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豪雨の結婚式の日、私は家族を捨てた
母は、異例の若さで気象予報部門の幹部になった、国内でも名の知れた気象の専門家だった。 72時間先の台風の進路すら正確に予測し、豪雨の警戒...
Chương (1)
第1章
母は、異例の若さで気象予報部門の幹部になった、国内でも名の知れた気象の専門家だった。
72時間先の台風の進路すら正確に予測し、豪雨の警戒情報を町名単位で出せるほどだ。
それなのに、私の27年の人生で、母が私のつらさをちゃんと見てくれたことは一度もなかった。
婚約パーティーの夜でさえ、母は3時間も遅れてきた。理由は、妹のライブ配信画面で顔がむくんで見えるからと、照明の調整に付き合っていたのだ。
母はいつも私に言っていた。
「美幸はお姉さんなんだから、もっとお姉さんらしく振る舞いなさい」
そして、私の結婚式の日。外は記録的な豪雨だった。
私は雨を吸って重くなったウエディングドレスを握りしめ、母に7回目の電話をかけた。
「お母さん、雨風がいちばん弱まる時間を見てもらえない?結婚式を2時間遅らせることになってもいいから」
電話の向こうでは、キーボードを打つ音が止まらなかった。母の声は淡々としていた。
「わがままを言わないで。天気予報チームは、あなた1人の都合で動かせるものじゃない。みんな忙しいの。あなたの結婚式だけに構っていられないでしょう」
けれど、その30分後。母は妹が初めて商品を販売するライブ配信のために、天気予報チームのスタッフ全員を呼び戻していた。
足首まで水につかったホテルの入口で、私の婚約者の佐伯浩二(さえき こうじ)が傘を差し、妹の桐谷望(きりたに のぞみ)をかばうようにして車から降ろすところを、私は見てしまった。
第1話
母は、異例の若さで気象予報部門の幹部になった、国内でも名の知れた気象の専門家だった。
72時間先の台風の進路すら正確に予測し、豪雨の警戒情報を町名単位で出せるほどだ。
それなのに、私の27年の人生で、母が私のつらさをちゃんと見てくれたことは一度もなかった。
婚約パーティーの夜でさえ、母は3時間も遅れてきた。理由は、妹のライブ配信画面で顔がむくんで見えるからと、照明の調整に付き合っていたのだ。
母はいつも私に言っていた。
「美幸はお姉さんなんだから、もっとお姉さんらしく振る舞いなさい」
そして、私の結婚式の日。外は記録的な豪雨だった。
私は雨を吸って重くなったウエディングドレスを握りしめ、母に7回目の電話をかけた。
「お母さん、雨風がいちばん弱まる時間を見てもらえない?結婚式を2時間遅らせることになってもいいから」
電話の向こうでは、キーボードを打つ音が止まらなかった。母の声は淡々としていた。
「わがままを言わないで。天気予報チームは、あなた1人の都合で動かせるものじゃない。みんな忙しいの。あなたの結婚式だけに構っていられないでしょう」
けれど、その30分後。母は妹が初めて商品を販売するライブ配信のために、天気予報チームのスタッフ全員を呼び戻していた。
足首まで水につかったホテルの入口で、私の婚約者の佐伯浩二(さえき こうじ)が傘を差し、妹の桐谷望(きりたに のぞみ)をかばうようにして車から降ろすところを、私は見てしまった。
望は目を赤くして言った。
「お姉ちゃん、ごめんね。結婚式の日なのに、浩二さんに迎えに来てもらって……お母さんが、雨でびしょ濡れになったら、私の初めてのライブコマースが台なしになるって言うから……」
浩二はうつむき、望のまつげについた雨粒を拭った。それから私を振り返り、笑った。
「美幸はいつも分かってくれるよね。今日も少しだけ我慢してくれ」
