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長亭で振り返れば、故人は遠くに
木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい よう...
Chương (1)
第1章
木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。
彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。
結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。
権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。
だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。
一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。
二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。
第1話
木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。
彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。
結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。
権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。
だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。
一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。
二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。
「木崎さん、本当にいいんですか?抹消手続きには十五日かかります。一度完了すれば、『愛莉』という名前は、この世から完全に消えてしまいます」
「いいんです」愛莉の声は揺るぎなかった。
前世で、皆が羨んだこの結婚は、実際には彼女の父の命と引き換えで成り立っていた。
津波の夜、投身自殺を図った陽平を救うため、愛莉の父は命を差し出した。
父の唯一の願いは「娘が幸せになれるように」ということだった。
その恩を返そうと、陽平は愛莉を妻に迎えたのだ。
皆に祝福されて嫁いだ日は、幸せの始まりのはずだった。
しかし――愛莉が知ったのは、陽平の心の中にずっと早見彩花(はやみ あやか)がいるということだった。
海へ飛び込んだ理由も、チェロの夢を選び自分を捨てた彩花のせいだった。
結婚後、陽平は一度も愛莉に触れず、冷たい他人のように振る舞った。
ただ一度、酔ったときに彼女を彩花と勘違いして抱いたことがあり、その結果が優翔が生まれた。
それからは少しずつ態度が軟らいでいき、ようやく彼女に笑顔を見せ始めていた。
愛莉は「ようやく心を溶かせた」と信じていたが――彩花が帰国した瞬間、全てが終わった。
陽平の瞳には彩花しか映らなくなり、息子すら母親と認めたのは彩花だった。
やがて彩花は家に入り込み、愛莉は「正妻」という名ばかりで、一生家政婦のように扱われ続けた。
五十歳のときに耐えかねて区役所に離婚の相談をしたが、その時初めて知った。
――陽平との婚姻届は偽造で、自分は正式に妻ではなかったということを。
さらに、優翔の戸籍上の母親は最初から彩花になっていた。
つまり、愛莉は最初から「部外者」だった。身分すら与えられない存在だったのだ。
現実を知った彼女は精神が崩壊し、区役所を飛び出した直後、車にはねられ命を落とした。
次に目を開いた瞬間、戻っていたのは二十九歳の時。彩花がちょうど帰国したその日だった。
愛莉は苦い記憶を振り払うように時計へ目を落とし、時刻を確認した。もうすぐだ。
予想通り、次の瞬間スマホに速報が届いた。
【世界的チェリスト彩花帰国、坂井家後継者が子供連れて、高級車を贈り愛を告白。二人は極秘結婚し子どもがいるとの噂】
ニュースを開くと、映し出された映像には陽平が彩花の手を取り、覆い布を派手に剥ぎ取る姿。
そこに現れたのはピカピカのマセラティ。群衆の口が一斉に開いた。
「すごっ!やっぱり財閥って桁違い……あの車、ネットでしか見たことないよ!二千万円は軽く超えてる!」
タイミング良く、陽平の甘い声が響いた。
「彩花、俺の体も車も、全部お前のものだ」
彩花は真っ赤になって慌てて首を振った。
「陽平、これは高すぎるわ。受け取れないよ」
陽平が口を開く前に、優翔が自ら一歩前に出て、彩花の服の裾を引っ張りながら甘えた声で言った。
「彩花おばちゃん、受け取ってよ。パパ、本当は島を買おうとしてたんだけど、びっくりさせちゃうと思って車にしたんだ。
もし受け取ってくれなきゃ、パパも僕も悲しいよ」
それを聞いた彩花は、困ったように微笑んで仕方なく頷いた。
映像が終わると同時に、愛莉は唇を皮肉に吊り上げた。
胸の奥が針で刺されるように痛む。
結婚して七年。陽平からは一度も贈り物など無く、優しい言葉すらかけてもらったことはなかった。
その上、心を込めて育てた息子までもが、自分を召使いのように扱い嫌悪していた。
彼女は「父と子の性格だから」と諦めかけていたが、実際は――二人とも優しさを別の女に与えていただけだった。
