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婚姻届より先に退職届を出しました
私の名前は川村彩香(かわむら あやか)。 婚約者の高瀬陸人(たかせ りくと)の大学時代の後輩で、今は彼の秘書をしている河村綾香(かわむら ...
Chương (1)
第1章
私の名前は川村彩香(かわむら あやか)。
婚約者の高瀬陸人(たかせ りくと)の大学時代の後輩で、今は彼の秘書をしている河村綾香(かわむら あやか)とは、姓も下の名前も読みが同じで、漢字が少し違うだけだった。
綾香がまた私の名前を自分の名前と取り違えたのは、会社の同僚たちが私と陸人のために開いてくれた独身最後のパーティーでのことだった。
みんなが私たちを冷やかして盛り上がる中、独身卒業を祝う横断幕が広げられた。
誰かが、そこに書かれた言葉を読み上げた。
【陸人さん 綾香さん
ご結婚おめでとうございます
末永くお幸せに】
その場は一瞬で静まり返った。
綾香が小さな声で口を開いた。
「すみません、彩香さん。また間違えてしまって……」
私は何も言わず、陸人を見た。
陸人は眉ひとつ動かさず、真っ先に綾香へ声をかけた。
「気にするなよ。漢字を一字間違えたくらいで、彩香も怒ったりしないから」
そう言うと、陸人は綾香をかばうように私の前へ出た。
綾香を背中に隠したまま、いつもの鋭い目で私を見た。
「彩香、横断幕の漢字を一字間違えただけだろ。
綾ちゃんだって、わざとじゃない。
今日の主役が俺たちだってことは、みんな分かってる。こんなことで水を差すなよ。な?」
彼女は「綾ちゃん」で、私は「彩香」。
その違いだけで、もう十分だった。
私は握っていた風船の紐から、ゆっくりと指を離した。
「分かった。もういい」
これからは、もう何も気にしない。
第1話
私の名前は川村彩香(かわむら あやか)。
婚約者の高瀬陸人(たかせ りくと)の大学時代の後輩で、今は彼の秘書をしている河村綾香(かわむら あやか)とは、姓も下の名前も読みが同じで、漢字が少し違うだけだった。
綾香がまた私の名前を自分の名前と取り違えたのは、会社の同僚たちが私と陸人のために開いてくれた独身最後のパーティーでのことだった。
みんなが私たちを冷やかして盛り上がる中、独身卒業を祝う横断幕が広げられた。
誰かが、そこに書かれた言葉を読み上げた。
【陸人さん 綾香さん
ご結婚おめでとうございます
末永くお幸せに】
その場は一瞬で静まり返った。
綾香が小さな声で口を開いた。
「すみません、彩香さん。また間違えてしまって……」
私は何も言わず、陸人を見た。
陸人は眉ひとつ動かさず、真っ先に綾香へ声をかけた。
「気にするなよ。漢字を1字間違えたくらいで、彩香も怒ったりしないから」
そう言うと、陸人は私の前へ出た。
綾香を背中に隠したまま、いつもの鋭い目で私を見た。
「彩香、横断幕の漢字を1字間違えただけだろ。
綾ちゃんだって、わざとじゃない。
今日の主役が俺たちだってことは、みんな分かってる。こんなことで水を差すなよ。な?」
彼女は「綾ちゃん」で、私は「彩香」。
その違いだけで、もう十分だった。
私は握っていた風船の紐から、ゆっくりと指を離した。
「分かった。もういい」
これからは、もう何も気にしない。
……
手を離れた風船は頼りなく揺れながら床に落ち、静まり返った部屋の中で妙に目立っていた。
気まずい沈黙を破るように、誰かが小声で尋ねた。
「それで……この横断幕、どうする?このまま飾る?」
私は表情を変えずに答えた。
「飾れば?誰かさんが、わざわざ用意してくれたんだし」
すると、綾香の目がみるみる潤んだ。
「彩香さん、本当にわざとじゃないんです。
昨夜遅くまで横断幕の準備をしていて、疲れていたせいか、名前の漢字を間違えたままデータを送ってしまったみたいで……
本当にごめんなさい……」
私が何か言うより先に、陸人が顔をしかめた。
「彩香、もういいだろ。綾ちゃんだって、わざと間違えたわけじゃない。
読みは同じなんだし、自分の名前だと思えばいいだろ。いちいち嫌味を言うなよ」
