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桜散る階前の月影
「笠置さん、この離婚届に署名してください。そうでなければ、私も法岡社長に顔向けできません」 法岡康英(のりおか こうえい)の専属弁護士...
Chương (1)
第1章
「笠置さん、この離婚届に署名してください。そうでなければ、私も法岡社長に顔向けできません」
法岡康英(のりおか こうえい)の専属弁護士は、焦燥をにじませた表情で笠置桜良(かさき さくら)の前に立ち、手には真新しい離婚届を抱えている。
これで康英から三十三回目の離婚要求となる。
最初の時、桜良は屋上に駆け上がり、そのまま飛び降りて足の骨を折った。
二度目は、ナイフで手首の大動脈を切り、浴室の半分を真っ赤に染めた。
三度目は、睡眠薬を丸ごと一本飲み干し、病院で三日間にわたり胃洗浄を受けた。
……毎回、彼女は死をもって康英に妥協を迫った。
だが今回――ふと、ただ疲れを感じた。
第1話
「笠置さん、この離婚届に署名してください。そうでなければ、私も法岡社長に顔向けできません」
法岡康英(のりおか こうえい)の専属弁護士・京井達夫(きょうい たつお)は、焦燥をにじませた表情で笠置桜良(かさき さくら)の前に立ち、手には真新しい離婚届を抱えている。
これで康英から三十三回目の離婚要求となる。
最初の時、桜良は屋上に駆け上がり、そのまま飛び降りて足の骨を折った。
二度目は、ナイフで手首の大動脈を切り、浴室の半分を真っ赤に染めた。
三度目は、睡眠薬を丸ごと一本飲み干し、病院で三日間にわたり胃洗浄を受けた。
……毎回、彼女は死をもって康英に妥協を迫った。
だが今回――ふと、ただ疲れを感じた。
桜良が立ち上がって窓辺へ歩み寄ると、達夫は緊張しながら慌てて後を追った。
「笠置さん、どうか思い詰めないでください。社長からは、必ずあなたの安全を守るよう厳命されていますから……」
桜良の視線はガラス越しに、向かいの巨大な広告看板に注がれている。
仕立ての良いスーツに身を包み、堂々と立つ康英。その隣に寄り添うのは、真野グループのお嬢様、真野千絵子(まの ちえこ)。
世間は口をそろえて言う――二人は才子佳人、まさに生まれつきのカップルだと。
だが、桜良は康英の「隠された妻」であり、その存在を知る者は誰もいない。
達夫は落ち着かない様子で看板を一瞥し、おずおずと口を開いた。
「笠置さん、これはあくまでも偽装離婚に過ぎません。離婚しても生活はこれまでと変わりませんし、社長と真野さんの関係については……全て会社を無事に上場させるためのものです。社長もおっしゃっていました。あなたが署名してくだされば、株の五割を譲渡すると……」
その言い分は、彼女にとってもう聞き飽きたものだ。
「……署名します」桜良は彼の言葉を遮り、静かでありながらも揺るぎない声で言った。
達夫は思いもよらぬ即答に一瞬呆然とし、それから驚きと喜びの笑みを浮かべた。「笠置さん、ついにご決心なさったのですね!」
桜良はペンを手に取り、離婚届に署名した。指先はかすかに震え、手にしたペンは鉛のように重く、筆を走らせるたびに胸が鈍い刃でえぐられるようだった。わずか四文字――それなのに、それはまるで一世紀を費やすほど長い時間に感じられた。
最後の一筆を終えるや否や、達夫は待ちきれない様子で離婚届を抜き取った。
「笠置さん、それでは失礼いたします」
重々しく扉が閉まる音が響いた。桜良はまるで骨を抜かれたかのように、ソファへと崩れ落ちた。
テレビではちょうど最新のニュースが流れている。
「市内有数の実業家・法岡康英氏が創設した法岡グループがIPOに成功しました。会計監査に問題がなければ、正式な上場は一か月後の予定で、時価総額は百億ドルに達し、法岡氏の資産はY市でトップとなる見込みです」
画面が切り替わり、康英が映し出された。整った顔立ちと際立つ五官。カメラに向かう彼の姿からは、支配者の威圧感があふれている。
司会者が問いかけた。「法岡社長、今回の上場にあたり、一番感謝したい方はどなたでしょうか?」
その瞬間、彼の目には愛情が溢れ、視線は隣の千絵子へとまっすぐ注がれた。
「もちろん、僕の最も頼れる助手――真野千絵子です。彼女がいなければ、今の僕は存在しません」
千絵子は頬を染め、恥ずかしそうにまつ毛を伏せた。
司会者はさらに尋ねた。「外では、法岡社長と真野さんはまさに生まれつきのカップルだと評判ですが、ご結婚のご予定はございますか?」
康英は微笑みを浮かべ、カメラを真っ直ぐに見据えた。「その質問には、現時点でははっきりお答えできません。なぜなら――千絵子が、その機会を僕に与えてくれるかどうか、まだ分からないからです」
観客席からは熱狂的な歓声が湧き上がった。
「さすが社長だな。告白までもこんなに堂々として情熱的だ!」
「まるでドラマみたい!大手企業の社長と名門令嬢の恋――まさに最高のカップルね!」
「これまでの噂が本当だったなんて!今日はまさに愛の公開宣言じゃない!」
……その一言一言が氷の刃となって桜良の心臓を真正面から突き刺し、その痛みは瞬く間に全身へと広がっていった。
記憶が潮のように押し寄せてくる。
十年前――康英と桜良は互いに支え合いながら生きていた。
最も貧しかった頃、一杯のチャーハンを二人で四回に分けて食べた。
