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彼の義理の妹に土下座?この結婚、やめとこう
ウェディングドレスの試着の日。長谷川慶(はせがわ けい)はまた、結婚式を延期した。 理由は、彼の義理の妹・長谷川杏奈(はせがわ あんな)...
Chương (1)
第1章
ウェディングドレスの試着の日。長谷川慶(はせがわ けい)はまた、結婚式を延期した。
理由は、彼の義理の妹・長谷川杏奈(はせがわ あんな)が彼氏と別れたから。
「杏奈は別れたばっかりで、一番なぐさめが必要なときなんだ。俺たちが結婚したら、あの子をもっと悲しませることになる」
私はうなずいて、だまってウェディングドレスを脱いだ。
あの女のため、慶は、これまでも何度も結婚を先延ばしにしてきた。
1度目は、杏奈が目に涙をいっぱいためてこう聞いた。「お兄ちゃん、あの人と結婚したら、私のこと、もういらないの?」
慶はそれにほだされて、彼女が大学を卒業するまで結婚は待つと誓った。
2度目は、杏奈が大学を卒業したとき。家出をする前に【お兄ちゃん、離れたくないよ】と手紙を残していった。
そして慶は、彼女にちゃんとした相手が見つかるまで、自分は結婚しないと約束した。
待ち続けて、年が経つうちに、私はすっかり周りの笑いものになっていた。
でも今回はもう待ちたくない。私は慶にメッセージを送った。【別れよう。あなたは杏奈と、お幸せにね】
第1話
「杏奈が失恋したばかりでさ。今がいちばん、そばにいてあげなきゃいけない時なんだよ。
だから結婚式は……もう少し延期しないか?」
試着室のカーテンの向こうから聞こえる長谷川慶(はせがわ けい)の声は、どこか申し訳なさそうだった。
彼が結婚式を延期するのは、これで3度目だった。
慶が大切に育ててきた義理の妹・長谷川杏奈(はせがわ あんな)は、またしても肝心な時に、そのか弱さを見せつけてきた。
私はカーテンを開けて、落ち着いた気持ちで彼を見つめた。
「杏奈が失恋したからって、どうして私たちの結婚式を延期しなきゃいけないの?」
慶は唇を結んで言った。「結衣(ゆい)、誤解しないで。杏奈は別れたばっかりで、一番なぐさめてほしいときなんだ。俺たちが結婚したら、あの子をもっと悲しませることになる」
喉の奥がツンとして、今までずっと溜め込んできた悔しさが一気にこみ上げてきた。
「じゃあ、私たちは一体いつになったら結婚できるの?杏奈に次の恋人ができるまで?それとも、彼女が結婚して子どもを産むまで待てってこと?」
慶の顔つきが険しくなり、声も冷たくなった。「どうしていつも杏奈のこと、そんなに悪く言うんだ?あの子には両親がいなくて、頼れるのは俺だけなんだよ!もう少し待ってくれてもいいじゃないか!」
待つ?
まだ、待てっていうの?
杏奈のせいで、私はもう7年も待たされてるのよ。
7年前の1回目の結婚式。大学に入ったばかりの杏奈が、慶にしがみついて泣きじゃくった。「お兄ちゃん、あの人と結婚したら、私のこと、もういらないの?」って。
それにほだされた慶は、招待客全員の前で、結婚式の延期を宣言した。
3年前の2回目の結婚式では、大学を卒業していた杏奈が、置き手紙一つを結婚式場に届けて家出をした。
慶は式を中断して、私や招待客を置き去りにして空港に走って行った。
慶は、杏奈に彼氏ができたら結婚するから、って言った。
彼らが本当の兄妹みたいに仲がいいから、私は我慢した。
この3年で、私が杏奈にどれだけ男の子を紹介したことか。でも彼女はいつも乗り気じゃなくて、ああでもない、こうでもないって文句ばっかり。
やっとのことで彼氏ができたと思ったら、私と慶の結婚式の直前になって、あっさり別れちゃう。
何年経っても、慶にとって、杏奈はいつまでも自分が守ってあげなきゃいけない、小さな女の子のままなんだ。
そして私は、いつだって譲ってあげなきゃいけない立場。
「慶、私の気持ち、考えたことある?