私は陸人を見た。
たった一言返しただけで、どうやら悪いのは私ということになったらしい。
陸人がなおも何か言いかけたところで、近くにいた同僚が慌てて話題を変えた。
「彩香さん、ほら、飲みましょう!」
「そうそう!もうすぐ独身最後の日なんだから、今日は飲まなきゃ!」
何杯か飲むうちに、さっきまでの気まずさは少しずつ薄れ、場にはまた笑い声が戻っていった。
私は椅子に座り、隣で陸人が海老の殻をむくのを眺めていた。
私が海老を好きだからと、陸人は9年間ずっとこうしてむいてくれた。手慣れた様子で次々に殻をむき、小鉢にはすぐにむき身が山のように積み上がった。
食欲がないと言おうとしたところで、陸人はその小鉢を綾香の前に置いた。
「綾ちゃん、ネイルしてて殻をむきにくいんだ。いちいち気にするなよ」
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
――彩香。海老の殻をむいてやるのは、一生お前だけだからな。
あのときの言葉が、耳の奥によみがえる。
人の気持ちは、どうしてこんなに簡単に変わってしまうんだろう。
皿の上の海老の赤がやけに鮮やかで、目の奥がつんとした。私は席を立ち、化粧室へ向かった。
しばらくして部屋の前まで戻ると、中から共同経営者の一人が陸人をからかう声が聞こえた。
「陸人、お前もうすぐ入籍するんだろ?それなのに、綾ちゃんには相変わらず優しいな。
まさか……二股かけるつもりじゃないだろうな?」
陸人は否定しなかった。
代わりに、綾香が声を上げた。
「もう、やめてくださいよ。
陸人さんは、ただ私に気を遣ってくれてるだけですから」
否定するというより、どこか甘えるような口ぶりだった。
すると、また意味ありげな笑い声が上がった。
私が扉を開けると、みんなは慌てて別の話を始めた。
陸人はまだ笑いながら、小鉢を私の前に置いた。
「この前、海老が食べたいって言ってただろ。ほら」
目を落とすと、それは綾香の食べ残しだった。
食べたいと言ったことは覚えていたらしい。けれど、私には綾香の食べ残しを回せば十分だと、今の陸人は思っているのだろう。
パーティーの最後に全員で記念写真を撮るまで、私は一度も箸を取らなかった。
陸人は、それにも気づかなかった。
パーティーを終えて店を出る頃には、外は土砂降りになっていた。
私は入口で陸人を待った。
しばらくして車のドアが開き、陸人が傘を差してこちらへ歩いてきた。
ところが、陸人は私の前をそのまま通り過ぎ、後ろにいた綾香を傘の中へ入れると、その肩を抱くようにして車まで連れていった。
二人が車に乗り込んだあと、陸人は車内から私に声をかけた。
「何してるんだ。ずぶ濡れになるぞ、早く乗れ!」
先週けがをした肩の傷は、まだ雨に濡らせないのに、陸人はそのことをすっかり忘れていた。
その瞬間、陸人に対して残っていたわずかな期待も消えた。
私は自嘲気味に笑い、雨に打たれながら車まで歩いて、自分でドアを開けた。
車が走り出すと、綾香はずっと陸人に話しかけていた。
明日何を着て出社するか、飼っている犬が最近ごはんを食べないこと。
そんな他愛のない話に、陸人は笑いながら相づちを打っていた。
私にはいつも、「運転中は話しかけるな」と言っていたくせに。
私はスマホを取り出した。
共有カレンダーの明後日の欄には、1週間前に入れた【婚姻届を提出】の予定が表示されていた。
指先が一瞬止まったが、そのまま削除した。
第2話
帰り道、私がずっと黙っていたせいか、陸人はバックミラー越しに一度こちらを見て、珍しく口を開いた。
「綾ちゃん、今日は生理中なんだ。雨に濡れて体を冷やしたらよくないだろ。変に勘ぐるなよ」
なんて気の利く上司なのだろう。
秘書が生理中だということは覚えているのに、婚約者の肩のけがは忘れている。
雨に濡れて痛み出した肩を押さえ、反射的に言い返そうとした。
けれど、口をついて出たのは一言だけだった。
「別に、気にしてない」
ほかに、何を言えばよかったのだろう。
ただの秘書なのに、どうして生理の日まで覚えているの?
