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その後、残されたのは沈黙だけ
婚姻届を提出したその日―― 久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響い...
Chương (1)
第1章
婚姻届を提出したその日――
久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。
通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。
電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。
「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」
澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。
三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。
差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。
「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」
その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ落ちた。
重度の鬱に蝕まれ、幾度も死を望むようになった彼女は、ある朝、再び手首を切って意識を失いかける。
――そのとき、テレビの画面にふいに映ったのは、見間違えるはずのない姿。
市民祭りの「百組カップルイベント」を報じるニュースの中、群衆を映すカメラの先に――颯真がいた。
彼は、隣に立つ女の髪を優しく撫でつけていた。
第1話
婚姻届を提出したその日――
久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。
通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。
電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。
「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」
澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。
三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。
差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。
「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」
鷲尾剛司(わしお たけし)隊長の声は、押し殺すように重かった。
通知書に貼られた写真の中で、颯真はまだ少年のように笑っていた。
その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ去った。
重度の鬱は蔦のように絡みつき、昼は目を開ける力すらなく、夜になれば悪夢に引きずり込まれる。
夢の中、全身血まみれの颯真が手を差し伸べる。
「澪奈……もう、待つな」
ある朝、澪奈はソファに横たわり、再び手首に傷を刻んだ。
血の気が引く意識の中、テレビの画面に映ったのは――見間違えるはずのない人影。
彼女は目を大きく見開き、息をすることさえ忘れていた。
市民祭り「百組カップルイベント」のニュース。
群衆の片隅を映すカメラの先に、白いシャツを着た颯真がいた。
彼は、白いワンピースの少女の裾についた落ち葉を、穏やかに払い落としていた。
刃物が「カラン」と床に落ちる。
澪奈は血の滴る手首も構わず、よろめきながら外へ飛び出し、警察署へ駆け込んだ。
「彼……生きてるんですよね?」
鷲尾の袖を掴み、震える声で叫ぶ。
「見たんです!颯真を!あの女と一緒に!」
鷲尾は目を逸らし、深く息を吐いた。
「颯真は確かに生きている。任務中に敵に捕らわれ、救出されたときは重傷だった。目を覚ますなり、警察を辞めると願い出て……お前には黙っておけと。理由は……言わなかった」
澪奈は胃の奥がひっくり返るような吐き気に襲われ、署を飛び出した。
気づけば、両親の墓前に立っていた。
墓碑に刻まれた笑顔を見つめ、長く堪えてきた嗚咽が一気にこぼれ出る。
胸元のペアネックレスが外れ、パリンと石段に落ち、真っ二つに砕けた。
中からこぼれたのは、一枚の写真。
十八歳の夏、皇都大学の合格通知を掲げ、澪奈と颯真が笑い合う姿だった。
その記憶は、容赦なく蘇る。
あの年、颯真の両親は麻薬捜査官だった。
身元が漏れ、報復に遭い、祝賀の席へ向かう途中に待ち伏せされ、澪奈の両親も共に命を落とした。
犯人の写真が報道された瞬間、颯真は涙で顔を歪め、その場で皇都大学の合格通知を引き裂いた。
「もう一度受験して警察官になる。必ず俺の手で奴らを捕まえる」
その日から、颯真は澪奈を命のように守る存在となった。
生理痛で返信できなかったとき、彼は夜通し飛行機で灯川市から皇都まで駆けつけ、学寮の下で真っ赤な目をして立ち尽くしていた。