もう7年も待ってるのよ。周りからはとっくに笑いものにされてるわ」
「他人の目なんて関係あるか?」慶はイライラしたように私の言葉をさえぎった。「俺たちの気持ちを、他人に決めつけられる必要なんてないだろ?」
ばかげてる。おかしくて笑えてくる。
7年前に顔を見合わせて帰っていく招待客たち。3年前、迷いなく空港へ走り去った慶の背中。
いつだって私たちの関係は、みんなの前で好奇の目にさらされて、噂されてきた。
私は「結婚できない子」なんて言われて、飲み会での笑いのタネになってる。
それなのに慶は、あっさりと「他人の目なんて関係あるか?」なんて言うんだから。
何か言い返そうとしたとき、慶のスマホが鳴った。
「もしもし、杏奈か?
どうした?泣かないで、ゆっくり話してごらん」
私はその場に立ち尽くした。さっきまで自分にイライラした口調だった婚約者が、別の女の人には甘くささやいている。
「わかった、そこにいて。すぐ行くから」
電話を切ると、慶は私に一瞥もくれず、上着をつかんで部屋を飛び出していった。
私は試着室に戻って、鏡を見ながら、ウェディングドレスの背中のリボンを一つ一つほどいていった。
大学を卒業したばかりの頃を思い出す。慶は私の手を握って、キラキラした目で言った。
「世界で一番素敵な結婚式をしよう。お前が俺の妻だって、みんなに自慢したいんだ」って。
あの頃、私たちが世界で一番幸せになれるって、本気で信じてた。
このウェディングドレスは、デザインから全部、そこに飾られたパールの一粒一粒、レースの一枚一枚まで、全部私が選んだもの。
このウェディングドレスを着て、慶の隣に立つ日を、何度も何度も夢見てた。
私がどれだけ待ってきたか、彼が知らないはずはない。ただ、私がいつまでも待ち続けると、そう思ってただけ。
私のつらさも、惨めな気持ちも、慶は決して見てくれない。私がただ、わがままを言っているとしか思ってないんだ。
私はウェディングドレスを丁寧にたたんで、箱に戻した。
そしてブライダルショップを出て、慶にメッセージを送った。
【別れよう。あなたは杏奈と、お幸せにね】
第2話
家に帰ると、両親がリビングで私を待っていた。
ドアが開く音を聞いて、母がすぐに駆け寄ってきた。その笑顔には期待がこもっている。「ウェディングドレス、どうだった?」
父は何も言わなかったけど、読んでいた新聞から目を離した。
私は無理に笑って、二人に告げた。「結婚式、またなくなったの」
少し間を置いて、付け加えた。「私、慶と別れたから」
「バカなこと言わないで!」母がいきなり声を荒げた。「結衣、あなたもういくつなの?意地を張らないで。慶さんは彼の妹さんの面倒を見て大変なんだから、わかってあげなきゃ。
延期になっただけで、中止じゃないでしょ。数ヶ月遅れるだけじゃないの?7年も待ったんだから、あと数ヶ月くらい平気でしょ?」
母を見ていると、自然と涙がこぼれてきた。
みんな私に慶をわかってあげろって言うけど、じゃあ私のことは誰がわかってくれるの?
「お母さん、私、今年でもう29歳だよ。
それに、あの兄妹の関係は、どう考えても普通じゃない」
父は眉をひそめて、勢いよく立ち上がった。
「どこが普通じゃないんだ?二人は兄妹なんだから、仲がいいのは当たり前だろう。
明日は山本家と長谷川家の合同記者会見なんだぞ。招待状も送ったし、マスコミへの手配も済んでる。このタイミングで別れるなんて、山本家を潰す気か?」
私は口を開いたけど、喉がからからで声が出なかった。
この人たちは本当に私の家族なの?慰めの言葉は一つもなくて、冷たい非難ばかり。
二人にとって、私の幸せはたかが記者会見ひとつにも及ばないんだ。
長い沈黙の後、父は少し表情を和らげた。
「結衣、お父さんも年だ。体も弱くなる一方で、あと何年もつかわからない。弟の勇太(ゆうた)はまだ小さいし、この大きな会社を誰が継ぐんだ?
