元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚

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元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚

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結婚して4年。夫の初恋相手が帰ってきた時、谷口凛(たにぐち りん)はすべてを悟った。夫が自分に一切触れようとせず、今まで冷たくあしらって...

Chương (1)

第1章

結婚して4年。夫の初恋相手が帰ってきた時、谷口凛(たにぐち りん)はすべてを悟った。夫が自分に一切触れようとせず、今まで冷たくあしらってきたのは、彼の性格のせいではなかったのだ。 彼女に渡された生活費は月、たったの数万円。それなのに、彼の初恋がしている研究には、数千万円もの大金をつぎ込んでいたのだった。 その瞬間、彼女は愛される者とそうでない者の残酷な差を思い知った。 谷口智也(たにぐち ともや)は、「初恋の人を結婚で縛りつけたくない、その輝きを失わせたくない」と言う。それなのに凛には仕事を辞めさせて、自分のやりたいことや夢を捨てて家庭に入るよう求めてきた。 でも、智也は知らなかった。妻である凛が、ただのしがない会社員ではないことを…… この4年間、凛は国の最高機密レベルの研究プロジェクトを率いていた。その地位はあまりにも高く、智也の言う「初恋の人」でさえ、彼女の指揮下で働く一員でしかないのだ。 そして智也は、自身が何気なくサインした書類が、二人の関係に終わりを告げる離婚届だったということを更に知る由もなかった。 そして彼が離婚届にサインした1ヶ月後。 凛が天才科学者であることが世に知れ渡り、智也もそこで初めて、自分がすでに離婚していたことを知るのだった。 それを知った時、いつも物腰の柔らかい智也は信じられないという驚きから、みるみるうちに怒りに変わり、目を真っ赤にしながら悪態をついたのだった。 「俺と離婚して、彼女みたいなバツイチを誰が選ぶっていうんだ?」 しかし、後になって復縁を乞うようになったのもそんな強がりを言っていた智也だった。 一方、再び智也に会った凛は、すでに超名門グループの社長の傍に寄り添っていた。元夫を見る彼女の瞳には、もはや何の感情も宿っていなかった。 そして竹内社長もまた眉をくいと上げると、得意気に言った。「谷口社長、みっともないですよ。彼女は今……俺の妻です」 第1話 「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」 家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。 仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。 「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。 なんて、偶然なんだろう。 一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。 「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活をして、毎月6000万円も彼女の研究費につぎ込んできたじゃないか。 向こうは今じゃ立派になって、帰国してからは国家プロジェクトの特別専門家だぜ?彼女にちょっと競合の情報を流してもらえれば、ホシゾラ・テクノロジーでの社長の座も安泰ってわけだ」 それを聞いて、凛はぱっと顔を上げた。その目には信じられないという色が浮かんでいた。 彼女は何かの聞き間違いじゃないかと思った。 6000万円? 智也が毎月くれる生活費はたったの6万円なのに。他の女には、毎月6000万円も渡しているわけ? でも、家の中から聞こえる会話はあまりにも鮮明だった。その一語一句が耳に突き刺さり、そして、智也もその事実を否定しなかった。 その一瞬、凛はショックで息ができなくなるほどだった。 すると突然、智也が立ち上がり、腕時計に目を落とした。「もうこの話はよそう。柚葉を困らせたくないんだ。俺、今から柚葉を迎えに行かないと。テーブルはそのままでいいよ、どうせ凛が帰ってきたら片づけるだろうし」 「おいおい、智也。奥さんは、すごくいい人じゃないか。家のことちゃんとやってるし、ご両親と妹さんの面倒まで見てくれるんだぞ。それでも何とも思わないのか?」 智也の答えが知りたくて、凛は息を殺して、聞き耳を立てた。 だが智也は冷たく言い放った。「俺が好きなのは、凛みたいな家庭に縛られてる女じゃない。昔からずっと、柚葉みたいに仕事にすべてを懸けて輝く女が、俺のタイプなんだ」 その言葉は、ナイフのように凛の胸に突き刺さった。 彼女の目はみるみる赤くなり、手も震えだした。 「じゃあなんで最初、奥さんにアタックしたんだよ?しかも結婚までして」 「あの頃、柚葉が俺を置いて、どうしても海外に行くって聞かなくて」 「それじゃただ柚葉に当てつけるために結婚したっていうのか?」 それに対して、智也は何も言わず、まるで認めたようだった。 「それで、柚葉さんが帰ってきたから、彼女と離婚するってわけか?」このとき、親友はもう凛を「奥さん」とは呼ばなくなっていた。 そう聞かれ、智也はまた黙り込み、しばらくしてから、彼は口を開いた。「確かにお前の言う通りだ。凛は俺の世話をよく焼いてくれる。ここ数年、持病の胃痛も起きてないし、家族のことも全部よくしてくれてた。おかげで、家のことで困ったことは一度もない」 智也はホシゾラ・テクノロジーの跡継ぎというわけじゃない。社長の座に就けたのは、半分は無理な接待で勝ち取ったようなものだ。だから、若い頃に胃を悪くしていた。 それを心配した凛は、朝は早く起きて、夜は時間通り家に帰り、彼に体を労わる料理を用意してあげていた。 智也が残業の時は、彼の会社まで食事を届け、それから自分の研究所に戻るようにしていた。 結婚して4年間、彼女はそんな毎日を続けたのだ。 そして今日、4年がかりで秘密裏に進めてきた「マイクロチップ開発プロジェクト」が、ついに成功したのだ。 研究所はまもなく、技術の実施企業を公募する予定で、実用化されれば、社会にとっても大きな貢献となるだろう。 そしてプロジェクトの責任者である凛は、巨額の報酬と、国際的な評価が約束されていた。 だから、彼女は一刻も早く家に帰って、この良い知らせを智也と分かち合いたかった。 そして家に帰る途中、ボーナスでどんなプレゼントを買うかまで考え、ホシゾラ・テクノロジーの社長である智也にふさわしい、高価なものを選んであげようとしていたのだ。 そんな凛の耳に、智也の言葉が響く。「でも、柚葉みたいに優秀で輝いている女性を、結婚で縛りつけるなんて、俺にはできないからな」 その瞬間、彼女は愛される者とそうでない者の残酷な差を思い知った。 涙が抑えきれずに頬を伝い、そのしょっぱさが唇に広がった。 家の中から玄関に向かう足音が近づいてくるのが聞こえて、凛はとっさに廊下の角に身を隠した。 さらに足音が遠ざかってから、凛はゆっくりと家の中に入った。すると、リビングのテーブルの上がめちゃくちゃに散らかっているのが目に入った。 どうやら、智也は自分を妻としてではなく、使用人として見ているようだ。 そう思うと、家を片付ける気力もまったくなくなり、凛は全身の力が抜けて、ただ横になりたいと思った。 でも、ベッドに横になっても少しも眠れず、これまでの出来事が次々と頭に浮かんでくるのだった。 智也と初めて会った時、彼は雨に濡れていた。そのとき、自分はたまたま傘を持っていて、傘をさしてあげた。 次に会った時、自分はバスに乗り遅れそうになっていた。すると、智也がたまたま車で通り、乗せてくれた。 それからというもの、二人は頻繁に顔を合わせるようになった。 恩師の二宮史哉(にのみや ふみや)が亡くなった時、智也がそばにいてくれた。 育った児童養護施設を訪ねた時も、一緒に来てくれたのは智也だった。 プロジェクトが中断し、仕事を失った時も、智也は自分を抱きしめて、「大丈夫だよ」と言って、プロポーズしてくれた。 月給わずか18万円の平社員になった時も、智也は、「それだってすごいよ」だと笑って頭を撫でてくれた。 …… 夜中になって、凛はようやくうとうとと眠りについた。 そして朝6時。智也の朝食を作る時間になると、彼女の体内時計が、いつものように彼女を目覚めさせた。 疲れきった目をこすりながら、凛は目を開けた。 手をかざしてみるとベッドのもう片側は冷たく、ゲストルームの布団も使われた形跡はなかった。 昨夜、智也は帰ってこなかったのだ。 そう思った瞬間、玄関で電子ロックの開く音が聞こえて、 凛は振り返った。 帰ってきた智也は、当たり前のように上着を彼女に渡し、抱きしめようと一歩近づいたが、何かを思い出したのか、その動きをぴたりと止めた。 「昨日は親友と集まって、タバコと酒の臭いがついちゃったから、洗ってからにするよ」 以前の智也なら、外での付き合いから帰ってくると、いつも凛をぎゅっと抱きしめて、「こうすると、帰ってきたって感じがする」と言っていた。 そうやって凛はぼんやりと思い出した。智也に最後に抱きしめられたのは、もう2週間も前のことだということに気が付いた。 この2週間、同じベッドで寝ていても、お互いに背を向けて眠るだけだった。智也は仕事で疲れているから、簡単なハグさえしてくれなくなったのだなと、彼女は思っていた。 そして、柚葉が帰国したのも、ちょうど2週間前のことだった。 なるほど、予兆はとっくにあったんだ。 そう思って凛は目を伏せ、長いまつげが、その瞳に浮かんだ悲しみをそっと隠す。 一方、ソファにどっかりと腰を下ろした智也は、散らかったテーブルを指さした。「なんで片付けてないんだ?」 「昨日は体調が悪くて、すぐ寝ちゃったの」そう言ったとき、食べ残しのにおいがした。きれい好きな彼女は、やはりテーブルを片付けずにはいられなかった。「片付けてたら朝ごはんを作る時間ないから、自分で何か頼んで食べて」 そう言われ智也は、そこで初めて凛の異変に気づいた。 結婚して4年、彼が出張でない限り、凛は必ず食事を作ってくれた。少なくともおかず数品に汁物がつき、毎週の献立が被ることはなかった。 今朝はどうしたんだ? 「もしかして、俺が昨夜帰らなかったから怒ってるのか?」智也は急に真剣な声で呼びかけた。「なあ、凛ちゃん」 だが、その呼びかけに、凛の胸はさらに苦しくなった。 智也は優しくて、話し方が上手な男だった。付き合い始めた頃、不意に耳元で、「凛ちゃん?」と囁かれ、彼女はいつも恥ずかしくて耳まで真っ赤になった。そして耳元で囁くのは人前でしないでほしいと彼によく言ったものだった。 あの頃は智也も彼女の気持ちを気遣ってくれたものだった。 それからしばらく二人は仲睦まじい生活を送り、智也も、いつも「凛ちゃん」と優しく呼びかけてくれていたのだった。 「ほら、凛ちゃん、機嫌を直せよ。お前の言うこと、ちゃんと聞いてるだろ?親友との集まりでも、酒は飲まなかったし」智也は手を伸ばし、凛の後頭部を優しく撫でた。「ご飯作らないならそれでも構わないさ。俺はシャワーを浴びてくるから」 凛は小さく、「うん」とだけ答えて、彼の方は見なかった。 