その口紅は、私がわざと置いたものだけど?

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その口紅は、私がわざと置いたものだけど?

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私――中川瑞希(なかがわ みずき)が、婚約者の北村晃(きたむら あきら)の車で初めてネックレスを見つけたとき、彼の母親がわざわざ電話をか...

Chương (1)

第1章

私――中川瑞希(なかがわ みずき)が、婚約者の北村晃(きたむら あきら)の車で初めてネックレスを見つけたとき、彼の母親がわざわざ電話をかけてきて、こう説明した。 「瑞希ちゃん、晃のことを誤解してるわ。あのネックレスは、私がうっかり置き忘れただけなの」 2度目に映画の半券を2枚見つけたときは、彼の親友がグループチャットですぐにこう説明してきた。 【瑞希さん、考えすぎですって。映画のチケットは、俺が晃に頼んで買ってもらったんです】 3度目も、4度目も……それ以降も、何か見つけるたびに、必ず誰かが彼の代わりに説明した。 そして9度目。私はシートの隙間から1本の口紅を拾い上げ、彼の目の前に突きつけた。 「この口紅、誰のもの?」 ハンドルを握る晃の手が、ほんの一瞬こわばった。だが、すぐに何事もなかったかのように電話をかけた。 「車に口紅が落ちてたんだけど、誰のかわかる?」 電話の向こうから聞こえてきたのは、実の弟・中川颯太(なかがわ そうた)と、颯太の妻であり、私の親友でもある中川朋美(なかがわ ともみ)の声だった。 「晃さん?ああ、口紅、晃さんの車に置き忘れてたんだ。どうりで朋美がいくら探しても見つからないわけだ。 それより姉ちゃん、また晃さんを疑ってるの?この前みんなで集まったとき、何て言ったか覚えてるだろ。次もこんなふうに疑うなら、いっそ結婚なんてやめたほうがいいって言っただろ」 電話口で、朋美も続けた。 「そうだよ、瑞希。晃さんがどれだけ瑞希を大事にしてくれてるか、分かってるでしょ。最近の瑞希、さすがに疑いすぎだよ」 電話が切れると、晃は何も悪くないと言わんばかりに私を見た。 「これで納得しただろ?もう俺を疑うのはやめてくれよ。 これで9度目だぞ、瑞希。次もまた俺を疑うようなら、式はもう……」 私はふっと笑い、彼の言葉を遮った。 「そうね。じゃあ、やめましょう。結婚式は中止にする」 晃は知らない。あの口紅は、浮気相手のものでも、朋美のものでもなかった。 私が自分で買い、わざと車に置いておいたものだ。 彼の浮気をかばうために、みんながどんな嘘をつくのか確かめたかったからだ。 第1話 私――中川瑞希(なかがわ みずき)が、婚約者の北村晃(きたむら あきら)の車で初めてネックレスを見つけたとき、彼の母親がわざわざ電話をかけてきて、こう説明した。 「瑞希ちゃん、晃のことを誤解してるわ。あのネックレスは、私がうっかり置き忘れただけなの」 2度目に映画の半券を2枚見つけたときは、彼の親友がグループチャットですぐにこう説明してきた。 【瑞希さん、考えすぎですって。映画のチケットは、俺が晃に頼んで買ってもらったんです】 3度目も、4度目も……それ以降も、何か見つけるたびに、必ず誰かが彼の代わりに説明した。 そして9度目。私はシートの隙間から1本の口紅を拾い上げ、彼の目の前に突きつけた。 「この口紅、誰のもの?」 ハンドルを握る晃の手が、ほんの一瞬こわばった。だが、すぐに何事もなかったかのように電話をかけた。 「車に口紅が落ちてたんだけど、誰のかわかる?」 電話の向こうから聞こえてきたのは、実の弟・中川颯太(なかがわ そうた)と、颯太の妻であり、私の親友でもある中川朋美(なかがわ ともみ)の声だった。 