いつか霧が晴れる日まで

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病院で中絶手術を終えて出てきたばかりの時、私は夫の柊朔帆(ひいらぎ さくほ)にメッセージを送った。 【子どもをおろしたよ】 すると、即...

Chương (1)

第1章

病院で中絶手術を終えて出てきたばかりの時、私は夫の柊朔帆(ひいらぎ さくほ)にメッセージを送った。 【子どもをおろしたよ】 すると、即座に返信が来た。【了解】 私はその文字を見つめ、ふと可笑しさを覚えた。 ここ数年、危険な現場に出る前に連絡を入れても、返ってくるのは【了解】。 二十四時間連絡がつかなかったら私を探してほしいと伝えておいても、返ってくるのは【了解】だった。 私が土砂崩れに巻き込まれ、冷たい土の下に生き埋めになって、丸七十二時間も連絡が途絶えていたあの時、極度の恐怖の中、私は朔帆へ309通もの助けを求めるメッセージを送った。 それに対して彼が返してきたのは、309個の【了解】だった。 そこでようやく気がついたのだ。今まで送られてきていたのは、すべて機械的な自動返信だったのだと。 朔帆は私のメッセージなど読んでいなかった。 だから当然、半月前に送った言葉も知らないはずだ。 私が海外赴任を引き受けること、そして今日、子どもをおろすということも。 彼の活力と熱量のすべては、昔から、SNSを埋め尽くすあの女にだけ注がれていたのだ。 【千日目の記念日。そして夕依の誕生日でもある】 添えられた画像は、彼と倉田夕依(くらた ゆい)のトーク画面のスクリーンショットだった。 びっしりと並んだ何万通ものやり取りの最上部には、二人が千日間、一日も欠かさずメッセージを送り合ったことを示す「連続トーク千日」の特別なアイコンが輝いていた。 私はその投稿に「いいね」を押した。 そしてコメントを残す。【いい日だね】 それは二年前、私が土砂崩れから九死に一生を得た日。 そして何より、私が朔帆と完全に縁を切ると決めた日でもあった。 第1話 病院で中絶手術を終えて出てきたばかりの時、私は夫の柊朔帆(ひいらぎ さくほ)にメッセージを送った。 【子どもをおろしたよ】 すると、即座に返信が来た。【了解】 私はその文字を見つめ、ふと可笑しさを覚えた。 ここ数年、危険な現場に出る前に連絡を入れても、返ってくるのは【了解】。 二十四時間連絡がつかなかったら私を探してほしいと伝えておいても、返ってくるのは【了解】だった。 私が土砂崩れに巻き込まれ、冷たい土の下に生き埋めになって、丸七十二時間も連絡が途絶えていたあの時、極度の恐怖の中、私は朔帆へ309通もの助けを求めるメッセージを送った。 それに対して彼が返してきたのは、309個の【了解】だった。 そこでようやく気がついたのだ。今まで送られてきていたのは、すべて機械的な自動返信だったのだと。 朔帆は私のメッセージなど読んでいなかった。 だから当然、半月前に送った言葉も知らないはずだ。 私が海外赴任を引き受けること、そして今日、子どもをおろすということも。 彼の活力と熱量のすべては、昔から、SNSを埋め尽くすあの女にだけ注がれていたのだ。 【千日目の記念日。そして夕依の誕生日でもある】 添えられた画像は、彼と倉田夕依(くらた ゆい)のトーク画面のスクリーンショットだった。 びっしりと並んだ何万通ものやり取りの最上部には、二人が千日間、一日も欠かさずメッセージを送り合ったことを示す「連続トーク千日」の特別なアイコンが輝いていた。 私はその投稿に「いいね」を押した。 そしてコメントを残す。【いい日だね】 それは二年前、私が土砂崩れから九死に一生を得た日。 そして何より、私が朔帆と完全に縁を切ると決めた日でもあった。 …… 私、森川秋楓(もりかわ しゅうか)は重い足取りで家に戻り、部屋に入るなりそのままベッドへ倒れ込み、泥のように眠った。 