それを見て智也は眉をひそめ、心の中の疑問を口にせずにはいられなかった。「凛ちゃん、今日何か変だぞ」 「寝不足なの」凛は無理に笑みを作ると、シャワーに行くように促した。すると、智也は突然シルクのスカーフを取り出した。ロゴを見て、かなり高価なものだと一目で分かった。 「昨日の帰り道にたまたま見つけて、お前に買ったんだ」彼はそう言って渡すと、バスルームに入っていった。 凛は柔らかなスカーフを握りしめてしばらく呆然としていたが、それをバッグに入れ、研究所へ向かった。 一方、「マイクロチップ開発プロジェクト」は史哉の死によって一度中断したが、再開後は凛が責任者となった。機密保持のため、史哉の妻・二宮杏(にのみや あん)が口利きをしてくれて、表向きは竹内グループの事務職員ということになっていた。 だから智也は未だに、凛のことを月給18万円の平社員だと思い込んでいるのだった。 しかし実際のところ、彼女は毎日家から竹内グループへ向かい、東門から入り、広大なテクノロジーパークを通り、西門へと抜けていた。そこには、研究所が手配した専用の運転手が待っているのだ。 その日、凛は研究室にいても一日中上の空だった。夕方近くになって、教授の佐野克哉(さの かつや)が心配そうに尋ねてきた。「今夜、小林さんと食事だから、機嫌が悪いのかい?」 「小林柚葉ですか?」凛は顔を上げた。 克哉はとても驚いた顔をした。 「覚えてたのか!君は旦那さんのこと以外、誰にも興味がないのかと思ってたよ。もうみんなは顔を合わせているんだ。君たちだけだよ、まだ会ってないのは。これ以上会わないと、和を乱してるって思われかねないぞ」 凛は眉をひそめた。 自分は智也に出会った時、彼が失恋の痛みを抱えていることには気づいていた。でも、その相手が誰なのかは知らなかった。 智也の心の傷に触れたくなくて、一度も尋ねたことはなかった。 そして、彼もこの4年間、一度もその女性の話をしなかった。まるで、そんな人はいなかったかのように。 だから、もう過去のことなのだと思っていた。誰にだって、過去の一つや二つはあるものだから。 でも昨日、知ってしまった。智也は忘れるどころか、陰でその女性のためにお金と労力をつぎ込んでいたのだ。 そう思うと、凛は何も言わなかった。 すると克哉は困ったように唇を噛んだ。彼は、凛が柚葉を快く思っていないことを知っていた。このプロジェクトは凛の恩師の、そして今では彼女自身の血と汗の結晶だ。 そこに、赤の他人が足を踏み入れられたら誰だって嫌なはず。そんな成果だけを横取りしにきた人間に、席を一つ譲ってあげるだけでも、十分すぎるほど寛大だと言えるだろう。 それなのに今、その相手と食事に行けと言われれば、それは少し、酷な要求かもしれない。 それでも克哉は、忠告せずにはいられなかった。「今回は断らない方がいい。でないと、松田さんがご機嫌を損ねかねない」 松田英樹(まつだ ひでき)は研究所の最高責任者で、柚葉の母方の祖父でもあった。 この関係は、凛もアシスタントの高木梓(たかぎ あずさ)がこっそり話しているのを聞いて知っていた。 そしてチームのメンバーも皆、柚葉が突然加わったことを快く思っていなかった。彼女の経歴が素晴らしいのは確かだ。しかし、この研究所に入れる人間で、優秀じゃない者などいるだろうか? みんなが4年間、必死で頑張ってきて、あと数ヶ月で成果を発表できるという、まさにそのタイミングだった。 そこへ柚葉が、外部専門家という肩書きで割り込んできた。開発プロセスには一切参加していないくせに、成果だけは横取りしようというのだ。それはまるで、論文を提出する直前に、全く貢献していない第二著者の名前を加えろと言われるよりも、不快なことだ。 だからこそ、凛はずっと、外部専門家がプロジェクトの中枢エリアに入ることを許可していなかった。そして彼女は研究所での仕事が終わればすぐに家に帰っていたので、柚葉はまだ彼女に会ったことすらなかった。 凛はマジックミラー越しに、外の様子を眺めた。 すると柚葉が白衣を脱ぎ、ブラウンの本革のコートを羽織るのが見えた。彼女は栗色の髪をかきあげ、高そうな白いクロコダイルのバッグを肩にかけた。 今朝、智也がくれたスカーフと、同じブランドのものだ。 それに気が付いた凛は、思わずバッグからスカーフを取り出した。そして何かがおかしい、という不安が胸をよぎった。 ちょうどその時、アシスタントの梓がノックして部屋に入ってきた。彼女は凛が手にしているスカーフを見て、驚いたように言った。「先輩、ボーナスでそこのバッグ、買ったんですか?」 「ううん」凛は目の前の梓を見て、少し不思議そうに付け加えた。「バッグは買ってないわ」 梓は言った。「あ、スカーフが見えたから、てっきりバッグを買ったのかと思いました。普通、このブランドのスカーフって、バッグ買った人にしか出してないんですよ」 「バッグを買った人限定?」そう聞き返しながら、凛の胸がぎゅっと締め付けられた。 第2話 梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。 しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。 彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」 「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。 凛は彼女の方を見た。 克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」 「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話しているところに居合わせたんです。松田さんも彼女のバッグに気づいて、服装に気をつけるよう注意したら、小林さんは昨夜親友からもらったものだから、無駄にはできないって……数千万円もするバッグをくれる親友なんて、どこにいますか!」と梓はため息をついた。 凛は、「親友」という言葉を口の中でそっと繰り返した。今朝、智也も同じことを言っていた。 彼女はさらに尋ねた。「そのカバンを買うと、スカーフもついてくるの?」 「それだけじゃないですよ、他にもたくさんついてきます。スカーフはその中の一つでしかありません。まあ、こういうスカーフは単品で買う人もいますけどね」と梓は言った。 凛の心は、梓の言葉に浮き沈みした。 「佐野先生、すみません、今夜の食事会は欠席します。家に用事ができましたので」 克哉はためらいがちに尋ねた。「大変なことか?」 「はい、大変なことです」 世界が崩れ落ちるくらいには。 克哉は凛を気遣った。「それなら仕方ないな。小林さんにはこっちから話しておくよ。家のことに集中して。プロジェクトも終盤だから、前ほど忙しくはない。これからは毎日研究所に来なくてもいいし、大事なことがあれば連絡するから」 「はい」凛はマスクをつけて、一人でその場を去った。 彼女は家には帰らず、タクシーでホシゾラ・テクノロジーのビルの前に来た。そこで、思いがけず智也と顔を合わせた。 でも、智也は凛に気づかなかった。 彼女がマスクをしていたからか、この時間は退勤する人が多すぎたからか、それとも智也が電話で忙しかったからか。 でも、二人は4年も夫婦なのに…… 智也は凛の前を通り過ぎて行った。 凛は振り返って後を追い、少し近づくと、彼の電話の内容が聞こえてきた。 「食事会があるから、迎えに来なくていいって?」智也は立ち止まった。 凛もそれに合わせて立ち止まった。 「わかった。終わったら連絡して。迎えに行くから」智也は振り返り、再び凛のそばを通り過ぎて行った。 エレベーターの前に着いたとき、智也はふと足を止め、脳裏にかすかな人影がよぎった。 彼は振り返った。 「社長、何かお探しですか?」と秘書の田中浩(たなか ひろし)が尋ねた。 智也は首を振った。見間違いだろう。凛はこの時間、家のキッチンにいるはずで、自分の会社の前に現れるはずがない。 今夜は家で食事をしないから、凛には少なめに作るよう、メッセージを送っておくか。 ピロン。 凛はメッセージを受け取り、そこに表示された短い一行を、無言で見つめた。 彼女は家に帰らず、智也が再びビルから出てくるのを待ち、後を追うようにタクシーを拾った。 車が止まると、凛は道路の向かいに立った。回転ドアから出てきた柚葉が、ごく自然に智也の腕に絡みつき、楽しそうに話しながら車に乗り込むのを見ていた。 夫は自ら他の女のために車のドアを開け、その頭を庇うように手を添える。その仕草はあまりに優しく、甘い眼差しは、愛情に満ちていた。 凛は智也の優しい姿を見たことはあった。けれど、こんなにも愛情のこもった目は見たことがなかった。まるで溶けた砂糖のように、一人の女性にまとわりついて離れようとしない。 車は彼女の前を、土煙を上げて走り去った。 車内の智也はまた眉をひそめ、窓の外に目をやった。 「智也、何を見てるの?」と柚葉が尋ねた。 「いや、なんでもない」きっと疲れているのだろうと智也は思った。でなければ、何度も凛の幻を見るはずがない。 凛は一人でちゃんとご飯を食べているだろうか、と彼は少しぼんやり考えた。 道端に立ち尽くしていた凛は、バッグから数万円もするそのスカーフを取り出した。 結婚して4年、これは智也がくれた中で一番高価なプレゼントだった。 それなのに、ただのノベルティだなんて。 柚葉に買った、数千万円のバッグのおまけの一つでしかないのだ。 凛はスカーフの上から、手のひらに爪が食い込むほど強く握りしめた。そうすれば、心の痛みが少しは和らぐような気がした。 悲しみに浸る間もなく、電話がけたたましく鳴り響いた。 夫の妹である谷口胡桃(たにぐち くるみ)からだった。 電話に出ると、向こうから泣きじゃくる声が聞こえてきた。「凛さん、うわあああああん……」 谷口家の人々は、凛がみなしご出身であることを見下していた。特に智也の事業が成功してからは、誰もが凛と智也は釣り合わないと思っていた。 義理の妹の胡桃に至っては、凛を顎で使っていた。 ただ、問題を起こして兄に言えない時だけ、「凛さん」と呼ぶのだった。 「また何かしでかしたの?」凛は平坦な声で尋ねた。 胡桃は車で事故を起こし、相手に賠償金と治療費を払わなければならなかった。彼女自身も怪我をしてベッドに寝ているという。 電話口で胡桃は、絶対に家族には言わないでと何度も念を押した。 凛は承諾し、急いで病院へ向かった。 「何でこんなに遅いのよ!こっちは痛くて死にそうなのに!トロくて、本当にノロマね!」 親切心で駆けつけたのに、開口一番浴びせられたのは文句の嵐だった。凛は一瞬表情を抑えきれなくなり、冷たい視線で胡桃を見つめた。 すると、胡桃はきょとんとした。 いつも一家の言うことを何でも聞いていた凛が、どうして変わってしまったのだろう?こんな目つきで自分を見るなんて。 「何よ、その目。お兄ちゃんに、いじめられたって言いつけてやるんだから!」 兄が味方についてくれると思うと、胡桃はまた威張り散らし始めた。 周りの人間は皆、凛が智也を命がけで愛し、彼のためなら何でもして、どんなことでも我慢することを知っていた。 「お兄ちゃんに言いつけられたくなかったら……」胡桃は目をぱちくりさせ、突然にこやかに笑った。「凛さん、お腹すいちゃった。高級店のお寿司が食べたいな。買ってきてよ」 一人前が4万円もして、しかも予約が必要なお寿司だ。 以前はいつも凛が自分のお金で胡桃に買っていた。