「晃さん?ああ、口紅、晃さんの車に置き忘れてたんだ。どうりで朋美がいくら探しても見つからないわけだ。 それより姉ちゃん、また晃さんを疑ってるの?この前みんなで集まったとき、何て言ったか覚えてるだろ。次もこんなふうに疑うなら、いっそ結婚なんてやめたほうがいいって言っただろ」 電話口で、朋美も続けた。 「そうだよ、瑞希。晃さんがどれだけ瑞希を大事にしてくれてるか、分かってるでしょ。最近の瑞希、さすがに疑いすぎだよ」 電話が切れると、晃は何も悪くないと言わんばかりに私を見た。 「これで納得しただろ?もう俺を疑うのはやめてくれよ。 これで9度目だぞ、瑞希。次もまた俺を疑うようなら、式はもう……」 私はふっと笑い、彼の言葉を遮った。 「そうね。じゃあ、やめましょう。結婚式は中止にする」 晃は知らない。あの口紅は、浮気相手のものでも、朋美のものでもなかった。 私が自分で買い、わざと車に置いておいたものだ。 彼の浮気をかばうために、みんながどんな嘘をつくのか確かめたかったからだ。 …… 「ホテルに予約していた披露宴は、もうキャンセルした。親戚や友人には、あなたから連絡しておいて」 その言葉を聞いた途端、晃は急ブレーキを踏んだ。 「瑞希、本気か?まさか、実の弟と親友の言うことまで信じないのか?」 晃は私のほうを向き、表情を険しくした。 「お前、一度カウンセリングでも受けたほうがいいんじゃないか?普通、恋人をここまで疑ったりしないだろ。 実の弟まで俺が何もしてないって言ってるのに、これ以上どうしろっていうんだよ? そこまで俺を信じられないなら、結婚したって意味ないだろ?」 そう言い終えた直後、晃のスマホが鳴った。 着信相手の名前を見た途端、晃の目元がふっと緩んだ。 「用事ができた。お前は先に帰って、少し頭を冷やせ。今日のことはなかったことにしてやる」 私をその場に降ろすと、晃は黒いベンツを走らせ、ためらいもなく去っていった。 このまま引き下がれなかった私は、タクシーを拾い、その後を追った。 スマホの位置情報共有アプリを頼りに、30分後にたどり着いたのは、海沿いのレストランだった。 床から天井まで届く大きな窓の向こうでは、大勢の人たちが赤ん坊を囲み、にぎやかに食事を楽しんでいた。 酒を酌み交わしながら談笑していた人たちは、見覚えのある顔ばかりだった。 その輪の中心にいた女の首元には、私が初めて晃の車で見つけた真珠のネックレスが光っていた。 髪を束ねていたのは、3度目に晃のポケットから出てきたヘアゴムだった…… その顔がはっきり見えた瞬間、どうにか保っていた平静が一気に崩れた。 そこにいたのは、北村真由(きたむら まゆ)だった。 まさか、彼女だったなんて。 1か月前、点滴を交換したとき、私の不注意で患者の血液が点滴のチューブに逆流してしまった。 真由の家族は、それを「患者への虐待だ」として病院に訴え出たうえ、訴訟まで起こした。 その件で言い争いになったとき、彼女のボディーガードに突き飛ばされ、転んだ拍子に右手を骨折した。 そのうえ、病院からは調査が終わるまで自宅待機を命じられた。 あのとき、弁護士の颯太は、私のために訴訟への対応であちこち駆け回ってくれた。 そんな颯太が今は、真由が酒を勧められるたび、代わりにグラスを受け取って飲み干していた。 親友の朋美も、私のために何度も病院側に掛け合い、徹夜で自宅待機の解除を求める書面まで作ってくれた。 そんな朋美が今は、真由に代わって招待客に挨拶をし、忙しそうに席を回っていた。 何よりも馬鹿げていたのは、ついさっきまで自分は何もしていないと言い張っていた晃だった。 「晃さん、遅いですよ。真由さん、ずっと待ってたんですから。ちゃんとご機嫌取ってあげないと」 晃は何のためらいもなく真由を抱き寄せ、周りが囃し立てる中、その唇に口づけた。 