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桜が散るように、想いを手放す
新居の内装工事が終わった日、マスターベッドルームの壁に掛けてあった桜の絵が掛け替えられているのに気づいた。代わりに飾られているのは、...
Chương (1)
第1章
新居の内装工事が終わった日、マスターベッドルームの壁に掛けてあった桜の絵が掛け替えられているのに気づいた。代わりに飾られているのは、ひまわりの絵だ。
藤原景吾に尋ねると、彼はあっけらかんと答える。
「知花がこれがいいって言うから、ついでに変えておいたんだ。
どうせお前、こういうのよく分からないだろ」
だけど、あの桜の絵は、亡き母が私・林莉桜のために描いてくれたものだ。桜の絵がなくなった壁を見つめたまま、しばらく言葉が出ない。
また泣き出すとでも思ったのか、景吾は苛立ったような声を出す。
「たかが絵一枚で、大げさに騒ぐなよ。
知花は内装の手伝いをしてくれてるだけだ。お前よりセンスがいいしな」
後になって知った。変えられていたのは、あの絵だけじゃなかった。
ウォークインクローゼットの棚は、景吾の幼なじみ・逢坂知花の身長に合わせて高さを調整されていたし、キッチンの色も、彼女のお気に入りのミルキーホワイトになっていた。
ベッドサイドのランプも、「明るすぎると眠れない」という彼女の一言で、景吾がわざわざ取り替えたものだ。
ここは、私と景吾の新居になるはずだったのに。結局、私はただ住まわせてもらっているだけだ。
手のひらにある新居の鍵をじっと見つめている私に気づいて、景吾が眉をひそめる。「また何か文句があるのか?」
静かに首を振る。窓の外では、桜が満開に咲き誇っている。ふと、花が散る時は何の音もしないのだと思い出す。
私が彼への想いを手放す時と、同じように。
第1話
新居の内装工事が終わった日、マスターベッドルームの壁に掛けてあった桜の絵が掛け替えられているのに気づいた。代わりに飾られているのは、ひまわりの絵だ。
藤原景吾(ふじわら けいご)に尋ねると、彼はあっけらかんと答える。
「知花がこれがいいって言うから、ついでに変えておいたんだ。
どうせお前、こういうのよく分からないだろ」
だけど、あの桜の絵は、亡き母が私・林莉桜(はやし りお)のために描いてくれたものだ。桜の絵がなくなった壁を見つめたまま、しばらく言葉が出ない。
また泣き出すとでも思ったのか、景吾は苛立ったような声を出す。
「たかが絵一枚で、大げさに騒ぐなよ。
知花は内装の手伝いをしてくれてるだけだ。お前よりセンスがいいしな」
後になって知った。変えられていたのは、あの絵だけじゃなかった。
ウォークインクローゼットの棚は、景吾の幼なじみ・逢坂知花(おうさか ともか)の身長に合わせて高さを調整されていたし、キッチンの色も、彼女のお気に入りのミルキーホワイトになっていた。
ベッドサイドのランプも、「明るすぎると眠れない」という彼女の一言で、景吾がわざわざ取り替えたものだ。
ここは、私と景吾の新居になるはずだったのに。結局、私はただ住まわせてもらっているだけだ。
手のひらにある新居の鍵をじっと見つめている私に気づいて、景吾が眉をひそめる。「また何か文句があるのか?」
静かに首を振る。窓の外では、桜が満開に咲き誇っている。ふと、花が散る時は何の音もしないのだと思い出す。
私が彼への想いを手放す時と、同じように。
鍵をバッグにしまおうとした時、景吾が手を伸ばして、私の手首をぐっと押さえた。
手首の骨に押し当てられた彼の指は、ひどく冷たい。そして、聞き分けのない子供を宥めるような口調で言う。
「莉桜、内装はもうすぐ終わるんだぞ。今さらごねて業者をやり直させる必要はないだろ」
ひまわりの絵を見つめたまま返す。「やり直すなんて言ってないわ」
景吾がふっと力を緩める。私が物分かりよく引き下がったと満足したかのようだ。