ひと眠りして目を覚ますと、下腹部の痛みはようやく少しだけ和らいでいた。 まだ慣れない。 お腹の奥も、この真っ暗な家も、何もかもが空っぽだった。 私は無意識にスマホを手に取り、朔帆へ連絡しかけた。 もう深夜三時だ。どうしてまだ帰ってこないのか、そう聞くつもりだった。 ロックを外し、画面いっぱいに並ぶ【了解】の文字を見た瞬間、ようやく頭が冷えた。 もう二年近く経つというのに、まだあの自動返信に慣れずにいる自分が可笑しかった。 玄関のほうで、鍵を開ける音がした。 私が廊下へ出ると、ちょうど朔帆が服を脱いでいるところだった。びしょ濡れの上着を放り投げ、朔帆は言った。 「夕依が俺の手作りの煮込み料理を食べたいって言うから届けてきた。帰る途中で降られたよ」 「こんな時間まで起きてたのか」 私は淡々と答えた。「うん」 朔帆はそのまま浴室へ向かいながら聞いた。「今日は病院で何してたんだ」 彼はドライヤーを取り出し、コンセントに差し込んで電源を入れた。 「中絶してきたの」 その声は、ドライヤーの音にかき消された。 朔帆はいつもそうだった。私に話す隙すら残さない。 私は朔帆の首元に目をやった。 赤い紐が、白いシャツの下からいつも薄く透けて見える。 真夏でも上に一枚羽織ってまで隠すくせに、絶対に外そうとはしない。それは夕依が買い物をしたとき、店でもらったおまけの景品にすぎないのに。 私はドアの枠にもたれて聞いた。「朔帆、結婚指輪はどうしたの」 朔帆はドライヤーを止め、髪をかき上げた。「外した。締めつけられる感じが嫌なんだよ」 「だったら、その紐は」 わかりきったことを、私はあえて口にした。 「それとは別だろ。こっちは柔らかいし、指輪は手に当たって邪魔なんだよ。ああいうのを喜んでつけるのは、お前くらいだ」 私は自分の薬指を見た。 結婚指輪。 本物なら、とっくの昔に外している。今つけているのは、通りすがりの店先で買った二百円の安物で、ひどく安っぽい偽物だった。 朔帆はそれにすら気づいていない。 気づけないほど、長く私を見ていなかった。もうずっと、私の手すら握っていないのだから。 「もういい。早く寝ろ」 朔帆は私の頭をひと撫でして背を向け、そのままゲストルームへ入っていった。 私が妊娠してから、私たちは同じベッドで寝なくなった。 自分は寝る時間が遅いから、私の睡眠を邪魔したくない。朔帆はそう言い訳していた。 けれど実際は、毎晩、夜勤明けの夕依を迎えに行き、外で軽く何か食べてから彼女の住まいまで送り、家に戻るのはいつも深夜二時か三時だった。 それで終わりではない。 帰宅したあとも、ふたりはメッセージのやり取りを続けていた。 一度、明け方に目が覚めてトイレへ立ったとき、ゲストルームの灯りはまだついていた。中からはキーボードを叩く音と、低い笑い声が漏れていた。 以前の私なら、きっと扉を開けていた。 何をそんなに夜通し話すことがあるのかと、問いただしていたはずだ。 夜通し話して、それでも尽きない話題なんて、本当にこの世にあるのだろうか。 それならどうして朔帆は、私の前では口を失ったみたいに黙り込むのだろう。 でも、もうどうでもよかった。 スマホの画面が光り、海外赴任に関する確認事項が表示された。 私は「承認」を押し、部屋へ戻ってまた眠りについた。 第2話 朔帆の話し声で目が覚めた。 キッチンでは、朔帆がスマホの画面を見ながら妊婦向けの食事を作っていた。その手を動かしたまま、眠れない夕依のために電話越しで歌まで聞かせている。 ずいぶん器用なものだと思った。 私が来たのに気づくと、朔帆はそこでようやく通話を切った。 「温かい飲みもの、置いてあるぞ」 私は返事をしなかった。 テーブルの前に座ると、静かになったぶんだけ気が緩み、そのまま少しうとうとした。 「起きろ。朝飯だ」 朔帆が朝食を並べる。 私がお箸に手を伸ばした瞬間、朔帆の手が伸びてきて、その手を軽く弾いた。 「待て。