私は旦那の愛人に血を与えるためだけの道具だった

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私は旦那の愛人に血を与えるためだけの道具だった

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「んっ……」 夜も更けた頃、寝室にあるキングサイズのベッドは乱れ、部屋には甘く濃密な余韻が漂っていた。 結婚して3年、橘遠時(たちばな ...

Chương (1)

第1章

「んっ……」 夜も更けた頃、寝室にあるキングサイズのベッドは乱れ、部屋には甘く濃密な余韻が漂っていた。 結婚して3年、橘遠時(たちばな えんじ)は毎晩のように橘夏美(たちばな なつみ)を抱き、執拗なまでに求め続けた。 夏美は何も身にまとわぬまま、細い腰を男の大きな手に強く抱き寄せられ、熱い吐息を肌に感じていた。 情事を終え二人が落ち着くと、遠時は何事もなかったかのようにバスローブを羽織り、振り返ることなく浴室へと消えていく。 夏美が服を着終えた直後、部屋の外で待機していたボディーガードたちが無言で入ってきて、そのまま彼女を地下室へ連れて行った。 そこには、すでに執事がいて、採血器具を用意して待っていた。「奥様、篠原様の体調が優れず、輸血が必要との電話が病院からありました」 冷たい針が夏美の血管を貫き、真っ赤な血が少しずつ体から抜き取られていく。 そして、これが遠時と夏美が結婚できた理由だった。遠時の愛する篠原晴香(しのはら はるか)は重い血液の病を患っており、夏美だけが彼女と同じ希少なRhマイナスAB型なのだ。 第1話 「んっ……」 夜も更けた頃、寝室にあるキングサイズのベッドは乱れ、部屋には甘く濃密な余韻が漂っていた。 結婚して3年、橘遠時(たちばな えんじ)は毎晩のように橘夏美(たちばな なつみ)を抱き、執拗なまでに求め続けた。 夏美は何も身にまとわぬまま、細い腰を男の大きな手に強く抱き寄せられ、熱い吐息を肌に感じていた。 情事を終え二人が落ち着くと、遠時は何事もなかったかのようにバスローブを羽織り、振り返ることなく浴室へと消えていく。 夏美が服を着終えた直後、部屋の外で待機していたボディーガードたちが無言で入ってきて、そのまま彼女を地下室へ連れて行った。 そこには、すでに執事がいて、採血器具を用意して待っていた。「奥様、篠原様の体調が優れず、輸血が必要との電話が病院からありました」 冷たい針が夏美の血管を貫き、真っ赤な血が少しずつ体から抜き取られていく。 そして、これが遠時と夏美が結婚できた理由だった。遠時の愛する篠原晴香(しのはら はるか)は重い血液の病を患っており、夏美だけが彼女と同じ希少なRhマイナスAB型なのだ。 3年前、夏美の父親である浅倉健三(あさくら けんぞう)は母親の浅倉百合(あさくら ゆり)を盾に、夏美に政略結婚を強要した。その縁談を断ることなどできなかった夏美だが、相手が遠時だと知った瞬間だけは違い、その夜は嬉しさのあまり一睡もできなかった。 なぜなら、誰にも打ち明けたことはないが、夏美は10年前から、ずっと遠時だけを想い続けていたのだ。 18の時、夏美は健三に連れられ接待の席に赴いた。すると、年配の男たちは品定めをするような視線を夏美に向け、遠慮なく彼女の体に触れてくる。そして、夏美の初夜を買うと言うのだ。 そこには偶然、遠時も居合わせていた。男たちに囲まれた夏美を見るなり、彼は冷え切った声で言い放つ。「命が惜しくないなら、触れればいい」 それ以来、遠時は夏美の人生に差し込む一筋の光となり、彼女を暗闇から助け出してくれた存在となった。 だからこそ、彼が自分と結婚した理由が、愛ではなく、晴香への輸血を続けるためだと知っても構わなかった。 結婚してこの3年、遠時は人参が苦手な夏美のために、料理に入っていれば、それを毎回丁寧に取り除いてくれたし、出張に行けば、いつも夏美へお土産を買ってきてくれた。 ある時など、何兆円もの契約を投げ出してまで、夏美の誕生日に駆けつけてくれたことさえあった。 だから、遠時も少しは自分に愛情を持ってくれているのだと、夏美は思っていたのに…… 採血を終え、真っ青な顔で携帯を手に取ると、父の健三からURLが届いていた。 そのURLを開いた途端、耳を劈くような絶叫が流れ出す。 それは、何も衣服を身につけていない母親の百合が、縄で縛られ、覆面を被った男たちに竹刀で叩かれている映像だった。 下品な怒声が響く。「200億だ!旦那の遠時さんなら工面できるだろ?