Đang tải thông tin quảng bá...
霧の底の約束
世界一のお金持ちの一人娘、池田美希(いけだ みき)。彼女が恋に落ちたのは、会社が倒産し、数十億円もの借金を背負った青年、岩崎颯太(いわ...
Chương (1)
第1章
世界一のお金持ちの一人娘、池田美希(いけだ みき)。彼女が恋に落ちたのは、会社が倒産し、数十億円もの借金を背負った青年、岩崎颯太(いわさき そうた)だった。
身分を隠して颯太のそばにい始めてから3年。ついに彼はすべての借金を完済し、新しい会社を立ち上げて、上場を果たした。
壇上で輝いている颯太の姿を見て、美希は、そろそろ自分の正体を打ち明けるときだと思った。
予約しておいたお祝い用の個室の前まで来ると、ちょうど中から賑やかな声が聞こえてきた。
「颯太、美希さんはこの3年間、ずっとお前のそばを離れなかったじゃないか。ボロアパートにだって、文句も言わずに一緒に住んでくれた。もう借金も返したし、会社も上場したんだ。そろそろプロポーズしてやれよ」
「そうそう。会社を立ち上げたばかりで人を雇う金もなかったとき、美希さんが一人で何人分も働いてくれたんだ。毎日4時間しか寝ないでさ。面倒な交渉はいつも彼女が進んでやってくれた。こんなにいい子、どこ探してもいないって。早くお嫁に来てもらえよな」
ドアノブにかけた美希の手が止まる。心臓がどきんと跳ねて、知らず知らずのうちに緊張していた。
これまでだって、結婚のことを匂わせたことはあった。でもそのたびに、颯太は「まだ君に楽をさせてあげられないから」と、話をかわしてきたのだ。
会社も上場した今、彼は……結婚を考えてくれるかな?
「この3年間、美希が俺にしてくれたことは、全部覚えてる。俺も、この先の人生を共にするのは彼女だけだと思ってた。でも……」颯太はソファに深くもたれかかり、指先にはタバコの赤い火が光っていた。
その場にいた全員の視線が、彼に集中した。
ドアの外に立っていた美希も、ごくりと息を飲んだ。
「菫が、帰ってきたんだ」
第1話
世界一のお金持ちの一人娘、池田美希(いけだ みき)。彼女が恋に落ちたのは、会社が倒産し、数十億円もの借金を背負った青年、岩崎颯太(いわさき そうた)だった。
身分を隠して颯太のそばにい始めてから3年。ついに彼はすべての借金を完済し、新しい会社を立ち上げて、上場を果たした。
壇上で輝いている颯太の姿を見て、美希は、そろそろ自分の正体を打ち明けるときだと思った。
予約しておいたお祝い用の個室の前まで来ると、ちょうど中から賑やかな声が聞こえてきた。
「颯太、美希さんはこの3年間、ずっとお前のそばを離れなかったじゃないか。ボロアパートにだって、文句も言わずに一緒に住んでくれた。もう借金も返したし、会社も上場したんだ。そろそろプロポーズしてやれよ」
「そうそう。会社を立ち上げたばかりで人を雇う金もなかったとき、美希さんが一人で何人分も働いてくれたんだ。毎日4時間しか寝ないでさ。面倒な交渉はいつも彼女が進んでやってくれた。こんなにいい子、どこ探してもいないって。早くお嫁に来てもらえよな」
ドアノブにかけた美希の手が止まる。心臓がどきんと跳ねて、知らず知らずのうちに緊張していた。
これまでだって、結婚のことを匂わせたことはあった。でもそのたびに、颯太は「まだ君に楽をさせてあげられないから」と、話をかわしてきたのだ。
会社も上場した今、彼は……結婚を考えてくれるかな?