長谷川家はここ数年、勢いがある。うちには慶さんが必要なんだ」
私は父を見て、訳がわからないという顔で聞いた。
「お父さん、うちの会社は、私じゃだめなの?」
海外で経営学も学んだし、今まで私が担当したプロジェクトは全部うまくいってるのに。
「お前が?」父は鼻で笑って、手を振った。
「お前はいずれ嫁に行く身だ。山本家の会社は、勇太に残すものなんだから」
信じられない思いで父を見た。「お父さん、忘れたの?大学を卒業して、良い就職先を断って、傾きかけてた山本家の会社を立て直したのは誰だったのか?
郊外のあの頓挫したプロジェクトのせいで、銀行からは催促されて、作業員の人たちも押しかけてきた。あの時、私は数日、一睡もしなかったんだよ。
私が寝ずに現場を走り回って、進捗を管理してた時、あなたはなんて言った?私が山本家を支える存在で、会社を任せるのが一番安心だって言ったじゃない。
それで今、経営が安定したら、会社は勇太に譲るなんて。私のこと、何だと思ってるの?」
父の顔は真っ赤になって、図星を突かれ、怒りに震えていた。
険悪な雰囲気を見て、母が慌てて私の隣に座り、なだめるように言った。
「結衣、お父さんは焦って変なことを言ってるだけよ。あなたのことを思ってくれてるの。
お母さんは年長者だからわかるの。慶さんはね、あなたのことを本気で想ってるわ。
去年あなたが病気した時、彼はすぐには来られなかったけど、次の日には契約書もろくに見ないで、うちの口座に2億円も前払いしてくれたじゃない。あなたに安心して休んでほしかったのよ」
2億円。
私は口の中に広がる苦い思いを飲み込んだ。去年、無理な接待が続いて、胃の痛みがひどくなったことがあった。
慶に電話したけど、彼は杏奈の誕生日を祝っていて、どうしても抜けられなかった。
30回電話しても、一度も出てくれなかった。
その後、慶は謝罪の印として、家の口座に2億円を振り込んできた。
私はため息をついた。もう言い争うのはやめた。意味がないから。
両親にとって、私の価値は政略結婚の道具でしかないんだ。
その夜、私はバーに行って一番強いお酒を頼んだ。
べろべろに酔っぱらって、空になったグラスをテーブルに叩きつけた。
すると、温かい大きな手がグラスの口を覆った。
顔を上げると、視界がぼやけていた。
慶が、自分の体温の残る上着を脱いで、私にそっと着せてくれた。
「手がすごく冷たいじゃないか」
彼は私の前にしゃがみ込むと、両手を自分の手のひらで包んで、息を吹きかけながら優しくさすってくれた。
その瞬間、7年前の慶がふと目に浮かんだ。
あの頃、彼は実家と縁を切って、一人で会社を立ち上げたばかりだった。
あの年の冬はすごく寒かった。ファッションウィークに間に合わせるため、私はコートを着て、隙間風の入るアトリエで10時間以上も立ちっぱなしで作業していた。
手がかじかんで、ハサミも持てなくなってしまった。
そしたら慶が駆け寄ってきて、私の手を彼のシャツの胸元に入れて、熱い素肌で温めてくれた。
あの頃、彼の目には私しか映っていなかった。
慶は私を抱きしめて、お水を口元まで運んでくれた。
「結衣、約束するよ、これが最後だから。記者会見が終わったら、盛大な結婚式を挙げよう」
杏奈のことさえなければ、慶は世界で一番素敵な恋人なのに。
私は情けなくもその優しさにすがりついて、彼を強く抱きしめた。
「慶、結婚したら、二人で別に暮らさない?」
私の手を温めてくれていた慶の動きが止まった。彼は私から目をそらし、小さくため息をついた。
「また今度話そう」
慶が立ち上がって私を抱きしめた時、襟元が私の頬に触れた。ふわりと香水の匂いが鼻をつく――「禁断のローズ」だ。
それは杏奈がいつもつけている香水だった。私は思わず吐き気を催した。
そして、よろめきながら慶を突き放した。
「もう今度なんてないから」
慶は一瞬きょとんとして、「結衣、俺たちは……」
彼が言い終わる前に、スマホの画面が光った。表示されたのは杏奈のアイコン。
数秒後、慶はスマホをしまうと、慌てた口調で言った。「杏奈がちょっとトラブルに遭ったみたいで、すぐに行かないと。
タクシーは呼んでおいたから。家でゆっくり休んで。明日の記者会見で会おう」
彼は私の上着をかけ直して、くるりと背を向けるとバーを出て行った。
慶の後ろ姿を見つめながら、さっき温めてもらった手をそっと下ろした。指先のぬくもりは、すぐに消えていった。
7年間。
私は一体、何を信じてきたんだろう?