「澪奈……俺にはもう、お前しかいない」
だが今、彼は生きていて、仇の娘の傍らにいる。
「殉職」という嘘で澪奈を三年も地獄に縛りつけて。
澪奈は手首に重なる傷跡を見下ろし、笑みをこぼす。
涙は止まらないまま。
――黒瀬颯真。そんな別れを望むなら、私たちはもう、完全に終わりだ。
彼女は携帯を取り出し、海外へ電話をかけた。
父から存在だけを聞かされていた叔父、桐原仁嵩(きりはら たかし)へ。
「叔父さん……私、そちらへ行きたい。ビザを手配してくれる?それと……戸籍も抹消したい」
それは三度目の連絡だった。
一度目は大学一年のとき、仁嵩が迎えを提案した。
二度目は颯真が「殉職」した年、「海外でやり直せる」と誘われた。
どちらも澪奈は颯真のために拒んだ。
――だが、もうここにはいたくない。
「分かった。荷物をまとめておけ。一週間以内に迎えに行く」
電話を切った直後、スマホに見慣れた番号が表示された。
黒瀬颯真――
澪奈の心臓は強く跳ねた。
彼は生きていて、番号さえ変えていなかった。
繋がらなかったのは――彼が応じなかった、それだけのこと。
彼女は目を真っ赤にして通話ボタンを押した。受話器の向こうは、ただ静寂だけが広がっていた。
数秒後、あちらからひとつため息が漏れ、かつてと変わらぬ声が響いた――
「澪奈。会おう」
彼女が拒もうとした矢先、相手が先に口を開いた。
久しく聞かなかった弱気な響きを帯びた声で――
「澪奈……会いたかった」
その一言は針のように、彼女の張り巡らせた仮面をすべて突き破った。
記憶の中――
颯真が初めて任務で怪我を負ったとき、澪奈は拗ねて口をきかなかった。
すると彼は彼女を抱きしめ、声を和らげて宥めた。
「澪奈、怒るなよ。もう二度とお前を困らせたりしないから」
澪奈は唇を血がにじむほど噛みしめ、結局は小さく「うん」と応じた。
「澪奈、今どこにいる?迎えに行く」
彼女は墓碑に刻まれた両親の笑顔を見つめ、かすかに声を落とした。
「両親のお墓にいるの」
第2話
どれほど待ったのか分からない。背後からクラクションが鳴り響いた。
澪奈は深く息を吸い、ゆっくりと振り返った。だが、最初に目に入ったのは颯真の隣に立つ女だった。
白いワンピースに長い髪――ニュースで見た、あの女だ。
拳が思わず強く握りしめられ、胸の奥が抑えきれずに痛んだ。
颯真は彼女の前に歩み寄り、抱きしめようと手を伸ばしたが、澪奈は身をかわして避けた。
一瞬だけ彼の顔がこわばり、すぐに隣の女を指さし、紹介する。
「澪奈、こちらは早瀬美桜(はやせ みお)。お前に話があるそうだ」
美桜は目を赤く潤ませて前に出た。
「久遠さん……何を言っても許されないのは分かっています。でも、それでも……あなたとご両親に謝りたいんです」
澪奈の表情はみるみる沈み込み、目は血の涙をたたえたように真っ赤に染まる。声には鋭い怒気がにじんだ。
「出ていけ!ここは両親の墓よ、汚さないで!」
美桜は声に押されて一歩退き、涙をさらにこぼす。
颯真が口を開こうとしたが、美桜が遮った。
「颯真さん、少し席を外して。私、久遠さんと二人で話したいの」
颯真の目元が途端に柔らかくなり、うなずいた。
「分かった。何かあれば呼んで」
澪奈の心臓は握り潰されるように痛み、視界が一瞬暗くなる。
颯真が去ると、美桜の涙は跡形もなく消え、眼差しは氷のように冷たく変わった。
「思ったより普通ね。颯真がかつて好きだった相手って……ただのあなた?」
嘲るように舌打ちし、腕を組んで続ける。
「でも今、彼が好きなのは私。あなたたちの仇の娘なのよ。
どう?久遠さん、驚いた?」
パシンッ!
鋭い平手の音が空気を裂き、美桜の言葉を遮った。
澪奈の手は宙に残り、怒りに全身が震える。
「颯真が汚らわしいなら、あんたも同じよ!いつか必ず報いを受ける!」
美桜は顔を押さえて見上げ、怨嗟を込めた視線を向けた。
反撃してくるかと思ったその瞬間、彼女は地面に膝をつき、墓碑に頭を打ち付けはじめた。
「久遠さん、私が悪かった!償います、死んでもかまわない!どうか許してください!」
背後で物音がし、颯真が駆け寄ってきた。
美桜の額から血が滲むのを見た瞬間、彼の表情は凍りつき、澪奈を睨みつける視線は獣のように鋭くなった。
「澪奈!あのとき美桜は国外にいたんだ!両親が何をしたかなんて知るはずがない!いい加減にしろ!」
「いい加減……?」
澪奈の視界が真っ赤に染まる。
殺人犯の娘はのうのうと生きているのに、自分は両親を失い、彼の「殉職」のせいで命まで落としかけた。
なのに彼の口から出てきたのは、軽々しい「いい加減にしろ」の一言だけ――
これが、本当に自分の知っている颯真なのか?
美桜がまた嗚咽し、儚げに言う。
「全部私のせいです。久遠さん、罰を受けます。どうか――」
「美桜!」
颯真は眉をひそめ、優しく涙を拭う。
「何度言わせるんだ。お前のせいじゃない。むしろあのとき、お前が俺の命を救った。それで十分だ」
美桜は嗚咽を漏らしながら首を振り、わざと語気を強めた。
「でも……久遠さんには……どう償えばいいの?」
澪奈は二人の掛け合いを見つめ、胸の奥で燃え上がった怒りがとうとう爆ぜた。
彼女は一歩前に出て、声を氷のように冷たくして言った。
「償いたいなら、ここで跪いて、両親の墓に百回頭を打ちつけなさい!」
「澪奈、正気か!?」
颯真の怒号が飛ぶ。苛立ちが露わになっていた。
澪奈は聞く耳を持たず、美桜の髪を掴み、無理やり墓碑に叩きつけた。
ドンッ!