もし用意できなければ、お前は母親の遺体を回収することになるからな」 ボトッと、夏美の手から携帯が落ちた。 頭を鈍器で殴られたような衝撃が夏美を襲う。携帯を拾い上げる夏美の手の関節は、力が込められ、真っ白になっていた。 この3年、健三は百合を使い、夏美から金をむしり取り続けてきたが、自分に金を出させるためだけに、まさか父親がここまで母親を痛めつけるとは思いもしなかった。 母にこのようなことをされるなら、自分が死んだ方がましだ。 採血後の立ちくらみを必死にこらえ、地下室から外へ出ると、ちょうど車に乗り込もうとしている遠時の姿が見えたので、夏美は死に物狂いで走り、彼を引き留めた。 夏美の青ざめた顔を見た遠時は、不快そうに眉をひそめる。「何か用か?」 夏美が口を開きかけた時、車の中からか細い声が聞こえた。「遠時、どうしたの?」 車の中に晴香がいると思っていなかった夏美は、ちらりと晴香に視線を向けた後、遠時に言った。「二人で話せない?」 すると、車の中にいた晴香が薄っすらと目を開けた。「遠時、どうかしたの?夏美さんに何かあった?」 晴香の声を聞いた途端、遠時の表情が優しいものに変わる。「晴香より大事なことなんてないから、俺たちはまず病院に行こう」 そう言うや否や、遠時は夏美を避け、車に乗り込もうとした。 さっきまで自分の体をあんなに求めていた遠時の目は、今や晴香以外の姿を映してはいない。 夏美は再び遠時の腕を掴む。「ねえ、私の両親を離婚させてくれるって、約束してくれたよね?」 第2話 「夏美さん、何を言っているの?ご両親は長年連れ添った夫婦でしょ?遠時にそんなことをさせれば、遠時が皆の物笑いになっちゃうよ」そう言って夏美の言葉を遮った晴香は、車の中で静かに笑った。「子供が親を離婚させようとするなんて、私は初めて見たわ」 遠時は相変わらず穏やかに、晴香に話しかける。「夏美の戯言だから、相手にしなくていいよ」 母のことを思うと、夏美は胸が張り裂けそうだったが、それを口に出すことはできなかった。 それでも遠時が車へ乗り込もうとしたので、夏美は慌てて遠時を掴んでいる手に力を込めた。「遠時……私のお母さんを浅倉家から救い出すって言ってくれたじゃない……」震える声には、もう隠しきれない絶望が滲む。 夏美が遠時と縁談を結んだ日、遠時ははっきりと言い放った。「お前を妻に迎えるのは、晴香に輸血を続けるためだけだから」 しかしその代わりに、3年間晴香のために輸血をし続ければ、百合を救い出してくれると、約束してくれたのだった。 だからこそ、夏美は自分の想いを押し殺し、いつでも血液を提供する血液バンクとして、遠時のそばにい続けた。 遠時と体の関係を持ったのは、偶然の出来事だったが、それからというもの、遠時は自分の寝室へと夏美の荷物を移させ、毎晩のように夏美を求めた。出張から帰ってきた時なんかは、夏美がベッドから起き上がれなくなるほど、執拗に体を重ねる。 遠時なら必ず母を助けてくれるはずだと、夏美は信じていた。 遠時が夏美を静かに振り返り、ふっと冷めた笑みを浮かべた。「そんな約束をしたか?」 一瞬、夏美は固まってしまったが、慌てて口を開く。「3年前、私たちが縁談を結んだ日、篠原さんに3年間輸血をすれば、お母さんを浅倉家から救い出してくれるって、あなたが言ったんだよ!」 そう言い終え、夏美は縋るような眼差しで遠時を見つめた。遠時が一度口にした約束を、必ず守る男だということは、東都の誰もが知っている。 そして、3年という約束の期限が過ぎた今、やっと母を助け出すことができるのだ。 しかし遠時は夏美の手を無情にも振り払うと、車へと乗り込み、口元に薄く笑みを浮かべた。「そんな適当に言ったこと、俺が覚えてるわけないだろ?」 地面に投げ出された夏美の視界から、ロールス・ロイスが遠ざかっていく。 この3年間、夏美は晴香のために99回も輸血を行ってきたが、遠時の約束を信じ続け、一言も文句を言わなかった。 遠時の妻として、幾度となく彼に体を求められても、決して拒むこともなく、全てを受け入れた。そして夜が更けるたび、彼は何度も何度も夏美の耳元で囁く。「お前は俺だけのものだ」 だが、それがすべて嘘だったとは…… 夏美はおぼつかない足取りで部屋へと戻り、冷水のシャワーを頭から浴びた。しかし、シャワーの冷たさをもってしても、胸の内で燃え上がる絶望を鎮めることはできなかった。 ふと顔を上げると、鏡の中の自分と目が合う。映っているのは、ひどく惨めで、醜い女。 そんな自分を見つめているのに耐えられず、夏美は慌てて視線を逸らした。水が目に入り、染みて痛い。 