康英に学業を続けさせるため、桜良は大学進学を諦め、一人で三つのアルバイトを掛け持ちした。
それでも学費を早く工面しようと、彼女は病院で血液を売った。
もともと虚弱な体は過度の失血に耐えられず、血液センターを出た途端に意識を失い、倒れた。
駆けつけた康英は彼女を抱きしめ、熱い涙を彼女の頬にこぼした。
彼女はその涙を拭い、手にしたお金を掲げて無邪気に笑った。「康英、これで学費が払えるよ」
まだ青臭い少年は誓った――「必ず成功して、君に全ての女が羨むような日々を送らせてみせる」と。
大学を卒業し、初めて職を得たその日に、二人は役所へ行き、婚姻届を提出した。
「桜良、ようやく僕たちの幸せな日々が始まる。これからは君に苦労をかけない。金持ちになったら、必ず盛大な結婚式を挙げてみせる」
その夜、二人は闇夜に咲く花のように燃え上がり、限界まで愛し合い、互いを自分の体に閉じ込めるかのように抱きしめ合った。
その後、康英の事業は順調に成長し、桜良は金銭的に困ることがなくなった。大きな家に住み、高級車に乗り、家には使用人がいた。
だが、唯一の心残りは――康英が決して彼女の存在を公にしなかったこと。
彼女はずっと待っていた。康英が約束を果たすその日を。
だが、夢に見た結婚式は訪れず、届いたのは彼自身が用意した離婚届だった。
どれだけ死をちらつかせられても、彼は諦めなかった。
「桜良、これはただの偽装離婚だ。安心してくれ、君を見捨てたりはしない。会社の上場には真野家を後ろ盾にする必要があるから、僕が既婚者であることを千絵子に知られてはいけないし、君の存在も絶対に知られてはならない」
――彼が繰り返すのは、いつもその言葉ばかりだった。
彼女のもがきも、反抗も、絶望も、彼の目には大成を妨げる無意味なわがままにしか映らなかった。
今、テレビの画面の中で千絵子はカメラに向かい、目に愛情を込めながら自然に指で髪をかき上げている。その薬指には大粒のダイヤの指輪が輝いている。
「皆さまの温かいお心遣いに感謝いたします。良い知らせがあれば、必ずお伝えいたします」
観客席は再び歓声に包まれた。
桜良は自分の指にはめられた、ただの細い銀の指輪を見下ろした。胸の奥に限りない苦味が広がっていく。
――その時、彼女ははっきりと悟った。自分が欲したものは、康英がすでに他の誰かに与えてしまったのだ。
そして、彼が求めるものは、もはや自分は差し出せない。
二人はすでに同じ道を歩む存在ではなくなっている。
偽装離婚?そんなものは存在しない。
離婚するなら――潔く、そして完全に。
桜良はスマホを取り出し、国際電話をかけた。
「おばさん、決めた。海外に行って、一緒に暮らす」
電話口の向こうから驚きの声が返ってきた。
「桜良、本当にいいの?前はあの出世した夫と一緒に暮らすって言ってたじゃない」
長い沈黙の後、桜良はぽつりと告げた。
「……私、彼と離婚したの」
「そんな夫、いらないわ。いつまでもあなたとの関係を公にしないなんて、浮気心があるに決まってる。離婚して正解よ。おばさんが養ってあげる。ちょうど来月、上場を控えた国内企業の監査で帰国する予定だから、用事が済んだら一緒に連れて行くわ」
「……うん、お願い、おばさん」
桜良の叔母・笠置晴奈(かさき せいな)は、世界規模の監査法人の責任者で、上場企業の会計監査を専門としている。多忙を極め、桜良を見つけた後も、康英と顔を合わせる機会を持てずにいる。
――もっとも、これからはもう、その必要もないだろう。
第2話
電話を切ったばかりの桜良のもとに、康英から着信があった。
「桜良、君ならきっと理解してくれると思ってたよ。会社の上場のためには、やむを得ない策なんだ。心配しなくていい。ただの紙切れにすぎない、僕たちの関係を変えるものじゃない。後で秘書を迎えに行かせるから、今夜はしっかり祝おう」
桜良の心が揺れた。――彼にとって、離婚は祝うべき出来事なのだ。
だが彼女は拒まなかった。十年の愛には、散り際に一度くらい「別れの食事会」をする価値があるのかもしれない。
豪華なレストランの一室で、向かい合って座る二人。
思えば、康英が裕福になり忙しくなるにつれて、一緒に食卓を囲む時間はほとんどなくなっていた。
「桜良、僕がかつて君に誓ったことは、もう全て実現した。会社が上場すれば、僕は使い切れないほどのお金を手に入れるんだ」
康英はグラスを掲げ、一気に飲み干した。
目の前の男は、もはやあの頃の貧しい少年ではない。その瞳には、名誉と富への欲望がぎらぎらと燃えている。
胸の奥に酸っぱくて苦いものがこみ上げてきて、桜良はグラスを持ち上げ、康英に向かって言った。「夢の実現、おめでとう。自由を祈っているよ」
烈しい酒が喉を焼き、その熱は心の奥底まで広がった。
桜良は零れそうな涙を堪え、心の中でそっと呟く――どうか私も自由になれますように。
その時、康英は一枚の書類を差し出した。
「これは株式譲渡契約書だ。株の五割を君に讓渡する。これで安心できるだろう」
桜良はそれを受け取り、口元にかすかな苦笑を浮かべた。
――欲しかったのは、決してこんなものじゃない。
その時、レストランの扉が勢いよく開き、康英の秘書・松多敦史(まつた あつし)が駆け込んできた。
「社長、千絵子さんが急ぎでお呼びです!」
康英は桜良を一瞥すると、すぐに立ち上がった。