美桜は悲鳴をあげ、涙が途切れることなく頬を伝った。
けれど澪奈は手を緩めない。髪を掴んだ指先に力を込め、容赦なく墓碑へと頭を叩きつける。
押し殺してきた年月の怨嗟と痛みを、ぶつけるたびに吐き出すように。
「やめろ!」
颯真はついに堪え切れず、腕を振り上げ、澪奈を激しく突き飛ばした。
無防備だった彼女の身体は後ろへと倒れ、後頭部を「ゴンッ」と墓碑の角にぶつける。
次の瞬間、ぬるりとした温かさが首筋を伝って流れ落ちた。
思わず手を当てると、掌いっぱいに血が広がっている。
颯真の視界の端にその赤が映り、彼は一瞬だけ動きを止めた。
眼差しにかすかな動揺が走ったが、すぐさま美桜のもとへ駆け寄り、彼女を抱き起こした。
額を血に染め、傷口が痛々しく崩れている美桜の姿に、彼の目は張り裂けそうなほどの哀しみに覆われた。
「美桜……痛くないか?」
「大丈夫……まだ謝れる……」
弱々しく言いながらも、彼に身を寄せる美桜。
「病院に行くぞ」
颯真は彼女を抱き上げ、そのまま歩き出した。
澪奈のそばを通り過ぎても、視線を向けただけで足を止めることはなかった。
背を向けて遠ざかる二人の姿を見つめ、澪奈の目からは堪えきれず涙がこぼれた。
唇を噛みしめ、喉の奥の嗚咽を無理やり飲み込む。墓碑に手をつき、立ち上がろうとしたとき――後頭部に激しい痛みが走った。
視界が真っ暗になり、身体は思うように動かず、そのまま崩れ落ちていった。
意識が途切れる刹那、澪奈は颯真が息を荒げ、顔を歪めながら駆け寄ってくるのを見たような気がした。
けれど……どうして彼なのだろう?
もう、あの夜通し街を越えて自分のもとへ駆けつけ、「俺にはもう、お前しかいない」と言ってくれた颯真ではないはずなのに。
そう思った瞬間、澪奈の意識は深い闇へと沈んでいった。
第3話
澪奈が目を覚ましたとき、病室には誰もいなかった。
後頭部の傷は手当てされていたが、痛みは骨の奥まで沁みるように鋭く残っている。
「動かないでください!」
看護師が治療用のトレーを抱えて入ってきた。
「まずは包帯を替えますね」
澪奈はうなずき、ふと尋ねた。
「私、どうやって病院に?」
「墓地の管理人さんが救急車を呼んでくれましたのよ」
胸の奥が鋭く突かれるように痛んだが、澪奈は不思議と当然だと思った。
――彼が自分を気にかけるはずなどないのだから。
包帯を替え終えた看護師は「しばらく安静に」と言い残し、部屋を出ていった。
澪奈はベッドに横たわったが、眠気は一向に訪れない。
そのとき、ドアの外から看護師たちの世間話が聞こえてきた。
「早瀬美桜さんって幸せよね。あんなに格好よくて優しい彼氏、彼女のために心配して……」
「本当よ、あんなふうに気遣われたら羨ましいわ」
澪奈はシーツを握りしめ、無意識に過去を思い出した。
自分が病気になったとき、颯真は眉をひそめてこう言った。
「澪奈、代わってやれるものなら代わってやりたい」
翌日、彼は自分で冷水に浸かり、発熱して「お前と一緒に感じたかった」と笑ってみせた。
その優しさは、もう自分には向けられない――
うとうとしたまま澪奈は再び眠りに落ちた。
再び目を開けると、颯真がベッドの脇に座っていた。
その目は冷たく澪奈を見下ろし、低く告げる。
「澪奈、美桜に謝ってくれ」
「何だって?」
聞き間違いかと思い、澪奈は冷ややかに笑った。
「殺人犯の娘に、私が謝れって?」
「彼女は殺人犯じゃない!」
颯真の眉目は険しい。
「両親が何をしていたか、彼女は知らなかった。無関係なんだ。
俺が捕まったとき、命の危険から救い出してくれたのは彼女だ。看病して、少しずつ逃げ道を作ってくれた」
語るうちに、彼の瞳には懐かしさが滲んでいた。
胸の奥が針で無数に刺されるような痛みに襲われ、澪奈は目の縁を赤くしながら震える声で言った。
「どうして彼女は何事もなく生きていて、私は抜け殻みたいに生きてるの?