どうして彼女の食べ残しを私に回したの?
どうして彼女が雨に濡れることだけは、あんなに気にするの?
そんなことは、もう何度も聞いた。自分でもうんざりするほど。
綾香が陸人の秘書になってから、こういうことは毎日のように起きていた。
綾香が初めて私の名前を取り違えたのは、大口の取引先との案件だった。
初めて取引する相手だったこともあり、会社もかなり力を入れていた。私は7日間、ろくに眠らず企画書を仕上げた。
ところが、陸人が先方にプレゼンする当日、資料の作成者欄には綾香の名前が入っていた。
あとで、どうしてその場で訂正しなかったのかと陸人に聞いた。
先方の前で訂正すれば、会社の管理がずさんだと思われる。社内のみんなが私の仕事だと分かっていれば、それでいい。
それが陸人の答えだった。
けれど案件が終わると、案件の報奨金10万円は綾香に支給され、業界団体の表彰に推薦されたのも彼女だった。
納得できず陸人に問いただすと、彼は私の口座に30万円を振り込んできた。
その直後に届いたメッセージは、たった一言だった。
【これで足りるか?】
その一言で、胸にたまっていた悔しさは行き場を失い、苦さだけが残った。
それ以来、綾香が私の名前を取り違えるのは当たり前になった。
陸人が彼女に私宛ての花を手配させれば、宛名には綾香の名前が入っていた。
取引先のパーティーでは、陸人の隣の席札にも綾香の名前があった。
そのたびに陸人は、大学時代の後輩なんだから大目に見ろ、悪気はないんだから細かいことを気にするなと、綾香をかばった。
それでも、私たちの幸せを願う横断幕の名前まで、どうでもいいと言われるとは思わなかった。
だから、私たちもきっと長くは続かない。
車がマンションの前に着いても、雨は弱まる気配がなかった。
「着いたぞ。降りろ」
私は返事もせず、車内に吊るされた見慣れないウサギのチャームへ目をやった。
「前に私があげたトラのチャームは?」
陸人はふっと笑った。
「綾香が、前のはもう古いからって、新しいのをくれたんだ。かわいいだろ?
