淡き想いと波と共に

Đang tải thông tin quảng bá...

淡き想いと波と共に

GoodNovel Hoàn thành

「今回の出張、もう一緒に行きたくない」 江川彦辰(えがわ ひこたつ)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 口調はあまりにも穏やかで...

Chương (1)

第1章

「今回の出張、もう一緒に行きたくない」 江川彦辰(えがわ ひこたつ)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 口調はあまりにも穏やかで、誰も異変に気づかなかった。 江川凛(えがわ りん)の今回の出張は、ちょうど五月五日。 結婚記念日でもなく、誰かの誕生日でもない。 ただの子どもの日だ。 三日前、彦辰は偶然、凛のスマートフォンの中にあったひとつの音声を聞いてしまった。 幼い子どもの声で、甘えた口調でこう言っていた。 「ママ、子どもの日、A市に行って熱帯魚を見たい!」 第1話 「今回の出張は、もう一緒に行きたくない」 江川彦辰(えがわ ひこたつ)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 口調はあまりにも穏やかで、誰も異変に気づかなかった。 江川凛(えがわ りん)の今回の出張は、ちょうど五月五日。 結婚記念日でもなく、誰かの誕生日でもない。 ただの子どもの日だ。 三日前、彦辰は偶然、凛のスマートフォンの中にあったひとつの音声を聞いてしまった。 幼い子どもの声で、甘えた口調でこう言っていた。 「ママ、子どもの日、A市に行って熱帯魚を見たい!」 そのとき、彦辰はしばらく呆然としていた。 凛と十年愛し合い、結婚して六年。 誰もが「奥さんは旦那さんのことを心の底から愛している」と言っていた。 出張のときも、彦辰と離れないように必ず一緒に連れて行くほどだった。 彦辰自身も、そう信じていた。 あの幼い声を聞くまでは—— あの子たちの声は、どう聞いても四、五歳くらい。 つまり、彦辰達が結婚して間もないころ、凛は別の男の子どもを産んでいたことになる。 この五年間、彼女は一方で「愛する夫の妻」として振る舞い、もう一方で「二人の子の母親」として生きていたのだ。 彦辰は、自分が愚かだったのか、それとも彼女の演技が上手すぎたのか分からなくなった。 五年ものあいだ、まったく気づかなかった。 凛は彦辰の茶碗に、彦辰の大好物であるタケノコを一枚そっと入れ、やさしく尋ねてきた。 「いつも出張は一緒に行くって言ってたのに、どうして急に行きたくなくなったの?」 「いや、別に。ただ……A市はちょっと遠いし、長時間のフライトはちょっと気が進まないから」 義母がすぐに口をはさんだ。 「彦辰が行きたくないなら行かなくていいわよ。家でゆっくり休みなさい」 彦辰は淡々とうなずいた。 そして茶碗の中のタケノコを箸で取り出し、そのままゴミ箱に放り込んだ。 凛は彦辰の様子がおかしいと感じたのか、何か言いたそうな様子だったが、義母が彼女の腕を軽く叩き、首を横に振って制止した。 凛は意味を察し、うなずいた。 「わかったわ。じゃあ、あなたは家でゆっくり休んでて。出張が終わったらすぐ帰ってくるから」 食事のあと、彦辰はなんだか息が詰まるような気分で、庭を散歩した。 戻ってくると、義母の声が聞こえてきた。 「有辰(ありたつ)と美波(みなみ)の二人ももう五歳よ。ずっと外で育てるわけにもいかないでしょ。早く家に迎え入れたほうがいいわ」 凛はうんざりしたように言った。 「お母さん、その話はもうやめて。二人の面倒をちゃんと見ているから。でも、彦辰は私がいちばん愛してる人なの。彼を失いたくない」 「でも、あの桐原彬人(きりはら あきと)がどれだけあんたを愛してたか知ってるでしょ。あんたのために交通事故を起こし、生殖能力を失ったのよ。あんたの卵子を使って、代理出産で二人の子を授かったのも、あんたじゃない!二人の子はあんたのお腹で育てたわけじゃないけど、あんたの血を引いてるのよ!」 凛は小さくため息をついた。 「わかってるわよ、そんなこと」 「でも私はイヤなのよ、あの子たちは私の大事な孫だから。毎回こっそり会いに行くなんて、納得できないでしょ!」 「ちゃんと考えるから」 「もう五歳よ!考える考えるって、いつまで考えてるのよ?子どもが大事か、男が大事か、自分でよく考えなさい!」 そのとき、凛のスマホが鳴った。 彼女は眉をひそめながら出て、不機嫌そうに言った。 「今度は何?」 しかしすぐに声が柔らかくなった。 「あーちゃん、いい子ね。ママも会いたいわ」 義母が嬉しそうに尋ねた。 「孫たちから?」 