「ならいい。知花も何度も確認してくれたんだ。この絵をここに飾ったほうが、部屋が明るくなるって言ってた」
「それは、ずいぶんと気を遣ってもらったのね」と、私は薄く笑う。
「あいつはデザイナーだし、昔からこういうの詳しいからな」景吾はスマホを取り出すと、慣れた手つきでメッセージを返し始める。
「お前と違って、いつまでも古いものに執着したりしない」
古いもの……母が残してくれた絵は、彼に言わせれば、いつでも取り替えられる「古いもの」に過ぎないのだ。
そばで聞いていて気まずくなったのか、内装会社の担当デザイナーがタブレットを抱えながら小声で尋ねてくる。
「その……主寝室のベッドカバーにつきましては、逢坂様がお選びになったベージュのもので確定ということでよろしいでしょうか?」
景吾は顔も上げずに答える。「あぁ。彼女は眠りが浅いから、あまりキツい色は選ばないでくれ」
デザイナーは一瞬ハッとして、慌てて私の方をちらりと見る。
その視線でようやく自分の失言に気づいたらしい。景吾はかすかに眉をひそめたが、すぐにまた平静を装う。
「照明のテストを手伝ってもらっただけだ。アドバイスも悪くなかったし、変な勘違いはするなよ」
「してないわ」
私のあまりの落ち着きぶりに毒気を抜かれたのか、景吾はじっと私の顔を見つめる。
「お前、今日なんか変だぞ」
何も答えず、背を向けてウォークインクローゼットへと向かう。棚の位置は低く下げられて、ハンガーラックも、知花がよく着るロングワンピースの丈に合わせた高さに変えられている。
私は冬物のコートが多いから、高めの収納スペースを一つ残しておいてほしいと、以前頼んでいたはずだ。
あの時、景吾は「倉庫じゃないんだから、必要なものだけ残せばいい」と吐き捨てた。
それなのに、知花が「ワンピースをきれいに掛けたい」と一言こぼせば、クローゼットはいとも簡単に彼女の思い通りに作り替えられてしまう。
引き出しを開けると、中にはミルキーホワイトの鹿のオブジェが入っている。私の持ち物ではない。
後ろから近づいてきた景吾がそれを見て、一瞬だけ目を見開いた。そして、何事もなかったかのようにそれを取り上げる。
「あぁ、知花の忘れ物だ。今度来た時にでも返しておくよ」
「彼女、何回来てるの?」
「内装のチェックなんだから、そりゃ何度か来るだろ」彼の口調が少し冷たくなる。
「お前はこういうのよく分からないだろ。だから知花に任せたほうが手間が省けると思った」
「彼女に合鍵を渡したの?」
そこでようやく、彼は私の目をまともに見て、鼻で笑う。
「どうしていつもそうやって嫌味ばかり言うんだ?知花は手伝いに来てくれているだけで、泥棒じゃないぞ」
彼をじっと見つめ返す。「合鍵を持っているかどうかを聞いただけなんだけど」
その時、玄関から鍵を開ける音が響いた。スイーツの紙袋を提げた知花が、まるで自分の家に帰ってきたかのように、当然といった様子で入ってくる。
「景吾の好きなモンブラン買ってきたわよ。ついでに莉桜の分もね」
私と目が合っても、彼女の笑顔は一切崩れない。「あら、私、お邪魔だったかしら?」
景吾はごく自然に彼女の手から紙袋を受け取る。「いや。こいつもさっき、お前に気を遣わせて悪かったなって話していたところだ」
知花は目を細めて笑う。「遠慮しないでね。大切な二人の新居なんだから、私もちゃんと手伝いたいの」
ふと彼女の足元にあるスリッパに目が留まる。靴箱の奥にしまわれている、唯一の新しいスリッパだ。淡い黄色で、私のサイズよりも一回り小さい。
私の視線を追った景吾の口調に、とうとう隠しきれない苛立ちが混じる。
「ただのスリッパだろ。出入りが多いから、置いてあるだけだ」
知花は困ったように軽く唇を噛んだ。「やっぱり持って帰るわ。莉桜、気にするかもしれないし」
「かまわん」景吾が彼女の言葉を遮って、勝手に決断を下す。「こいつはそんなに心の狭い女じゃない」
うつむいたままバッグから鍵を取り出して、玄関の棚の上に置いた。「じゃあ、この鍵もここに置いておくね」