「この3年間、美希が俺にしてくれたことは、全部覚えてる。俺も、この先の人生を共にするのは彼女だけだと思ってた。でも……」颯太はソファに深くもたれかかり、指先にはタバコの赤い火が光っていた。
その場にいた全員の視線が、彼に集中した。
ドアの外に立っていた美希も、ごくりと息を飲んだ。
「菫が、帰ってきたんだ」
静まり返った部屋の中で、男の低い声がやけにはっきりと響いた。
「菫だと?!」仲間の一人が、思わず声を上げた。「3年前、お前の家が潰れた途端、あいつはあっさりお前を捨てて海外に行ったじゃないか!お前が雨の中でひざまずいて引き止めても、見向きもしなかったくせに。そんな金目当ての女を、まさかまだ忘れられないなんて言うつもりじゃないよな?!」
颯太はふうっと煙を吐き出した。立ちこめる煙の中で、表情はよく見えなかった。
長い沈黙の後、彼がぽつりとつぶやいた。
「ああ」
たった一言。でもその言葉は、毒を塗った刃のように美希の心臓を深く突き刺した。息もできないほどの痛みだった。
まさか。3年間、毎日颯太のそばにいて、どん底から這い上がるのを支えてきたのに。彼の心の中には、ずっと自分を捨てたあの女の人がいたなんて。
3年前、岩崎家はある日突然倒産し、莫大な借金を背負った。
当時の恋人だった谷口菫(たにぐち すみれ)は、颯太をあっさりと捨てて海外へ行ってしまった。
会社と恋人を同時に失うという二重のショック。それでも颯太は挫けず、「俺がいる限り、岩崎家は絶対に倒れません。必ず再起してみせます」と、公の場で宣言したのだ。
そのインタビューを偶然見ていた美希は、彼のその強い意志に一瞬で心を奪われた。
颯太に下心があるなんて思われたくなかったから、美希は自分が世界一のお金持ちの一人娘だという身分を隠した。そして、「昔、岩崎家に援助してもらった孤児」を名乗り、恩返しを口実に彼のそばにいることにしたのだ。
徹夜で仕事を手伝ったり、接待の席でわざと颯太を困らせる相手をうまくかわしたり。何日も休まずに働いて張りつめている彼の心を、そばで癒してきた。
3年間。1000回以上もの昼と夜を、ずっと颯太のそばで過ごしてきた。
そして、すぐそばで彼がどん底の毎日から一歩ずつ這い上がり、今日の成功を手にするまでを見届けてきたのだ。
まわりの誰もが言っていた。苦しい時を支えたのが本当の愛だ。会社が上場したら、颯太は真っ先に美希と結婚するだろう、と。
美希自身も、心のどこかでその日が来るのを期待していた。
それなのに、やっと会社が上場したというのに、颯太の口から出たのは、自分を捨てた菫をまだ忘れられない、という言葉だった。
ドアの前に立ちつくす美希の瞳から、涙がぽろぽろと、とめどなくこぼれ落ちた。
部屋の中では、まだ話が続いていた。
「じゃあ美希さんはどうするんだよ?3年間もお前を支えてきたのに、それでも菫にはかなわないって言うのか?お前の心に自分がいないって知ったら、あの子は絶対にお前の元を去ってくぞ!」
「いや、それはない」颯太はきっぱりと答えた。「美希は孤児だ。あの子にとって、俺はこの世で一番身近な人間なんだ。俺から離れられるはずがない。
でも、この3年間たくさん助けてもらったのは事実だ。望んでいる結婚はしてやれないけど、ちゃんとお金は渡すつもりだよ。一生、生活に困らないくらいにはね」
孤児、結婚はできない、一生困らないだけのお金……
その一つ一つの言葉が、重いハンマーのように美希の心を打ちつけた。目の前がぐにゃりと歪み、何も考えられなくなる。
もうこれ以上は聞いていられなかった。美希はふらつく足で、その場から逃げ出した。
人のいないところまで来ると、彼女は全身の力が抜けて、壁に沿ってずるりと座りこんでしまった。もうこらえられず、涙がただただ流れていく。
そうか、颯太にとってこの3年間は、お金で精算できる程度のものだったんだ。
でもね、颯太。自分は孤児なんかじゃない。世界一のお金持ちの一人娘なのよ。
そして自分は、心に他の女がいるような男のそばに、いつまでもいるほど落ちぶれてはいない。
あなたがくれるっていう一生困らないお金なんて、これっぽっちもいらない。
美希は顔の涙をぐいっと拭うと、スマホを取り出して母親の池田洋子(いけだ ようこ)に電話をかけた。
「お母さん?私は決めた。家に帰って、会社を継ぐ」
第2話
3年も離れて暮らしていた娘がついに帰ってくると聞いて、洋子はとても喜んだ。
「よかったわ!池田家の会社も、そろそろあなたに引き継いでもらわないとね。
そういえばこの間、私とお父さんに紹介したい人がいるって言ってたわよね。彼氏さんでしょ?今回は、彼も一緒に帰ってくるのかしら?」
颯太の会社が上場すると知った時、美希は決めていたんだ。上場日に、自分の本当の身分を明かして、彼を両親に紹介するって。だけど、今は……
美希はスマホを握る手に力を込めて、こみ上げてくる感情を必死で抑えつけた。
「彼氏なんていないわ。勘違いよ」
電話の向こうで洋子は一瞬言葉を失った。でも、結局なにも聞かずに、ため息まじりにこう言った。
「わかったわ。じゃあ、5日後にうちの会社が国内で記者会見をするの。美希、あなた会社の代表として出席してちょうだい。あなたが後継者だって、みんなにお披露目する良い機会だから」
美希は「うん」とだけ答えて、母親と少しだけ言葉をかわしてから電話を切って、部屋の前まで戻った。
