを押し、診断書を握りしめて冷静に伝えた。
「パイプカットの再建手術をお願いします。
今すぐにでも。可能な限り早く、お願いします」
第5話
手術は明日の午前中に決まった。
僕はまず家に一度戻った。
夕焼けの中で、ベランダの花が綺麗に咲いている。
クチナシ、バラ、サボテン、アジサイ。どれもこの数年、僕が一鉢ずつ大切に育ててきたものだ。
凛はいつも忙しく、僕の相手をしてくれなかったから、僕は花に想いを寄せていた。
僕がいなくなれば、誰も世話をしてくれない。でも、この花たちが枯れてしまうのは残念だ。
写真を撮って地元の掲示板に投稿する。【引越しのため、花を無料でお譲りします。早い者勝ちでどうぞ】
近所の人たちが協力してくれて、30分も経たないうちにテラスの鉢は半分以上なくなった。
それから最後のアジサイを渡し、空っぽになったテラスで僕は立ち尽くす。
手放すことは、案外難しくないものだった。
部屋の中に戻り、ウォークインクローゼットに向かった。
ガラスケースには、腕時計がたくさんかかっている。ほとんどが凛からの贈り物。
凛がプレゼントを贈ってくれるたびに、僕は心から嬉しかった。
しかし今見ると、プレゼントを渡すときの彼女のどこか面倒くさそうな表情や、同じモデルを二度も贈ってきたことを思い出した……なんて滑稽なのだろう。
僕が愛していたのは、凛本人じゃない。自分の都合のいいように思い描き、美化し続けていた「理想の凛」だった。
その幻想が砕け散った今になってようやく気づく。こんなにも心を捧げる価値なんて、最初からなかったのだ。
時計の写真を撮り、フリマアプリにアップロードする。
一晩で7、8本売れた。
溢れんばかりに入っていたケースが、あっという間に寂しくなっていく。
僕の心と同じように。
夜の10時、玄関から鍵を開ける音がした。
凛が帰ってきた。
額の皮が剥け、顔には青あざ。右腕には厚い包帯まで巻かれている。
そして彼女を支えていたのは、悠だった。
彼は泣いた後なのか、目を赤くしている。
「今日患者さんの家族が騒ぎを起こして……先生は僕をかばって怪我をしたんです。ちゃんと看病してあげてください」
僕は彼をちらりと見て、静かに言った。「そんなに心配なら、あなたが残って看病でもしますか?」
悠は顔を赤らめ、口ごもった。
「そういう意味では……僕と先生はただの同僚ですから」
凛の表情が曇る。「蓮、そんな言い方はやめて」
僕は少し困惑した。「僕、何か言った?」
「滝沢さんは親切で送ってくれたの。なのに、なんでそんなに嫌味ったらしいの?」
彼女は車の鍵をテーブルに叩きつけ、失望したような目で僕を見つめる。
目を赤く潤ませた悠が、すぐさま間に入った。
「先生、僕のせいですから。僕が送ってきたりなんかしたから……僕はもう帰りますね」
彼はそう言って、すぐに外へ走り出した。
迷うことなく、彼を追いかけて出て行く凛。
玄関のドアが激しく閉まった。
1時間後、帰宅した凛の表情は先ほどよりも冷え切っていた。
彼女は僕の異変や、空っぽになったベランダと時計ケースには一切気づかず、ただ僕を責める。
「これで満足?」
僕は顔も上げない。「何に?」
「滝沢さんはあの後ずっと泣いてた。あの子は何もしていないのに、どうしていつもああやって追い詰めるの?」
それでも、僕は包装する手を止めなかった。
もう慣れきったこと。
彼女にとって、傷ついているのはいつも悠なのだから。
僕は永遠に、悪者でしかない。
最後の腕時計を梱包材に入れた。言い返す気力もなかった僕は、そのまま寝室へと向かう。
「まって」と、冷たい凛の声が後ろから響いた。「また晩御飯を作っていないの?」
僕は足を止める。「冷蔵庫に冷凍食品が入ってるよ。それも作れないなら、デリバリーでもしたら?」
凛が包帯を巻いた手を突き上げ、顔を歪めた。「怪我してるんだけど」
僕は振り返り、微笑む。
「僕のために負った傷じゃないでしょ?なんで他人のために君のお世話をしないといけないの?」
凛の顔は一瞬にして険しくなり、彼女は鼻で笑った。
