帰る日はなく

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「宝来さん、あの婚約は、まだ有効ですか?」 温品南緒(ぬくしな なお)の口から婚約の話が出た瞬間、電話の向こうの男はわずかに驚きを見せ...

Chương (1)

第1章

「宝来さん、あの婚約は、まだ有効ですか?」 温品南緒(ぬくしな なお)の口から婚約の話が出た瞬間、電話の向こうの男はわずかに驚きを見せた。 「もちろんだ。あの婚約は永遠に有効だ。ただ、こっちでまだ片付けなきゃならないことがある。半月後に京栄市まで迎えに行ってもいいか?それとも京栄市に留まりたいなら、そっちで一緒に暮らせるよう手配しようか……」 南緒は顎を伝った雨粒をぬぐい、静かに言った。 「大丈夫。私も、そろそろ新しい環境に移りたいと思ってますから」 電話を切ると、鏡に映る濡れた服と髪を整え、振り返って個室へ向かった。 第1話 「宝来さん、あの婚約は、まだ有効ですか?」 温品南緒(ぬくしな なお)の口から婚約の話が出た瞬間、電話の向こうの男はわずかに驚きを見せた。 「もちろんだ。あの婚約は永遠に有効だ。ただ、こっちでまだ片付けなきゃならないことがある。半月後に京栄市まで迎えに行ってもいいか?それとも京栄市に留まりたいなら、そっちで一緒に暮らせるよう手配しようか……」 南緒は顎を伝った雨粒をぬぐい、静かに言った。 「大丈夫。私も、そろそろ新しい環境に移りたいと思ってますから」 電話を切ると、鏡に映る濡れた服と髪を整え、振り返って個室へ向かった。 ドアノブに指先が触れた瞬間、からかうような声が耳に飛び込んできた。 「礼瑠、温品はお前のこと、兄妹だなんて思ってないんじゃないか?子どもの頃から体の弱かった彼女が、お前の胃痛を聞いただけで、この大雨の中、薬を持って駆けつけたんだぞ。あの顔、凍えたのか驚いたのか、真っ白だった」 「たぶん驚いたほうだと思うな。あれだけお前に惚れ込んでるんだ、礼瑠さん、本当にそれに心が動かないの?」 その言葉に、南緒は無意識にソファの中央に座る礼瑠へと視線を向けた。 彼はグラスを手に、うつむいたまま何かを考え込んでいる。 その横に寄り添っていた夏川月枝(なつかわ つきえ)は、彼がなかなか口を開かないのを見て、唇を噛み、背筋を伸ばすと、手にしていた酒杯をテーブルに音を立てて置いた。 その場にいた者たちは皆、空気を読める人間だから。すぐに彼女を宥める声が上がる。 「何を馬鹿なことを言うんだ。一条家に預けられた孤児なんて、夏川お嬢さんと比べられるわけがないだろう。誰だって知ってる、礼瑠さんの心にいるのは夏川お嬢さんだけだって」 一条礼瑠(いちじょう らいる)もようやく我に返り、月枝の不満げな表情を見て、笑みを浮かべながら彼女を腕の中へ引き寄せた。 「南緒の両親は一条家に恩があった。だから引き取って育てただけだ。彼女になんて興味があるわけないだろう」 少し間を置き、さらに言葉を重ねた。 「妹と呼んでやるだけでも、十分な待遇だ」 最後の一言は小さな声だったが、一言一句が南緒の胸を鋭く突き刺した。手足は痺れ、全身が一気に冷えきっていった。 ふと、初めて一条家に来た日のことが脳裏をよぎった。あの日も礼瑠は、彼女を「妹」と呼ぶのを拒んでいた。 両親を事故で失い、幼い頃から体の弱かった南緒は、厄介者として親戚の家をたらい回しにされ、人間の冷たさを嫌というほど味わってきた。 また嫌われたのだと思ったその時、十五歳の礼瑠が彼女の手を取り、笑ってこう言った。 「俺は妹なんて呼ばない。これから南緒をお嫁さんにするんだから!」 その時の南緒は、ただの冗談だと思った。 だがその後の日々、礼瑠は行動でずっとその言葉を証明し続けた。 十年もの間、変わらず大切にされれば、誰だって心は動く。ましてや南緒にとってはなおさらだった。 一か月前の今日、彼女が一条家に来てちょうど十年目の日、想いを告げるつもりでいた。 ところがその日、礼瑠は月枝を大々的に家へ連れて来て、皆の前で「この先一生、妻にするのは月枝だけだ」と宣言した。 