自分はなんて滑稽なのだろう。 浴室から出た夏美は、携帯を手に取り一本の電話をかけた。 「どうやらあなたが正しかったみたい。遠時は私を助けてはくれなかった。だから……あなたが母を救ってくれるなら、父の悪事の証拠をすべて渡すわ」 1週間後、遠時からパーティーへの同伴を求められた夏美は、ドレスを身に纏い、遠時と共に車に乗り込む。 だが、会場に着いて初めて、それが晴香の誕生日会だと知った。 きらびやかな水晶のシャンデリアの下、白いドレスを着た晴香が、遠時の仲間たちに囲まれている。 賑わう会場の中に、夏美は知らない誰かの隣に立つ百合の姿を見つけた。 たった1週間見ないだけで、百合は骨と皮ばかりに痩せこけ、かつて似合っていたドレスも不自然なほどサイズが合わなくなっている。 優しかったその目は生気を失い、ずっと俯いて、人と顔を合わせることを拒んでいた。 目頭が熱くなった夏美は思わず駆け出そうとしたが、遠時に手首を強く掴まれ、彼に引きずられるようにして、会場の外まで連れて行かれた。 「騒ぎを起こすな。あれは晴香の叔父だ」 第3話 遠時に小声で釘を刺され、夏美は胸が凍りつくのを感じた。 自分を大切に育ててくれた母。その母があんなに苦しんでいるというのに、遠時は騒ぎを起こすな、と言う。 晴香の叔父である吉沢宏明(よしざわ ひろあき)は、有り余るほどの金を使い、遊び呆けることしか能のない男だった。これまで、宏明に人生を狂わされた女性は数知れない。なのに、健三がまさか母をこんな男に差し出すなんて! 遠時が電話に出るため外に出た隙に、夏美はすぐに母を探しに向かった。 すると、宏明が母を2階にある休憩室へ連れて行こうとしていた。 焦った夏美が駆け出した瞬間―― 「夏美さん、どこへ行くの?」晴香が夏美の前に立ちふさがる。顔は笑っていたが、目には冷たい軽蔑が宿っていた。「遠時にはなんとなく言っておいただけなのに、まさか本当にあなたを連れて来たなんてね。自分の立場、分かってる?」 こんな言葉をもう3年間も聞いてきた夏美は、特に言い返さなかった。 「どいてください!」 夏美は晴香を突き飛ばして2階へと駆け上がったが、部屋の中からは、すでに百合の悲痛な叫び声が聞こえていた。 扉を蹴り開けると、服が乱れ、宏明の下敷きになっている百合の姿があった。虚ろなその目は、涙で溢れている。 「放してください!お願い、触らないで!」 母の絶望的な悲鳴を聞き、夏美はドアの傍にあった花瓶を掴むと、全力で宏明の頭に叩きつけた。 「てめぇ!よくもやりやがったな!」宏明は自分の頭を抱えながら怒鳴り、指の隙間から血が流れるのを見て、その瞳に殺気を浮かべた。「俺が本気になれば、お前たちなんか簡単に殺せるんだからな」 後を追ってきた晴香はこの光景を目の当たりにし、意地の悪い笑みを浮かべる。「夏美さん、この人は私の叔父さんなんだけど。もし、このことを私が遠時に言ったら、どうなると思う? そうね……もしあなたの母親の代わりに、今夜夏美さんが叔父さんに付き合うっていうなら、なかったことにしてあげてもいいけど」 「夏美、そんなのは絶対に駄目!」百合は恐怖に震えながら必死に首を振った。「絶対に駄目だからね!」 しかし、宏明は立ち上がるや否や百合の頬を思い切り殴り飛ばし、倒れた彼女を容赦なく蹴り上げた。「お前は黙ってろ!お前の旦那が俺にお前を寄越したんだ。もし、お前がここで殺されたって、あいつは文句一つも言えないんだよ!」 百合が口から血を吐き、そのまま意識を失ってしまった。 「お母さん!」夏美は割れた花瓶の破片を拾い上げ、宏明に向けて構える。 そんな夏美の反抗的な態度を宏明は鼻で笑い、夏美の体を舐め回すように見つめた。「仮にお前が母親を助け出したところで、明日になればお前の父親が自分でまた俺の元へ連れてくるぜ。 でも、お前の母親はもう旬が過ぎてて、ベッドの上でも味気ないからな。俺はお前みたいな若い女の方が好みなんだよ」 夏美は手のひらから血が流れ出すのも構わず、花瓶の破片をきつく握りしめた。 夏美は痩せ細った体に無数の痣がある百合を見つめた。幼い頃、酒に酔った健三から何度も自分を身を呈して守ってくれた、大切な母。 もう、これ以上母を苦しめるわけにはいかない。 夏美は手の力を緩め、花瓶の破片を床に落とした。「母を自由にしてくれるなら、あなたの言う通りにします」 すると、宏明が嫌な笑みを浮かべながら夏美の顔に触れたかと思うと、突然、激しく夏美の頬を殴ったのだ! さらに夏美の両手を掴み、床に散らばった花瓶の破片の上へ無理やり押し付ける。 夏美の苦悶の叫び声が部屋中に響いた。