写真撮るから」 軽いシャッター音が鳴った。朔帆は画面を数回操作し、そのまま夕依へ送信した。 それから箸を私の手へ戻した。「ほら、食え」 急に食欲が消え失せた。 私は椅子の背にもたれたまま聞いた。「なんであの女に送るの」 朔帆は何でもないことのように答えた。「見たいって言うから。若い子はそういうの、珍しがるんだよ。俺がお前に買った部屋着のことまで聞いてきたくらいだしな」 私は言った。「それで、また彼女に写真を送ったのね」 朔帆の手が止まった。 私の顔色を窺ったのだろうが、言い訳ひとつしない。 「見たわ。あなたが彼女の家に遊びに行って撮った写真。私と同じ部屋着を着てた」 肌が透ける、レースの細い肩紐のものだった。 写真の中で、夕依は男の腕に無造作に体を預けていた。少し俯けば胸元が大きく開く。そういう写り方を、確信犯に見えた。 そんなことは一度や二度ではない。 夕依はずっと、私と自分を並べたがっていた。 同じようなゆるい巻き髪にして、同じ色の口紅を選ぶ。 私と朔帆が出先で作った伝統工芸品の扇子まで、同じものが欲しいとせがんだ。 手作りの品なのだから、完全に同じものなど作れるはずがない。 それでも夕依が甘えると、朔帆は私たちの扇子をすり替えた。 自分の手で記念日を刻んだ私の扇子は、そのまま別の女へ渡ったのだ。 「私は嫌だった」 朔帆は肩をすくめた。「大げさだな。そんなことで拗ねるなよ。 お前のデザインが好きで、憧れてるって言ってるだけだろ。同じものを持ちたがって何が悪いんだ」 私は黙った。 怒るなら、きっとここだった。 昔の私なら、食い下がって、喧嘩になって、声を荒げていたはずだ。 けれど今の私の胸の内は静まり返っていた。何を投げ落としても一切の音が返ってこない、深い水の底みたいだった。 「うん。そうだね」 第3話 海外赴任の前に、ちょうど社内の懇親会が入った。 幹事がグループチャットに連絡を流してきたのを見て、私は行く気をなくした。だが断りを入れる前に名指しでメンションされてしまった。私の送別会も兼ねているから来てほしいという。 そこまで言われてしまえば断りにくい。 私は朔帆へ電話をかけた。「今夜、会社の集まりがあるの。パートナー同伴が必要で、いないと向こうで適当に組まれるみたい。来られる?」 電話の向こうはひどく騒がしかった。 「聞こえねえ。ちょっと待て……」 ざわついた音が少し遠のく。 「もういい。言ってくれ」 「今どこにいるの」 「夕依と公演に来てる」 少し間を置いて、彼は付け加えた。 「前から楽しみにしててさ。やっと席が取れたんだって。一緒に行くはずだった相手がだめになったから、俺が代わりだ」 「そう」 私は乾いた笑いをこぼした。「別に、ただ聞いただけ。説明しなくていいよ」 受話口の向こうで、朔帆の息がわずかに重くなった。 私はさっきの懇親会の話をもう一度したが、朔帆は明確な返事をしないまま電話を切った。 夜になり、私は会社の前で朔帆を待った。 一時間過ぎても誰も来ない。 風が強く、小雨が斜めに吹きつけ、濡れたパンツの裾が脚に張りついて気持ちが悪かった。私はいったん中へ戻って着替えた。 会場へ戻ると、朔帆はもう席についていた。 ただし、夕依の隣で。夕依のエスコート役として。 「秋楓さん、こっちです!」 夕依が明るく手を振る。 その円卓は皆ふたり組で、ひとりきりなのは私だけだった。立ったままいるのもいたたまれず、離れようとしたところを担当者に押し戻された。 「秋楓、旦那さんあそこだろ。早く行って座りなよ」 私はそのまま、朔帆の目の前へ立たされた。 担当者は朔帆へ笑いかけた。「パートナーが来たぞ。立って迎えないのか」 朔帆が動くより前に、夕依が朔帆の腕へ親しげに手を回した。「朔帆さんは、今日は私のパートナーなんです」 朔帆は否定もせず、軽くうなずいた。 担当者は私とふたりを気まずそうに見比べ、ひとまず朔帆の横へ私を座らせた。「まあ大したことじゃない。