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もう、あなたの愛はいらない
町中の上流階級では誰もが知っている。あの冷酷な長谷川家の御曹司が、たった一人の女性のために、家柄も命も捨てたってことを。 やがて彼は念...
Chương (1)
第1章
町中の上流階級では誰もが知っている。あの冷酷な長谷川家の御曹司が、たった一人の女性のために、家柄も命も捨てたってことを。
やがて彼は念願かなって、心の底から愛する人を妻にした。二人の恋物語は、界隈ではちょっとした伝説になっている。
その女性というのが、私。
この幸せがずっと続くんだって信じていた。でも、ある日突然スマホに送られてきた動画が、すべてを壊した。そこには、男女が絡み合っている姿が映っていた。
「ああ、すごくいい匂いだ」スピーカーから聞こえる長谷川智也(はせがわ ともや)の押し殺した喘ぎ声は、ひどく生々しかった。
相手の女性は、拒むふりをしながらも、甘ったるい声を何度もあげていた。
私はとっさに画面を消した。真っ暗になった画面には、涙に濡れた自分の顔が映っていた。
私と智也は、学生時代に出会って結婚した。もう15年になるけど、周りからはずっと「誰もが羨む理想の夫婦」だと言われてきた。
でも、智也の心が、もうとっくに自分から離れていたことに、私は分かっていた。
彼は私が自分の手で選んだ秘書・小林楓(こばやし かえで)に恋をした。
裏切りだけは、絶対に許すことができない。
この時、私が智也に贈る誕生日プレゼントは、もう決まっていた。二度と会わないこと、それだけだった。
第1話
画面の中、女の甘い声が聞こえる。「智也さん、すごい……」
スピーカーから聞こえる長谷川智也(はせがわ ともや)の押し殺した喘ぎ声は、ひどく生々しかった。
私はとっさに画面を消した。真っ暗になった画面には、涙に濡れた自分の顔が映っていた。
私と智也は、学生時代に出会って結婚した。もう15年になるけど、周りからはずっと「誰もが羨む理想の夫婦」だと言われてきた。
でも、智也の心が、もうとっくに自分から離れていたことに、私は分かっていた。彼は私が自分の手で選んだ秘書・小林楓(こばやし かえで)に恋をした。
智也が昔、私にささやいてくれた甘い言葉を、今は楓に言っていることも、私は知らないふりをしていた。
彼はすべてを完璧に隠せているつもりだったけど、まさか私がとっくに別れの準備をしていたなんて、夢にも思わなかったはず。
この時、私が智也に贈る誕生日プレゼントは、もう決まっていた。二度と会わないこと、それだけだった。
……
スマホの動画は再生され続けている。男の荒い息づかいと女の甘い声が絡み合い、部屋中に熱っぽい空気が満ちていくようだ。
画面の中で汗だくになっている智也の横顔をじっと見つめていると、私はふと笑いがこみあげてきた。
これが、私が15年間も愛した夫の姿。
私の誕生日に、ほかの女と体を重ねている。
スマホがまた通知音を鳴らす。開いてみると、メッセージはすべて楓からだった。
楓からのメッセージは、文字を読むだけで、彼女の挑発的な表情が目に浮かぶようだった。
【由理恵さん、驚いたでしょう?あなたをどんなに愛してる男でも、浮気くらいはしてしまうものですよ】
【見た目も学歴も、あなたにはかなわないかもしれません。でもね、ベッドでは私のほうがずっと上手ですよ】
楓からのメッセージはまだ立て続けに送られてきたけど、もう読む気はなかった。スクリーンショットだけ撮って、スマホの電源を落とした。
楓は、私が智也のために選んだ秘書だった。
1年前、智也を長年支えてきた秘書が辞めたので、新しい人を探すことになった。
書類選考を通った履歴書の束を、智也が私のところに持ってきた。そのときの彼は、幸せそうに目を細めて私を見つめていた。