あなたのために、私は死にかけたのよ!」
だが颯真の顔色は変わらない。まるで他人事のように淡々と告げた。
「美桜の両親はもう死んだ。仇は討たれた。もう終わりにしよう」
「終われない!」
澪奈は荒い息を吐き、決然と言い放つ。
「颯真、私が生きている限り、絶対に早瀬美桜を許さない!」
言い終えた瞬間、背後で「ドンッ」という音が響いた。
颯真が振り返ると、美桜が真っ赤な目でこちらを一瞥し、走り去っていく。
「美桜!」
颯真は顔色を変え、慌てて追いかけた。去り際に振り返り、鋭い声を残す。
「久遠澪奈、美桜はずっと罪悪感を抱いてる。彼女に何かあったら、絶対に許さないからな!」
澪奈の心臓がひゅっと縮み、彼女はふらつく足取りで後を追った。
屋上では、美桜が顔面蒼白のまま細い身体を柵の外に預け、足先はほとんど宙に浮いている。風が吹けば、そのまま落ちそうだった。
「美桜、やめろ!怖がらせないでくれ!」
颯真の声は強張り、二歩踏み出したところで美桜が叫ぶ。
「来ないで!もう一歩でも動いたら、今すぐ飛び降りる!」
「わ、分かった、動かない……」
颯真は立ち止まり、目にはあふれそうな焦りと懇願の色を宿す。
「美桜、降りてくれ。頼む、お願いだから……お前に何かあったら、俺も生きていけない」
屋上へ駆け込んだ澪奈は、その言葉を聞いた途端、足がすくみ、全身の血が一気に引いていった。
美桜は涙をこぼし、嗚咽混じりに言った。
「颯真……久遠さんの言うとおり。もし両親があんなことしなければ、あなたたちは親を失わなかった。あなたと彼女がこんなふうになることもなかった……全部、私のせいよ」
「とにかく降りて、話そう」
颯真は手を伸ばし、目を赤くして懇願する。
「お願いだ、美桜……」
美桜は涙に濡れた顔を澪奈に向けた。
「久遠さん、ごめんなさい。私の命で償います」
そう言いながらも、一歩も動かない。
澪奈は冷ややかに笑い、一歩ずつ近づいていく。
「そんなに罪悪感があるなら、飛べばいいじゃない。飛べないくせに、ここで哀れを装ってるだけでしょ」
「黙れ!」
颯真が彼女の手首をつかみ、次の瞬間、澪奈の頬に平手打ちが飛んだ。
パシンッ!という音が響き、澪奈の頭が横に弾かれる。頬が焼けつくように痛い。
「澪奈、いい加減にしろ!死にたいのか!」
彼の声は氷のように冷たかった。
澪奈は目を赤くし、颯真を突き飛ばすと、狂ったように美桜に駆け寄った。
「死ぬ勇気がないんでしょ?私が一緒に地獄に落ちてあげる!」
そのまま美桜に飛びかかり、二人は糸の切れた凧のように柵の外へと滑り落ちていく。
「澪奈!」
颯真の絶叫が背後に響いた。
澪奈は目を開け、颯真が飛び込んでくるのを見た。
彼は美桜を抱きかかえ、庇うようにその体を包んでいる。
澪奈はかすかに笑い、自嘲するように目を閉じた。死を受け入れるように。
ドンッ!
大きな衝撃音のあと、頭がぼうっとする。だが痛みはない。
足元にはエアマット。
サイレンが鳴り、医療スタッフと消防隊員が駆け寄ってくる。
澪奈は担架に乗せられ、意識が遠のく中で最後に見た。
颯真が美桜を抱き、心配そうに彼女のそばを離れず、別の救急車に乗り込む姿を――
第4話
澪奈が目を覚ましたとき、スマホの画面には叔父・仁嵩から届いたビザの写真が表示されていた。
添えられたメッセージには、こうあった。
【新しいパスポートを手に入れるには、まだ数日かかる。待っていなさい】
返信しようとした瞬間、病室の扉が勢いよく開かれた。
颯真が携帯を握りしめ、冷たい眼差しで立っていた。その瞳には、澪奈には理解できない色が宿っている。
「戸籍を抹消して、何をするつもりだ」
澪奈は一瞬言葉を失う。
昔、彼は「お前は大事なことを見落とすから」と言って、通知を自分の番号に転送していた。
まさか、こんなやり取りまで彼の携帯に届くとは。
唇を引き上げ、自嘲気味に言う。
「まだ通知が届くんだ?」
彼が「殉職」したと聞かされたあの日から、澪奈は何度もメッセージを送り、何度も電話をかけた。
奇跡を祈り続けたのに、返ってきたのは沈黙だけ。
その記憶が胸を抉り、痛みが甦る。
颯真はわずかに顔をこわばらせたが、すぐに平静を装い、視線を逸らした。
「抹消でも何でもいい。新しい身分で、生き直せ」
そう言い残し、踵を返す。
だが扉の前で足を止め、振り返った彼の声には鋭い警告が混じっていた。
「美桜は一度、死んだも同然の経験をした。二度と彼女の前に現れるな。刺激するな」
去っていく背中を見つめながら、澪奈は笑い出した。
笑いながら、涙が溢れて止まらなかった。
どれほど時間が経ったのか。
ベッドから立ち上がり、出口に向かったところで、美桜と鉢合わせた。
彼女の姿は病人らしさなど微塵もなく、髪の毛一本乱れていない。
その視線は毒を含み、澪奈を射抜いた。
「久遠澪奈……まさか本当に飛び降りるなんて、度胸があるわね」
澪奈は唇を歪め、冷たく答える。
「人を殺したなら、命で償うのが道理。惜しむらくは……下にエアマットがあったせいで、あんたが死ななかったこと」
美桜は鼻で笑い、声に嘲りを滲ませる。
「だから何?私が死んでも、あんたの愛した男は私と一緒に逝く。結局、取り残されるのはあんただけ。孤独な亡霊としてね」
「孤独な亡霊でも、殺人犯よりはましよ!」
澪奈は指先を震わせ、怒声を放った。
パシン!