目の前のすべてが、たちの悪い冗談にしか思えなかった。 真由の「家族」として病院に訴え出て、私を追い詰めたのも、ここにいる彼らだったのだ。 あの小さなミスを大げさに騒ぎ立て、私を現場から追い出したのも、彼らだった。 その瞬間、頬を張られたような衝撃が走った。 みんなで口裏を合わせ、私一人を騙して笑っていたのだ。 そのとき、スマホが震えた。 病院からの異動通知だった。 【中川先生、異動願が承認されました。3日後から青凪総合医療センターでの勤務となります。詳細は追ってご連絡いたします】 画面を見つめているうちに、何もかもが馬鹿らしくなった。 それでいい。この街にはもう、私を引き留めるものは何もない。 3日後、彼らとの関係もすべて終わらせよう。 これ以上、吐き気のする光景を見たくなくて、私は背を向け、重い足取りでその場を離れた。 しかし、私の後ろ姿に気づいた真由が、店を飛び出して追ってきた。 「中川先生?まさか、うちの子のお祝いにまで来てくださったんですか?」 第2話 「まだ怒っていらっしゃると思ってたので、来てくださらないんじゃないかと心配してたんです。 うちの家族のことは責めないでくださいね。みんな私のことが心配で、少し行き違いがあっただけなんです。 せっかく来てくださったんですし、今日はみんなをご紹介しますね。顔を合わせて話せば、きっと誤解も解けますから」 真由は当然のように私の腕を取り、笑顔のまま皆の前へ連れていった。 「みんな、ちょっといい?中川先生が来てくださったの」 その瞬間、皆の視線が一斉に私へ集まった。 晃たち三人の笑顔は、私に気づいた途端に凍りついた。 「この子は親友の朋美。中川先生と同じ病院の精神科に勤めてるから、院内で顔を合わせたことくらいありますよね?」 朋美は何度か視線を泳がせたあと、ぎこちなく口を開いた。 「中川先生、こんにちは……」 よそよそしいほど丁寧な口調は、まるで私と初対面であるかのようだった。 真由は朋美のぎこちなさに気づかないまま、今度は颯太を紹介した。 「こっちは大学時代からの親友、颯太。この前、中川先生を訴えたとき、代理人をしてたのが颯太なんです。私からもきつく言っておいたので、今回は許してあげてくださいね」 颯太は気まずそうに目を伏せた。 「姉ちゃん……」 その声はあまりにも小さく、周囲のざわめきにかき消され、真由には届かなかった。 最後に、真由は私を晃の前へ連れていき、そのまま甘えるように彼の胸に寄り添った。 「それから、この人が私の夫で――」 私は笑みを崩さないまま、彼女の言葉を遮った。 「北村晃。この店のオーナーですよね」 真由は目を見開いたまま、晃と私の顔を見比べた。 「どうして知ってるんですか?お二人、前からお知り合いだったんですか?」 私は小さく笑い、口を挟むなと言いたげな晃の視線を受け止めて、ゆっくり口を開いた。 「だって、晃は私の恋人ですから。私たち、7年付き合ってるんです。つい最近まで、結婚式の準備もしてました。 この店だって、もともとは晃が私に買ってくれたものなんです。そんなことも聞いてないんですか?」 あの頃、私は何気なく「毎日ここに座って海を眺められたらいいのに」と口にした。 すると翌日、晃は26歳の誕生日祝いに、この店を買ってくれた。 半年前、晃から会社が資金難に陥っていると聞かされ、立て直しの足しにするため、この店を手放すことに同意した。 けれど今思えば、それも晃の嘘だった。 「中川先生、何を言ってるんですか?」 真由は目に涙を浮かべ、晃を振り返った。 「私と晃は1年前に入籍したんです。それなのに、晃が先生の恋人って、どういうことなんですか?」 晃はさっと顔色を変えた。 