「由理恵、これは人事部が選んでくれた候補者たちだよ。いいなって思う人がいたら、その人を採用しよう」
私は諦め顔で笑った。
「あなたの秘書でしょ?どうして私が決めるの?」
すると智也は、きっぱりとした口調で言った。
「秘書は俺と一番接する時間が長いんだ。君が気に入らない人なんて雇いたくないよ」
そう言って、彼は私を宝物みたいに大事に抱きしめた。
智也に押し切られて、私は楓の履歴書を手に取った。
「この人がいいかな。仕事がてきぱきできそうに見えるし」
まさか、それからたった1年で、私が自ら選んだ秘書が恋敵になるなんて思ってもみなかった。
テーブルの上のケーキは、暖房の熱で少し溶けてしまっている。「29」の数字のろうそくも、斜めに傾いていた。
智也にすっぽかされた、初めての誕生日。そして、これが二人にとって最後の誕生日。
時計の針がぐるぐると回っていくのを見ながら、私はまだ、ほんの少しだけ期待していた。
もしかしたら、彼が帰ってくるかもしれない、と。
あんなに私を愛してくれていた智也が、私の誕生日を忘れるわけがない。
でも、深夜3時になっても彼は現れなかった。メッセージも電話もなく、家にも帰ってこない。まるでこの世から消えてしまったみたいに。
少し迷ったあと、私は楓とのトーク画面を開いた。
一番新しいメッセージは写真だった。そこには、キスマークだらけの男の胸を枕にしている女が写っていた。
【あなたの旦那さん、すごいですね】
なるほど、そんなに激しかったんだ。
どうりで、連絡ひとつないわけだ。
私は深く息を吸い込んで、こみあげる悲しさを飲みこんだ。そして、心を込めて作った料理を、一口もつけていないケーキとともに、ゴミ箱へ捨てた。
すべてを片付け終わってから、私はある人に電話をかけた。
「菊地社長、前、SYグループのデザイナーにならないかと声をかけてくれたよね。考えがまとまった。F国行きの航空券を手配して」
電話の向こうの菊地悠斗(きくち ゆうと)の声は、驚きと喜びに満ちていた。
「やっと承諾してくれたんだね!君が引退すると言ったとき、俺は誰より反対した。君の才能が埋もれてしまうのはもったいないって!今考え直してくれてよかった。すぐチケット取るよ。出発は7日後で、いいな?」
7日後。
私はその言葉を心の中で繰り返して、ふっと笑った。
第2話
7日後。その日は智也の誕生日。
そして、私が彼ときっぱり別れる日でもある。
次の日の朝、ごそごそという物音で目が覚めた。
まだ眠い目をこすりながら見てみると、智也がドレッサーに散らかった化粧品を片づけていた。
一晩会わなかっただけなのに、彼の目には隠しきれない疲れがにじんでいた。
「由理恵、起きたんだね。また化粧品を出しっぱなしにしてたから、片づけておいたよ」
私は何も言わず、智也の整った顔をただ静かに見つめていた。
彼はいつも、こういう気遣いができる人だった。
化粧品を片づけるような小さなことから、私が気づかない生活の細かいことまで、いつも先回りしてやってくれた。
15年間ずっと変わらず、何よりも私のことを一番に考えてくれていた。
でも、そんな私のことばかり考えてくれる男が、私の誕生日にほかの女の人と体を重ねたなんて。
私の気持ちの変化に気づいたのか、智也はポケットから小さな箱を取り出した。
彼は片ひざをつき、その目には今にもこぼれ出しそうなほどの優しさが宿っていた。
「由理恵、昨日の誕生日に帰れなくてごめん。君のためにオーダーメイドの指輪を取りに行ってたんだ。このダイヤは、俺が必死で探した『永遠の愛』っていう名前でね、世界にたった一つしかないんだ!」
智也は少し間を置いて、続けた。
「これが俺たちの永遠の愛のしるしだよ。由理恵、永遠に君を愛してる」
その言葉を聞いて、私は口の端を少しだけ上げた。
彼の手から指輪を受け取ると、私はそれをじっくりと眺めた。
智也は甘えるように私の腰を抱きしめ、期待に満ちた声で言った。