頬に衝撃。美桜は突然、澪奈の頬を打ち据え、顔をぐっと近づけた。
そして、毒を含んだ声を囁く。
「殺人犯だろうと何だろうと、私は平然と生きてる。金も家もあるし……あなたが渇望する男も、喜んで私にひれ伏すわ」
屈辱と怒りが一気に胸に込み上げ、澪奈は髪を掴み返そうとした。
だがその手首を、強い力が掴んだ。
「久遠澪奈……まだ足りないのか!」
颯真が腕を振り払い、澪奈の身体は壁に叩きつけられる。
冷たい壁に背を打ちつけ、息が詰まった。
美桜はすぐさま颯真の胸に身を寄せ、震える声で泣きつく。
「颯真……ただ、久遠さんの様子を見に来ただけなのに……」
颯真の視線は氷のように冷たく、澪奈に突き刺さる。
「お前には忠告したはずだ……彼女を困らせるな。
彼女はすでに命を差し出した。その上で、まだ何を望む」
「私は何も――!」
「もういい!」颯真の声は苛立ちに満ちていた。
「美桜と三年を過ごしてきた俺には分かる。彼女がどういう人間かを。それに比べてお前は……幼い頃から我儘で、許すことも知らない。鬱病患者みたいに感情を抑えられない」
言い捨てると、颯真は美桜を抱き上げ、そのまま病室を出ていった。
その場に取り残された澪奈の耳に、「鬱病」という言葉が木霊する。
胸の奥から笑いがこみ上げ、同時に涙が溢れ出した。
どうして――彼に、そんな言葉で罵られなければならないのだろう。
颯真に、そんな資格があるのだろうか。
第5話
その夜、澪奈は住まいに戻るや否や、高熱にうなされた。
喉は炎に焼かれるように痛み、寝返りを打ちながら手探りで枕元のコップを探す。
だが指先が弾き飛ばし、床に「ガシャリ」と割れた音が響いた。
必死に身を起こそうとしたそのとき――骨ばった大きな手が、温かな水を差し出した。
顔を上げた澪奈は凍りつく。
「颯真?」
ここにいるはずがない彼の姿。
現実か幻か、判別がつかなくなる。
ベッドの縁に腰掛けた颯真は、かつてと変わらぬ柔らかさで彼女の髪を撫で、囁いた。
「澪奈……これからは、自分でちゃんと生きていけるようにしてくれ」
その声が、張り詰めていた糸を断ち切る。
澪奈の目から涙が一気に溢れ出した。
積もり積もった恨みと哀しみが爆発するように、拳で彼の胸を叩く。
「いらないって言ったくせに、なぜ戻ってくるの!あんたが死んだと聞いて、私は気が狂いそうだったのよ!
鬱になったのよ!なのに……あんな言葉で私を罵って!
颯真、私はあんたが憎い、大嫌い!もう二度と愛さない!出ていって!」
颯真の目が赤く滲む。
彼はされるがままに彼女を抱き締め、繰り返す。
「澪奈……すまない、すまない……」
涙に濡れ、体力を使い果たした澪奈は、嗚咽しながら彼の胸に崩れ落ちる。
彼は強く抱き寄せ、熱を帯びた彼女の額に指先を触れさせる。
その声はかすかに掠れていた。
「澪奈……生きろ。ちゃんと生きるんだ。
生きろ……」
澪奈ははっと目を開けた。
――そこに誰もいない。
床には砕けたガラス片だけが残り、静まり返った部屋。
自嘲の笑みが浮かぶ。
立ち上がろうとした瞬間、寝室の扉が乱暴に開かれた。
怒号が叩きつけられる。
「久遠澪奈!美桜に何をした!」
颯真が立っていた。怒りに燃える眼差し。
澪奈は一瞬呆然とし、次いで枕を掴んで投げつけた。
「出て行け!」
身をかわした颯真は彼女の顎を強く掴み、低く唸る。
「昨夜、美桜は交通事故に遭った。まだ生死の境をさまよっている……お前の仕業か!」
顎を押さえつけられ、涙が勝手に零れ落ちる。
だが言葉を挟む間もなく、彼の携帯が鳴り響いた。
受け取った報告に表情を変えた颯真は、澪奈の手首を乱暴に掴み、引きずるように病院へ向かった。
採血室。
彼は袖をまくり、椅子に座る。
「俺はO型だ。まずは俺から抜け。不足なら彼女からだ」
澪奈の体が硬直する。逃げようとしたが、手首は鋼のように掴まれた。
「お前がやったことだ。責任を取れ」
「違う!私じゃない!」
澪奈は必死に叫ぶ。だが颯真は耳を貸さない。
血液バッグが膨らんでいく。
看護師が警告する。
「もう800mlです。これ以上は危険です」
顔面蒼白になりながらも、颯真は歯を食いしばる。
「続けろ」
澪奈は、彼の血が次々と袋に吸い取られていくのを見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。思わず身を引こうとしたが、その手首は彼にさらに強く握られた。
やがて看護師はさらに400mlを採り終えると、ついに首を振り、きっぱりと手を止めた。
「これ以上は命に関わります!」
颯真は澪奈を椅子に乱暴に押しつけ、彼女の手首を掴んで強引に後ろへ捻じ曲げた。看護師に向けた声は、有無を言わせぬ迫力に満ちていた。
「必要量まで必ず採れ。足りないなら、俺がまだ続ければいい」
「いやよ!」澪奈は目に涙をにじませ、必死に抵抗しながら叫んだ。
「颯真、狂ってるんじゃないの!