そして今日、二十五歳になった礼瑠が、人前で「妹と呼んでやるだけでも、十分な待遇だ」と口にした。 心の奥で十年間彼女を縛りつけていた鎖は、その瞬間、粉々に砕けた。 ……これでいい。これで、安心して離れられる。 第2話 南緒は大きく息を吸い込み、ドアを押し開けて中へ入った。 先ほどまで笑い合っていた人々は、彼女の姿を目にした途端、一瞬で声を止め、互いに顔を見合わせ、誰も口を開かなかった。 今の南緒の姿は、あまりにも惨めだった。濡れた服はしわくちゃになって肌に張り付き、顔色からは血の気が完全に引いている。 真っ先に反応したのは月枝だった。立ち上がり、彼女の前まで歩み寄ってきた。 「ごめんね、南緒ちゃん。さっきゲームをしてて、冗談で礼瑠に『薬を持ってきて』って言っただけなの。本当に大雨の中来るなんて思わなかったわ。許してくれる?」 両手を胸の前で合わせ、月枝の精緻な化粧を施した顔には、何も知らない無垢な表情が浮かんでいる。 だが、同じようなことが何度も繰り返されるうちに、南緒はもう彼女を信じなくなっていた。 半月前、月枝は彼女のサンドイッチにピーナッツバターを塗り、急性アレルギーを起こさせて試験を欠席させた。 胸の奥に溜め込んでいた悔しさがついに溢れ、南緒は泣きながら「なぜわざわざ私を傷つけたの」と問い詰めた。 しかし礼瑠は冷たい顔で、泣きそうな月枝を抱き寄せ、こう言った。 「月枝は純粋なんだ。お前みたいに汚い考えはしない。ただ試験を一度逃しただけで大騒ぎして、みっともない。今すぐ彼女に謝れ」 彼は知っていたはずだ。その試験のために南緒が半年も準備してきた。 そして今、南緒はもうすぐここを離れる。月枝が故意であれ無意であれ、礼瑠が彼女を庇うのなら、争うだけ無駄だ。 南緒は視線を落とし、淡々と言った。 「もう用がないなら、私は先に行く」 月枝はたちまち目を潤ませ、声まで泣きそうになった。 「南緒ちゃん、まだ怒ってるの?本当にわざとじゃないの……」 月枝の芝居じみた態度に、南緒はもう関わる気がなかった。 「怒ってない。ただ、雨に濡れて具合が悪いだけ」 だが月枝はなおも引き下がらず、腰をかがめて二つの杯に酒を注ぎ、その一つを南緒の手に押し付けた。 「今日、雨に濡らしちゃったお詫びに、一杯ご馳走するわ。これを飲んでくれたら、本当に許してくれたって信じる。いいでしょ?」 南緒は反射的に断ろうとした。 しかし、入ってきてからずっと黙っていた礼瑠が、その時ふいに口を開いた。 「南緒、月枝はお前の未来の義姉だ。彼女が自ら酒を注いでくれてるのに、お前が飲まなければ、一条家の躾がなってないと噂されるぞ」 その言葉に、南緒は杯を握る指先に力を込めた。 彼女は子どものころから体のせいで、一滴たりとも酒を口にしたことがない。 以前、ある宴席で男が無理やり酒を飲ませようとしたとき、礼瑠はためらうことなくその男を殴り倒した。 「お前ごときが、南緒に酒を勧める資格があると思ってるのか!」 その男は一条家と長年取引してきた相手だったが、その件で関係は完全に断たれた。 礼瑠はその時、「どんなことよりも、南緒のほうが大事だ」と言っていた。 だが今、彼は月枝を喜ばせるためなら、一条家の名誉を使ってまで彼女に酒を強要している。 それが、彼女との縁をはっきり切るためだと分かっていた。 さきほど月枝を不快にさせた言葉は友人の口から出たものだったが、月枝が誤解したのは到底南緒が原因だった。 だから、礼瑠はこう言って月枝を安心させようとしている。 礼瑠は昔からそういう人間だった。心に置いた人間は、絶対に傷つけさせない。 かつては南緒がその対象で、今は月枝になっただけ。 南緒は何も言わず、杯を仰いで酒を一気に飲み干した。 強烈な酒が喉を焼き、肺まで咳き込みそうになった。痛みを押し殺し、かすれた声で問うた。 「飲んだ。もう行ってもいい?」 しかし、その問いに答える者はいなかった。 礼瑠は優しい声で月枝をなだめていたのだ。 「生理中に酒なんて、月枝、お腹を痛めるぞ?」 南緒は全身が冷えていく一方で、胃だけが焼けるように熱くなるのを感じた。 