この先の人生に、もう嵐はいらない

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この先の人生に、もう嵐はいらない

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丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした...

Chương (1)

第1章

丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。 築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。 なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。 弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。 「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」 込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。 「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」 彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」 食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。 「たった一束の、花のせいよ」 第1話 丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。 築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。 なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。 弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。 「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」 込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。 「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」 彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」 食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。 「たった一束の、花のせいよ」 今日、あの花束を受け取った瞬間、正直私は嬉しかった。 一弥もようやく分かってくれて、結婚記念日のサプライズを用意してくれたのだと思っていた。 けれど花に添えられたカードを開いた瞬間、私の笑みはその場で凍りついた。 【一弥先輩、叔母の手術のために遠方まで駆けつけてくれて、本当にありがとうございました。家族一同、心から感謝しております。 この花は私が先輩のために選んだものです。「私たち」にぴったりだと思って。気に入っていただけたら嬉しいです。――坪井優花(つぼい ゆか)】 手が震え、花束はどさりと床に落ちた。 三年前、父が重い病に倒れた。 医師からは、一刻も早い手術が必要だと告げられていた。 けれど田舎町の医療設備は乏しく、父の体力では遠方への転院に耐えられなかった。 私は泣きながら一弥に、実家まで来て父の手術をしてほしいと頼んだ。 けれど彼はこう言った。「うちの病院は出張手術を禁じている。仕事は仕事だ。私情で規則を曲げるわけにはいかない」 その後、父は転院する救急車の中で息を引き取った。 それは、私の一生の悔いとなった。 父の葬儀の供花には、私はあえて黒いダチュラを選んだ。 予測できない死と愛を意味するその花が、父を送るのにふさわしいと思ったから。 けれど本当は、予測できないものなど何もなかったのだ。 深夜、ふと目が覚めるたびに、死の間際の父の白髪交じりの頭を思い出し、全身が震えるほど泣いた。 一弥を恨んではいけないと何度も自分に言い聞かせた。誰にでも守りたい信念というものがあるのだから、と。 けれど本当は、規則は破れるものだったし、信念だって譲れるものだったのだ。 ただ、私にはその価値がなかっただけ。 親友との離婚に関する打ち合わせを終え、電話を切った。 飾りつけていたリボンや風船を、静かにすべてゴミ箱へ放り込んだ。 そして検索欄を開き、いくつかの文字を打ち込んだ。「車中泊 絶景ドライブ おすすめルート」 雪山、草原、湖、そして地平線まで続く曲がりくねった道。 かつて父と交わした約束。生きているうちに車を走らせ、カメラを片手に、あの道を旅しようと。 父が死んだ後、一弥は私を慰めようと、その未完の約束を父の代わりに叶えると言ってくれた。 けれどその年、彼はちょうど医長に昇進したばかりで、忙しさのあまり食事すらままならなかった。 