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青い鳥は遠い雲の彼方へ
橘美咲(たちばな みさき)が命を落としたのは、新堂翔太(しんどう しょうた)と最も愛し合っていた頃。 対向車が突っ込んでくる。その瞬間、...
Chương (1)
第1章
橘美咲(たちばな みさき)が命を落としたのは、新堂翔太(しんどう しょうた)と最も愛し合っていた頃。
対向車が突っ込んでくる。その瞬間、翔太は真っ先に美咲をかばう。でも、激しい衝撃で美咲の体はフロントガラスを突き破り、宙を舞う。
瀕死の美咲が目にしたのは、脚を骨折した翔太が必死に這いつくばって自分に近づき、力いっぱい抱きしめてくれる姿だった。
翔太は声にならないほど泣きじゃくり、涙と口から流れる血が美咲の頬にぽたぽた落ちてくる。「美咲、お願いだ、死なないで……お前がいなきゃ生きていけないんだ」
全身が冷たくなり、声も出ない。悔しさと未練だけが胸に残ったまま、静かに目を閉じる。
――次に目を開けると、美咲は三年後の世界にいる。
戻って最初に向かったのは、新堂家の豪邸。翔太に会って、サプライズを仕掛けたかった。
けれど、再会の瞬間、翔太は眉をひそめる。「……お前は誰だ?どうやって入ってきたんだ?」
美咲は固まる。説明しようとしたそのとき、主寝室のバスルームからバスタオルを巻いた女性が現れる。
その女は、美咲に瓜二つの顔。美咲は息を呑む。
第1話
橘美咲(たちばな みさき)が命を落としたのは、新堂翔太(しんどう しょうた)と最も愛し合っていた頃。
対向車が突っ込んでくる。その瞬間、翔太は真っ先に美咲をかばう。でも、激しい衝撃で美咲の体はフロントガラスを突き破り、宙を舞う。
瀕死の美咲が目にしたのは、脚を骨折した翔太が必死に這いつくばって自分に近づき、力いっぱい抱きしめてくれる姿だった。
翔太は声にならないほど泣きじゃくり、涙と口から流れる血が美咲の頬にぽたぽた落ちてくる。「美咲、お願いだ、死なないで……お前がいなきゃ生きていけないんだ」
全身が冷たくなり、声も出ない。悔しさと未練だけが胸に残ったまま、静かに目を閉じる。
――次に目を開けると、美咲は三年後の世界にいる。
戻って最初に向かったのは、新堂家の豪邸。翔太に会って、サプライズを仕掛けたかった。
けれど、再会の瞬間、翔太は眉をひそめる。「……お前は誰だ?どうやって入ってきたんだ?」
美咲は固まる。説明しようとしたそのとき、主寝室のバスルームからバスタオルを巻いた女性が現れる。
その女は、美咲に瓜二つの顔。美咲は息を呑む。
その夜、美咲は新堂家の地下室に縛り付けられ、徹底的に問い詰められる。
どれだけ自分こそが本物だと説明しても、二人だけの思い出を語っても、体にある唯一のほくろまで見せても、翔太の目はずっと冷たく、彼女を整形した偽物だと決めつけている。
「俺の美咲は、昔からずっと俺のそばにいる。どんなに似せてきても、どれだけ情報を集めても、俺が愛する美咲を間違うわけがない。
美咲は死んでなんかいない。ただ事故で性格が変わっただけだ。どんな美咲だって、俺が愛するのは彼女だけなんだ。
お前がどんなに似ていようと、俺は認めない。俺が真実を突き止めるまで、お前はここで大人しくしていろ」
美咲は新堂家で最底辺の存在になる。誰からも冷たく扱われ、ときには下僕のように雑用を押し付けられる。
やがて、美咲は執事から真相を聞く。翔太は事故後、美咲の死を受け入れられず「記憶喪失」になっていた。
そこに付け込んだのが「偽物の美咲」。美咲のすべてを奪っていた。
美咲は翔太の記憶を呼び覚まそうと、何度も彼に近づき、二人だけの過去を再現し続ける。そのたびに、「偽物の美咲」から残酷な仕打ちを受ける。
腕をわざと火傷させられ、生理のたびに池に飛び込んでネックレスを探すよう強制される。ベッドの上には画鋲がばらまかれ、全身が血だらけになったこともある。
三ヶ月が過ぎるころ、美咲の体は傷だらけ。それでも翔太の目は冷たいまま。
ある日、美咲は執事に呼ばれて、翔太のいる会員制クラブへ衣装を届けに行く。ふと、個室のドア越しに会話が聞こえてくる。「翔太、あの家政婦が本物の美咲さんだって?三年間そばにいたのは、美咲さんの妹の橘里奈(たちばな りな)さんが整形した偽物だったって?」
翔太の声が聞こえる。「ああ、最初に見たときから怪しいと思ってた。今そばにいる美咲は昔と全く同じだけど、三年一緒にいた美咲は、どうも違和感があった」
翔太の仲間たちは首をかしげる。「じゃあ、偽物だって分かってるし、記憶も戻ったのに、なんで本物の美咲さんを受け入れないんだ?」
翔太はしばらく黙り込む。酒のせいで少し声がかすれている。「里奈は、ずっと俺のことを好きでいてくれた。俺のそばにいるために、本当の自分を捨てて、整形までして、一番苦しかったときも、そばにいてくれたのは里奈だったんだ。
里奈を好きになってしまった」
美咲は雷に打たれたように、その場に立ち尽くす。
「じゃあ、美咲さんは?本物の美咲さんはもうどうでもいいのか?最近、ひどい目に遭ってるって聞いたけど、なんで里奈さんを止めないの?
