深淵から安らぎの港へ

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「有馬社長の相手になってくれ」 五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分...

Chương (1)

第1章

「有馬社長の相手になってくれ」 五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分を教え込んだ。 そして五年後、私は彼の結婚式の控室で、化粧ブラシを手に新婦のメイクをしていた。 そのとき、彼は人前で私を鏡に押しつけ、かすれた声で言った。「五年だ……ようやく戻ってきてくれたのか?」 私はゆっくりと口元のマスクを外した。 「石垣さん、お控えください。私はあなたの婚約者様からご依頼を受けた、専属のメイクアップアーティストです。 何しろ、教えてくれたのはあなたご本人ですから。私たちのような『玩具』が一番覚えるべきなのは、ご主人様の結婚式で笑って奉仕することです」 第1話 「有馬社長の相手になってくれ」 五年前、石垣悠馬(いしがき ゆうま)はたった一言で、私、江口七海(えぐち ななみ)に「玩具」としての本分を教え込んだ。 そして五年後、私は彼の結婚式の控室で、化粧ブラシを手に新婦のメイクをしていた。 そのとき、彼は人前で私を鏡に押しつけ、かすれた声で言った。「五年だ……ようやく戻ってきてくれたのか?」 私はゆっくりと口元のマスクを外した。 「石垣さん、お控えください。私はあなたの婚約者様からご依頼を受けた、専属のメイクアップアーティストです。 何しろ、教えてくれたのはあなたご本人ですから。私たちのような『玩具』が一番覚えるべきなのは、ご主人様の結婚式で笑って奉仕することです」 化粧室の空気が、一瞬で凍りついた。 花嫁の水野朋美(みずの ともみ)の頬に浮かんでいたはにかみが口元で固まり、みるみるうちに血の気を失っていった。 部屋の中、ブライズメイドとアシスタントたちは息をひそめ、空気の中を高価な香りだけが静かに漂っている。 すべての視線が私に突き刺さるのを感じる。好奇、探り、そしてわずかな嘲り。 五年――二千日を超える歳月の間、何度も再会を想像していた。だが、まさか彼の結婚式での再会だとは思ってもみなかった。 黒い制服にマスク、手にはリキッドルージュのついたメイクブラシ。彼の美しい花嫁の背後で、私はただの背景にすぎない。 それでも、彼はドアを開けた瞬間に私を見つけた。 まったく……よく気づいたものね。 私はまぶたを伏せ、彼が強く握りしめた私の手首をみた。皮膚はもう赤く変わっていた。 そして、空いた方の手で、彼の冷たい指を一本ずつ静かにほどいていった。 「この方」彼の制御を失った視線を正面から受け止め、私は波ひとつ立たない声で言った。「人違いです」 一歩後退して、私たちの間に、危険すぎるほどの近さにちょうどよい線を引いた。 「水野様より、本日の花嫁メイクをご依頼いただいております、メイクアップアーティストです」 悠馬は私を射抜くように見つめ、胸が激しく上下していた。 朋美は無理に笑みを作り、彼の腕にすがりついた。「悠馬!彼女を怖がらせないで!」 しかし彼はまるで聞こえていないかのように、突然手を伸ばし、私が反応するより速く、私のマスクを引きはがした。 ひんやりとした空気が頬を撫でる。 彼は貪るように私の顔を見つめ、周囲から押し殺した息の音が漏れた。 この顔は、五年前よりもあどけなさが消え、時の流れに磨かれた冷ややかな輪郭を帯びている。 彼の瞳の奥で荒れ狂う波を見つめながら、私はふっと笑った。 「石垣社長、五年ぶりですね。ご挨拶の仕方が相変わらず……」 視線を会場の来賓たちへと流し、軽く息を吐いた。 「みっともないですね」 彼の瞳孔が一瞬で縮んだ。 朋美が怒りに震え、私を指差した。「あんた!