その瞬間、雷鳴が轟いた。
私はふいに、もう結婚したくないと思った。
天気予報で誰の目にも留まらない雲のように、いつまでも見過ごされる生き方も、もうやめようと思った。
……
控室のドアが強風で開いたとき、ヘアメイクの人は床にしゃがみ込み、私のドレスの裾から水を絞っていた。
彼女の手は震えていた。
「桐谷さん、式場のほうにも水が入っています。音響さんも、メインの音響卓が式の終わりまでもたないかもしれないって言っていました。少し待ちますか?」
私はスマホを見た。
母への8回目の電話をかけたが、また話し中だった。
画面に、望のライブ配信通知が出る。
【桐谷望、豪雨の中でライブコマースデビュー!第一線の専門家である母親が自らサポート!】
この世には本当に、母が振り向くほど大切なものがあるんだ。
けれど、その先に私がいたことは、一度もなかった。
私はスマホでライブ配信の画面を開いた。
配信会場は、この披露宴会場と同じホテルの別フロアに設けられている。
望は柔らかな照明の下に座り、完璧にメイクを整えていた。その後ろには、母のチームが勢ぞろいしている。
母は望の肩に上着を掛け、声を潜めて言った。
「画面の前で眉をひそめないの。見ている人が心配するでしょう」
コメント欄は称賛で埋まっていた。
【お母さん、優しすぎる】
【望ちゃん、幸せだね。髪の乱れまで気づいてくれるなんて】
私は自分の濡れた髪にそっと触れた。
毛先からは、まだ水が滴っていた。
やがて配信画面が休憩中の表示に切り替わった。
その直後、控室のドアが開いた。
休憩の合間を縫って来たらしい。浩二が望を支えながら入ってくる。
私を見るなり、望の目に涙が浮かんだ。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。浩二さんが先に私を迎えに来てくれるなんて、本当に知らなかったの」
浩二は眉をひそめて私を見た。
「そんな目で望を見るな。さっき風にあおられて、危うく転ぶところだったんだぞ」
私は何も言わなかった。
ヘアメイクの人が気まずそうに目を伏せる。
そのとき、浩二はびしょ濡れの私のスカートの裾へ視線を移した。
彼はわずかに眉をひそめ、私のほうへ手を伸ばしかけた。
「浩二さん……」
望が小さく咳をした。
浩二の手は宙で止まった。
次の瞬間、浩二は望を支えるように抱き寄せると、再び冷たい口調で言った。
「式は予定どおりやる。美幸のお母さんが言ってた。あと15分もすれば雨は少し弱まるって。だから、もう駄々をこねるな」
私は思わず笑った。
「お母さんに聞いたの?」
「何を?」
「雨風が弱まる時間帯」
浩二は言葉に詰まった。
私は彼の目をまっすぐ見つめた。
「私はお母さんに7回も電話して調べてほしいと頼んだ。でも、私1人の都合で、天気予報チームを動かすことはできないって言われた。なのに、どうしてあなたが聞くと教えてくれたの?」
望が慌てて浩二の袖をつかんだ。
「お姉ちゃん、お母さんを責めないで。私が急に天気の状況を知る必要になっただけなの。浩二さんも、ただ私の代わりに聞いてくれただけで……」
本当に、ばかみたいだった。
みんな、結婚式に何かあったら困るって心配するのに、私がどうなろうと誰も気にしない。
そのとき、控室のドアの外から司会者の声が聞こえた。
「新婦様、ご入場の準備をお願いいたします」
浩二が私の手を取ろうとした。
「先に式を済ませよう。話は家に帰ってからでもいいだろ。今日は親族も大勢来てるんだ。これ以上、両家に恥をかかせるな」
私はその手を避け、左手の薬指から指輪を外した。
浩二の表情が一瞬で険しくなる。
「美幸、どういうつもりだ?」
私は指輪をドレッサーの上に置いた。
「結婚式は中止よ」
望が息をのんだ。涙が頬を伝う。