昔は美咲さんが指をちょっと怪我しただけで大騒ぎしてたじゃないか」
長い沈黙のあと、翔太が言う。
「……美咲のことは愛してる。でも、里奈はもう長くないんだ。医者から癌だって言われて、残された時間もわずかしかない。
ずっと、俺が美咲を大事にしてきたことを里奈は妬んでた。今まで俺は里奈に何もしてやれなかった。だからせめて、残りの時間だけは、あいつの好きにさせてやりたい。
里奈の願いは、全部叶えてやるつもりだ。里奈がいなくなったら、そのときに記憶が戻ったってことにして、本物の美咲を認める。美咲なら、俺が記憶を失っていたってことを知れば、きっと許してくれるはずだから」
耳の奥で、ただ耳障りなノイズだけが響く。口を開けても、声はまったく出ない。
こんなに痛いって、知らなかった。
心臓が、何千本もの針で同時に刺されるみたいに痛む。一度跳ねるたびに、全身が細かく裂けていく気がする。
あの日、翔太が月の下で「一生お前だけを愛する」と誓ったことを思い出す。胸に手を置いて「ここは美咲だけのものだ」と囁いてくれた。死ぬ間際、「お前がいなきゃ生きていけない」と泣いてくれた――
でも今、翔太はもう自分を愛してはいない。
すべての記憶を思い出しても、目の前で必死に縋っても、翔太は、自分を助けるどころか、他の女のために見て見ぬふりをする。
頬に、涙が伝う。
美咲は新堂家の地下室の物置きに戻る。そこには、かつて自分のものだった品々が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
美咲は、ほかの家政婦たちの噂話を思い出す。
「奥さま、事故から目覚めてから、性格も好みも全部変わっちゃったみたいでさ。昔の物なんて全部いらないって言われて、ほんとは全部捨てる予定だったのよ。
でも旦那様がどうしてもって言うから、奥さまの目につかないように、一部屋まるごと荷物置きにしたんだ。
旦那様って本当に一途な人よね。奥さまに関する物なら、どんな小さなものでも絶対に捨てられないんだって」
この三ヶ月、ここだけが、美咲にとってたったひとつの逃げ場だった。
翔太に冷たくされたり、里奈にいじめられるたびに、ここで過去の思い出や、昔の翔太にすがりつくしかなかった。
ここには、翔太が中学生のとき美咲に送った九九九通のラブレターがある。一緒に着たペアの服でいっぱいのクローゼットもある。世界中を旅したときの、数えきれないくらいのツーショット写真も。
美咲は無意識に一枚の写真を手に取る。
極寒のオーロラの下、翔太の肩車で手を伸ばす自分。
そして、翔太が優しくカメラを見つめている姿。
もう一通、十八歳の翔太が書いたラブレター。
【美咲、今日家族に頼み込んで、これから二年間は国内に残れることになった。美咲と同じ大学に行く。そばにいるって決めたんだ。
美咲、毎日毎秒、どうしてもお前のことを考えずにはいられない。俺は、一生、美咲だけを愛してる】
ぽたりと涙が手紙に落ちて、文字が滲んでいく。
指先が止まらず震える。美咲は信じられないくらい思い出が詰まった部屋の真ん中で、膝を抱えて声を殺して泣いた。
しばらくして、ゆっくり涙をぬぐい、ポケットからライターを取り出して、便箋に火をつける。
手紙も、写真も、二人の青春も、そして――彼と美咲の初恋も、全部、炎の中で燃やした。
部屋中がたちまち煙と火に包まれていく。美咲は中央に立ち、全てが灰になるのを見つめ続ける。
「火事だ――!」
家政婦の叫びで、すぐに警報が鳴り響く。
扉が激しく叩き割られる音。
美咲は動かず、ただゆっくりすべての終わりを見ている。
「美咲――!」
ドアが激しく蹴り破られる音が響木、美咲の耳に翔太の怒鳴り声が飛び込んでくる。
振り返ると、そこには心配と怒りで目を真っ赤にした翔太がいる――
第2話
翔太が美咲を抱き上げ、燃えさかる部屋から外へ連れ出した。
まだ何が起きたのか理解できないうちに、翔太はすぐ踵を返し、周囲の叫び声と制止を振り切って再び火の海へ飛び込んだ。