「ここの料理はうまい。ゆっくり食べてくれ」
だが、どんなご馳走も、一人で食べれば無味同然だ。
桜良は静かに立ち上がり、席を離れた。ふと隣の個室の前を通りかかると、中から康英の声が聞こえてきた。
「千絵子、ごめん、少し用事で遅れた。料理はもう頼んである。君の好きなものばかりだ」
桜良の視線は、ドアのガラス越しに中へと吸い寄せられた。そこに並んでいる料理は――つい先ほど、自分の前に置かれていたものと全く同じだ。
……そうか。彼はとっくに千絵子とのディナーを用意していたのか。
自分との食事は、ただの「ついで」に過ぎなかった。千絵子とのデートこそが、彼が今夜一番気合を入れていることだ。
桜良の指先は掌に深く食い込み、それでも痛みを感じなかった。
「あなたが忙しいのはわかってるわ。でも今日は、私たちの交際三周年の記念日。どんなに遅くなっても、待っているつもりよ」千絵子の甘える声が響いた。
――三年。彼らはもう三年も一緒にいたのか。
ちょうど三年前、康英が初めて「離婚」を切り出した時と重なる。
個室の外で、桜良は唇を噛みしめ、込み上げる涙を抑えることができなかった。
そこへ料理を運ぶウェイターが通りかかり、熱々のスープを抱えていたが、足を滑らせてそのまま前に倒れ込んだ。
ぐらりと揺れた鍋から、スープが一気に桜良の全身に降りかかった。
「きゃあっ!」
火傷の激痛に、桜良は思わず叫び声を上げた。白い肌は瞬く間に真っ赤に腫れ上がった。
「も、申し訳ありません!本当にすみません、わざとじゃないんです!」ウェイターは慌てて平謝りした。
その声を聞きつけて、千絵子が個室から顔を出した。
「どうしたの?」
続いて康英も現れた。桜良を見ると、彼の眉間にわずかな皺が寄った。
「すみません、足を滑らせてこのお客様に……熱いスープをこぼしてしまって……」顔を青ざめさせ、震える声で説明するウェイター。
その瞬間、康英は咄嗟に桜良へ駆け寄り、彼女の腕を支えた。「どこを火傷した?ひどくないだろうな。見せてくれ!」
険しい表情と、思いがけないほどの必死さ。その様子を見て、千絵子は小首を傾げ、訝しげに口を開いた。
「康英……あなたたち、知り合いなの?」
その一言が、冷水のように康英を現実へと引き戻した。
彼は慌てて桜良の傷を確認しようとする手を引き、千絵子に向かって軽く笑みを浮かべながら取り繕った。「知り合いなわけないだろう。彼女の怪我がひどそうだったから、思わず助けただけだよ。君も知ってるだろう、僕は昔から人の苦しむ姿を見るのが苦手なんだ」
その言葉を聞いて、桜良の胸は凍りつき、心臓の鼓動が止まったかのように感じられた。
――そう、彼にとって自分は、ただ「同情すべき見知らぬ女」にすぎないのだ。
「すみません、すぐに病院へお連れします!」ウェイターは必死に謝りを繰り返した。
桜良は顔を上げ、努めて平然を装った。「大丈夫です。たいした怪我じゃありませんから、自分で処置します」
そう言って、その場を逃げるように立ち去った。これ以上ここにいたら、無理に繕った平静が粉々に砕けてしまう気がしたから――
第3話
病院で看護師が桜良の火傷の手当てをしている。
「笠置さん、この火傷はかなりひどいですね。しっかり手当てをしないと、跡が残ってしまいますよ」
桜良は静かにうなずいた。
全身に幾重にも巻かれた白い包帯が、かえって痛々しく目に刺さる。
ふと彼女の脳裏に浮かんだのは――昔、レストランで皿洗いのアルバイトをしていた時、不意に指先を切ってしまった日のことだった。
あの時、康英は涙を浮かべながら彼女の指を胸に抱きしめ、そっと撫で続けてくれた。
……だが、今の彼女は彼にとって、ただの無関係な他人にすぎない。
そう、あの日、離婚届に署名した時点で、二人の関係は――終わっていたのだ。
スマホが震え、康英からメッセージが届いた。
【傷は大丈夫か?僕は今そっちに行けない。何かあれば秘書に連絡してくれ】
桜良は即座に答えた。【大丈夫】
短い文を送ると、そのまま病院を後にして自宅へ戻った。
寝室に横たわると、心身は疲れ果てており、すぐに深い眠りに落ちた。
うとうとと眠っていた時、突然隣のマットレスが沈み込み、温かな体温がのしかかってきた。
荒々しく急ぐ男の動きが、火傷の傷口を無情に押し潰し、強烈な痛みが走った。
「痛っ!」桜良はその不埒な手を振り払った。
――目を開けると、そこにいるのは康英だ。
彼がこの家に戻ってきたのは、一体どれほどぶりだろうか。
最後に家で彼を見たのは、初めて離婚を切り出された夜――桜良が屋上から飛び降り、病院に運ばれたあの時だった。
彼は真っ赤な目をして彼女を抱きかかえ病院へ連れて行ったが、その日を境に、二人の距離は急速に遠ざかっていった。
以来、彼は「離婚に応じない限り、家には戻らない」と決めたかのように姿を消した。
桜良は家でひたすら待ち続けたが、それでも会えず、会社に押しかけ、やがて探偵まで雇って彼の行方を追った。
……だが、今の彼女にはもはや彼のことが必要ない。
康英の手が一瞬止まった。彼女の拒絶に驚いたのだろう。
やがて彼は体をひねり、隣に腰を下ろした。「……すまない。焦りすぎて、君の怪我のことを忘れていた。ただ、わかってほしいんだ。僕にとって妻は君だけだ。たとえ千絵子とどうあろうと……僕の心にいる妻は桜良、君だけだ」
――妻?