チャームくらいで、いちいち気にするなよ」
古くなったのは、チャームじゃなく、きっと私のほうなんだろう。
私は何も言わず、ドアに手をかけた。そこで陸人は、車に積んであった傘を綾香に渡したままだと気づいたらしい。
慌てて自分のジャケットを脱ぎ、こちらへ差し出した。
「雨ひどいから、これでもかぶっていけ」
私は差し出されたジャケットにちらりと目をやっただけで、受け取らずに土砂降りの中を走ってマンションへ入った。
部屋に戻ると、傷を濡らさないようにさっとシャワーを浴び、薬を塗り直してガーゼを替えた。
寝室から出ると、陸人はそこで初めて、新しく巻き直した肩のガーゼに気づいた。
ガーゼに目を留めた陸人は、珍しく少し気まずそうだった。
「彩香、今日は悪かったな」
けれど、次に続いた言葉で、その謝罪は一瞬で意味を失った。
「最近、疲れてるだろ。ちょうどいいから少し休め。今日の埋め合わせも兼ねて、雲ヶ丘グループの案件は、残りを綾ちゃんに任せることにした」
一瞬、聞き間違いかと思った。
あの案件には4か月かけてきた。要求の厳しい先方と何度も打ち合わせを重ね、細かな部分まで一つずつ詰め直して、ようやく契約まであと一歩というところまで来ていた。
それなのに、ここまで積み上げてきたものを、今さら綾香に渡すというのか。
「ここまで私がやってきたのに、今さら彼女に渡すの?そんなの認めない」
陸人の顔から、さっきまでの申し訳なさが消えた。
「認めるも何も、会社のことを決めるのは俺だ。お前はただの社員だろ。
彩香、なんでお前はいつもそうやって突っかかってくるんだ。
少しは綾ちゃんを見習えよ。同じ『あやか』なのに、なんでこうも違うんだ!」
その言葉で、私の中に残っていた何かが、ぷつりと切れた。
会社を立ち上げたばかりの頃、陸人は私の手を握って、「お前には才能がある。力を貸してほしい」と言った。
そして、いつか必ず、お前に不自由な思いはさせないと約束してくれた。
今では欲しいものを何でも手に入れられるほど成功したのに、陸人はもう私を見ていなかった。
私は笑った。
「彼女に任せたいなら、好きにすればいい。だったら私は辞める。これを機に転職する」
第3話
けれど陸人は、私の言葉など冗談だとでもいうように鼻で笑った。
「そうか。そこまで言うなら好きにしろ。退職届を持ってきたら、すぐにでも受理してやる。
まあ、お前に本当に出せるとは思わないけどな」
そう言い捨てると、陸人は振り返りもせず寝室へ戻った。
私が本当に辞めるとは、これっぽっちも思っていないのだろう。
翌朝、出社すると、何人かの新人が昨夜の話で盛り上がっていた。
「昨日は会社に残ってたから、パーティーの様子を見てないよね。河村、かなり得意げだったよ」
「横断幕の名前を間違えても、社長は何も言わないし。昨日なんて、ずっと社長にべったりだったよ。彩香さんよりよっぽど近かったじゃん」
「しばらくは河村に気をつけたほうがいいかも。うっかり怒らせたら面倒だし」
「そのうち、本当に彩香さんの代わりになったりして」
私はバッグをデスクに置きながら、口を挟んだ。
「案外、もうすぐかもね」
数人はぎょっとして、一斉に口をつぐんだ。
ひとりが慌てて取り繕った。
「彩香さん、違うんです。今のは、その……ただの冗談で」
私は笑っただけだった。
そのとき、廊下の向こうからヒールの音が近づいてきた。
綾香が書類の束を抱えてやってくると、周りにも聞こえるよう、わざと声を張った。
「彩香さん、陸人さんから、雲ヶ丘グループの案件は私が引き継ぐように言われました。今後は私が担当しますので、引き継ぎをお願いします」
勝ち誇ったような笑みを向けられても、私は何も言わなかった。
必要なデータをすべて共有し、引き継ぎの手続きも済ませた。
すると綾香は私のそばに寄り、声を潜めた。
「彩香さん、私だって手柄を横取りしたいわけじゃないんですよ。でも、陸人さんがどうしても私に任せるって言うから……仕方ないですよね」