炎はもう部屋全体を飲み込もうとしていた。翔太の手の甲は火傷を負いながらも、半分だけ焼け残った写真を必死に掴んでいる。
次の瞬間、翔太は美咲の手首を強くつかみ、血走った目で怒鳴る。「誰が奥さまの部屋で火をつけていいと言った?中に何があるか分かってるのか!」
その瞳の奥に、一瞬だけ浮かんだ恐怖を美咲は見逃さなかった。
おかしくて、笑いそうになる。
何かを言おうとしたとき、里奈が飛び込んできて、美咲の頬を思い切り平手打ちした。
里奈は目を細めて満足そうに言う。「このクソ女、よくもわざと火をつけて、私と翔太の思い出を壊してくれたわね」
「誰か、この女を庭に連れて行きなさい!」
すぐに屈強な男たちが現れ、美咲は庭の石畳へと引きずり出される。
誰かが膝を蹴り上げると、ゴンッという音がして、美咲はその場に膝をつき、顔が真っ青になるほどの激痛が走る。
里奈は手に鞭を握ると、容赦なく美咲の体に叩きつけた。「クソ女。私と翔太の物に手を出していいと思ったの?」
鞭が打ち下ろされるたび、血がにじみ、体中に真っ赤な跡が広がっていく。
美咲は唇を強く噛み締めて、鉄の味が口に広がる。
ふと視線を上げると、翔太は写真を握ったまま立ち尽くしている。写真には、十八歳の美咲が制服姿で、屈託なく笑っている。
翔太の手は小刻みに震えていた。指先が真っ白になるほど力が入っている。
それでも、彼は最初から最後まで一言も発さない。
写真の中の自分を見つめると、心が焼け焦げるような苦しさに襲われる。
思い出す。十八歳のあの日、里奈が初めて翔太に好意を伝え、振られて逆上した。家に戻ると、八つ当たりで美咲の腕にカッターで何本も傷をつけた。
その傷を見つけた翔太は、目を真っ赤にして里奈の前に立ちはだかり言った。「美咲だけが、俺のたった一人の好きな子だ。他の誰にも目なんか向けない。もしまた美咲を傷つけたら、その分全部返してやるからな」
でも今、翔太はただ黙って、里奈が美咲を痛めつけるのを見ている。
美咲は微かに笑い、涙で視界がにじむ。
そのとき、翔太が里奈の手を握って止めた。「もういい、やめろ」
里奈は苛立った声を上げる。「なによ、翔太。まさか庇うつもり?」
美咲が思わず顔を上げると、翔太は優しく里奈の手を包み、手首をさすった。「違うよ。お前の体が心配なだけだ。無理しないで」
美咲はその光景を呆然と見つめる。心臓を素手で抉り取られるみたいで、息が詰まるほど痛い。
どうして、あんなに自分を愛してくれた人が、こんなふうに変わってしまうんだろう。
二人で積み上げた年月が、どうして里奈の三年には敵わないんだろう。
苦しすぎて、呼吸すらできない。
里奈は鞭を地面に投げ捨てた。「今日のことはこれだけで済むと思わないで。絶対にきっちり罰を与えてもらうから!」
「いいよ」翔太は優しく微笑んで、空を見上げた。「じゃあ罰として、三日三晩、庭で膝をついててもらおう。ご飯はなしだ。
さあ、もう行こう」
二人は振り向いて、さっさと去っていく。
空が鳴って、大粒の雨が降り出した。
美咲は石畳の上で膝をつき、眼の前の大きな窓を見つめる。
翔太は里奈を優しく抱き上げ、ソファにそっと座られて、用意した果物を一口ずつ食べさせてあげている。
美咲は、里奈が翔太に甘える様子を見つめている。翔太が彼女を抱いて、階段をのぼる姿も、里奈がこちらを挑発するように見下ろしてくる視線も。
顔が濡れているのは、雨のせいか涙のせいか、もう分からない。心は痛みで、すっかり麻痺してしまった。
雨が止むころ、翔太は里奈を背負って庭を歩き、横にあるガラス張りの温室で花を眺めていた。
あの花の温室は、本当は美咲のためだけに作られた場所。今は、里奈の好きな花ばかりが植えられている。
夜になると、二人は庭のブランコで星を眺めたり、ダンスを踊ったりする。
かつて翔太が美咲に教えたダンスを、今は里奈に教えている。
翌日、橘家の両親が里奈に会いに来た。