「由理恵、昨日は君のために一晩中、指輪のことで頑張ったんだよ?何かご褒美、くれないの?」
そう言いながら、彼の声は低くなり、大きな手が私の腰をなで始めた。
私は顔色一つ変えずに、その手を止めた。
こんな下手な言い訳でも、もし智也の浮気に気づいていなければ、私は信じてしまっていたんだろうな。
だって、楓が現れるまで、この15年間、彼は私に一度も嘘をついたことがなかったから。
結局、何だってありうるんだ。起こらなかったのは、ただ、タイミングが合わなかっただけなんだ。
私は気持ちを落ち着けて、淡々な声で言った。
「一晩中大変だったでしょ。まずはゆっくり休んで」
それを聞くと、智也はぎゅっと私を抱きしめてきた。甘える大きな犬みたいに、私の首筋に頭をすり寄せてくる。
「君はどうしてこんなに優しいんだ!俺は世界で一番幸せな男だよ!」
彼がそう言うので、私も微笑み返した。そして、そばにあった綺麗な箱を手に取った。
智也はそれを受け取ると、不思議そうな顔をして、すぐに開けようとした。
私は彼の手をそっと押さえて、ゆっくり言った。
「ちょっと早いけど、誕生日プレゼント。誕生日当日に開けてね」
智也はすごく喜んでいた。
「6日も早いプレゼントだって?君が何を用意してくれたのか、もう待ちきれないよ!」
彼の笑顔は、嘘偽りのない喜びで輝いていた。私たちは、どこにでもいる幸せな夫婦のようだった。
でも、これが全部うわべだけだって、私は知っている。
智也も、知っているはずだ。
だから、彼は必死に演じている。
箱の中身は、この1年間に楓から私に送られてきたメッセージ。
彼らの甘いやりとり、親密なツーショット写真、智也が彼女に買い与えた品物の数々……
楓が送ってきた動画まで、全部USBメモリにまとめて入れてある。
それから、私がサインした離婚協議書も。
6日後の誕生日、彼がこのプレゼントを気に入ってくれるといいな。
……
午後になって、智也から会社に書類を届けてほしいと頼まれた。
「由理恵、ごめん、今朝急いでて忘れちゃったんだ。今日の外資との契約に使う大事な書類なんだけど、会社まで持ってきてもらえるかな?」
彼はだんだん小声になって、最後には申し訳なさそうな声で言った。
「俺が悪いんだ。俺がうっかりしてなければ、君にこんな手間はかけさせなかったのに」
以前なら、智也がそんなふうに謝ってきたら、私はきっと優しくなぐさめてあげたはずだ。「会社に行くだけなんだから、たいしたことないよ」って。
でも今は、ただ小さく返事をしただけで、それ以上何も言わなかった。
第3話
智也とはもう、話すことなんて何もない。
会社に入ると、入り口の警備員からロビーの受付の人、忙しそうに行き交う社員まで、みんな私に気づくとすぐに立ち止まって挨拶をしてくれる。
これは、智也がわざわざそう決めたこと。会社の服務規程にも書かれているほどだ。
というのも昔、彼の会社に行ったときに社員から意地悪をされたことがあったから。
あの頃はまだ付き合い始めたばかりで、毎日がすごく幸せだった。彼のためなら何だってできる、本気でそう思っていた。
彼は仕事が忙しくなると食事を抜きがちだった。だから私は料理を覚えて、毎日お昼にお弁当を届けに行ったのだ。
初めて会社に行った日、受付の人は私のことを知らなかった。アポもなかったし、私の服装がみすぼらしかったから、いきなり嫌味を言われた。
「また玉の輿狙い?自分のつましい姿、見えてないのかしら。うちの社長の目に留まるなんて、まさか思ってないでしょうね」
その様子を、ちょうどエレベーターから降りてきた智也が見ていた。いつもは穏やかな彼が一瞬でカッとなり、私に暴言を吐いた受付の人を思いっきり平手打ちした。
「俺の女を、お前なんかがとやかく言うな!」
この一件で、智也には「キレやすい社長」っていうレッテルが貼られて、会社の株価も下がり続けた。