彼には、身の回りの世話をし、家庭を守ってくれる専業主婦の妻が必要だった。 だから私は自分のスタジオを畳み、写真家から「大森さんの奥様」になった。 その年、私は全国規模の写真賞を受賞し、複数の一流企業からオファーを受け、将来を嘱望されていたというのに。 それでも私は、迷わずすべてを手放した。 その後、一弥は最年少で心臓外科の部長となり、業界屈指の名医と呼ばれるようになった。 一時は、自分の犠牲や努力に価値があったのだと思っていた。 今思えば、本当に滑稽な話だ…… 鍵の回る音が、物思いを断ち切った。 一弥が帰ってきた。 コートを脱ぎながら、彼はがらんとした食卓に目をやり、眉をひそめた。 「飯は?」 私はパソコンの画面から目を離さずに答えた。 「作る気になれなかった。疲れたから」 彼の眉間の皺が、さらに深くなる。 「俺より疲れてるとでも言うのか?」 私が答える前に、彼のスマホが鳴った。 画面を一瞥するなり、彼はすぐさま電話に出た。 「……どうした?」 電話の向こうから、優しい女性の声が聞こえてくる。 張り詰めていた彼の表情が、目に見えて緩んだ。 かすかな笑みさえ浮かんでいる。 「焦らなくていい、すぐ行く」 向こうから、病院の同僚らしき囃し立てる声が聞こえてくる。 「おっ、坪井師長がまた助っ人を呼んだぞ」 「大森先生、早く来てくださいよ。師長がもう限界です」 笑い声が絶えず、和やかな空気の中に、どこか二人を冷やかすような浮かれた雰囲気すら漂っていた。 籍を入れたはずの妻である私が、まるで部外者のようだった。 電話を切ると、一弥は脱いだばかりのコートをまた羽織り直した。 私は思わず口にした。「優花さん?」 彼の動きが一瞬止まる。 「患者の容体が急変したんだ。彼女一人じゃ手に負えない。人命がかかってる。妙な勘繰りはよせ」 言い終えると、彼は外へと向かって歩き出した。 私はその背中を見つめた。 先週も彼は同じように慌ただしく出かけ、3日間出張だと言っていたことを思い出す。 今考えれば、あれは出張などではなかった。 500キロも離れた場所まで、優花の叔母の手術のために駆けつけていたのだ。 「一弥」 私は彼を呼び止めた。 彼が振り返る。 「何だ?」 私は彼を見つめたまま、静かに尋ねた。 「今日が何の日か、覚えてる?」 彼は考える間もなく、口を突いて出た。「6月1日?」 私は笑った。 本当に忘れていたのだ。 今日は、私たちの結婚記念日。 結婚5周年なのに。 幸いにも、最後の年でもある。 「なんでもない」 私は視線を逸らした。 「仕事、頑張って」 一弥は私を見つめ、何かに気づいたような顔をした。 しばらく沈黙した後、硬い声で絞り出すように言った。 「片づいたら帰る。夜食、何か買ってこようか?」 私は首を横に振った。 「いらない」 もう二度と、必要ない。 一弥が出て行った後、私は着替えて、1週間も前から予約していたあのレストランへ向かった。 クラシック音楽が流れ、恋人たちが寄り添う中、私だけがひとりだった。 店員が尋ねてくる。「お客様、お連れ様はいつ頃いらっしゃいますか?」 私は笑って答えた。 「来ません」 もう、これから先も。 食事を終え、私はディーラーに電話をかけた。 「オフロード車を1台注文したいんです。性能重視で、長距離ドライブできるくらいの。予算は1500万円前後で」 担当者によると、条件に合う車種はあるものの、人気車種のため在庫がなく、取り寄せに1週間かかるという。 7日間。過去を手放し、この絡まりきった結婚生活を片づけるには、十分な時間だ。 「それでお願いします。1週間後に受け取りに伺います」 電話を切り、ブラウザを開いて車中泊の絶景ドライブ情報を眺め続けた。 写真が次々と流れていくうちに、5年間も棚上げにしていた夢が、再び息を吹き返していくような気がした。 しばらくして、親友から電話がかかってきた。離婚協議書はすでに作成済みで、メールで送ったという。 私は小さく「ありがとう」と応えた。 彼女は少し沈黙した後、堪えきれないように尋ねてきた。 「鈴実、あなたそこまで彼のこと愛してたのに、本当に手放せるの?」 私は逆に問い返した。「あなた、一弥が誰かのために信念を曲げて、我を忘れるほど必死になるところ、見たことある?」 「ない」彼女は正直に答えた。 「私はある」 窓の外に果てしなく広がる夜景を眺めながら、私は物悲しく笑った。 「でも、私のためじゃなかったわ」 第2話 親友との電話を切ったばかりのところに、レストランの入口から支配人の声が聞こえてきた。 「大森先生、ご予約のお席をご用意しております。どうぞこちらへ」 「大森先生」という呼び方に、私はすっかり敏感になっていて、思わず顔を上げた。 やはり、一弥だった。 そして彼の隣には、優花もいた。 ふたりは肩を並べて店内に入ってくる。 一弥はすでに白衣を脱ぎ、黒いシャツの袖を肘まで捲り上げていて、眉間には疲れの色が滲んでいた。 優花は彼のそばに立ち、首を傾げながら何かを話している。 何を話したのか、一弥がふと笑みを見せた。 その光景を茫然と見つめる私の胸に、針で刺されたような痛みが走った。 以前、彼が仕事から帰ってくると、私はいつも他愛のない話をしたがり、その日あったことを何もかも話して聞かせたくてたまらなかった。 けれど彼はいつも興味なさそうで、笑顔どころか返事すらろくになかった。 私はただ、仕事で疲れているから私に付き合う余裕がないのだと、自分を慰めるしかなかった。 