庭で膝をついて憔悴しきった美咲を見ても、二人は気にも留めず、そのまま通り過ぎた。
「お父さん、お母さん」
美咲は二人を呼び止め、顔を上げてまっすぐに見つめる。「この三年間、翔太のそばにいたのは里奈なんでしょう?」
父の誠一(せいいち)と母の佳子(よしこ)の瞳がわずかに揺れ、無言で視線を交わす。
その瞬間、美咲はすべてを悟った。
思い返す。生まれ変わって両親を頼ったときも、家から追い出されたこと。小さいころから、何度も「里奈を優先しなさい」と言われ続けたこと。両親がいつも里奈だけを甘やかし、自分には理由も聞かずに罰を与えたこと。
目に涙がにじみ、息が乱れる。「お父さん、お母さん、私、本当にあなたたちの娘なの?里奈には、夫まで譲らなきゃいけないの?」
佳子は視線を逸らしながら、きっぱり言い放つ。「なにを馬鹿なこと言ってるの。この子、どこから来たのか分からないくせに。勝手に家族のふりしないで」
誠一は容赦なく美咲を蹴飛ばした。「俺たちの長女の美咲はずっと翔太さんのそばにいる。次女の里奈は海外に行ったんだ。お前なんか、何者でもない!」
二人は美咲に目もくれず、家の中へ入っていく。
窓越しに、三人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
美咲は地面に倒れこんだまま、動けなくなった。
やせ細った手で地面を掴み、真っ赤な目から涙がぽろぽろと落ちる。
もう、誰も美咲を選ばない。誰も美咲を必要としない。
――だったら、美咲も、もういらない。
何も、いらない。
美咲は携帯を取り出し、連絡先に登録してあった【実の両親】の番号に電話をかける。
「お父さん、お母さん、私、あなたたちのところに戻る。
十日後、迎えに来て」
十日後は、翔太の誕生日。
八歳のあの日、二人は誕生日パーティーで、捨て猫を助けたことで出会った。
二十八歳の誕生日で、美咲はきっぱりと翔太と決別する。もう二度と、振り返らない。
第3話
美咲は三日目を待たずして、両膝が青く腫れ上がり、膿み、高熱が下がらなくなった。
目が覚めると、見慣れた狭い家政婦部屋のベッドに寝かされていた。枕元には解熱剤と冷たい水が置いてある。
全身が冷たくて、息だけが熱を持つ。何度も体を起こそうとし、ようやく薬を口にした。
そのまま長い夢を見た。
夢の中で美咲は、幼い頃、佳子の愛情を受けていたことを思い出す。誠一は無口だけど、たまに微笑んでケーキを買ってくれた。
けれど、妹の里奈が生まれてから、美咲は家の中で空気のような存在になった。親の気を引こうと騒いでも、返ってくるのは冷たい視線と叱責だけ。
何もかも、里奈に譲るのが当たり前になった。
その後、翔太の誕生日パーティーで、二人で木から子猫を助けたことをきっかけに、友達になった。
里奈は美咲に嫉妬し、両親は里奈に美咲の服を着せて翔太に会わせたけれど、翔太は一瞬で「偽物」だと気づいた。
その頃から、翔太は美咲の成長の中で唯一で、誰よりもまぶしい光になった。
親に無視され叱られるときも、里奈にいじめられるときも、翔太だけは黙ってそばにいてくれた。校外の不良に絡まれたときも、翔太は必ず助けに来てくれた。
中学生になってからは、翔太はストレートに美咲への気持ちを伝え、いつもそばで見守って、近づく男子は全部追い払った。
地面にキャンドルを並べて告白したり、街全体を花火で彩ったり、ドローンで誕生日を祝ったり。考えうる限りのロマンチックで、ちょっとクサいサプライズを何度も何度もやってくれた。
「美咲、俺はこの世界で一番お前を愛してる。親がちゃんと愛してくれなくても、妹に嫌われても、俺がいるから大丈夫だ。
美咲には、世界一の愛をあげる。誰かをうらやましがる必要なんてないんだよ」
熱い涙が美咲の頬を伝い、あっという間に枕を濡らす。
夢から覚めると、美咲は布団を引き寄せて体を埋め、声を殺して泣いた。
――翔太、どうして他の人を好きになったの?