「お姉ちゃん、私のせいで怒ってるの?だったら、もうライブ配信なんてやめる。今すぐお母さんに言ってくるから……」
そう言って背を向けた彼女は、一歩踏み出した途端に足を滑らせ、そのまま浩二の胸へ倒れ込んだ。
浩二は反射的に彼女を抱き留めた。
まるで何よりも大切なものを守るように強く抱き寄せ、声を荒らげた。
「いい加減にしろ。望はこんなに自分を責めてるんだぞ。これ以上、どうしろっていうんだ!」
私はその場に立ち尽くし、こわばった浩二の横顔を見ていた。
この人は本来なら、今日、みんなの前で私に一生の愛を誓うはずだった。
それなのに今は、別の人を何より大切なもののように抱きしめている。
私は自分のバッグを取り、2人の横を通り過ぎた。
披露宴会場の入口まで来たところで、浩二の母が親族を連れて立ちふさがった。
バッグを手に出口へ向かう私の姿を見て、その顔がみるみる険しくなる。
「美幸さん、今日ここを出ていったら、佐伯家の面目はどうなると思ってるの?」
私は静かに答えた。
「それは、私には関係ありません」
会場が一斉にざわめいた。
けれど、そのざわめきはもう耳に入らなかった。
そのとき、母から電話がかかってきた。
電話に出た瞬間、母は事情を尋ねることもなく、怒りを押し殺した声で、ただ命じた。
「美幸、今すぐ戻って、式を続けなさい」
私は披露宴会場のスクリーンで次々と映し出されるウェディングフォトを見つめ、胸の奥から笑いがこみ上げた。
「お母さん、私、結婚しない」
電話の向こうが、ほんの一瞬だけ静かになる。
そして間もなくして、冷え切った声が返ってきた。
「やれるものならやってみなさい」
だが、母が言い終える前に、会場の大型スクリーンの映像が突然乱れ、すべての画面が真っ暗になった。
その直後、ステージの奥から鈍い破裂音が響いた。
会場のあちこちから悲鳴が上がった。
暗闇の中、私は誰かに強く突き飛ばされた。
冷たい水たまりの中に倒れ込んだそのとき、浩二が望を抱きかかえ、出口へ駆けていく気配がした。
同時に、電話の向こうから母が切羽詰まった声を上げる。
「望は?望は無事なの?」
第2話
誰かに指を踏まれた瞬間、痛みで意識が遠のきそうになった。
停電した披露宴会場は、あっという間に混乱に包まれた。
装飾が床に落ち、砕けた破片が私のふくらはぎに刺さっている。
スマホは、まだ耳に当たったままだった。
電話の向こうで、母がようやく私の荒い息に気づいた。
それでも母が最初に口にしたのはやっぱりこれだった。
「美幸、望はそばにいるの?浩二さんに電話を代わって」
私は水たまりに倒れたまま、人に踏まれた指を動かすこともできなかった。
「お母さん、私、転んだの」
電話の向こうが、一瞬静まった。
そして母は、声を落として尋ねた。
「どこをケガしたの?」
喉の奥が熱くなった。
27年間生きてきて、母がこんなふうに私を気遣ったことなんて、ほとんどなかった。
けれど、私が答えるより先に、電話の向こうから望のアシスタントの泣き声が聞こえた。
「すみません。望さんがまだ戻ってきません。休憩はもう終わっているのに、電話にも出なくて……何かあったんじゃないかって、みんな心配しています」
その瞬間、母の迷いは跡形もなく消えた。
「転んだくらいで大げさにしないの。自分で立ちなさい。今は望の無事を確認することが先よ。あの子は喘息持ちなんだから、発作でも起こしたら大変なの」
私は歯を食いしばって、体を起こした。
けれど足に力が入らず、また割れたガラスの上に膝をついた。
鋭い痛みが骨の奥まで突き刺さった。
周りで誰かが叫んだ。
「新婦さんが、まだ中にいるぞ!」
そのとき、入口のほうから浩二の声が聞こえた。
「美幸!動くな、今すぐ――」