「美希、いつ来たんだ?」ちょうど誰かが個室のドアを開けて、美希の姿に気づき、驚いたように声をかけた。
その瞬間、がやがやしていた個室がしんと静まり返った。
美希は、どこか熱を帯びたような、緊張したような視線が自分に突き刺さるのを感じた。
彼女はきゅっと唇を結ぶと、胸に広がる苦い思いを飲み込んだ。そして、なるべくいつもと同じ声で話せるように努めた。
「今、来たところ」
個室の奥で、颯太がほっと息を吐くと、笑顔で美希に声をかけた。
「ほら、早く入ってきなよ。このお祝いの席は、君がいないと始まらないんだから」
彼の言葉に、周りの仲間たちも口々にはやしたてた。
「だよな。もし美希さんがずっと颯太のそばにいてくれなかったら、会社もこんなに早く上場できなかっただろ」
「美希さんは颯太の仕事も手伝って契約を取ってくるし、プライベートでも彼の面倒を見てるだろ。マジで俺らからしたら羨ましいよな」
「お前さ、ちゃんと大切にしなきゃだめだぞ」
……
ここにいるのは、颯太と一緒に会社を立ち上げた気心の知れた仲間たちだ。そして彼らは、この3年間、美希がどんな時も颯太のそばを離れなかったのを見てきた。
美希には分かっていた。みんな、颯太に昔彼を振った菫を諦めさせようとしているんだ。
でも、当の颯太は話に乗ってこない。ただテーブルのグラスを手に取り、静かに一口飲むだけだった。
そのあからさまに話をそらす態度に、美希が気づかないはずもなかった。
彼女はひきつる口元をなんとかごまかし、なにも気づかないふりをして席についた。
「おめでとう」
美希のお祝いの言葉を聞いて、颯太が彼女のほうを振り向いた。その優しい表情は、さっきあんな冷たいことを言ったのが嘘のようだった。
「美希、この3年間、君がそばにいてくれたおかげだよ。もし君がいなかったら、俺は……」
彼の言葉は、個室の入り口から聞こえた不意な女の声にさえぎられた。
「颯太、私、帰ってきたよ……」
菫は目を赤くウルウルさせて、輪の中心に座る男をじっと見つめていた。
颯太はグラスを握る手にぐっと力を込め、指の関節が白くなる。彼の表情はみるみるうちに冷たくこわばり、一言ずつ区切るように言った。
「菫、よくもまあ、俺の前に現れたな」
颯太の氷のように冷たい様子を見て、美希は皮肉な気持ちで目を伏せた。
もしさっきドアの外で、彼が菫を忘れられないと話しているのを聞いていなかったら。きっと、この冷たい態度にすっかり騙されてしまっていたはずだ。
菫は唇を噛みしめ、今にも倒れてしまいそうにふらついた。
「私……あの時あなたのそばを離れたこと、怒ってるんでしょ。でも、私は……」
彼女はそこまで言うと口をつぐみ、それ以上は続けなかった。ただ、赤い目でこう言うだけだった。
「あなたの会社が無事に上場したって聞いて、直接おめでとうって言いたかったの。
お祝いも言えたしね。私がここにいたら邪魔なのはわかってるから。もう行くわ」
そう言うと、菫は悲しそうな顔で無表情の男を一眼見て、顔を覆って部屋を出ていった。
個室の中は、恐ろしいほど静まり返っていた。そこにいる全員の視線が、颯太に集まっている。
しばらくして、彼がふっと小さく笑い、グラスをテーブルに置いた。
「なんだよ、俺の顔ばっか見て。今日はお祝いの席だろ?関係ないやつのせいでしらけるのはなしだ。さあ、続けようぜ」
その言葉で、みんなもやっとまた騒ぎ始めた。
それからしばらく、みんなは示し合わせたように菫の名前を出さなかった。まるで、彼女なんて最初から来たことがなかったみたいに。
ただ、美希だけは気づいていた。颯太は仲間たちと笑いながらお祝いムードを装っているけれど、その視線は何度もひそかにドアの外へと向かっていた。
彼女は颯太から視線を外し、自嘲するようにグラスのお酒を飲み干した。
お祝いが終わり、みんなそれぞれに別れを告げる。
美希と颯太も、二人並んで駐車場へ向かった。
凍えるような冷たい風が吹いてきて、彼女は思わず自分の腕を抱きしめた。
その次の瞬間、あたたかいコートがふわりと肩にかかった。
「冷えるから、暖かくして」
優しい声とともに、颯太は美希のコートのボタンまで、丁寧にとめてくれた。
目の前で真剣にボタンをとめてくれる男を、美希はぼんやりと見つめた。ふと、3年前の寒い冬のことを思い出す。颯太と出会ったのも、ちょうどこんな冬だった。
あの頃の彼は本当にお金がなかった。暖房もない狭い部屋で、二人は寄り添って暖をとるしかなかったんだ。
自分の手足がまだ冷たいことに気づくと、颯太は夜中に何度も起きて、湯たんぽにお湯を入れては自分に渡してくれた。
世界一のお金持ちの令嬢である美希にとって、そんな苦しい生活はもちろん初めてだった。でも、あの凍えるような冬の夜に、自分の胸の奥で心臓があたたかく、そして力強く脈打つのを感じていた。
目の前の光景が、一瞬にして彼女をあの冬の夜に引き戻した。答えはもうわかっている。それでも、どうしても自分の口で、颯太に答えを問いただしたくなった。
「颯太、私と、結婚してくれる?」
第3話
その言葉を聞いたとたん、颯太はぴたりと固まった。
彼の瞳が、わずかに揺れる。
「美希、会社が上場したばかりで、今は本当に忙しい時期なんだ」
本当に仕事が忙しいの?それとも、愛していないことの言い訳?