でも、彼はそんなこと全く気にしていなかった。ただひたすら私のことだけを考えてくれていた。「何よりも、君の気持ちが一番大事なんだ」って。
この出来事の後、智也は知り合い全員に私のことを紹介して回った。
会社のロビーにある大きなモニターには、毎日決まった時間に私の写真が映し出された。智也はさらに、長谷川グループの社員が誰でも、私を見たらすぐに挨拶するようにと命令までしたんだ。
たとえ智也と私が並んで歩いていても、挨拶はまず私から、と。
でも、そんな風に私のことを愛してくれたはずの男が、浮気をした。
会議室の前に着いて、私はドアを軽くノックした。
ガラス張りの壁の向こうから智也が私に気づいた。彼は手を挙げて会議を中断させると、すぐに立ち上がって足早に私の方へ向かってきた。
書類を渡すと、智也は私の額にキスをした。
「由理恵、君がいてくれて本当によかった」
私は淡々と返事をして、その場を離れようと背を向けた。
でも智也は私の手を引き止め、優しくなでた。そのとき突然、彼の顔が青ざめた。
「由理恵、俺が作った指輪、してないの?」
あの指輪はとっくに引き出しの奥にしまってある。もらった日に一度だけはめたけど、すぐ外しちゃったんだ。
「家に置いてきちゃった。帰ったらつけるね」
その言葉を聞いて、智也はほっと大きく息をついた。
「よかった、由理恵。あの指輪、気に入らなかったのかと思ったよ」
会議室の中から、智也と仲のいい部長がドアをコンコンと叩いた。そして、彼をからかうように、声を出さずに口を動かした。
[愛妻家さん、みんな待ってますよ]
それを見て、私は智也が何か言う前に、さっさと背を向けて歩き出した。
後ろから、彼が何か言いかける声が聞こえたけど、私は足を止めなかった。
その場を離れるとき、周りの人たちが私を羨ましそうに見ていた。
「社長は、本当に奥さんを大事にされてますよね。学生のころからのお付き合いで、結婚するまで色々大変だったって聞きましたよ!」
「ええ、それに長谷川家は最初、二人の結婚に大反対だったんでしょう?社長が結婚できないなら死ぬって言って、何度も病院に運ばれたって、あの時はすごく大騒ぎでしたよね!」
「旦那さんはお金持ちだし、あんなに愛されてるなんて、本当に幸せ者ですね」
幸せ者、なのかな。
みんなのひそひそ話を聞きながら、私は思わず乾いた笑いを浮かべてしまった。
みんなが羨むのは、智也の私への愛。彼が揺らがずに私を選んだこと。そして、私のために全てを捨てる覚悟さえあること。
でも、それも全部、過去の話。
車に乗ろうとしたとき、ふと、智也の上着を羽織ったままだったことに気づいた。
さっき、私の服装が薄着なのを気にして、会うなり彼自身の上着を肩にかけてくれた。
少し考えて、私は会社に引き返すことにした。
今日は寒いし、智也も会社に着替えを置いていないはずだから。
会社の入り口に差しかかったとき、遠くに、楓が智也の腕を組んで、親しげに歩いているのが見えた。
第4話
とっさに顔を隠して、私は二人のあとについていった。
会社のみんなは見慣れているみたいで、二人をからかうような目で見ていた。楓と仲の良い同僚なんて、おおっぴらに声をかけていた。
「あら、今日も社長とご一緒なのね?」
楓は恥ずかしそうにその人をじろっと見た。智也はそれを見ると、愛おしそうに彼女の髪を撫でるだけだった。
みんなのひやかす声がもっと大きくなった。
そういうことか。みんな全部知ってたんだ。
みんな、智也の茶番に付き合って、この嘘をほんとうのことみたいに見せかけようとしてる。
まるでピエロみたい。何も知らないのは私だけで、智也みたいな素敵な人が恋人で幸せだなんて、うぬぼれていたんだから。
楓は体のラインが出るスカートをはいて、あふれそうな胸元を見せつけている。仕事の話をするふりをして、智也の耳もとで色っぽくささやいていた。
周りの人たちはみんな気を利かせて目をそらし、それぞれ自分の仕事に戻っていった。
