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月が来なかった、あの夜のこと
北条悠斗(ほうじょう ゆうと)と結婚して7年目。北条遥(ほうじょう はるか)は、彼に黙って家を出ることに決めた。 「システム。7日後に、こ...
Chương (1)
第1章
北条悠斗(ほうじょう ゆうと)と結婚して7年目。北条遥(ほうじょう はるか)は、彼に黙って家を出ることに決めた。
「システム。7日後に、この任務を終わらせるわ」
賑やかな街角で、ビルのモニターに流れるプロポーズ映像を見ながら、遥は決意を固めた目でシステムを呼び出した。
ピッ、と音がして、システムの機械的な声が響いた。
「宿主による任務の強制終了リクエスト、処理中です……」
すこしして、遥の頭上にカウントダウンの数字が浮かび上がった。
「任務を終了しました!宿主は7年前に攻略任務を完了しています。世界からの離脱を遅らせたため、死因は交通事故となります。残り時間は6日と23時間59分です……」
第1話
北条悠斗(ほうじょう ゆうと)と結婚して7年目。北条遥(ほうじょう はるか)は、彼に黙って家を出ることに決めた。
「システム。7日後に、この任務を終わらせるわ」
賑やかな街角で、ビルのモニターに流れるプロポーズ映像を見ながら、遥は決意を固めた目でシステムを呼び出した。
ピッ、と音がして、システムの機械的な声が響いた。
「宿主による任務の強制終了リクエスト、処理中です……」
すこしして、遥の頭上にカウントダウンの数字が浮かび上がった。
「任務を終了しました!宿主は7年前に攻略任務を完了しています。世界からの離脱を遅らせたため、死因は交通事故となります。残り時間は6日と23時間59分です……」
遥は、冷めた目でうなずいた。
すぐ近くのビルの大型ビジョン。映像のなかでは、北条グループの社長である悠斗がひざまずいていた。いつも冷静沈着な彼だが、結婚指輪を差し出す手はかすかに震えている。そして、遥の「はい」という返事を聞くと、感情を抑えきれずに彼女を抱き上げ、その場で何度もくるくると回った。
「遥と、結婚できたぞ!」
その声は7年の時をへだてた今も、限りない幸せに満ちあふれているように聞こえた。
隣で子供を抱いた女性が、うらやましそうに自分の夫に文句を言っている。
「ちょっと、北条社長を見てよ。奥さんのこと、すごく愛してるんだから。資産が何兆円もある社長なのに、奥さんが花粉症だからってどこへ行くにもマスクやティッシュを持ち歩いてるし、ブランドバッグや宝石もためらわずに買ってあげるし。
わざわざヘリを飛ばして、遠くの街まで有名な大福を買いに行ったこともあるらしいわよ。それに比べてあなたは?結婚して何年も経つのに、バッグのひとつも買ってくれたことないじゃない!」
制服姿の女の子が二人、興奮したように話している。
「北条社長って、ほんと恋愛にのめり込んでるよね!奥さんが18歳の成人式を終えたすぐ後に告白したらしいよ。22歳の卒業式では、何億円もするピンクダイヤのティアラを贈って、200発も花火を上げたんだって。プロポーズが成功した直後、奥さんが重い病気になっちゃって……
そしたら北条社長は自分の腎臓をひとつあげて、その上、山奥にある神社のものすごく長い石段を登って、大好きな彼女が目を覚ますようにお祈りしたらしいよ……こんなに一途な人が、この世にいるなんて信じられない!」
……
遥は、もうそれ以上聞いていられなかった。自嘲めいた笑みを浮かべると、その場を離れた。
誰もが悠斗を「恋愛一色」だと言い、自分は本当にすてきな人を見つけたと羨ましがる。
でも、誰も知らない。あれほどまでの愛妻家が、自分に隠れて女性デザイナーとのあいだに二人の子供まで作っていたなんて。
幼稚園の前で、悠斗が笑顔で二人の男の子を抱き上げる、幸せそうな姿を見たとき、遥の心は、まるで鋭いナイフでぐちゃぐちゃにえぐられるようだった。
14年前にこの小説の世界に転生した遥は、継母にひどい仕打ちを受ける、かわいそうな女の子だった。
雪のなかでひざまずき、今にも死にそうだった遥を抱き上げてくれたのは、悠斗だった。目を真っ赤にして、彼女の継母とろくでもない父親に、はっきりと言い放った。「松尾家で育てられないなら、うちの北条家にこの子を連れて帰る!」
その後も悠斗は、遥のためにチンピラと喧嘩してあばら骨を折ったり、火事のときには命がけで助け出してくれたりした。さらに、その火事が、彼女の父親たちによる放火で、遥を殺そうとしたことだと知ると、松尾家の屋敷に火を放って燃やしてしまったこともあった……
やがて遥と結婚するため、彼は後継者の座さえ投げ出した。そして、自ら会社を立ち上げる苦労をしてでも、彼女に妻という立場を与えたかったのだ。
会社を大きくするため、悠斗は接待の席で胃から出血するほどお酒を飲んだこともあった。血の気のない顔でベッドに横たわりながらも、泣きじゃくる遥を彼は必死に慰めてくれた。
