泥濘の愛

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父の死をきっかけに、私は指揮官である夫と離婚し、この山あいの村に生涯を捧げることを決めた。 初日、私は夫を騙して離婚申請書に署名させた...

Chương (1)

第1章

父の死をきっかけに、私は指揮官である夫と離婚し、この山あいの村に生涯を捧げることを決めた。 初日、私は夫を騙して離婚申請書に署名させた。 五日目、勤めていた職場に退職願を差し出した。 七日目、心を込めて料理を作り、友人たちとの別れの宴を開いた。 蒼井遼真(あおい りょうま)は眉をひそめ、「なぜ彼女の好きではない料理をわざわざ作るんだ」と私を責めた。 私は立ち上がり、彼の幼なじみに杯を捧げた。 ――これから先、遼真と私は一切関わりのない人間になる。 半月後、私は山村で任務から戻った遼真と再び出会った。 だがそのとき、夕暮れの風にあおられた彼の瞳は、赤く濡れていた。 第1話 父が亡くなって三日目になっても、遼真は帰ってこなかった。 「村長さん、決めました。父の遺志を継いで、この村に残り、子どもたちに勉強を教えます」 荷物をまとめながら、私は毅然と告げた。 男は目を丸くし、諭すように言った。 「馬鹿な子だ……せっかく黎明機構に随伴できる身分を得たのに、どうしてこんな貧しい村に戻って苦労するんだ」 私は首を振り、手首の古びた腕時計に目を落とした。それは父が遺してくれた唯一の形見だった。 「私は苦労なんて怖くありません。七日以内に離婚を申請します」 夜七時。私はようやく拠点の家へ戻った。 食卓の上には、出ていく前と同じ料理がそのまま残っている。 荷物を下ろした途端、玄関から足音が響いた。 制服に身を包み、背の高い蒼井遼真(あおい りょうま)が入ってきた。声は冷ややかだった。 「まだ飯はあるか?食堂が閉まってしまった。温めて弁当箱に入れてくれ。瑤に持っていく。 彼女、体調を崩していてな。しばらく料理もできないんだ」 振り返った私は、やつれた顔を見せた。 「今帰ったばかりで、料理はしていない」 遼真は眉をひそめただけで、私がどこに行っていたのかも、やつれた理由も尋ねなかった。 返事を聞くと、そのまま台所へ向かう。 その時の彼の頭の中は、初恋の女のことしかなかった。 私は立ち尽くし、彼が不器用に卵を焼き、麺を茹でる様子を見ていた。 結婚して五年、これが彼の初めての料理だった。 水無瀬瑤(みなせ よう)が離婚して神津市に戻ってからというもの、こうした変化は嫌というほど目にしてきた。 麺を弁当箱に入れると、遼真は私の横をすり抜けようとした。 私は彼を遮り、声をかけた。 「数日後、また実家に戻るわ。申請書にサインして。手続きに必要なの」 書きかけの離婚申請書を差し出し、空欄に署名を示した。 遼真は一瞬きょとんとしたが、目も通さずにサインした。 「数日前、瑤が病気でな……彼女の容体がよくなったら、一緒に実家に帰ろう」 私は目を伏せ、赤くなった目尻を隠した。 「ええ」 すれ違う瞬間、彼の体から漂う香りに気づいた。 私が惜しんで買えなかったが、彼の初恋が好んで使っていたあの化粧水の匂いだ。 門が閉まる音を聞き、私は硬直したまま食卓に戻り、紙を丁寧に折り畳んだ。 一週間前。 村長から電話があり、父が授業中に脳溢血を起こし、病院に運ばれたと知らされた。 私は頭が真っ白になり、家を飛び出して遼真の腕を掴んだ。 「お願い、一緒に実家へ戻ってくれない?父が……」 言葉の途中で、外から瑤の声が響いた。 「遼真、早く!約束したでしょ、買い物に行くって」 その声を聞いた瞬間、遼真は苛立ちを隠さず、私の手を振り払った。 「用事がある。お前は先に帰れ。暇ができたら行く」 そして、私は七日間、待ち続けた。 第2話 父の葬儀が終わるまで、遼真が顔を見せることはなかった。 最後に耳にしたのは、父が息を引き取る直前、私の手を握りしめて言った言葉だった。 「遼真はいい子だ。国を守るために忙しいのは当然なんだ。 俺は責めはしない。だから家に戻ったら、彼と喧嘩をしてはいけないよ」 ――でも、お父さん。 彼が忙しいのは公務のせいじゃない。水無瀬瑤と一緒に過ごしていたからなのよ。 涙を拭い、食卓の碗や箸を片付けた。 離れる日まで、あと六日。 