どうしてそんな口をきくの!」 私は彼女を無視し、ただ悠馬を見つめた。かつて私を天に持ち上げ、そして自らの手で地獄に突き落とした男を。 「だって――」私は首を少しかしげ、言葉を一つひとつ突き刺すように吐き出す。「あなたが教えてくれたんでしょう? 私たちみたいな『玩具』が一番覚えるべきことは、ご主人様の結婚式で、笑顔で仕えることを。 どうでしょう?ちゃんと身につけたと思いませんか?」 悠馬の顔色が、一瞬で真っ白になった。 いつも傲慢さを湛えたその瞳に、初めて怯えと痛みのような色が差した。 彼は口を開き、何かを言おうとした。 私はただ身をかがめ、落ちたマスクを拾ってつけ直した。そして花嫁の方へ向き直り、事務的な微笑みを浮かべた。 「水野様、リップが少し崩れています。今直しますね。時間があまりありません。式がもうすぐ始まります」 新しいリップブラシを手に取り、高価な特注色のリップをとった。まるで、ついさっきの嵐など、最初から何もなかったかのように。 ただ、わずかに震える指先と胸の奥の鈍い痛みだけが、私に告げている。 ――石垣悠馬、私の地獄が戻ってきた。 だが今回は違う。私は刃を握り、鎧に身を固めている。 第2話 私は朋美の唇の輪郭を丁寧に描きながら、鏡の中に映る悠馬の姿がはっきりと見えた。 彼は相変わらずドアの前に立ち尽くし、まるで彫像のようだ。かつては気だるげな色を湛えていたその瞳が、今は私の背中を射抜くように見つめている。 その視線は、背筋に穴が開きそうなほど熱を帯びていた。 化粧室では、ブライズメイドたちが意味ありげな視線を交わし、空気が一気に重くなった。 私はただ少し身をかがめ、指先で朋美の口角に広がる鮮やかすぎる赤をそっとぼかした。 その瞬間、ふと心が遠のいた。 かつて、私は別の男に、同じように丁寧に口紅を塗ったことがあった。 ただ違うのは、あのときは街のネオンを見下ろせる彼の最上階のマンションで、そして、それは私たちだけの深夜だったということ。 五年前。 消毒液の匂いと取り立ての電話にまみれた泥沼のような日々。悠馬は私をどん底から救い出し、金と権力で守られた宮殿に住まわせた。 彼は私に、これまで感じたことのない安心感を与え、夢のように甘いロマンスをくれた。 あの頃の私は、ただ彼の胸の中にもたれ、窓の外の夜景を眺めながら、何気なく「海を見に行きたいな」とつぶやいただけだった。 三か月後の誕生日、彼はなんと一つのプライベートアイランドを丸ごと貸し切った。 ヘリが柔らかな白い砂浜に降り立つと、悠馬は私の手を取り、指を絡めたまま、誰もいない海辺を並んで歩いた。 夜の帳が完全に降りたその瞬間、海岸線が一斉に光を放ち、漆黒の空を背景に無数の花火が轟音とともに咲き乱れ、やがて私の名前のイニシャルを描き出した。 NNM。 色とりどりの光に包まれる中、彼は背後から私を強く抱きしめ、顎を私の頭にそっと乗せた。声には溢れるほどの優しさが滲んでいた。 「気に入った?」 私は彼の胸の中に身を預け、目の前に広がる一瞬の、けれど息をのむほど美しい光景を見つめた。胸の奥が、現実とは思えないほどの幸福で満たされていた。 彼は、私のささいな好みまで全部覚えていた。 コーヒーには角砂糖を三個。一個多ければ甘すぎて、少しでも足りなければ苦すぎること。 寒がりの私のために、冬の夜はいつも、冷えた足を彼の温かな胸元で包んでくれること。 そして、ある日ふと花屋の前で「このバラの香り、素敵」と口にしただけで、家に恒温のガラス温室を作り、世界中の名高いバラを集めてくれた。窓を開けた瞬間に、その香りが私を包み込むように。 彼は、私に彼の世界での数えきれない「特権」を与えてくれた。 彼の、絶版本で埋め尽くされた書斎を、私は自由に使うことができた。 重要なクライアントとのビデオ会議の最中でも、素足のまま歩み寄って彼の胸に飛び込み、甘えることもできた。 