「遥、泣かないで。君を一生幸せにするって約束しただろ。絶対に、守るから」
任務が終わったとき、遥は元の世界に帰ることもできた。でも、悠斗を一人残していくのがつらくて、そのチャンスを捨てて彼のそばにいることを選んだのだ。
それなのに、今になって気づいてしまった。悠斗の愛は自分だけのものじゃなく、もう一人の女性にも向けられていたなんて。
胸がえぐられるような痛みに、遥は目の前が真っ暗になり、道ばたに倒れてしまった。
彼女が目を覚ますと、ベッドのそばで付き添っていた悠斗が、ほっと息を吐いた。
「遥、よかった。やっと目が覚めたんだね」
彼は遥の手を強く握った。スーツは土で汚れている。そばにいた秘書が、遥が倒れたと聞いて、慌てて駆けつける途中で転んでしまったのだと教えてくれた。
「余計なことを言うな」
悠斗が低い声で制すると、秘書は黙りこみ、空気を読んで病室から出ていった。
「これからはどこかへ行くときは、家政婦を連れていって。俺を心配させないでくれ、いいね?」
悠斗の声は、かすかに震えていた。
遥が暗い瞳を見上げると、彼の目には心配と愛情がありありと浮かんでいて、嘘には見えなかった。でも、シャツの襟元からのぞくキスマークも、たしかに本物だった。
胸にちくりと痛みが走る。次の瞬間、悠斗は彼女を抱きしめ、首すじに顔をうずめた。その様子を、ちょうど病室に入ってきた北条澪(ほうじょう みお)が見て、わざとらしく舌打ちをして二人をからかった。
「お兄ちゃん、いくらなんでも恋愛体質がすぎない?遥さんに見せる優しさの十分の一でも他の人に見せれば、『生きる閻魔様』なんて呼ばれないのに。遥さんは、あなたに二つの顔があるって知ってるのかな?」
悠斗が冷たくにらみつけると、澪はぺろっと舌を出し、黒いビロードの宝石箱を彼に手渡した。
「これ、お兄ちゃんが遥さんのために注文したネックレス。ついでに受け取ってきたから」
宝石箱の中では、レッドダイヤのネックレスが気高くきらめいていた。悠斗は遥の手をとり、甘く柔らかい声でささやく。「遥、結婚記念日のプレゼントだよ。君のためだけに俺がデザインした、世界にたったひとつのものだ」
悠斗がネックレスをつけてあげようとした、その時。突然スマホが鳴った。メッセージを見た彼の表情が少し硬くなり、遥の手を離して急いで立ち上がった。
「遥、ごめん。急用ができたから、行かないと。代わりに澪にここにいてもらうから、いいかな?」
ふと見えたスマホの画面。視力の良い遥は、【子供たちのママ】という登録名がはっきりと見えた。胸が苦しくなるのを感じながらも、彼女は平静を装ってうなずいた。
「行ってきて」
この男がどこへ行って、誰と会うかなんて、もう気にしたくもなかった。
どうせ7日後には死ぬのだから。そうすれば彼も、もう必死で嘘をついて自分をだます必要がなくなるだろう。
第2話
遥はその日のうちに退院手続きをすませた。深夜、だだっぴろい寝室でひとりで寝ていると、枕元のスマホがひっきりなしに鳴りはじめた。
彼女はSNSでファンに絵を教えていて、プロフィールページにも作品を載せていて、そこから直接注文できるようになっている。
ある購入者が、キャミソールドレス姿の写真をコメント欄に投稿した。彼女は男の腕の中に横たわり、ピースサインで顔を隠している。床にはわざとモザイクがかかっていたけれど、そこには使い終わった避妊具がいくつも転がっているのが、なんとなくわかった。
【夫が部屋にあった絵を見て、誰にもらったのって聞いてきたから、買ったって言ったんだけど、私がまた画家と浮気してるって疑われちゃって。ベッドに押し倒されて、ながーいことお仕置きされちゃった。体じゅう真っ赤だよ……ほんとなのに。男の人って独占欲がこわい。もうこんな遊びはしない!】
このコメントはすぐに話題になり、何も知らない多くのファンたちが、やじうま気分で盛り上がった。
【ひとつ、ふたつ……やっつ。自慢したいのは絵じゃないでしょ……恥ずかしいよ】
【おい、隠さないねぇ。幸せそう】
遥はコメント欄を閉じ、きつく下唇をかみしめた。こみあげてくる涙を、ぐっとこらえる。
平気だと思っていた。でも、写真の男が誰なのかひとめでわかってしまって、おさえられない痛みが胸に突き刺さった。
結局、彼女はそのコメントをスクリーンショットで保存すると、作品の販売ページを閉じた。
しばらくすると、またスマホが立て続けに鳴った。匿名のダイレクトメッセージだ。自慢げな口調だった。
【絵のおかげで、夫がやきもち焼いてくれるの、初めて見れた。このままだと、三人目できちゃうかも】
すっかり眠気がさめてしまった遥は、そのメッセージとさっきの写真を、何十回もくり返し見つめた。目を閉じると、目じりから一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