手のひらに爪を立て、必死に意識をつなぎ止めながら、歯を食いしばって外へ向かった。 だが、ドアを出る前に視界が大きく揺れ、世界が回転した。 暗闇に沈む直前、南緒は、自分が懐かしい腕に抱きとめられた感覚だけを覚えていた。 第3話 南緒が目を覚ましたのは、すでに翌日の昼だった。 記憶はまだ、昨日の個室で意識を失う直前……誰かが慌てた声で自分の名を呼んだ場面で止まっている。 ……あれは、礼瑠だったのだろうか。 その思考を、ドアの開く音が遮った。 礼瑠がコップを手に入ってきて、彼女が目を覚ましているのを見ると、一瞬だけ表情を止めた。 「起きたのか。じゃあまず、この薬を飲め」 まだ頭がぼんやりしている中、「薬」という言葉を聞いた瞬間、南緒は反射的に彼のポケットへ手を伸ばした。 昔は毎日たくさんの薬を飲み、舌の根まで苦くなった。そのたびに礼瑠は、ポケットに飴をいくつか用意してくれていた。 しかし、その手ははたかれた。 彼は冷たい顔で一歩下がり、鋭い声を上げた。 「何をしてる」 手の甲の痛みで意識がはっきりし、南緒は慌てて手を引いた。 「……ごめんなさい、寝ぼけてた」 思わずこぼれた謝罪に、二人とも一瞬動きを止めた。 礼瑠は彼女の手の甲の赤みを見つめ、一瞬だけ後悔の色を浮かべたが、それもすぐ消えた。 「母さんにはちゃんと説明しておけ。昨日は俺が頼んで、お前に雨の中薬を届けさせた。月枝とは関係ないってな。意味は分かるな」 その言葉に、南緒は顔を上げた。 彼の瞳に宿る警告を見た瞬間、信じられない思いで包まれた。 礼瑠の母親の一条真由美(いちじょう まゆみ)は、月枝を妻として迎えることを絶対に許さないと明言していた。 今の言葉はつまり……礼瑠が、真由美が月枝を嫌う理由を、南緒のせいだと思っているということか。 ……南緒が間に入って二人を引き裂こうとしている、と? 十年も共に過ごしてきて、彼の心の中で南緒はそんな卑劣な人間だったのか。 胸の奥から怒りが一気にこみ上げた。 南緒は視線を落とし、感情を隠しながら、冷え切った声で答えた。 「分かった」 答えは得られたはずなのに、南緒のあまりに静かな様子に、礼瑠の胸はなぜかざわついた。 「それと、寒吉に礼を言っておけ。昨日は俺、月枝と食事に行ってた。お前を送ったのは彼だ」 そう言い残し、彼は部屋を出て行った。 南緒は小さく息を吐いた。 やはり、あれは勘違いだった。 何しろ、わざと彼女を雨に濡らし、さらに酒を飲ませた男が、あんなふうに慌てて名を呼ぶはずがない。 むしろ、そうでないほうが余計な感情を抱かずに済んだ。 緒方寒吉(おがた かんきち)に礼を伝えると、彼女はスマホを置き、机へ向かった。 机の上には、礼瑠が世界中から持ち帰ってきた様々な土産が並んでいる。 中央には、二人で一緒に作ったマグカップが置かれていた。 南緒は淡々と、それらを一つ一つ箱に詰めていく。 最後に、引き出しから二人で編んだペアのミサンガを取り出し、ためらうことなくゴミ箱に投げ入れた。 もう離れると決めた以上、過去に未練を残す必要はない。 その後数日間、礼瑠の姿を見ることはなかった。 代わりに、月枝がほぼ毎日のように見舞いに訪れた。 もちろん、本当の目的は別にあることを南緒は分かっていた。 習慣のように、南緒は月枝のSNSを覗いた。 そこに並ぶ投稿は、すべて礼瑠との写真だった。 海辺で手をつないで歩く姿、スイーツ店で頬を寄せ合う写真、花火の下で甘く抱き合う瞬間まで…… 写っている場所はすべて、かつて礼瑠が南緒を連れて訪れた場所だった。 当時、彼はこう言った…… 「これは、俺たちだけの思い出だ」 だが月枝の投稿には、こう記されていた。 「彼は、過去の思い出すべてに私の存在を刻むと言ってくれた」 以前の南緒なら、胸が締めつけられるような寂しさを感じただろう。 今の彼女はただ、何の感情もなく「いいね」を押しただけだった。 数日かけて荷物をまとめ、部屋も随分空いてきた。 翌朝、彼女は礼瑠との写真を詰めた箱を抱え、部屋を出た。 リビングに足を踏み入れた途端、聞き慣れた声が耳に入った。 「何を持ってるんだ?」 第4話 南緒は、礼瑠がこんなにも早く戻ってきたことに、少し驚いた。 