綾香は、どこか弾むような足取りで去っていった。
私はパソコンを立ち上げ、昨夜作っておいた退職届を印刷した。署名を済ませ、そのまま社長室へ向かった。
背後で、またひそひそ話が始まった。
何を言っているのか、確かめるまでもなかった。
また私が綾香に負けたとか、綾香にはかなわないとか、どうせそんな話だ。
以前の私なら、耳にするだけで胸が痛んだ。
けれど今は、もう何とも思わなかった。
社長室に入ると、陸人は綾香に雲ヶ丘グループの案件について説明していた。
思わず笑いそうになった。
陸人が口にしていたのは、すべて私がまとめ、彼に報告した内容だった。
私が4か月かけて積み上げたものを、陸人は何のためらいもなく綾香に渡そうとしていた。
私は陸人の机まで歩き、退職届を置いた。
退職届に目を通すなり、陸人の目つきが変わった。
「綾ちゃんに嫉妬してるからって、ここまでする必要があるのか?」
ここまで来ても、まだ私が嫉妬して意地を張っているだけだと思っているらしい。
私は淡々と言った。
「サインをお願いします」
陸人は口元を歪め、ペンを手に取った。
「辞めるって言えば、俺が折れるとでも思ったか?」
乱暴にサインすると、退職届を私に向かって放った。
「これで満足か!」
床に落ちた退職届を拾い上げ、私はそのまま社長室を出た。
自分の席へ戻ると、すぐに全社チャットに通知が流れた。
【業務連絡
川村彩香の最近の勤務状況を踏まえ、本日付で雲ヶ丘グループの案件担当を河村綾香へ変更します。関係各部署は、業務の引き継ぎにご協力ください】
スマホを握る指に力が入った。
「最近の勤務状況を踏まえ」だなんて、具体的な理由すら書かず、まるで私に問題があるかのように見せている。
全社員の前で、私を笑いものにしたかったのだろう。
周囲の視線が一斉に私へ集まった。
私は何事もなかったような顔で、誰よりも先に返信した。
【承知しました】
仕事を終えて帰宅しても、陸人は戻ってこなかった。
ソファで待ちながらスマホを見ていると、綾香の投稿が流れてきた。
【夜遅くまで一緒に案件の流れを整理してくれた神上司!一生ついていきます!】
呆れて、スマホの画面を消した。
そのまま寝室へ行き、ベッドに入った。
翌朝、陸人は何食わぬ顔で帰ってきた。
玄関で靴を脱ぎながら、当然のように言った。
「昨日は遅くまで仕事してて、そのまま会社に泊まった。もう1日たったんだし、そろそろ機嫌直せよ。
いつまでも意地張るな。会社を辞めたことはもういい。このあと婚姻届を出しに行こう。仕事なんかしなくていい。これからは俺が養ってやる」
そう言いながらソファまで来ると、私を抱き寄せようと腕を伸ばした。
その瞬間、甘ったるい香水の匂いが鼻についた。
綾香がいつもつけている香りだった。
吐き気がした。
私は陸人の胸を押し返した。
「陸人、別れよう」
第4話
陸人は体を起こすと、小馬鹿にしたように笑った。
「彩香、もういい加減にしろ。
お前が俺と9年も付き合ってきたことは、周りもみんな知ってる。
それに、もう若くないだろ。今さらお前を選ぶ男がいると思うか?
会社も俺も失ったら、お前には何も残らない。自分でも分かってるだろ」
それが陸人の本音だった。
もう諦めたつもりだったのに、胸の奥が鈍く痛んだ。
喉の奥に込み上げたものを飲み込み、私は口を開いた。
「意地を張ってるんじゃない。もう婚姻届を出すつもりも――」
言い終わらないうちに、陸人のスマホが鳴った。
電話に出た途端、その声がやわらかくなった。
「どうした、綾ちゃん。雲ヶ丘の件、どうなった?」
電話の向こうから、綾香の涙声が聞こえた。
陸人の顔つきが変わった。
通話を切るなり、玄関へ向かった。
「婚姻届はまた今度でいいだろ。雲ヶ丘の件でトラブルがあったみたいだ」
私の返事も待たず、陸人は慌ただしく出ていった。
乾いた笑いがこぼれた。
綾香のこととなると、陸人はいつもこうだった。