彼女は起き上がってアトリエに向かった。ここ何年もぜんそくのせいで絵描きの夢をあきらめていたから、このアトリエも長いこと使っていなかった。
久しぶりに絵筆を手に取る。アクリル絵の具のツンとする匂いのなか、苦しさをこらえながら、一筆一筆、線を描いていった。
夜が明けるころ、最後の一筆をかき終えたとたん、ごほっと血を吐き出した。真っ赤な血が、キャンバスの隅に飛び散る。
そのあざやかな血は、ちょうど絵のなかの桜の木をいろどる色になった。
遥は完成した絵を額に入れ、配送業者のスタッフに預けた。そして5日後、悠斗のオフィスに届けるように頼んだ。
バスルームでシャワーを浴びて出てくると、ちょうど悠斗が帰ってきた。彼は香水のにおいをぷんぷんさせながら抱きしめようとしてきたけど、遥は眉をひそめて身をかわした。
「その匂い、好きじゃない」
悠斗は顔色を少し変えて、あわてて言い訳した。「昨日の夜、酔っぱらっちゃってさ。デザインチームの女の子が支えてくれたんだ。たぶんその時についたんだよ。君が嫌なら、すぐにシャワー浴びてくる」
遥はもう何も言わず、まっすぐ階段をおりようとした。すると悠斗は、彼女が出かける格好をしているのに気づいて、その手首をつかんだ。
「そんなにおしゃれして、どこ行くの?」
「映画に」
遥は映画のチケットを取り出して彼に見せた。
それは彼女の大好きな漫画家の映画だった。公開が決まったとき、悠斗は一緒に見に行こうと約束してくれた。
でも、いざ出かけようとすると、いつも何かしらの用事が彼の邪魔をした。
前は本当に仕事が忙しいんだと思っていた。でも今思えば、たぶんあの時も悠斗は小林菫(こばやし すみれ)と子供に会いに行ってたんだろう。
今日が、その映画の最終上映日だ。
遥は、もう彼を待つつもりはなかった。
「あ、忘れてた。一緒に行くって約束してたよね」悠斗は申し訳なさそうな顔をして、やさしい声で頼んだ。「数分だけ待ってて。着替えるからさ、一緒に行こう?」
これが、ふたりで見る最後の映画になる。
遥は彼の瞳をじっと見つめ、しばらくしてから静かにうなずいた。「うん、いいよ」
ふたりは映画館に着いた。照明が落ち、スクリーンのかすかな光が遥の顔を照らす。迫力のある音が響き、彼女はきらびやかな映像の世界にひきこまれていった。
悠斗はどんな顔で見てるかな、と思って横を向いた。すると彼はスマホをいじってメッセージを返していた。眉をしかめて、険しい顔をしている。
遥の視線に気づいたのか、悠斗はスマホをしまって顔を上げた。そして、どこか上の空のまま立ち上がり「ちょっとトイレ」と言った。
悠斗が何をしに行くのかわかっていたのに。それでも遥は、自分をわざと傷つけるみたいに彼の後を追った。
映画館の入り口の隅。悠斗は身をかがめてベビーカーの赤ちゃんのほっぺをなでていた。それから菫の細い腰を引きよせると、長いキスをした。
「これで満足?キスもしただろ。もうわがまま言うな。早く子供を連れて帰ってくれ。遥が中にいるんだ、見られたらまずい」
菫は一歩前に出ると、彼の首に抱きついて甘えた。その視線は、角に立つ遥に向けられていた。得意げで、挑発的な目つきだった。
遥は二人を見ていた。熱い涙が我先にとあふれ出し、体の中まで焼きつくすようだった。
胸が張りさけそうな痛みで、立っているのもやっとだった。彼女はしばらく壁にもたれて呼吸を整え、ようやく席に戻った。
映画が終わりに近づいたころ、悠斗が戻ってきた。
「どうしたの、顔色がわるいよ。もしかして、泣いてた?」
悠斗は心配そうに遥のほおに手をそえた。明らかに泣いたとわかる目を見て、彼の心臓がどきりと音を立てた。
「映画が、すごく感動的だったから」
遥はとっさにそう言った。
悠斗はふっと笑うと、彼女の涙のあとをぬぐった。
「君は本当に感動しやすいんだから。映画で泣いちゃうなんて。お腹すいた?何が食べたい?レストラン、予約するよ」
遥は悠斗の得意げな顔を見つめた。彼のうそを思うと、食事なんてのどを通るはずもなかった。
でも、菫の挑発的な目を思い出して、彼女はとあるレストランの名前を口にした。
悠斗は遥の機嫌をとるために友人たちを呼んで、レストランを丸ごと貸し切りにした。さらに、入り口から席まで彼女をお姫様抱っこして運んだ。
その様子を、たまたま彼の友人たちが見ていた。「見てられないよ」という感じで、口々にはやしたてる。
「誰がこんな太っ腹なことしてるのかと思ったら、悠斗じゃんか」
「もうメシはいらねえな。お前らののろけでお腹いっぱいだ」
「悠斗、いい加減にしろよな。そんなラブラブっぷり見せつけんなって。妻に見られたら、またお前と比べられるだろ」
友人たちがからかっても、悠斗は気にもとめない。ジャケットを脱いで遥の足もとにかけてあげ、冷えないようにと気遣った。
男たちは「かなわねえなあ」と大げさに声を上げ、彼に親指を立てて見せた。