ほんの些細なことで拗ねて見せても、彼はいつもプライドを捨て、根気よく、あらゆる方法で私を笑顔にしようとしてくれた。 彼の周りのすべての人、たとえ目線の高い名門の御曹司たちでさえ、私の前では傲りを収め、「江口さん」と丁寧に呼んでくれたのだ。 彼は私のために、温かく明るいガラスの温室を丹念に築き上げた。塵の中で必死に生きようとしていた小さな種である私を、そっとそこへ移し替え、最も高価な養分と、最も繊細な愛情で大切に育ててくれたのだ。 私はそれが唯一無二の偏愛だと思っていた。 彼にとっての私は、特別な存在だと信じていた。 彼が紡ぎ出した優しさの網に完全に囚われ、私はまるで彼に寄り添って生きる蔦のように、彼に絡みついていた。 彼が与えてくれる陽の光と雨露を、貪るように吸い上げていた。 彼のくれる究極のロマンと安心感の中で、私は少しずつ自分という存在の形も、居場所も忘れていった。 そして気づかぬうちに忘れていた。花を育てる者が、温室の中で最も貴い薔薇に注ぐ惜しみない手間は、決して愛とは限らないということを。 それはきっと、所有物への丁寧な手入れにすぎない。 自分を喜ばせるために、その花が最も美しい姿を保つよう仕組まれた、長期的な投資のようなものだったのだ。 第3話 「リサ先生?」 朋美の不機嫌さを隠す気すらない声が、突然私を現実へと引き戻した。 はっとして我に返り、瞬きを一つした。 鏡の中には、少し血の気を失った私の顔と、いまだに私に視線を注ぐ悠馬の複雑な瞳が映っていた。 「どうなさいましたか、水野様」 表に現れた感情を即座に押し殺し、声を完璧な仕事モードに切り替えた。ほんの一瞬の放心など、初めからなかったかのように。 「ここ、少しはみ出てるみたい」 朋美は口元を指さした。その眼には、厳しく詮索するような視線と、かすかにこぼれ出た嫉妬の色が宿っていた。 「申し訳ありません、私の不注意です。 すぐに直しますね」 私は綿棒を手に取り、慎重にはみ出した部分を拭き取った。 「出来上がりました、水野様。こちらでよろしいでしょうか?」 鏡の中の花嫁は、完璧で、眩しいほどに美しかった。まるでかつて悠馬に大切に守られていた頃の私のように。 けれど今は、もうあの頃とは違う。 私は自らの手で「筆」を取り、彼の花嫁に、この世が求める「完璧」を描き出している。 しかし、私の心は、長い時間の試練と現実という名の残酷さによって、一度粉々に打ち砕かれたあげく、まったく別の何かとして再構成されていた。 朋美のベールを整えているとき、指先がふと彼女のうなじの肌に触れた。 彼女はわずかに身を震わせ、鏡越しに警戒するような視線をこちらに投げる。 その目つきは、まるで棘のように、私の癒えかけた記憶を突き刺した。 かつての私も、あの柔らかな肌を持ち、触れられることにこんなにも敏感だった。 悠馬が私に「バラの花園」を贈ってくれた少し後、あるプライベートなギャンブルの席に、私を連れて行った。 場所は非公開の豪華空間。男たちは談笑し、女たちはエレガントにふるまっていた。 白鳥の群れに紛れ込んだ一羽の醜いアヒルの子──そんな風に私はおののいていた。 彼はテーブルの下でそっと私の手を握り、「緊張しなくていい、俺についてくれば大丈夫だ」と囁いた。 その掌の温もりが、不思議と私の不安を溶かしていった。 その日、彼には驚くほどのツキが回り、目の前にはチップの山が築かれていた。 その日、彼は終始緩やかな笑みを浮かべ、時折、私の耳元でささやく。温かな吐息が、周囲の好奇の目を誘った。 向かい側に座る有馬慎太(ありま しんた)が一番大きく負けていて、細めた目で私たちをじっと見比べると、ふいに口元をゆるめて笑った。 「悠馬、今日はやけにツイてるじゃないか!なるほど、こんな可愛い子を連れてるからか!」 「おい、お姉ちゃん、まるで金運の女神だな!ほら、俺にも抱かせろよ。お前のそのツキ、ちょっと分けてくれ!」 テーブルを囲む一同がどっと笑い、幼なじみ連中は便乗してからかいの声を上げた。 