でも、もうそんな気にはなれなかった。 これまで智也のために節約してきたお金は、すべて柚葉の懐に入っていたのだ。 凛の心は冷え切っていくばかりだった。 「今すぐ彼に言えばいいわ」 凛は気にも留めず、背を向けて部屋を出て、看護師に智也へ電話をかけるよう頼んだ。 被害者の家族もかなり騒いでいた。以前なら、凛が間に入ってなだめただろう。 しかし今回は何もしなかった。まるで傍観者のように、少し冷めた視線でただ見つめ、智也の両親が慌てて駆けつけてくるのを待った。 被害者家族は、加害者の両親だと知ると、すぐに群がって説明と賠償を求めた。 身なりの良い智也の両親は、人が近寄るのを嫌がりながらも、娘を探そうと必死につま先立ちで辺りを見回していた。そして嫁である凛を見つけると、まず睨みつけ、それから被害者家族を彼女に押し付けようとした。 凛は二人の意図を察し、人混みをかき分けて言った。「お父さん、お母さん、胡桃のところに案内します」 そして被害者家族に向き直り言った。「皆さんご安心ください。あの子の兄はホシゾラ・テクノロジーの社長です。世間的にも名の知れた人物ですから、決して責任逃れは致しません。負うべき責任はきちんと負わせていただきます」 彼女の誠意ある言葉に、向こうの興奮も少しだけ収まった。 しかし被害者の兄が要点を掴んだ。「ホシゾラ・テクノロジーだな。もし責任逃れするようなことがあれば、会社に乗り込むからな!」 智也の両親は、凛が息子の会社名と役職を勝手に名乗ったことにひどく不満だった。彼らが田舎者と見下す連中に息子がつきまとわれる可能性が出てきたことで、二人揃って凛をキッと睨みつけた。 騒ぎ立てる人々が去っていくのを見届けると、智也の父親・谷口健吾(たにぐち けんご)は冷ややかに皮肉を言った。「いつからそんなに口が達者になったんだ」 智也の母親・谷口梨花(たにぐち りか)はショールを直しながら、まくしたてた。「凛、大したもんね。お金は稼げない、子供は産めない、挙句の果てには胡桃の面倒も見れないなんて。あの子の顔に傷が残ったり、足に後遺症でも残ったりしたら、これからどうやって人前に出るの?お嫁にいけなくなるじゃないの?さっきは自分の夫まで巻き込もうとして。あなたは妻としてどうなの? 本当に、バカで根性悪いわ!」 「根性悪い?」 智也と結婚して以来、胡桃の世話は自分の責任だった。胡桃が少し擦りむいただけでも、この二人は自分を罵った。 4年間、自分は文句も言わずに尽くしてきたのに、尊敬されるどころか、返ってきたのは、「根性悪い」という一言? 凛は指の関節が白くなるほど拳を握りしめ、鼻で笑いたかった。 「胡桃の責任は、あなたたちの責任です。智也の責任でもあります。でも、私の責任では決してありません」 いつも黙って罵られていた人間が突然言い返してきたので、谷口夫婦は一瞬呆気にとられたが、すぐに怒りの炎はさらに燃え上がった。 自分たちは年長者だ。凛は目下のくせに口答えするなんて。 「智也と一緒にいる限り、谷口家の問題はお前の問題だ!」健吾は大声で怒鳴った。「そこで突っ立って何をしている!さっさと金を出して賠償してこい!事が大きくなったら、智也の将来に響くんだぞ!」 「私にお金はありません」凛は背筋を伸ばした。 「お金がない?」それを聞くと梨花は腹が立って仕方がなかった。「智也の数億円の資産は全部あなたが持ってるんでしょ。よくもまあ、お金がないなんて言えたものね?」 息子が事業で成功して家を買い、使用人を雇ってくれるようになってから、彼らは世界旅行に行こうと考えていた。 しかし、その度に息子に金を無心しても、「ない」の一点張り。「もう少し待ってくれ」と繰り返すばかり。 金がどこに行ったのかと尋ねると、また黙り込んでしまう。 二人は考えた。金はきっと凛ががっちり管理しているに違いないと。ここ数年の息子の暮らしぶりを見ても、なんと質素な生活をしていることか。 良い服はほんの数着しか持っていない。見ていられないほど哀れだった。 「智也が、お金は私が持っていると言ったんですか?」凛の冷え切った心は、さらに深く沈んでいった。「彼が毎月くれるのは6万円だけです。記録をお見せすることもできます」 「何よ、そんなのどうせ偽造したものでしょ」梨花は全く信じようとしなかった。 健吾は眉をひそめて凛をじろじろ見た。「智也の金で株に手を出して、全部スッたってわけじゃないだろうな?」 凛は怒りで顔をこわばらせた。「信じようと信じまいと、私にお金はありません。智也のお金も、私が持っているわけではありません」 言い終えて、その場を去ろうと振り返った、その時だった。 智也がやって来た。 だが今回は一人ではなかった。柚葉も一緒だった。 凛は動きを止め、視線が交わった。 智也もわずかに表情をこわばらせ、彼女たちの方へ歩み寄り、ここで何をしているのかと冷たく尋ねた。 隣にいた梨花は一目で柚葉だと気づいた。さっきまでの険しい形相が嘘のように、途端に愛想良くなり、彼女の手を取ってしきりに話しかけた。 「柚葉ちゃんじゃないの。何年も会ってないわね、外国では元気にしていた?向こうの食事は口に合わなかったんじゃない?まあ、痩せちゃって。でも、相変わらず綺麗ね」 「お二人とも相変わらずお元気で、昔と全然変わりませんね」柚葉は褒め言葉を返した後、申し訳なさそうな表情を見せた。 「電話で胡桃ちゃんが事故に遭われたと聞いて、急いで来たものですから、お二人への手土産も用意できなくて、日を改めて、またご挨拶に伺ってもよろしいですか?」 「もちろんよ!」と梨花は待ってましたとばかりに言った。 柚葉は微笑むと、ふと彼女たちのほうへ歩み寄った。「智也、紹介してくれないの?」 智也の眼差しが優しくなる。「柚葉、こちらは俺の……妻の谷口凛だ。 そしてこちらは大学時代の友人の小林柚葉だ。小林さんと呼んでくれ。彼女はとても優秀な女性なんだ」 「谷口凛というお名前なんですか?」 柚葉は赤い唇の端を吊り上げ、目の前の女を上から下まで値踏みするように見た。その目には、隠しきれない軽蔑の色が浮かんでいた。 「奇遇ですね。私が担当しているプロジェクトにも、同じ名前の方がいるんです」 第3話 「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」 智也は、淡々とした口調で説明した。 「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」 「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。 「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」 もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。 やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。 凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?」 柚葉が答える前に、智也が割り込んできた。 「お前には関係ない。下手に首を突っ込むなよ。国の機密プロジェクトだから、外部には言えないんだ」 「機密プロジェクトなのに、どうしてあなたたちは内容を知っているの?」凛は冷ややかに聞き返した。 柚葉はきょとんとし、凛を見る目がわずかに変わった。 彼女は智也の方を向き、「凛さんって、なかなか面白い方なのね」と言った。 智也は眉をひそめ、再び凛をないがしろにした。 「わからないって言ってるだろ。しつこいな」 凛の鼻の奥が、ツンとした。 智也は彼女に目もくれず、ただ柚葉だけを見つめていた。 柚葉は得意げに口角を上げたが、すぐに無理に笑顔を作って話題を変えた。「智也、あなたが結婚するって聞いた時……冗談かと思ったの」 その言葉の裏には、切なさがにじんでいた。 智也の表情が、再びこわばった。 二人は黙って見つめ合った。 周囲の空気は、ずしりと重くなった。 「冗談なんかじゃない」と智也は言った。 すると、再び沈黙してしまった。 「私、少し後悔してるの」柚葉が、意味深に言った。 凛は、隣に立つ智也の手が微かに震えているのを感じ取った。 「凛さん、誤解しないで。智也が電話をくれたのに、あなたたちの結婚式に参加できなかったことが心残りで。あの時は、智也が私をからかっているだけだと思ってたのよ」 柚葉は話している間、ずっと智也を見つめていた。安物の服で着飾ることもない凛のことなど、まるで目に入っていないかのようだった。 凛はふと、智也と結婚した時のことを思い出した。あの頃、不思議に思いながらも理由が分からなかった、いくつかの些細な出来事だ。 結婚式は内輪だけで行われ、招待客は智也の親しい友人と谷口家の人たちだけだった。 それでも智也は、親友達と夜更けまで飲み明かし、千鳥足で部屋に戻ってきた。 ひどく酔った彼は、ドアを開けるなり床に座り込んでしまった。片手には飲みかけのボトル、もう片方の手にはスマホが握られていた。 赤く充血した瞳の奥の感情は読み取れず、ただ指を強く握りしめては緩める、という動作を繰り返していた。 凛がそばに寄ると、智也の目に涙が浮かんでいるのがはっきりと分かった。 智也はスマホを放り投げると、凛を強く抱きしめて言った。「嬉しいんだ。俺は結婚したんだからな……」 でも、その笑顔はひどく苦しそうだった。 今にして思えば、智也は結婚式の日に柚葉に電話をかけて、自分の結婚を盾に彼女の気を引こうとしたのだろう。 自分の存在意義は、初めからそれだけだったのだ。 今度は、自分が笑う番だと思った。 乾いた喉の奥が、じわりと苦くなった。 一同が胡桃の病室に入った。胡桃はまず両親と兄に泣きついた。そして柚葉の顔を見るやいなや、パッと明るい表情になった。「柚葉さん!」 「胡桃ちゃん、久しぶりね」柚葉はかがんで、彼女の小さな頬を軽くつねった。 胡桃は嬉しそうに顔をほころばせた。普段は兄にさえ、わがまま放題の彼女が、こんなに素直で甘えている姿を、凛は初めて見た。 ただ、凛に対してだけは、相変わらず偉そうだった。 「凛さん!リンゴ剥いてよ」 「あら、私がやるわ」 柚葉はにこやかにリンゴと果物ナイフを手に取った。だが、その手首を掴む者がいた。 彼女を止めたのは智也だった。 「柚葉、凛を甘やかすな。お前の手は、こんな雑用をするためのものじゃないだろ」 「そうよ!」胡桃も調子を合わせる。「あなたの手は、実験やデータ記録のための大切な手なんだから。こんな雑用なんてさせられないわ。凛さんがやってよ、いつもやってるんだから」 柚葉は智也を見ながら、「でも、いいのかしら」と言った。 智也はフルーツの盛り合わせを凛の前に押しやりながら言った。「大丈夫。凛は研究とかは全く駄目だけど、こういう家事は得意なんだ。リンゴで花の飾り切りもできるんだぜ」 昔は凛もできなかった。ただ、智也が果物嫌いだったから、体に良いものをどうにか食べさせようと、あれこれ工夫を凝らしてきただけだ。 「どうしても食べたくない。花でも作ってくれるなら、食べてやってもいいけど」智也はそう言った。 凛はその言葉を真に受け、ネットで調べては飾り切りの練習をした。 そんな愛情から覚えた技術が、智也の目にはこれほど些末なこととして映っていたのだ。 凛はテーブルの上のリンゴを手に取ると、軽く拭き、皮も剥かずにがぶりと噛みついた。シャリっとした甘い果汁が喉を通ると、胸に渦巻く苦みが少しだけ和らぐ気がした。 「手がふさがってるから無理よ。