放して!あんな汚らわしい人間に、私の血なんて渡したくない!」
彼は身を屈め、澪奈の身体をがっちりと押さえ込む。微動だにできぬほどの力で抑えつけ、漆黒の瞳で彼女を射抜きながら、一字一句を噛みしめるように告げた――
「俺は狂っちゃいない。だが――美桜が死ねば、俺は本当に狂う。
彼女のためなら、一命を差し出しても構わない」
その一言一言が鋭い針となり、澪奈の心臓に突き刺さる。
声を上げようとしても、喉が塞がれ、何も言えなかった。
第6話
澪奈は、腕に残る青紫の注射痕を押さえながら、壁に沿ってそろりと移動した。顔は死人のように蒼く、一歩ごとに倒れそうになる。通りかかった看護師が駆け寄ってきて言う。
「休んで行かれますか?」
彼女は首を振った。
「大丈夫、ありがとう」
看護師が背を向けた途端、低いざわめきが耳に入ってきた。
「さっき早瀬さんが目を覚ましたとき、彼氏が医局に飛び込んで来て、もう慌てふためいてたらしいよ!」
「そうそう、あんなに血を抜いたのにまだ付き添ってるなんて、すごい入れ込みようだわ!」
澪奈は唇に冷い嘲りを浮かべ、角を曲がろうとしたところで、保温容器を提げた颯真とぶつかった。そっとすれ違おうとしたのに、手首をぎゅっと掴まれる。
「栄養の補給だよ」
颯真は保温容器を差し出し、施しでもするような口ぶりで言った。「お前が美桜を傷つけたにせよ、救ったにせよ……その埋め合わせだ」
「埋め合わせ?」
澪奈は手を振り払うと、熱々のスープが床にこぼれた。
彼女は颯真をじっと見据え、目に嫌悪を満たした。
「あなたの差し出すものは汚らわしい。気持ちが悪いの」
すると背後から、美桜の怯えた声が聞こえた。
「颯真、久遠さん……」
颯真はすぐに手を離し、数歩で美桜のもとへ駆け寄る。声は急に柔らかくなった。
「どうしてベッドから出てきたんだ?医者は安静にしろって言ってただろう?」
「久遠さんにお礼がしたくて……」
目を真っ赤にして、美桜は言い終わると勢いよく跪き、声は嗚咽交じりになった。
「久遠さん……あなたがまだ私を恨んでいるのは分かっています。だからわざとじゃなくても、私がぶつかられることになって……でも、颯真は言ったんです、あなたがまた――」
「黙れ!」
澪奈は振り向き、刃のような視線を投げた。
「本当にあんたをぶつけようと思ってたら、今ごろあんたもう霊安室にいるはずよ!そんな嘘を信じるのは、あの馬鹿くらいのものだわ」
その言葉は颯真の顔を青ざめさせた。澪奈は振り返ることなく、その場を去った。
……
その後数日、澪奈は二人の顔を見ずに済んだ。いい機会とばかりに荷物を整え、ふと箱の中から皇都から灯川市への航空券の束を取り出して凍りついた。
以前、颯真はよく言っていた――「チケットが一枚増えるたびに、俺たちの愛も一枚増えるんだ」と。今その言葉を見ると、皮肉しか湧いてこなかった。
ライターを取り出し、最初の一枚に火をつけようとしたそのとき、扉が勢いよく開いた。颯真がチケットの山を見て嗤う。
「まだそういうものを取っておくなんて、意外と昔を引きずるんだね。そんな役に立たない物まで残して」
澪奈の胸に鋭い痛みが走り、彼女は思い切って全部のチケットを火の中に投げ入れた。
炎が跳ね上がり、過去を一瞬で焼き尽くす。颯真の垂れた手がきつく握られ、低い声で言った。
「美桜は山に行って気分を変えたいって。お前も一緒に来るんだ」
「私があなたたちと行くとでも?」澪奈は冷笑した。
「お前の意思なんか関係ない」颯真は前へ出て彼女の手首をつかみ、強引に車に押し込んだ。
助手席の美桜は振り返り、作り笑いで席を差し出す。
「久遠さん、前に座りませんか?」
「結構です、あなたが座ればいい」
颯真は美桜の手を強く握りしめ、その表情には溺れるような愛が隠しようもなく滲んでいる。
車は一時間余り走り、前の二人は公然と愛を見せつけるかのようにふるまった。
澪奈は胸が塞がるような思いで、目的地に着くと真っ直ぐ山頂へ向かった。
ここはかつて自分と颯真が来た場所で、頂上には二人で結んだ願いの南京錠が残っているはずだった。
到着すると、美桜と颯真が寄り添って願い事の短冊を書き、甘い笑顔を交わしているのが見えた。
澪奈は記憶を頼りに自分たちの南京錠を探し、石を拾うと、力いっぱい叩きつけた。
カチッ!