しかし、夏美の体が傷と血にまみれ、夏美が悲鳴をあげるたび、宏明の瞳には興奮の色が浮かんでいく。 宏明は夏美の髪を掴んで服を引き裂き、露わになった真っ白な肌を見て、下品な欲望を露わにした。 「さすが橘の女、最高に美味そうだな」 夏美がすべてを諦めて目を閉じたその時、ドアが乱暴に開けられた。 第4話 「一体どこのどいつが……」 宏明が不機嫌さを露わにして振り返った途端、腹部に鋭い蹴りを入れられた。宏明の悲鳴が部屋に響き渡る。 遠時は冷酷な目で宏明を見下ろすと、何度も執拗に宏明の腹部を蹴り続けた。 「遠時!叔父さんを殺す気なの?」晴香が慌てて間に入った。「夏美さんが自分から望んだことなんだから、叔父さんは悪くないわ!」 遠時は殺気立った表情のまま、気を失っている宏明から手を放すと、返り血がついた手で晴香の頬の涙を拭った。「自分から?」 晴香は泣きじゃくりながら続ける。「夏美さんが自分から叔父さんのベッドに上がるところを、私は見たんだから!誰も強要してない」 バスタオルを体に巻きつけた夏美は、言い返す間もなく遠時に首を掴まれ、浴室へと引きずり込まれた。 「まさか俺以外の男と?死にたいのか?」 そのまま、遠時は夏美を浴槽へと投げ込んだ。放り込まれた夏美は立ち上がろうとするが、そんな彼女の首を遠時は背後から力任せに押さえつけ、浴槽の底へと沈める。 鼻と喉に水が流れ込み、窒息死してしまうのではという恐怖が夏美を襲う。 自分は遠時に殺されるのか、などと考えていたら、急に頭を引き上げられた。空気が肺へ流れ込み、焼けるような痛みに胸を押さえる。 だが夏美に息を吸う間も与えず、遠時は再び夏美を水中に沈めた。 何度も水中で藻掻いた夏美だったが、最後には体力が底をつき、意識が急速に混濁していった。 今度こそすべてが終わる――そう確信した時、突然、首を押さえる力が無くなった。 夏美は浴槽から這い出し、咳き込みながら肺に入った水を吐き出す。顔を上げるとその視線の先には、瞳に荒れ狂う嵐のような怒りを浮かべた遠時が立っていた。 「自分からなんて、してない……」夏美は絶望的な視線を遠時に向けた。 遠時は夏美の首を乱暴につかむと、そのまま浴槽の縁へ押さえつけた。「3年前、俺に媚薬を飲ませて無理やり関係を持ったのはお前だろ?それに、毎晩お前が泣くほど抱いてやっているってのに、それでもまだ足りないのか?」 その言葉に、夏美は愕然と目を見開いた。あの時、媚薬を盛られ理性を失った遠時に、無理やり抱かれたのは自分なのに。 それに、あの日を境に、遠時は毎夜のように自分を求めるようになった。 だが、どうやら遠時は最初からずっと、自分が薬を盛って彼を誘惑したのだと思い込んでいたらしい。 だから遠時は、毎回自分が泣いて許しを求めるまで、抱き続けていたのか…… 抱きしめられることも、口づけを交わすことも、愛されているからだと、信じて疑わなかったのに。それは愛情ではなく自分への「罰」だったなんて。 自分はなんて馬鹿だったのだろう。 夏美の瞳からこぼれ落ちた涙が、浴槽の水面に小さな波紋を広げる。 遠時は無言のままネクタイを外すと、彼女の両手を浴槽の手すりへ縛りつけた。その瞳には、情けもためらいもない。 「こいつの母親を連れてこい!」 目を充血させた遠時の怒号に、控えていたボディーガードが百合を部屋の中に無理やり連れてきて、床に押さえつけた。 「夏美!駄目!」 百合の絶叫が外から響く。 遠時は歯を食いしばり、残酷に言い放った。「男と遊ぶのが好きなんだろ?望み通りにしてやるよ」 夏美は激しく身をよじり、泣きながら懇願する。「遠時……お願い。お母さんの前だけは、やめて……」 だが、遠時は手を緩めようとはしなかった。そのまま彼女のうなじに歯を立てると、滲んだ血の匂いに煽られるように、その態度はいっそう荒々しくなる。 彼は夏美の顎を乱暴につかみ、そのまま浴室のドアを勢いよく開け放った。「お前の母親に見せてやれ。お前が母親と同じように、男に縋るしかない女だってことをな」 「やめて!娘を放して!夏美を放して!」百合が駆け寄ろうとするが、遠時のボディーガードがそれを阻む。 非力な百合がボディーガードたちに敵うはずもなく、その場に崩れ落ちた。愛する娘が屈辱を受ける姿を前に、ただ声が張り裂けんばかりに泣き叫ぶことしかできない。 母の悲痛な叫びが耳に届くたび、夏美の胸は焼けつくように痛んだ。 肉親である母の前で、自分の尊厳を踏みにじるなんて……遠時にこんな仕打ちをされたことは、これまで一度もなかった。 その瞬間、夏美はようやく悟る。