美希はふっと軽く笑って、静かにうなずいた。
「ええ、わかったわ」
質問をはぐらかすなんて、それがもう答えみたいなものだ。
彼女はそれ以上何も聞かず、まっすぐ駐車場に向かった。
でも、数歩も進まないうちに、隣を歩いていた男の足が不意に止まった。
彼の視線の先を見ると、遠くの道端に、薄暗い街灯の光に照らされながら、膝に顔をうずめてしゃがみ込んでいる人影が見えた。
それは、菫だった。
颯太はその人影に釘付けになり、かすれた声で言った。
「ごめん、用事ができた。先に帰っててくれ」
そう言うと、彼は菫の方へ大股で歩いていった。
美希の足は、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
颯太が菫の腕をつかんで、隅っこへと連れていくのを、彼女はただ見つめていることしかできなかった。
菫はよろめいたけど、颯太は支えようとはしなかった。でも、歩く速度はわずかに落としていた。
美希は知らず知らずのうちに拳を握りしめると、結局二人の後を追うことにした。
廊下の曲がり角で、颯太は菫の手首を掴んでいた。その目は赤く充血している。
「もう行くって言ってただろ。なんでまだこんな所にいるんだ?」
菫は目を赤くして彼を見つめた。
「私は、もう一度だけ、あなたに会いたくて……」
颯太は冷たく笑うと、歯を食いしばるように言った。
「あの時、あんなにあっさり俺を捨てていったくせに。今さら何しに戻ってきたんだ?」
菫は彼の手を振りほどくと、その腰に勢いよく抱きついた。肩に顔をうずめ、声を詰まらせる。
「あなたから離れたかったわけじゃないの。父に、別れろって……もし言うことを聞かなかったら、あなたが潰れるように手を回すって、脅されたの」
颯太は菫を突き放さなかった。ただ、両手を固く握りしめ、何かをこらえるように呟く。
「どんな事情があったにしろ、俺に話してくれればよかったんだ。そうすれば二人で何とかできたのに。それをお前は、黙っていなくなることを選んだ。そして3年も経った今ごろ、戻ってきたっていうのか。
俺が、かつて自分を見捨てた女なんか、今さら要ると思うか?」
菫の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。彼女は涙で滲む瞳で颯太を見上げる。
「今回戻ってきたのは、あなたとやり直したいなんて、そんな贅沢を言うためじゃないの。この3年間、あなたのそばには他の人がいたってわかってる。ただ、もう一度だけでも会いたかったのよ」
そう言うと、菫はそっと手を離し、数歩後ずさった。その声は、もう途切れ途切れだった。
「あなたが元気でやってるってわかっただけで、私は満足だから。もう、あなたの前から……」
でも、言葉を言い終わる前に、彼女の体は崩れ落ちるようにして意識を失った。
少し離れた場所に立っていた美希は、颯太がもう冷たい表情を保てなくなったのを見た。彼はすぐに気を失った菫を、その腕に抱きとめていた。
「菫?」颯太の声は、かすかに震えていた。
彼女がただ感情的になって気を失っただけだとわかると、颯太は目に見えてほっとした様子だった。
彼はその頬を優しく撫でた。もう本当の気持ちを押し殺すことなく、愛しさと切なさが入り混じった目で、腕の中の女性を見つめる。
「菫、まったく、お前には敵わないな」
そう言うと、颯太は菫を抱きかかえた。
美希はそこに立ち尽くし、彼の後ろ姿が遠ざかっていくのを見ていた。
ふと頬に何かが伝うのを感じて手で触れると、そこはもう涙で濡れていた。
この3年間、颯太はずっと自分に優しかった。一番お金がなかった時でさえ、彼自身の分を切り詰めて、自分にプレゼントを買ってくれた。
だから自分は、これが愛なんだって信じていた。
でも今日、颯太と菫のやり取りを目の当たりにして、ようやく気がついた。ああ、これがあの人が本気で人を愛するときの姿なんだ、って。
本気で怒ったり、つい素直じゃないことを言ったりする。
自分に向ける、あのいつもの作り物の優しい仮面じゃない。
第4話
その日の夜、颯太は帰ってこなかった。
夜も更けたころ、美希がショート動画を見ていると、近所で撮られたらしい投稿が流れてきた。
動画のなかで、男の人が屈みこんで、ごつごつした大きな手で病院のベッドの布団をかけ直している。
添えられたキャプションは、たった二文字。【再会】とだけ書かれていた。
男の顔は映っていなかった。でも、美希にはそれが颯太だとすぐにわかった。
日の当たらない部屋で暮らしたあのころ、自分は何度もあの手に抱きしめられて眠ったのだ。見間違えるはずがない。
ということは、つまり……
彼と菫は、もうよりを戻したんだ。