凛はスピーカーモードに切り替えた。 「おばあちゃん!」という可愛らしい声がスピーカーから響いた。 義母は顔をほころばせた。 「はいはい、おばあちゃんはここにいるわよ」 その先はもう聞きたくなかった。 彦辰は静かに庭を出て、花園に立ち尽くしていた。 そこには、凛が彦辰のために植えたバラが咲き誇っていた。 夏の夜風はバラの香りを運び、涼しく心地よいはずだった。 だが、彦辰の体は、内側から冷え切っていった。 そして友人の黒川翔(くろかわ しょう)に電話をかけた。 「翔、俺が海に落ちる事故を手配してくれないか」 「何があった?どうしてそんなことを言うんだ?」 自分でも自分が何を考えてるのか、もうわからない。 すべてを話し終えたあと、翔は黙り込んだ。 「俺も、あの人は良い女性だと思ってたよ……まさかこんなことになるとはな」 「今さら何を言っても仕方ない。翔、俺はただ、彼女の前から完全に姿を消したいんだ」 翔はしばらく黙ってから、静かに言った。 「わかった。手を貸す。いつにする?」 彦辰は少し考えた。 「半月後だ。凛との結婚記念日、その日に」 凛には、もう新しい家族がいる。 なら、彼も彼女の世界から消えるべきだ。 離婚を切り出せば、きっとまた揉める。 彼はそんな終わりのない泥沼はもううんざりだ。 だから——きれいさっぱり、跡形もなく。 彼女の人生から、永遠に消えるのだ。 第2話 彦辰は電話を切ると、もう少し花園に留まってから部屋に戻った。 部屋に入ると、ちょうど凛が慌ただしく階段を降り、出かけようとしているところで、手には彦辰のジャケットを持っていた。 彦辰を見ると、凛は急いで駆け寄り、そのジャケットを彦辰の肩に掛けた。 「どうしてそんなに長く外にいたの?夏とはいえ、夜になると風が少し冷たいでしょう」 彦辰は微かに笑った。 「大丈夫、寒くない」 「でも風邪ひかないようにね」 その言葉に、彦辰は足を少し止めた。 ふと、初めて凛に出会った頃を思い出した。 大学一年生のとき、彦辰はアルバイトで一日中冷たい風に吹かれていた。 そこへ通りかかった凛が、さっと自分のマフラーを渡してくれた。 断ろうとした彦辰に、凛はただ一言、「風邪ひかないようにね」とだけ言った。 その後、彦辰は彼女のマフラーを丁寧に洗って返した。 こうして少しずつ、恋に落ちていった。 後に凛も認めた。 「実はずっと前から好きだったの。ずっとあなたのことを見守っていたのよ」 あの日、凛は彦辰が寒さで震えているのを見て、心が痛み、思わず声をかけたのだ。 それから自然に二人は付き合い始め、凛は彦辰に尽くし、誰もが「凛は理想の妻だ」と言った。 結婚後も、彼女の親友ですらこう言った。 「彼女の心の中ではあなたが一番で、彼女自身はその次なんだよ」と。 当時、彦辰は凛の親友が言うただの冗談だと思っていた。 しかしある旅行中の地震で、凛は落下してくるコンクリートの塊から自分の体を張って彦辰を守った。三日三晩、命がけだった。 救助隊が彦辰達二人を助け出したとき、彦辰は無事だったが、凛は疲れ果て、背中には血と傷が残っていた。 彼女は倒れる直前、彦辰の顔に優しく触れて言った。 「あなたが無事でよかった、これで安心した」 その瞬間、彦辰は心に決めた。 「絶対に彼女と一緒に、一生を共にする」と。 しかし、今となっては彼女は、もうそのかつての誓いを忘れてしまっている。 凛は彦辰の腕に手を絡め、部屋に戻ると、ソファに座らせて片膝をついて手を握りながら言った。 「彦辰、なんだか元気なさそうね?」 彦辰は首を横に振った。 「別に」 「嘘よ。何かあったんでしょう? 話してくれる?」 彦辰は視線を落とし、彼女の心配そうで焦った瞳を見つめ、胸に鋭い痛みを感じた。 「凛、俺のこと愛してるか?」 「もちろんよ」凛は穏やかに手を伸ばし、彦辰の乱れた髪を耳の後ろに整えてやった。 「どうして急にそんなこと聞くの?」 「いや、最近映画を見て、七年目の浮気っていう話が出ててね。俺たちもう結婚して六年だし、来年で七年目だろ」 凛は微笑んだ。 「なるほど、それで気分が沈んでたのね」 彼女は彦辰の手を握り、自分の胸に当て、はっきりと言った。 「私、江川凛は一生彦辰を愛するわ。永遠に、来世も、決して変わらない」 彦辰は尋ねた。 「もしも、心変わりしたら?」 「しない」 「いや、もしもって話だ」 凛は少し考え、真剣に答えた。 「なら、ろくな死に方をしないわ」 彦辰の胸に鋭い痛みが走った。 今でも彼女は、こうやって嘘をついている。 こんな重い誓いも、立てるのだ。 「彦辰、もう元気出して。明日、一緒に外に出かけよう、ね?」 彦辰は行きたくなかったが、凛には逆らえなかった。 翌朝、彼女は車を運転して彼を外に連れ出した。 