彼が言い終える前に、望が涙声で咳き込みながら叫ぶ。
「浩二さん、息が……苦しい……」
浩二の足音が止まった。ほんの1秒だけ。
次の瞬間には、望を抱き上げ、張りつめた声で言った。
「先に車へ連れていく」
私は小さく笑った。電話の向こうで、母が苛立ったように言う。
「何がおかしいの?」
「別に」
「美幸、こんなときに意地を張らないで。望はあなたのせいで初ライフコマースを中断することになったのよ。私も戻って対応しなきゃならないんだから」
私は、人に踏まれて紫色に変わった自分の指を見つめた。
「だから?」
「だから、今すぐ会場に戻って、佐伯家の皆さんに事情を説明するの。大雨の影響で会場設備にトラブルが起きただけで、婚約を破棄したわけじゃないって」
母はそこで一度言葉を切り、付け加えた。
「望を巻き込むようなことだけはしないで」
その一言が、針のように耳を貫き、胸の奥へ突き刺さった。
痛みはまだ続いている。
それなのに、私はもう何も言えなかった。
このままここで動けなくなっても、それでもいいのかもしれない。
そう思った、そのときだった。人の波を押し分けるように誰かが入ってきた。
黒いレインコートを着た男性が、まっすぐ私のもとへ駆け寄ってきた。
しばらく見つめて、ようやく長瀬仁(ながせ ひとし)だとわかった。
海洋気候共同プロジェクトの最年少の責任者で、3か月前の審査会で、ただ1人、私をかばって机をたたいてくれた人だった。
彼は私の脚から流れる血を見た瞬間、表情を変えた。
「美幸、立てるか?」
私は首を横に振った。
彼は何も聞かなかった。黙ってレインコートを脱いで私を包むと、そのまま抱き上げた。
私のそばから聞こえた男性の声に気づき、電話の向こうの母は、とたんに警戒したような声を上げる。
「美幸、誰と一緒にいるの?」
仁は私を抱えたまま、出口へ向かう。
私はスマホを耳から離した。
それでも母の鋭い声は、はっきりと聞こえてきた。
「美幸、今日のあなたの立場を忘れないで。結婚式の最中に見知らぬ男性と一緒に出ていったら、望がどんな目で見られると思ってるの!」
私は薄暗い廊下の先にある出口を見つめた。
豪雨の中で、そこだけが唯一、光の差す場所のようだった。
私は静かに口を開く。
「お母さん。さっき私が中に閉じ込められていたとき、お母さんは望のことを3回も聞いたよね。でも、私には一度も『痛くない?』って聞いてくれなかった」
電話の向こうが静まり返る。
けれど母が返したのは、低く抑えた声だった。
「今になって私を責めるつもり?」
仁の腕に、少し力がこもった。
私は目を閉じた。
「違う。知らせているだけ。この結婚は、もうやめる」
そう言って、私は電話を切った。
ホテルの前では、救急車と消防車の赤い灯が雨の中で交錯していた。
望は浩二のジャケットを肩に掛けてもらい、彼の腕の中で泣いている。
一方の私は、全身ずぶぬれで、脚は血に染まり、この結婚式でいちばん惨めな姿をさらしていた。
そのとき、浩二が私に気づいた。
彼の視線は、仁が私を抱く腕へと向かい、顔色が変わる。
「そいつは誰なんだ?美幸、今すぐそいつから離れろ」
仁は相手にしなかった。
浩二は駆け寄ると、車のドアを押さえ、張りつめた声で言った。
「美幸、こんなことで意地を張るな。今そいつと行ったら、今日のことは本当に取り返しがつかなくなるぞ」
私は仁の腕にもたれたまま、痛みで息をするのもつらかった。
救急車のドアが、ゆっくり閉まる。
激しい雨音も、誰かの叫び声も、血の気を失った浩二の顔も、すべてドアの向こうへ閉ざされた。
私は車窓にもたれ、もう耐えきれずに、涙を静かにこぼした。
第3話
病院の救急外来。
仁は私を処置室の前まで運んでくれたが、看護師に止められた。