以前、この光景を見たらきっと、智也の裏切りに大騒ぎして、取り乱してただろう。
でも今の私は、驚くほど落ち着いていた。
たぶん、ここにいられる時間がもう長くないから。だから何もかもどうでもよくなったのかもしれない。
それに、智也はもうとっくに私の心の中で、他人になっている。
……
今日は、私がここを去る最後の日。
出かける時、智也は私を抱きしめて優しく微笑んだ。
「ねぇ、由理恵、今日は俺の誕生日だよ。どうしてまだプレゼントを開けさせてくれないの?」
彼の瞳を見つめると、自分が信じられないほど冷静なのに気が付いた。
「今夜、食事の時に一緒に開けよう」
智也は嬉しそうに笑った。
しかし、私が今日の午後にはもう出て行くことを、彼は知らない。
智也は自分の誕生日のために、今日の仕事をすべて断っていた。ちゃんと祝えなかった、7日前の私の誕生日の埋め合わせもしてくれるらしい。
「どこか行きたいところある?神鳥山にでも行ってみる?」
神鳥山は、まだ若かったころに私と智也が人生を共にすることを決めた、大切な場所だ。二人にとって特別な意味があった。
私は小さくうなずいた。でも、マフラーを寝室に忘れてきたのを思い出して、彼にバッグを預けて取りに戻った。
智也は私の鼻先を軽くつまんで、甘やかした声で言った。
「君も俺に似て、うっかりさんになったね」
私は笑みを返した。
戻ってくると、智也が私のスマホを握りしめていた。その顔には、不安がありありと浮かんでいる。
私の顔を見ると、彼はよろよろと駆け寄ってきた。
「由理恵、さっき男の人から電話があったんだ。それで……今夜、飛行機に乗るのを忘れるな、だって……
どういうことなんだ?誰なんだ、その男は!今夜どこに行くつもりなんだ?」
智也の唇は震え、目には言いようのない不安が浮かんでいた。まるで私がいなくなったら、自分も生きていけないとでも言うように。
私は鼻で笑った。本当にそんなに愛してるなら、どうして自分の秘書に手を出すわけ?
彼の不安な表情を見て、私は適当に答えた。「誰かが間違えて電話してきたのかもしれないよ」
それを聞いて、智也のこわばった表情は少し和らいだ。でも、まだ不安は隠せないみたい。
彼は私の手をぎゅっと握りしめて、有無を言わせぬ口調で言った。
「由理恵、本当に愛してるんだ。さっき君がいなくなると聞いて、心臓が飛び出るかと思った。俺は本当に、君を失うなんてできない……」
智也はとぎれとぎれに言葉を続ける。私への激しくて熱い愛で胸がいっぱいみたいに。
彼は役者なだけじゃない。嘘をつくことの天才だ。
私を騙し、そして自分自身さえも騙している。
とっくに心変わりしているくせに、まだ私のことを生涯で一番愛してると思い込んでいる。
本当にそうなら、楓が現れるはずなんてないのに。
車が走り続けるあいだ、私のうわの空な様子に気づいた智也は、道中ずっと冗談を言って笑わせようとしていた。
前だったら、私もノリノリで一緒に笑ってたんだけど。今はもう、そんな気分になれない。
彼が演じたいなら勝手にすればいい。私はもう付き合わない。
神鳥山に着くと、智也は私の手を引いてゆっくりと歩き始めた。
何日か前に大雪が降ったらしく、神鳥山は一面の銀世界だった。枯れた枝でさえ、雪が飾られてきれいに見える。
吐く息が白く立ちのぼる。彼に手を引かれていると、不思議と寒さは感じなかった。
周りはしんと静まりかえり、空からはまた雪が舞いはじめた。私たちの肩は、すぐに白く染まっていった。
第5話
体に積もった雪のことなんて、ふたりとも気にもしなかった。
私は、まだ待っていた。
昔、私は智也と約束したことがある。こうして一緒に雪景色を見るたびに、お互いへの想いを伝えあおうって。
でも、今、目の前で雪景色に見とれている男を見て、昔の約束などすっかり忘れているのだろうと、私たちはもう一緒にはいられないのだと、改めて思い知らされた。