ショッピングモールの前で車を停め、凛は彦辰の手を握り、一軒の宝飾店に入った。 店員が丁寧に迎えた。 「江川社長、どのようなジュエリーをご覧になりますか?」 「結婚記念日のプレゼントとして、夫にペアリングを作りたいんです」 「承知しました。では、こちらへどうぞ」 店員は二人をVIPルームに案内し、少しすると数冊のカタログを持ってきた。 「こちらはデザイナーの最新作です。旦那様、ご覧になってください。気に入ったものはございますか?」 隣の店員が小声で注意した。 「江川社長はペアリングをご希望ですから、江川社長のお好みも聞いた方が……」 女性店員は笑顔で答えた。 「江川社長はきっと旦那様の意見に従うでしょう。旦那様が気に入れば、江川社長も反対しませんよ」 凛は唇を引き結んで微笑んだ。 「よく分かってるわね」 女性店員の笑顔はさらに輝いた。 「H市では江川社長と旦那様は有名なおしどり夫婦ですから。インタビューもよく拝見してますよ」 もう一人の店員も言った。 「そうそう、以前も江川社長が急いで旦那様のコーヒーを買いに行ったことがありましたよね。インタビュー中だったのに」 「ラブラブすぎて死にそう」 彦辰は静かに聞いていたが、顔は驚くほど淡々としていた。 「羨ましいの?」 店員たちは口々に頷いた。 「もちろんです、H市では誰もが羨むほどラブラブですよ」 もし彼らが今目の前で愛情たっぷりに振る舞う彼女が、実は外にもう一つの家庭と二人の子どもを持っていることを知ったら、それでも羨ましいと思うだろうか。 そのとき、VIPルームの扉がノックされた。 一人の女性店員が慎重に聞いた。 「旦那様、指輪はお決まりですか? 外にVIPのお客様がいらっしゃって、カタログをご覧になりたいそうです」 凛は眉をひそめた。 「夫がまだ見ている最中よ。もう少し待たせて」 「でも江川社長、その方は……」店員は言葉に詰まった。 凛は何かを思い出したかのように、一言低く罵り、立ち上がった。 「彦辰、他のお店も見に行きましょう」 彦辰が反応する前に、VIPルームの扉が開いた。 すると、一人の男性が微笑みながら入ってきた。 その男は両側に二人の子供と手を繋いでいた。 男の子と女の子、どちらも四、五歳くらいだった。 第3話 「大丈夫。江川さんと一緒に見るから。そんなカタログをあちこち持って行く面倒をかけなくてもいいし」 そう言いながら、男は子どもたちの手を引いて中へ入ってきた。 そしてにこやかに彦辰に向かって言った。 「江川さんは、構わないよね?」 男が入ってくるのを見て、店員は慌てて止めようとしたが、結局はできなかった。 ただ呆然と見守るしかなく、そのまま男は凛の隣に腰を下ろした。 年上の子は男の子で、目を輝かせて叫んだ。 「ママ!」 年下の女の子もすぐに気づき、勢いよく凛の胸に飛び込んだ。 「ママ!みーちゃん、ママに会いたかったの〜!」 凛は眉をぎゅっと寄せ、女の子から身を引こうとした。 だが、小さく柔らかい体を前に、結局は突き放すことができず、ただその子の父親に向かって怒鳴った。 「見知らぬ他人にママ呼ばわりなんて御宅はどういう躾をしてるの」 男はまったく怒ることもなく、むしろ口元に笑みを浮かべていた。 彼はゆっくりと女の子を凛の腕から引き離し、穏やかに言った。 「みーちゃん、人違いだ。この人はママじゃない」 女の子はしゃくり上げながら泣いた。 「違うもん、ママだもん!みーちゃん、知ってるもん!」 「この人は、ママにそっくりな『お姉さん』だ。よく見て、そこのお兄さん。あの人がこのお姉さんの旦那さんだよ」 女の子は凛を見て、次に彦辰を見た。 それでもまだ、納得がいかないようだった。 男の子のほうが少し勇気があり、凛の前に近づいて、真剣な顔で尋ねた。 「本当に僕のママじゃないの?」 「わたし……」 凛は言葉を失った。 子どもたちを見つめたまま、長い沈黙のあとでも、否定の言葉をどうしても口にできないようだ。 「あーちゃん、そんな失礼なこと言うべきじゃない」 男は息子を引き戻し、微笑みながら謝った。 「すまない。子どもたちは母親に甘やかされてて、少しわがままで」 あーちゃん、みーちゃん。 そうか、この二人が凛の婚外子たちか。 三人が入ってきた瞬間から、彦辰はどこか見覚えのある顔だと思っていた。 特に男の子のほうは、眉や目元が凛に六、七割は似ている。 女の子のほうは、むしろ父親にそっくりだった。 はじめはまだ信じきれなかった。 まさか外の誰かが彼女を騙して、その結果、彼女に子どもができたのではないか—— そう思いたかった。 もしそうなら、二人の子は双子のはず。 だが、目の前の二人はどう見ても年が違う。 兄は五歳くらい、妹は四歳にも満たない。 明らかに、別々の時期に生まれている。 つまり——凛の裏切りは偶然でも罠でもなかった。 