スマホの画面をずっと見ていたせいだろうか、なんだか目の奥がじんわりと熱くなった。
美希はスマホの電源を落とすと、布団を頭までかぶって、無理やり眠りについた。
翌朝、美希は階下からの騒がしい声で目を覚ました。
階段をおりると、リビングには颯太と菫が座っていた。そばにはスーツケースがいくつか置かれている。
美希の姿に気づくと、颯太は小さく咳払いをした。
「菫が国内に戻ってきたんだが、行くあてがないそうで。しばらく、ここで暮らすことになった」
菫が彼の背後からひょっこり顔を出し、申し訳なさそうに尋ねてきた。
「池田さん、私がここに住んだら、ご迷惑じゃないでしょうか?」
美希は気にしていない、と首を横に振る。そして、そのままキッチンへ向かい、朝食のトーストを焼いた。
この別荘は、颯太の会社が軌道に乗りはじめた頃に買ったものだ。だから彼が誰を住ませようと、自分には関係ない。
それに、自分だってここをもうすぐ出ていくのだから。
菫はスーツケースを手に、二階へ上がっていった。
その直後、二階から甲高い声が聞こえた。
菫が腕時計を手に階段をおりてくると、それを颯太の目の前にかかげた。
「颯太、これって昔私があげた誕生日プレゼントの。まさか、まだ持っていてくれたなんて」
美希は、思わずその腕時計に目をやった。借金の取り立てが一番ひどかった時期のことを、ふと思い出したからだ。
あの頃、彼は別荘や高級車、骨董品といった金目のものを、すべて銀行の担保に入れたというのに、この腕時計だけは迷った末に手放さなかった。「これは、まだ持っておこう」と言って。
あのときの颯太の目には、何かを懐かしむような、惜しむような色が浮かんでいた。
それから3年間、彼はよくその腕時計を取り出しては、じっと見つめていたものだった。
美希はてっきり、家族の形見か何かだと思い込んでいた。
それがまさか、菫からの贈り物だったなんて、今日このときまで知らなかった。
颯太がこの時計を大事にしていたのは、菫を思い出すための、ただの思い出の品だったからだ。
この瞬間、美希はようやく悟った。この3年、彼の心に近づけたと思っていた自分が、どれだけ滑稽だったのかを。
この3年間、この男は一度だって菫を忘れたことなんてなかったのだ。
菫に捨てられて海外へ行かれても、颯太はまだ彼女を忘れられずにいた。
菫が目の前に現れて、涙をこぼし、少し言い訳をする。たったそれだけで、颯太は辛かった過去なんて忘れて、彼女を許してしまうんだ。
美希は自嘲するように口元をゆがめ、くるりと背を向けた。もうあの二人を見たくなくて、そのまま二階へ駆け上がった。
それからの数日、菫はまるでこの家の女主人のようにふるまい、家の中はすっかり彼女の色に染まっていった。
菫がグレーのカーテンは嫌い、と一言もらしただけで、颯太は業者を呼んで彼女が好きなアイボリーのものに取り替えさせた。
壁の色が暗すぎると言えば、すぐに暖かい色合いのペンキで塗り直させた。
ジュリエットローズが見たいと言えば、海外から新鮮な苗木を空輸させ、庭に植え替えさせた。
もともとこの別荘を買ったとき、颯太は仕事で忙しかった。だから家具選びから内装のデザインまで、すべて自分がひとりでやったのに。
それなのに今、自分のつけた痕跡がひとつ、またひとつと消されていくのを、ただ見ていることしかできない。
そうして消えていく痕跡と一緒に、颯太への愛情も、少しずつ薄れていった。
第5話
記者会見の前の日、偶然にも颯太の母親・岩崎理恵(いわさき りえ)の誕生日だった。
岩崎家が再起してから初めてのパーティーだから、すごく盛大に開かれた。
午後に、颯太はわざわざヘアメイクを呼んだ。さらに、秘書にオークションで高級ジュエリーをたくさん落札させて、持ってこさせた。
菫はヘアメイクに指示して、ジュエリーをつけさせ始めた。
一方、美希は箱の中のジュエリーを見て、首を横に振るだけだった。
「私は、こういうのはつけない」
颯太は一瞬きょとんとして、それから笑って言った。
「美希、もう会社も上場したんだ。もう俺のために節約しなくていいんだよ」
菫は、わざと気遣うふりをして口をひらいた。
「颯太、池田さんがつけたくないなら、無理強いはよくないわ。池田さんはご両親がいないって聞いたから、こういうのに慣れてないのかも」
美希は冷静に言った。
「ええ、たしかに慣れていませんね」
なにしろ彼女のアクセサリーは、いつも何億円、何十億円もするものばかり。数千万円レベルのジュエリーなんて、たしかにつけ慣れない。
美希がそう言い張るので、颯太もそれ以上は無理強いしなかった。
パーティー会場に着くと、ほとんどの招待客はもう集まっていた。
颯太は取引先の人たちに囲まれて、別の場所で話し込んでしまった。その場には美希と菫だけが残された。