「悠斗、降参だよ」
悠斗は愛おしそうに笑った。「お前らにはわかんないだろ。俺の妻はお姫様なんだ。80歳になっても、こうやって抱いて歩くさ」
それを聞いて、遥は冷たい目で口の端を少しだけ上げた。「じゃあ、もし私が80歳まで生きられなかったら?」
彼女に残された時間は、あと5日しかない。
悠斗は何か感じたのか、はっとした顔になった。得体の知れない不安が、彼の心に広がっていく。
そのときだった。レストランのドアが開き、すらりとした女性が入ってきた。黒いロングドレスを着て、きらびやかなアクセサリーを全身につけている。
悠斗はそちらに目を向けたとたん、明らかに体をこわばらせた。
その女性は彼の向かいに座ると、明るく華やかな声で笑った。
「ごめんなさい、北条社長。遅くなったわ。こちらが奥さん?」
遥が顔を上げると、そこにはあでやかな表情をうかべた菫がいた。
第3話
遥が最初に目にしたのは、菫の首にかかるレッドダイヤのネックレスだった。それは、悠斗が自分に贈ってくれたものと、そっくり同じだった。
悠斗の顔から笑みが消える。彼はさっと視線をそらすと、スマホに目を落とし、友人たちからのグループメッセージを確認した。
【この女、度胸あるよな。遥さんが今日来るって知ってて、よく顔を出せるもんだ】
【悠斗、修羅場になってんぞ。なんとか言えって!】
悠斗は冷たい目つきで、菫をけん制するように睨みつけた。
すかさず、誰かがその場の空気を取り繕おうとした。
「小林さんは俺たちの仕事仲間で、今日たまたま近くにいるって聞いたんで、声をかけただけなんだ。遥さん、どうか気を悪くしないで」
「そうそう。悠斗が建てる例の芸術館も、小林さんが総合ディレクターなんだよ」
遥はかすかに眉をひそめ、悠斗に尋ねた。「それって、あの星空芸術館のこと?」
あれは、彼が自分のために建てると約束してくれた芸術館で、自分が個展を開くはずだった大切な場所。その個展のために、心血を注いできたのだ。
こんなに自分にとって大事な場所を、悠斗は愛人にデザインさせたっていうの?
爪が手のひらに食い込むのも、かまわずに、遥はぐっと拳を握りしめた。
その時。テーブルの下で、女の足が悠斗のズボンの下から忍び込むのが、遥の視界の端に入った。その足は、彼の太ももの付け根をゆっくりと上っていく。
悠斗の体が、びくっと固まる。彼はとっさにその足を抑えようとするが、こめかみには青筋が浮かんでいた。
足は数秒おとなしくなったかと思うと、突然、つま先がなんどか軽くこすりつけられた。
「っ――」
悠斗は低くうめき声を漏らし、慌てて隣の遥の様子をうかがった。
しかし遥は、とっくに視線をそらしていた。血が滲むほど、強く下唇を噛みしめながら。
もう我慢の限界だった。遥が勢いよく席を立とうとした、その時。レストランにロマンチックなピアノの曲が流れ始めた。
ウェイターが、999本の青いバラの巨大な花束を運んでくる。その真ん中には、まばゆいばかりに輝く「人魚の涙」のネックレスが飾られていた。周りの客たちの視線も釘付けだ。
このネックレスは、かつて外国の王室の結婚式で三度も使われたもの。それは、死が二人を分かつまで変わらない、真実の愛を象徴するという。
「遥、君への愛は、永遠に変わらない」
悠斗は片膝をつくと、愛に満ちた表情でネックレスを差し出した。
祝福の声が飛び交う中、隣の席で突然、ガチャンと大きな音がした。菫がワイングラスを割ったのだ。彼女は目を真っ赤にしながら、「ごめん、酔っぱらっちゃって。うっかりグラスを割っちゃった。どうぞ、お構いなく」と言った。
言いながら、菫はとろんと体を悠斗の幼なじみ・工藤直樹(くどう なおき)の胸に預け、甘えた声で訊ねた。
「直樹さん、もう歩けないわ。お家まで送ってくれない?」
菫は悠斗の刺すような視線を受け止めながら、わがままで、そして妖艶に微笑んでみせた。
「直樹さん、二人きりで、いっぱいお話ししたいことがあるの。
北条社長、奥さんへのネックレス、とても素敵だね。末永くお幸せに」
悠斗は顔をこわばらせた。「小林さん、そんなに急ぐ?」
「だって、素敵な夜はあっという間だもの」
……
菫は直樹の腕に絡みつき、腰をくねらせながら去っていった。
彼女が去った後、悠斗は何度もスマホのロックを解除してはメッセージを確認し、またロック画面に戻す、という動作を繰り返していた。
やがてメッセージの通知音が鳴ると、彼は緊張した面持ちで画面を覗き込んだ。そして、みるみるうちに表情が険しくなる。さっと立ち上がると、隣にいる遥の頬にキスをした。
「ごめん、遥。会社で急用ができた。ちょっと行かなきゃ。
あとで運転手に家まで送らせるから」
悠斗はそう言うと、一度も振り返らずに去っていった。レストランに一人取り残された遥は、無理に笑顔を作るしかなかった。
20分後。すべての人を見送った遥は、レストランを出た瞬間、壁にずるずると寄りかかった。口の中に血の味が広がり、唇は真っ青になっていた。