小林さんにお願いしたら?」 智也は凛を睨みつけ、眉間に深くしわを刻んだ。 この数日、どういうわけか凛はトゲのある態度をとるようになり、従順ではなくなった。 凛はシャリシャリとリンゴをかじりながら、皆の非難がましい視線を浴びつつ言った。「被害者の方は示談を待っているわ。お父さんたちはあなたのお金を私が管理してるって言うけど、私は毎月の生活費6万円以外はもらってない。自分で何とかして」 声は氷のように冷たかった。 智也の眉がピクリと動いた。 すると、柚葉の口元の笑みがこわばった。「胡桃ちゃんも大丈夫そうだし、私はそろそろ失礼するわね」 「送るよ」智也は即座に言ったが、妻の前で他の女性にあまりに親切なのはまずいと思ったのか、気まずそうに凛を一瞥すると、自分の銀行カードを差し出した。「示談金はこれで払ってくれ」 「手がふさがってる」凛は片手にリンゴ、片手にバッグを持ったまま数歩後ずさりした。その表情は、ひどく冷ややかだった。 智也は、凛が自分の思い通りにならないことに、苛立ちを覚え始めていた。 だが柚葉の手前、今ここで怒るわけにはいかない。彼女を怖がらせてしまうからだ。 「分かった。俺が行く」 「智也、私も付き合うわ」 「ああ」 二人は部屋を出ていった。 凛も、谷口家の人々の冷たい視線を背に、病室を後にした。 外は、冷たい秋風が吹いていた。 まるで意地悪な運命のいたずらのように、凛は自宅の前で、別れを惜しむ二人を見かけてしまった。 柚葉は、目の前の長身の男性を見上げながら言った。「智也、今日は部屋まで送ってもらわなくていいわ。凛さんがご機嫌ななめみたいだったから、早く帰ってあげて」 「同じマンションなんだから、すぐそこだ」智也は眉をひそめた。「もうこんな時間だから、送らないと心配だ」 「智也、あなたは既婚者よ。こんなの、よくないわ」柚葉はわざと一歩後ろに下がった。 帰国してからこの2週間、毎日智也に送り迎えさせていたくせに、今さらそんなことを言うなんて。凛は反吐が出そうだった。 柚葉はさらに続けた。「凛さんは良い人みたいね。あなたのことをとても大切にしているのがわかるわ。いつもあなたに甘えてばっかりだった、私とは大違い」 「比べるまでもない。あいつは専業主婦だ、お前とは違う」智也は凛の最近の反抗的な態度を思い出し、イライラした口調で言った。「あいつのことはいい。送るよ」 「本当にいいから。凛さんに誤解されたら大変」柚葉は再び優しく断った。「でも、一つ気になってたんだけど……結婚して4年経つのに、子供はいないの?」 その質問は、凛も何度も聞かれたことがあった。 彼女だって、智也との子供が欲しかった。 児童養護施設の先生は言っていた。結婚して、夫がいて、子供が生まれれば、自分だけの本当の家族が持てるのだと。 でも、事に及ぼうとするたび、智也は、「明日は仕事だ」とか「子供は嫌いだ」と言って、いつも寸前でやめてしまうのだった。 凛自身も、プロジェクトに没頭し、夫と夫の両親の世話、そしてしょっちゅう問題を起こす義理の妹後始末に追われ、睡眠以外の時間はほとんどなかった。そのため、強い欲求を抱く暇もなかったのだ。 ときには、小説に出てくる夫婦のように、夫と深く求め合ってみたいと思うこともあった。でも、夫の気持ちに逆らうことは決してなかった。 みなしごとして育った凛にとって、愛する人がそばにいてくれるだけで十分だった。一人じゃないと思えれば、体を重ねることなど重要ではなかったのだ。 智也がいらないと言うのなら、それでよかった。 今ならわかる。智也が欲しくなかったのは、子供ではなく、この自分自身だったのだ。 「子供はいない」智也は言った。 柚葉は少し驚いたように、「どうして?」と尋ねた。 「別に理由はない」智也は眉間にしわを寄せた。 「あら、そう」柚葉の声は少しがっかりしたように聞こえた。彼女は苦笑いを浮かべ、「あなたはあの時の冗談をまだ根に持ってるのかと思ったわ」と言った。 「え?」智也は顔を上げた。 「昔、言ってたじゃない。子供は好きじゃない、私たちの間にできた子を除いては」柚葉は楽しそうに彼を見つめた。 智也は黙り込んだ。 「ごめん、結婚しているあなたにこんなこと言うべきじゃなかったわね。早く帰ってあげて。凛さんが変に勘ぐるわ。仕事のある私と違って、彼女にはあなたしかいないんだもの。女って、ささいなことで誤解しやすいから」 今度は、智也もそれ以上食い下がらなかった。 わざと歩みを緩めた柚葉だったが、智也が追いかけてこないのを知ると、その顔からふっと笑みが消えた。 智也はまだ、あの女のことを気にかけているんだ。 …… 智也が病室に戻ると、凛の姿はどこにもなかった。 「凛は?」彼はベッドの上で両親に甘えている妹に尋ねた。 「あなたたちが行ったすぐ後に出て行ったわよ。きっと、綺麗で優秀な柚葉さんを見て、自分がみすぼらしくなって逃げ帰ったんでしょ」胡桃は急に目を輝かせた。「ねえ、お兄ちゃん、柚葉さんも帰ってきたんだし、凛さんと離婚したら?さっきの話じゃ、柚葉さんだってまだ気があるみたいだし、バツイチでも気にしないと思うわよ。 柚葉さんはお嬢様育ちだから、凛さんみたいにケチじゃないわ。あなたのお金を管理してるくせに、いつも安物ばかり。お兄ちゃん、私の留学費用、出してくれるって約束したでしょ」 「胡桃、凛だってお前の義理の姉なんだ。節約するのも家のためだ。そんな言い方はよせ」 智也は疲れたように眉間を押さえ、何かを言いかけてやめた。 どう切り出すべきか分からなかった。自分の稼ぎの8割が、柚葉の研究費に充てられているなどとは。 柚葉はもう帰国したし、国の大型プロジェクトも任されている。将来は明るい。これからは研究費の心配もないだろうし、やっと自分の稼ぎを家族のために使える。 やはり、このことは黙っておこう。 両親が柚葉に悪い印象を持つかもしれない。 柚葉は繊細で、特に目上の人とは決して揉め事を起こさないような子だ。 「父さん、母さん、帰って休んで。胡桃には付き添いの人を頼むから」 「いいのよ、私たちがそばにいてあげたいから。あなたは帰って」梨花は念を押した。「柚葉ちゃんとはこまめに連絡をとって、気にかけてあげるのよ。あなたにとって、悪いことにはならないはずだから」 「分かってる」 智也が家に帰った。 凛がちょうどシャワーから出てきたところだった。薄いネグリジェ一枚の姿で、濡れた髪からはしずくが落ち、布地が肌に張り付いて体のラインをあらわにしていた。 智也は、思わずその姿に見惚れた。 「凛……」 第4話 智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。 しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。 でも…… 凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。 凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。 彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。 智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。 凛は智也に背を向けると、長い髪を片方に寄せた。すると、白く細いうなじがあらわになり、部屋にはしっとりとした甘い香りが漂った。 智也はごくりと喉を鳴らした。 その時、凛の腰が温かい手にぐっと掴まれた。 「お前はずっと子供が欲しいって言ってたよな」智也は凛の手からドライヤーを取り上げると、後ろから彼女を抱きしめた。 凛はたしかに愛する人との子供が欲しかった。でも、今この瞬間は、ただただ気持ち悪いとしか思えなかった。 「もういらないわ」彼女は静かに言った。 智也は眉間にしわを寄せた。そして、凛の顎をそっとつまむと、その柔らかな肌触りがたまらなく愛おしく感じた。 彼の体も、反応し始めていた。 凛は驚いて、わずかに目を見開いた。 「最近、仕事と家事の両立で疲れてるんじゃないか?俺たちの子供を作ろう。そうすれば、お前は安心して専業主婦になれる。どうだ?」 凛は、自分のために食事を作らなくなっただけじゃない。谷口家の用事も断るようになり、自分には理解できない考えを持つようになっていた。 このままではまずい。 自分には家事をこなしてくれる良き妻が必要だったし、谷口家にも、言うことをよく聞く嫁が必要だったのだ。 凛が子供を欲しがっているなら、一人くらい作ってやっても大したことじゃない。むしろ、これで彼女を完全に家に縛り付けておける。 たかがパートみたいな仕事の、何がそんなにいいのか。人に知られたら、自分の恥になるだけだ。 キスが凛の唇に落ちてくる寸前で、彼女はとっさに顔を背けてそれを避けた。 智也は一瞬で目を細めた。「どういうつもりだ?」 「もういらないって言ったでしょ」凛は鏡に映る男を、きっぱりと見つめ返した。 妻が自分の支配下から離れていく感覚が、ますます強くなる。普段はどんなに穏やかな智也も、今ではすっかり冷たい顔になり、凛の顎を掴む手に力がこもった。 「4年も子供が欲しいと言い続けたのはお前だろ。俺が作ってやると言ってるのに、今さらいらないだと?」智也の頭に恐ろしい考えが浮かび、目つきが鋭くなる。「お前は、外に男でもできたのか?」 その言葉は、凛の心を鋭く突き刺した。彼女は冷たい目で智也を凝視する。外に相手がいるのは、一体どっちかしら、と、その目は語っていた。 凛は智也の手を振りほどくと部屋に戻り、ピシャリとドアを閉めた。 智也が、凛にこんな風に扱われたことなど、今まで一度もなかった。 出会ってから結婚するまで、凛はいつも彼の言うことを聞き、何でも彼の好きにさせてくれたのに。 崖から突き落とされたかのような態度の変化に、智也はまったく我慢がならなかった。 智也は大股で凛を追いかけ、力ずくで彼女の手を掴んで寝室に引きずり込み、ベッドの上に突き飛ばした。 「智也!何をするの!」 「子供を作るんだ。俺が作ると言ったら作るんだ。凛、お前は俺に逆らったことなんてないだろう。いい子だから、言うことを聞け」 凛が驚きと疑いの目で見つめる中、智也は彼女に覆いかぶさった。そして、まるで雨のように、その白い首筋や鎖骨にキスを降らせた。 力強い大きな手が凛の腰を掴み、もう片方の手は服の中に忍び込んだ。 この瞬間の智也は、まるで飢えた獣のように恐ろしかった。 凛は慌てふためいて彼を押しのけようとした。「いらないって言ってるでしょ!やめて、智也、やめてってば!」 「子供を作るかどうかは、お前が決めることじゃない」智也はキスをやめると、彼女の両手を掴み、頭の上までぐいっと押し上げた。 凛は身動きが取れなくなり、目じりには涙がにじんだ。 4年間、自分に優しかった男が、今、自分を力ずくで押さえつけようとしている。 キスは再び、凛の唇や首筋に、隙間なく、そして激しく落とされた。 足を無理やりこじ開けられた瞬間、凛は我慢の限界に達し、膝で智也の股間を思い切り蹴り上げた。智也は痛みでのけぞり、彼女の手を離した。 凛はすぐさま身を起こすと、その勢いのまま、智也の頬に平手打ちを食らわせた。 パシン―― 「この女!よくも俺を殴ったな!」 智也は逆上して手を振り上げ、その重い平手打ちが凛の頬に叩きつけられた。 凛の顔は一瞬で赤く腫れ上がり、大粒の涙がその頬を伝ってこぼれ落ちた。 智也の手は、わなわなと震えていた。 彼が凛の涙を見るのは、これが初めてだった。 