美希は知らない人と一緒にいるのが好きじゃない。だから、まっすぐそばにあったデザートのテーブルに向かった。
彼女が離れると、令嬢たちがみんな菫の周りに集まってきた。
「菫さん、すごいわね。帰国してすぐ、また岩崎社長の隣にいられるなんて」
「そうそう!3年も離れてたのに、また一緒になれるなんて。岩崎社長は、ずっとあなたのことが忘れられなかったのね」
「そりゃそうよ。昔、岩崎社長がどれだけ菫さんのことを大事にしてたか、有名だったじゃない」
それを聞いて、菫は口元を上げた。目には得意げな色が浮かんでいる。こっそり美希に視線を送ってから、わざと照れたように言った。
「やだ、変なこと言わないで。私は帰国したばかりで、少しだけ颯太の家に住まわせてもらってるだけよ。この3年間、颯太のそばにいたのは池田さんなんだから。彼の心にもう私はいないわ。今はただの友達よ」
そう言いながら、彼女は少しだけ目を赤くした。
周りの人たちはその言葉を聞いて、みんな軽蔑するような目で美希を上から下までじろじろ見た。
この誕生日パーティーに来られるのは、お金持ちか、地位のある人ばかり。だから、親のいない美希のことを見下すのも当然だった。
彼女たちは特に声をひそめるわけでもなく、美希にはその会話が全部はっきりと聞こえていた。
「岩崎家は今や再起して、岩崎社長はいまや引く手あまたの新星よ。親もいない女が、自分の立場もわきまえないで」
「ほんとそう。岩崎家が落ちぶれたときに取り入っただけでしょ。岩崎社長がこの数年の恩を考えてそばに置いてあげてるだけ。今の彼に、あんな身分の人が釣り合うわけないわ」
彼女たちの見下した言葉を聞いて、美希はふっと笑った。
たしかに、自分と颯太の身分は釣り合わない。
でも、それは自分が彼に釣り合わないという意味じゃない。
彼の方が、自分に釣り合わないのだ。
誕生日パーティーが本格的に始まると、みんな次々に持ってきたプレゼントを理恵に手渡した。
美希も、用意していた最高級の真珠のペンダントを贈った。
理恵はプレゼントを受け取ると、箱を開けて中を見ようともせず、すぐ後ろの使用人に渡してしまった。
そして、美希の手を取って、にこやかに言った。
「美希ちゃん、この3年間、颯太のそばを離れずにいてくれて本当にありがとう。あなたが来てくれただけで、私は嬉しいのよ。プレゼントなんてよかったのに。
颯太の会社も上場したし、あなたのこの恩には、私たち岩崎家は必ず報いないと。何が欲しいか言ってちょうだい。たとえば、別荘なんてどう?」
子供のころから裕福な名家で育った美希が、理恵のやさしそうな顔の裏にある本当の目的に気づかないはずがなかった。
これは遠回しな警告だ。この3年間そばにいたことへの見返りは、お金や物だけ。それ以外はありえないと。
岩崎家が破産したとき、自分が来てくれたことに理恵は感動して涙を流した。この3年間、ずっと自分によくしてくれていたのに。
でも今は、岩崎家が再起したとたん、理恵は自分と距離を置き始めたのだ。
これまで人の心の移ろいやすさを何度も見てきた美希でさえ、さすがに心の中で嘲笑わずにはいられなかった。
もともと、この誕生日パーティーに来たのは理恵に別れを告げるためだった。でも、もうその必要もなさそうだ。
そのとき、菫が理恵の前に箱を差し出した。
「おばさん、これは私からのプレゼントです。気に入ってくださると嬉しいのですが」
箱が開けられると、色とりどりの宝石をちりばめたネックレスがみんなの前に現れた。
理恵は、かつて息子を捨てた菫のことを内心恨んでいた。でも、このきらびやかなネックレスを見ると、思わず感嘆の声をあげてしまった。
菫はその反応を見逃さず、口元をつり上げた。
「これはE国王室のネックレスなんです。海外で落札したんですけど、一目見たときから、おばさんの雰囲気にぴったりだと思います」
理恵はたしかにこのネックレスがとても気に入ったようで、待ちきれない様子で手に取り、自分の首にあててみていた。
周りからは、感心する声と社交辞令の褒め言葉が飛び交った。
美希は部屋の空気が息苦しく感じられて、その場を離れようと背を向けた。
けれど、菫はわざと彼女を呼び止めた。
「私がおばさんに贈ったこのプレゼント、どう思いますか?」
美希は理恵の手にあるネックレスに視線を移した。一瞬、目を見張り、それから落ち着いた声で言った。
「デザインはきれいだし、作りも上等です」
その評価を聞いて、菫の目に浮かぶ得意げな色がさらに濃くなった。でも、次の瞬間――
「よくできた偽物ですね」
第6話
「偽物」という言葉に、菫は頭を殴られたような衝撃を受けた。瞳の奥に一瞬だけ焦りが浮かんだが、すぐに信じられないという表情を作る。