愛莉はそれ以上見ず、車を走らせ邸宅へ戻った。
玄関を開けた瞬間、目に映ったのは、自分の服やアクセサリーがすべて外に捨てられている光景だった。
何事か尋ねようとした矢先、彩花の持ち物が次々と中へ運び込まれていった。
彼女が部屋から現れると、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね、木崎さん。この部屋、日当たりがいいって何気なく言ったら、陽平が気を利かせて……無理やり私を住ませてくれたの」
それを聞いた愛莉の声は冷え切っていた。
「早見さんがどこで暮らそうと自由ですが、これは私の持ち物です。あなたが勝手に処分する権利はありません」
彩花が答える前に、陽平の声が背後から飛んできた。
「俺がやらせたんだ」
「彩花には日当たりのいい部屋が必要なんだよ。新居は改装中で住めないし、お前の部屋がちょうど条件に合っていた。それで何か問題あるか?」
「でも、これは私の物です。いくらあなたでも勝手に……」
言い終える前に、優翔が花束を抱えて割り込んだ。
「彩花おばちゃん、ママの言うことなんか気にしないで。家の中でママの言葉なんて、お手伝いさんより軽いんだから」
「先生が言ってたよ。今日は母の日だから、一番大切な人にカーネーションを贈るんだって」
そう言って彼は少し照れながら身をよじる。
「だから僕、この花を彩花おばちゃんにあげたいんだ」
挑発するように愛莉へ笑みを見せた彩花は、すぐに陽平へ困った顔を向けた。
「陽平、これはよくないんじゃない?優翔のことは大好きだけど、でも、木崎さんが優翔の本当のお母さんでしょう?」
陽平は甘さを滲ませた声音で答えた。
「彩花、優翔が渡したいなら受け取ってやれ。子供の気持ちは真っ直ぐなんだ。好きな相手にあげるだけだよ」
彩花は仕方なさそうに花を受け取り、しゃがんで優翔の頭を撫でた。
「ありがとう優翔。まさかおばちゃんが、本当のママより大事だと思ってくれるなんて」
「うんうん!僕にとって彩花おばちゃんこそ本当のママだよ」
陽平は愛莉の顔色を見て眉をひそめ、軽く叱った。
「優翔、お母さんが横にいるだろう?そんなこと言ったら傷つく」
だが優翔は唇を突き出し、声を張り上げた。
「やだ!僕は彩花おばちゃんをママにする!ママは絶対彩花おばちゃんがいい!」
その光景を見ても、愛莉はもう叱りつけはしなかった。
ただ静かに荷物を抱え、玄関へ足を運んだ。
前世でも今世でも、優翔は同じだった。
どれだけ尽くしても、「母」と認めるのはあの女だけ。
愛莉は乾いた笑みを浮かべた。こんな場面は、前の人生で百回以上も見せつけられてきたのだ。
ならば――陽平と優翔が心から望む通りに。
彼ら父子の世界から、完全に消えてやるのだ。
第2話
翌朝、愛莉はいつもより早く目を覚まし、念入りに身支度を整えてから慌ただしく階下へ降りてきた。
今日は彼女の親友である赤木紗英(あかぎ さえ)の結婚式の日だった。
この社交界で唯一、彼女に優しさを示してくれたのが紗英である。愛莉は、どうしてもその幸福の瞬間を見届けたかった。
玄関を出て車に乗ろうとした時、助手席に彩花が座っているのに気づいた。
愛莉の視線を察した陽平が説明する。
「彩花は国に戻ってきたばかりで知り合いも少ないんだ。だから少しずつ慣れてもらおうと思ってね」
愛莉の顔色は一瞬で硬直し、礼服の裾をぎゅっと握りしめる。
A市の人間なら誰でも知っている。彩花こそが陽平の本命であり、彼がずっと忘れられずにいる女性だということを。
その彩花を今日のような場に同伴させるなんて――それは正妻である愛莉の顔に泥を塗るも同然だった。
けれど愛莉は何も言わず、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
今日は紗英の大切な日。つまらないことで水を差したくはなかった。
……
午前十一時、数千万円はするマイバッハが披露宴会場の前に停まった。
陽平は赤い靴底の薄い革靴を履き、運転席から降りた。
彼は後部座席のドアを開け、少し身をかがめて、紳士的に彩花に手を差し出した。
彼は愛おしそうに微笑んだ。「お姫様、どうぞ」
彩花は頬を赤く染め、陽平の手を取る。二人は腕を組み、仲睦まじく会場へと歩いて行った。
それを見た優翔が慌ただしく割り込み、二人の手を引っ張った。
「パパ、優翔のこと忘れちゃだめだよ、僕もいるよ!」
そう言って、三人はいっしょに笑いながら会場に入っていった。車の後部座席にまだ愛莉が残っていることなど、誰も思い出しもしなかった。
愛莉の心には悲しみがこみ上げてきたが、すぐに気持ちを切り替えた。
二十一年間、こうして無視され続けてきた。もう慣れっこだ。
警備員が同情の色を浮かべる中、愛莉は細いヒールを鳴らし、ひとりで会場へ入った。
中に足を踏み入れた途端、ひそひそ声が耳に突き刺さる。
「えっ、今入ってきた人が本物の坂井夫人?じゃあさっき坂井社長と腕を組んでた女は?」
「ありゃ坂井社長の本命の女だよ。ずっと特別扱いしてるんだ」
「うわ、坂井夫人かわいそう……正妻を差し置いて堂々と本命の女を連れてくるなんて、完全に顔潰してるじゃん」
「何にも分かってないな。愛莉はただの玉の輿だよ。もし彼女の父親が死ななかったら、坂井家なんかに到底関われなかったはず」
「彼女は昔、海女だったんだよ。一日中、生臭い魚介類を相手にしているような女さ」
「ドレス着たくらいで本物のお嬢様のつもり?身体から抜けきらない魚臭さがバレバレじゃん!」
愛莉はその場に立ち尽くし、爪が掌に食い込む。耳を塞ぐように席へと進み腰を下ろした。
やがて挙式が始まり、新婦の紗英が純白のドレスに身を包み、愛しい人へ一歩一歩近づいて行く。