その時、見知らぬ番号から、メッセージが届いた。
【最上階のテラス】
レストランの最上階には、町の夜景を一望できる特別な個室がある。悠斗はそこが気に入った遥のために、彼女がいつでも来られるよう、その部屋を年間契約で借りていた。
遥は最上階へアクセスできる特別カードを持っている。そこはプライベートな空間で、持ち主の許可なく誰も近づけない。だから、とても静かなはずだった。
だから彼女が上がってきた時、女の甘い喘ぎ声と男の低い唸り声が、すぐさま耳に飛び込んできた。
突然、耳鳴りがした。遥はもう一歩も前に進む力がなく、光が漏れるガラス張りのドアを、ただじっと見つめていた。
部屋のドアは開けっ放しになっていた。薄いレースのカーテンの向こうで、裸の男女の影が絡み合い、揺れている。菫が窓に押し付けられ、彼女の細い腰を後ろから大きな手が掴んでいた。その動きは、速くて、とても強引だった。
菫は耐えられないといったように、すすり泣く。
「ねえ、私間違えちゃったみたい。だから、そんなにいじめないで」
彼女のすすり泣きに返ってきたのは、嫉妬をにじませた男の怒鳴り声だった。
「ちゃんと、前を向け。
そんなに男を誘惑するのが好きなら、この罰をしっかり受けろ!」
言い終わると、彼は低く唸り声をあげ、突然、菫をきつく抱きしめた。まるで、彼女をその腕の中に閉じ込めるかのように。
第4話
遥は、もうそれ以上聞いていられなかった。必死に口を押さえて、屋上からみじめに逃げ出した。
疲れ果てて階段の踊り場に座り込むと、彼女は胸を押さえ、気持ちを落ち着かせようと大きく息をした。でも、涙は止まることなく流れ続けた。
昨夜、悠斗が自分を放って菫と会っていた。それだけでも胸が張り裂けそうだったのに。でも部屋でのあの光景を直接見てしまったら、もう息もできなかった。
悠斗は子供のころ、家の方針で神社に預けられていた。だから社交界では、真面目で欲のないことで有名だった。自分と付き合う前なんて、女性の手にすら触れたことがなかったのだ。
初めて手をつないだ時、悠斗の手のひらはすごく熱かった。初めてキスをした時、彼の心臓はドキドキと鳴っていた。耳まで真っ赤にして、それ以上、先には進もうとしなかった。
新婚初夜のことも忘れられない。悠斗は宝物のように自分を抱きしめて、かすれた声で言った。「遥、本当に君が好きだ。今までずっと、どんなに我慢してきたか……でも、君がつらいならやめておこう。そばにいてくれるだけで、俺は幸せだから」
彼が自分だけに見せてくれる優しさと純粋さに、自分は胸が熱くなった。これまでの人生の幸運をすべて使い果たして、運命の人に出会えたんだと本気で思っていた。
でも現実は、そんな自分を容赦なく打ちのめした。
息ができなくなるくらい泣いて、遥はしばらく床に座り込んでいた。
一晩中冷たい風に吹かれ、ようやく家にたどりついた。でも、悠斗はまだ帰っていなかった。
ポケットのスマホが震えた。数日前にレビュー写真を送ってきたアカウントからメッセージだ。写っているのは「人魚の涙」をつけた女で、背景は昨夜のあの部屋。床に落ちた男物のネクタイが、やけに目立っていた。
【この部屋、すごくいいね。ベッドも、ソファも、バスルームも……ぜんぶ私の匂いがついちゃった。彼があなたにあげるはずだったネックレスも、今じゃ私のもの。あなたって、邪魔だと思わない?】
心臓をぎゅっとわしづかみにされたような痛みが走り、息もできなくなりかけたその時、玄関のチャイムが鳴った。
誰かがドアの前に箱を置いていったようだ。【遥へ】と書いてある。また悠斗からのプレゼントかと思い、遥は無造作に箱を開けた。
突然、中から何十匹もの蜂が飛び出してきた。舞い上がった大量の花粉が遥の鼻に入り、途端に喉が締まって呼吸が苦しくなった。
「薬、私の薬……」
遥は全身の力が抜け、リビングの救急箱へと這っていった。やっとの思いで指先が届き、最後の力を振り絞って箱を引きずり下ろす。
バンッという音を立て、中身が床に散らばった。
なのに、肝心の喘息の薬だけが見当たらない。
遥の目は苦痛に歪み、顔は赤く充血して、呼吸はどんどん浅く速くなっていく。
最後の望みをかけて、悠斗に電話をかけた。だが、彼女が話し出すより先に、向こうから押し殺したような低い声が聞こえてきた。
「遥、まだ……会議中なんだ。後でかけ直す。
うっ……」
そう言うと、電話はすぐに切れた。
もう死んでもいいと思っていた。でも、まさかこんな形で、自分の家で死ぬことになるなんて。
絶望の涙がひとすじ、目じりを伝って落ちた。息が詰まる苦しみの中、遥はゆっくりと意識を失い、目を閉じた。
目が覚めると、なんと自宅の寝室にいた。そばにいた使用人に聞くと、先ほど澪の指導教員が書類を取りに来て、偶然ぜんそくの発作を起こした自分を見つけ、助けてくれたのだという。
澪の指導教員?
あの遠藤教授?