彼女は意識して、そして望んで、二度も別の男と子をなしたのだ。 彦辰は静かに言った。 「お母さんは子どもたちを本当に大切にしてるね。子どもたちが、あんなに懐いてるなんて」 男は嬉しそうに笑った。 「そう。母親は本当に子どもたちを溺愛してて。 上の子が生まれた頃はまだ何も分からなかったのに、少しずつ覚えていってね。 下の子ができたときには、もうすっかり頼れる母親だ」 「そう」 「ええ。それにうちの子たちは、母親に会うともうベッタリで、誰にも抱かせてくれないんだ。僕にすら」 その言葉を聞いた瞬間、彦辰の脳裏にある記憶がよみがえった。 結婚して半年ほど経った頃、凛が突然「一ヶ月ほど海外に行く」と言い出し、すぐに発った。 ——その日付を計算すれば、まさに長男が生まれた時期だ。 そして一年後、また一ヶ月間「F市に出張」と言って出かけた。 それが、今のこの男の娘が生まれた頃。 思えば、その二度だけ、凛の出張に同行していなかった。 どうしてどちらもぴったり一ヶ月だったのか。 今ようやく分かった。 ——子どもを産みに行っていたのだ。 彦辰は微笑みながら言った。 「お子さんたち、とても可愛いね」 男はさらに嬉しそうに頷いた。 「みんな『お母さんにそっくりで綺麗だ』って言うんだよ」 彦辰は視線を伏せ、静かに答えた。 「そうか。お子さんたちの母親が俺の妻にそっくりなら、きっと本当に綺麗な方に違いない」 男は意味深に笑った。 「ああ、本当にそっくりだ。だから子どもたちも間違えたんだろうね」 「じゃあ、お子さんたちの母親も君のことを愛してるだろうな。 じゃなきゃ、君との間に二人も子どもを作ったりしないだろ」 あーちゃんは胸を張って言った。 「もちろんママはパパのこと大好きだよ! このお店、ママとパパがよく来るんだ。 パパの指輪もピアスも、みんなここのなんだよ。 僕と妹のネックレスも、ここで買ったんだ!」 その言葉を聞いた彦辰は、無意識に男の左手を見た。 そこには、確かにダイヤの指輪が光っていた。 若い店員がすぐに気づいて声を上げた。 「あっ、それ、うちの店の物です!しかも特注品ですよ!」 店長が慌ててその口を塞ぎ、鋭い目で「黙りなさい」と警告していた。 彦辰はすべてを見届け、静かに苦笑した。 ——凛の裏切りを、この店の人間たちは、彼よりもずっと前から知っていたのだ。 第4話 男の人は笑みを浮かべながら立ち上がった。 「江川さんが先だから、江川さんから選んで。僕は外で待つから」 そう言って、彼は優しく声をかけた。 「あーちゃん、みーちゃん、行こう。外で待とう」 長男はまだ凛を見つめたまま、何か納得できないような表情を浮かべていた。 幼い娘は涙でいっぱいの瞳をしながら、何度も何度も振り返っていた。 最後には、父親の腕に抱かれながら連れて行かれた。 VIPルームの中には、死んだような静けさが広がった。 さっきまであれほど愛想よく話していた店員たちでさえ、今は息を潜めて、一言も発せなかった。 そして彦辰がその沈黙を破った。 「何でみんな黙ってるんだ?俺のことそんなに怖いか?」 店長は気まずそうに笑って答えた。 「い、いえいえ!ただ、このデザインも旦那様のお気に召さないのではと……」 「気に入った。じゃあ、これにしよう。サイズを測るためのリングゲージ、あるかな?」 「ございます!今お持ちします!」 店員たちは慌ただしく部屋を出て行った。 VIPルームには、彦辰と凛、二人だけが残された。 針が落ちても聞こえるほどの静けさだった。 ——ヴーッ。 凛のスマートフォンが震えた。 彼女は動かなかった。 しばらくして、今度は着信音が鳴り響いた。 彦辰は退屈でカタログをめくりながら言った。 「どうして出ないんだ?会社の用事かもしれないだろ。大事な仕事を逃したら困るんじゃないのか」 凛は数秒ためらったあと、立ち上がりながら言った。 「外で少し電話に出てくるから。すぐに戻るわね」 「うん」 彼女は足早に部屋を出て行った。 ——その直後。 彦辰のスマートフォンが鳴った。 それは知らない番号からのメッセージだった。 【江川さん、地下駐車場へ。君が知りたいこと、すべて見れるよ】 エレベーターを使わず、無言のまま、階段を降りて地下へ向かった。 遠くから、女性の怒鳴り声が響いてきた。 「……何度言ったら分かるの?彦辰の前に、二度と姿を見せないでって言ったでしょ!」 そして男の声が続く。どうしようもなく、かすかな哀しみを滲ませながら。 「分かってるよ。でも、子どもたちは分からないんだ。 ただ『ママに会いたい』って、それだけなんだ。特にみーちゃんだよ、喉が枯れるまで泣いてるんだ。 ……そんな声、僕は父親として聞いていられるか?」 幼い子どもには、大人の事情なんて分からない。 