本当は、慶はとっくに答えを出していたんだ。私だけが、ずっと自分に嘘をついてきた。
慶が杏奈をそんなに大事にするなら、いっそ、その願いを叶えてあげよう。
私は秘書に電話をかけた。「来週、F国へ飛ぶチケットを一枚とってちょうだい。片道で」
第3話
次の日、長谷川家と山本家の合同記者会見があった。
このプロジェクトには、丸一年分の私の想いがつまってる。
二日酔いの頭痛をおさえながら、痛み止めをのんで、赤いセットアップの服を選んだ。
会見の会場は招待客でいっぱいで、マスコミのフラッシュがまぶしくて目がくらみそう。
杏奈が来ていないのを見て、私は少しほっとした。
記者会見は順調に進んで、最後に新作が発表されると、会場からはわあっと感嘆の声があがった。
マスコミからの質疑応答の時間になって、ある記者が質問してきた。
「山本さん、長谷川さんとはもう7年のお付き合いだそうですが、どうしてまだご結婚されないんですか?」
その言葉に、胸がちくっと痛んだ。私はその場で固まってしまって、なんて答えたらいいか分からなくなった。
今の私と慶の関係って、まだ恋人って言えるのかな……
会場が、ひそひそとざわつきはじめた。
「7年も付き合って結婚しないなんてね。やっぱりお金持ちの家に入るのは大変なんだよ」
「ずっと彼女の方から追いかけてるって話だよ。長谷川社長は、本当は結婚する気ないんじゃないの」
「ほんとそれ。彼女の実家の会社が長谷川社長のとこと取引がなかったら、とっくに捨てられてるでしょ」
私はマイクをぎゅっと握りしめた。張りついた笑顔が、今にも引きつりそうだった。
そのとき、慶が一歩前に出て、私の手からマイクを取った。
「俺と山本さんとの仲は順調です。年内に結婚する予定でいます」
私は何も言えないまま、彼の腕の中に引きよせられた。心の中は、嬉しいのか悲しいのか、ぐちゃぐちゃだった。
会場は一瞬静まったかと思うと、羨望の嘆声が沸き起こった。
私の両親は、もう満面の笑みで、まわりの人たちににこやかに会釈していた。
ガシャーンッ――
シャンパンタワーが崩れて、ガラスの割れる音がした。会場にいた全員が、そっちに目を向けた。
入り口には、いつのまにか杏奈が立っていた。
彼女は真っ青な顔で、くるっと向きを変えると、会場を飛び出していった。
たぶん、慶の「年内に結婚する」っていう言葉を聞いちゃったんだ。
慶は、考えるよりも先に彼女を追いかけようとした。
私は彼の腕をつかんだ。「今日はマスコミが多すぎるわ。変な記事が出たら、杏奈のためにならない」
それから秘書に目くばせした。「彼女の様子を見てきて。危なくないように、お願い」
慶は一瞬ためらったけど、また私の腕を組んで、会場のみんなににっこり笑いかけた。
10分後、秘書が駆け寄ってきた。「社長、これ……ライブ配信を見てください」
彼女は私の目の前にスマホを差し出した。画面には、杏奈が映っていた。
杏奈は裸足で、ホテルの3階のスカイテラスに座っていた。
足をぷらぷらさせていて、スカートと長い髪が風でめちゃくちゃに揺れている。
「私、兄に手をかけて育てられた、小さい花みたいな存在なの」
カメラに向かって、彼女は悲しそうで、今にも泣き出しそうな声で話した。
「小さい頃から、私と兄はずっと二人きりだった。彼がいなかったら、今の私はいない。
兄は、ずっと私だけのものだって信じてた。彼が、私の世界のすべてだったのに」
そう言って、杏奈の目から涙が一筋、すーっと流れ落ちた。
「でも今日、私は兄にとっての一番じゃなくなっちゃった。
私の世界が、音を立てて崩れちゃった。
もうこの世界に私のいる場所はないから、だから、行かなくちゃ」
言い終わると、彼女はカメラに向かってはかなく微笑んだ。そして目を閉じて、少し体を前に傾ける。今にも、そのまま落ちてしまいそうに。
ライブ配信の視聴者数は、とんでもない勢いで増えていった。
慶は目を見開いて、すごい剣幕で私の方を振り返った。
「結衣、お前のせいだ!