その眩い姿を見ているうちに、愛莉の目から涙が溢れた。
感動の涙ではない。思い出してしまったのだ、前世の自分を。
前世の愛莉は、陽平に一度も大切にされたことがなかった。
息子を産んだのに、陽平は彼女に一度も結婚式を挙げてくれなかった。
そして、結婚生活の終わりになって初めて、彼女が「坂井夫人」という立場すら偽りだったことを知ったのだ。
なんて滑稽なのだろう。彼女は自分の最も美しい青春を、虚しい結婚生活に捧げてしまったのだ。
愛莉が我に返った時、結婚式はすでに定番のブーケトスに移っていた。
ブーケは幸せのバトンだとよく言われる。ブーケを受け取った人は、たとえ独身でも幸せを見つけられる。
そのため、そこにいた独身者たちは、我先にとブーケトスの場所へ向かっていった。
その時、彩花は新婦が持つブーケを羨ましそうに見つめていた。彼女の声には感慨がこもっていた。
「みんなが幸せになっているのを見ると、なんだか心が寂しくなるわ。私も自分の幸せ、欲しいな」
陽平ははっとして、彩花をいとおしそうに見つめた。
そして、人々の視線の下、彼は席を立ち、ブーケトスの場所へ向かっていった。
同じテーブルにいた人々は、驚きで目を丸くし、愛莉を見る目が軽蔑から羨望に変わった。
「たしか、陽平さんって、こういうイベントのこと『くだらない』って言ってたはずよね?それが今、あなたのためにブーケトスに参加するなんて、全然彼の性格じゃないわ」
「やっぱり、陽平はあなたにぞっこんね」
「そうね、女性に興味がないと聞いてい坂井さんが、こんなにもロマンチックになるなんて!」
愛莉は何も言わず、ただ陽平の方を見ていた。
彼の目は、かつてないほど真剣で、意志が強かった。
こんな彼を見るのは、何年経っても初めてだった。
普段の彼は、数億円もの契約を処理する時でさえ、瞬きひとつしない。
そんなことを考えていると、群衆の中から歓声が上がった。陽平は手に入れたばかりのブーケを胸に抱きしめ、一歩ずつこのテーブルに近づいてきた。
隣にいた人が思わず彼女の腕を揺さぶった。「坂井夫人、本当にあなたは幸せ者ね。まるでドラマみたい!」
しかし、次の瞬間、陽平は愛莉を通り過ぎ、彩花の前でひざまずいた。そして、ブーケをそっと彼女に差し出した。
彼の声は震えていた。
「彩花、幸せは君の目の前にあるんだ。ただ君が気づくのを待っているだけだよ。
昔はブーケを受け取れば幸せになれるなんて信じている人は、馬鹿だと思っていた。でも、今、君のためなら、俺は一度信じてみよう」
彩花は目に涙を浮かべながらブーケを受け取り、泣きながら幸せそうに頷いた。
愛莉の隣にいた人は、気まずそうに頭をかいた。
「ごめんなさい、ブーケはあなたに……」
愛莉は彼女の言葉を遮り、自嘲的に笑った。
「謝らないで。とっくに分かってたから」
彩花がいる場所では、陽平の目には永遠に彼女しか映らない。
七年間も連れ添った妻のことなど、思い出すわけないだろう……
第3話
昼食会が始まると、宴席に集まった人々はグラスを手にし、次々と社交を始めた。
陽平と彩花の関係がただものではないと察した人々は、彩花に次々とグラスを差し出す。
「早見さんは本当に若くして有能ですね。世界中を魅了するチェロ演奏、ずっと拝見したいと思っていたんですが、まさか今日こうしてお会いできるとは」
「どうぞ、この一杯は私から。いつか生の演奏を聴ける日を楽しみにしています」
彩花は丁寧に微笑み、差し出された酒を受け取ろうとしたが、その瞬間、陽平が横から奪い取り、一気に飲み干した。
「彼女はお酒が飲めない。彼女への乾杯は全部俺が代わりに受ける」
陽平の一言に、彩花へ酒を勧めようとしていた人々は一斉に息を呑んだ。あの坂井家だ、誰がそんな相手に無理を通そうとするだろう。
だがすぐに獲物を変えたように、今度は愛莉へと視線が向けられた。
「坂井夫人、坂井社長がこれほど立派なのは、きっとあなたのような優秀な内助の功があってこそでしょう。よろしければ、この一杯、お付き合いいただけませんか?」
そう言うと、無意識に陽平の顔色をうかがった。だが今回は、陽平はまるで何も聞こえないかのように、席に座ったまま彩花の皿に料理を取り分けている。
その様子に男は胸をなで下ろした。
愛莉はその光景を見て、自嘲気味に唇を歪めた。見て見ぬふりをするだろうとは思っていたが、まさか表面すら取り繕おうともしないとは。
愛莉は咳払いすると、手を振って断った。
「すみません、私、アルコールアレルギーで飲めないんです」
グラスを差し出していた男は眉をひそめる。
「そんな言い訳しなくてもいいじゃないですか。たった一杯だけでいいんです、顔を立ててくださいよ」
愛莉は怯まずに答えた。
「本当に飲めないんです。申し訳ありません」
言い終える前に、陽平の顔に不快そうな色が走った。彼はグラスをゆっくりと回し、氷のような声を低く響かせる。
「外に出れば、坂井家を背負っているんだ」
「たかが一杯だ、飲めばいい。坂井家に恥をかかせるな」
愛莉は思わず反論しかけたが、そのとき優翔が声を張り上げた。
「ママ、ウソつくなよ!本当は飲みたくないだけでしょ?優翔だってそんなママは情けなく思うよ!」
その声は多くの客の耳に届き、周囲の視線が一斉に愛莉へ注がれた。宴席の空気すら変わり、彼女の周りに人垣ができる。
秩序を乱さぬため、愛莉は奥歯を噛みしめ、グラスを手にして一気に流し込んだ。
喉を焼くような刺激に、胃がひっくり返るような苦しみが襲う。わずか一杯で全身に真っ赤な発疹が広がり、息もまともにできなくなった。胸を押さえて喘ぐ姿に、周囲が騒然となる。
「坂井夫人!大丈夫ですか!