今までの情熱的な愛の囁きは、ただの自惚れた思い込みにすぎなかったのだ。 自分に対して少しでも情があったのなら、人前で自分をここまで辱めることはなかったはずだから。 遠時にとって自分は、男に媚びて生きる娼婦にさえ及ばない存在らしい。 水面に映る、重なり合う二人の姿が目に入った瞬間、夏美の心は音もなく壊れていき、それと同時に、遠時への愛情も全て消え去っていった。 必ず、この場所から母を連れ出し、遠時の元からも逃げ出してやる。 夏美の体のことを知り尽くしている遠時。心ではどれほど拒もうとしても、体は思うようにならない。夏美は堪えきれず、涙を流しながら許しを請うことしかできなかった。 ドンッ! 鈍い音が響いた。 第5話 ボディーガードを振り払った百合が、そのまま壁に頭をぶつけた音だった。 その瞬間、夏美の世界が音を立てて崩れ去る。 心臓を抉り取られ、さらに粉々に砕かれるような痛みに襲われた。 夏美は必死にもがき、拘束を振りほどくと、遠時を力いっぱい突き飛ばして浴室を飛び出した。 「お母さん!」 悲鳴にも似たその叫びに、遠時の胸がわずかにざわめく。 母は血だまりの中に倒れていた。額から流れる血は痛々しかったが、それでもその口元には、どこか安堵したような微笑みが浮かんでいる。 「お母さんのせいで、夏美をこんな目に遭わせちゃって……ごめんね……」 優しさに満ちていたその瞳から、ゆっくりと光が失われていく。 夏美は震える腕で母を抱き寄せた。しかし、母の温もりは、腕の中で少しずつ消えていく。涙は次から次へと頬を伝い落ちるのに、喉が締めつけられたように声ひとつ出せない。 自分のせいで、母は絶望の果てに、こんな最期を選ぶしかなかった。 浴室にはまだ湯気が立ち込めていて、情事後の淀んだ空気に混じり、濃い血の匂いが漂う。 夏美は、かすかに温もりの残る母の胸へ顔を埋め、小さく体を丸めた。そして、傷ついた子どものように、嗚咽を漏らし続けたのだった。 次に目が覚めると、夏美は病院のベッドにいた。消毒薬の匂いが鼻をつく。 目覚めた夏美を見て、ベッドの横で林檎を剥いていた遠時が手を止めた。 意識を失う前の光景を思い出し、夏美は叫んだ。「なんで?なんで私にこんなことするの?」 夏美を真っすぐに見つめる遠時の表情は、一切変わらない。「お前の自業自得だ……」 その言葉で、夏美の目からは涙がこぼれ落ちたが、意地でも泣き声は出すまいと唇を強く噛みしめる。 心がすごく痛い。 自業自得…… 自分はどうしようもなく馬鹿だ。こんな男に何の期待を抱いていたというのか? 絶望している夏美を見て、遠時の瞳がわずかに揺らいだ。「お前の母親は死んでいない。今、集中治療室に……」 遠時が言い終わる前に、廊下から言い争うような声が聞こえた。 「篠原さんが足首をひねったみたいで、救急に運ばれてきたのですが、一番腕のいい先生を呼べって喚いてて……」 夏美が遠時に視線を向けると、案の定、彼は慌てた様子で病室を出て行った。 母は生きてる。会いにいかなきゃ…… 夏美はなりふり構わず手の甲の点滴を強引に引き抜き、壁を支えに部屋を出た。 ある病室の前を通ると、半開きになったドアの隙間から、遠時が晴香の足首を抱え、ひざをつきながら手当てをしているのが見えた。 「遠時、あなたが私を嫁にもらってくれるのかって、今日もまた叔父さんに聞かれたんだけど」晴香がはにかんで遠時を見つめる。 「もちろんだ。誰よりも盛大な結婚式を挙げてやるよ」 夏美は呼吸することすら忘れた。自分は一度もこんなに優しい遠時の声を聞いたことがない。どうやら、遠時が冷淡な男というわけではなく、その優しさは晴香だけにしか向けられないということだったようだ。 「でも、遠時は夏美さんと結婚してるでしょ?」晴香が涙声で言う。「私ね、遠時の妻でいられる夏美さんが妬ましいの。だって、遠時の隣にいるべきなのは私のはずなのに……」 遠時は手で晴香の涙を拭った。「晴香の病気が治ったら、あいつはもう必要なくなる。そうしたら、必ず離婚するから」 夏美は、自分が晴香の血液バンクに過ぎないということは理解していたが、改めて言葉として聞くとかなり堪えた。 心臓を巨大な手で握りつぶされたような苦しみで、涙が溢れ出す。 涙を流しながらも、夏美はいつしか笑っていた。 これはこれでいいのだ。なぜならこれでもう、この場所に対して何の未練も残らないのだから。 夏美は涙を拭うと、誰もいない廊下に向かって呟いた。「遠時……篠原さんのことがそんなに好きみたいだから、私が二人を一緒にしてあげる」 あの日、自分を救ってくれた遠時。そのたった一度の救いに報いるため、夏美は3年間、すべてを差し出してきた。 