俺に杏奈を追わせなかったのは、こうなることを望んでたからなんだろ!」
彼は鬼みたいな顔で私の胸ぐらをつかんで、ほとんど持ち上げるくらいの力だった。
「覚えてろよ。もし杏奈に何かあったら、絶対にお前を許さないからな」
第4話
そう言うと、慶は人ごみをかき分け、狂ったように会場を飛び出していった。
あそこは屋上じゃなくて、ホテルのスカイテラスなのって言いたかった。地面からの高さも2メートルちょっとしかないのに。
とっくに警備員も手配して、万全の態勢だった。
でも、慶は説明するチャンスをくれなかった。さっきまで羨ましそうに見ていた招待客たちが、ひそひそと噂話を始めた。
「さっきの長谷川社長の目つき、まるで彼女を食い殺しそうな勢いだったじゃない!二人の仲が順調?よく言うわ!」
「自業自得よ!どう見ても腹黒い女じゃない。長谷川社長の妹さんを追い出して自分がのし上がろうなんて、玉の輿に目がくらんだのね?」
「兄妹?長年一緒に暮らして、情が移っちゃったんじゃないの?山本さんが可哀想ね」
その一言一言が胸に突き刺さり、私は深い奈落の底に落ちていくようだった。
記者会見の総責任者として、私も人々の後を追ってスカイテラスへ向かった。
スカイテラスにはすでに大勢の人が集まっていて、みんな同じ方向に向けてスマホを構えていた。
慶が、杏奈の前にひざまずいて、少しずつにじり寄っていた。
「杏奈、下りてきてくれ。お願いだ」
彼の声は震えていて、今までにないほどの恐怖がこもっていた。
「お兄ちゃん、私があなたにとって一番大事な人?」
「そうだ!もちろんだよ!」
慶は必死に答えた。その声はうわずっていた。
「杏奈、俺が一番大切に思っているのはずっと君だ。君を超える人なんてどこにもいない。今までも、これからも!」
杏奈はようやく慶に視線を戻した。
彼女は無邪気な子供のように、こてんと首をかしげた。
「じゃあ……あの女は?」
そう問いかけながら、杏奈はまた少し身を乗り出した。
慶は恐怖で顔面蒼白になった。
「結衣は……ただの仕事のパートナーだ!
杏奈、君こそが俺の命なんだ!」
その言葉を聞いて、私の心臓をえぐられたようだった。苦しくて、息もできない。
もう手放そうと決めていたけど、それでも7年間も付き合ってきたんだ。
さっきは二人の仲は順調だって言ったのに。ふん、順調なパートナー関係ってわけね。
杏奈はついに泣き止んで笑顔を見せると、慶に両腕を広げた。
慶は駆け寄って彼女を抱きしめ、長いため息をついた。
杏奈は慶の首筋に顔をうずめ、ほっとしたように、でも辛さをこらえるような声で言った。「お兄ちゃん、そばにいさせて。もう恋愛しろなんて言わないで、お願い」
そして、みんなが見ている前で、おもむろに袖をまくり上げた。
腕には痛々しい傷跡が何本も走っていた。
慶は瞬時に目を赤くした。「木村の野郎がやったのか?」
私の心臓がどきりと跳ねた。
木村正人(きむら まさと)は、杏奈が3ヶ月だけ付き合った元カレで、私が紹介した人だった。
次の瞬間、慶が鬼の形相で私の前に駆け寄り、髪の毛を掴んだ。
「結衣、お前はいったい何がしたいんだ!