一日目。 私は一人で司令官・佐久間弘志(さくま ひろし)の事務室を訪ねた。 「これが私と蒼井遼真の離婚申請です。どうか、できるだけ早く承認をお願いします」 弘志は茶碗を持つ手を止め、すぐに書類を手に取り、じっと目を通した。 私と遼真の署名を見つけると、深く溜め息をつく。 「君たち、仲が良かったじゃないか。どうして離婚まで行き着いたんだ?」 そう、どうしてここまで来てしまったのだろう。 遼真とは仲人の紹介で出会った。 機構の若き指揮官と、心優しい小学校教師――誰もが理想的な夫婦だと言った。 けれど、瑤が戻ってきてから、私が耳にしたのはいつも同じ言葉だった。 「蒼井さんは、水無瀬先生に本当に親切ね」 私は小さく首を振り、雑念を振り払った。 「佐久間さん、感情は無理に続けられるものではありません。せめて円満に終わらせたいだけです」 弘志は黙って申請書を引き出しにしまい込んだ。 「二日後に取りに来なさい」 事務室を出た私は、スーパーへ向かった。 棚に並んだ化粧水が目に入る。 結婚して五年、私は一度も自分に買ってあげたことがない。 視線に気づいた店員の女性が、笑いながら言った。 「この前も蒼井さんが五、六本も買っていったのよ。そんなにすぐなくなるのかしら。 余瀬先生、蒼井さんは本当にあなたを大事にしてるのね」 物を持つ手がぴたりと止まった。 ここ数日、私は家にいなかった。 彼は一度だって私に化粧水を贈ったことはない。 昨夜、彼の身体から漂ったあの香り。 それが誰のためのものか、答えは分かっていた。 家事をこなし、五年間寄り添ってきても得られなかったもの。 瑤が戻った途端、簡単に手にしてしまう。 込み上げるのは、悔しさか、怒りか。 私は店員の羨望のまなざしを正面から受け止め、言った。 「一本ください。自分で買いますから」 五日目。 弘志から離婚申請の承認書を受け取り、その足で学校へ退職届を提出した。 学期前で、職員室は人もまばら。 自分の机に向かうと、見覚えのない荷物でいっぱいだった。 私のノートは下に押し込まれ、ぐしゃぐしゃに折れ、跡が消えなくなっていた。 隣の先生が教えてくれた。 「それ、新しく来た水無瀬先生の物よ。空いてるからって、蒼井さんがわざわざ運んで来たんだ」 水無瀬瑤―― 一か月前、離婚して神津市に戻り、今は臨時講師としてここにいる。 嗤うしかなかった。 私は彼女の荷物を机から下ろし、黙って自分の物を片付け始めた。 もう少しで終わるという時、背後から甲高い声が響く。 振り向けば、瑤が立っていた。 その後ろには――私に「付き添う」と言っていた遼真が続いていた。 「遼真、見て。私の荷物が床に捨てられてる!」 遼真は歩み寄り、開口一番、私を責め立てた。 第3話 「余瀬南絢(よせみ なじゅん)、ただ少し物を置いただけでしょ。どうしてそんなに狭量になったの?」 瑤は遼真の袖をそっと掴み、今にも泣き出しそうに言った。 「ごめんなさい、余瀬先生。あなたがいない間、ちょっとだけ借りただけなんです……まさか怒らせてしまうなんて思わなくて……」 そう言って、彼女は私に頭を下げようとした。 遼真は慌てて彼女を支え、冷たい目を向けてきた。 「余瀬南絢、いい加減にしろ。瑤はわざとじゃない。そろそろやめにしたらどうだ」 彼が彼女のために私を責めたのは、これで何度目だろう。もう数えきれない。 くだらない茶番に関わる気はなく、私は箱を抱えてそのまま事務室を出た。 瑤の前を通り過ぎるとき、不意に足を引っかけられ、体勢を崩す。 遼真の目が鋭くなり、私を支えようと伸ばされたが、間に合わなかった。 私は床に倒れ、箱の中身が散らばり、手首を擦りむいた。 遼真は二歩踏み出し、私に手を差し伸べた。 だが次の瞬間、落ちていた二枚の紙を拾い上げる。 「退職届?もう一枚は……」 私は慌てて立ち上がり、彼の手から紙を奪い取った。 「自分で片付けるから、触らないで!」 思わぬ反応に、遼真は驚いた顔をする。 「辞めるつもりなのか?」 言葉に詰まる私を見て、彼はふっと笑った。 「辞めるなら、ちょうどいいじゃないか。瑤が正規採用されれば、俺も安心できる」 胸の奥で何かが音を立てて崩れた。 私は彼を見つめ、何も言わずにその場を去った。 退職届を提出したあと、校門を出ると、遼真が箱を抱えて待っていた。 