ただ、パパとママが喧嘩しているようにしか見えなかった。 小さな体を震わせながら、彼女は泣き叫んだ。 「ママ、パパとケンカしないで……!悪いのはみーちゃんなの。みーちゃんのせいで……」 娘の涙の声は、まるで冷たい雨のように凛の怒りを鎮めた。 彼女はしゃがみ込み、そっと娘を抱きしめた。 シャツの袖口に隠れた一番柔らかな裏地で、涙を拭ってあげた。 「みーちゃんのせいじゃないよ。泣かないでね」 長男は少し年上だから、母親の言葉の裏を読んでいた。 「ママ、さっき『僕たちのことを知らない』って言ったのはどうして? あの人がいるから?さっきのおじさんって誰?」 凛は息を整え、静かに言った。 「ママにはママの事情があるの」 それでも、あーちゃんは引き下がらない。 「ママ、最近ぜんぜん家に帰ってこないのは、そのおじさんのところに行ってるから? あの人って、テレビで言ってた『浮気相手』なの?」 「違う!」凛の声が鋭く響いた。 彼女は男を睨みつけた。 「そんな言葉、誰が教えたの?まさかあなたじゃないでしょうね?」 男はすぐに反論する。 「あーちゃんとみーちゃんは、ずっと母親のぬくもりを知らずに育った。 幼稚園の先生だって言ってたぞ。ほかの子より敏感だって。 そんな子たちが少し大人びた言葉を知ってても、おかしくないだろ?」 その言葉を聞いた瞬間、妹の美波がまた泣き出した。 「ママ、幼稚園のお友だちが言うの。みーちゃんにはママがいないって。 でもみーちゃんは『いる』って言ったのに、誰も信じてくれないの……うう……」 兄の有辰は涙をこらえていたが、声は震えていた。 「ママ、ドラマで見たんだ。ママがよく帰ってこないのは、外に別の男の人がいるからって……その人のこと、『浮気相手』って言うんだ」 二人の言葉を聞いた瞬間、凛の顔から怒りが消えた。 代わりに、深い罪悪感と自責の色が滲む。 ——遠くで見ていた彦辰は、そのすべてを見逃さなかった。 彼女があの男にどんな感情を抱いていようと、子どもたちは確かに彼女の血を分けた存在。 母親として、責められて動かないはずがない。 やがて凛は腰を落とし、両腕で二人の子どもを包み込んだ。 そして優しく、抱きしめていた。 「ママはお仕事が忙しかっただけなの。 でもね、次の幼稚園の親子イベントには絶対行くから。いい?」 「ほんとに?」 「ほんと。ママがみんなに教えてあげる。ママはあなたたちを誰よりも愛してるって」 美波は凛の首に腕を回し、ゆらゆらと甘えた。 「じゃあね、パパも一緒に来ていい?他の子たちのパパとママも一緒に来るの。 パパがママを抱っこしてゲームするんだよ!」 彦辰は息を止めた。 ——次に彼女はどう答えるのか。 凛は、少しも迷わず言った。 「いいよ。パパとママで、一緒に行こうね」 「パパがママを抱っこするの!」 「うん、パパがママを抱っこするの」 彼女は微笑んだ。 彦辰はもう、それ以上聞いていられなかった。 そして、静かに背を向け、足早に立ち去った。 宝飾店のフロントでは、店員たちが忙しそうに動いていた。 VIPルームには誰もいない、彼はそのまま店を出た。 するとそこへ店長が追いかけてきた。 「旦那様、ペアリングのデザインはお決まりですか?」 ——ヴーッ。 スマートフォンが再び震えた。 さっきと同じ、見知らぬ番号からだ。 【さっき選ばれたペアリング、凛がもう僕にくれるって言ってくれたよ】 【デザイナーが二人のイニシャルを刻むこともできる。永遠の証として。男性用リングには、もちろん僕の名前をね】 【僕たちにはもう二人の子どもがいる。凛もいつか君を捨てて、僕と子どもたちのもとに戻るだろう】 指先だけで短く返信した。 【俺が彼女を捨てるだけだ】 第5話 再びこの六年間住んだ家に戻った彦辰は、まるで別世界に迷い込んだような感覚に陥った。 しかし、彼には深く悲しみに浸る暇はない。翔が手配してくれた海での事故は半月後に迫っており、やるべきことが山ほどあるからだ。 まずは、出発の航空券だ。 江川彦辰の名前でチケットを購入すれば、凛にすぐバレてしまう。 彼は自分の身分証と戸籍謄本を手に家を出た。 リビングを通り過ぎると、義母がスマホを弄っていた。 ちらりと視線を向けると、画面の中に映っていたのは。 きっと彬人の息子と娘のため、子どもの日のプレゼントを選んでいるのだろう。 彼が通り過ぎると、義母はすぐにスマホの画面を閉じた。 「彦辰、出かけるの?」 彦辰は軽く頷く。 「ちょっと用事があって」 「じゃあ、凛が戻るまで待って、一緒に行ったらどう?」 「大丈夫、彼女は他のことで忙しいから、邪魔したくないんだ」 この時間、彼女はきっと子どもたちと幸せなひとときを過ごしているのだろう。 さらに子どもたちの父親がいて、四人が本当の家族を形作っている。 