すぐ別の相手を探してくるから」 私は朔帆を見つめた。心中は穏やかではなかった。 先に声をかけたのは私だ。 断るなら断るで、電話の時に言えたはずだった。あの冷たい雨の中、私を外で待ちぼうけにさせる必要はなかった。 私が口を開く前に、朔帆が言った。「夕依は、変な虫がつきやすいから。俺がいれば寄り付かないだろ。 お前が結婚してるのも知られてるし、無茶してくるやつも減る。あいつ、男慣れしてなくて危なっかしいんだよ。俺が少しガードしてやるくらい、別にいいだろ」 まただ、と思った。朔帆はまた、夕依を選んだ。 一度目は、私を死のふちに追いやった。 二度目は、大勢の前で私に恥をかかせた。 結局、担当者は私の相手を見つけられなかった。 私はペアで行うゲームも、ダンスもすべて避けて、いちばん端の席に座り続けた。自分の夫と後輩が、楽しそうに宴の時間を使っていくのをただ静かに見ていた。 最後の余興は、本音をぶつけ合う質問ゲームだった。 夕依が朔帆の手を引いて前へ出ると、場が一度しんとなった。 誰もが、あの事故のことを思い出したのだろうと、私は勝手に決めつけた。 同情や好奇の視線が、いくつもこちらへ向く。その視線は細い針みたいに、肌のあちこちを刺してきた。 胸の奥で、古い傷がじわりと痛んだ。 第4話 二年前、夕依が休みを取った日、私は彼女が担当する図面を持って現場確認に向かった。 朝から激しい雨が降っていた。 人の少ない現場で、私は図面を見ながらぬかるんだ泥の上を進んだ。 夕依の引いた図面を信じきっていたから、足元ばかり見ていた。入り込んではいけない危険な区画へ入っていたことにも気づかなかったのだ。 次の瞬間、頭上から土砂が崩れ落ちてきた。 全身が一気に押し潰され、私はそのまま土の下へ生き埋めになった。 上から崩れた土砂を、一枚の大きなコンクリート板がぎりぎりで受けてくれていた。それがなければ、息をしていられなかったと思う。 何も見えなかった。耳の中では、自分の荒い息と狂ったような心臓の音だけが暴れていた。どこがどう痛いのかもわからなかった。 右腕は折れているようだった。動けないまま、左手だけで泥の中を探り、やっとスマホに触れた。 空間が狭すぎて、指先しか動かせない。 私は指の感覚と記憶だけを頼りに、ピン留めされたトーク画面を開き、朔帆へ手探りでメッセージを打った。 体から力がどんどん抜けていく。 泣き声が喉の奥で潰れ、噛み切った舌から血の味がした。それを涙と一緒に飲み込んだ。 頭の中は朔帆のことばかりで、声に出ないまま朔帆の名前ばかり呼んでいた。送信ボタンだけは何度も何度も押した。 【朔帆……怖い、助けて……私、死にたくない……】 時間の感覚はとうに失われていた。 気を失って、少し意識が戻って、また泣いた。途中でスマホの電源が切れたことすら知らなかった。 朔帆が絶対にメッセージを見てくれて、誰かを呼んで私を助けに来てくれると、ずっと信じていた。 意識が完全に落ちる寸前まで、私は朔帆の名前を呼んでいた。 私を助けに来るのは、絶対に朔帆だと思っていたのだ。 土の中から引き上げられたのは、三日後だった。 救助隊が最後の土をどかし、私は外へ出された。その時には、心臓もほとんど止まりかけていた。 救急隊員がその場で私の緊急連絡先に電話をかけた。朔帆の番号だった。 八回目のコールでようやくつながった。 だが、電話に出たのは朔帆ではなかった。 「何度もかけてこないでよ。寝てるんだから」 若い女の声だった。 かけ直しても、今度は途中で切られ、そのまま着信拒否された。 私は死にかけていたのに、手術の同意書にサインしてくれる家族すらいなかった。 最後は医師が特例として判断し、そのまま緊急処置に入った。 半月もの間、集中治療室にいた。 その間も、朔帆は夕依に振り回され、生死の境を彷徨う私のことなど気にかけようともしなかった。 折れた右腕は骨がつながっても神経に後遺症が残った。