「ご家族以外は入れません。先に受付を済ませてください。傷を縫いますので」
彼は眉をひそめて私を一瞥すると、びしょ濡れの黒いレインコートを私のそばに置いた。
「美幸、あの人たちから電話が来ても出ないで。すぐ戻る」
私はうなずいた。
けれど、仁が戻ってくるより早く、電話に着信があった。
麻酔を打ち終えたばかりのころ、枕元に置いたスマホが何度も震え始めた。
十数件の不在着信のあと、病室のドアが勢いよく開く。
母が立っていた。
その後ろには、浩二と浩二の母、それから目を真っ赤にした望がいた。
母の視線は、真っ先に私のそばに置かれた黒いレインコートへ向かった。
その表情が一瞬で冷え切る。
「あの男は?」
私が口を開く前に、浩二の母が一束の写真をベッドへ叩きつけた。
写っていたのは、仁が私を抱きかかえて救急車へ運ぶ場面だった。
激しい雨と乱れた照明のせいで、まるで2人で駆け落ちした瞬間を撮ったような構図になっている。
浩二の母は、声を荒らげた。
「佐伯家にも世間体というものがあります。桐谷家のお嬢さんの不始末を、こちらがかぶる筋合いはありません。今日のことは、きちんと説明してもらいます」
母は1枚の写真を拾い上げた。
しばらく見つめると、それを私の前へ置く。
「説明して」
傷を縫ったばかりで、麻酔もまだ完全には切れていない。
体を起こすだけでもやっとだった。
「この人は、私を助けてくれただけ」
「誰が彼を呼んだの?」
私は言葉を失った。
母の顔に浮かんでいたのは、心配ではなかった。侮辱を受けたかのような、冷たく険しい怒りだけだった。
「結婚式にはあれだけ人がいたでしょう。浩二さんも、佐伯家の皆さんも、救急隊もいた。それなのに、どうしてわざわざ赤の他人に抱きかかえられて出てきたの?
今、ネットで望が何て言われているか分かってる?」
私は母を見つめた。
「望が何て言われてるの?」
望は涙をこぼしながら首を振る。
「お姉ちゃん……もういいよ。お願い、やめて……」
浩二がスマホを私の前へ差し出した。
トレンドに表示された見出しが、目に刺さる。
【#桐谷望、姉の結婚式を台無しにした疑惑】
コメント欄には、こんな言葉が並んでいた。
【仮病じゃないの?】
【姉の婚約者を奪った】
【母親まで独占してる】
望は今にも立っていられないほど泣き崩れた。
「お姉ちゃん、私は怖くて、浩二さんにそばにいてもらっただけなのに……どうしてみんな、こんなにひどいこと言うの……?」
母はスマホを取り上げると、冷たく私を見た。
「今すぐSNSに投稿しなさい。浩二さんとは天候の影響で挙式を延期しただけ。望には何の落ち度もない。それから、あの男性はたまたま助けてくれた人だって、きちんと説明するの」
一つひとつ、母は迷いなく指示を並べていく。
私の人生も、私の傷も、私の婚約破棄も。母にとっては、ただ鎮めなければならない炎上でしかなかった。
私は小さく笑った。
「嫌だと言ったら?」
母はバッグから1枚の書類を取り出し、ベッド脇に置いた。
私の勤務先宛ての申入書だった。そこには、私が精神的に不安定な状態にあり、海外派遣の適性を改めて確認してほしいと書かれている。
「言うことを聞かないなら、これをあなたの勤務先に提出するわ。海外派遣に問題がないか、産業医に判断してもらうようにね」
指先から、すっと血の気が引いた。
私は3年かけて、国の海洋気候共同プロジェクトへの参加を目指してきた。
最終審査は、まさに今週だった。
もし母の訴えを理由に「情緒が不安定で、海外派遣には不適格」という記録が残れば、これまで積み重ねてきたものはすべて水の泡になる。
私は母を見つめた。
「私の仕事まで潰すつもり?」
母は少しも目をそらさなかった。
「あなたを守るためよ。今のあなたは感情的になっていて、何が大事か見えていない。落ち着けば、きっと私に感謝する」