遠くから何かが近づいてくる音がして、胸にいやな予感がこみあげてきた。思わず顔を上げると、大きな岩がまっすぐ私めがけて転がり落ちてくるところだった。
頭が真っ白になった。次の瞬間、ドンッという衝撃。まるでトラックにでも轢かれたみたいだった。
「うっ――」
胸をおさえて、あまりの痛さに息をのんだ。額には、じっとりと冷や汗がにじみ出ている。
「由理恵!」
智也の声は驚きで裏返っていた。その目はみるみるうちに真っ赤に充血して、熱い涙が頬を伝っていく。
「由理恵!大丈夫か?今すぐ病院に連れて行くからな!」
恐怖に歪んだ彼の顔を見て、私は鼻で笑った。
さっきまで智也は私のすぐ近くにいた。私を安全な場所に引っ張る時間なんて、いくらでもあったはずだ。
それなのに彼は、スマホに夢中だったせいで、岩が転がり落ちてくる音さえ聞こえなかったんだ。
私は智也のスマホに目を落とした。まだ画面が消えていなくて、トーク画面の名前が見えた。
【楓ちゃん】
ずいぶん親しそうに呼ぶものね。
智也はもう救急車を呼んでいた。もうすぐ着くらしい。
その時、私のスマホにメッセージが何件か届いた。
開いてみると、相手は楓だった。
【智也さんから聞きました。今、思い出の場所に行っているんですって?】
【今日は彼の誕生日でしょう?あなたの誕生日のときは智也さんは私といたけど、今回はどうでしょう?また私のために、あなたを置いてきちゃうかもしれませんね?】
私はざっと目を通すと、スマホの画面を閉じた。
今の智也がどうしようと、もう私には関係ない。
もうすぐ、私の新しい生活が始まる。そこには智也も、楓もいない。私を悩ませるものは、何もないんだ。
特別設定の通知音が鳴って、智也の顔がこわばった。そして、おそるおそる私の顔色をうかがう。
私が平然としているのを見て、彼はやっと気づかれないようにそっと息を吐いた。
私は彼の、まるで誰も気づかないとでも思っているかのような不自然な振る舞いを、静かに見つめていた。
さっきまで心配そうにしていた智也の表情が、スマホのメッセージを見ると、今度はぱっと明るくなった。
彼は急いでこっちに来たけど、私がまだ雪の中に倒れているのを見て、一瞬ためらった。でも、その迷いはすぐに申し訳なさそうな表情に変わった。
「由理恵、ごめん。会社で緊急の会議があってどうしても行かなきゃいけなくなったんだ。救急車はもうすぐ来るから、一人で少し待っててくれないか?」
智也の声はどんどん小さくなっていった。どうせ断られるとでも思っているみたいに。
そんなしょげかえった彼を見て、私は静かに、「いいよ」と答えた。
智也は意外だったらしく、はっと顔を上げた。その目には信じられないという色が浮かんでいる。
そして大急ぎで駆け寄ってくると、私の額にキスをして、うれしそうに言った。
「由理恵は優しいな。夜に帰ったら、君の好きなお菓子を買ってくるから。プレゼントも一緒に開けよう!」
そう言うと、彼は待ちきれない様子で車のドアを開けた。そして車は、矢のように飛んでいってしまった。
あたりはまた静けさにつつまれた。しんしんと雪が降り続くだけ。
スマホが震えた。開いてみると、やっぱり楓からだった。
送られてきたのは、トーク画面のスクリーンショット。智也と彼女のやりとりだ。
【智也さん、私、赤ちゃんができたんです!今すぐ会いたいから、早く会いに来てくださいね】
【わかった、すぐ行くよ。待ってて】
たったこれだけのやりとりで、智也は怪我をした私を、ひとりで雪の中に置き去りにしたのだ。
私はふっと笑って、そのトーク画面をスクリーンショットに撮ると、楓を完全にブロックした。
飛行機の出発まで、あと3時間。もう行かなくちゃ。
空港に着くと、今まで保存してきたスクリーンショットを全部、智也に送りつけた。そして、一言だけメッセージを残した。
【誕生日プレゼントよ。忘れずに見てね】