どうして、その相手がよりによって里奈なの?
高熱はなかなか下がらず、二日間は朦朧としたまま過ごした。その間、家政婦たちがご飯を持ってくるときに、廊下でおしゃべりしているのが聞こえた。
「旦那様、昨日うっかり奥さまのネックレスを壊しちゃったから、今日は朝からずっと謝り倒してるみたいよ」
「聞いた?旦那様、ジュエリーオークションで出てるジュエリー、全部買い占めたって。
しかも、赤いバラを9999本も空輸で取り寄せてるんだって。
今、リビングはプレゼントの山だよ。奥さまが帰ってきたら、もっとすごいサプライズがあるらしいよ」
美咲の胸が鈍く痛む。まだ本調子じゃない体をなんとか起こして、リビングへ向かった。
ロマンチックな照明、花の海、山のようなジュエリー。そして、タキシード姿で優しく微笑む翔太。
この光景は、かつて翔太が美咲にプロポーズした日の再現だった。
美咲の目が、もう一度涙で曇る。
そこへ、里奈が外から飛び込んできて、満面の笑みで翔太の腕に飛びついた。「翔太、ありがとう。私、すごく幸せ」
翔太は優しく里奈の髪を撫でて、「お前が喜んでくれるなら、何だってしてあげる」とささやく。
執事がプレゼントの箱を手渡す。翔太が箱を開けると、美咲は息が止まった。
中には、限定のコレクション香水が十本。
香水好きの美咲のために、翔太は「結婚記念日に世界で一番貴重な香水を集めてプレゼントする」と約束してくれたことがある。
その中の一本は、翔太がイタリアのマフィアと命がけの勝負をして手に入れたものだった。
あの日、美咲は翔太のスマホでその事実を知り、ものすごく怒って「命を粗末にしないで」と泣いた。
でも翔太は美咲の手を取って、そっとキスしながら言った。「大丈夫だよ。ちゃんと考えてるから。それに、美咲が喜んでくれるなら、命を懸けたって構わない」
あのときの翔太の真っ直ぐな想いは、今でも美咲の心に残っている。
けれど今、あのプレゼントは里奈のものになっている。
美咲の目から涙があふれ、視界がぼやける。
胸の奥が、誰かに素手で心臓をつかまれて、そのまま引きちぎられるみたいに痛い。
心の中を冷たい風が吹き抜けて、体中の血が凍りつく。
美咲はこの場から逃げようとするが、里奈が呼び止める。
「こっちへ来て。私たちのためにピアノを弾いてよ。『エリーゼのために』が一番好きなの」
胸が締め付けられる。美咲は思わず翔太の方を見る。
翔太はほんの一瞬黙ったあと、目をそらして言った。「奥さまの命令だ。言われた通りにして」
心臓が音を立てて壊れるのが聞こえる。
美咲は足元の感覚がなくなったままピアノに向かい、椅子に座る。
指先から流れ出す『エリーゼのために』
グランドピアノの反射の中、翔太と里奈が抱き合いながら踊っている。
かつて翔太が美咲のために何度も弾いてくれたこの曲も、今は二人のためのBGMでしかない。
第4話
二日後は、翔太と美咲の結婚記念日だった。
毎年、盛大なパーティーが開かれ、街の有名人たちが招かれて、二人の愛を祝福する。
今年は、里奈が美咲の代わりに主役として現れ、家政婦の中から美咲だけを指名した。
「あんた、こっちに来て。入場のとき、私のドレスの裾を持ちなさい」
美咲はメイド服のまま里奈の後ろに付き従い、腰をかがめてドレスの裾を持った。二人の瓜二つの顔が並んで、会場中がどよめきとざわめきに包まれる。
「この家政婦、誰なの?美咲さんにそっくりじゃない?」
「双子だなんて聞いたことないけど。この人、里奈さんよりも美咲さんに似てない?」
「ありえないでしょ、だってメイド服着てるし」
里奈が手を叩くと、みんなが一斉に二人を囲んだ。
翔太は美咲の前に立ち、あえて里奈の隣に並ぶ。