錠は真っ二つに割れ、澪奈は割れた南京錠を手に取ると、そのまま崖の下へ投げ捨てた。
「久遠さん、どうして壊しました?」美桜は驚いたふりをした。
頬に冷たい感情を宿して颯真が後ろに立っている。
澪奈は冷たく言った。
「ただの見苦しい物よ。そこにあるだけで目障りだから」
そう言い残し、彼女は下山しようと振り向いた。すると美桜が突然口を開く。
「久遠さん、西側から下りませんか?あそこ、まだ道が整備されてないって聞いたけど、きっと面白いですよ!颯真、どう思う?」
「いいよ」
颯真は美桜の髪を撫で、言うとおりに澪奈を引っ張って西側の道へ進ませた。
颯真は美桜を背負い、雑草を避けながら気を配っている。澪奈は虫に刺された腕が真っ赤に腫れ、長袖長ズボンでも痒みを止められなかったが、前へ進むしかなかった。美桜は作り笑いで促す。
「颯真、久遠さんを少し背負ってあげたら?」
「まだ体調が万全じゃないんだから、余計な心配はするなよ」颯真は即座に断った。
澪奈は苦い笑みを漏らし、歯を食いしばって歩き続けた。約一時間ほど歩いたところで、空が暗くなり、遠くで雷鳴が轟いたかと思うと、豆粒のような大粒の雨が一斉に降り始めた。
颯真は慌てて美桜を背負い、大きな岩の陰に身を寄せた。澪奈もそちらへ移動する。
美桜は颯真の胸に縮まり、震える声で言った。
「颯真、こんなに降ったら戻れないんじゃないかな?」
「心配するな、俺がいるから」
颯真は美桜の髪を撫で、「ここで待ってて。ちょっと助けを探してくる、すぐ戻るから」と言い残し、茫々たる雨の中へ飛び込んでいった。
颯真の姿が雨のとばりに消えるや否や、美桜の顔から怯えは一掃され、代わりに冷たい悪意が浮かんだ。
彼女は澪奈をじっと見つめ、唇に薄く笑みをたたえた。
「久遠澪奈、今日――あんた、生きてここを下りられると思う?」
澪奈の瞳は一瞬縮み、後ずさった。全身に警戒心が満ちる。
「何を企んでいるの?」
美桜は鼻で笑ったように答える。「企んでるって……私たちがのんびり散策に来たとでも思ってたの?今日はあんたを――消す日なの」
その言葉が落ちると、草むらの中から黒い服の男二人が飛び出してきて、澪奈の腕を捕え、一気に崖の縁まで引きずり寄せた。
崖の下には鬱蒼とした樹木が密生し、底が見えない。落ちれば取り返しがつかない。
「離して!離してよ!」
澪奈は必死にもがき、顔はみるみる蒼白になった。
美桜はゆっくりと歩み寄り、足を踏み込み、思い切り澪奈の背中を踏みつけた。力は尋常でなく、息が詰まりそうになる。
彼女は身を屈めて澪奈の耳元に囁いた。
「久遠澪奈、安心して。颯真のことは、これから私が引き受けるわ。彼はもう私だけを大事にするから。
あんたは――下に行って、先に死んだご両親のところへ行きなさいよ!」
そう言い終えると、美桜は足を振り上げ、澪奈の腰に強烈な蹴りを入れた。
澪奈の身体は一瞬で均衡を失い、糸の切れた凧のように崖下へと落ちていった。数秒後、その姿は濃密な林の中に消えた。
美桜は得意げに口元を歪め、振り返る。すると颯真が雨を切り裂いて駆けてくるのが見えた。
彼女はためらうことなく懐から折りたたんだ果物ナイフを取り出し、自らの腹部へ躊躇なく刺した。
鮮血が一気に噴き出し、彼女は傷口を押さえながら、泣き叫んで地に倒れ込んだ。
「美桜!どうしたんだ!」颯真は駆け寄り、その傷を見て瞳を見開く。
周囲を素早く見渡しながら慌てて尋ねた。
「澪奈は?」
美桜は颯真の胸に凭れ、雨と涙で頬を濡らしながら、虚ろで悲しげな声を絞り出した。
「颯真、さっき急に人が出てきて、久遠さんを連れ去ったの……
行く間際に……久遠さんが私を刺して……『絶対に許さない』って……そう言ったの……」
颯真は「澪奈が連れ去られた」と聞くと、ぎゅっと力の入った肩の張りがほんの少し緩んだように見え、焦りの色が薄らいだ。彼は美桜を横抱きにして言った。
「心配するな、救援を見つけた!今すぐお前を下まで連れて行く!」
第7話
美桜を手術室に送ったあと、颯真の胸が、不意にきゅっと掴まれるように痛んだ。
無意識にポケットへ手を伸ばし、使い古しの携帯を取り出す。靴底からはSIMカードを一枚抜き出し、差し込んでデータ通信を開いた途端、画面いっぱいに未読メッセージと着信履歴が溢れ出した。
読み込む間もなく、背後から看護師の声が飛ぶ。
「早瀬美桜さんのご家族の方、いらっしゃいますか?」
颯真は一瞬だけ手を止め、素早くSIMを抜き取り、靴底に戻した。何事もなかったように振り返り、足早に近づく。
「俺です」
医師は不満げな目を向け、叱責を含んだ声で言った。
「命に別状はありませんが、腹腔に軽い癒着があります。今後はご家族としてしっかりケアしてください。もう刺激を与えないように」
颯真は何度も頭を下げ、看護師とともに美桜を病室に移した。
その夜じゅう、彼はベッド脇を離れず、胸の鈍い痛みは朝まで続いた。翌朝、美桜が目を開けたとき、ようやく少し和らぐ。
美桜は目を覚ますなり、颯真の手を握った。声は弱々しい。
「颯真……久遠さんのところに、行ってないよね?