「そう……蓮、あなた本当に変わったわね」
そう言い残し書斎に入っていった凛は、壁が揺れるほど力一杯にドアを閉めた。
僕は瞼も動かさない。
明日は手術だ。凛との喧嘩に使う時間は残っていない。
僕もすぐに布団に入り、眠りにつく。
離婚を決めてから、最もぐっすり眠れた夜だった。
翌朝、拓海が迎えに来てくれた。
「本当に再建手術をするんだな?」
僕は何もなくなった手首を見つめ、しばしの沈黙ののち頷く。
「もう決めたから」
以前の僕の世界には、凛しかいなかった。
凛のためなら、キャリアも子を授かる未来もすべて捨てられた。
でも、彼女にその価値はなかった。
だから僕は、新しい自分の人生を生きてみせる。
手続きを終え、僕は手術室へと運ばれた。
担当医がカルテを確認し、麻酔医が配置につく。
その時……見知った人物が手術室に入ってきた。
その男の目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
悠。
彼は手術着に身を包み、マスクをして医者の側に立っている。
僕が視線を向けていることに気づくと、彼は少しも驚かず、その澄んだ瞳に確かな笑みを浮かべた。
第6話
悠の顔を見て、僕は体が強張った。
「看護師を代えてほしいです」
そう言って僕が起き上がろうとすると、医師に押し戻された。
「何を言ってるんですか?滝沢看護師長は当科で一番優秀なんですから。彼を指名する患者さんはたくさんいるのに、今回は彼自ら来てくれたんです。ご自身の運の良さに感謝しないと」
僕は反論したかったが、麻酔科医がもうすでにそばに来ていた。
「力を抜いてください。目を覚ます頃には終わっていますよ」
冷たい液体が血管に流れ込んできて、意識が遠のく。
最後に見た光景は、手術灯の下で冷ややかな目を僕に向けている悠だった。
どれほど時間が経ったのだろうか、僕は痛みで目を覚ました。
下腹部が鈍い刃物で何度も抉られているように痛み、呼吸をするたびに傷口が引きつる。
目を開けると病室はひっそりとしていて、悠が看護記録を書いていた。
「少し……痛いのですが……」
悠が近づいてきて僕を一瞥すると、静かな声で言った。「正常な反応です。術後は誰でもそうなりますから、少し休んでいれば良くなりますよ」
そう言うと、彼はまた記録を続ける。
しかし痛みは強くなる一方で、呼吸さえままならない。モニターも鋭いアラーム音を鳴らし始めた。
僕は何とか腕を伸ばす。「助けて……」
顔を上げた悠が、眉をひそめた。「大丈夫ですから。術後は体が弱っているだけなので、しばらく様子を見ましょう」
そして、悠は背を向けて出て行ってしまった。
意識がどんどん混濁していく。
朦朧とする意識の中、誰かが駆け込んできた。
「蓮!」
拓海だった。
しかし僕は話すこともできなかったため、ただ彼の手を強く掴んだ。
シーツを一目見た拓海が、声を張り上げる。「先生!早く誰かきてくれ!出血してる!」
病室が途端に慌ただしくなった。
「血圧が低下しています!」
「止血を急いで!」
「輸血の準備を!」
耳につく足音と器具のぶつかる音。そして僕は完全に意識を失った。
次に目を開けた時、外はもう夕暮れ時だった。
病室には僕しかいない。
すると、ドアの外から怒号が聞こえてきた。
「これでも問題なかったっていうのか?」
拓海の声だ。彼がここまで怒る姿を僕は見たことがない。
「手術後にこれだけ出血しているんだぞ!もし俺がきていなかったら、命に関わっていたかもしれない。ここの病院の看護体制はこんなにずさんなものなのか?」
一瞬の沈黙の後、悠が泣きそうな声で言った。
「すみません。本当に……正常な経過だと思っていました。今までもそうでしたし……わざとではないんです」
拓海は怒りで震えた。
「わざとじゃない?それで済む話か!あいつは死にかけたんだぞ!」
その時、聞き慣れた声が割って入った。
「いい加減にしてください」
僕は息が止まった。
凛だ。
「先生……」悠は支えを見つけたように声を詰まらせた。「わざとじゃなかったんです……」