どう言い繕おうかと頭の中で考えているうちに、彼はすでに話題を切り替えていた。 「さっさと着替えろ。病院に連れて行って検診だ」 南緒は一瞬きょとんとし、ようやく今日が健康診断の日だということを思い出した。 少し間を置き、低い声で言った。 「大丈夫。あとで私一人で行くから」 その言葉に、礼瑠は意味ありげな視線を投げた。 「……母さんが、俺が検診に付き添わずに月枝と旅行してたと知ったら、誰のせいにすると思う?」 彼の眉間に浮かんだ苛立ちを見て、南緒は口にしかけた「私、おばさんに告げ口なんてしない」という言葉を飲み込む。 どうせ信じてもらえないだろう。 彼が月枝の評判を守りたいなら、彼女は運転手が増えたと思えばいい。 南緒は、何の感情も見せず、二人の写真を詰めた箱を彼の目の前で階下のゴミ箱に放り込んだ。 底にぶつかって響く「ドン」という鈍い音。 なぜかその音とともに、礼瑠の脳裏に、先ほど答えを得られなかった問いがふとよぎった…… だが南緒はごく自然な動作で後部座席のドアを開け、そのまま腰を下ろした。 この十年間、彼女はいつも助手席に座っていた。 バックミラー越しに、静かに後ろに座る彼女を見て、礼瑠は妙な違和感を覚えた。 道中、二人は一言も交わさなかった。 車中で、南緒のスマホに真由美からメッセージが届いた。 【南緒、こっちは今手が離せないから、今日は礼瑠に付き添ってもらって検診してね。結果は忘れずに送ってちょうだい】 その言葉に、胸の奥がほんの少し温かくなった。 【分かりました。おばさんも休養をとってくださいね】 病院に着くと、礼瑠は「ロビーで待つ」とだけ言った。 南緒は一人ですべての検査を終え、結果を待っている間、知り合いの中村先生に声をかけられた。 「南緒、一人なの?彼氏さんは一緒じゃないの?」 一瞬固まったが、それが礼瑠のことだと気づいた。 これまでの検診はいつも彼が付き添っていたのだから、中村先生が勘違いしても無理はない。 「誤解です。彼氏じゃありません。ただの……友人です」 本当は「兄さん」と言うつもりだった。 礼瑠への気持ちを手放そうと決めたとき、確かに彼を家族のように思おうとした。 だが、言葉が口をつく直前、あの個室で耳にした言葉が脳裏をよぎった。 そこまで彼女を嫌っているのなら、一条家を出たあと二度と関わることもないだろう。 だから「兄」は「友人」に変わった。 すると中村先生は、急に彼女の肩を軽く叩いた。 「何が友人よ。私を誤魔化そうったって無駄。年は取ったけど、あの人があんたをどれだけ大事にしてるかくらい分かるわよ。検査結果を何度も何度も見返して、全部問題ないって分かってようやく安心してたんだから……」 ちょうどその時、看護師が検査結果を持ってきた。 中村先生はそれを開き、続けた。 「南緒さん、体はとても健康よ。各項目も正常。これで彼氏さんも安心ね」 南緒は最後の一言を意識的に聞き流し、医師に礼を言って報告書を手に階段を下りた。 外では、礼瑠が車の前でスマホを見つめ、優しい笑みを浮かべていた。 しかし彼女に気づいた瞬間、その表情は冷たく変わった。 「終わったか?ずいぶん遅かったな。次はもっと早く終わらせろ。時間を無駄にするな」 南緒は静かにうなずいた。 心の中で「これが最後にあなたの時間を無駄にする機会だ」と、思った。 第5話 車に乗り込むと、礼瑠は何気なく一つの箱を差し出した。 「月枝がお前が今日検診だと聞いて、特別に海鮮チヂミを頼んでくれた。熱いうちに食べろ」 南緒はちらりと見ただけで視線を逸らした。 「要らない。今は食欲がない」 二日前、彼女は月枝のSNSで、この見覚えのある包装を目にしたばかりだった。 それは月枝のゴミ箱に捨てられていたものだ。 【このまずいチヂミ、誰が食べるのよ!】 礼瑠は、拒まれるとは思わず、不快そうに眉をひそめた。 「南緒、これは月枝の気持ちだ。どうしてお前はいつも彼女に逆らうんだ」 「私、海鮮アレルギー」 その一言で、礼瑠の口はぴたりと閉じた。 南緒は彼の反応など気にも留めず、俯いたまま検診結果を真由美に送った。 