凛はただ、声を殺して泣いていた。 部屋は、重い静寂に包まれた。 「凛ちゃん……」智也は指を丸め、怯えた子鹿のように震える、彼女の目を見ることができなかった。 凛は毛布にくるまると寝室を飛び出し、ソファの上にあったスマホを掴むと、そのまま家を出ていった。 玄関のドアを開けた瞬間、彼女の頭の中に「離婚」という二文字がはっきりと浮かんだ。 …… 凛は赤く腫れた顔で、道端に立ち尽くした。まず、自分が育った施設に帰ろうと思ったが、年老いた施設長がこの姿を見たら、きっと心を痛めるだろう。杏は郊外で静養中だし、もっと行けるはずがない。結局、凛は近くにあったホテルに駆け込んだ。 ちょうどその時、ホテルの前に一台の控えめなマイバッハが停まった。スーツ姿の男が車から降りてくる。その表情は少し険しかった。 車の窓から女の子がひょっこり顔を出した。「お兄ちゃん、本当に家に泊まらないの?お父さんもお母さんも、口うるさく言ってるだけだってば」 男は何も言わず、一人でホテルの中へ入っていった。 女の子は首を振ってため息をついた。「はあ、竹内グループの社長でさえ、結婚を急かされちゃうのね、あはははは……」 そして、マイバッハは静かに走り去った。 男がロビーを通りがかると、フロントのスタッフが、誰かに恐る恐る尋ねる声が数回聞こえた。 「お客様、本当に、何かお手伝いできることはございませんか? もし何かございましたら、いつでもフロントまでご連絡くださいませ」 「ありがとうございます」か細い声がそう返した。 ここは竹内グループ傘下のホテルだ。自分がここにいる以上、どんなトラブルも起きてほしくない。竹内海斗(たけうち かいと)は、声のした方に視線を上げた。 そこには、裸足のまま毛布にくるまった女性がいた。乱れた髪が顔の半分を覆っている。彼女が近づくにつれて、頬に残る赤い平手打ちの跡が見え隠れしていた。 海斗とその女性は、相次いで同じエレベーターに乗り込んだ。 女性はまるで抜け殻のようにぼうっとしていた。手に持ったカードキーをなかなかかざそうとせず、階数ボタンも押さない。その横顔からは、涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちているのが見えた。 しばらく間を置いてから、海斗は声をかけた。「何階ですか」 女性ははっと我に返った。そして、蒼白く力ない指でカードキーをピッとかざし、階数ボタンを押す。それから顔の涙を拭うと、滝のような髪を耳にかけた。ようやく、彼女の顔全体があらわになった。 目元と鼻の先が赤くなっており、どこか冷たく、そして儚げな印象だった。 自分の惨めな姿を見られたくないという意地からか、女性は海斗に、「ありがとうございます」と礼儀正しく言った。 声は、ひどくかすれていた。 海斗は彼女の顔の赤い跡をしばらく見つめたが、それ以上は何も聞かなかった。 チーン―― 凛の降りる階に着いた。彼女は再び海斗に会釈して、エレベーターを降りていった。 海斗は凛の頼りない後ろ姿を、エレベーターのドアが閉まるまで見つめていた。そして、スマホを取り出して短いメッセージを送った。 凛が部屋のソファに座ると同時に、ドアのチャイムが鳴った。 ドアを開けると、そこにはホテルの支配人が立っていた。 「お客様、失礼いたします。腫れを和らげる軟膏と、より快適にお過ごしいただけるよう、柔らかなスリッパをお持ちいたしました」 支配人は微笑んでいたが、よく見るとその目には心配の色が浮かんでいた、支配人は思わず言葉を続けた。 「どうぞご安心くださいませ。決して他意はございません。お客様のご快適さを第一に考えてのことでございます。当ホテルにご宿泊のすべてのお客様に、心からおくつろぎいただくことが、私どものサービスのモットーですので。どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」 今夜、4年間連れ添った夫に殴られたというのに、見知らぬ人からは、こんなにも温かい心遣いを受けた。 凛は軟膏とスリッパを受け取り、心から感謝を伝えた。 最初こそにこやかだった支配人も、彼女の左手薬指にはめられた指輪を見るなり、唖然とした。 いや、これって……え…… 支配人は衝撃に打ちのめされた様子で、その場を去っていった。 凛はドアを閉め、足を拭いてスリッパに履き替えると、手を洗って顔に薬を塗った。その傍らで、スマホがブーブーと震え、「智くん」からのメッセージが次々と画面に表示される。 この登録名は、智也が自分で勝手に変えたものだった。 【どこにいる】 【帰ってこい、凛。わがままを言うな】 【子供が欲しいと言ったのはお前だろう。俺が同意したんだぞ。明日、竹内グループを辞めて、家で妊活の準備をしろ】 智也のあまりに高圧的な態度に、凛は、彼が変わってしまったのか、それともこれが彼の本性だったのか、一瞬分からなくなった。 凛はスマホの画面を消した。初めて智也のメッセージにすぐに返信せず、それどころか、結局一晩中返事をしなかった。 朝、智也から電話があったが、彼女はそれにも出なかった。 すると、トーク画面に、また新しいメッセージが一件表示された。 【凛ちゃんが作った朝飯がないと、胃が痛むんだ】 凛はスマホを握る手にぐっと力を込めた。こういう時だけ、都合よく妻である自分のことを思い出すのだ。 乾いた笑いが、唇の端に浮かんだ。 それでも、彼女は返信しなかった。 智也はソファで待ち続けた。だが、スマホは静かなままだった。 この手も、もう通じないのか?彼は驚きの表情を浮かべた。 その時、スマホが鳴った。 手に取って見ると、柚葉からの電話だった。 智也の目に一瞬だけ失望の色がよぎったが、電話に出るとすぐに優しい笑顔を浮かべた。「柚葉、どうした?」 電話の向こうで、一瞬の間があった。 「智也、もうマンションの前にいるんだけど、今どこ?」 智也ははっとした。毎日、柚葉を車で送り迎えする約束だったのを、すっかり忘れていた。 自分はこんなにも長い間、ソファで凛からの連絡を待っていたのか。 凛が、自分をこんなに放っておくなんて。 まあいい。ただのちょっとした気まぐれだ。 凛は自分を愛している。自分から離れられるはずがない。 車で迎えに行くと、柚葉が助手席に乗り込んできて、すぐに智也の赤く腫れた顔に気づいた。 昨夜の凛は本気だった。平手打ちの跡は、今もくっきりと残っていた。 「智也、どうしたの、その顔!」柚葉はシートベルトを外し、身を乗り出して智也の顔を両手で包み込んだ。心配のあまり、目には涙が浮かんでいる。「誰にやられたの!」 智也は彼女に泣かれるのが一番苦手だった。慌てて、「痛くないから、心配するな。朝ごはん、もう食べたか?何か食べに行こう」と言った。 柚葉は智也が何かを隠していると察し、おずおずと尋ねた。「智也、凛さんと喧嘩でもしたの?もしかして、私のせい……ごめんね、智也」 「お前のせいじゃない。あいつがどうかしてるだけだ」智也は身をかがめて柚葉のシートベルトを締め、朝食をとるために車を出した。 柚葉は彼の様子をうかがっていた。自分と一緒にいても上の空なことに気づくと、あることを思いついた。 「智也、茶碗蒸しが熱いから、ふーふーしてくれない?」 「ああ、いいよ」 智也は柚葉の前にあった茶碗蒸しを受け取り、スプーンでそっとかき混ぜた。だが、ふと何かを思い出すと手を止め、スマホを取り出してメッセージを送った。 「智也、誰にメッセージ送ってるの?」柚葉の目に、警戒の色が浮かんだ。 智也はスマホを伏せた。「年上の知り合いだよ」 メッセージの相手は、凛の恩師の妻である、杏だった。 夫が一番気にかけている愛弟子と連絡が取れないと知り、杏は自ら凛に電話をかけた。そして、ホテルの場所を聞き出すと、すぐにそこへ駆け付けたのだ。 白髪混じりの杏の姿を見て、凛は一瞬呆然とし、とっさに手で自分の顔を隠した。 「何を隠しているの。見えているわよ」杏は険しい顔で部屋に入ってきた。「智也にやられたの?」 「はい……」凛は頷き、俯いた瞬間にまた涙がこぼれ落ちた。 「何で泣くの。あなたを殴った男は、もっと酷いことだってするわよ」杏は、凛が谷口家の世話をさせられていることにずっと不満だった。詳しい経緯は聞かず、ただ一言、尋ねた。「あなたはどうするつもり?」 「離婚します」凛はきっぱりと顔を上げた。 杏の目に痛ましげな色が浮かんだが、すぐに冷静な声で言った。 「弁護士は、私が見つけてあげるわ」 第5話 「先生、どうしてか聞かないんですか?」 凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。 杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」 凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」 「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。 「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用人扱いするなんて!」 凛は胸が締め付けられ、思わず本当の理由を話してしまった。「本当の理由は違います、先生。彼が愛しているのは私ではありません。小林柚葉という女を振り向かせるために、私と結婚したんです。でも結婚式の日に、結局、彼女は帰ってこなかっただけです」 「誰?」杏はその名前に聞き覚えがあるようだった。二度ほど繰り返してから尋ねた。「英樹さんの、海外帰りの孫?」 「はい」凛は頷いた。 「どうしてそれを?」 「聞いたんです」凛はあの日の盗み聞きの一部始終を話した。話が終わらないうちに、杏に手を引かれて外へ連れ出された。 「人を馬鹿にするにもほどがあるわ!私が国内で一番の弁護士のところに連れて行ってあげる。離婚協議書を作らせて、さっさとサインさせる!」 離婚協議書はすぐに出来上がった。 印刷されたばかりの紙はまだ温かかった。けれど、凛の手にはひどく熱く感じられた。彼女は紙の上の文字を長いこと見つめ、やがてペンをとって自分の名前をサインした。 法律事務所を出た後、凛は杏と買い物に行って服を買い、一緒に夕食も食べた。すっかり夜になってから、冷たい風の中、家路についた。 家の窓には明かりが灯っていた。 どうやら智也は家にいるようだ。 いや、智也だけじゃない。 谷口家の人たちも来ている。 胡桃の怪我は軽く、入院するほどでもなかった。彼女は病院の消毒液の匂いが嫌で、出前の料理も口に合わないと言って、兄の家に泊まり込むことに決めた。凛に身の回りの世話をさせて、療養するつもりだった。 家に着くなり智也の顔にある平手打ちの跡が目に入り、谷口家の人々は怒りを爆発させた。 「凛がやったのね?そうでしょ?」梨花は息子が黙っているのを見て、いつものように凛をかばっているのだと察した。 「あなたが言わなければ、分からないとでも思ってるの?あなたを叩くような人、凛以外にいるわけないじゃない。会社だって役員を除けばあなたが一番偉いのよ。あなたの周りにいる女性で言えば、柚葉ちゃんはあんなに優しくてできた人だから、彼女のはずがないわ」 「お兄ちゃん!なんであの女なんかに叩かれなきゃいけないの!」胡桃も兄をかばった。「あなたが養ってあげてるんでしょ。何が不満なの?よくも叩けたわね。帰ってきたら、ただじゃおかないから!」 憎しみのこもった口調だった。 