「この女、三ヶ月前に新堂家の別荘に忍び込んで、自分こそが本物の美咲で、翔太の妻だと騒いでます。それに、私が偽物ですって」
会場は騒然とし、招待客たちが美咲をじろじろ見て、まるで安物の商品でも見るかのような視線を向けてくる。
「笑っちゃうよね、よくいる整形女でしょ。ちゃんと新堂社長と美咲さんの仲を調べもしないで」
「こんなの空気を汚すだけだよ。美咲さんが優しいから許してるだけで、普通だったらとっくにいなくなってるよ」
美咲は背筋を伸ばし、無表情のまま立っている。けれど、手のひらには爪が深く食い込んでいた。
会場の隅で、橘家の両親が前に出てきた。佳子は里奈の手を取って言う。
「美咲はずっと私たちのそばにいます。親が自分の娘を見間違えるわけないでしょう?
私たちの大事な娘を、どこの誰とも知れない女が、真似できるはずないでしょ」
「ハハハ!」という嘲笑が、美咲の耳にぼんやりと響く。
ただ、美咲は誠一と佳子をじっと見つめ、目元がじわじわと赤く染まっていく。
今まで何度も、両親に褒めてもらいたくて必死に尽くしてきたこと。翔太と結婚した後も、ずっと両親の言いなりになって、家族のために尽くしてきたこと。
思い返せば全部、滑稽な冗談みたい。
「翔太、あなたはどう思う?」里奈が笑顔で翔太を振り向く。
翔太は拳を背中に隠し、美咲を無表情で見下ろす。
「自分の妻を見間違えるはずがない。
俺の心にいるのは、たった一人の妻だけ。どんなに似せてきても、他の女に興味を持つわけがない」
そう言って、すぐに翔太は里奈の髪をやさしく撫でた。
美咲の目は真っ赤になり、息も震える。
みんなの視線が美咲を品定めするように突き刺さる。
でも、翔太の何気ないひとことのほうが、ずっと心に重く響く。
この瞬間、自分の人生そのものが、ただの笑い話みたいに思えてくる。
翔太は里奈を連れて背を向け、そのままパーティーが始まった。
大きなスクリーンには二人の日常が映し出される。翔太がカメラを手に、里奈の寝顔を優しく撮っている。「ほら、もう起きなよ……」
人の波が引いていき、美咲は涙をこぼしながらスクリーンを見つめ続けた。
耐えられなくなり、会場を出ようとしたそのとき、ドレス姿の令嬢たちに腕を掴まれ、会場の隅に引きずられた。
彼女たちは全員、里奈の親しい友人。
美咲を押さえつけ、手にしたワインを頭からかけ、ケーキを床に落として顔を押しつけた。誰かがスマホでその様子を撮影している。
「クソ女。野良犬と変わらないのに、新堂社長に憧れてるなんて笑わせるわ。現実を知りなさいよ!」
美咲は必死にもがくが、顔中ケーキでぐしゃぐしゃになる。
そのとき、頭を押さえる手の力が急に抜けた。
顔を上げると、そこには美咲の記憶に焼き付いた恐怖の人物。業界でも女遊びとトラブルメーカーで有名な水野拓海(みずの たくみ)だった。
彼の一番の趣味は女をもてあそぶことで、その手で人生を壊された女は数え切れない。
二十歳のとき、美咲は橘家の両親に無理やり水野のもとへ送り込まれた。あのときは翔太が異変に気づき、ホテルの部屋まで駆けつけて、美咲を助け出してくれた。
そのときの悪夢のような記憶が蘇り、美咲は泣きながら後ずさる。
水野は、にやりと笑って言う。「無理して高嶺の花を狙わなくてもいいんだよ。俺の相手になれば、望むものはなんでもやる」
そう言って、ハンカチで美咲の口をふさぎ、力ずくで会場の上の階の部屋へ引きずっていく。
「んんっ――」
美咲は必死に叫び、もがきながら、水野に腕をつかまれてパーティー会場の外へ無理やり引きずられていく。
ダンスフロアでは、翔太が里奈を抱き寄せて踊っている。
視線がふと扉に向くが、すぐに美咲から目を逸らし、微笑みながら里奈を見つめ続けている。
第5話