真由美は異常がないと知ってようやく安心し、しばらく雑談したあと、今年の誕生日はどこに旅行に行きたいかと尋ねた。 南緒の指先がわずかに震えた。 毎年の誕生日は、真由美が彼女と礼瑠を連れて旅行に行ってくれた。 だが今年の誕生日は、彼女が婚約者の宝来時雨(ほうらい しぐれ)と共にここを離れると約束した日だった。 少し考えた末、真由美が戻ってからきちんと話すことに決め、「まだ決めてません」とだけ濁した。 幸い、真由美は特に異変に気づかなかった。 車が停まり、南緒がドアに手をかけたとき、目の前の景色は一条家ではないと気付いた。 「車の中で待ってろ」 それだけ言い残し、礼瑠は彼女に口を開く暇も与えず、車をロックして大股で立ち去った。 そして、その待ち時間は丸二時間に及んだ。 華やかに着飾った月枝が車に乗り込むと、南緒を見るなり唇を噛み、申し訳なさそうに言った。 「南緒ちゃんも来てたんだ。長く待たせちゃったでしょ?私、服を選ぶのに迷っちゃって……礼瑠、なんで急かしてくれなかったの」 最後の一言は、叱るようでもあり、甘えるようでもあった。 礼瑠は彼女のシートベルトを締めながら、笑って髪を撫でた。 「気にするな、大して待ってない」 南緒の唇に皮肉な笑みが浮かんだ。 ふと、一条家に来たばかりの頃のことを思い出した。 当時、礼瑠の友人の一人が彼女を嫌い、遊びの口実でわざと車に閉じ込めたことがあった。 たった十五分のことだったが、礼瑠は烈火のごとく怒り、その場で絶交を宣言した。 その時、彼は彼女を抱きしめ「二度と南緒を傷つけさせない」と言ってくれた。 だが今、自分を二時間も車に閉じ込めたのは彼自身であり、口にするのは「大して待ってない」だった。 南緒は、過去の情を疑ったことはない。 ただ、人の心は変わる。若い頃の約束など、必ずしも真実とは限らない。 月枝は慰められ、満足げに別の話題を持ち出した。 一昨日行ったカップル向けのレストランが良かったとか、また遊園地に行って花火を見たいとか…… 礼瑠は時折相槌を打っていた。 南緒は終始口を開かず、窓の外を見つめ続けていた。 昨夜は写真を整理していて深夜まで起きていたせいか、眠気に襲われて、目を閉じて浅い眠りに落ちた。 だが、手の甲にぬるりとした感触を覚え、反射的に目を開いた。 目に飛び込んできたのは、一匹のゴールデンレトリバーだった。 舌を出し、嬉しそうに飛びかかってくる。 南緒の心臓が跳ね上がり、恐怖に駆られて逃げ出そうとするが、車のドアの前には月枝が立ち塞がっていた。 「夏川さん、外に出して!私、犬が怖いの。お願いだから出して!」 だが、彼女は南緒の怯えなどまるで見えていないかのように、笑みを浮かべて言った。 「南緒ちゃん、福ちゃんはお利口よ。頭を撫でてあげて。遊びたがってるんだから」 南緒の耳には、もう何も届かなかった。 幼い頃、凶暴な犬に襲われた記憶が蘇り、全身が震え、叫びながら外に飛びついた。 「やめて!外に出して!出して……!」 しかし月枝は動かず、「バタン」と音を立ててドアを閉め、外から押さえつけた。 そして窓越しに、からかうような視線を送った。 「そんな大げさに反応しないで。福ちゃんは傷つけたりしないわ。一緒に遊べば分かる」 南緒の背中は冷や汗でびっしょりになっていた。 犬がまた近づいてきた瞬間、彼女は突如力を振り絞り、ドアを押し開けて飛び出した。 月枝はドアに弾かれ、「痛っ」と声を上げて地面に倒れた。 だが南緒は振り返りもせず、数歩駆け出した。 犬が追ってこないのを確認すると、足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。 しばらくしてようやく心臓の鼓動が落ち着き、呼吸も整った。 その時、背後から冷たい声が響いた。 「南緒、月枝と福ちゃんに謝れ」 第6話 南緒はその場に固まったまま、全身が凍りつくようだった。 礼瑠は険しい表情のまま大股で近づき、彼女の手首を掴んで力ずくで月枝の前に引き立てた。 「ほんの少し離れただけで、月枝を突き飛ばして地面に倒し、さらに車のドアで福ちゃんの足を挟むなんて……すぐに月枝と福ちゃんに謝れ!」 