もう十分だろう。これで、二人の間に残るものは何もない。 部屋の中の二人を最後に一度だけ見つめる。そして、身を翻すと、背筋を真っすぐに伸ばして歩き出した。 足取りは速く、それでいて迷いはない。しかし、一歩踏み出すたび、刃の上を歩くような痛みが胸を貫いていった。 第6話 夏美は全身に管をつながれ、集中治療室で眠っている百合の姿を見ていた。 健三と百合もかつては深く愛し合う夫婦だったのだが、百合が夏美を産んだことで、すべてが変わってしまった。男児を重んじる浅倉家で、娘を産んだ百合は居場所を失い、それ以降、百合と夏美の苦しい日々が始まった。 健三は仕事の接待で、少しでも思い通りに行かないことがあると、すぐに百合を接待の場に連れて行き、取引先へと百合をあてがった。 そんな横暴の末、百合の父はショックで命を落とし、弟も脚を折られてしまった。 夏美は冷たくなった母の手をそっと握り締める。かつて優しく頬をなでてくれたその手は、今では痛々しいほど痩せ細り、全身には無数の痣が残っていた。 心電図モニターが刻む規則正しい電子音が、静まり返った空間に虚しく響く。 「お母さん、安心してね。必ずあの人たちに報いを受けさせてみせるから」夏美の瞳には、燃え盛る炎のような復讐の決意が宿っていた。 夏美は携帯を取り出し、震える指で一本の電話をかける。「証拠は全部渡すから。すぐに吉沢さんを訴えてほしいの。今すぐにお願い」 しかし、病室の外に黒い影が一瞬横切ったことに、夏美は気づかなかった。 静まり返った深夜、夏美が百合のそばで眠っていると、病室のドアが激しく開けられた。 見知らぬ3人の男たちが押し入ってきて、そのうち二人が何も言わずに夏美を無理やりベッドから引きはがすと、床に膝をつかせた。 必死に抵抗した夏美だったが、屈強な男たちの力には及ばない。「誰?!何するのよ!」 「黙ってください。これは橘社長からの命令なんです!」 男の一人がベッドで眠る百合へと歩み寄り、躊躇うことなく百合の酸素マスクをむしり取った。 口をふさがれた夏美は、喉の奥で悲鳴を上げることしかできない。 心電図モニターが甲高い警報音を鳴らす。 そのときだった。病床の百合の体が、不意に激しく痙攣する。閉じられていた瞳がゆっくりと開き、まっすぐ夏美を見つめた。 何かを伝えようとするように、百合は震える手を伸ばし、喉からひゅうひゅうと今にも途絶えそうな声を絞り出す。 けれど、それもほんの数秒だった。伸ばされた手は力なく落ち、瞳に残っていた最後の光が、ゆっくりと消えていく。 それと同時に押さえつけられていた手の力も弱まったため、夏美はベッドへ這い寄り、百合の体に触れた。しかし、もうその胸が上下することはなかった。 「お母さん、目を開けてよ……私を一人にしないで……」途切れ途切れに絞り出された声は、あまりにもか細く、今にも消えてしまいそうだった。 酸素マスクを外した男はその場を立ち去ることなく、絶望に打ちひしがれる夏美の様子をカメラに収めた。 そして、淡々とした視線を夏美に向ける。「社長は言ったはずですよ。あなたがおとなしくして、篠原さんの叔父さんを提訴しなければ、あなたの母親に最高級の医療チームをつけさせると。 それなのに、あなたが余計なことをするからこうなるんです。ご自身の母親を殺したのは、あなた自身ですから」 そして男は、床に写真の束を投げつけた。それは、百合が様々な男たちに虐げられているものだった。 「社長からの伝言です。『今すぐ訴えを取り下げろ。さもなければ、この写真を明日の朝刊に載せて、世間にお前の母親がいかに汚れた女だったかを知らしめてやるから』と、申しておりました」 そう言い終えると、ボディーガードたちは病室から去っていった。 夏美はベッドに崩れ落ち、二度と目を開けない母の顔を見つめながら、ただ涙をこぼし続けた。 床に散らばった写真を拾い上げるたび、刃物で胸を刺されるような苦しみに襲われる。 遠時の胸を切り開いて、一体どんな中身なのか見てやりたい。 遠時に寄り添ったこの3年。晴香に99回も自分の血液を差し出したのに、どうしてここまで残酷になれるのか? 母を殺したうえに、母の屈辱を使って自分を脅すなんて。 なぜ自分はあんな男に出会い、愛してしまったのだろう?猛烈な後悔と憎しみがこみ上げてくる。 なぜ、あの男の都合の良い言葉を信じたのか?自分が簡単に信じたせいで、母はこんなにも悲惨な最期を迎えてしまった。 度重なる心労に夏美の体は限界を迎え、血を吐いたかと思うと、そのまま深い闇の中へ意識が落ちていった。 