今になってようやく分かった。彼は疲れていても、笑うことはできたのだ。 ただ、私には笑わなかっただけだ。 「奥さん?」 先に私に気づいたのは、優花だった。 彼女は足早に近づいてきて、いかにも感じのいい笑みを浮かべた。 「どうして一人でここに?」 私は答えなかった。 彼女も気にする様子はなく、むしろ自分から説明を始めた。 「今日、大きな交通事故があって、負傷者がすごく多かったんです。一弥先輩と私、午後からずっと働き詰めで。 さっき最後の手術が終わったところで、二人ともお腹ぺこぺこで。先輩がふと、ここに奥様の大好物の鱈のポワレがあるのを思い出して、どうしてもって連れてきてくれたんです。食べ終わったら、奥さんの分を包んで持ち帰るからって」 そう言い終えると、彼女は一弥の方へ振り返り、愛らしく微笑んだ。 「先輩、本当に奥さんのことが大好きなんですね。何をするにもいつも奥さんのことを考えてて。ふふ、羨ましいです。私にもそんなに愛してくれる人がいたらいいのに」 本当に、私を愛している? 本当に私を愛している人が、私たちの結婚記念日を忘れるだろうか? 本当に私を愛している人が、深夜に別の女性を連れて雰囲気のいいレストランへ食事に行くだろうか? 本当に私を愛している人が、他人の叔母のために500キロも駆けつけて手術をする一方で、私の父の最後の望みには手を貸そうとしなかっただろうか? そこまで考えて、私は優花を見上げ、低い声で言った。 「彼が私を愛しているかどうか、あなたには関係ないと思うけれど」 優花の顔から笑みが少しずつ消えていき、目の縁がみるみる赤くなった。 「ごめんなさい……私、何か間違ったこと言いましたか?本当に、ただの親切心だったんです……」 彼女の声はどんどん小さくなっていく。 涙も、それに合わせてこぼれ落ちた。 まるで、ひどい仕打ちを受けたかのように。 けれど私は、きつい言葉など一言も言っていない。 一弥は反射的に優花の前に立ち、私の視線を遮った。 その庇うような仕草が、目に突き刺さるように痛かった。 「鈴実、彼女に悪気がないのは分かってるだろう。なんでそんな言い方をするんだ」 彼の声が低く沈んだ。 「今日はあれだけ大勢の負傷者が運び込まれて、みんな必死で患者を助けてたんだ。彼女は師長として、一日中忙しくて飯すら食べる暇もなかった。いい加減にしろ」 周囲の人々も、次々と同調し始めた。 「医者も看護師も、本当に大変よね」 「手術を終えたばかりで、それでも奥さんに食べ物を持って帰ろうとしてるんだから、十分すぎるくらいでしょ」 「最近、束縛の強い人が多いのよね。妻だからって、あそこまで束縛するのは怖いわ」 言葉が次から次へと重なっていく。 誰もが、彼らの側に立っていた。 まるで私が、救いようのない悪女であるかのように。 私はひどく疲れを感じた。 彼らがあまりにもっともらしく正論を振りかざすせいで、私には弁解の余地さえ残されていなかった。 これ以上関わりたくなくて、バッグを手に取り、背を向けて歩き出した。 一弥の横を通り過ぎようとしたとき、手首を強く掴まれた。 かなりの力で、私は思わず眉をひそめた。 「離して」 一弥の顔つきが険しくなった。 「まず、優花に謝れ」 自分の耳を疑った。 「……何ですって?」 「さっきの言葉、彼女をひどく傷つけたんだ。謝れ」 私は優花を見た。目を赤くしたまま一弥の後ろに立つ姿は、まるで怯えた小兎のようだった。 そして一弥は彼女を庇うように前に立ち、私がまるで恐ろしい猛獣であるかのように振る舞っていた。 私は笑った。 「……なら教えて。さっきの私の言葉、どこが間違ってたの?私たち夫婦のことが、彼女――ただの同僚に、何の関係があるの?」 「同僚」という言葉を、私はことさら強く発音した。 一弥は一瞬言葉に詰まり、何も答えられなかった。 その隙に手を引き抜き、私は振り返ることなく出口へと歩いていった。 背後から、怒りを押し殺したような一弥の声が聞こえてくる。 「鈴実!今日謝らずに帰るなら、どうなるか分かってるのか!」 私は足を止めることなく、振り返りもせず、そのままレストランを後にした。 夜の冷たい風が頬を撫で、胸の中のわだかまりをすべて吹き飛ばしていく。 ふと気づいた。この一歩を踏み出しさえすれば、もう何にも縛られることはないのだと。 家に帰ると、離婚協議書を印刷した。 来週の土曜日までに、すべてが終わる。 第3話 一睡もせず、私はひと晩中荷物を片づけ続けた。 絶え間なく動き続けることだけが、胸にぽっかり空いた穴を忘れさせてくれた。 夜が明けかける頃、私は物置を開けて、長らく眠らせていた撮影機材を引っ張り出した。 カメラを手に取り、電源ボタンを押す。 小さな起動音とともに、画面が再び明るくなった。 その瞬間、鼻の奥がつんと熱くなった。 よかった、まだ壊れていない。まだ間に合う。 カメラを抱えたままリビングに戻った。 片づけが半分ほど終わったところで、スマホが鳴った。 不動産の仲介業者からだった。 「大森鈴実様、先週ご夫婦で内見されたあの物件の件で、オーナー様からご了承をいただきました。問題がなければ、来週末には契約が可能です」 私は動きを止めた。すっかり忘れていた。 少し前、一弥が昇進して収入も大幅に増えた。 今の家は狭すぎるし、将来子供ができたら不便だからと、もっと広い家に引っ越そうと言い出したのは彼だった。 