救急車を!早く!アルコールアレルギーは命に関わるぞ!」
その声にやっと陽平が顔を上げ、珍しく焦りの色を浮かべた。
「本当に飲むかよ、バカか?俺が病院に連れて行く」
彼女に手を伸ばしかけた瞬間、隣で彩花が足を押さえて涙声で叫ぶ。
「陽平、足を挫いちゃった……痛いの……!」
振り返った陽平の視線が迷う。だが愛莉の息はどんどん弱り、時間がないことは明白だった。
「彩花、俺は……」
陽平が言葉を紡ぎかけたとき、優翔が走り寄って彼の手を掴んだ。
「パパ!彩花おばちゃんを早く病院に!すごく痛がって声も出せないんだよ!」
その一言が引き金となり、陽平は決断を下す。彩花を抱き上げると、そのまま宴会場を飛び出していった。
残されたのは「救急車を呼んでやってくれ、ありがとう」という言葉だけ。
七年間連れ添った夫婦なのに、陽平には救急車を呼ぶ時間すら惜しかったのだ……
愛莉の呼吸は次第に弱くなり、ついに意識を失って倒れた。
目を開けると、そこは病院のベッド。傍らには誰一人いない。そばにいたのは、たまたま薬を替えに来た看護師だけだった。
看護師は目を開いた愛莉を見て、不思議そうに首をかしげる。
「お目覚めですか?ご家族は?こんなに長く意識がなかったのに、誰もあなたを見に来ませんでしたよ。病気だと知らないのでしょうか?」
ただの問いかけだったが、愛莉の胸はきりきりと痛んだ。陽平のためらわぬ後ろ姿と、彩花しか目に入らない優翔を思い出す。
愛莉は苦笑しながら答えた。
「家族はいません。唯一の親族は、もう亡くなりましたから」
看護師は慌てて口を押さえたが、謝る前に、廊下から大きな騒ぎ声が響いた。思わず愛莉は首を伸ばして外を窺う。
看護師は溜息まじりに呟いた。
「見なくても分かりますよ。きっと坂井家のあの方がまた大騒ぎしているんでしょう。
坂井家は確かに大財閥ですけど、やることが大げさすぎるんです。知らないかもしれないけど、昨日、あのチェリストの彩花さんが足をくじいたって言って、あなたとほぼ同じ時間に病院に来たんです。坂井社長はそれはもう心配しきりで、息子さんと一緒に一晩中病室に付きっきりでしたよ。
でもCTの結果、何の異常もなかったんです!それでも坂井社長は市内の専門家を全員病院に呼び出して、彼女を診察させたのよ。専門家たちも坂井家の権力を笠に着て、病気じゃないのに病気だと言わざるを得なかったんですよ」
愛莉は視線を落とし、苦笑を浮かべる。
「だって、彩花は坂井社長の本命の女ですもの。彼が心配するのも当然でしょう」
「本命の女って……聞いた話じゃ、もう結婚されてるんでしょ?結局は二股じゃないですか」
愛莉はそれ以上何も答えなかった。なぜなら、陽平との婚姻届すら偽物なのだ。立場上、むしろ自分の立場のほうが第三者に近い。
点滴が終わるのを見て、愛莉は一人で退院手続きを済ませた。
別荘に戻ると、陽平がソファに座って腕時計を見ていた。誰かを待っているようだった。
愛莉は何も言わずに二階へ上がろうとしたが、陽平に呼び止められた。
「昨日お前を病院に送らなかったのは……彩花が小さい頃から体が弱くて、処置が遅れると後遺症が残るかもしれないと思ったからだ」
愛莉は淡々と振り返りもせず答える。
「うん、分かってる。わざわざ説明しなくていいよ」
陽平は目の前の愛莉を見て、一瞬驚きを浮かべた。彼女が怒って大騒ぎするだろうと思っていたのに、こんな反応が返ってくるとは思わなかったのだ。
彼はしばらく沈黙した後、再び言った。
「ごめん。昨日、お前に酒を飲ませるべきじゃなかった。本当にアルコールアレルギーだとは知らなかったんだ。もし知っていたら、俺は……」
愛莉は彼の言葉を遮り、苦笑しながら口を開いた。
「あなたが知らなかったのは、私がアルコールアレルギーだということだけじゃないわ。私のこと、私のすべてを、あなたは何も知らない。
だって、あなたは私を愛していないから。だから、私を理解しようと思ったことなんてなかったんでしょう?だから、謝る必要はないわ。
元々、あなたは何も悪くない。ただ、私を愛していないだけだよ」
第4話