式も挙げておらず、公表もされていない。戸籍謄本にも記載されていない「妻」。
桜良の唇から、乾いた笑いがこぼれた。
――そんな「妻」の座など、もう欲しくはなかった。
彼女が黙ったままでいるのを、康英は「今夜の出来事に怒っているのだ」と勘違いし、額に優しく口づけを落とした。
「桜良、気持ちはわかる。でも、大局を考えてほしい。……さあ、ゆっくり安静にしろ。僕は今日は書斎で寝る」
夜半、傷口の痛みに耐えかねて、桜良は痛み止めの薬を探そうとリビングへ向かった。
書斎の前を通り過ぎた時、中から康英の低い声が漏れ聞こえてきた。
「……ああ、今日、離婚届を提出した。明日には取締役会に独身だと報告できる」
相手が嘲るように言った。「へぇ、桜良が離婚に応じるなんてね。やっとか。どうやって説得したんだ?」
康英はため息を漏らし、答えた。「……きっと、彼女は理解してくれたんだろう。昔から、僕を思いやってくれる人だから」
「じゃあ、本当にこれから千絵子と結婚するつもりなのか?」
長い沈黙の後、康英はゆっくりと口を開いた。
「最初は確かに、真野家に取り入りたくて千絵子に近づいた。しかし、一緒に過ごすうちに、毎日がリラックスできて楽しくなった。彼女はいつも僕の気持ちを理解してくれる。言葉を交わさなくても、たった一つの視線で通じ合える……桜良とは違う。あの顔を見るたびに、僕は思い出してしまうんだ。自分がどれほど惨めで、女に養われるしかなかったあの頃を……あの貧乏な日々は、僕の人生最大の悪夢なんだ」
――ドアの外で、桜良の体が震え、こらえきれずに涙が溢れ出した。その涙は火傷よりも熱く、頬を焼いた。
彼女が大切にしている、あの苦しい日々。自分を犠牲にしてまで彼を支えた年月。康英にとっては、それが「悪夢」だったのだろうか。
ならば、自分は一体何だったのだろう。
康英の声がなおも続く。「会社が上場したら、その日に千絵子にプロポーズするつもりだ」
――ついさっき、「妻は君だけだ」と言ったその口で、今度は別の女に結婚を誓おうとしている。
桜良の唇がひきつり、嗚咽と笑いが入り混じった。体の傷はじくじくと痛んだが、その痛みなど心の痛みの万分の一にも満たなかった。
……もう、何もいらない。ここから一刻も早く逃げ出したい。
翌日、桜良はデパートへ出かけ、おばの晴奈に渡す手土産を探している。
ふと目に留まったのは、一枚の上品なシルクのスカーフ。店員を呼んで見せてもらおうとした矢先、外からざわめきが響いた。
「道を開けてください!本日、法岡社長が貸し切りでご利用中です。他のお客様は速やかにご退店ください!」
屈強なボディーガードたちが次々と人々を追い出していく。その隙間から、桜良は康英と千絵子の姿を見つけた。
やがて、店内の一般客は全て追い払われた。ただ一人、隅の陰にいた桜良だけは、ボディーガードの目をかいくぐってしまった――
第4話
康英の顔には、甘やかすような微笑みが浮かんでいる。「千絵子、欲しいものがあれば遠慮なく選べ。僕が全部買ってあげる」
千絵子の頬はほんのり紅潮し、はにかみながら答えた。「康英、私はあなたのセンスを信じるわ。あなたが選んで」
「わかった」康英の視線が店内の棚を一巡し、すぐに一つの限定バッグに止まった。
「店員、あのバッグを取ってきてくれ。
千絵子、これは今年の新作だ。小ぶりで上品で、君の雰囲気にぴったりだ」
次に服を選ぶ。
「千絵子、この藍染め調のドレスは清楚で気品がある。君の肌をより美しく引き立てるだろう」
さらに靴。
「千絵子、この靴はデザインが美しく、ヒールも高すぎない。履き心地が良く、それでいて高級感もある」
傍らにいた店員たちが小声で驚き合っている。
「信じられない……男の人でここまで女性やファッションに詳しいなんて初めて見た」
「だからこそ、彼は完璧な男って言われるのよ。稼ぐだけじゃなく、センスも一流。選んだものはどれも人気の定番品だわ」
「私もあんな男性に出会いたい……羨ましすぎる」
……
角に隠れていた桜良は、呼吸さえも苦しくなった。
――そうか。彼はわからなかったわけではない。ただ、自分の前では「わかる気がなかった」だけだ。
康英が金を持つようになった頃、桜良は必死に彼に釣り合うため、服やバッグを買い揃えた。
「どう?似合う?」と嬉しそうに彼に見せても、彼は書類から目を上げなかった。
返ってくるのは決まって平静な一言――「女物なんてわからない。君が好きならそれでいい」
だが今、彼は流暢にファッションについて語っている。その姿は、鋭い刃のように桜良の胸を抉った。
やがて千絵子は試着を終え、姿を現した。康英が選んだドレスはまるで誂えたかのように彼女の魅力を引き立て、一層艶やかに見せている。
康英はうっとりとした眼差しで彼女を見つめ、溢れんばかりの愛情を注いだ。「千絵子、会社が上場するその日にこのドレスを着れば、君は必ず会場全体を魅了する。その時、僕から君へのサプライズを用意している」
――その言葉に、桜良の心臓は大きく揺さぶられた。体がふらつき、目の前にあった棚をガタンと倒してしまった。
ボディーガードが即座に反応し、桜良を引きずり出して彼女の頬を強く打ち据えた。