凛は静かに悠を慰める。「怖がらなくて大丈夫だよ。この件は私が処理するから」
拓海が呆れて笑った。「処理?どう処理するつもりだ?こいつは人を殺しかけたんだぞ!」
凛の声が冷たくなる。
「滝沢看護師長はこの病院でも優秀な看護師の一人ですし、これまで重大な医療ミスを起こしたこともありません。患者の経過観察も、すべて手順どおりに行っていましたので、現時点では職務怠慢を裏づける証拠はなく、私も彼の専門的な判断を信じています」
拓海の叫び声が響いた。「凛!今中で寝ているのが誰なのか分かってるのか?」
少し沈黙した凛だったが、その声は依然として冷たいものだった。
「あなたが蓮の友人なのは知っています。だからと言って、あなたの身内を特別扱いするつもりはありません」
凛はどうやら、拓海の身内に起きた出来事だと思っているらしい。
拓海は怒りで息も荒くなり、言葉も出てこなかった。
凛は悠を庇うようにして、その場から遠ざかっていった。
続いて別の看護師たちの囁き声も聞こえてくる。
「先生って滝沢看護師長に優しいよね。ずっと守ってあげてたし」
「私が先生だったら、滝沢看護師長とすぐに結婚しちゃう」
「本当にお似合いだよね。うちの病院一番の医師と看護師なんて、羨ましすぎる」
その一言一言が、釘となって僕の胸に突き刺さった。
病室のドアが開き、目を赤くした拓海が入ってきた。僕が起きたことに気づいたらしく、慌てて僕の耳をふさぐ。
「聞くな。ただの噂話だ」
僕は彼の手をそっと外し、無理をして微笑んだ。「平気だよ」
生死を彷徨ったのだ。今更怖いものなど何もない。
その瞬間、携帯が震えた。
凛からの着信だった。
拓海が顔を強張らせる。「よくもまあ、平気な顔で連絡してくるな」
第7話
僕は落ち着いて電話に出た。
受話器の向こうから、凛の不愉快そうな声が聞こえる。「蓮、どこに行ってるの?」
「僕がどこに行けるっていうの?」僕は淡々と言い返した。
「今日、ガス会社が点検に来たらしいんだけど」凛の声は相変わらず淡々としている。「家には誰もいないからって、私に連絡があった。あなた、どうして家にいないの?」
なるほど。
彼女が僕の変化に気づいてくれたのかと、一瞬だけ期待した。
そんな無意味な期待を抱いた自分に対して、僕は苦笑いを浮かべる。
「どうして家にいなきゃいけないの?」僕は凛に聞き返した。「僕は出かけちゃいけない?自分の生活を送っちゃ駄目?旅行に行っちゃ駄目なの?」
凛の口調が一段と重くなった。
「蓮、最近どうしたの?ご飯も作らない、家にもいない、何かにつけて不機嫌そうにして!
今は勝手に一人で旅行?本当、何考えてるわけ?」
窓の外の夕焼けを見ながら、僕は静かに呟いた。
「僕は至って普通だよ。ただ、やっと目が覚めただけ」
電話の向こうが、しんと静まり返った。
しばらくして、凛が鼻で笑う。
「そう。じゃあ、好きにすれば?
あなたが家に帰らないなら、私も帰らないから。
最後にどっちが泣きついてくるか、知らないけどね?」
そこで電話が切れた。
拓海は怒りで携帯を投げ飛ばしそうになった。
「あの女、どうかしてるぞ!外科部長なんだから、普通蓮が入院してることくらいすぐわかるだろ?なのに少しも心配してないのかよ!」
拓海はそう言うと、目を赤くした。「蓮、泣きたければ泣けばいい。我慢するなよ」
僕は長い沈黙のあと、小さく首を横に振った。
「もう泣けないよ」
男はやたらめったら涙を流すものじゃない。
それに、価値のない人のために泣くなんて、僕のプライドが許さない。
3日後、回復した僕は退院手続きを済ませ、荷物を取りに自宅へと戻った。
ドアを開けた僕は、思わず足を止めた。
なんと、凛が家にいたのだ。
二人の視線がぶつかり、空気が数秒間、凍りつく。
凛が先に口を開いた。「帰ってきたのね。今までどこで遊んでいたの?」
返事をせず、僕はそのまま寝室に入り、引き出しを開け身分証を確認する。
背後から凛の声が聞こえた。
「大自然の中をドライブしたいって、ずっと言ってたよね?