鍵を見た景吾の顔が、少し険しくなる。「どういう意味だ?」
「あなたたちのほうが必要だと思うから」
景吾はじっと私を見つめる。私が本気で怒っているのか、それとも単に気を引こうとわがままを言っているだけなのか、見極めようとするかのように。
知花が先に口を開く。
「莉桜、誤解しないでね。私と景吾は昔からこういう関係なの。今さら変えられない家族みたいなものだけど、本当にただの幼なじみだから」
すかさず景吾が言葉を継ぐ。「聞いたか?みっともない真似はやめろ。知花が手伝いに来づらくなるだろ」
私はバッグを持ち直す。「そうね」
再び、景吾は私の手首を掴んだ。先ほどよりも力がこもっている。
「運転手に送らせるから。俺はこれから仕事がある。帰っても母さんに余計なことは言うなよ」
顔を上げて、真っ直ぐに彼を見据える。「余計なことってなに?」
「お前は話を盛りがちだからな」彼は私の耳元で声を潜める。「結婚式まであと3ヶ月だ。両家の顔に泥を塗るような真似はするなよ」
3ヶ月、か。彼と婚約して2年。ようやく結婚式の日取りが決まったあの日、私は嬉しくて嬉しくて、カレンダーのその日付に、赤ペンで何度も丸をつけた。
なのに今、あの日思い描いていた新居には、至るところに知花の痕跡が残されている。
道具を片付けて帰ろうとしていた担当デザイナーが、私のそばを通り過ぎた時、そのタブレットの画面がふと明るくなる。
プロジェクト名の欄に記された内容が私の目に飛び込んでくる。
第2話
【知花旧居内装の再現】
エレベーターの中に立っていても、先ほど目にした文字が、未だに脳裏に焼き付いて離れない。
景吾が追いかけてきたのは、エレベーターのドアが閉まりかけた瞬間だ。無理やり手を伸ばしてドアを遮って、怒りを押し殺した声で言う。
「たかがプロジェクト名くらいで、文句を言うのか?」
彼の袖口で冷たく光るカフスボタンを見つめながら、静かに返す。「見ていたのね」
「見たからって、なんだよ?」彼はエレベーターの中に乗り込んで、荒々しく一階のボタンを押し直す。
「知花が前に住んでいたマンションはセンスが良かったから、デザイナーが設計の参考にするくらい、普通のことだろ」
「でも、ここは私たちの新居なのに、どうして彼女の昔の家を再現しなきゃいけないの?」
景吾はひどく億劫そうにこめかみを押す。
「お前はどうしてそういちいちムキになるんだ?家を買ったのも、内装の金を出したのも俺だ。俺が落ち着くデザインを選んで何が悪い?」
エレベーターのドアに映る自分の顔は、血の気が引いて青白い。「……わかった」
そのあまりに素直な返事に、彼はかえって不機嫌になる。「お前はいつもこうだ。泣きわめいて怒るわけでもない。そうやって黙り込むのが、一番うっとうしいんだよ」
一階に到着し、エレベーターのドアが開いてロビーに足を踏み出した瞬間、後ろから息を切らせて追いかけてきた知花の声が響く。
「景吾、莉桜を責めないで。全部私が悪いの」
彼女の手には、先ほどのあの鹿のオブジェが握られている。それを私に差し出す。
「これ、お詫びに受け取って。昔すごく気に入ってたんだけど、窓辺に置いたら似合うって景吾が言うから」
そのオブジェを見て、景吾の目元が一瞬だけ和らいだ。
ふと、3年前の誕生日に景吾からもらった桜のブローチを思い出す。あの時彼は「これを見ると、お前を思い出す」と言ってくれた。静かで、飽きがこなくて、出しゃばらないから、と。
だが、知花が帰国してから、あのブローチは二度と姿を見せなくなった。
私は受け取らなかった。「気に入ってるなら、持って帰れば」
知花の手が宙で固まる。景吾が代わりにそれを受け取って、冷たい声を出す。「せっかく知花が譲ってくれるって言っているんだから、受け取れ。せっかくの好意を無駄にするな」
彼を見つめ返す。「他人の使い古しなんていらない」
知花の顔からさっと血の気が引いていく。景吾の目の色が即座に変わる。「知花に謝れ」