「誰の許可を得てここに潜んでいたんだ!覗きなんて、図々しい真似をするな!」
「君たちは何をしてる?貸切の命令はすでに出してあったはずだ。なぜまだ人が残っているのか!」康英の声は氷のように冷たく響いた。
ボディーガード隊長が頭を下げて言った。「申し訳ございません、社長。すぐに対処いたします」
桜良が康英を呼ぼうとした瞬間、口を塞がれ、そのまま力任せに外へ引きずり出された。
人気のない路地に放り出されると、ボディーガード隊長が怒声を浴びせた。
「ちっ、縁起でもない女め!俺たちの仕事を潰すつもりか!やれ、思い知らせてやれ!」
数人が一斉に取り囲み、拳や蹴りを浴びせかけた。
「やめて……!もし私に手を出したら、康英が黙ってないわ!」桜良は震えながら怯えている。
だが彼らは嘲笑した。「お前が?法岡社長の女?妄想も大概にしろ!」
次の瞬間、無数の拳と足が彼女の体を襲った。頭も足も、全身に容赦なく。彼女は悲鳴すら喉に詰まり、力なく消えていった。
意識を失う直前に見えたのは――
康英は千絵子を抱き寄せ、彼女の手に複数のショッピングバッグを提げさせながら、豪華なマイバッハに乗り込んだ。
……心臓をえぐられたような痛みが、突然、不思議なほどに消えていった。
彼女の思考は遠い昔へと飛んだ。まだ二人が寄り添っていた頃、康英は毎朝彼女を送り、夜には必ず迎えに来てくれた。
「そんなに毎日見張るみたいに……私、逃げたりしないよ?」と冗談を言うと、彼は照れ笑いを浮かべた。
「当たり前だ。こんなに可愛い嫁なんだから、絶対に守らなきゃ。君を一瞬たりとも危険に晒したりはしない」
若き日に愛し合った二人を乗せた自転車は、街角を曲がり、ゆっくりと消えていった――
……桜良が次に目を開けた時、そこは病院のベッドだ。康英は暗い表情で椅子に座り、彼女のそばで見守っている。
桜良が目を覚ますと、彼はわずかに顔色を変え、低い声で問いかけた。「桜良……誰にやられた?どうしてこんなひどい目に?言ってみろ。必ず僕が仇を討つ」
桜良が必死に唇を開き、答えようとしたその瞬間、康英のスマホが鳴り響いた。
「……ああ、わかった。すぐに行く」
短く返答すると、彼は立ち上がりざまに言い捨てた。「戻ったら話を聞く。待ってろ」
だが、彼は帰ってこなかった。二度と。
退院の日、桜良の心は驚くほど軽やかだ。
期待しなければ、失望もない。
彼女はもう、康英の愛を望んでいない。
家に戻ると、荷造りを始めた。
部屋のあちこちには、彼女が丁寧に収納した二人の思い出が散りばめられている。
リビングの壁には、彼がこの数年の間に贈ってくれた花を乾燥させて作ったドライフラワー。テーブルの上には、昔二人で手作りしたペアカップ。ソファの上のクッションは、旅行先で一緒に買った記念品。さらに、ベッドの上のテディベアは、彼が初任給で贈ってくれた最初の誕生日プレゼント。
だが今となっては、それら全てが康英にとって「惨めな過去の象徴」に過ぎない。桜良の胸は綿で詰められたかのように重苦しく、息が詰まりそうだ。
広大なこの別荘は、まるで豪華な檻。そこに閉じ込められていたのは、ただ一人、愚かにも一途に愛し続けた自分自身だった。
第5話
桜良は、大きなゴミ袋を五つも使って、ようやく家の中の思い出の品を全て片付け終えた。
その時、叔母の晴奈から電話がかかってきた。
「桜良、あさってY市に着くよ。空港まで迎えに来てね」
「はい、おばさん。あの日は早めに行って待ってるよ」
電話を切ったちょうどその時、康英が扉を開けて入ってきた。
「誰を迎えに行くんだ?」
桜良は目を伏せ、淡々と答えた。「……誰でもないわ。ネットで注文した服を取りに行くだけ」
康英は少し気まずそうな表情で近寄った。「悪かった。この数日、会社の監査対応で手一杯だったんだ。あさって、第三者の監査法人の責任者が来る。これは上場前の重要なステップだから、気を抜けない」
「そう」桜良は素っ気なく頷いた。彼の仕事の話など、もう心に響かなかった。
ふと、康英の胸に不安がよぎった。目の前の桜良は、まるで別人のようだ。彼に執着せず、行動を詮索することもなくなった。
だがすぐに彼は、「今は事業の重要な時期だから、迷惑をかけまいと気を遣っているのだ」と解釈し、胸をなで下ろした。
「桜良、君はずいぶん大人になったな」彼は言い、桜良の肩を抱きながら目尻に安堵の笑みを浮かべた。
桜良は微笑んだが、何も言わなかった。
――彼女が命懸けで愛した時には、「わがまま」だと責められた。
――今、その愛を手放した途端、「大人になった」と褒められた。
……男なんて、本当にくだらないものだ。
康英は部屋を見渡し、初めて何かが足りないことに気づいた。どこか随分と空っぽになったように感じられた。
「桜良、最近掃除でもしてたの?今がめっちゃいいじゃないか、居心地がいい」
桜良は表情を変えずに言った。「ええ……たくさんのゴミを捨てたの」
――なるほど。彼の不快感は、「邪魔なもの」が存在していたからだったのか。
翌日、桜良のスマホに匿名のメッセージが届いた。
【重要な話がある。ぜひ会いたい】
不審に思いながらも、彼女は指定されたカフェへ向かった。