愛莉は言い終えると部屋に戻って眠りについた。陽平は愛莉の言葉に、ただ立ち尽くしていた。
こんな愛莉を見たのは初めてだった。彼女は嫁いで来てから、感情を一切表に出さなかった。
まるでロボットのようだと思っていたが、今日の彼女を見て、彼はようやく思い出した。彼女も人間で、感情があるのだと。
……
翌朝早く、陽平は市内で最大規模のオークションの招待状を受け取った。招待状を見た彩花は、興奮して彼の腕を組んだ。
「わあ、オークションだなんて、楽しそう!海外に行ってから、もうずっとオークションに行ってないわ」
優翔も声を上げた。
「パパ、今回のオークションには、僕と彩花おばちゃんを連れて行ってよ。ママは連れて行かないで。連れて行くと恥ずかしいよ。うちはあんなにお金持ちなのに、この前一緒に行った時、ママは入札さえしなかったんだ」
それを聞いた愛莉は、手のひらを強く握りしめた。彼女はただ、坂井家のお金を使いたくなかっただけなのに、息子にそんな風に思われているとは知らなかった。
普段は子どもを甘やかす陽平だが、今回はすぐには頷かなかった。昨日のアルコールアレルギーの件を思い出したのだ。
陽平はしばらくためらった後、愛莉に声をかけた。
「支度をしろ。一緒にオークションに行くぞ」
愛莉は断ろうとしたが、陽平はすでに車に乗り込んでいた。
愛莉は仕方なく服を着替え、オークション会場へ向かった。
オークション会場では、彩花が少しでも目を向けたものは、陽平がためらうことなく全部落札した。
たとえそれが億単位の価値があるものであっても、陽平は躊躇なく手を挙げた。
彩花は得意げに愛莉を見て、甘えた声で言った。
「木崎さん、こんなに長く見てるのに、一つも落札してないじゃない?お金が足りないって心配してるの?
心配しないで。もし気に入ったものがあったら、私に言ってね。陽平に頼んで入札してもらってあげるわ」
彩花の親切ぶった様子を見て、愛莉は淡々と言った。
「早見さん、お気遣いなく。坂井家の夫人を何年もやっているから、この程度のお金は持っているよ」
彩花の顔は青ざめた。
まもなくして、一つの出品物が運び込まれてきた。それは、とても古びた翡翠のペンダントで、苔の跡までついていた。
誰にも落札したいという気持ちを起こさせないような代物だった。
彩花はペンダントを嫌悪のまなざしで見ていた。長い間、誰も札を上げなかった。
そんな中、一度も札を上げなかった愛莉が、ためらうことなく手元の番号札を上げた。
それは、愛莉の父の形見だった。昔、家にお金がなかった頃、父が彼女の学費を捻出するために、この代々伝わる翡翠のペンダントを売ってしまったのだ。愛莉はお金持ちになってから買い戻そうと探していたが、ずっと見つからなかった。
まさか、何年も探し続けたペンダントがこのオークションに出てくるとは思いもしなかった。
「100万円、一回!」
「100万円、二回!」
「100万円、三回!」
競売人がハンマーを打ち下ろそうとしたその瞬間、彩花が急に口を開いた。
「待って!」
彩花は陽平に寄り添い、彼の腕を軽く揺すった。
「陽平、このペンダント、私がコレクションにしたいの」
それを聞いた陽平は、ためらうことなく番号札を高く掲げた。
そして、愛莉を冷たい目で見て言った。
「このペンダントは彩花が欲しがっている。競り合うのはやめろ」
しかし、愛莉は聞く耳を持たず、ただ頑なに手元の番号札を上げ続けた。
陽平は眉をひそめた。
「お前が欲しいものなら何でも買ってやる。どれだけ高価でもだ。だが、彩花が目をつけたものだけは、諦めろ」
優翔も腰に手を当てて言った。
「意地悪ママ、彩花おばちゃんが欲しいんだから、あげたらいいじゃん。たかがボロボロのペンダントでしょ?何がそんなに珍しいの?」
坂井家の父子が全員自分に味方しているのを見て、彩花はさらに得意になった。
「そうよ、木崎さん。それに、ペンダントは手入れが必要なのよ。あなたは自分のことすらまともに手入れできないんだから、ペンダントなんてなおさらでしょう?」
だが、愛莉は彼らの言葉に耳を傾けず、ペンダントを見つめながら、迷うことなく「青天井の値付け」のジェスチャーをした。