「池田さん、これは私がオークションで手に入れたものですよ。偽物なわけないじゃないですか?」
理恵の顔も、少し曇っていた。
そのとき、周りにいた誰かがからかうように言った。
「あんな身寄りのない子に、宝石の価値なんてわかるわけないでしょ。きっと、でたらめを言ってるのよ!」
その一言をきっかけに、周りの人たちも口々に同意し始める。
「そうよそうよ、谷口さんが偽物をプレゼントするわけないわ」
「宝石のことなんて何も知らないくせに、本物か偽物かなんて偉そうに。ほんと、笑っちゃうわ」
嘲笑う声はどんどん大きくなり、菫も落ち着きを取り戻した。そして、美希を軽蔑した目で見つめる。
ちょうど話を終えた颯太がやってきて、その会話を耳にした。彼は申し訳なさそうに皆に軽く頭を下げる。
「すみません、みなさん。彼女は、こういうことには詳しくないもので」
そう言ってから、颯太は美希の方へ向き直り、少しとがめるような口調で言った。
「美希、こんな大事な場所で、でたらめを言うもんじゃない」
美希はひるむことなく、彼の目をまっすぐに見つめ返した。
「私は、本当のことを言っただけよ」
あのネックレスは、ずっと前に母が落札したものだった。だから、これは偽物に決まっている。
菫は颯太の袖をくっと引き、悲しそうな声で言った。
「もしかして池田さんは、私のこと嫌いなの?だから、こんなことを言って、おばさんに私の悪い印象を植え付けようと……」
それを聞いて、颯太の瞳に怒りの色が宿った。
「菫は君に何もしていないだろう。どうしてそんなひどいことをするんだ。彼女はただ、母のお祝いに来てくれただけなのに」
颯太の迷いのない言葉に、美希はじっと彼を見つめた。ふと、会社を立ち上げたばかりの頃を思い出す。あの頃、理不尽な取引先に責められたとき、颯太は大事な契約を投げうってでも、ためらわずに自分を信じて守ってくれたのに。
でも今は、颯太が本当に愛する人が帰ってきた。
だから彼が守る相手も、当然のように自分から菫になった。
結局、美希は何も言わなかった。息が詰まりそうなパーティ会場に、もういたくなかった。彼女は静かに背を向けて、その場を去った。
上の階のベランダへ出て、少し空気を吸おうとした。すると、後ろから聞き慣れた声がする。
「この数日で、もうお分かりでしょう?あなたが3年間、甲斐甲斐しく颯太のそばにいたからって、何だと言うんですか?結局、彼が心の中で愛してる人は私なんですよ!」
菫は偽りの仮面を脱ぎ捨てていた。その嘲るような口調は、さっきまでのか弱い姿とはまるで別人だ。
美希はちらりと彼女に視線を向ける。これ以上関わりたくなかったので、適当に返事をした。
「それじゃあ、谷口さん、おめでとうございます」
菫は、一瞬ぽかんとした。美希がこんなにも平然としているとは、思ってもみなかった。
次の瞬間、彼女は美希の手首を掴み、興奮した様子で詰め寄った。
「颯太が愛しているのが私だと分かっているくせに、どうしてまだ彼のそばにいるんですか?私が帰ってきたんだから、さっさと消えなさいよ!
あなたみたいな、貧乏で後ろ盾もない女が、颯太にふさわしいとでも思っているんですか?鏡で自分の顔をよく見てみなさいよ!」
女の鋭い爪が、美希の手首に食い込む。彼女はとっさに手を振りほどこうとした。
でも菫は、その手を絶対に離そうとしなかった。
二人がもみ合っているうち、突然、菫がバランスを崩した――
彼女は驚いて目を見開いたまま、後ろへ倒れ込んでいく。
美希は息を呑み、とっさに手を伸ばして菫を掴もうとした。
でも、間に合わない。ただ、彼女が階段を転がり落ちていくのを見ていることしかできなかった。
大きな物音がして、下の階のパーティ会場にいた全員がそちらに注目した。
颯太は、床で苦しげにうめく菫を見ると、顔色を変えて駆け寄り、彼女を抱きかかえる。
「菫、大丈夫だ。すぐにお医者さんを呼ぶからな」
彼の声は、かすかに震えていた。
「颯太」菫は弱々しい手で颯太の頬に触れる。「池田さんは……わざとじゃ、ないの……」
そのわざとらしいひと言は、かえってすべての責任を美希に押し付けるものだった。
颯太はすぐさま顔を上げ、美希をにらみつけた。その眼差しは、凍えるように冷たかった。
「美希、なぜ菫を押したんだ?さっき彼女に濡れ衣を着せただけじゃ、まだ足りないのか!」
美希は、無意識に手のひらに爪を立てていた。彼が信じてくれないことはわかっていたが、それでも説明しようとする。
「私じゃない。彼女が自分で足を滑らせて、落ちたのよ」
颯太の表情はさらに冷たくなり、声も硬くなった。
「そうか。認めないなら、菫と同じ目に遭わせてやる」
そう言うなり、彼はボディーガードに上へ行くよう合図した。
美希の心臓が跳ね上がった。彼女はじりじりと後ずさりする。