席に着くと、すらりとした女性が向かいに腰を下ろした。
サングラスを外し、落ち着いた口調で手を差し出した。「初めまして、笠置さん」
桜良が顔を上げて息を呑んだ――そこにいるのは、千絵子だ。
千絵子の唇に、かすかな勝ち誇りの色が浮かんでいる。「驚いたでしょう?まさか私があなたを見つけるなんて思わなかったはずよ」
そう言って一拍置き、桜良の顔をじっと観察した後、声を潜めて言った。「……あの日、レストランであなたを見かけてから、少し調べさせてもらったの。やはり、康英はあなたのことを徹底的に隠している」
彼女の声が急に低くなり、その奥に抑えきれない寂しさが滲んでいる。
桜良は、鮮やかでありながらも哀愁を帯びた彼女を見つめ、心の奥底に微かな同情を覚えた。
――康英に傷つけられたのは自分だけではない。千絵子もまた、ずっと騙され続けてきたのかもしれない。
言葉をかけようとしたその時、千絵子はかばんから一枚の小切手を取り出し、彼女の目の前にそっと置いた。
「笠置さん、あなたと康英が過去にどのような関係であったかは問わない。でも今後は一切関わらないでほしい。補償金額は、あなたが望むだけ記入して構わない。真野家にはそれだけの余裕がある」
桜良の唇に、皮肉な笑みが浮かんだ。
――同じ「被害者」だと思っていたが、結局は康英と同じで、金で全てを解決できると考えている。
……なるほど。確かに、生まれつきのカップルだ。
桜良は彼女の瞳をまっすぐに見つめ、声は柔らかかったが、はっきりと響いた。
「真野さん。お金では買えないものがあります。本物の愛情は、いくら積んでも手に入りませんよ……違いますか?」
その一言で、千絵子の顔色が一気に冷たくなった。
「笠置さん、忠告よ。無理を通そうとすれば、痛い目に遭うわ。私の頼みを断れる人間はいない」
彼女は声をひそめ、一つ一つの言葉を刃物のように鋭く切り出した。
桜良は淡々と答えた。「お金は確かに便利なものです。しかし、お金で買えるものこそ、最も価値のないものです」
もう会話を続ける気はなく、彼女はかばんを手に取って立ち上がった。
その瞬間――千絵子はテーブルの上にあったグラスを掴み、自分の額に思い切り叩きつけた。
ガシャンッ!鋭い音と共に、鮮血が彼女の整った顔を伝って流れ落ち、目を覆うほどに真っ赤に染め上げていく。
ほぼ同時にカフェの扉が開き、康英が姿を現した。
彼の目に飛び込んできたのは、血まみれで震えている千絵子の姿。
「千絵子!」彼は顔を青ざめさせ、一瞬で駆け寄り、その身を抱きしめた。
「どうした?!誰がやった?!誰に傷つけられた?!」
千絵子が手を挙げ、震える指で呆然と立ち尽くす桜良を指し示した。
涙と血が混じり合い、掠れた声が零れた。「……彼女よ。私を呼び出したの……」
康英が顔を上げ、初めて傍らに立つ桜良の青ざめた顔を見た。そして怒りが爆発した。
「桜良……正気か?!君は千絵子に手を上げたのか?!」
怒声と共に、唇を噛み砕かんばかりの怒りが滲んだ。
だが千絵子は彼を押しのけ、よろよろと立ち上がった。瞳には、やりきれない思いと絶望が満ちている。「康英……どうして私を騙したの?あんなに苦しめて……」
そう言い残し、後ろを振り返ることなくカフェを飛び出していった。
康英は桜良を鋭く睨みつけると、そのまま追いかけて外へ出て行った。
呆然と立ち尽くす桜良。
――千絵子の本当の目的が、今になってわかった。彼女は康英の目の前で、こんな芝居を打つために自分を呼び出したのだ。
第6話
その夜、桜良は康英に縛られ、地下室に放り込まれた。
鉄の扉越しに響く彼の声は、氷のように冷たかった。「桜良、僕は言ったはずだ。千絵子に真実を話すなと。どうして君はいつも言うことを聞かないんだ?」
桜良の体は突然激しく震え、荒い息を繰り返した。
彼女は必死に扉を叩きながら叫んだ。「違う……私じゃない、私から会いに行ったんじゃない……!お願い、ここから出して……こんなところに閉じ込められたら、死んでしまう……!」
声は次第に弱まり、力尽きていった。だが扉の向こうにいる男の心は微動だにしなかった。
「桜良、罪を犯した者は罰を受けるものだ……今日はここでじっくり反省するんだな」
最後の灯りが消え、地下室は完全な闇に包まれた。
――彼は知っている。桜良が重度の閉所恐怖症であることを。それでもなお、彼女が最も恐れる方法で罰を与えたのだ。
桜良は体を小さく丸め、腕で自分を抱き締めながら、酸素が奪われるかのように苦しげに喘いだ。
意識を失う寸前、脳裏に浮かんだのは遠い日の記憶。
――あの頃、レストランのキッチンで皿洗いをしていた時、閉店後にシェフがキッチンの扉に施錠をし、桜良が一人取り残された。彼女は恐怖に駆られて康英に電話をかけた。
十キロの距離を、康英はわずか十分で駆けつけ、彼女を救い出した。
そのため、彼が十数個の赤信号を無視して走り抜けてきたことを後で知った。
泣きながら「馬鹿じゃないの!事故でも起きたらどうするの!」と責めた彼女に、彼は強く抱きしめて言った。
「君の命は、僕の命よりも大切だ……君がいなければ、僕が生きる意味なんてない」
――確かに彼は、かつて燃えるような愛を注いでくれた。