感謝。
その言葉を聞いた瞬間、胸の中がぽっかりと空いた。
人を壊しておきながら、どうしてこんなにも自分が正しいと言い切れるのだろう。
浩二は私の青ざめた顔を見ると、ようやく声を和らげた。
「美幸、お母さんの言うとおりにしよう。投稿して。式は改めて挙げられるし、海外派遣だって、また今度挑戦すればいい」
また今度。
みんな、いつだって「また今度」と言って、私が今ほしいものを奪っていく。
そのとき、望が私のベッドの前まで来ると、その場にひざまずき、私の掛け布団の端をつかんだ。
「お姉ちゃん、お願い……助けて。私、本当にこんなにたくさんの人に責められるなんて耐えられないの……」
肩を震わせて泣く望を見て、母は慌ててかがみ込み、その体を支えた。
「望、立ちなさい。床は冷えるでしょう」
そして私を見る母の目だけが、再び命令に変わる。
「美幸、投稿しなさい」
私はスマホを手に取った。
浩二は包帯だらけの私の指を見つめ、小さく喉を鳴らす。何か言いたげにベッドへ半歩近づいた。
けれど母と目が合うと、結局視線を落とし、早く投稿しろと言わんばかりに、私の手の中のスマホを指さした。
「美幸、もうこれ以上、大ごとにしないでくれ」
その瞬間、胸を強く締めつけていたものが、突然切れた気がした。
痛みは限界を越え、最後には何も感じなくなる。
私はSNSを開いた。
全員が見守る中、2行だけの投稿を打ち込んだ。
【結婚式は取りやめます】
【佐伯浩二さんとは、本日をもって一切の関係を絶ちます】
送信。
病室は、死んだように静まり返った。
次の瞬間、母が手を振り上げ、乾いた音とともに私の頬を強く打った。
第4話
頬を打たれ、顔が横へ弾かれる。切れた口の端から、血がにじんだ。
母の瞳が、わずかに揺れる。叩いた手が宙で止まった。目の前にいるのが自分の娘だと、ようやく気づいたようだった。
私は母を見つめ、静かに尋ねた。
「お母さん、今になって手を止めるの?」
母の喉が小さく動く。
その瞬間、望が泣き崩れた。
「お姉ちゃん、そんなふうにお母さんを見ないで……悪いのは私だから、お母さんを責めないで……お願い……」
母の目に浮かんだ一瞬の動揺は、たちまち怒りに塗りつぶされた。
「望がここまで言ってるのに、それでもこの子を謝らせる気なの?」
パシッ――
二度目の平手打ちが飛んだ。
耳の奥でキーンという音が鳴り響き、頬の感覚が完全に消えた。
浩二が思わず一歩踏み出す。
しかし母が彼の腕をつかみ、冷たく言い放つ。
「母親が娘をしつけているだけよ。浩二さんが口を挟むことじゃないわ」
望は口元を押さえ、涙を流す。
「お母さん……もうお姉ちゃんを叩かないで。お姉ちゃんだって、つらいんだから……」
その言葉を聞いた母の目は、さらに険しくなった。
「つらいからって、周りを巻き込んでもいいっていうの?」
母は私のスマホを奪い取り、私の指を無理やり押し当ててロックを解除した。
私は抵抗した。
その拍子に脚の傷が引きつり、真っ白な包帯が瞬く間に赤く染まる。
母はスマホを浩二へ投げるように渡した。
「先の投稿を削除して、代わりに訂正文を投稿しなさい。美幸は転倒したショックで気が動転し、事実とは異なることを書いてしまった。結婚式は中止ではなく延期。望に関する噂も事実無根――そういう内容で」
浩二はスマホを持ったまま、ためらっていた。
私は彼を見つめる。
「……やってみたら」
彼は私と目を合わせようとしなかった。
「美幸、まずは落ち着こう。ケガもしてるんだ。これ以上、ことを大きくするな」
そう言うと、彼は画面に視線を落とし、文字を打ち始めた。
私は、ふっと笑ってしまった。
痛みが限界を超えると、人は本当に涙も出なくなる。