胡桃はいつも悪知恵が働き、気に入らない相手、特にこの出来の悪い義理の姉に対しては、その知恵を容赦なく発揮するのだった。 健吾が厳しい声で尋ねた。「本当に凛がお前を叩いたのか?」 智也は言った。「俺も手を上げた」 梨花も言った。「当然の報いだわ!自分の夫を叩くような女、聞いたことがない」 胡桃はさらに憤慨した。「そうよ、お兄ちゃんはちょっとお灸を据えてあげただけでしょ。お兄ちゃんに出会わなかったら、彼女が私たちみたいな暮らしができるわけないのに」 「智也、凛とは離婚しろ」健吾はしばらく考えた後、そう決断した。 しかし智也は眉をひそめた。「父さん!」 ドアの外で聞いていた凛は目を伏せ、手にした離婚協議書を握りしめた。ちょうどいいじゃない。離婚しよう、と思った。 しかし耳に届いたのは、智也の拒絶の言葉だった。「ダメだ」 「どうしてダメなの?」梨花は頭が痛くなった。「あなたは凛に何か変な薬でも飲まされたんじゃないの?どうしてそんなに頑固なのよ。あなたの周りには柚葉ちゃんたいな素晴らしい女性がたくさんいるのに、どうしてあの女一人にこだわるの!」 胡桃も続いた。「お兄ちゃん、凛さんと離婚して、柚葉さんと結婚したくないの?昔はあんなに仲が良かったじゃない。はっきり口にはしてなかったけど、みんな知ってたよ」 凛の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。 智也は、大事な柚葉を結婚という面倒な日常に巻き込むはずがない。 「凛と離婚すると、会社での評判に響くと心配してるのか?しかし、お前は凛を会社の忘年会にすら、一度も連れて行ったことがなかったじゃないか」 健吾はもっともらしく分析する。「お前が結婚していることを知っている人間自体少ないし、相手が誰かなんて知る者はもっと少ない。評判は心配ないだろう」 柚葉の智也への態度を見て以来、谷口家の人々はもう凛を嫁として認めるつもりはなかった。ただひたすら二人の離婚を望んでいた。 だが、智也は同意しなかった。「離婚はしない。この話は、凛に聞かせるな」 彼は立ち上がって書斎に入り、家族の声をシャットアウトした。 谷口家の人々は、智也が凛をよほど愛しているのだと思った。 彼がなぜ離婚に同意しないのか、その理由を知っているのは凛だけだった。 離婚したら、こんなに都合のいい無料の使用人がどこにいるだろう? プロの料理人には及ばないが、長年かけて智也の舌をすっかり虜にしてしまったのだ。 凛は離婚協議書をしまい込んだ。 智也が同意しようとしまいと、彼女は離婚するつもりだった。 こっそりでも、離婚してやる。 家の中の空気が少し和らぐのを待ってから、凛は暗証番号を押してドアを開けた。 玄関の物音に、谷口家の人々が一斉に視線を向けた。凛を見ても、彼らの表情は険しいままだった。 胡桃は言った。「凛さん、どうしてこんなに遅いの?みんなお腹すいてるんだから。特にお兄ちゃんは、ちゃんと時間通りに食事しないと、すぐに胃を悪くするのよ」 言い終わると、凛の足元のピンクのウサギのスリッパに目をやり、げんなりした顔を見せた。 「もうすぐ30歳になるっていうのに、まだ若い子みたいにピンクなんて履いてるの?うわ……子供っぽくて見てらんない」 凛は足を動かした。この子供っぽいスリッパは、とても可愛いと思った。 これは、他の人が彼女に示してくれた優しさだった。 養護施設で育ち、勉強ばかりしてきて人付き合いが苦手な凛にとって、人から優しくされることは滅多になかった。 だからこれはとても大切なもので、捨てるつもりはなかった。 梨花は彼女を見ようともせず、夕飯を作るよう、キッチンへ促しながら付け加えた。「薄味にしてちょうだいね。塩は控えめに」 健吾は高血圧だった。 「わかりました」凛はまっすぐキッチンへ向かうと、スマホを取り出して出前を注文した。わざわざ、【薄味、塩分控えめ】とメモも添えた。 彼らの住む場所は都心に近く、すぐそばに商店街や飲食店街があるため、出前はすぐに届いた。 インターホンが鳴り、梨花がドアを開けた。出前の配達員を見て、彼女はあっけにとられた。 凛は、何事もなかったかのように書斎のドアの前まで行き、ノックをするといつものように呼びかけた。「ご飯だよ」 ただ、そこには以前のような明るい響きはなかった。 いつもなら、料理が出来上がると嬉しそうにドアをノックして、「ご飯だよー!」と声をかけるのだ。 すると書斎のドアは、すぐに内側から開けられる。 そして智也が、「お疲れ、ありがとう」と言ってくれる。 しかし今回、智也が書斎のドアを開けても、その言葉はなかった。二人は視線を交わし、どちらもまず相手の顔に残る平手打ちの跡に気づいた。 お互い、何も言わなかった。 どちらも折れる気はないようだった。 「智也、早く来て凛が頼んだ出前を食べて!」梨花は食器を並べながら、嫌味っぽく言った。 それ聞いた智也は、不満そうに言った。「なんで出前なんだ?冷蔵庫に何もなかったのか?お前が作った味噌汁が飲みたかったんだが」 「味噌汁ならあるわ」凛はくるりと背を向けた。 智也は彼女に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。そして不機嫌そうに後を追った。 ダイニングテーブルに並べられた出前を見て、智也はすっかり食欲をなくした。朝食を抜いたのに、夕食にもありつけない。さすがに我慢ならなかった。 「凛、いつまでわがままを言うつもりだ?」 「ご飯を作らないだけよ」凛は淡々と答えた。「それがわがままと何の関係があるの?私は料理をするために生まれてきたわけじゃない」 智也は言葉に詰まった。 凛は箸を取ると自分だけ食べ始め、提案した。「出前が嫌なら、うちに使用人でも雇おうか」 胡桃が反論した。「使用人なんて雇う必要ないでしょ?だって、うちにはあなたが……」 「ええ、確かに一人いるわね」凛は彼女の言葉を遮り、ずっと非難の目で見ていた健吾と梨花に視線を移すと、口の端を少し上げた。「そんなに智也のことが心配なら、ご実家の使用人をこちらによこしてくれたらどうでしょうか」 「凛!」智也は我慢の限界だったが、振り返った彼女の少し腫れた顔を見て、怒りを抑え、少し柔らかい口調で言った。「父さんと母さんに対して礼儀正しくして」 智也は心から両親を尊敬し、妹を可愛がっている。ただ妻の自分に対してだけ、優しさも愛情も、すべてが偽りだった。 凛はもう何も言わなかった。 食事が終わると健吾と梨花は帰っていった。このまま残っても出前しか食べられないと思ったのか、胡桃も仕方なく一緒に帰ることにした。 夜。 凛は、どうやって夜の営みを避けようかと考えながら、智也に離婚協議書へサインさせる、その方法を必死で探っていた。 足音が近づいてくると、 彼女は少し緊張した。 突然、智也のスマホが鳴った。 なんて良いタイミングの電話だろう。 「電話よ」凛は智也のスマホを手に取って振り向くと、バスローブ姿の彼と向き合った。「小林さんから」 柚葉の名前を見ると、智也は部屋を出て電話に出た。一分もしないうちに戻ってきて、急用で出かけると言う。 「分かったわ」凛は唇を結んだ。 智也はしばらく彼女の顔を見つめて言った。「誤解するな。俺たちはただの友達だ。お前が俺の妻なんだ」 「分かってるわ、行ってきて」凛は適当に返事をした。 夜中、キッチンからガチャガチャと音が聞こえてきた。 凛があくびをしながらリビングへ出ると、ソファに誰かがもたれていた。 近づいて見ると、女性だった。 物音に気づいて女性が顔を上げた。唇は青白く、片手でお腹を押さえている。どうやら生理痛がひどいらしい。 「凛さん?もしかして、智也が起こしちゃった?」 凛は、その女性を呆然と見つめた。 まさか智也が、堂々と人を連れ込んでいたなんて。 「ごめん、お邪魔するつもりはなかったの。住んでるところが実家から遠くて、頼れる友達も少なくて。つい智也に連絡しちゃった。まさか智也が直接うちに連れてきてくれるなんて思わなくて。しかも、私のために温かい飲み物とか夜食とか、自分から作ってくれるなんて」 凛には、それが自慢話に聞こえた。 それ以上に彼女を驚かせたのは、智也がキッチンに立っていることだった。 キッチンでは鍋から甘いココアの香りが漂っている。 男はエプロンをつけ、片手にフライ返し、もう片方の手に卵を持ち、どうしていいか分からず戸惑っているようだった。 「この目玉焼き、どうしていつも焦げちゃうんだ?」と呟いている。 智也が人を愛するとこうなるのか。いつもみたいに落ち着き払っているわけじゃなく、まるで青二才のようだった。 自分の嫌いなことだって、するんだ。 智也は料理が嫌いで、キッチンに近づくことさえ嫌がっていた。油の匂いが耐えられない、と。 だからリフォームの時も、凛が希望したオープンキッチンの提案を却下したのだ。 だからいつも、彼女が一人でキッチンにこもって料理を作り、テーブルに並べていた。 「まだ分からない?凛さん」 柚葉が凛のそばに来た。まるで勝ち誇った犬のようだ。もし尻尾があれば、得意げに振り回していただろう。 「智也が愛してるのは、私だけ。あなたは、私がいない間に彼が退屈しのぎに手を出しただけの…… つまみ食いみたいなものよ」 第6話 「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」 凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。 この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。 愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。 もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。 大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。 それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思ってもみなかった。 自分にとっては、侮辱以外の何物でもなかった。 あの日、病院で凛に会い、智也から彼の妻だと紹介されなければ、絶対に信じられなかっただろう。 智也が、自分以外の女と結婚するなんて、あり得ない。 何度も確かめた結果、智也が今も愛しているのは自分だとわかった。以前よりもっと深く、愛してくれている。 欲しいものがあれば、どんなに高価でも、智也は必ず手に入れてくれた。 少しでも体調を崩せば、智也はすぐに駆けつけてくれる。 今では温かい飲み物も作れるようになったし、夜食まで作ろうとしてくれている。 智也のお金も、愛情も、すべて自分のものだ。 凛という哀れな女は、何も持っていない。 妻という、その肩書き以外は。 それも、ほとんど誰にも知られていない肩書きだ。 今、その肩書も、自分が取り戻す。 柚葉は深く息を吸い込むと、微笑んで言った。「彼は、あなたと離婚するわ」 「それはどうも」 凛としては、一刻も早く智也に離婚協議書にサインしてほしいくらいだった。同じ家で二人のいちゃつく姿を見るなんて、息もできない。 まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、柚葉はその場でぽかんとした。 すると、智也がキッチンから温かい飲み物の入ったお椀を手に現れた。凛の探るような視線とぶつかり、彼の心臓がどきりと跳ねた。 