エレベーターホールでは、まだ業者が行き来していて、先ほどのデザイナーもまだ遠くへは行っていない。何人かの視線が、ちらちらとこちらへ向けられる。
「どうして?」
「言い方がきつすぎるんだよ」景吾が私の肩を掴む。力任せではないが、後ずさることは許されない。
「知花は好意で手伝ってくれてるのに、なんだその当てつけがましい態度は」
知花が小さな声で言う。「もういいよ、景吾。莉桜を困らせたくないの」
それでも景吾は手を離さない。「俺が甘やかしすぎたんだ。最低限の礼儀くらいわきまえろ」
あのオブジェに視線を落とす。耳の部分が少し欠けていて、とても丁寧に修復された跡が表面に薄く残っている。
ふと知花が口を開く。「実はこのオブジェ、もともと景吾が私にくれたものなの。新居に飾っても似合うかなって思っただけで……」
「知花」景吾が眉をひそめる。
彼女は「しまった」という顔をして、慌てて目を伏せる。「ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
思わず乾いた笑いが出てしまう。単に自分の古い持ち物を私にくれるつもりではない。景吾が彼女に贈った思い出の品を、私の新居に飾ろうとしているのだ。
これ以上追及されるのが気まずかったのか、景吾は直接そのオブジェを私の手に押し付けてきた。「ほら、受け取れ。ただのオブジェだろ、これ以上騒ぐな」
硬い角が手のひらに食い込む。無理やり押し付けられた衝撃と痛みで、うまく握りしめることができず、オブジェは床に落ちて真っ二つに割れてしまった。
知花がはっと息を呑む。景吾の表情がさらに険しくなる。「お前」
しゃがみ込んで破片を拾い集めようとしたとき、欠けた断面で指先を切って、血が滲んだ。
景吾はそれに気づいて、指先をピクッと動かしたが、真っ先に知花を庇うように引き寄せた。「離れたほうがいい。怪我するぞ」
彼の背中に隠れながら知花が言う。「莉桜、私が嫌いなのは分かるけど、こんなことしなくても……」
手のひらの上に破片を拾い集めながら、私は淡々と言う。「いくら?弁償するわ」
景吾は血の滲む私の手元をじっと見つめ、何か言いたげに口元を歪めたが、結局は低い声で言う。「金の問題じゃないだろ」
「じゃあ、何の問題なの?」
彼は答えない。内装会社のデザイナーがおずおずとティッシュを差し出してくる。「林様、とりあえずこれで押さえてください」
景吾がそのティッシュを受け取って、私に渡そうとした瞬間、彼のスマホが鳴った。
画面を一瞥して、すぐに応答する。「ああ、おばさん。知花なら俺と一緒だから、心配しないで」
知花も身を乗り出して聞き耳を立てて、途端に表情を明るくした。電話越しの声は大きく、ここまで漏れ聞こえてくる。
「景吾と知花の新居は順調にできあがってる?今度帰ったら、真っ先に見せてちょうだいね」
破片を握りしめながら、顔を上げて景吾を見る。彼は一瞬だけ沈黙して、すぐに答える。
「もうすぐ終わる。そのときは知花も連れて帰るよ」
そうか。ここは景吾と知花の新居だったのか。
第3話
あの通話の相手が誰なのか、あえて景吾に問い詰めることはしなかった。彼からも、一切の説明はない。
翌日、景吾の母親・藤原祥子(ふじわら さちこ)に誘われてウェディングドレスの試着に向かうと、ショップのソファにはすでに知花が座っている。その肩には白いレースのショールが羽織られている。
祥子は笑顔で手招きをする。「莉桜、いらっしゃい。見てちょうだい、知花はセンスがいいから、あなたに似合いそうなドレスを何着か選んでくれたのよ」
ハンガーラックに並んだドレスに目を落とす。どれもハイウエストでトレーンが短くて、肩幅が狭いデザインばかりだ。
「こういうのは、私にはあまり似合わないと思います」
祥子の笑顔が少し曇る。「結婚式ってのはね、年長者や経験者の意見を聞いておけば間違いないのよ。知花はたくさん結婚式に出席してるから、あなたよりずっと詳しいわ」
知花がソファーから立ち上がって、一着のドレスを手に取る。「これ、素敵だと思うよ。きっと景吾も気に入るはず」