月枝は片足を引きずりながら近寄り、泣き声を含ませて口を開いた。 「礼瑠、南緒ちゃんを責めないで。悪いのは私よ。南緒ちゃんが犬を怖がるって聞いたから、こんな方法で克服させようと思ったの。でも、南緒ちゃんがこんなに大きな反応をするなんて思わなかったの。私は平気だけど、福ちゃんが……」 そこで彼女は唇を噛み、顔をそらすと、一筋の涙が頬を伝い落ちた。 あまりに馬鹿げた話に、南緒は思わず笑い出しそうになった。 人と犬を無理やり閉じ込めて恐怖を克服させる……そんなやり方があるなんて、初めて聞いた。 「夏川、私が犬を怖がるって知ってたのに、何度も出してくれって頼んだのを無視して、車のドアをふさいでいたでしょう。 それに、私はそもそもドアなんて閉めていない。犬が怪我をしたのは、いったい誰のせいだと……」 「もういい!」 礼瑠は鋭く怒鳴り、瞳に深い失望を宿した。 「月枝はお前を助けようとして怪我をしたんだ。それなのにお前は反省もせず、責任を押し付けることしか考えてないか。 南緒、お前はいつからそんな人間になった?月枝と福ちゃんに謝れ」 一拍置き、低く重々しい声で続けた。 「南緒、一条家の顔を汚すな」 その一言が、南緒の強張った背を押し潰した。 溢れる悔しさと無力感が、押し寄せる波のように全身を飲み込んだ。 南緒は歯を食いしばり、「……ごめんなさい」と搾り出すように言った。 月枝の顔に一瞬、勝ち誇った色が浮かんだが、口から出たのは堂々とした声だった。 「大丈夫よ、南緒ちゃん。あなたを責めてないわ」 礼瑠は南緒の真っ赤になった目を見て、胸の奥に湧き上がる異様な感情を押し殺し、冷たく言った。 「こんなことは二度と見たくない。自分でよく反省しろ」 そう言い捨てると、彼は南緒の反応を一切顧みず、月枝を横抱きにして車へ乗せた。 車は南緒の前を勢いよく走り去り、彼女は口元に皮肉な笑みを浮かべ、反対方向へ歩き出した。 それから数日、礼瑠は家に戻らなかった。 誕生日の前日、南緒は宅配便を受け取った。 送り主は親友の園田桃(そのだ もも)だった。 賀状には勢いよくこう書かれていた…… 【南緒ちゃん、お誕生日おめでとう!これは私がすごく有名なお寺で手に入れたの。あなたの健康と無事を守ってくれるよう願ってるわ】 南緒は木箱を開け、数珠を見た瞬間、動きが止まった。 五年前、彼女は大病を患い、長く昏睡していた。 礼瑠は一睡もせず、医者にすがりつきながらずっと彼女の傍にいた。 やがて、神仏を信じたことのない彼が、ひとりで何千段もの階段を登り、仏前で一日一晩ひざまずき、大金のお賽銭を納めて、平安を祈る数珠を手に入れた。 その数珠は五年間、彼女の腕にあり続けた。 たとえ二人の関係が悪化しても、彼女は一度も外さなかった。 ……そして今日、南緒は桃が替わりに祈願してくれた数珠を身につけた。 第7話 南緒はひとりでタクシーに乗り、南野町へ向かった。 二か月前、彼女はドレスの店で自分用のドレスを注文していた。 誕生日当日にこのドレスを着るため、デザインの細部から色の決定まで、さらには京栄市中を駆け回って理想の布地を探したのだった。 そして今日は、店主と約束して受け取りに行く日だった。 しかし、南緒が予想だにしなかったことに、そこで礼瑠と出くわした。 「月枝が最近、新しいドレスがほしいって言ってて、ちょうどお前のこのドレスが出来上がったから、試着させに連れてきた」 その言葉に、南緒は眉をひそめた。 店には他にも完成品のドレスがたくさん並んでいるのに、なぜわざわざ彼女のものを試着させる必要があるのか。 まだ何も言う前に、月枝が試着室から出てきて、何事もなかったかのように礼瑠の胸に飛び込んだ。 「礼瑠、このドレスすごく素敵!本当に気に入ったわ」 男性は自然に手を伸ばして抱きしめ、口元に笑みを浮かべた。 「気に入ったなら、そのまま着ればいい」 南緒は彼女のドレス姿を見つめ、指先をぎゅっと握りしめて口を開いた。 「このドレスは私のサイズに合わせて作ったものだ。もし欲しいなら、代金を払ってもう一着作ることもできる」 このドレスには彼女の心血が注がれている。簡単に月枝に譲るわけにはいかなかった。 