「青天井の値付けします」
「木崎さん、冗談はよして。青天井の値付けなんて、どこにそんなお金があるっていうの?いくら資産があっても、陽平に勝てるわけないでしょう?」
彩花は嘲笑的な口調だったが、その言葉が終わるやいなや、係員の声に彼女は驚いて固まった。
「こちらの女性、青天井の値付けされました。この翡翠のペンダント、落札成功です!」
「ありえない、間違ってるわ!彼女に青天井の値付けできるようなお金があるわけないじゃない!」
係員は彼女を不思議そうに見て、そのまま立ち去った。
愛莉は冷たく笑った。
「早見さん、言い忘れていたわ。私がこの家に嫁いだその日に、おじいさまが私に無制限に使えるブラックカードをくれたの。そのカードの権限は、陽平よりも上よ」
「だからね、私が一日でも坂井夫人である限り、あなたに勝ち目はないわ」
彩花は悔しさで指先が手のひらに食い込み、その目は隠せないほどに赤くなっていた。そして、陽平の顔は恐ろしいほどに曇っていた。
愛莉は丁寧にペンダントを片付け、オークション会場を後にしようとした。
しかし、優翔が駆け寄ってきて、彼女の足に抱きつき、何度も叩きつけた。
「意地悪ママ、彩花おばちゃんのものを奪っちゃだめ!早く彩花おばちゃんに返して!」
愛莉は狂ったように暴れる優翔を気にせず、目が赤くなった彩花をじっと見つめ、一言一言はっきりと言った。
「他人のものは、欲しがったりしない。でも、私のものは、誰にも奪わせない。
それに、早見さんが何か欲しいものがあるなら、自分で手に入れなさい。人は山に頼れば山は崩れ、人に頼れば人は離れていくものよ。
男に依存することで、一生安泰だなんて、本当にそう思っているの?」
第5話
愛莉はそう言い終えると、ためらうことなく優翔の手を振り払って、足早に去っていった。
陽平の顔は怒りで引きつっていたが、それでも彩花を慰めることを忘れなかった。
「彩花、辛い思いをさせて悪かったな。安心しろ、今日の仕打ちは必ず償わせる」
その言葉から三十分も経たないうちに、愛莉は何者かに拉致されていた。
頭に袋を被せられた愛莉は、鉄パイプを持った何者かに、力任せにその手を叩かれた。
一瞬にして、愛莉の柔らかい手のひらは裂け、血まみれになった。
愛莉の声には、隠しきれない恐怖がにじんでいた。
「あなたは誰?恨みもないのに、どうしてこんなことをするの?」
次の瞬間、ボイスチェンジャーを通した声が響いた。
「お前は怒らせちゃいけない相手を怒らせたからだ」
「入札するのが好きだったんだろ?手が使えなくなったら、どうやって入札するか見ものだな!」
その言葉を聞いて、愛莉が考える間もなく、冷たく骨まで突き刺さるような鉄パイプが愛莉の手に振り下ろされた。
一回、二回、三回……
九十九回叩かれた後、愛莉の手は完全に感覚を失っていた。地面には、彼女の手から流れた血が広がっていた。
彼女自身も、その血肉が飛び散った手を見る勇気がなかった。
愛莉が完全に意識を失う直前、彼女は不意に、その人物の薬指にはまったダイヤモンドの指輪を見た。
その指輪のデザインは、どこかで見たことがあるような、とても見覚えのあるものだった。
次の瞬間、彼女は自分の手にはまった指輪を無意識にちらりと見て、すべてを理解した。
なんと、彼女のてのひらを九十九回も叩きつけたのは、他でもない。
七年間連れ添った夫、陽平だった。
そして、彼が彼女にそんな酷い仕打ちをした理由は、ただ、彩花が欲しがっていた出品物を、彼女が落札したという、それだけのことに過ぎなかったのだ。
彼は彼女の手を使いものにならなくさせ、二度と入札できないようにしようとしたのだ。
愛莉の心には、限りない悲しみがこみ上げてきた。とめどなく涙が流れた。
陽平、私が最も後悔しているのは、あなたと結婚し、名ばかりの妻になったことよ!
愛莉が目を覚ますと、彼女は自分の部屋のベッドに横たわっていた。手は消毒され、包帯が巻かれていた。
意識が朦朧とする中、自分の髪が何度も引っ張られているのを感じた。
完全に目を覚ますと、優翔がハサミを持ち、彼女の髪を少しずつ切っているのが見えた!