長いあいだ感覚が戻らず、再び図面が描けるようになるまでかなりのリハビリを要した。 今でも、ときどき意志に反して震えることがある。 あの件で、私たち夫婦は事実上ほとんど終わっていた。 退院後、私は家の中のものを手当たり次第に壊し、家に火までつけかけた。朔帆の顔には私が叩いた平手の跡が残り、腕や首には引っかいた無数の傷もついた。 どうしてこんなことをしたのか。どうして私を見捨てたのか。私は泣き叫びながら喚いた。 「どうして『了解』なんて自動返信を設定してたの!どうして!あなた、私をあしらうのがそんなに面倒だったわけ!?」 朔帆はひどく落ち着いていた。 「返事をしたくなかっただけだ。お前、いつもどうでもいい写真ばっか送ってくるだろ。道端の猫とか空とか。ああいうの、俺は全然興味ないんだよ」 あの時、死んだのはたぶん私の心のほうだった。 それから先、二人の距離が埋まることは二度となかった。 私はとうとう認めたのだ。無理なものは無理だ。このまま曖昧に一生を浪費することはできない、と。 いちばん悔やんでいるのは、何度も朔帆にやり直す機会を与えてしまったことだ。 二年前のあの日、きっぱりと縁を切ってしまえばよかったのだ。 第5話 夕依は前に立ち、わざとらしく頬を赤らめながら最初の問いを口にした。 「もし過去に戻れるとしたら、今とは違う恋愛を選びますか?」 場がざわついた。 私は足を組み、スマホの画面で明日のフライトを選んでいた。自分には全く関係のない話のように聞き流していた。 朔帆は少し戸惑った顔をして、首を横に振った。 その答えに、夕依の口元から笑みがスッと消える。 「次は朔帆さんの番です」 朔帆は尋ねた。「夕依の一番好きな食べ物は何だ?」 夕依はすかさず得意げに答えた。「それ、朔帆さんが一番よく知ってるんじゃないですか?」 その親しげな言い方に、周囲からヒューヒューと囃し立てる声が上がった。 隣に座っていた上司が、気まずそうに私の肘をつついてきた。「旦那さん、呼ぼうか。ふたりで先に帰ればいい」 私はそこでやっとスマホから顔を上げた。 「結構です。どうせ今日が終われば、もう夫ではなくなりますから」 私は立ち上がって会場の外へ出た。 背中に朔帆の強い視線を感じたが、扉が閉まるとそれも完全に途切れた。 私はまっすぐ家へ戻った。 少し遅れて、朔帆も帰ってきた。 「機嫌悪いのか」 近づいて私を抱き寄せようとしたその体を、私は横へずらして避けた。 「別に」 「嘘だろ」 朔帆は私の顔を覗き込んだ。「秋楓、付き合い長いんだぞ俺たち。お前が何考えてるかくらいわかる。 少し口を尖らせただけで、何が食べたいのかも当てられるんだ」 私は何も言い返さず、ただ静かに朔帆を見つめていた。 見られ続けて、朔帆の余裕が少しずつ崩れていくのがわかった。 「なんだよ。何がしたいんだ」 「一番よくわかってるなら、当ててみれば?」 私がふっと笑うと、朔帆は露骨に安堵して気を抜いた。 そのまま重いため息をつき、ソファへ座り込む。 「俺にそばにいてほしいって顔してる。わかったよ、二日くらい休みを取るから。 前に言ってただろ。お参りにでも行って、子どものこと願いたいって。一緒に行くか」 私は何も言わず、そのまま部屋へ戻って寝た。 翌朝、朔帆は早くから家を出ていった。 昼近くになっても戻らない。SNSで見かけた投稿で、昨夜飲みすぎた夕依が帰りに転んで怪我をしたと知った。朔帆はそのまま夕依の家に入り浸り、看病の世話を焼いているらしかった。 私は全く気にせず、ひとりで淡々と自分の荷物をまとめた。 離婚届に署名し、水の入ったコップを重しにして、中絶処置の書類と一緒にローテーブルへ置いておく。 準備を終えると、私はスーツケースを引いて家を出た。 向かう先は空港だった。 外はもう、夕闇がゆっくりと濃くなり始めていた。 搭乗前、スマホが激しく鳴り始めた。 メッセージの通知が、途切れることなく滝のように流れ込んできた。