しばらくして、私はスーツケースを取り出して荷物を詰め、残りの退職手続きを済ませるため会社へ向かった。
会社に着くと、オフィスは妙に静まり返っていた。
若手社員のひとりが周囲をうかがいながら近づき、声を潜めた。
「彩香さん、雲ヶ丘グループの案件、まずいことになってるみたいです。先方に送った資料の重要な数値にミスがあって、かなり怒ってるって……」
思わず足を止めると、奥から綾香が出てきた。
「彩香さん、陸人さんが呼んでます」
綾香はかすかに笑っていた。
嫌な予感がした。
社長室に入ると、陸人は険しい顔で私を見た。
「彩香、わざとやったのか?」
思わず聞き返した。
「何のこと?」
綾香は今にも泣き出しそうな顔で、陸人に訴えた。
「陸人さん、私、彩香さんから受け取ったファイルをそのまま先方に送っただけなんです。中身には何も手を加えてません。
どうしてこんなファイルを渡されたのか、私にも分からなくて……私のことが嫌いだからって、会社まで巻き込まなくてもいいじゃないですか」
あまりの白々しさに、かっとなった。
私は陸人を見た。
「本気で私が間違ったデータを渡したと思ってるの?」
陸人は何も答えなかった。
けれど、その沈黙が何よりの答えだった。
気づけば、握りしめた手が震えていた。
「陸人、私が仕事でこんなミスをしたこと、一度でもあった?」
私がどれだけ慎重に確認を重ねてきたか、陸人なら誰よりも知っているはずだった。
けれど陸人は、私の話を聞いても表情ひとつ変えなかった。
「こんな細工をする理由があるのは、お前しかいない。最近ずっと、俺に不満をぶつけてただろ。
俺が綾ちゃんに任せたのが気に入らなくて、わざと間違ったデータを渡した。そうすれば、俺が『彩香に任せておけばよかった』って後悔すると思ったんだろ?」
その言葉に、胸の奥がすっと冷えた。
もう信じてもらおうとは思わなかった。
「私が送ったファイルも、送信履歴も残ってる。調べればすぐ分かるでしょ」
陸人の目に、一瞬迷いがよぎった。
そのとき、綾香が泣きながら近づいてきて、私の腕をつかんだ。
「彩香さん、私のことが気に入らないのは分かります。でも、だからって会社に損害を出すなんて、ひどすぎます!」
そんな白々しい芝居に付き合う気はなく、私は腕をつかむ綾香の手を振り払った。その拍子に、指先が彼女の頬をかすめた。
強く振り払ったわけでもないのに、綾香は頬を押さえ、その場に倒れ込んだ。
陸人はすぐに私の手首をつかみ、嫌悪をむき出しにして怒鳴った。
「いい加減にしろよ!」
そして綾香を見ると、低い声で言った。
「綾ちゃん、立て。今の一発、返してやれ」
怒りで息が詰まりそうだった。必死に腕を引いても、陸人の手はびくともしなかった。
泣いていた綾香が、一瞬だけ笑った。
私は陸人をまっすぐ見据え、言った。
「陸人。私が一番後悔してるのは、あのとき、あなたの会社に入ったこと……」
パシン、と乾いた音が響いた。
頬に熱が走り、衝撃で顔が横へ弾かれた。
その場が静まり返った。
陸人は反射的に私の手首を離したが、悪びれる様子はなかった。
「これ以上、お前が好き勝手するのを黙って見てられない」
私は何も言わず、陸人に背を向けて会社を出た。
家に戻ると、社内チャットに人事通知が流れていた。
【人事通知
川村彩香について、重大な職務上の過失および機密情報の不正な漏洩が確認されたため、本日付で懲戒解雇処分とします】
一瞬、頭の中が真っ白になった。
陸人は綾香を守るために、私を機密情報を漏らした人間に仕立て上げ、再就職の道まで塞ぐつもりなのだろう。
その直後、陸人からメッセージが届いた。
【綾ちゃんにきちんと謝れば、この案件が終わったあとで会社に戻してやる】
気づけば、手のひらに爪の跡が残るほど、強く拳を握っていた。その痛みで、気持ちは完全に決まった。
私は返信せず、玄関に置いてあったスーツケースを手に取り、振り返ることなく家を出た。