第7話 何日眠っていたのかは分からないが、夏美が目を覚ますと、そこは橘家の屋敷だった。 夏美はぼんやりと天井を見つめたが、次の瞬間には、母が息を引き取ったあの光景が脳裏によみがえり、涙がぽろぽろと頬を伝う。涙は止まらないのに、まるで喉が塞がれたかのように、声は一切出なかった。 そこへ遠時が入ってきた。打ちひしがれた夏美の姿を見つめ、彼の眉がわずかに動く。 しばらく沈黙が流れたあと、遠時が淡々と口を開いた。「葬式はもう終わらせたから。今回の件は、晴香が俺に黙ってやったことで、俺もやりすぎだったとは思ってる」 その言葉を聞いた夏美は、遠時を見つめたまま、ふっと笑う。それは、乾ききった喉から無理やり絞り出したような、かすれた笑い声だった。「それでも、あなたは篠原さんをかばうのね?」 遠時が一瞬黙り込んだ。「今回のことは晴香が悪い。後でお前の母親の墓の前で謝罪をさせるよ。でも、それで今回のことはもう終わりだから、これ以上騒ぐな」 躊躇いもなく去っていく遠時の背中を見つめ、夏美は掛け布団を固く握り締めた。天井を仰いで涙を無理やり飲み込む。 どうやらあの男にとって、母の命は晴香のたった一度の謝罪と同等の価値しかないようだ。 夏美、泣くな! 夏美は何度も自分に言い聞かせた。泣いてはいけない。誰も、自分の涙なんて心配してくれないのだから。 絶対に、母を追い詰めた連中を許さない。 …… その後の数日間、珍しく遠時が夏美のそばにいたが、すでに心が死んでいた夏美は、一切何も感じなくなっていた。 夏美は診察を大人しく受け、食事をして眠る。人がいない時は一人、裏庭の花を眺めて静かに過ごした。 そんな夏美の様子に遠時は調子が狂い、心が落ち着かない。 とうとう耐えられなくなり、やつれた夏美の横顔を見つめながら尋ねた。「まだ怒っているのか?」 「怒ってないよ」 「なら良かった」そこで言葉を区切り、初めて夏美に優しく声をかける。「これからおとなしく俺の妻でいればいいんだからな。もう晴香には関わるなよ」 夏美は窓の外の曇り空を見つめ、ポッカリと穴が開いた心に、氷を埋められていくような感覚を覚えた。 以前なら、遠時が晴香をかばうたびに深く傷ついていたが、今はただ、静かに「分かった」とだけ答える。 夏美が素直になったと思った遠時は、満足げな表情を浮かべた。 遠時はその後もプレゼントを贈ったり、一緒に食事をしたりと夏美に対して優しくなり、肌寒い日にはわざわざコートを掛けてやったりもした。 それでも夏美は表情を一つ変えず、まるで操り人形のようにその厚意を淡々と受け入れた。 そんな日々が半月ほど続いた頃、ついに遠時は警戒を解き、夏美の外出を許した。 「明日は晴香のためにパーティーを開く。篠原家も全員集まるから、その場で全員に頭を下げ、晴香に詫びろ。そうすれば、この件は水に流してやる。これがお前に与える最後のチャンスだからな」 テーブルの下で、夏美は両手をきつく握り締めた。爪が掌に食い込み、痛みが走る。その痛みで、瞳の奥で燃え上がる憎しみを必死に押し殺した。 そして、静かに答える。「分かった。明日、篠原さんにちゃんと謝罪するよ」 翌朝、夏美は一番気に入っている白いワンピースに身を包み、鮮やかな赤色の口紅を塗った。 晴香が今回の会場にわざわざ山の上のリゾートホテルを選んだのは、ニュースで報じられていた百年に一度の流星群を遠時と一緒に見たかったからだった。 山頂では風が強く吹きつけていた。そんな中、人々の前で堂々と遠時と腕を組む晴香を見た瞬間、夏美は拳を握りしめた。 山頂に吹きつける刺すような寒風の中、遠時は権力を振りかざし、ボディーガードたちまで使って、衰弱しきった夏美を無理やり鋭い岩場へ跪かせようとする。 「跪いて詫びろ。昨日言ったこと、忘れたのか?」 第8話 これは遠時からの懲罰だ。 だが、夏美は微塵も動じない。 遠時の冷たい視線を受けながら、夏美は胸の奥に渦巻く憎しみを押し隠した。そして彼の前で、静かに膝を折り、鋭い石が転がる岩場に跪く。 大小さまざまな石が膝に突き刺さり、痛みで冷や汗が出る。 それでも唇を強く噛み締め、口の中に血の味が広がっても、一度たりとも許しを乞うことはせずに、謝罪の言葉を口にする。 晴香は勝ち誇ったように微笑んだ。「夏美さん、そんな堅苦しくならなくて大丈夫だから。過去のことなんて水に流して、これからはいい友達になろうよ」 遠時も満足げな笑みを浮かべている。 だが、遠時が電話対応のために席を外した瞬間、晴香の表情が一気に変化した。「こんなことになってるのに、よくもまあ、まだ私の前に姿を現せたものね。母親の死から何一つ学んでないの?」 