「真由、話を聞いてくれ……」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が一気に冷えた。 裏切られたのは私なのに、晃が必死に取り繕おうとしている相手は真由だった。 思わず乾いた笑いが漏れた。もう黙っていられず、私は知っていることを一つずつ口にした。 「晃の腰に傷跡があるの、知ってますか?4年前、病院で患者の家族が暴れたとき、私をかばって負った傷です。 それから、晃がいつも身につけてるお守りも、私が神社で授かってきたものです…… 晃の婚約者は私です。あなたは、ただの浮気相手ですよ」 「瑞希、もういい加減にしろ!」 真由の目に涙がにじんだ途端、晃が声を荒らげた。私を見る目は、ひどく冷たかった。朋美と颯太も、責めるような目を向けていた。 「私、何か間違ったこと言った?いい加減、自分たちが何をしたか認めたら?」 晃は泣きながら震える真由を抱き寄せ、低い声で言った。 「瑞希、真由は何も知らなかったんだ。言いたいことがあるなら俺に言え。真由を責めるのはやめろ」 朋美も一歩前に出て、きつい口調で言い放った。 「瑞希、いい加減分かりなよ。晃さんが選んだのは真由なの。瑞希のことなんて、とっくに愛してないんだよ」 颯太も意を決したように口を開いた。 「姉ちゃん、ここまで分かったなら、もう身を引いてよ。真由は命懸けで晃さんの子を産んだんだ。今日ここでどれだけ騒いでも、もうどうにもならないよ」 次々と浴びせられる言葉に、目の奥が熱くなった。今にも涙がこぼれそうだった。 「だからって、みんなで私を陥れて仕事から外したうえに、右手まで折るような目に遭わせた。それで許されると思ってるの?」 悔しさと怒りが、胸の奥から一気に込み上げた。 私は真由をにらみ、それからその場にいる全員を見回した。 「彼女が晃の浮気相手だって、みんな知ってたんでしょ。それなのに、私にはずっと黙ってた。違う?」 私が言い終わるのも待たず、朋美は手にしていたグラスの水を、私の頭から浴びせた。 冷たい水が髪を濡らし、頬を伝って滴り落ちた。胸の奥まで冷え切っていくようだった。 朋美は私をにらみつけ、吐き捨てるように言った。 「瑞希、いい加減目を覚ましなよ。捨てられたのはあんたのほう。真由じゃないんだよ」 第3話 真由がすすり泣く中、朋美は怒りに任せて私の腕をつかみ、そのまま二階の一室へ引っ張っていった。 そこはかつて、私と晃が二人きりで過ごしていた部屋だった。 病院から近かったので、手術を終えて疲れ切っているときは、晃がいつも私をここへ連れてきて、ひと息つかせてくれた。 忙しくなると食事を忘れてしまう私のために、簡単につまめるものを作り、弁当バッグに入れて用意しておいてくれた。 私の首の調子が悪いと知ると、わざわざマッサージチェアまで用意してくれた…… そんな何気ない優しさを、私は愛だと信じていた。 けれど今、そこは赤ん坊のための部屋に変わっていた。 ベビーベッドやおむつ替え台、子どものおもちゃが、部屋のあちこちに置かれていた。 「晃さんが本当に愛してるのは真由だけ。瑞希に抱いてたのは愛情なんかじゃない。心臓病を治してもらった恩を、愛だと勘違いしてただけなんだよ」 私は言葉を失った。 「どういう意味?」 朋美は何も答えず、憐れむように私を見ただけだった。 そして、壁の前に下ろされていたプロジェクタースクリーンを巻き上げた。 その裏から現れたのは、壁いっぱいに貼られた写真だった。 どの写真にも、晃と真由が二人で写っていた。 スキーを楽しむ二人。湖のほとりで夕日を眺める二人。小舟で水路を巡る二人…… 「二人は3年前から付き合ってたの。 去年の瑞希の誕生日も、晃さんは出張なんかしてなかった。私と颯太も、新婚旅行に行ってたわけじゃない」 朋美は私のそばまで来ると、壁の中央に飾られた結婚写真を指さした。 