お願い、もう探さないで。私、わざと刺したわけじゃないの。ただ、まだ怒ってるだけで……」
颯真は彼女の額の髪をそっとかき上げた。
「大丈夫。頭の中はお前のことでいっぱいで、他の誰かのことなんて考えてない」
美桜はそのまま彼の胸に身を預け、目の奥に得意の色を過らせ、顔を上げて甘い声で尋ねる。
「颯真、私のこと好き?」
颯真は彼女の額に軽く口づけた。
「馬鹿だな、これだけ大事にしてるのに分からない?」
「じゃあ、結婚しよう」
美桜は畳みかけるように、彼の服をぎゅっと握りしめた。
颯真の顔色が一瞬で曇る。だが美桜が見上げた瞬間、すぐに口角を持ち上げた。
「いいよ」
「じゃあ結婚したら、国外に行かない?颯真、もう久遠さんに会わないで。私が負ってたものも、それで全部チャラにするから……」
「分かった。ずっと一緒にいよう」
颯真は頷きながらも、指先にだけ力をこめた。
……
その後数日、颯真は片時も離れず美桜に付き添い、「完璧な優しさ」を演じ続けた。
美桜は幸せに酔いしれ、心の中で笑う。
――久遠澪奈なんて、もう崖下で骨も残っていないはず。颯真はこれから完全に自分のものだ。
退院の日、美桜は颯真の手を引いて高級レストランへ行き、祝いの食事をした。
彼女は楽しげに喋り続けるが、颯真は上の空で、渡されたカトラリーすら受け取り損ねる。
美桜の目に一瞬、暗い光が宿り、すぐに消えた。目元を赤くして、わざとらしく呟く。
「颯真、まだ久遠さんのこと考えてるの?
もしまだ好きなら、私、身を引くわ。彼女のところに行って。もう会わないから……」
立ち上がろうとした美桜を、颯真は慌てて引き寄せた。
「美桜、俺が彼女のことを想っているはずがないだろう?本当に想っていたなら、わざわざ死んだことにして、何年も耐えてまでお前と一緒にいるか?
確かに、かつては彼女を愛していた。でも、その想いなんて、お前がこの何年もそばにいてくれたことで、とっくに消えた」
颯真は美桜を見下ろし、声を限りなく真剣にして告げる。
「今、俺が愛しているのはお前だけだ」
その真剣な声に、美桜は泣き笑いし、背伸びして颯真の顎を甘く擦る。
「じゃあ、今夜、あなたの家に行っていい?」
含みのあるその言い方に、颯真は目を伏せ、数秒沈黙してから頷いた。
「いいよ」
食事を終え、颯真の部屋に戻る。
美桜は玄関に入るなり、腕に絡みつき、背伸びして唇を寄せた。
だが颯真は少しだけ顔を逸らし、その唇は頬にかすっただけだった。美桜の表情が一変する。物心ついて以来、誰も自分を拒んだことはない。
彼女は颯真の頭を無理やり押さえ、もう一度口づけようとする。だがまた避けられた。目は真っ赤に、声はかすれ、悔しさと不安が滲む。
「颯真、やっぱり久遠さんのこと考えてるの?本当は私のこと、好きじゃないんでしょう?」
颯真はその赤い目尻を見つめ、そっとため息をついた。指先で彼女の涙を拭う。
「美桜、お前を娶るまでは、こういうことはできない」
「いつもその言い訳ばっかり!」
美桜は服をきつく握り、堪えきれない苛立ちを滲ませた。「前にM国にいた時は、何度もあと一歩だったのに。なんで今は避けるの?」
「M国」という言葉が出た瞬間、颯真の顔色は氷のように冷たくなった。美桜の心臓が跳ね、失言に気づく。
「颯真、ごめんなさい。嫌いなのに口に出しちゃったの。怒らないで、お願い……」
颯真は何も言わず、ただじっと彼女を見た。その目の奥に見える見知らぬものが、美桜の背筋を冷やした。
彼女は慌てて颯真の頬に乱暴にキスを重ね、泣き声まじりに懇願する。
「颯真、私が悪かった、もう言わないから……お願い、嫌わないで……」
そのとき颯真がふいに手を伸ばし、美桜の手首を掴んだ。
目の奥の冷たさは消え、代わりに、どこか奇妙なほど真剣な光が宿っている。
「美桜、本当に俺としたいのか?」
美桜は一瞬きょとんとし、すぐに力いっぱい頷いた。
「颯真、愛してる。ずっと一緒にいたい。あなたのものになりたい……」
颯真は短く息を吸い、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、まずは少しお酒を飲もう。気分を盛り上げよう」
美桜は一気に笑顔になり、何の疑いもなく答えた。
「うん!」