彼はタクシーで戸籍課に向かい、書類を差し出した。 「すみません、名前を変更したいのですが」 担当者は一人で来た彦辰を見て、優しく言った。 「しっかりお考えになって決断されましたか?名前を変えると、銀行口座や電話、学歴証明書など、すべて変更が必要になります。手間がかかりますし、それに本来の名前も素敵に見えますよ」 「ちゃんと考えました。お願いします」 彦辰の態度が固いのを見て、担当者は仕方なく頷いた。 「では、こちらの用紙にご記入ください」 指示通り記入していき、【新しい名前】の欄で一瞬止まった。 少し考えた後、一文字ずつ丁寧に書き込む。 『栖原遥之(すはら はるゆき)』 遥之——遠く離れるという意味だ。 これから先は凛と、二人の思い出すべてから完全に離れるのだ。 名前を変えた後、すぐにパスポートを申請し、I国行きのチケットを購入した。 【購入成功】と画面に出るのを見て、思わずほっと息を吐いた。 ついに、終わらせられるのだ。 縁を切ることも、案外難しくない。 家に戻ると、室内から凛の怒声が聞こえてきた。 「見つからないなら探し続けなさい!もし彦辰に何かあったら、あなたたちに責任を取ってもらうから!」 屋敷内は恐ろしいほど静まり返っていた。 凛の怒りは少しも鎮まらず、叱責が続く。 「まだ惚けてるつもり?早く探しに行きなさい!」 義母が諌める。 「焦っても仕方ないわ。今は法治社会だから、何も起こらないはずよ」 「でも彦辰が心配なの!私も探しに行く……」 中から人々が急ぎ出てきて、彦辰とちょうど顔を合わせた。 その一番前にいた人物は、凛の秘書だった。 彼はまるで救世主を見つけたかのように、涙ぐんで叫んだ。 「旦那様、どこに行ってたんですか!江川社長が、もう心配されていて大変だったんですよ!」 使用人たちも口々に言う。 「そうですよ旦那様、このまま戻らなければ、江川社長はH市の土地をひっくり返す勢いでしたよ!」 彦辰がまだ口を開く前に、香りの漂う存在が彼の目の前に現れた。 凛は恐怖で震え、ぎゅっと彦辰に抱きつく。 「彦辰、どこに行ってたの!?宝飾店でも家でも見つからなくて……店長もあなたがもう帰ったと言ってたし、家でもお母さんがあなたが出かけたって……もう、どうしてくれるの!」 彦辰は軽く彼女を押した。 「離してくれ」 「離さない!」凛は強引だ。誰も止められない。 「彦辰、一体どうしたの?最近ずっと様子がおかしいって……」 「最近の天気が悪いせいで、気分が落ちているだけだ」 凛はようやく息を整え、ゆっくりと手を離した。 「彦辰、次にどこかへ行くときは、教えてね。私も一緒に行くから。もう勝手に行かないで?」 彼女に目を合わせず、顔を背けた。 「ちょっと気分転換したかっただけだ、心配いらない」 義母は皮肉めいた声で言った。 「そうよ、生きてる人間に何が起こるっていうの?いつも彦辰と一緒にいる必要はないわ、他にも世話をする人がいるんだから」 凛は眉をひそめ、小声で反論した。 「もう言わないで」 「そう、お義母さんの言う通りだ。お前は自分のことをやればいい、俺といつも一緒にいる必要はない」 「そんなことできない。私は永遠にあなたと一緒にいるって約束したでしょう」 「じゃあ、五月五日の出張は、俺も一緒に行っていいか?」 その瞬間、凛はピタリと動きを止めた。 苦笑いを浮かべて。 「行かないって言ったはずでしょ?」 「気が変わった、A市に熱帯魚を見に行きたい」 凛の表情は極めて不自然だった。 「彦辰、私……」 「冗談だ、行かないって言っただろ、お前は自分の用事をすればいい」 そして彼女の腕を振りほどき、家の中へ入っていった。 後ろから、凛の安堵の吐息が聞こえる。 「彦辰」と彼女が追いかけてきた。 「半月後は結婚記念日よ、何が欲しい?ちゃんと償うから」 「何もいらない」 「ダメよ、これは私たちにとって大事な日なの」 「ペアリングをくれるって言っただろ?どこだ?買ったのか?出して見せろよ」 凛は再び沈黙する。 買ったのは確かだが、最後に渡したのは彦辰ではなく、彼女の子どもたちの父親だった。 その時、電話が鳴った。 「翔?」 「彦辰、救援船の手配はすべて完了した、安全面は心配いらない」 二人の距離は近く、凛も電話の会話が聞こえている。 疑心を抱きながら彼女は言った。 「救援船?救援船って何?」 第6話 「翔が公園でボートを漕ごうって誘ってきたんだ。俺、水が怖いから行きたくないって言ったら、あいつ、わざわざ救援船まで手配してくれたんだよ」 凛は笑みを浮かべた。 「公園でボートなんて、何が楽しいの?今度は私があなたをヨットに乗せて、海に連れて行ってあげるわ」 彦辰はいつものように淡々と「うん」とだけ答えた。 ——もう、「今度」なんてない。 