「みんなでフランスに行って、二人の結婚式に出たの。私たちも二人を祝福した。 あの病院での騒ぎだって、晃さんが仕組んだの。真由が晃さんの妻だと知ったら、瑞希がちゃんと治療してくれなくなるかもしれないと思ったから。だから、今まで隠してたの」 目の前の朋美が、まるで別人に見えた。 こんな言葉が、どうして彼女の口から出てくるのか、どうしても理解できなかった。 ついこの間、朋美と颯太の結婚式では、朋美がたった一人のブライズメイドだった私にブーケを手渡し、「瑞希も本当に愛する人と結婚して、ずっと幸せでいてね」と祝ってくれた。 晃にも、もし私を裏切ったら絶対に許さないとまで言っていた。 なのに今は、真由に手を貸し、私の幸せを奪う側に回っている。そのうえ、捨てられたのは私のほうだと言い放った。 こらえていた涙が、とうとうこぼれた。 悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。 ただ、これまで信じてきたものが、全部壊れてしまった。 それだけは分かった。 「それなら」 ちょうどそのとき、ドアが開き、晃と真由、それに颯太が入ってきた。 私は晃と真由をまっすぐ見て、はっきりと言った。 「私はもう身を引く。あとは二人で好きにすればいい」 「中川先生……」 「瑞希、何を言ってるんだ?」 二人は呆然と私を見つめた。 私は薬指にはめていた婚約指輪を外し、真由の手のひらに置いた。 「末永くお幸せに。家族三人、いつまでも仲良く暮らしてください」 朋美と颯太は、何も言えずにその場に立ち尽くしていた。 晃は何か言いかけた。 けれど、もう何も聞きたくなかった。 私は二人の横をすり抜け、そのまま部屋を出た。 第4話 翌日、家を売りに出したと知った晃が、慌てて帰ってきた。 晃は荷造りをしていた私の腕をつかみ、無理やり立たせた。 「瑞希、どういうつもりだ?俺たちの家を勝手に売るなんて、正気か?」 押し殺していた感情が、ついに一気にあふれ出した。 私は思わず鼻で笑い、晃の頬を思いきり平手で打った。 家? よくもまだ、そんな言葉を口にできたものだ。 「私をずっと騙して、そんなに楽しかった?」 叩かれた晃は怒らなかった。 いつもの喧嘩のあとと同じように、自分から声を和らげた。 「これで少しは気が済んだか?騙してたことは悪かった。でも、俺たちは7年も一緒にいたんだ。こんなふうに、はい終わりってわけにはいかないだろ。 俺の命はお前に救ってもらったんだ。そんなお前を、本気で捨てるわけないだろ」 これ以上、白々しい言葉を聞きたくなくて、私はその場を離れようとした。 けれど晃はすぐに回り込んで行く手を塞ぎ、逃がすまいと強く抱きしめた。 「真由は、うちの会社の前副社長の娘なんだ。父親が亡くなる前に、あの子のことを頼むって言い残したんだよ。 俺が最低だった。真由と関係を持ったことは認める……何度も別れようとした。でも、真由は分離不安がひどくて、別れ話を出すたびに自分を傷つけようとしたんだ。あんな姿を見たら、突き放せなかった」 晃は私を抱く腕に力を込め、耳元で縋るように囁いた。 「瑞希、俺は一度だって、お前と別れるつもりなんかなかった。お前も真由も、俺にとって大事なんだ。どっちかを傷つけるなんて、俺にはできない。 だから、このことは知らなかったことにしてくれないか?俺たちは今までどおりでいよう。お前のことも今までと変わらず大事にするし、何一つ不自由させない。だから、な?」 あまりの身勝手さに吐き気がして、返す言葉もなかった。 晃はそれを、私が折れたのだと都合よく受け取ったらしい。 私を抱いていた腕をほどくと、何事もなかったかのようにキッチンへ向かった。 「今日はまだ何も食べてないだろ?