私は体を強張らせ、血の気が引くのを感じながら、反射的に悠馬を見た。 背もたれに身を預け、指先でサバ葉を操りながら、彼はだらりと灰を払った。 その桃の花のようなあでやかな目がくっきりと私に向けられ、気楽な口調で彼は言った。 「七海、行って。有馬社長の相手になってくれ」 少し間を置いて、いつもの気前の良さで続けた。 「この勝負で稼いだ金は、全部お前のバッグ代にしてやるよ」 その瞬間、世界から音も色も消えた。 ああ、あの優しさには最初から値札がついていたんだ。 彼にとって、私は恋人でも、人間ですらなかった。 ただの、気まぐれに差し出せる玩具――縁起を担ぐマスコットキャラクターにすぎなかった。 彼の整った顔を見つめながら、ふっと笑みがこぼれた。 その笑顔は、泣くよりもずっとみじめだっただろう。 ゆっくりと立ち上がると、椅子が耳障りな音を立てた。 悠馬が一瞬、動きを止めた。 私は彼を見なかった。虚ろな視線が、笑みを失った彼の顔をかすめ、冷めきったコーヒーのカップに落ちた。 角砂糖三個。 彼は覚えていたはずだ。 でも、覚えていたところで何になる? 私はカップを手に取り、ためらいもなく彼の顔にぶちまけた。 静寂の中、ガラスの割れる音が鋭く響いた。 背筋を伸ばし、散らかった床を踏みしめながら、この金色の牢獄を後にした。 彼が作り上げたガラスの「バラの花園」は、防音だったのだ。 「リサ先生、痛いですってば!」 朋美の苛立った声が、私を現実へと引き戻した。 私は握りしめていたベールを、そっと放した。「ごめんなさい」 私は視線を落とし、慎重にベールを整えた。 その動きはやわらかく、正確で、まるでプロ職人のように無駄がなかった。 まるで五年という歳月で鍛え上げた、壊れない心そのもののようだ。 ようやくベールが固定され、五年前の惨めな自分にようやく終止符が打たれた気がした。 朋美は鏡の前で得意げに笑い、ウェディングドレスの裾が私の足先をかすめた。 「悠馬」彼女は甘えた声で彼の腕に手を伸ばした。「そろそろ行きましょ……」 しかし、その手は空を切った。 悠馬が一歩前へ出て、再び私との距離を詰めた。 両手を私の身体の左右にあるドレッサーにつき、私を鏡と彼の間に閉じ込めた。 「七海」かすれた声で、彼は絞り出すように言った。「あの時……どうして、行ってしまったんだ?」 さっきまで和らぎかけていた化粧室の空気が、一瞬で凍りついた。 朋美の顔から血の気が、目に見えるほどの速さで引いていく。彼女は唇を噛みしめ、整った爪が掌に食い込みそうだった。 私は顔を上げ、彼の鋭く熱い眼差しを真っすぐに受けた。 なぜ、行ったのか? 彼が――そんなことを聞くの? 思わず笑みがこぼれた。果てしない哀しみと、どうしようもない滑稽さを帯びて。 「石垣社長、お忙しいのは結構ですが…… 五年前のあの件、思い出させて差し上げましょうか?」 彼の身体が、びくりと固まった。 「その時あなたは言ったんです。『七海、行って。有馬社長の相手になってくれ』 『この勝負で勝った金は、全部お前のバッグ代にしてやる』って」 水を打ったような静けさが漂った。 悠馬は荒い息を吐き、手の甲の血管が浮き上がった。 苦痛が、今にもその瞳から溢れ出しそうだ。 「石垣悠馬」 私は笑みを消し、視線を氷のように冷たくした。 「あなたの賭けには、もう十分付き合った。負けるだけ負けた。だから、もう降りるわ」 そう言い終えると、周囲の誰もが息を呑む中、私はドレッサーの上のハサミを手に取った。 チョキン! 無数の真珠とダイヤモンドを散りばめた、純潔と誓いの象徴である、気の遠くなるほど高価なヴェールが、ずぶりと音を立てて引き裂かれた。 それを私は、自分の手で――朋美の頭から切り落としたのだ。 「きゃああっ!」朋美の悲鳴が響き、彼女は今にも気を失いそうだ。 私はハサミを放り投げ、手を軽く払って、まるで汚れでも落とすようにした。 「このメイクは……もう、やめるわ!」