遥が信じられない気持ちでいると、悠斗が冷たい外気をまとって慌てて帰ってきた。彼は数歩でベッドに駆け寄り、その前にひざまずくと、震える声で言った。
「遥、ごめん、俺が悪かった!もっと早く帰ってくるべきだった!」
悠斗のしわくちゃになったスラックスが目に入った。香水では隠しきれていない、生臭い匂いが鼻をつく。匂いを嗅いだ途端、遥の胃から酸っぱいものがこみ上げ、食道が焼けるように痛んだ。
遥は彼を手で払いのけた。その冷たい態度に、悠斗の心臓がどきりと跳ねる。何か言い訳をしようとした瞬間、遥が手のひらを上にして彼に差し出した。「『人魚の涙』はどこ?昨日、私にくれるって言ったでしょ。今、見たいわ」
「人魚の涙」って……
悠斗の喉がごくりと動いた。昨夜、菫に甘えられて、ついネックレスを彼女にあげてしまったのだ。
遥はしばらく思い出さないだろうから、その間に急いで似たようなものを作らせれば、気づかれないだろうと考えていた。
まさか、彼女がネックレスのことをこんなに気にかけているなんて。
悠斗は苦し紛れに嘘をつくしかなかった。「あのネックレス……なくしちゃったんだ。オークションのカタログを持ってこさせるから、君の好きなものを何でも買ってあげる。それでいいかな?」
それを聞いて、遥は笑った。
世界に同じ「人魚の涙」が二つとないように、愛も一つとして同じものはない。
悠斗が菫のために何度も嘘をつく。それこそ、この男の体だけでなく、心まであの女に傾いている証拠だ。
「もういいわ。いらない」
遥のいつもと違う反応に、悠斗の胸は急に締め付けられた。もしかして何か気づかれたのかと不安になる。でもすぐに思い直した。彼女は少しの裏切りも許せない性格だ。もし本当に浮気に気づいたなら、今もこうして家にいるわけがない。
悠斗は少しだけ安心した。「遥、ネックレスはなくしちゃったけど、君のために建てた星空芸術館が5日後には完成するんだ。ダイヤモンドより意味があるだろう?だから、もう怒らないで、ね?」
彼の愛人が設計したあの芸術館が、自分にとって屈辱と皮肉以外の何になるっていうのだろう?
悠斗の言葉をこれ以上聞きたくなくて、遥は目を閉じ、そっけなく返事をした。
「ええ、その日を楽しみにしてるわ」
悠斗が芸術館でうきうきとパーティーの準備をする。でも迎えているパーティーの主役ではなく、自分の亡骸。遥はその瞬間の彼の顔を、ただ待っていた。
第5話
夜、遥は喉が渇いて水を飲みに部屋を出た。すると、ちょうど澪の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、遥さんの絵を菫さんにあげてコンテストに出させたでしょ。しかも国際的なデザイン賞まで取らせちゃって。遥さんに見つかって怒られても知らないからね?」
自分の絵?
遥はスマホを取り出して菫の名前を検索した。すると、17歳のときに悠斗へ贈ったあの『永遠』が、菫の作品として表示されていた。その瞬間、頭が真っ白になった。
菫に恋人を奪われただけでも許せないのに。まさか、作品まで盗まれるなんて思ってもみなかった。
でも、一番ショックだったのは、悠斗がそれを黙って許していたことだ。
低い声が、はっきりと彼女の耳に届いた。
「たかが絵一枚だろ。アトリエに置いといても埃をかぶるだけだ。それなら、菫の長年の夢を叶える手伝いに使ったほうがいい」
妻の絵で、愛人の夢を叶えるって?
遥は、初めて愛する人を間違えたと実感した。
もう何も感じなかった。壁に寄りかかると、体は悪寒に震えるだけ。その時、澪の笑い声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、菫さんから打ち上げに来てってメッセージだよ。早く行こう、遅れちゃう」
二人は出かけていった。
彼らが去った後、遥は暗闇の中に立ち、走り去る車の影をただ見送っていた。
今度は、涙は一滴も流れなかった。
泣いたり騒いだりせず、彼女は黙々と悠斗からもらったものをまとめた。ラブレター、二人で撮った写真、そして彼が遥をモデルに手彫りした木の人形。そのすべてを、一気に燃やしてしまった。
宝石やアクセサリーの類いは、全部ネットで「100円ミステリーボックス」として売りに出した。
翌日、ミステリーボックスから206カラットのピンクダイヤのティアラが出てきたという動画がネットで大バズりした。インフルエンサーのヤラセを疑う声も上がったが、他の購入者たちも本物の宝石が当たったと次々に証言した。
遥がリビングでくつろいでコーヒーを飲んでいると、悠斗が冷たい空気をまとって駆け込んできた。彼は遥の前に崩れ落ちるようにひざまずき、震える声で尋ねた。
「遥、俺が成人祝いに贈ったティアラを、たった100円で見知らぬ人に売ってしまったのか?」
遥が目を上げると、悠斗は胸をわずかに上下させ、真っ青な唇で、じっと彼女を見つめていた。
遥は静かに言った。「あなたがくれたんだから、もう私のものよね?」
「でも……」
悠斗は胸が締めつけられる思いで、目を赤くした。その声は泣き出しそうだった。「あれは、俺が初めて君に贈ったティアラなんだ。一生大切にするって、約束したじゃないか」
遥はただ無表情に前を見つめるだけ。その目には、冷めた皮肉が宿っていた。
この男はかつて、生涯愛するのは自分だけだと誓った。なのに、ダイヤモンドより輝くはずだった自分のデザイナーとしての人生は、菫に盗まれた。彼はすべてを知っていたのに、何年も愛人のために隠し通してきたのだ。
誓いが嘘になった今、愛の証だった宝石に、何の意味があるというの?