ちょうど家も決まったし、そろそろ車も買い替え時。
明日、見に行こうよ。それから、次の休みが取れたら、ドライブに付き合ってあげるわ」
僕は凛をじっと見つめた。
昔の僕なら、この言葉だけで嬉しくて一睡もできなかっただろう。
けれど今はもう……遅すぎた。
「そんなことしなくていいから」
凛が眉をひそめる。「どうして?」
新しい車は、もう買った。
それに、凛についてきてもらう必要なんてないのだから。
「理由なんてないよ」
僕が何を言っても聞き入れようとしないのを見て、凛の堪忍袋の緒がついに切れた。
「滝沢さんに、あなたに優しくしてあげてって言われたから、こっちが歩み寄ってあげてるっていうのに。何なの、その態度は!」
僕は鼻で笑った。そこには嘲笑の色が滲む。
「あの人の言うことは聞くんだ?じゃあもし、あの人が、死ねって言ったら、君は死ぬの?」
凛の顔が一気に険しくなった。「蓮!最近どうしちゃったのよ!」
それでも僕は黙々と書類を片付け、凛には視線を向けない。
怒りで肩を震わせる彼女は、吐き捨てるように笑った。
「いいわ。お互い、少し冷静になる必要があるみたいね。
数日間、私は病院に泊まるから。あなたは頭を冷やして」
そう言ってコートを掴んだ凛は、ドアを乱暴に閉めて出て行った。
最初から最後まで、僕は顔さえ上げなかった。
ドアが閉まって部屋が静まり返ると、僕はゆっくりとベッドサイドへ歩み寄り、鞄から三通の書類を取り出した。
一枚目は、離婚届受理証明書。
二枚目は、僕のパイプカットの同意書。
三枚目は、数日前に受けたパイプカットの再建手術の記録。
それらを綺麗に並べて、サイドテーブルに置く。
そして荷物をまとめて、僕は家を出た。
あの家には、凛の気配が充満していたので、一秒もいたくなかったのだ。
A市での最後の夜、僕はホテルで過ごした。
翌朝、僕はディーラーへと向かった。
笑顔で迎えてくれるスタッフ。「浅倉さん、お車のご準備は整っていますよ」
サインをしようとした時、耳慣れた声が聞こえてきた。
「これなんてどう?」
振り返ると、すぐ近くのSUV車の横に凛が立っていた。
悠がその横で、車の仕様を確認している。
何か言葉を交わし、二人は顔を見合わせて笑った。
まるで長年寄り添った恋人のように、とても自然だ。
スタッフが愛想よく笑う。「お二人ともセンスがいいですね。これはカップルのドライブに大人気の車種なんです。ご試乗になってみますか?」
凛は特に否定もせず、そのまま運転席に乗り込んだ。
悠も照れながら、何も言わずに助手席へと乗り込む。
二人はそのまま、試乗に出て行った。
店のスタッフがコソコソと話しているのが聞こえる。
「あの二人、美男美女ですごくお似合いだと思わない?」
「同じ大学出身で、今は同じ病院に勤めてるんだって。まさに絵に描いたようなカップルだよね!」
「仕事もできてルックスもいいなんて、羨ましすぎる」
僕は静かにその会話を聞いていたが、驚くほど何も思わなかった。
「浅倉さん?」スタッフが小さく声をかけてきた。
僕ははっと意識を取り戻し、迷いなくサインをする。
カードで支払いを済ませ、鍵を受け取り、僕だけの車の前へ進んだ。
エンジンをかけ、ギアを入れ、その場から走り出す。
サイドミラーには、僕とは正反対の方向に進む、凛の乗った車が映っていた。
僕は振り返らなかった。
僕の進む先には、新しい人生が待っている。
5年かかった。僕はようやく、本当の自分を取り戻せたのだ。