言い出したのは彼だったのに、内見も、物件選びも、業者とのやり取りも、間取りの比較も、ローンの計算も、すべて私ひとりでやっていた。 彼が付き合ってくれたのは、たった一度きり。 あの日、私は張り切って彼を子供部屋にする予定の部屋に連れて行き、どんな内装が好みかと尋ねた。 けれど彼はスマホに目を落としたまま、上の空でこう答えただけだった。 「いいんじゃない、お前が決めていいぞ」 そのとき、はっきりと見えてしまった。彼のトーク画面の相手が優花だったことを。 物件を最後まで見終わる前に、彼は優花に呼び出されて先に帰ってしまった。 そこまで思い出し、私は落ち着いた声で業者に告げた。 「あの物件、やめておきます」 「え?」 業者は面食らったようだった。 「どうしてですか?旦那様、あの物件をとても気に入っていらっしゃいましたのに」 私は手の中のカメラに目を落とした。 しばらく黙り込んだ後、そっと笑った。 「私たち、離婚するので」 電話の向こうが、一瞬で静まり返った。 それ以上の説明はせず、私はそのまま電話を切った。 荷物を整理し終えた頃には、すでに日は高く昇っていた。 私は離婚協議書と離婚届を持って、車を走らせ病院へ向かった。 5年間の結婚生活も、たった数枚の薄い紙で終わってしまう。 手に持つと驚くほど軽くて、笑ってしまうほどだった。 昼休みの時間帯で、一弥はきっと執務室にいるだろうと当たりをつけて、そのまま向かった。 手を上げてドアをノックすると、開けたのは優花だった。 彼女の顔に、一瞬戸惑いの色がよぎった。 「鈴実さん?」 私は反射的に部屋の奥を覗き込み、一弥の姿を探した。 けれど彼女は体を横にずらして私の視線を遮り、声を潜めて言った。 「先輩、昨夜すごく疲れていて、今朝も午前中ずっと診察していて、さっきようやく休めたところなんです。何かご用ですか?」 私は彼女を見つめた。 髪は少し乱れていた。 服も皺だらけだった。 そして彼女の背後には、一弥の執務室があった。 なぜか、胃の中から吐き気が込み上げてきた。 私は手の中の書類袋を強く握りしめ、無理やり視線を逸らした。 「サインをもらいに来たの」 優花は私の手の中の書類にちらりと目をやり、微笑んだ。 「先輩、本当に疲れていて、ようやく1時間だけ休めることになったところなので、起こすのは可哀想で……よろしければ私に預けてください。目が覚めたら、代わりにお渡ししておきますね」 一度は断ろうとした。 けれどふと考え直した。今の私は、一弥に一秒たりとも会いたくなかった。 だから私は、書類を彼女に手渡した。 「よろしくお願いします」 そう言って、私はきびすを返し、執務室を後にした。 頭の中で、先ほどの光景が何度も蘇る。 彼のいる執務室にいた彼女。ふたりで過ごしていた昼休み。 あまりに自然で、あまりに馴染んでいて、まるでそれが当たり前であるかのように。 胃の不快感が、さらに強くなっていく。 吐き気がした。 吐きそうなほどに。 私は急いでトイレに駆け込み、洗面台に手をついてえずいた。 胃の中は空っぽで、何も出てこなかった。 どれほど時間が経ったのか、ようやくその苦しさが治まった。 冷たい水で顔を洗った。 トイレを出た瞬間、目の前が急にぐるりと回った。 抗えないまま、私はそのまま意識を失った…… 目を覚ましたとき、鼻先に消毒液の匂いが漂っていた。 ゆっくりと目を開けると、自分が病室のベッドに横たわっていることに気づいた。 そばにいた看護師が、私が目を覚ましたのを見てほっと息をついた。 「よかった、目を覚まされましたね」 私はゆっくり身を起こした。頭がまだ少しふらついていた。 「……私、どうしたんですか?」 看護師は笑いながら検査結果の用紙を差し出した。 「大きな問題はありません。ただ、睡眠と休養が足りていないだけです。それと……」 彼女は少し間を置き、笑みを浮かべた。 「おめでとうございます。妊娠されていますよ」 第4話 私は検査結果の用紙を握りしめた。 妊娠5週目。 たったそれだけの文字なのに、まるで巨大な岩が胸にのしかかってきたかのように息が詰まった。 本当は、ずっと子供が欲しかったのだ。 街で見かける3人家族の姿に、いつも想像を膨らませていた。私と一弥の子供は、どんな顔で生まれてくるのだろう、と。 彼に似ているだろうか、それとも私に似ているだろうか。 けれど一弥は仕事があまりに忙しく、子供の話はそのたびに先延ばしにされていった。 よりによって、離婚協議書を突きつけたこのタイミングで新しい命を授かるなんて。なんとも皮肉な巡り合わせだった。 ちょうどそのとき、病室のドアが勢いよく開いた。 入ってきたのは一弥だった。 彼の手には、昼間に優花へ預けたあの書類袋が握られており、その表情は酷く険しかった。 次の瞬間、書類袋が私に向かって投げつけられた。 彼は眉をひそめて言い放った。 「書類にはサインしておいた。だが、新居の契約手続きなんてプライベートなことだろう。今後は病院に持ってこないでくれ。優花に見られたらどう思われる」 私は思わず吹き出しそうになった。 なるほど、彼はこれを新居の契約書類だと勘違いしたらしい。 だから中身も確かめずに、そのまま名前を書いたのだ。 なら、好都合だ。無駄な口論を重ねずに済む。 私は黙って離婚協議書と離婚届をバッグにしまった。ずっと胸を塞いでいたつかえが、ようやく取れたような気がした。 