「凛ちゃん、起きたのか……」 智也のその呼び方を聞いて、柚葉の胸に嫉妬の念がこみ上げた。 「柚葉の具合が悪くて、でも病院には行きたくないって言うから、家に連れてきたんだ」 智也は言い訳に夢中で、手に持った温かい飲み物を置こうともしない。 彼の指が熱さで少し赤くなっているのが、凛には見えた。 料理をしたことがない男は、熱いコップをミトンで持つことも知らないらしい。 まあ、いいか。火傷すればいい、自業自得だ。 ところが、智也はその熱いコップを、なんと凛に渡そうとした。 「まだ夜食を作らないといけないから、これを柚葉のところに持って行ってくれ」言うが早いか、熱いコップが有無を言わさず彼女の手に渡された。 あまりの熱さに、凛は思わず手を離しそうになった。 ソファに座っていた柚葉は、唇の端を上げて言った。「ありがとう、凛さん」 凛は飲み物を差し出した。 柚葉が手を伸ばして受け取ろうとする。 その時だった。 「きゃっ!」 悲鳴と同時に、熱い飲み物がこぼれた。 中身はすべて柚葉の白い腕にかかり、見る見るうちに大きな水ぶくれができていく。 慌てて出てきた智也は、その痛々しい様子に息をのみ、凛に向き直って詰問した。「どういうことだ?」 そんなの、凛の方が聞きたいくらいだった。 「私は……」 「凛さんのせいじゃないの。私がちゃんと受け取れなかったのよ。智也、彼女を責めないで」 柚葉は本当に痛そうで、目に涙をいっぱい溜めている。 それを見た智也は、たまらず凛に怒鳴りつけた。「なんでこんな熱いものを直接渡したんだ?テーブルに置けばいいだろ!」 「あなただって、私に直接……」 「柚葉の身に何かあったらどれだけ大変か分かってるのか?柚葉女がやってるプロジェクトは、彼女なしでは進まないんだぞ!」智也は冷たく凛を睨みつけた。「先生に何ともないと言ってもらえるよう祈るんだな。彼女の仕事に支障が出ないようにな」 智也は屈んで柚葉を抱き上げると、病院へ向かおうとした。 凛は、床に散らばった破片とべたつく液体、そして赤くなった自分の指を見つめ、言いかけた言葉を飲み込んだ。 智也は、凛がわざと柚葉に熱い飲み物をかけたと信じきっていて、その後、病院から柚葉を連れて帰ってきた。 ゲストルームには胡桃ではなく、柚葉が居座ることになった。 そして、その世話を凛に押し付けたのだ。 智也を前に何を言っても無駄だと悟った凛は、もう抵抗するのをやめた。そして、もう時間だから、仕事に行くと言った。 最近は研究所で彼女が出る幕はあまりなかったが、怪しまれないように、いつも通り家を出ることにした。 智也はリビングに出てきて、凛に言った。「仕事を休め。お前の仕事なんて研究所にとってはどうでもいいものだ。いっそ辞めて、家で大人しく俺の妻をやってろ」 月数万円のお小遣いしかもらえない妻をやれって? 「ありえないわ」凛は言い放った。 智也は、「お前っ!」と声を荒げた。 二人の言い争う声が大きかったのだろう。ゲストルームで横になっていた柚葉がそれを聞きつけ、すぐに割って入った。「智也、私のせいで喧嘩しないで。本当に、私が受け取れなかっただけなの」 その言葉を聞いて、智也はそれ以上は何も言わなかった。だが、凛に休暇を取るようにと、なおも主張した。 「今すぐ辞めなくてもいい。でも、柚葉の怪我が治るまで、ここ数日は絶対に休め。お前が怪我をさせたんだから、責任を取るのは当然だ」 「何度も言ったでしょ。私には関係ないって。私が渡した時、彼女はしっかり持ってたわ。どうしてこぼれたかなんて、彼女に聞くべきでしょ?私じゃなくて」 凛は眉間にしわを寄せ、反論した。 しかし、返ってきたのは智也のさらなる詰問だった。 「じゃあ、柚葉がわざと熱湯を自分にかけたとでも言うのか?彼女には今、大事な研究の仕事があるんだぞ!仕事熱心で、真っすぐな人だ。そんなことするはずがない」 凛は呆れて言葉を失った。 大事な研究?マイクロチップ開発プロジェクトでは、柚葉は名前が載ってるだけで、中心的なデータには全くアクセスできないのに。 真っすぐな人だって? 女の涙は、男を酔わせる一番の武器ってことね。 凛は、長年自分の見る目がなかったことを悔やみながら、大股で玄関へ向かった。 智也がすぐさま追いかけてきて、彼女の腕を掴んだ。「休めと言っただろ。さもなければ辞めろ」 智也が、柚葉の世話をさせるために自分を休ませたいのか、それとも本心では仕事を辞めさせて専業主婦にしたいのか、凛にはもう分からなかった。 きっと、その両方なのだろう。 「私だって、無理だと言ったわ」 「この仕事を失うのが惜しいと言うなら、埋め合わせはしてやる」 「埋め合わせ?」じゃあ、自分の4年間はどう埋め合わせてくれるの? 「ああ。仕事を辞めて家にいてくれるなら、お前が望むものは何でもくれてやる」 今の凛は、まるで棘のあるバラのようだった。もはや智也の思い通りにはならない。 彼は、そのコントロールできない感覚を本能的に拒絶していた。 柚葉にしろ、凛にしろ、思い通りにならない。 「いいわ。じゃあ、このマンションが欲しい」 凛は、ふと智也に離婚協議書へサインさせる方法を思いついた。そして、彼女はすっと顔を上げた。 「このマンションを私に譲ってちょうだい。譲渡契約書にサインしてくれたら、竹内グループを辞めるわ」 智也は、この3LDKの小さなマンションには大して執着していなかった。柚葉の研究費の心配もなくなった今、近いうちにでもっと広い部屋を買うつもりだったからだ。 そのため、彼はためらうことなく承諾した。 「誰かに譲渡契約書を作らせる」 「できたら、一度私に見せて」 腕を掴む力が少し緩んだ。凛は自分の手を引き抜き、軽く揉んだ。 「分かった」智也は頷いた。 彼はその場で秘書の浩に電話をかけ、手配を指示した。 凛も仕事に行くとは言わず、智也と一緒に会社へ向かった。 智也は彼女に車で待っているよう言った。 ほどなくして、浩が譲渡契約書を持ってきた。凛は一ページずつ丁寧に目を通すと、顔を上げて言った。「智也がサインするところを直接見たいの。私は上に行かないから、彼を下に呼んできて」 浩は承知した。 「待って。ホチキスも持ってきてもらえる?バラバラになると困るから」 浩はまた頷いた。 浩が立ち去り、車内に一人になると、凛はバッグから離婚協議書の署名ページを取り出し、譲渡契約書のそれとこっそり差し替えた。 智也が駐車場にやって来た。手にはホチキスを持ち、スーツのポケットには金色の万年筆が挿してある。 その万年筆は、凛が智也に贈った初めてのプレゼントだった。 4年間、彼はそれをずっと使い続けていた。 凛は智也のポケットの万年筆をぼんやりと見つめていた。 「ホチキスだ」智也は車のドアを開けて乗り込んできた。 薄暗い地下駐車場で、凛は俯きながら、丁寧に書類をホチキスで留めた。そして、署名すべきページを開いて彼に差し出した。 契約書は浩が作成したもので、智也もすでに目を通していた。何の疑いもなく、彼はそこに名前と日付を書き込んだ。 サインは、してもらえた。 かつて、智也は凛が贈ったこのペンで婚姻届にサインをした。そして今日、同じペンで離婚協議書にサインをしたのだ。これも、一つの始まりと終わりと言えるのかもしれない。 この瞬間、離婚協議書は成立した。 1か月後、役所に提出すれば、彼らは夫婦ではなくなる。 手の中の離婚協議書を握りしめても、凛は泣かなかった。 もう二度と、智也のためにも、この結婚のためにも、涙を流すものか。 薄暗がりの中で、智也は安堵したような凛の表情に気づかなかった。ただ、仕事を辞めるよう念を押した。 「約束は果たした。田中に竹内グループまで送らせるから、すぐに辞めてこい」 「ええ」凛は頷いた。 どちらにせよ、彼女は本当に竹内グループで働いているわけではない。竹内グループの本社ビルまで行って、戻ってくればいいだけだ。 人事部長に顔認証を登録してもらった記憶はあるが、彼女の権限はそこまでだ。 智也の車は数千万円のベントレーだが、凛が乗ったことは数えるほどしかない。浩に送らせるなんて、これが初めてだった。 道端の楓が燃えるように赤く、風が吹くと、カサカサと音を立てて一面に散っていく。 凛は窓の外に目を向けたが、その視線はどこか虚ろだった。 彼女の膝の上には、離婚協議書が置かれていた。 運転していた助手は、何度かバックミラーで凛の様子を窺った。今日の凛は、どこか不自然なほど落ち着いている。特に、何度も薬指に手をやり、指輪を外そうとしているように見えた。 「奥様、着きました」 「ええ」凛は協議書をバッグにしまい、「あなたはもう戻っていいわ」と言った。 「かしこまりました、奥様。用事が済みましたら、社長にご一報ください」 「わかってるわ」 凛は浩に見送られながら、顔認証で竹内グループの本社ビルに入った。杏の計らいでここに籍を置かせてもらった時、対応してくれたのは人事部の部長・中村理恵(なかむら りえ)だった。「辞職」するなら、当然、理恵に話を通さなければならない。 受付で尋ねるまでもなく、片手にコーヒーを持った理恵の姿が目に入った。 理恵も凛に気づき、少し驚いた様子を見せた後、満面の笑みでまっすぐ歩み寄ってきた。「あら、凛さん、こんにちは!」 「中村さん」 「まあ、何かあったんですか?オフィスで話しましょう!」 なんといっても凛は、社長の叔母直々にご紹介のあった人物なのだ。ぞんざいには扱えない。 話している間に、凛は遠くから視線を感じた。そちらに目を向けると、すらりとした男性の後ろ姿が見えただけだった。 少し、見覚えがあるような気がした。 でも、どこで会ったのかは思い出せなかった。 第7話 「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」 「今、あっちから誰かに見られていた気がします」 「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。 「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。 「エレベーターって、あっちの?」 理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。 あそこは社長専用のエレベーターなのだ。 理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。 昇進したんだ。 凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」 「ありがとうございます」 理恵は凛の先ほどの言葉を思い出して、冷や汗を拭った。さっきは丁寧に対応したから、失態はなかったはずだ。 オフィスに入ると、凛はすぐに切り出した。「中村さん、今日は退職の手続きに来ました」 「退職?」理恵は、凛が形式的に手続きを踏みに来ただけだと察し、彼女の意向を尋ねた。「どれくらいで処理すればいいですか?」 「通常の手続きで大丈夫です」 「通常の手続きですと、正社員は1ヶ月前に退職届を出すことになってるんです。でも、引き継ぎさえちゃんと済ませれば、あなたの職位なら数日で終わると思います」 コンコン―― ノックの音がした。 「どうぞ」入ってきたのが社長の側近だと気づくと、理恵はすぐに立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。「森田さん」 「中村さん、社長がお呼びです」特別補佐の森田拓海(もりた たくみ)は言った。 ついに来たか。理恵は厳しい表情になった。 竹内グループでは上半期に数億円規模の横領が発覚した。