言葉を告げると、月枝は唇を噛み、少し寂しげにうつむいた。 それを見た礼瑠はすぐに表情を曇らせ、冷たく南緒を一瞥した。 「月枝にはぴったりだ。お前は他の二着を選べ。代金は俺のカードで払え」 その言葉を聞いて、南緒は深く彼を見つめ、言いたかったことを飲み込んだ。 「結構だ」 一方、月枝の顔はいつもの純真無垢な表情を保っていた。 ただ、瞳の奥には隠せない得意げな色が浮かんでいた。 月枝は手を伸ばして礼瑠の腕を組んだ。 「南緒ちゃん、後でご飯おごるわ。このドレスをくれてありがとう」 南緒は心の中の感情を押し殺し、冷淡な表情で手を振った。 「用事があるの。二人でどうぞ」 そう言うと、周囲の視線も気にせず、ためらうことなく振り返り、ドレス店を後にした。 拒絶された月枝は視線を落とし、顔に少しばかりの悲しみを浮かべた。 「南緒ちゃん、怒ってるのかな……礼瑠、やっぱりドレスを返そうか……」 しかし、今回は礼瑠はいつものように彼女を宥めず、一歩前に出て南緒の手首を掴んだ。 「俺の数珠は?」 南緒は少し驚き、手を振りほどいたあと、カバンから数珠を取り出して彼の手に置いた。 「五年間、私が勝手に使ってた。もうあなたには愛する人がいるのだから、元の持ち主に戻すべきよ」 礼瑠は手のひらの数珠を見つめ、胸にざわめくものを覚えた。何かが彼の手を離れた気がした。 彼は無意識に弁解しようとした。 「俺は……」 しかし言い終わる前に、月枝が寄ってきて、甘い声で言葉を遮った。 「礼瑠、この数珠、私のドレスにぴったり。私にくれる?」 南緒は数珠の帰属には興味がなく、ためらわずにドレス店を後にした。 しかし、普段なら月枝の要望にすぐ応える礼瑠は、今回はきっぱりと断った。 「この数珠はずっと使ってたものだから汚れてる。次は新しいのをあげる」 そう言うと、彼は数珠を自分のポケットにしまった。 南緒はショッピングモールで長く買い物をしたあと、一人で夕食を済ませ、タクシーで一条家に戻った。 玄関に足を踏み入れる前に、リビングから賑やかな声が聞こえた。 礼瑠と月枝が数人の友人とソファに座り、酒を飲みながら談笑していた。 南緒は目もくれず階段を上がろうとしたが、背後から寒吉の声が突然響いた。 「南緒さん、こっち来て一緒にゲームやろうよ!ちょうど一人足りないんだ。人数合わせにちょうどいいよ」 断ろうとしたが、前回寒吉が助けてくれたことを思い出し、結局近づいた。 彼らが遊んだのはカードの王様ゲームだった。 みんな親しい友人なので、遠慮なく遊び、すぐに盛り上がった。 南緒は静かに隅で座った。 五、六ラウンドが過ぎると、礼瑠が引いたカードの数字が最小となり、王様カードを引いた月枝の親友の許斐茜(このみ あかね)が罰ゲームを指定した。 「数字の一番小さい人は、右手の異性の中から一人選んで、3分間キス!」 偶然にも、彼の右手には月枝と南緒しかおらず、この罰ゲームの意味は明白だった。 南緒は対面の茜を一瞥し、案の定、彼女の目に敵意を見た。 礼瑠は手の酒杯を握ったまま、動かずにいた。 周囲も騒ぐのをやめ、月枝と南緒を見て、場の空気は一瞬で緊張した。 月枝は顔を曇らせた。 「どうして……」 残りの言葉は、ねっとりとしたキスに遮られた。 礼瑠は彼女を抱き寄せ、片手で顎を掴み、深く口づけした。 彼の行動は、周囲の驚きや歓声を最高潮に押し上げた。 南緒の目には、礼瑠と月枝の一挙手一投足が鮮明に映ったが、表情を変えず、全てを見届けた。 周囲が礼瑠と恥ずかしそうな月枝をからかう声が響く中、南緒は一人で階上へ上がった。 寝室の前まで来たとき、下の茜がわざと大きな声で質問しているのが聞こえた。 「礼瑠さん、いつ月枝にプロポーズするの?皆はあなたたちの結婚式を楽しみにしてるんですけど!」 この質問の答えに、南緒は全く興味を示さず、足を止めることもなく、そのまま寝室に入った。 第8話 南緒は自分のスーツケースを取り出した。 グローゼットから数着の服を抱えたそのとき、寝室のドアが蹴り開けられた。 反応する暇もなく、茜が指を差して怒鳴った。 「温品、恥知らずにもほどがあるわ!道理で月枝ばかりいじめてるのね。