私の沈黙を見て、一弥の表情がわずかに和らいだ。 「ゆっくり休め。俺は仕事に戻るから、先に行くぞ」 彼の落ち着き払った顔を見つめながら、私は思わず小さな声で尋ねていた。 「……私がどうして病室のベッドに横たわっているのか、少しも気にならないの?」 一弥は一瞬きょとんとして足を止め、それから淡々と答えた。 「低血糖だろう?昔からだろ。まあよく休んで、さっさと帰れよ。くだらないことで病院に来るな」 私は呆然と彼を見つめた。心臓をきつく掴まれたような、鈍い痛みが広がっていく。 確かに私は低血糖気味だった。 昔の彼のポケットには、いつも飴が数粒入っていたものだ。 チョコレートのこともあれば、フルーツキャンディーのこともあった。 私の体調が悪くなるたびに、彼はそれをひとつぶ、私の口に含ませてくれた。 けれど、いつからだろう。彼のポケットから飴が消えて、もう久しい。 先週、彼の洗濯物を片づけていたとき、代わりに白衣のポケットから見つかったのは、ひとつのヘアゴムだった。 淡い水色の、小さなうさぎの飾りがついたもの。 それを、優花が髪につけているのを見たことがあった。 そこまで思い出したとき、ひどい疲労感が押し寄せてきた。 もう、問いただす気力すら残っていなかった。 私は一弥を見つめ、口を開きかけた。お腹の子供のことをどう伝えるべきか、迷っていたそのときだった。 病室のドアが開いた。 「先生!」 若い医師が慌てた様子で駆け込んできた。 「32番ベッドの患者さん、容体が急変しました!ご家族が興奮していて、優花さんを殴りかねない勢いです。すぐに来てください!」 一弥の顔色が変わり、迷うことなく背を向けて走り去った。 彼は一度も、私を振り返らなかった。 彼の頭の中は、今や優花のことでいっぱいなのだ。 慌ただしく遠ざかっていく背中を見つめながら、胸に残っていた最後の未練が、完全に消え去るのを感じた。 しばらくして、私はうつむいた。 そっと、自分のお腹に触れてみる。 まだ平らで、何の感触もない。 けれど私は知っている。ここに、ひとつの命があることを。 あれほど待ち望んでいた子供が、ここにいる。 ただ授かるのが、遅すぎただけだ。 私は目を閉じ、覚悟を決めてナースコールを押した。 手の中の検査結果を握りしめたまま、静かに告げた。 「中絶手術をお願いします」 看護師は驚いたように聞き返した。「えっ?」 私は窓の外を見つめた。午後の日差しはあんなにも暖かそうなのに、今の私には少しの温もりも届かなかった。 「できるだけ早くお願いします」 第5話 いくら急いだところで、手術は明日の午前に組まれることになった。 私はひとまず自宅へ帰るしかなかった。 夕日が沈みゆくベランダは、美しかった。 クチナシ、バラ、多肉植物、アジサイ……どれも、この数年をかけて私が少しずつ育ててきた植物たちだ。 一弥は仕事にかまけて私を顧みる暇すらなかったから、私はただ植物に愛情を注ぐしかなかった。 私がいなくなれば、彼がこれらの世話をするはずもない。枯れさせてしまうのは忍びなかった。 そう思い、スマホで写真を撮って、地域の譲渡掲示板に投稿した。 【引っ越すことになりました。ベランダの植木を無料でお譲りします。取りに来てくださる方優先です】 近所には、思いのほか園芸好きが多かったらしい。 30分もしないうちに次々と引き取り手が決まり、ベランダの半分以上がすっきり片づいた。 最後のアジサイの鉢を送り出したとき、私はがらんとしたベランダに立ち尽くし、ぼんやりと空を眺めていた。 執着を手放すのは、思っていたよりもずっと簡単だと、そのとき初めて知った。 植木の整理を終えると、私はクローゼットへと向かった。 ガラスの棚には、様々なバッグがずらりと並んでいる。 その大半は、一弥からの贈り物だった。 以前はもらうたびに、飛び上がるほど嬉しかったものだ。 けれど今改めて見つめ直すと、バッグを渡してくるときの彼のいい加減な態度や、同じ型のバッグを二度も贈られた記憶が蘇り、笑えてくるほど滑稽だった。 私が愛していたのは、どうやら私自身が理想を投影した一弥の虚像だったらしい。 恋という色眼鏡が外れてみれば、ようやく分かる。あんなにも、取るに足らないものだったのだと。 私は写真を撮ってアップロードし、彼からもらったバッグをすべてフリマアプリに出品した。 すぐに買い手がつき、ひと晩で7、8個が売れた。 ぎっしり詰まっていたクローゼットに、たちまち大きな空白ができる。 まるで私の心まで、少しずつ削られ、空っぽになっていくようだった。 夜の10時、玄関の鍵が回る音がした。 顔を上げると、戻ってきた一弥の姿があった。 額の端は擦りむけ、顔には青あざが浮かび、右腕には分厚い包帯が巻かれている。 正確に言えば、そんな彼を支えていたのは優花だった。 彼女は目を真っ赤に腫らし、激しく泣いたあとだと一目で分かった。 「奥さん、今日、患者のご家族が暴れて……先輩は私を庇って怪我をされたんです。先輩のこと、ちゃんと看てあげてくださいね」 私は彼女を一瞥し、至って冷静な声で言った。 「そんなに心配なら、あなたがここに残って看病すればいいじゃない」 優花の顔が瞬時に赤くなり、涙がさらに激しく溢れ出た。 「その、そういう意味じゃなくて……先輩とはただの同僚で……」 言い終わらないうちに、一弥の顔が険しく歪んだ。 