そう言うや否や、晴香がふらりと倒れた。すると、パーティー会場の他の人々も次々と意識を失い、地面に倒れていく。 夏美は万全の準備をしていた。彼女は事前に薬を酒に混ぜていたのだ。 ドレスに隠し持っていたナイフを取り出した夏美は、意識が朦朧としている宏明へと歩み寄った。 目に驚きと恐怖を浮かべる宏明の腹部に、夏美は思い切り刃を突き立てる。飛び散る血がドレスを染め上げ、復讐に燃えるその姿は、まさに阿修羅そのものだ。 苦痛のうめき声を上げ、宏明は助けてくれと懇願し続けた。 だが、夏美はただ鼻で笑い、再びその腹にナイフを突き立てる。「母を傷つけたとき、こうなることを想像しましたか?母が許しを求めたとき、あなたは母を解放してくれたのでしょうか?」 しばらくして宏明が動かなくなると、今度は晴香の方を向き、夏美はその髪を乱暴に掴んで崖の方へ引きずっていった。「母をどうやって殺したんですか?」 「こんなことをして、遠時が許すと思ってるの!?」晴香は全身を震わせながらも、口ではまだ対抗する。 「私がまだ彼を怖がるとでも?」夏美は馬鹿馬鹿しいと言うように笑い声をあげた。そのまま晴香の胸元に狙いを定め、ナイフを高く掲げる。「神様は天罰を与えてくれないみたいなので、私が代わりに罰を与えてやりますから!」 「夏美!何してるんだ!」遠時が険しい表情で駆けつけてきた。「そのナイフを捨てろ!」 夏美の手首を掴み、骨が砕けんばかりの力で抑えつけた遠時。 ナイフがカンッと地面に落ちた。 「お前はまだこんなことをするのか!」遠時は夏美を激しく床に叩きつけると、暗い瞳で冷たく見下ろした。「痛い目を見なきゃ、いつまでも分からないみたいだな」 危機一髪のところで助けられた晴香は、すぐさま夏美を蹴りつけ、ハイヒールで夏美の手の甲を容赦なく何度も踏みつける。 それでも夏美は奥歯を食いしばり、一声の悲鳴も上げなかった。 「なんて意地っ張りな女なの!」晴香は恨みのこもった目で夏美を見下ろし、急に邪悪な笑みを浮かべた。「あなたの母親みたいな人の骨壷をこの世に残しておくなんて、縁起でもないと思ったから、あんたの母親の遺骨……遠時に頼んでポチの餌にしてあげたから」 夏美は胸の奥で煮えたぎる憎しみを押し殺しながら、ゆっくりと顔を上げた。悔しさを滲ませた瞳で、まっすぐ晴香を見つめる。 先ほど手加減をして、殺さなかったことが悔やまれた。 遠時が部下を呼びつけて処理を急ぐ中、晴香は屈み込み、夏美の耳元でささやく。「これだけの騒ぎを起こしたんだもん。もう遠時でもあなたを守れないわね」 夏美は小さく笑った。 今まで一度も守ってくれたことなど無かった。だけど、それがどうした?もう、自分は何も怖くないのだ。 夏美は顔を上げ、遠時の表情、そしてその傍で勝ち誇る晴香の顔を見据える。 「私と一緒に……地獄に堕ちようよ」 遠時が夏美の手を掴むより先に、夏美は晴香に抱きつくと、渾身の力を込めて後ろへと下がった。その背後には崖が広がっている。 「遠時、助けて!」 遠時の目が大きく見開かれ、絶望が浮かんだ。「夏美、落ち着け」 これほどまでに焦りを見せる遠時など見たことがなかった夏美は、自嘲の笑みを浮かべた。晴香のためには、こんな表情まで見せるらしい。 「遠時、あなたが一番愛する女を殺してあげるから。あなたなんか、一生苦しんで生きればいいの」 そう言い放つと、夏美は晴香を抱えたまま、崖から飛び降りた。 急速に落下する風の音の中で、遠時の心臓が張り裂けそうな叫びと、晴香の狂乱する悲鳴が聞こえる。 だが、誰もが終わりを覚悟した瞬間、駆け寄ってきた遠時の手が、落下しそうになった二人の手首を掴んだ。 夏美が顔を上げると、崖から身を乗り出している遠時が見えた。右手で晴香の手首を、そして左手で…… 何と、自分の腕を力一杯掴んでいた。 山からの突風が、崖の上の3人をゆらゆらと揺らす。 「遠時!」晴香が泣きながら叫んだ。「早く引き上げて!」 遠時の額には血管が浮かび上がり、二人の重みに耐える両腕が激しく震えている。 しかし、意外なことには彼の視線は夏美に向けられていて、いつも凍り付いているはずの瞳に、見たことのないほどの恐怖が揺らめいていた。 「しっかり掴んでろ!」誰に対してかは分からないが、遠時がそう叫ぶ。 もう限界が近いのか、青白くなった遠時の指を見つめ、夏美はふっと笑った。 「遠時、もう二度と会うことはないよ」 そう言うや否や、夏美は遠時の手を振り払った。 「夏美――!」 遠時は、夏美の姿が急速に落ちていき、雲と霧の中に消えていく様を信じられない面持ちで見つめていた。