愛の誓いのティアラがなくなっただけで、こんなに取り乱すなんて。
なら、数日後に自分の亡骸を見るであろう彼の顔が、とても楽しみだ。
遥はふっと笑い、平然と答えた。「あのティアラはもう好きじゃないの。古いものを捨てないと新しいものは買えないでしょ?お母さんもいつも言ってたわ。私に子供ができないのは徳が足りないからだって。だから、徳を積むつもりで、大切なものを1つ手放してみたの」
その言葉に、悠斗は胸が痛んだ。彼は遥の手を強く握りしめる。「君の言うとおりだ。形あるものはいつかなくなる。これからは、もっとたくさん買ってあげるから」
悠斗はわけのわからない不安に襲われた。でも、彼は自分に何度も言い聞かせた。遥は毎日アトリエにこもっているだけだ。友達もいないし、外出も嫌い。だから、気づくはずがない、と。
遥はもうそれ以上何も言わなかった。立ち去ろうとしたその時、スマホが鳴り、菫からのメッセージが届いた。
それは、北条家の屋敷で、彼女が子供たちとブランコに乗っている写真だった。
【今日、子供たちを連れておじさんとおばさんにご挨拶してきたわ。北条家のみなさん、私にすごく感謝してた。おかげで孫に囲まれる幸せを味わえるって】
【悠斗と結婚したのに、嫁として何もしないなんて、恥ずかしくないの?】
恥ずかしい?
遥は心の中で冷たく笑った。人の夫を誘惑し、人の作品を盗んでのし上がった女が、よくも本妻に恥を知れなんて言えるものだ。
隣で遥の顔色が変わったのに気づき、悠斗が優しく声をかけた。「遥、どうしたんだ?」
遥はなんとも言えない表情で彼を見つめた。しばらくして、ふっと口角を上げる。「久しぶりに、北条家の屋敷に行きたくなったわ」
その言葉に、悠斗の目に一瞬、動揺が走った。しかし彼はすぐに落ち着きを取り戻す。「行っても面白くないさ。お母さんに会えばまた小言を言われるだけだ。家にいるほうが静かでいい」
悠斗の目の、一瞬の揺らぎを見逃さなかった遥は、それでも言い続けた。「一生顔を見せないわけにもいかないでしょ。今日は天気もいいし、戻ってみる。ついでに近くの安田神社でお守りでももらってこよう」
そう言うと、彼女は悠斗の返事を待たずに車の鍵を手に取り、外へ向かった。
屋敷に着くと、妙な空気が漂っていた。家族全員が、遥の訪問を快く思っていないのがひりひりとわかった。
ベビーカーと、片付け忘れたであろう家族写真が遥の視界の隅に入った。そこには、子供を抱いた菫が悠斗に寄り添い、真ん中には笑顔の彼の両親。幸せが写真からあふれ出ているようだった。
悠斗の母親・北条杏(ほうじょう あん)は、さっきまで機嫌よく孫をあやしていた。しかし遥の顔を見ると、とたんに不機嫌になり、ろくに挨拶もしなかった。
「私に会いに来る暇があるなら、神社で禊ぎでもしてきたらどうなの。あなたに子供ができないのは、穢れているからなんだよ!」
今まではまだ遠慮があったが、今日の杏は実に辛辣だった。
悠斗は冷たい顔で言った。「お母さん、いい加減にしてくれ。遥は少し体が弱いだけだ。穢れとか、そういう話じゃない。そんなことを言うなら、もう二度とここへは来ない」
遥のために息子が家と縁を切りかけた過去が、杏の脳裏をよぎる。彼女はふと、2階に隠れている菫のことを思い出し、意味ありげに笑った。
「悠斗、神棚に納めてある、私のお祓いの御札を取ってきて」
悠斗は遥がいじめられるのを心配し、一緒に行こうと彼女を2階へ連れて行った。そして、自分を寝室で待つように言った。
悠斗が神棚のある部屋に入ると、そこに隠れていた菫の姿が。彼は思わず顔をしかめた。
「なんでまだいるんだ?」
菫は悠斗の胸に飛び込み、甘えた声を出した。「今日は赤ちゃんの誕生日なの。あなたと一緒にお祝いしたくて。それにね、プレゼントがあるのは赤ちゃんだけじゃないのよ。あなたにも……ね?」
そう言って、彼女はコートのボタンを外し、中に着ていたバニースーツを見せつけた。
悠斗は息を呑み、喉を鳴らした。寝室の方をちらりと見る。隣には遥がいる。心を鬼にして菫を突き放そうとした。その瞬間、菫は彼の前にひざまずいた。
薄いドア一枚を隔てた向こう側で、遥はまだ画面が明るいままのスマホを握りしめていた。そこには、1分前に届いたメッセージが表示されている。
【神棚の前に来て。いいもの見せてあげる】
生々しいキスの音が薄いドア越しに漏れて、無数の刃となって遥の心を突き刺した。
感情を抑えた、男のかすれた声が命じる。
「いい子だ、飲み込め」
「んんっ……」
「甘えるな!」
吐き気のするような音を聞いても、遥の心はもう乱れなかった。
ただ、どうして自分はこんな男を愛してしまったのだろうと、そればかりを考えていた。
色鮮やかだけど、全身に毒を宿したキノコのようだ。見た目は魅力的でも、口にして初めて、その気味の悪さを知る。
ずっと昔のことを思い出した。長い長い石段の前で手を合わせ、神様に祈りを捧げていた姿を。
吹雪が舞う中、彼の姿は雪景色に溶け込みそうだった。それでも、敬虔に手を合わせ、愛する女性が目を覚ますようにと、何度も何度も祈っていた。
あの頃、悠斗の心の中には、自分しかいなかった。
「全てを手に入れることはできない。でも、これだけは確信している。俺の人生に必要なのは、君だけだ」
誓いの言葉の賞味期限は、こんなにも短いものだったんだ。リンゴみたいに、あっという間に腐って、嫌な臭いを放つ。
悠斗が、自分に愛を信じさせてくれた。この恋にすべてを賭ける勇気をくれた。
そして、その悠斗が、自分が一番幸せだった時に、一番痛くて、致命的な一撃を、自分に与えたのだ。
第6話
30分後、悠斗が神棚のある部屋から出てきた。
遥は階段に座り、手のひらに乗せたお守りを彼に見せた。「これ、昔あなたが私のために願ってくれたお守りよ。さっき見たら、なんだか色が褪せちゃって。ねぇ悠斗、この世のすべてのものって、いつかは色褪せてしまうのかな?」
「そうだね」悠斗は軽く笑い、彼女の手を取り返すと、とても大事そうに口づけをした。「でも、君への愛だけは、永遠に色褪せたりしないよ」
遥は、どこか意味ありげな笑みを浮かべた。
愛してるなんて言うくせに、どうしてこんな嘘をつくの?