「鈴実、少しは棘のない話し方ができないのか?」 私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「私が何を言ったっていうの?」 「優花は好意で俺を送ってくれたんだぞ。当て擦りのような言い方はやめろ」 彼は車の鍵をテーブルに叩きつけた。私に向けるその目には、あからさまな失望の色が浮かんでいた。 優花は慌てて涙を拭った。 「先輩、奥さんを責めないでください!全部私が悪いんです。お送りするべきじゃなかった。もう帰ります!」 そう言い残すと、彼女は身を翻して走り去っていった。 一弥は迷う素振りも見せず、すぐにその後を追って飛び出していった。 玄関のドアが重く閉まり、部屋には再び静寂が戻った。私はうつむき、淡々と荷物の片づけを続けた。 1時間後、一弥がようやく戻ってきた。先ほどよりもさらに苛立った顔つきで。 彼は私の様子の異変にも、がらんとしたベランダやクローゼットにも一切気づく様子がなく、ただこう吐き捨てた。 「これで満足か?」 私は顔を上げもしなかった。 「何が?」 「優花は泣きながら帰ったんだぞ。彼女は何もしていないのに、なんでいつも彼女を目の敵にするんだ」 私は荷造りの手を止めなかった。とうに見慣れた光景だ。 彼の目には、いつだって優花が哀れな被害者で、私が理不尽に責め立てる悪女なのだ。 最後のバッグを段ボールに詰め込むと、言い争う気力もなく、そのまま立ち上がって寝室へ向かった。 「待てよ」 一弥の声が低く冷たくなった。 「また夕飯を作っていないのか?」 私は足を止めた。 「冷蔵庫に作り置きがあるわ。作れないなら、出前でも取ればいいじゃない」 一弥の顔つきはみるみるうちに険しくなり、包帯の巻かれた右手を突き出してきた。 「俺は怪我をしているんだぞ」 私は振り返り、皮肉混じりの笑みを浮かべた。 「私のために負った怪我じゃないでしょう。それとも、私が代わりに看病でもしろって言うの?」 一弥の顔から血の気が引いた。 しばらくの沈黙の後、彼は冷ややかに笑った。 「そうか。ふん、お前、たいしたものだな」 次の瞬間、彼は書斎へと入っていった。 ドアが乱暴に閉められる。壁が震えるほどの凄まじい音だった。 けれど私は、眉ひとつ動かさなかった。 明日は手術がある。彼と揉めている暇などないのだ。 布団に潜り込むと、あっという間に深い眠りに落ちた。 離婚を決意してから、一番深く眠れた夜だった。 翌朝早く、知世がわざわざ車で迎えに来てくれた。 「本当に、覚悟は決まってるの?」 彼女はハンドルを握りながら、念を押すように、もう一度尋ねてきた。 私は自分のお腹に目を落とし、しばらく沈黙した後、静かに頷いた。 「決まってるわ」 ――ごめんね、我が子。 もし生まれ変わったら、今度こそ、愛し合う両親のもとに生まれてきてね…… 手続きを終え、私は手術室へと運ばれた。 医師がカルテの情報を確認している。麻酔科医もすでに準備を終えていた。 ちょうどそのとき、見覚えのある人影が入ってきた。 顔を上げ、その人物と目が合った瞬間、背筋が凍りついた。 優花だった。 彼女は無菌の手術衣を身にまとい、マスクをつけ、医師のすぐそばに立っていた。 私の視線に気づいても少しも動じる様子はなく、その澄んだ瞳の奥には、はっきりとした笑みが浮かんでいた。 第6話 優花の姿を認識した瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。 「介助の看護師を替えてください」 私は反射的に体を起こそうとした。 けれど、医師に押さえつけられた。 「何を騒いでいるんですか。彼女はうちの科でも指折りの優秀な看護師ですよ。手術介助に入ってほしいと希望する患者さんもいるくらいです。わざわざ来てくれたんだ、あなたは運がいいですよ」 私はまだ抗おうとした。 けれど麻酔科医が、すでに注射器を手に近づいてきていた。 「力を抜いてください。眠ればすぐに終わりますからね」 冷たい液体が、ゆっくりと血管に流し込まれていく。 急速に意識が遠のいていく。 最後に見えたのは、無影灯の下に立つ優花が、不気味な目でじっと私を見つめていた姿だった…… どれほど時間が経っただろうか、激しい痛みで目が覚めた。 下腹部が引きつるように痛み、まるで温かい何かが絶えず流れ出ているようだった。 目を開けると、病室には誰もおらず、優花だけが淡々と看護記録を記入していた。 「少し、苦しい……」 か細い声しか出せなかった。 優花は近づいてきて私を一瞥すると、平然とした顔で言い放った。 「普通の反応ですよ。術後はみなさんこうなります。静かに休んでいてください」 そう言うと、また手元に目を戻して記録を続けた。 けれど時間が経つにつれ、目眩はどんどん強くなり、呼吸すらままならなくなっていった。 私はやっとの思いで震える手を上げた。 「看護師さん……」 優花がようやく顔を上げ、わずかに眉をひそめた。 「落ち着いてください。手術の直後は体が弱っているものです。もう少し様子を見ましょう」 そう冷たく言い残すと、彼女は背を向けて部屋を出て行った。 ベッドに横たわったまま、私の意識は急激に朦朧としていった。 暗闇に沈みかける中、誰かが激しく駆け込んでくる音が聞こえた。 「鈴実!」 知世だった。 私はもう声が出せなかった。ただ必死に、彼女の手を掴んだ。 親友はシーツに目をやるなり、悲鳴のような声を上げた。 