美咲は激しく抵抗していたが、やがて痛みと絶望に飲み込まれ、力が抜けた。
そのまま引きずられていった。
個室に閉じ込められ、ベッドに押し倒され、服を無理やり破られる。
水野は目を血走らせ、興奮した様子で美咲の体を乱暴にまさぐる。美咲が抵抗しなくなると、ますます好き勝手に触り続けた。
美咲は虚ろな目で天井の灯りを見つめながら、そっと手をベッドサイドに伸ばした。
水野が油断した瞬間、ベッド脇のスタンドを手に取ると、全力で水野の頭めがけて振り下ろした。
鈍い音と共に、額から真っ赤な血が流れ出す。
美咲は急いで部屋のドアを開け、そのまま逃げ出した。
パーティー会場を抜けて、道路沿いをひたすら走る。
涙があふれて、風に吹き飛ばされていく。
この瞬間、翔太と過ごした日々が走馬灯のように頭をよぎる。
必死に自分を守ってくれた翔太の姿。命がけで水野と殴り合ったあの日のこと。悪夢にうなされた夜、やさしく抱きしめてくれたこと。
でも、思い出の中の翔太はやがて里奈を抱きしめて踊り、冷たいまなざしで美咲を見下ろす今の姿に変わる。
その視線は、鋭い刃物みたいに、何度も心を切り裂いていく。
どれだけ走ったか分からない。ふと、高級車が目の前で止まり、美咲は立ち止まった。鼻の奥に血の匂いが広がる。
運転席には無表情な翔太、その隣には憎しみに満ちた目で睨む里奈がいる。
二人が車を降りて近づいてくる。里奈が声を荒げた。「私の許可なく、勝手にパーティー会場を抜け出すなんて、誰が許したの!
礼儀も知らないくせに。今日、あんたがどれだけの人に迷惑をかけたかわかってる?みんな大事なお客様なのよ!その人たちの世話なんて本来なら光栄なことなのに、空気も読めずに、新堂家の名を汚して!」
美咲の心臓がきゅっと縮まる。極限の怒りで目が真っ赤になる。
それでも美咲は翔太をまっすぐ見つめて問いかけた。「……あなたもそう思ってるの?」
里奈も翔太を見つめる。
翔太は視線をそらしたまま言った。「妻の考えは、俺の考えだ」
その瞬間、美咲の胸が音を立てて砕けていく。
「わかった」拳を握りしめ、目に涙をためて、声を震わせる。「翔太、あなたが望むなら、全部やる」
これで全部、翔太に守ってもらった恩も、命を救われた借りも、返したことにする。
ここから先は、もう何も残らない。もう翔太に、何一つ借りを作らない。
翔太は、美咲の壊れそうな姿を見て、胸がきゅっと締めつけられる。どうしようもない不安が、心の奥から込み上げてくる。
このままじゃ、何か取り返しのつかないことが起きそうな気がして――
だが翔太が口を開くより早く、里奈が遮る。「約束は守ってよ。明日、みんなの前できちんと謝罪してもらうから!」
翌日、美咲は乗馬クラブに連れていかれた。
昨日、美咲をいじめた令嬢たちが全員そろい、上流階級の若者たちも大勢集まっている。
美咲はメイド服のまま、里奈に無理やり乗馬場の中央まで引っ張られた。
里奈が意地悪く笑いながら言う。「口だけの謝罪なんていらない。本当に誠意を見せたいなら、今日、私たちのゲームに付き合いなさい」
美咲は馬に乗った令嬢たちと、里奈が手に握るロープを見て、不安がこみ上げる。「どんなゲームなの?」
里奈が冷たく言い放つ。「競馬」
そう言って、ロープを美咲の手に巻きつける。
恐怖が全身を襲い、美咲は必死に抵抗する。「嫌だ、絶対に無理!」
里奈はイラついた様子で叫ぶ。「翔太、手伝って!」
柵の外にいた翔太が、一瞬固まるが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
美咲がその姿を見た瞬間、それまでの抵抗が止まり、二人がかりでしっかりとロープを手首に結びつけられる。反対側は馬の鞍につながれている。