お前の好きなものでも作ってやるよ」 ところが、晃がキッチンに入った瞬間、玄関からドンッと大きな音がした。 次の瞬間、颯太が玄関のドアを蹴り開けて飛び込んできた。 何が起きたのか理解するより早く、朋美が駆け寄ってきて、私の頬を力いっぱい平手打ちした。 「瑞希!真由の子どもをどこへやったの!?」 その後ろから入ってきた真由は、私を見るなり、その場にひざまずいた。 「中川先生、お願いします。あの子を返してください!晃のことは諦めます。だから、どうか子どもには何もしないで……」 晃の顔から、さっきまでの優しげな表情が一瞬で消えた。 「何だって?子どもがいなくなったのか?」 「真由がさっき、あの子を予防接種に連れていったの。受付を済ませて戻ったら、もういなくなってたの!」 朋美は目を真っ赤にして叫んだ。 「こんなことするの、瑞希しかいないでしょ!」 その言葉を聞いた瞬間、晃の額に青筋が浮かんだ。 次の瞬間、晃は私に詰め寄り、首に手をかけて力任せに締め上げた。 「誰かにさらわせたのか?瑞希、正気か!」 息ができないほど強く首を締めつけられ、私は必死に晃の指を引きはがしながら、かすれた声を絞り出した。 「私じゃない……私は医者なのよ。子どもをさらうわけないでしょ!」 床にへたり込んだ真由が、泣きながら訴えた。 「お願いします、中川先生。あの子に何かあったら、私も生きていけません……」 晃は私を乱暴に突き放し、血走った目でにらみつけた。 「早く言え!あの子をどこへやった!」 「やってないって言ってるでしょ!どうして誰も私を信じてくれないの?」 「お前以外に誰がいるんだよ!」 少し離れたところにいた颯太も、冷たい目で私を見ていた。 かつて私のために必死で弁護してくれた弟とは、まるで別人だった。 「姉ちゃん、今すぐ本当のことを話して。さもないと、俺も法的手段を取るしかない」 私が首を横に振ると、朋美は怒りに任せて私の髪をつかみ、そのまま物置へ引きずり込んだ。 朋美は慣れた手つきで棚を開け、中から除細動器を取り出した。 電極パッドの包装を破ると、私の胸元に押しつけた。 「瑞希、あんた最低だよ。あんな小さな子をさらわせるなんて、どうかしてる! まだ言わないつもり?本当に、こんなことまでさせる気?」 朋美は、私が電気ショックを何よりも恐れていることも、どうすれば口を割るかも知っていた。 けれど、やってもいないことを、いったい何と白状すればいいのか。 「言わないあんたが悪いんだからね!」 ついにしびれを切らした朋美は、ためらいもなく放電ボタンを押した。 次の瞬間、激しい衝撃が全身を走った。 体がびくりと跳ね、そのまま床に崩れ落ちた。 後頭部を強く打ちつけ、目の前で白い光が弾けた。 その直後、太ももの内側を生温かいものが伝っていった。 誰もが言葉を失った。 晃の顔がこわばった。 「瑞希、お前……」 そのとき、リビングのほうから警察官の声が聞こえた。 「行方不明になっていた赤ちゃんが見つかりました。ご家族の方は至急、病院へ向かってください」 朋美の手から除細動器が滑り落ち、床に鈍い音が響いた。 その知らせを聞いた途端、皆の顔に安堵が広がった。 互いを押しのけるように部屋を飛び出し、先を争って家を出ていった。 私を気にかける者は、誰もいなかった。 その場に取り残された私は、スカートにじわじわと広がる赤い染みを、ただ見つめていた。 涙が頬を伝って落ちた。 数時間後、彼らは赤ん坊を抱いて戻ってきた。 リビングに足を踏み入れた途端、全員がその場に立ち尽くした。 床には血の跡が残り、テーブルの上には検査結果の書類とUSBメモリが置かれていた。 彼らが詫びのつもりで買ってきたらしい苺のケーキが、床に落ちた。 晃は震える手で書類を取り上げ、目を走らせた。 読み進めるうちに、その顔からさっと血の気が引いていった。