小さい頃から、俺は杏奈に指一本触れたことなかったのに!
お前がこんな目に遭わせたのか!」
ものすごい力で、髪を引っぱられて痛いのもおかまいなしだった。
「杏奈はただのか弱い女の子だ。お前の悪口なんて一度も言ったことがないんだぞ!
なんでいつも彼女を陥れようとするんだ?俺が結婚を延期したからか?
なんてひどい女なんだ!」
そう言うと、慶は私を力任せに突き飛ばした。
胸の奥から、どうしようもない切なさがこみ上げてきた。
正人は私が小さい頃から知っている。物腰の柔らかい男で、話し方もおとなしい。
それに、そもそもは慶が彼を良い人だと思って、私に紹介を頼んできたんじゃない。
なのに今は、怒りにまかせてすべての責任を私に押し付けてくる。
「ひざまずけ!杏奈に謝れ!」
あまりの怒りに、私は逆に笑ってしまった。「どうして?
私は彼女に悪いことなんて何もしてない。謝る理由なんてないわ」
慶は首を横に振ると、私を杏奈の前に引きずり出した。そして、ひざの裏を思いっきり蹴りつけた。
私はバランスを崩して前のめりに倒れこみ、ひざを砂利に打ちつけた。たちまち血が流れ出す。
慶は私を見下ろし、氷のように冷たい声で言った。
「杏奈に誓え。二度とこんないやしい真似はしないと。
さもないと、お前は一生長谷川家の人間にはなれないぞ」
周りでは無数のスマホのカメラが光り、カシャカシャという小さなシャッター音が響いた。
私はなんとか立ち上がり、顔を上げて彼の視線を受け止めた。
「長谷川家なんて、こっちから願い下げよ。
でも、私に濡れ衣を着せるなんて絶対に許さない!」
パシン。
乾いた音を立てて、平手打ちが私の頬を叩いた。口の中に鉄さびの味が広がる。
慶の目には、激しい憎しみと嫌悪が浮かんでいた。
「この一発で、少しは目が覚めたか」
たとえ夫婦になれなくても、私たちは少なくとも、お互いを一番信頼しあえる仲だと思っていた。
なのに今、慶は杏奈の真偽もわからない一言で、私に手を上げた。
私が反応するより早く、父が駆け寄ってきた。
「結衣!お前は何を考えているんだ!早く謝れ!」
母もそれに続いた。「そうよ、結衣。いい子だから早く謝って。事を大きくしないで」
涙がどっとあふれ出した。二人の顔に浮かぶ焦りは、私が怪我をしたからじゃない。慶の機嫌を損ねて、家の仕事に影響が出るのを恐れているからだ。
私が濡れ衣を着せられているとわかっているのに、彼らは何も言おうとしない。それどころか、私に杏奈へ頭を下げろと迫ってくる。
母はまだ私を説得し続けている。父は慶の顔色をうかがいながら、ひたすら謝っていた。
周りの視線が針のように突き刺さる。同情、軽蔑、そして面白い見世物を楽しむような好奇の目。
私の頑なな態度に不満だったのか、慶は首を振ると、杏奈を抱きかかえて人ごみの中へ消えていった。
私のそばを通り過ぎる時、杏奈は私をじっと見つめ、意味ありげな微笑みを残していった。
スカイテラスにずっと立ちつくしていた。風が私の体の血の跡を乾かしてしまうまで。
家に帰ると、両親はいなかった。
簡単な荷物だけをまとめて、自分の小さなマンションへ引っ越した。
傷口に消毒液を塗ると、しみるような痛みに思わず息をのんだ。でも、頭はかつてないほどすっきりと冴えていた。
パソコンを開いて、先月指導教官から届いたメールを探した。F国皇室芸術学院からの招待状だ。
あの頃の私は、バカみたいに【結婚が近いので、今は考えられません】なんて返信していた。
その一文を見つめながら、私は深く息を吸った。そして、キーボードを叩く。
【先生、招待をお受けします。来週から入学させてください】