彼らが十年かけて築いた絆は、今年の結婚記念日で終わりを迎える。 「疲れた。もう寝る」 「一緒に……」 「いい。最近よく眠れないからさ、一人でゲストルームで寝たいんだ」 彦辰の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、凛の胸に、言いようのない不安が込み上げてきた。 ここ数日の彦辰は、どこかおかしい。 まるで何もかもに興味を失ってしまったみたいに、冷たくなっている——凛に対してもだ。 もしかして、今日、あの子たちが突然現れたことで、何かに気づいたのだろうか? 凛は電話をかけた。 すると、すぐに相手が出た。 「凛……」 「彬人、呼び方に気をつけて」 電話の向こうで男が小さくため息をつき、言い直した。 「江川社長」 「今後は外では気をつけて。あんたと子どもたちのことは、まだ公にできないんだから」 「この五年間、ずっと隠れて暮らしてきた。僕だって、晒すつもりなんてなかったさ」 「だったら、どうして今日、子どもたちを連れて彦辰の前に現れたの?あの人に会わせるなって言ったはずよ。子どもたちにも!」 「違うんだ、僕じゃない。子どもたちがどうしても『ママに会いたい』って泣いていたんだ。凛、君が僕のことをどう思おうと構わない。でも、有辰と美波は君の実の子だ。母親の愛情がなければ、子どもたちは——」 子どもの話になると、凛は何も言えなくなる。 「もう一度言うわ。彦辰にあなたたち三人の存在を絶対に知られないように。……他のことなら、できるだけ叶えてあげるから」 「わかった」彬人は沈んだ声で尋ねた。 「でも……少しは僕にも会ってくれないか?ここ何年も、名もなく、影のように生きてきた。子どもたちだけじゃない、僕だって苦しいんだ」 「時間ができたら、考えるわ」凛はため息をつき、言葉を添えた。 「子どもたちの荷物、ちゃんと準備しておいて。A市は風が強いから、風邪をひかせないように」 「わかってる。もう全部準備した。子どもたち、すごく喜んでるよ。『今年の子どもの日にはママと一緒に過ごせるんだね』って」 ——その頃。 主寝室で荷物をまとめていた彦辰のもとに、彬人からメッセージが届いた。 今度は、音声データだった。 再生すると、最初の一秒でわかった。 それは、凛の声。 優しく穏やかな声で、「子どもたちの荷物を忘れないで」「風が強いから気をつけて」と言っている。 そこには溢れんばかりの母親の愛情が詰まっていた。 彦辰はスマホを置き、黙って手を動かし続けた。 だが、相手は容赦なく次々とメッセージを送ってくる。 【凛は約束した。これからは毎年、子どもの日は子どもたちと一緒に過ごすって】 【僕たち四人家族で、A市に行くんだ!】 【まだ何にしがみついているんだ?「夫」という空っぽの肩書きに、死ぬまで縋るつもりか?】 【君のせいで、子どもたちは母親の愛を知らず、「ママに捨てられた野良の子」と罵られているんだぞ。それでも平気なのか?】 スマホが止まらず震え続ける。 そのまま電源を切った。 凛が部屋に入ったとき、彦辰はすでに全ての衣類を整然とまとめ、隅に積んでいた。 「彦辰、荷物なんてどうしたの?」 「ちょうどよかった。お前に渡したいものがあるんだ」 彼女に小さな、美しく包装された箱を差し出した。 「私にくれるプレゼント?」 「ああ。結婚記念日の日に開けてほしい」 凛は箱を軽く振ってみる。小さくて可愛い箱だ。 「アクセサリー?」 「うん」 それは——二人の結婚指輪だった。 凛は彦辰に指輪を贈らなかった。 けれど彦辰は、彼女に返すための指輪を用意していたのだ。 その結婚指輪とともに、この数年の想いも、彦辰自身の真心も、すべて彼女に返すのだ。 凛は何も知らず、嬉しそうに笑った。 「ありがとう、あなた。今回の出張が終わったら、ちょうど記念日ね。その時は絶対、一緒に過ごそう」 彦辰は静かに微笑み、何も言わなかった。 ——その「記念日」にお前と一緒に過ごすのは、きっと俺の「訃報」だろう。 第7話 五月五日——凛は、去っていった。 彼女はあらかじめ彦辰に言っていた。 「今回はとても忙しくなるから、連絡があまりできないかもしれないわ」と。 しかし、彼女に関する知らせは、むしろいつもより多かった。 すべて、彬人から送られてきたものだ。 写真も、動画もだ。 凛があの男の息子を連れてダイビングをしている映像。 あの男の娘を抱きかかえながら花火を見上げている写真。 子どもたちを寝かしつける姿。 ご飯を食べさせている姿。 【彼女は本当にいい母親だ。子どもの食事も服も全部、自分で世話してる。僕の出る幕なんてないんだ】 【子どもたちはママと一緒で、どれだけ幸せか。君は、あの子たちにまた「母親のいない日々」を過ごさせたいのか?】 【そうだ、凛は子どもたちに約束したよ。