彼は唇を結び、箱を差し出す。 「お前の物だ」 一瞬、心が和らぎ、礼を言おうとしたその時―― 「南絢、瑤の推薦状を書いてやれないか?正規採用の確率が上がるから」 風が吹き、目に砂が入ったように痛んだ。 私はそっと目元を押さえ、淡々と答えた。 「いいわ」 これまでの夫婦の情け、そう思えばいい。 満足げに口元を緩めた遼真は、さらに尋ねてきた。 「じゃあ、お前は?新しい仕事はどうするんだ」 「別の学校で教師を続けるだけ」 「そうか……」 彼は安堵したように息を吐き、箱を下ろすと私を抱きしめた。 「南絢、お前を妻にできたのは俺の幸運だ。忙しさが落ち着いたら、必ず一緒に帰って、父さんとゆっくり飲もう」 その言葉に胸が締めつけられた。 もう遅い、すべて手遅れなのに。 彼がさらに何かを言いかけた時、瑤が現れた。 「遼真、ちょっと気分が悪いの。先に帰ろう?」 紅潮した頬を見て、私は自ら彼の腕から身を離れた。 予想通り、遼真も慌てたように手を放した。 「まずは瑤を家に送る。その後で話そう」 遼真は宝物でも扱うように、彼女を大切に抱き寄せる。 私は何も言わず、散らかった箱を抱き上げ、ゴミ箱の中へと放り込んだ。 もう、彼の手が触れた物など要らない。 そして最後の日。 私は心を込めて料理を作り、友人たちとの別れの宴を開いた。 集まったのは、ほとんどが遼真の仲間たち。 最後の一皿を運び出したとき、彼らの楽しげな囃し立てが耳に届いた。 第4話 「遼真、水無瀬先生と腕を組んで一杯どうだ?」 「そうだ、飲め飲め!」 瑤は遼真の隣に座り、顔を赤らめて俯いた。 「やめてください、遼真には奥さんがいるんですから」 すると誰かが鼻で笑った。 「よそは騙せても、俺らは知ってんだぜ。水無瀬先生が嫁いでなきゃ、遼真だってやけで見合いなんかしてねぇよな?」 「それに余瀬先生は今ここにいないしな」 手に持ったばかりの熱々の料理は、氷より冷たく感じられた。 かつて彼らが「奥さん」と呼んでくれていた声が、今は胸を抉る。 遼真は強くグラスを卓に置き、顔を険しくして口を開こうとした。 その時、私は咳払いをして現れ、料理を机に置いた。 「さあ、食べましょう」 笑みを浮かべ、席に着こうとした瞬間。 遼真は何かに気づいたように眉をひそめた。 「どうして瑤が嫌いな物ばかりなんだ?」 瑤は首を振り、柔らかい声で言った。 「大丈夫、大丈夫。野菜だけいただきますから。余瀬さんも……わざとじゃないんです」 そう口にしながら、彼女の瞳には涙がにじんでいる。 遼真は立ち上がり、眉間に不快の色を浮かべる。 「レストランで食べ直そうか」 「待って」 私は声を上げ、酒を自分の杯に注いだ。 遼真は驚きの表情を浮かべる。 結婚して五年、私が彼の前で酒を口にするのは初めてだった。 「水無瀬瑤、この一杯をあなたに」 酒が喉を焼き、激しく咳き込む。 遼真は慌てて背中に手を伸ばしたが、私は身をよじって避け、赤くなった目尻を隠した。 彼の手は宙に凍りつき、次いで険しい声が落ちた。 「余瀬南絢……お前は本当に理解できない」 それだけ言い残し、彼は瑤を連れて出て行った。 仲間たちも気まずそうに目を合わせ、次々と席を立った。 私は一人、庭先で料理を平らげた。 列車の出発まで四時間。 庭の野菜をすべて収穫し、両隣の家に分けた。 三時間前。 食器を洗い、机の上に離婚申請書と使いかけの化粧水を並べた。 二時間前。 荷物を抱え、機構のトラックに乗り込んだ。 運転していた若い隊員が笑顔で尋ねる。 「余瀬先生、また帰省ですか?今度はどのくらい滞在するんです?」 私はポケットから飴を取り出し、彼に渡した。 「さあ……もしかしたら一生かもしれないわ」 冗談だと思った彼は笑い、嬉しそうに飴を受け取った。 「じゃあ戻るときは蒼井さんに言ってくださいよ、また迎えに行きますから」 私は黙って頷き、心の中で呟いた。 ――もう、戻ることはない。 夜八時。 遼真は瑤、そして昼間の仲間たちと共に帰宅した。 笑い声と一緒に、レストランで包んでもらった持ち帰りの料理を手にしていた。 「余瀬先生、ただいま!」 玄関で声を張り上げた男が、灯りのない事務室に首をかしげ、手探りでスイッチを押す。 持ち帰りの料理を机に並べたその時、白い紙に気づき、声を詰まらせた。 「遼真さん。余瀬先生からの……離婚申請……」