「先生!早く先生を呼んで!鈴実、大出血してるわ!」 病室はたちまち騒然となった。 足音が慌ただしく入り乱れる。 「血圧が低下しています!」 「すぐに処置を!」 「点滴の準備を急いで!」 耳元で怒号が渦巻く中、私は完全に意識を手放した。 再び目を覚ましたときには、すでに夕方になっていた。 病室には私ひとりだけだった。 開いたドアの向こうから、激しく言い争う声が漏れ聞こえてくる。 「これのどこが問題のない対応なのよ!?」 親友の声だった。彼女がこれほど激昂しているのを、私は見たことがなかった。 「患者が出血性ショックで死にかけたんだからね!もし私が気づくのが遅れていたらどうなっていたと思うの!この病院では、患者をこんなふうに扱うの!?」 しばらくの沈黙の後、優花の泣きじゃくる声が響いた。 「申し訳ございません……本当に、術後の一般的な反応だと思っていて……今までの患者さんも、みんなそうだったから……わざとじゃないんです……」 親友は怒りで声を震わせた。 「わざとじゃない?わざとじゃなかったら済むと思っているの!?彼女、死にかけたのよ!」 そのとき、聞き覚えのある低い声が響いた。 「もういい」 私は息を呑んだ。一弥だった。 「先輩……」 優花はようやく救世主を見つけたかのように、嗚咽を漏らした。 「本当に、わざとじゃないんです……」 一弥は低い声で彼女を宥めた。 「怖がらなくていい。この件は俺が対応する」 知世は怒りのあまり呆れ果てたように笑った。 「対応?どう対応するつもり?彼女は人を殺しかけたのよ!」 一弥は至って真剣な口調で言い返した。 「彼女はうちの科でも指折りの優秀な看護師だ。長年、大きなミスを起こしたことは一度もない。手順通りに経過観察をしていたんだ。今のところ、彼女に落ち度があったとは認められない。俺は彼女の専門性を信頼している」 親友は声が裏返るほどの怒りを爆発させた。 「一弥!あなた、あの中に横たわっているのが誰か分かっているの!?」 一弥はしばらく黙り込み、それでも冷静なトーンのまま答えた。 「君が鈴実の友人なのは知っている。だが、その関係だけで君の身内を特別扱いするつもりはない」 彼は、知世が自分の親戚か何かを不当にかばって騒ぎ立てているのだと思い込んでいるのだ。 親友はあまりの怒りに激しく息を荒げ、言葉を失っていた。 そして一弥は優花を庇うようにしてその場を立ち去り、ふたりの足音は徐々に遠ざかっていった。 すぐに、通りかかった看護師たちの噂話が聞こえてきた。 「大森先生、本当に優花のことを大事にしているわよね。さっきもずっと庇ってたし」 「私が彼女だったら、絶対に好きになっちゃうな」 「あの二人、本当にお似合いよね。うちの病院で一番優秀な医者と看護師だし、羨ましい限りだわ」 ひとつひとつの言葉が、鋭い針となって私の心に突き刺さった。 病室のドアが開き、知世が目を真っ赤にしたまま入ってきた。 私が目を覚ましているのを見ると、慌てて両手で私の耳を塞いだ。 「聞かなくていいわ。全部でたらめだから」 私はそっとその手を下ろし、穏やかな笑みを浮かべてみせた。 「大丈夫よ。もう、すっかり吹っ切れたから」 一度死にかけた身だ。今さら吹っ切れないものなんて、何一つない。 そう言い終えた瞬間、ベッドサイドのテーブルでスマホが震え出した。 画面に表示された名前は、一弥。 親友の顔が、たちまち険しくなる。 「よくもまあ、平気で電話してこられるわね」 私は自分でも驚くほど凪いだ気持ちで、通話ボタンを押した。 次の瞬間、耳に馴染んだ男の声が響く。どこか不機嫌そうな響きを帯びて。 「鈴実、どこへ行ったんだ?」 第7話 「どこへ行くも何も」私は抑揚のない声で問い返した。 「今日、ガス会社の点検が来たんだ」 一弥の声は冷ややかに響いた。 「家に誰もいなくて、こっちに確認の電話が回ってきたぞ。なんで家にいなかったんだ?」 なるほど、そういうことか。 私は一瞬でも、彼がようやく私の異変に気づいてくれたのかと勘違いしそうになった。 うつむき、自嘲気味に笑う。いまだにそんな現実離れした期待を抱くなんて、自分でも滑稽だった。 「なんで私がいつも家にいなきゃいけないの?」私は問い返した。「私には、自分の用事ひとつないと思っているわけ?」 電話の向こうが一瞬黙り込み、それから当然だとでも言わんばかりの一弥の声が返ってきた。 「仕事もしていないくせに、何の用があるんだ」 私は軽く鼻で笑った。「仕事していなかったら、外出も駄目なの?自分の生活を持っちゃいけないの?旅行に行くのも許されないわけ?」 一弥の口調が徐々に険しさを増していく。 「お前さ、最近本当にどうしたんだ?飯も作らない、家にも寄り付かない、何かにつけて不機嫌になる。今度はひとりで旅行に出かけるなんて、頭がおかしくなったのか?」 私は窓の外に広がる夕焼けを眺めながら、静かに答えた。 「おかしくなってないわ。ただ、目が覚めただけよ」 電話の向こうが、一瞬にして静まり返った。 しばらくして、一弥が冷ややかな鼻笑いを漏らす。 「そうかよ。好きにしろ。お前が帰らないなら、俺も帰らないからな。どっちが先に根負けするか、見ものだな」 そう言い捨てるなり、電話は一方的に切られた。 そばで聞いていた知世は、手にしたスマホを叩き割りそうなほどの怒りを露わにしていた。 「はぁ?あのクズ男、頭おかしいんじゃないの!?