優翔は、彼女が普段最も大切にしているのが自分の髪であることをよく知っていた。
彼女は信じられない思いで優翔を突き飛ばした。その目には恐怖が満ちていた。
「優翔、どうしてこんなことをするの!誰が教えたの?!」
優翔は愛莉を指差して叫んだ。
「ママが彩花おばちゃんのものを奪ったんだから、優翔はママの一番大切なものを奪うんだ!
目には目を、歯には歯を!」
第6話
愛莉はその場に凍りついた。優翔がこんなことをするなんて、こんな言葉を口にするなんて思いもしなかった。
たった一回、彼女が彩花の欲しがっていたものを落札しただけで、父と子が揃って彼女に報復してくるなんて。
かつては何よりも大事に思っていた人たちが、迷いなく次々と刃を突きつけてくる。
愛莉は自嘲気味に笑い声を漏らし、涙で赤くなった目で優翔を掴んだ。
「優翔、どうしてママにこんなひどいことをするの?今日はちゃんと教えてあげないといけないわね!」
そう言って愛莉が手を振り上げた瞬間、彩花が慌てて飛び込んできた。
「木崎さん、何をしているの?どんなことがあっても子どもを叩いちゃいけないよ」
だが今度の愛莉は昔のように従順ではなく、冷たく言い放った。
「どいてください。
これは私の家のことだ。早見さん、これはあなたが口を出すことなの?」
彩花が返す暇もなく、背後から陽平の声が飛んできた。
「愛莉、何してるんだ?
怒りがあるなら俺にぶつけろ。彩花や子どもに八つ当たりをするな」
愛莉は震える体で叫んだ。
「あなた、自分の息子が何をしたか知ってるの?!
私の髪をめちゃくちゃに切ったのよ!ただ私が彩花の欲しがるものを手に入れただけで!」
「それでも子どもに手を上げていい理由にはならない!」
愛莉は鼻で笑い、皮肉を込めて言った。
「さすが親子、そっくりね」
陽平の眉がピクリと動き、瞳が見開かれた。
「今……なんて言った?」
彼は愛莉が何かに気づいたのだと思った。けれど愛莉はただ彼を冷ややかに見つめるだけで、一言も発さなかった。
そんな目を、愛莉が彼に向けたことなど一度もなかった。
そこには温かさも、信頼もなく、まるで底知れない死の水面みたいに冷たいだけだった。
陽平は弁解しようとしたが、すぐに優翔の泣き叫ぶ声にそらされた。
「ママなんていらない!僕は彩花おばちゃんにママになってほしい!こんな悪いママなんていらない!」
愛莉は冷たい笑みを浮かべて言った。
「いいよ、あんたの望み通りよ。今日から私はもうあんたのママじゃない」
その言葉に、陽平はただただ呆然と愛莉を見返した。
誰だって知っている。この家で一番子どもを愛しているのは愛莉だということを。
普段だって、優翔の服まで自分で手洗いしてきたのに……そんな彼女が「もうママじゃない」なんて言えるはずがない。
子どもを命よりも大事にしてきた人間が……
だがその瞬間、陽平は気づいてしまった。愛莉の常識外れの行動は……全部芝居だったんだ、と。
目を覚ました彼は、冷たい声で愛莉を指差した。
「愛莉、脅かしてるつもりか。この家がお前なしじゃ回らないとでも思ってるのか?」
愛莉は自嘲するように唇をつり上げた。
「そうよ、私はいてもいなくても同じ。なら、この家の女主人を取り替えればいいじゃない」
そう告げると、彼女は振り返らずに別荘を出て行った。茫然と立ち尽くす陽平になど目もくれずに。
外に出た愛莉はすぐにタクシーを捕まえ、美容室へ向かった。
鏡に映る、無残に切り裂かれた髪を見つめ、肩のあたりを指し示して口を開く。
「肩までのショートにしてください、お願いします」
この長い髪は、七年間伸ばしてきたものだ。今、切るべき時が来た。
この関係と同じだ。汚れたものが入り込んだのなら、もういらない。
第7話
愛莉が髪を切り終えて別荘に戻ると、彩花が目を真っ赤にして、陽平の腕の中で泣いているのを見つけた。
「陽平、あのペアリング、私が十八歳の誕生日にあなたがくれた成人祝いなのに、ずっと身につけてきたのに、、なくなってしまったの。
洗面台に置いたはずなのに、急に消えちゃって……」
陽平の目には、愛莉が見たこともない優しさが宿っていた。
「彩花、なくしたならまた買ってあげるから、悲しまないで」
「嫌よ、あの指輪がいいの。私たちの大切な思い出の品なのよ、私にとっては特別な意味があるの」
それを聞いた愛莉は立ち止まらず、まっすぐ二階へ上がった。
しかし、彩花が彼女を呼び止めた。
「木崎さん、私のペアリングを見なかった?もしかして、うっかり間違えて持って行っちゃったとか?」
愛莉は冷たく答えた。「見てないよ」
彩花は立ち上がって愛莉の行く手を阻んだ。
「それなら、木崎さんのお部屋を探させてもらえますか?」
愛莉は冷笑して彩花を見た。
「早見さん、私が盗んだって思ってる?