もし今日、礼瑠さんの寝室でこの手紙を見なかったら、あなたが自分の兄に恋してるなんて、誰も知らなかったわよ!」 言い終わるや否や、彼女は手に握った紙を、茫然と立つ南緒の頭に叩きつけた。 手紙は頬をかすめて床に落ちた。 南緒は見慣れた文字に目を凍らせた。 そんな…… この手紙は一か月前に書いたもので、告白の日に礼瑠に渡すつもりだった。 しかし、彼が月枝を家に連れてきたとき、南緒は告白を諦めた。 だが、手紙はどこかで紛失してしまっていた。 ところが茜は、それを礼瑠の寝室で見つけたという…… 南緒は顔を上げ、目の前の礼瑠をじっと見つめた。 「つまり、あなたはこの手紙をずっと前から見てたのね」 彼女の口調には疑いの余地がなかった。 礼瑠が突然態度を変えたことを思い返せば、何が起きたのかは明らかだった。 その言葉を聞いた礼瑠の顔には一瞬慌てが走ったが、すぐに冷静さを取り戻した。 「そうだ。母が好意でお前を預かってきた。俺もこの数年、お前を妹のように可愛がってきたのに、まさかこんな気持ちを抱いていたとはな。温品南緒、気持ち悪いんだ」 ドアの傍で見物していた人々の視線は、軽蔑、嫌悪、嘲笑で南緒に注がれた。 「こんな気持ち悪い人がいるなんて、礼瑠は妹として大事にしてるのに、本人は兄のベッドに上がろうだなんて、ほんとに厚かましい!」 「身の程知らないわ。こんな身分のくせに礼瑠さんに相応しいと思ってるの?」 「こんな恥知らずな人、初めて見たわ、気が狂ってたかもね!」 …… 一言一句が、針のように南緒の心を突き刺した。 そのとき、月枝の涙が糸の切れた珠のようにこぼれ落ちた。 「南緒ちゃん、ずっと自分に何か悪いところがあるから、私を嫌いなんだと思ってた。でも今日になって初めて分かったの……あなたは礼瑠を好きだったんだ…… ずっと兄妹だと思ってたのに、あなたが彼を愛してたなんて、私には受け入れられない。ごめん、私がここに来るべきじゃなかった」 泣きながらそう言い終えると、彼女は礼瑠を一瞥し、顔を覆って走り去った。 顔色を失った南緒を見つめ、礼瑠の目に一瞬ためらいが走った。 だが、すぐに迷いを振り切り、彼も追いかけて外に出た。 人々が散った後、南緒は床に落ちた手紙を拾い、細かく破ってトイレに流した。 記憶の中で「これ以上君に苦しませない」と誓ったあの男も、完全に消え去った。 彼女は無表情で、残りの持ち物を一つずつスーツケースに詰めた。 翌朝、南緒は銀行に向かった。 一条家に来た時、彼女は真由美に頼んで、温品家の別荘を売却してもらったのだった。 本来ならそのお金を真由美に渡すつもりだったが、彼女はどうしても受け取らず、南緒の名義で10年定期預金にしていた。 今日はそのお金を引き出し、ここ数年貯めた原稿料とともに一枚のカードにまとめるつもりだった。 この10年間、一条家での生活費として。 銀行で待っている間、南緒は月枝からのメッセージを受け取った。 【温品、もう待つのはやめなよ。礼瑠はあなたと旅行に行かないわ。一条おばさんに無理に言わせたって、彼が妥協すると思う? 正直に言うわ。すぐに私たちは結婚の準備を始めるの。自分の妻と厚かましい妹、礼瑠がどう選ぶと思う? 私なら、さっさと一条家を出るわ。そうすれば、今後、可哀想に追い出されることもない】 初めて、月枝は無垢な仮面を外し、南緒に悪口をつけた。 おそらく、真由美が礼瑠に南緒と旅行に行かせるよう指示したため、月枝は早くも礼瑠との愛情を見せつけに来たのだろう。 そのとき、ちょうど自分の番号が呼ばれ、南緒はさっと返信した。 【では、新婚おめでとうございます】 送信後、彼女は月枝と礼瑠の「夫婦」を揃ってブロックリストに入れた。 スタッフの手助けで、手続きはすぐに完了した。 銀行を出た南緒はタクシーで一条家に戻った。 降車する前、運転手に穏やかに告げた。 「少し待ってください。上でスーツケースを取ってすぐ降ります」 南緒は足早に寝室に駆け上がり、まだ体温が残るキャッシュカードを机に置いた。 そして、事前に用意していたスーツケースを持ち、振り返ることもなく、十年間暮らした家を後にした。