本当は、誰にも知られず静かに消えようと思っていた。でも、今は考えが変わった。
悠斗に教えてあげよう。彼の演技が、どれだけ下手くそだったか。
菫が、どんなふうに自分を追い詰めて挑発してきたのかも。
そして、彼の裏切りと嘘が、自分の心を折った最後の一撃だったということも。
遥は口元をゆるめ、悠斗をじっと見つめた。「あなたが私を愛してくれてるのは、わかってるわ。この数日間、安田神社で心を清めてこようと思うの。芸術館が完成する日に、また会おう。そのとき、あなたに渡したいプレゼントがあるの」
星空芸術館が完成するその日、悠斗は大勢の人の前で、自分が交通事故で死んだという知らせを聞くことになる。
それから次々と「サプライズ」が起こる。その時になって彼は気づくのだ。その浮気が、心から愛した妻を絶望させ、死に追いやったのだと。
悠斗はこれから来る日も来る日も今日のことを夢に見るはず。そして、これが最後だと知らずに、ちゃんとお別れを言わなかったことを後悔し続けるのだ。
「神社に行きたいなら、俺が山まで送るよ」悠斗は名残惜しそうに、優しい瞳で言った。「あと3日だね。芸術館で会おう」
遥は彼の手を放した。そして一人で立ち上がると、太陽に顔を向けてにっこり笑った。
「山の上までは1時間以上かかるもの。あなたはここにいて。じゃないと、誰かが待ちくたびれちゃうわ」
悠斗は少し戸惑った。考えすぎだろうか?でも、どうして今日の遥は、何か含みのある言い方をするんだろう。
彼の心に、ふと不安な気持ちがよぎった。
その次の瞬間、スマホが鳴った。菫からのメッセージだった。
【さっきの途中で終わっちゃったじゃない。早くあの女を帰らせて、続き、しよ?】
悠斗の息が、一瞬すこし荒くなった。さっきまでの不安な気持ちは、高まる興奮に一気にかき消されてしまった。
「じゃあ、道中気をつけて。3日後だね?俺が迎えに行くよ」
遥は、一度も振り返らずに歩き去った。
彼女は神社に着くと、拝殿の前で立ち止まり、静かに手を合わせた。長いあいだ頭を下げたまま動かず、手には、色褪せたあのお守りを強く握りしめている。
やがて、神社の宮司が入ってきて、遥が持っているものを見ると、静かにため息をついた。
彼女が不思議に思って振り返り、宮司に尋ねた。
「何を嘆いているんですか?」
宮司は慈悲深い眼差しで言った。「このお守りはあの日、あの方は二つ求められました。それを見て、忠告したのです。欲張りすぎると、せっかくの縁が壊れてしまいますぞ、と。まさか、こんなに早く現実になるとは……実に、哀れなことですね」
二つのお守り。
遥はしばらく黙っていたが、やがてフッと自嘲の笑みを漏らした。
あの時、悠斗が長い長い石段を上って願ってくれたのは、自分のことだけじゃなかったんだ。
彼女は手を伸ばし、お守りを浄火の中に投げ入れた。かつての美しい思い出も、一瞬で炎に呑み込まれて消えていった。
そして、星空芸術館が完成する日。
悠斗は何度も遥に電話をかけたが、彼女が出ることはなかった。
悠斗はパーティー会場の入り口に立っていた。明るい照明の下、背筋が伸びている彼の姿は、なぜかひどく焦っているように見える。何度目かの電話をかけていると、秘書が慌てて走ってきた。その声は震えていた。
「社長!たった今、奥さんのお車が市街地に入った直後、中央通りの交差点で……トラックに……」
悠斗の瞳孔がキュッと縮まり、全身の血が凍りつくのを感じた。
彼は秘書の胸ぐらを掴み、険しい顔で問い詰めた。「今、なんて言った?」