悪いけど、中古品には興味がないの」
それを聞いた彩花の顔色は、一瞬にして悪くなった。
陽平は眉をひそめた。
「お前が取ってないなら、なぜ彩花に探させないんだ?」
「私の部屋はプライベートな空間だ。私には権利が……」
愛莉が言い終える前に、彩花は彼女の手を払い、部屋に入っていった。
彼女は愛莉の枕をひっくり返し、ちょっと探しただけで、枕の下からダイヤモンドの指輪を見つけ出した。
彩花は指輪を手に取り、怒った様子で愛莉を見た。
「木崎さん、これが興味がないってこと?」
愛莉は潔白だったので、毅然として言った。
「これは私が取ったんじゃない。どうしてここにあるかも分からない。信じられないなら監視カメラを調べればいいわ。誰が入ったのかはすぐに分かるから」
彩花は愛莉が反論するとは予想していなかった。彼女は目を赤くして陽平の元へ走り寄り、非難するように言った。
「陽平!私は木崎さんのために顔を立てようと思ったのに、あまりにも酷すぎる!私がわざわざ罠を仕掛けたとでも言うの?」
陽平は少し目に涙を浮かべた愛莉を見て、表情をためらわせた。しかし、次の瞬間、優翔がドアを開けて入ってきて、愛莉を指差して大声で言った。
「パパ、僕、この目で見たんだ!指輪はママが盗んだんだよ!
ママは、もしパパに言ったら、僕を追い出して孤児にするって言ったんだ!」
優翔の言葉を聞いて、愛莉の声は信じられないほどの震えを帯びた。
「優翔、私はあの指輪なんて一度も見たことがないわ!どうして嘘をつくの!
それに、いつ私がそんなことを言ったの……」
愛莉が言い終える前に、陽平が厳しい声で遮った。
「もういい!
もうとっくにバレているのに、まだ嘘をつく気か!優翔は小さな子どもだ、嘘をつくわけないだろう?」
優翔は彩花の陰に縮こまり、頷いた。
「そうだよ、そうだよ!ママは彩花おばちゃんに嫉妬してるんだ。だから、彩花おばちゃんのものを全部奪いたかったんだ!」
彩花もまた、悲しそうに涙を流した。
「木崎さん、まさかあなたが私と陽平の関係を、そんなに気にしているとは思わなかったわ。
私と陽平はもう過去のことなのに……どうして執着するの?嫉妬で盗みまでして」
二人の言葉に重なって、愛莉は反論する気力を完全に失った。
我が子である優翔――心から愛してきた存在が、他の女のために平気で嘘をでっち上げ、自分を貶めようとしている。
優翔を見つめるその瞳には、失望と深い寒さしか残らなかった。
愛莉が黙ったままでいると、陽平は怒りを込めて指を差した。
「まさかここまで嫉妬心が強いとはな。彩花の指輪を盗んだだけじゃなく、罪を覆い隠すために優翔にそんな酷いことを言うなんて……母親の資格なんてあると思ってるのか!」
そう言い終えると、彼は執事に命じた。
「来い。夫人を地下室に閉じ込めろ。三日間は出すな。その間、食べ物は残飯だけでいい。
もし誰かが夫人を助けようとしたら、その場で坂井家から追い出す!」
背を向ける陽平。その冷たい背中は、愛莉の絶望に満ちた視線を見ようともしなかった。
こうして愛莉は地下室に閉じ込められた。
夜、身を切るような寒さの中、愛莉は毛布一枚もなく、隅っこで身を縮めて暖を取るしかなかった。
食事として持ち込まれたのは、いつも犬にすら与えないような腐った残飯だった。
愛莉はそれを一口も口にせず、全て床に捨てた。
過去に犬に噛まれた傷が原因で、彼女には犬への恐怖が残っている。
地下室には時々、猛犬の唸る声が響き、愛莉の心をさらに怯えさせた。
そして三日後。ようやく解放されたとき、愛莉の顔は青ざめ、衣服は汚れ、目は血走り、痩せ細った姿はまるで別人だった。
執事は同情を込め、言った。
「奥様、旦那様と坊ちゃんと早見さんは、エルメスにお買い物に行かれました。何か食べたいものがあれば、使用人に作らせますよ」
しかし愛莉は首を横に振った。
「結構です」
つい先ほど、彼女の元に除籍完了のショートメッセージが届いたのだ。彼女はついにこの家を出られる。
何の温もりもない、傷だらけの家を。
彼女は荷物をまとめると、事前に用意していた親権放棄の同意書を取り出し、迷うことなく自分の名前を署名した。
署名後、彼女は同意書をリビングのテーブルに置き、自分の指から結婚指輪を外して、同意書の上に置いた。
これらを終えると、愛莉は二度と振り返ることなく、坂井家の別荘を後にした。
今日から、愛莉はもう陽平の妻でも、優翔の母親でもない。
彼女は、ただの自分になるのだ。