今度はA市だけじゃなく、島を一周する旅行に連れて行くって】 【凛が僕に買ってくれた新しい指輪だ、どうだ?】 添付された写真には、あいつの左手が写っていた。 その薬指に輝くのは、彦辰がかつて宝飾店で選んだ、あの男性用リングだった。 スマホをスクロールし、さっきの写真——凛が子どもにご飯を食べさせている——を見つけた。 彼女の右手の薬指には、彦辰との結婚指輪ではなく、彬人とおそろいの女性用リングが光っていた。 そのとき、電話が鳴った。 発信者は凛だ。 「彦辰、今ちょうど会議が終わったの。すぐに電話したのよ。家は大丈夫?」 スマホの画面に並ぶ写真を見つめたまま、静かに答えた。 「大丈夫」 「こっちはまだ仕事が片付かなくて、少し帰るのが遅くなりそう」 ——島を回る旅行、だろう。 短く「うん」とだけ返した。 「でもね、結婚記念日、忘れてないの!必ず帰って一緒に過ごすから。言ったでしょ?一緒に海に出て月を見ようって。あなたのプレゼントも、そのとき自分の手で開けて」 その時、電話の向こうから幼い声が聞こえた。 「ママ〜」 凛はすぐに電話を遮った。 「彦辰、ごめん、今ちょっと忙しいの。ちゃんとご飯食べて、体に気をつけて。帰ったら話そう」 プツッ——プー、プー、プー。 通話が途切れる。 彼女は切った。 だが、彦辰は少しも心配していなかった。 どうせその後の出来事は、あの男が親切に知らせてくれるから。 案の定、数分後には新しい動画が届いた。 「ママ、僕のお誕生日の願いはね、妹がもう一人ほしいの!」 「いもうとー!いもうとー!」と桐原の娘が手を叩いて叫ぶ。 凛は笑みを浮かべ、子どもたちを見つめて言った。 「じゃあ、ママ、頑張らなきゃ」 そして、彼女はあいつの方を見た。 カメラは、彼女の目尻の柔らかい笑みを映し出す。 「ねえ、パパ、あなたもそう思うでしょ?」 あの男がくすくすと笑った。 「僕も、一緒に頑張らなきゃ」 四人の笑い声が重なり、映像は幸せそうに揺れていた。 彦辰は、もう考えないことにした。 彬人の身体が回復したのかどうかなんて、どうでもよかった。 自然妊娠でも、体外受精でも——彼らが親であるという事実は変わらない。 スマホを閉じ、凛からもらった贈り物や、かつての手紙をすべて持って屋上へ向かった。 それに火をつけ、燃やした。 十年分の思い出は多すぎだ。 夜通し燃やして、ようやくすべて灰になった。 まるで天も味方してくれるかのように、夜明け前、H市に大雨が降った。 残った灰は、すべて流され、跡形もなく消えた。 そのあと——彦辰は倒れた。 一晩中冷たい風にさらされ、雨にも打たれ、高熱を出したのだ。 意識が遠のく中、かすかに使用人たちの声が聞こえた。 「旦那様、こんなに熱が高いなんて……江川社長に電話したほうがいいんじゃ?」 「そうだ、江川社長は旦那様のこと、あんなに大事にしてたんだから、きっと心配する」 「電話するんじゃないよ!」 鋭い声が響いた。——義母だった。 「凛はいま子どもたちと遊んでいるわ。誰も邪魔しないで!」 「でも旦那様の病気が重いですし、もし何かあったら……江川社長が帰ってきた時、どう説明したらいいんでしょうか?」 「あの男が死んだらちょうどいいわ。そうすれば、私の二人の孫を堂々と家に呼び戻せるじゃないの」 彦辰はもう声を出せなかった。 ただ、一筋の涙が、頬を伝って落ちた。 ——十五日後。 熱は少し下がったが、彼の体はまだ虚ろだ。 翔がやってきて、心配そうに尋ねた。 「海に出るなんて、リスクが高すぎる。救助船は用意したけど……今の状態で本当に大丈夫か?」 彦辰は歯を食いしばり、低く答える。 「運転してくれ」 翔が車を走らせ、海辺へ向かった。 岸には、一艘のヨットが停まっていた。 夜が訪れ、空には細い月が浮かんでいる。 「指定の地点に着いたら、ヨットの船体を破って沈め。落水したらすぐに救助船が出るよう手配する」 彦辰はうなずいた。 「わかった」 海風が強く、足元が揺れる。 翔は不安げに言う。 「やっぱり別の方法を考えよう? 今のお前を見てると……」 「今日で終わりにする。 彼女から完全に離れたいんだ。もう半月も待った、これ以上は無理だ」 ヨットのエンジンが唸り、海の奥へと進み始める。 そのとき、電話が鳴った。 画面には——凛の名前。 彦辰はそれに出た。 「なんだ?」 「彦辰!ごめんなさい、帰るのが遅くなっちゃった。今、飛行機を降りたばかりで。あなた、今どこにいるの?」 「俺はね」空を見上げて、そこには細い月が浮かんでいた。 「ヨットの上で、月を見てる」 「今一人?待ってて、すぐ港に——」 「もういい……凛、さようならだ」 そう言って、彦辰は手にしていたスマホを高く投げた。 スマホは、音もなく海へと沈んでいった——