「どうして私が着るドレスを、彼の好みに合わせなければいけないの?」
紅茶のカップを口元に運ぼうとしている祥子の手がピタリと止まる。「もうすぐ夫婦になるんだから、細かいことは言いっこなしよ。景吾は忙しいんだから、莉桜のほうが少し合わせてあげなさいな」
知花も小さな声で付け加える。「景吾は確かに、シンプルなデザインが好きだから。あまり派手なドレスを着ると、彼、戸惑っちゃうかも」
店員がドレスを試着室に運び込んだが、私はその場から動かない。
ついに、祥子が眉をひそめる。「どうしてそう意固地になっていくの?絵のことといい、オブジェのことといい、そして今日のドレスといい……いちいち突っかからなきゃ気が済まないの?」
祥子を見据える。「あの絵が替えられたこと、ご存じだったんですか?」
彼女は一瞬言葉に詰まる。「……知花から聞いたわよ。あの絵は古いし、新居の雰囲気には合わないって」
「あれは、母が描いてくれた絵です」その場の空気が、一瞬にして凍りつく。
知花がすぐさま目を潤ませる。「本当に知らなかったの。もし知ってたら、絶対に絵を変えようなんて言わなかったのに……」
祥子も気まずそうに声を落とす。「それは確かに、こちらの誤解だったわね。でも、景吾だって新居を良くしようと思っただけなんだから、いつまでも根に持たないの」
突然、すべてがひどくばからしくなる。私が理不尽な思いをしていることくらい、景吾も祥子もとうに分かっているのだ。それなのに彼らは、知花が傷つくことのほうを恐れている。
そこへ景吾がドアを開けて入ってくる。祥子は助け舟でも見たかのように声を上げる。
「景吾、ちょうど良かったわ。莉桜がね、このドレスは自分に似合わないって言うのよ」
景吾はハンガーラックを一瞥した。「知花が選んだのか?」
知花はこくりと頷く。「少し提案しただけ」
「じゃあ、この中から選べばいい」景吾は私の前に歩み寄って、肩にかかった髪を整えてくれた。
「莉桜、これ以上みんなを待たせるな」
視線を上げて彼を睨みつける。「着たくないと言ったら?」
彼の手がぴたりと止まって、低い声で言う。「結婚式はお前一人だけのものじゃないぞ」
思わず笑ってしまう。「新居もこのドレスも、私の意見は無視された。じゃあ、この結婚式は一体誰のもの?」
景吾は険のある目つきで私を見下ろす。「みんなの前でわがまま言うな」
知花が小声で宥めてくる。「莉桜、誤解しないで。景吾はただ、結婚式を無事に終わらせたいだけなの」
私はそれ以上何も言わず、背を向けて試着室に入る。
店員にファスナーを上げてもらっている時、スマホが震えた。内装会社のデザイナーからのメッセージだ。
【林様、以前お尋ねになっていた桜の絵の件ですが……】
【藤原様が残さなくていいと。逢坂様も古い額縁がお気に召さなかったようで、すでに倉庫へ送られたそうです】
メッセージの下には、一枚の写真が添えられている。薄暗い倉庫の片隅で、母の描いた桜の絵が壁に立てかけられている。キャンバスには痛々しい折り目がついて、額縁には埃が被っている。
その写真を見つめているうちに、胸の奥がゆっくり冷え切っていくのを感じる。
「林様、サイズはいかがでしょうか。きつくないですか?」と店員が尋ねる。
「少しきついです」
試着室のカーテンを開けて外に出ると、景吾が視線を上げる。彼は満足したように、少し和らいだ口調で言う。
「悪くないな」
だが、知花はハッと息を呑んで固まる。その手は、肩のショールをちぎれんばかりに強く握りしめている。
祥子が嬉しそうに笑う。「知花が景吾と結婚式を挙げてたら、きっとこんな感じだったわね」
景吾の顔色が変わる。「母さん」
自分の失言に気づいた祥子は、慌ててティーカップで口元を隠した。「ちょっと昔のことを思い出しただけよ」
目の前の大きな鏡を見る。そこには、知花が選んだドレスを着て、景吾の隣に立つ私の姿が映し出されている。
その光景はまるで、他人の体に私の顔だけを無理やり合成した、不気味な古い写真のようだ。