だが、今の彼は千絵子のためなら、桜良の命などどうでもよくなっている。
熱い涙が一粒、頬を伝って落ち、桜良の意識は闇に沈んだ。
翌朝、ようやく地下室から引きずり出された。
白々しい日差しが、目に痛いほど眩しかった。
庭の椅子に腰掛け、きちんとスーツを着こなした康英は、余裕の笑みを浮かべて桜良の惨めな姿を見下ろした。
「閉じ込められた気分はどうだ?次にまた千絵子に手を出すなら、一晩で済ませはしないぞ」
桜良の喉がひゅっと締めつけられた。
――彼は彼女のことをよく知っている。どこを刺せば彼女が最も苦しむかを。
桜良は目の前の男を見上げ、背筋が凍るような感覚を覚えた。
目が真っ赤に充血している彼女は、必死に立ち上がり、ふと笑みを浮かべた。
「……もう、二度としないわ。永遠に」
康英は彼女に背を向け、そのまま足早に立ち去った。
桜良は重い足取りで病院へ向かった。おばに、この惨めな姿を知られたくなかった。
だが大通りに出た瞬間、視界が暗転し、屈強な男たちに車へ押し込まれた。
再び目を開けると――そこは廃工場。
自分と千絵子は、同時に椅子に縛り付けられている。
二人の首には、それぞれ一人の男が鋭い刃を突きつけている。
やがて康英が駆けつけてきた。目の前の状況を見て、彼の瞳に動揺が走った。
「君たちは何者だ!彼女たちを放せ!もし僕に用があるなら、僕を狙え!」
暗がりから痩せこけた男が現れた。声は凍りつくほど冷たかった。「さすが法岡社長、口の利き方は相変わらず豪快だな。俺のことを覚えているか?」
康英はその男の顔を見ると、血の気が引いた。
「……飯塚覚(めしづか さとる)?!君、正気か?あの時の件は僕とは関係ない。君の体調に問題があったから、昇進の機会は本社が僕に譲ったんだ!」
覚の蒼白な顔に、かすかに歪んだ笑みが突然浮かんだ。
「関係ない?みんな知っている。お前は出世のためなら手段を選ばない。俺がお前を親友だと信じていた時、お前は俺を裏切った。……今やお前は上場を控えた社長だが、俺には何もない」
彼の視線が桜良と千絵子の間を舐めるように行き来した。
「康英、昔お前は会社に『俺かお前か』を選ばせた。……だから今日は俺が選ばせてやる。この二人の女のうち、どちらか一人を救え。もう一人は俺が処分する」
千絵子は恐怖で泣き崩れ、必死に叫んだ。「康英!私を助けて!お願い、絶対に助けて!」
桜良は息を止め、胸が激しく高鳴った。
康英は完全に混乱している。
「やめろ!二人を放せ!……金が欲しいんだろ?いくらでもやるから!」
だが覚は目を細めた。「選ばなければ、両方返さない……死んでもらう」
合図と同時に、覚の手下の刃が一斉に桜良と千絵子に襲いかかった。
鮮血が飛び散り、床を真っ赤に染め上げた。
千絵子の絶叫が工場内に響き渡った。桜良の顔は血の気を失って蒼白となり、額から冷たい汗が滝のように滴り落ち、全身が激痛でかすかに震えている。
それを見た康英は、もはや理性を保つことができなくなった。瞳は突然、恐ろしいほど血走り、声は裂けている。
「やめろ!!……僕が選ぶ!」
覚が意味深に唇を歪め、冷たく笑った。「そうこなくちゃな。で、どちらにする?長年連れ添った妻か?それとも、お前を頂点へ導く真野家のお嬢様か?まじで興味ある」
第7話
康英の視線は千絵子と桜良の間を揺れ動いた。短い沈黙の後、最終的にその目は千絵子の顔に留まった。
喉を絞り出すように、かすれた声で言った。「……僕は……千絵子を選ぶ」
その瞬間、桜良の全身から力が抜け、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ははははっ!やっぱりお前は昔と変わらないな。出世のためなら、長年連れ添った妻の命すら切り捨てる」
覚は高笑いをあげ、千絵子を縛っていた縄を切り、彼女を康英に投げ渡した。
康英はすぐさま千絵子を抱き上げ、まるで壊れ物を扱うかのように大切に胸に抱きかかえた。
「千絵子、大丈夫だ。今すぐ病院に連れて行くから」
そう言わんばかりに、康英は振り返ることなく駆け出した。一秒でも遅れれば千絵子を失うかもしれないと、まるでそう考えているかのように。
桜良に一瞥すら与えなかった。
覚は鞭を振り上げ、容赦なく桜良の背中に叩きつけた。「桜良さん、恨むなら自分の目の見えなさを恨め。康英が背負うはずの借りは、全部お前で清算してもらう」
鞭が何度も彼女の体を裂き、血が滲み出し、息もまともにできないほどの激痛が襲った。
喉から声を出そうとしても、かすかな音さえも出なかった。
朦朧とする意識の中で、桜良はかつての光景を思い出した。
――質素な指輪を手に、康英が片膝をついて、熱い眼差しでプロポーズしたあの時。
「桜良、僕と結婚してくれ。必ず一生守り抜くから」
……けれど、康英、あなたの「一生」は、ほんの数年で終わってしまったのね。
再び目を開けると、彼女は病院のベッドの上に横たわっている。
ベッド脇の椅子に腰かけた康英は、ネクタイを緩め、目の下に濃い隈を浮かべている。まるで長時間付き添っていたかのように。
「目が覚めたか?」
伸ばされた手を、桜良は顔を背けて避けた。