母は私から目を離すと、医師に向かって言った。
「先生、この子に鎮静剤をお願いします。明らかに情緒不安定で、正常な判断ができていません」
医師は戸惑った表情を浮かべる。
「すみません。患者さんの意識ははっきりしています。現時点で鎮静剤を使うほどではありません」
母はバッグから身分証を取り出し、有無を言わせぬ口調で続けた。
「私はこの子の母親です。それに、災害対策委員会の顧問でもあります。この子は昨夜、大きな精神的ショックを受けていて、自傷行為や突発的な行動に出るおそれがあります。適切に対応してください」
母はそう言って、私の「正常」を、「病気」にすり替えた。
看護師が困ったように私を見る。
私は布団の端を握りしめ、かすれた声で言った。
「……違います」
母はまばたきひとつしなかった。
「本人に病識がないケースも少なくありません」
そのときだった。
望が突然、壁にもたれかかりながら弱々しくつぶやく。
「お母さん、頭がくらくらする……」
母は反射的に私から離れ、望を抱きしめた。
「望、大丈夫?また息が苦しいの?」
浩二もすぐに駆け寄る。
浩二の母は慌てて医師を呼んだ。
病室のなかの全員が望のほうへ向かい、私に背を向けた。
私はベッドに横たわったまま、叩かれた頬の熱を感じていた。
脚の傷口はまた開き、スマホは浩二に取り上げられ、仕事さえ、母は奪おうとしていた。
しまいには、正気でいることさえ「情緒不安定」と決めつけられようとしている。
その瞬間、私はずっと昔のことを思い出した。
12歳のあの日。
豪雨の日に転んで腕を骨折した。
泣きながら母に電話すると、返ってきたのはこんな言葉だった。
「今日は望の司会コンテストの日なの。あの子は緊張しやすいんだから。自分で保健室へ行きなさい。お母さんを困らせないで」
私は保健室で、日が暮れるまでひとりきりで待っていた。
ようやく母が迎えに来て、最初に言ったのは――
「望が一等賞を取ったのよ。お姉ちゃんなんだから、一緒に喜んであげなさい」
私は、何年も望のために喜び続けた。そして何年も、自分の痛みに耐えた。
それでも、あの人たちには足りないらしい。
みんなが望を取り囲んでいる隙に、看護師がそっと私の予備のスマホを布団の中へ滑り込ませた。
「裏口のエレベーターから出られます。早く!このままでは、本当にお母さんが鎮静剤を使わせるかもしれません」
私はスマホを握りしめ、歯を食いしばって布団をはねのけた。
足を床につけた瞬間、脚の傷が裂けた。血が包帯を伝って落ちる。
壁に手をつきながら、一歩、また一歩と裏口へ向かう。もう少しでドアノブに手が届く。
そのとき、背後から浩二の声がした。
「美幸」
全身がこわばった。
浩二の手には、私のスマホが握られていた。画面には、彼が勝手に書き換えた投稿。
【転倒のショックで気が動転し、事実とは異なる投稿をしてしまいました。結婚式は延期いたします。関係者への憶測や誹謗中傷はお控えください】
私は喉がひりつくような笑い声を漏らした。
「浩二……本当に最低」
彼の顔から血の気が引く。
「脚からまだ血が出てる。もうやめよう」
そう言って手を伸ばしてくる。
私はその手を思いきり振り払った。
背後のワゴンにぶつかり、トレーや医療器具が大きな音を立てて床に散らばった。
その音に重なるように、母の冷たい声が響いた。
「誰か、美幸を止めなさい」
何人もの足音が、一斉に私へ近づいてくる。
混乱の中、誰かの体が強くぶつかった。
後頭部がドア枠へ激しく打ちつけられる。
世界から、音が消えた。私は壁にもたれたまま、ゆっくりと崩れ落ちる。
視界が少しずつ暗くなっていく。
意識が途切れかけた、その瞬間――
廊下の奥で、轟音が響いた。
ドンッ!!
病室の扉が、外から勢いよく蹴り開けられた。