ふと視線を落とすと、机の上に一冊のファイルが置かれている。手に取って見ると、その表紙にはこう書かれている。
【結婚式進行予定表】
第4話
【花嫁の好み参考:逢坂知花】
ファイルを元の場所に戻して、指先を数秒だけ表紙に留める。
景吾が近づいてくる。「何見てるんだ?」
ゆっくり顔を上げる。「結婚式の進行表。どうして知花の好みを参考にしてるの?」
彼は一瞥したが、表情はほとんど変わらない。「プランナーが手を抜いて、知花が参考用に送った資料をそのまま使い回したんだろ。後で修正させる」
知花がすかさず口を挟む。「私がいくつか資料を送ったから、向こうが勘違いしちゃったのかも。莉桜、怒らないで」
景吾に尋ねる。「本当にただの勘違い?」
彼はもう堪忍袋の緒が切れたような声で言う。「それ以外に何があるって言うんだ?どうしてお前は知花が関わると何でも悪く捉えるんだ」
それ以上は何も聞かない。
午後、私は一人で内装会社の倉庫へ向かう。管理人が時間をかけて探して、ようやくあの桜の絵を持ってきてくれた。
「藤原社長の秘書が『もう処分していい』っておっしゃったんですけど、捨てるのも忍びなくて、そのまま保管していたんです」
キャンバスにはくっきりと折り目がついて、母のサインが擦れて消えかかっている。ハンカチで少しずつ埃を拭き取る。
スマホが鳴る。景吾からのメッセージだ。
【今夜、おばさんが新居に来る。お前も来い。失礼な真似はするなよ】
【わかった】
その食事会は、新居で開かれた。私が着いた時には、すでに食事が用意されており、知花が佐藤明美(さとう あけみ)の腕を絡めながら、おとなしく微笑んでいる。
明美は景吾を見ると、目を輝かせた。「景吾、本当に素敵な新居ね。知花が昔住んでいた家みたいに、温かみがあるわ」
景吾は何も否定しない。私は玄関に立ったまま、靴を脱ごうとした手を止める。
先に私に気づいた知花が、少しだけ笑顔を強張らせる。「莉桜、来たのね」
明美が戸惑う。「こちらの方は?」
ついに景吾が口を開く。「こちらは林莉桜」彼の婚約者だとは一言も言わない。
明美は私たち三人の間を順番に見回すと、すぐに笑顔で頷く。「あら、お友達なのね。さあさあ、入ってちょうだい」
景吾が私に小声で耳打ちする。「おばさんは体が弱いんだ。余計なことは言うなよ」
「余計なことって、なに?」
彼は私を見つめる。「結婚式のことや、俺たちの関係は口にするな。食事が終わったらちゃんと説明するから」
思わず笑ってしまう。「自分の新居で、客のふりをしろって言うの?」
彼は声を落とす。「ただの食事会だろ」
知花がこちらへ歩み寄ってくる。目には申し訳なさそうな色を浮かべているが、その声はひどく軽い。
「おばさんは昔から私と景吾のことを見守ってくれていたし、私たちが結婚するものだと思っていたの。だから、悲しませたくなくて……」
「だから、私があんたたちに理解を示せってこと?」
景吾が間髪入れずに続ける。「分かってくれるなら、それが一番だ」
食事中、明美はずっと知花の皿に料理を取り分けている。
「知花は昔からこれが大好物よね、景吾、覚えてる?」
景吾は魚の骨を手際よくきれいに取り除いて、知花の取り皿に置く。「覚えてるよ」
明美は嬉しそうに言う。「やっぱり景吾は優しいわねぇ。あなたたちを見てると、安心するわ」
知花は顔を赤らめて、私をちらりと見る。「おばさん、もうやめてよ」
景吾はうつむいて水を飲んで、何も反論しない。
一番端の席に座って、目の前にあるランプの薄暗い光を見つめる。その光のせいで、並べられた料理まで色褪せて見える。
明美が突然私に尋ねる。「お嬢さん、彼氏はいるの?」
その場が一瞬、しんと静まり返る。景吾が顔を上げて私を睨みつける。目で「余計なことは言うな」と言わんばかりだ。
私は箸を置く。「前は、いました」
景吾が眉をひそめる。明美は違和感に気づかず続ける。「じゃあ、今は?」
私は彼を見つめて言う。「います。でも、もうすぐ別れます」