犯人は役員の親族で、社長は厳罰に処し、最近はグループ内の縁故採用を厳しく調査していたのだ。 自分の元の上司も、社長によって懲戒免職になった。それで、人事部ヴァイスプレジデントのポストが自分に回ってきたのだ。 この椅子に座ってまだ日も浅いというのに…… まさか、自分が採用した人間の中にもコネ入社がいたんだろうか? でも、思い当たるのは凛、ただ一人だ。 しかし、凛は竹内家からの紹介で入社したのだ。 その上、凛は役職も低く、社員情報にはわずかな月給が記載されているが、実際には一度も給与は支払われていない。 「凛さん、ちょっとお待ちいただけますか?」理恵は凛の前では落ち着き払っていたが、一歩オフィスを出ると、おどおどした様子で尋ねた。「森田さん、社長は一体どんなご用件でしょうか?」 拓海は金の縁の眼鏡をかけ、にっこり笑った。「行けばわかりますよ」 はっきりしない物言いに、彼女の不安はさらに募った。 社長室。 広々としたオフィスは、白と黒、そしてグレーの三色だけで統一されている。その奥には、竹内グループの社長が座っていた。彼の表情は険しく、冷たい雰囲気をまとっている。 「先ほど、君が自ら応対していたのは誰だ?」 やはり、凛の件だったか。 理恵は緊張しながら答えた。「谷口凛と申します」 「谷口凛か」海斗はその名前を口ずさむ。ホテルのロビーで目が赤くなっていた女の姿が脳裏に浮かんだ。今日再会した時、彼女の頬にあった赤い跡はもう消えていた。相変わらず髪を耳にかけ、整った顔立ちをすっきりと見せている。 シンプルな青いシャツワンピースに、藍染の布バッグ。どちらも洗いざらして少し白っぽくなっていた。 男はキーボードに手を置き、理恵に視線を向けた。 理恵は察して答えた。「谷間の『谷』に、入口の『口』、名前は、凛々しいの『凛』です」 社長が自ら凛のデータを検索するとは。しかし、登録されているデータはほとんどないに等しいのに。 海斗は画面に表示された短い経歴書に目を通した。そこに貼られた証明写真はまだ学生っぽさが抜けきっていない。肩につくくらいのボブで、毛先が少しはねていて、どことなく快活な印象を与えた。 基本的な学歴以外、職歴や給与の変動に関する記録は一切なかった。 「説明しろ」海斗が言った。 理恵は冷や汗をだらだら流しながら言った。「凛さんは社長の叔母のご紹介で入社されました。在籍しているだけで給与も支払っておらず、会社の内情も何もご存じありません」 叔母? 海斗は眉をひそめた。これまで竹内グループの経営に一切関わってこなかった叔母が、なぜ突然人を送り込んできたのだろうか? 彼が手を挙げ、指をわずかに動かした。 すぐに拓海が歩み寄った。 「彼女を調べろ」 「かしこまりました」 「社長」理恵が言った。「凛さんは本日、退職のために参りました」 退職だと? 海斗は何か考え込んでいるようだった。彼は特に何も言わず、調査結果を待つことにした。いつもなら30分ほどかかって、拓海が資料を持って戻ってくる。 しかし、今回はわずか10分だった。 10分。それは、調べられる情報が限られていることを意味する。 拓海は薄い紙を一枚見て、冷や汗を拭った。 「社長、彼女についてはこれ以上の情報は得られませんでした」 みなしご。A市のトップ大学の修士課程を卒業。 どの児童養護施設にいたのか、記録はない。 卒業後の経歴は、全くの白紙。 竹内グループのデータベースで、やっと「既婚」であることと「竹内グループ総務部所属」という情報が加わる程度だ。 拓海は言った。「これほどきれいな経歴は、何者かが情報を操作したとしか考えられません。彼女はただ者ではないでしょう」 まさに、謎に包まれた存在だ。 海斗の表情はますます険しくなった。凛への感情は、もはや単なる好奇心ではなく、懸念へと変わりつつあった。 素性の知れない女が、自分が率いるグループに籍を置き、しかも竹内家の年長者と繋がりがある。 何か裏があると考えずにはいられない。 理恵も当然そのことに思い至り、自分の人事部ヴァイスプレジデントの椅子が危ういと感じた。 「中村……」 「は、はいっ!社長!」理恵はビクッと体を震わせ、背筋をぴんと伸ばした。 自分は社長の最も忠実な部下だと言うように。 海斗は黙っていた。 彼は手を伸ばしてそっと耳を揉んだ。理恵の声で鼓膜が破れるかと思った。 「下がっていい。彼女の退職の件は、一旦保留にしろ」 「え……え?」お咎めなし? 理恵は呆然としたまま社長室を後にした。オフィスに戻ると、凛の姿はなく、【急用ができたので、また改めて伺います】というメモだけが残されていた。 凛は、研究所からの急な電話で呼び出されたのだ。 急を要する連絡だった。 彼女が小走りで敷地を横切っていく。その華奢な姿が、ビルの最上階にいる主の目に映った。 最上階からの眺めは良い。海斗が見ていると、凛は西門を出て、一台のワゴン車に乗り込んだ。運転手が自らドアを開けていた。車は市の東方向へと走り去っていく。 海斗は目を細め、妹にメッセージを送った。【今夜、本邸に戻る】 彼の叔母である竹内千佳(たけうち ちか)は、ずっと本邸で暮らしている。 …… 研究所。 「マイクロチップ開発プロジェクト」のメンバーが全員揃っていた。 怪我をしている柚葉も、例外ではなかった。 柚葉はドアの方を見つめた。ずっと自分を避け、プロジェクトチーム全員を待たせている女とは、一体何者なのだろうか。 凛は手を伸ばし、ドアを押して中に入ろうとした。 「凛さん、こっちに来い」廊下から克哉が呼び止めた。 少し開いたドアが、再び閉まった。 「佐野先生、プロジェクトに何か問題が発生しましたか?」 「問題ない。上層部が、1週間後に開発成果を公表し、1ヶ月以内に入札を完了させると決定した。旦那さんはホシゾラ・テクノロジーの社長で、君自身は竹内グループに籍を置いている。竹内グループ傘下にもIT会社があるから、どちらも入札に参加するだろう。 君はプロジェクトの中心人物だから、立場が非常に重要になる。入札が終わるまで、君たちの身元は誰にも漏らせない。特に君は、細心の注意を払って。 これが新しい機密保持契約書だ。 入札が完了すれば、君はプロジェクトを代表して調印式に出席してもらう。その時になれば、君の身元も公になる」 身元が明かされるのも、ちょうど1ヶ月後。凛は瞳をわずかに見開き、感慨にふけった。 二つのことが同じタイミングで片付くなら、好都合だ。面倒が省ける。 1ヶ月後には、智也が作った籠から抜け出せる。それに、安月給のしがない会社員を演じる必要もなくなるのだ。 これからは、自分自身として過ごせる。 凛は、迷いなく自分の名前をサインした。 第8話 凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。 「なんでこんなに遅いんだ?」 「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。 智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」 「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。 「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」 「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も眉をひそめた。「俺をだましているんじゃないだろうな」 「あなただってサインしたじゃない。私があなたをだましてどうするの。大きい会社は手続きが面倒なのよ、仕方ないでしょ」 凛はコップを置くと、部屋に入ろうと背を向けた。 しかし智也が、彼女の服のすそを掴んだ。「腹が減った」 智也の視線が、凛からキッチンへと移る。 凛は彼を振り返り、その顔をじっと見つめた。 今までどうして気づかなかったのだろう。このセリフを言う時の智也が、こんなにも偉そうだったなんて。 以前の自分は、ただ智也にお腹を空かせてはいけない、ということしか考えていなかった。彼は胃が弱く、決まった時間に食事をとらないと、すぐに胃が痛くなってしまうからだ。 「分かったわ」 そう言って部屋に向かう凛。智也は、掴んでいた服のすそが手からすり抜けていくのを見ると、すぐに立ち上がり、大股で彼女に近づき、その手首を掴んだ。 智也は不満そうに言った。「『分かった』って、どういう意味だ?」 「聞こえたって意味よ」 凛は顔を上げて、智也の怒りに満ちた目を見つめた。かつての、あれほど優しかった夫は、まるでシャボン玉の中の夢のよう。指で軽くつつけば、すぐにはじけて消えてしまう。 「夕飯を作れ。今日はあら汁が飲みたい」 「家に新鮮な魚なんてないわ」凛は冷蔵庫に目をやったが、ここ数日、何も買い足していなかった。 智也は彼女を引っ張った。「今から買いに行け」 「もうこの時間じゃ、どこも開いてないわ」 凛が腕を振りほどこうとすると、智也はさらに強く掴んだ。そして、探るような目で彼女の顔を何度も見つめた。 「意地を張ってるのか。仕事をやめさせるからか?」 凛は冷たく言い放った。「そうよ」 「あんな安月給の仕事の、どこがいいんだ?」智也にはまったく理解できなかった。「社会の役に立つわけでもない仕事のために、俺に逆らうほどの価値があるのか?」 「じゃあ、その安月給の仕事が、簡単に見つかると思ってるの?」凛はこれ以上言い争うのをやめた。「手を離して。魚屋さんに電話して、まだ残ってるか聞いてみるから」 智也はようやく手を離した。 「これからは毎月35万円やる。お前の給料の倍以上だ」 凛は胸が詰まる思いだった。 自分が専業主婦になって、子供まで産むっていうのに、もらえるのはたったの月35万円? それに比べて、柚葉は何もしなくても、ただそこにいるだけで月に6000万円ももらっている。高価な宝石やブランドバッグは、言うまでもない。 その時、電話が繋がった。 「山本さん、まだ鯛はありますか?」 「ああ、凛さん。旦那さんにご飯を作るんだろうと思って、ちゃんと一匹とっておいたよ」 「あら、もう売り切れですか?」凛はわざとらしく独り言を言った。「大丈夫です。次からはもう、私のために取っておかなくて結構ですから。必要なときは、自分で買いに行きますので。 ありがとうございます、山本さん。では、失礼します」 彼女は電話を切った。「魚、売り切れだったわ」 智也は眉をひそめた。 凛は何事もなかったかのように尋ねた。「小林さんはいつ帰るか、聞かなくていいの?手の怪我、まだ治ってないんでしょ。どこかにぶつけでもしたら、研究に差し支えるわよ」 その言葉で智也は、ようやく柚葉のことを思い出した。凛の手首を掴んでいた力がふっと緩み、彼はスマホを取り出して柚葉に電話をかけた。 電話の向こうで、柚葉が言った。「まだ研究所なの。祖父にちょっと用事を頼まれていて」 「分かった」智也の声が優しくなる。「今夜、何か食べたいものはある?凛に作らせるからさ」 「いいの?」 「もちろん。お前に怪我をさせたんだから、彼女がお前の世話をするのは当然だ」 「凛さんのせいじゃないわ。私自身が不注意だったのよ……あの、豚の角煮が食べたいな、お願いできるかしら?」 「もちろん」智也は快諾した。「仕事が終わったら連絡してくれ。迎えに行くから」 妻の目の前で、臆面もなく他の女を迎えに行くと言う。凛の心は、もうとっくに麻痺していた。 智也は振り返って言った。「柚葉が豚の角煮を食べたいそうだ。今夜、魚はやめにする」