主任なんでしょ?少し調べれば、あなたが入院していることくらいすぐに分かるはずじゃない!それを、これっぽっちも気にかけないなんて……!」 そう叫ぶ彼女の目がみるみる赤くなり、私をぎゅっと抱きしめてきた。 「鈴実、泣きたいなら泣きなよ。我慢しなくていいから」 私は彼女の温かい肩にもたれ、長い沈黙の後、小さく首を横に振った。 「ううん、泣けないわ」 だって、私の涙はとっくに、涸れ果ててしまったのだから。 3日後、体調が十分に回復した私は退院手続きを済ませ、荷物を取りに一度だけ家へ戻った。 ドアを開けた瞬間、思わず足が止まる。 一弥が、家にいたのだ。 視線が交わり、その場の空気が凍りついた。 結局、先に沈黙を破ったのは彼の方だった。 「帰ってきたのか。どこに遊びに行っていたんだ?」 私は何も答えず、まっすぐ寝室へと向かい、クローゼットを開けて自分の身分証明書を確認し始めた。 背後から、一弥の声が追いかけてくる。 「絶景ルートをドライブしたいって、ずっと言っていただろう?ちょうど新居も決まったし、車も買い替え時だ。明日、車を見に行こう。次の休みには、ドライブにも付き合ってやるよ」 私の動きが、ピタリと止まった。 もし以前の私だったら、この言葉を聞いただけでも、嬉しさのあまり眠れなくなるほどだっただろう。 けれど今は、もう遅すぎる。 私は背を向けて淡々と答えた。「いらない」 一弥は眉をひそめた。「なんでだよ」 新しい車なら、もう自分で買ったから。 私がこれから向かう道に、あなたはもう必要ないから。 「理由なんてないわ」私は無感情に言った。 取り付く島もない私の態度に、一弥の我慢はついに限界を迎えたようだった。 「優花がいつも、お前にもっと優しくしてやれって言ってくれているから、俺がここまで歩み寄ってやってるのに、なんだその態度は?」 私は思わず皮肉っぽく笑った。 「彼女が言えば何でも聞くのね。じゃあ彼女が死ねって言ったら、あなたは死ぬわけ?」 一弥の顔から血の気が引いた。 「鈴実!最近、どうしてそんな言い方をするようになったんだ?」 私は書類を整理する手を止めず、彼の方を振り返りもしなかった。 一弥はその場に立ち尽くし、激しい呼吸で胸を上下させていた。 やがて、冷ややかな笑みを漏らす。 「はっ、どうやらお互いに頭を冷やす必要がありそうだな。ここ数日は病院に泊まる。お前も、ひとりでよく反省しろ」 そう言い放つと、彼はコートを掴み、ドアを乱暴に閉めて出て行った。 その間、私はただの一度も顔を上げなかった。 玄関が閉まったのを確認してから、私はゆっくりとベッドサイドのテーブルへと歩み寄った。 バッグから2枚の書類を取り出す。 1枚目。 役所に離婚届を提出した後に発行された受理証明書。 2枚目。 あの病院で発行された人工妊娠中絶手術の記録。 そして、もう何の役にも立たなくなった、あのエコー写真。 私はそれらをきっちりと重ね、ベッドサイドテーブルの最も目立つ場所に置いた。 それからキャリーケースを引き、迷うことなく家を出た。 この家はどこを向いても一弥の気配で満ちていて、もう1秒たりともいたくなかった。 A市で過ごす最後の夜は、静かなホテルで過ごすことに決めた。 翌朝早く、私は予約していたディーラーへと向かった。 営業担当者が満面の笑みで迎えてくれる。 「大森鈴実様、お車のご準備が整っております」 最後の書類にサインをしようとしたそのとき、聞き覚えのある男女の声が耳に飛び込んできた。 「これ、どうかな?」 振り返ると、少し離れた展示スペースに、オフロード車のそばに立つ一弥の姿があった。 そして優花が彼の隣で、内装や装備を楽しそうに覗き込んでいる。 何がそんなにおかしいのか、ふたりは顔を見合わせて同時に声をあげて笑った。 その空気はあまりにも自然で、まるで長年連れ添った恋人同士のようだった。 担当の営業マンが、ふたりに愛想よく笑顔を向けている。 「おふたりとも、本当にお目が高い!このモデルはカップルでのドライブにも大人気でして、若いご夫婦にもよく選ばれているんですよ。ぜひ試乗してみませんか?」 一弥は「妻ではない」と否定することもなく、そのまま運転席へ乗り込み、試乗の準備を始めた。 優花は頬を赤らめながらも言葉を濁し、当然のように助手席へと乗り込んだ。 二人はそのまま、試乗車に乗って店舗を走り去っていった。 店員たちが楽しげにひそひそ話を始めている。 「あの二人、本当にお似合いね。美男美女だし」 「聞いた話じゃ同じ大学の先輩後輩で、今は同じ病院で働いているんですって。もう運命みたいじゃない!」 「もう、尊すぎる……」 私はその会話を静かに聞いていたが、胸の奥は自分でも驚くほど穏やかで、何の痛みも感じなかった。 「大森鈴実様?」 営業マネージャーが、少し心配そうに小さく声をかけてきた。 我に返った私は、てきぱきと残りの書類にサインを済ませた。 カードで決済を終え、新しい車の鍵を受け取ると、私は自分の愛車へと歩み寄った。 エンジンをかける。 ギアを入れる。 アクセルを踏み込む。 バックミラーには、試乗を終えた一弥たちを乗せた車が、私とは正反対の方向へと走り去っていくのが映っていた。 けれど私は、一度も振り返らなかった。 目の前には、私だけの新しい人生の道が果てなく広がっている。 5年という長い歳月をかけて、私はようやく、自分自身を取り戻したのだ。