「信じられないなら、防犯カメラを確認して!言ったでしょ、私じゃないって!」
それでも颯太はまったく聞く耳を持たず、ボディーガードに目配せをした。
指示を受けたボディーガードたちは、美希を押さえつけて階段のふちへと追いやる。
美希は必死にもがいた。でも、男の力には、とうていかなわない。
次の瞬間、背後から強い力で突き飛ばされた。
美希は目の前がぐらりと揺れるのを感じた。全身が大きなトラックに轢かれたような衝撃。生温かい液体が、額からつーっと流れてくる。
地面に倒れたまま、彼女は必死に目を開ける。見えたのは、颯太が菫を抱きかかえ、去っていく後ろ姿だけだった。
目尻から一筋の涙がこぼれ落ち、次の瞬間、美希の意識は暗闇へと沈んでいった。
第7話
気がつくと、病院のベッドで寝かされていた。
颯太がベッドのそばに立っていた。その顔はいつもの優しさとはうってかわって、氷のように冷たかった。
「美希、岩崎家がどん底だったころにそばにいてくれて、すごく感謝してる。でも、だからって菫に手を出していいわけじゃない。
あの子に謝ってほしい」
美希は彼を見つめて、ふっと笑みをこぼした。
なるほど。颯太が病室にいてくれたのは、自分のことを心配してたからじゃない。目が覚めたらすぐに、菫に謝らせるためだったんだ。
そりゃそうか。自分を階段から突き落とすよう命じた人が、怪我の心配なんてするわけない。
「謝らないわ。だって、突き落としたのは私じゃないもの」
まだ言い訳をする美希を見て、颯太はじっとりと彼女を見つめた。その瞳には、失望と怒りが宿っていた。
「じゃあ、病院で一人で反省してろ。自分の非を認めるまで、岩崎家に戻ることは許さない」
そう言い捨てると、彼は病室のドアを乱暴に閉めて出て行った。
颯太は急いでいたから、美希のつぶやきが聞こえるはずもなかった。
「颯太、私は自分の家に帰るから。岩崎家にはもう二度と戻らない」
そのとき、スマホがヴーッと鳴った。
母親の洋子からだった。
【美希、記者会見は3時間後に始まるわよ。場所はここね】
手短に返事をすると、美希は腕の点滴を引き抜き、退院手続きを済ませた。そして、母親から教えられた住所へと急いだ。
……
一方、そのころ。
颯太は、菫の容態について医師から詳しく話を聞いていた。
彼女に大事はなく、かすり傷だけだと聞いて、颯太はほっと胸をなでおろした。
「菫、安心して。必ず美希に謝らせるから」
菫は一瞬、目をきらめかせたが、すぐに寛大なふりをして口を開いた。
「いいの。池田さんは3年もあなたのそばにいてくれた人よ。私のせいで二人の仲が壊れるのは嫌。今回は、私が自分で転んだってことにしておく」
しかし、颯太は譲らなかった。
「だめだ。悪いのはあっちなんだから。謝るのが当然だろ」
菫はかすかに口元を上げたが、すぐに心配そうな顔に戻り、ためらいがちに言った。
「でも、もし池田さんが怒って、機嫌を損ねちゃったらどうするの?」
颯太の脳裏に、ベッドに横たわっていた美希の、何の感情も映さない瞳が浮かんだ。なぜか、妙な胸騒ぎがした。
今まで、美希があんな目で自分を見たことはなかった。まるで……自分との関係を断ち切ろうと、心に決めたかのような目だった。
だが颯太は、次の瞬間にはその妙な考えを頭から振り払った。
美希は身寄りのないただの女の子だ。3年前、自分が何もかも失ったときでさえそばにいてくれた。そんな彼女が、今になって自分との縁を切るなんて、ありえない。
この世で美希が一番頼りにしているのは、自分のはずだ。
幸い、菫は大事に至らなかった。美希がきちんと謝りさえすれば、許してまた家に連れ戻してやろう。
「そんなことにはならないさ」颯太は自信たっぷりに言った。
菫は目を伏せ、瞳の奥に宿るどす黒い嫉妬を隠した。
再び顔を上げたときには、もういつもの優しい表情に戻っていた。
「それならよかったわ」
そのとき、テレビでは偶然にも池田家の記者会見が生中継されていた。
池田家の後継者が初めて公の場に姿を見せるこの会見は、ごく一部のトップメディアと、超一流の名家だけが招待されていた。新興の岩崎家が、招待されるはずもなかった。
司会者がマイクを握り、興奮した声で叫んでいる。
「それでは皆様、盛大な拍手でお迎えください!池田家ご令嬢、池田美希様です!」
美希?
聞き覚えのある名前に、颯太ははっと顔を上げた。そして、テレビの画面に食い入るように視線を注いだ。
まだ心のどこかで、人違いだろうという望みを捨てきれずにいた。
そうだ、ただの同姓同名だ。きっと、そうに違いない。
しかし次の瞬間、画面のど真ん中に映し出されたのは、あまりにも見慣れた顔だった。
それは、身寄りのない子だと思い込んでいた――美希だ。