康英は気まずそうに手を引っ込め、低い声で言い訳をした。「あの時は緊急事態だったんだ。まず千絵子を救い出すしかなかった。それから改めて君を助けるつもりだった。飯塚覚は狂ってる。賭けるわけにはいかなかったんだ」
彼の声が急に少し柔らかくなった。「すまない、桜良。僕のせいで苦しめてしまった」
「……もし私が本当にあそこで死んでいたら、後悔した?」桜良が急に口を開き、乾いた声で問いかけた。
康英は絶句した。病室には息苦しい沈黙が広がった。
数秒後、ようやく彼が口を開こうとしたその時――けたたましい着信音が彼の声を遮った。
「康英……どこにいるの……?すごく痛いの……」
電話口から聞こえてきたのは、弱々しい千絵子の声。康英は無意識に桜良を見やり、口の動きだけで「休んでろ」と告げると、何も言わずに病室を出て行った。
残された桜良の口元に、微笑みが浮かんだ。
――彼が答えに迷ったあの数秒こそが、答えだった。
彼にとって、私はもはや最優先の存在ではない。だから、後悔するはずもない。
問いかけた自分が、ただ愚かだった。
退院後、桜良は身支度を整える間もなく、すぐに空港へ向かった。
「桜良!久しぶりね、会いたかったわ!」晴奈が勢いよく抱きしめてきた。
その瞬間、桜良の傷が疼き、小さな呻き声が漏れた。
晴奈はそれで初めて桜良の傷に気づいた。「桜良、その体……その傷、どうしたの?」
桜良は深呼吸をして、努めて平静な口調で言った。「大したことないわ。この前、ちょっと転んだだけよ」
晴奈は納得しきれない表情を浮かべたが、桜良が多くを語ろうとしないのを見て、追及をやめた。
「それにしても……旦那さんは?あ、もう元夫か。どうして一緒に来てないの?離婚していても、おばさんである私の立場からすれば、顔を合わせるべきじゃない?」
桜良は伏し目がちに答えた。「彼は今、会社の上場で忙しくて……来られないの」
「上場?」晴奈は言葉を繰り返し、思わず目を細めた。「どこの会社?」
「法岡グループ」
晴奈の表情が一瞬固まった。――それこそが、今回自分が監査のために帰国した会社だ。
「おばさん、もうその話はやめよう。お気に入りのレストランに連れて行くよ」
食事の席を外した晴奈は、「トイレに行く」と言い訳をして、すぐに秘書・佐藤ユリカ(さとう ゆりか)に電話をかけた。
「法岡グループ取締役、法岡康英の私生活について調査し、関連資料を全て用意して」
ユリカの動きは素早かった。レストランを出る頃には、すでに調査結果がメールで届いていた。
スマホの画面に並んだ情報を見た瞬間、晴奈の胸が締め付けられ、目に涙が滲んだ。
「おばさん、どうかしたの?体調が悪いの?」桜良が晴奈の変化に気づき、心配そうに尋ねた。
晴奈は彼女の手を強く握り、溜息をついた。「……馬鹿な子。ここ数年、こんなに苦しんできたなんて。もうこれからはおばさんが守ってあげる」
堪えていた感情が胸の奥から込み上げてきたが、桜良はぐっと飲み込み、笑顔を見せた。
「私は大丈夫よ、おばさん」
その後の数日間、晴奈は監査業務に追われ、桜良は移民の準備に没頭した。
ビザを取り、航空券を予約し、荷物をまとめ、必要な物を買い揃えた。時間は隙間なく埋まっていった。
その頃、康英は千絵子を連れて南国の島へ療養に出かけている。
彼のインスタは毎日更新されており、二人が共に過ごす日々を記録している。
一枚目――二人が指を絡ませて海辺を歩く姿。
キャプションは【人生の旅路で、君がそばにいてくれることに感謝】
二枚目――陽光に照らされた砂浜で寄り添って座る二人。
キャプションは【今日の陽射しはとても心地よい。二人で浜辺で石を拾う】
三枚目――夜空に花火が咲き乱れ、満天の星が輝く。
キャプションは【星を婚約の証に、君に一生の安らぎを贈る】
桜良はそれを見て笑った。その言葉はかつて自分に向けられていたものだが、今では別の相手に同じ熱意で語られている。
――愛されなくなれば、心はもう痛まない。
すっかり空になり、自分の痕跡が全く残っていない別荘を見つめて、桜良の目に満足げな笑みが浮かんだ。
彼女は書斎へ向かい、手元の質素な指輪を外して、株式譲渡契約書と共に康英の机の上に置いた。
去るときは、きっぱりと痕跡を残さずに。
三日後、晴奈の監査が終了した。
桜良はタクシーを呼び、途中で晴奈を拾って一緒に空港へ向かった。車中で桜良がふと尋ねた。「おばさん、今回の仕事はうまくいった?」
晴奈の目がわずかに光り、落ち着いた声で答えた。「問題が多すぎたの。結局、上場の監査は不合格だった……あの会社は、もう上場できないわ」
「そう……残念ね」桜良は頭を窓の外に向けて答えた。晴奈が持っている書類には【法岡グループ】という文字があったが、桜良はそれに気づかなかった。
彼女の視界から街並みが少しずつ遠ざかり、やがてぼやけていった。
――ここを、ついに離れるのだ。康英と過ごしたあの街を。
搭乗手続きを終えると、桜良はスマホを取り出し、康英に関する全てのデータを削除した。
同じ頃――康英の電話が鳴った。
「社長、今回の会計監査は不合格でした。至急お戻りください!」
その一言に、康英の胸は奈落へと沈んだ。「……もう一度言ってくれ……何が不合格だったって?」