翔太は最後まで美咲の目を見ようとしない。
里奈が馬に乗って合図を出すと、馬は一気に走り出した。美咲はバランスを崩して転び、地面を引きずられる。
一周、二周、三周……地面には鮮やかな血の跡が何本も残る。
すぐ後ろで馬のひづめが迫ってきて、何度もあと少しで踏まれそうになる。
乗馬場には、令嬢たちの楽しそうな笑い声が響き、周りの観客からも、面白がるような歓声が飛んでくる。
美咲だけが、歯を食いしばり、声を出さずに必死に耐えていた。
ふと、群衆の中で翔太が柵を握りしめ、白くなるほど手に力を込めているのが見える。彼だけは周りの盛り上がりと全く違う顔をしていた。
だけど、美咲はもう、翔太の顔なんて見たくなかった。
馬が大きくひづめを振り上げて、甲高い鳴き声が響く。ひづめが振り下ろされる瞬間――
「やめろ――!」
翔太の叫びが乗馬場に響いた。
美咲は絶望の中、そっと目を閉じ、頬を涙が伝う。
第6話
バキッという音が響き、美咲は自分の足の骨が折れる感覚をはっきりと感じた。
激しい痛みが全身を貫いて、思わず悲鳴が出た。世界がぐらりと揺れる。
「やめろ!すぐ止めろ!」翔太が乗馬場に駆け込んできて叫んだ。
他の馬たちはすぐ止まったが、里奈の馬だけは暴走したまま。
「翔太、助けて!馬が言うこと聞かない!
翔太、助けて――!」
意識が遠のく中、美咲は翔太が馬を追いかけて必死に走る姿を見た。
彼は美咲を縛っていたロープを掴んだ。その瞬間、馬がぐいっと引っ張られ、ひづめを高く振り上げる。
里奈は手を放して馬から落ちる。「翔太――!」
土壇場で、翔太は美咲を一度だけ振り返ると、迷いなく里奈のほうへと走った。
翔太はしっかりと里奈を受け止める。
馬が再び甲高い鳴き声をあげて走り去る。
最後に美咲が見たのは、翔太が里奈を抱きかかえて背を向ける姿だった。
次に目を覚ますと、そこは病院だった。
腰から下が包帯でぐるぐる巻きにされていて、あまりの激痛に意識がぼんやりする。
看護師が点滴を打ちながら、もう一人の看護師とひそひそ話している。「本当にかわいそうね、若いのに馬に踏まれて足がダメになるなんて」
「しかも隣の部屋も同じ名字だけど、あっちは驚いただけでケガもないのに、旦那さんがずっとつきっきりで看病してるらしいわよ。こっちは誰も見舞いに来ないのに」
美咲は二人が話す声を静かに聞いていた。翔太がどれだけ里奈を大切にしているかを知って、もう心すら痛まなくなっていた。
薬が効いてきて、体の痛みが少し和らぐと、美咲は再び眠りに落ちた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。うとうとする中で、誰かが美咲の手を握り、優しく髪を撫でてくれる感触があった。
大きな手が美咲の脚にそっと触れる。耳元で、翔太の震える声が聞こえた。「ごめん、ごめん、美咲。俺、そんなつもりじゃなかった。まさかこんなことになるなんて思ってなくて……
美咲、もう少しだけ我慢してくれ。お前を認められる日がきたら、絶対に償う。必ず足も治してやるから」
美咲のまつげが震える。
でも目を開けたときには、誰もいなかった。残ったのは空気に残る翔太の香水の匂いと、ゆっくり揺れるドアだけ。
美咲はそっと目線を落とした。
翔太、あなたの謝罪も、償いも、もういらない。
美咲は三日だけ病院にいさせてもらい、その後すぐ新堂家に強制的に戻された。
里奈は使用人を全員集めて、美咲が歩く様子を見せ物のように眺めさせた。
一歩歩くたびに、周囲から嘲笑が巻き起こる。
里奈はさらに新しいいじめ方を思いつく。「庭師の仕事をやりなさい」と命じて、真昼間の日差しの下、不自由な足で広い庭の手入れを一人でやらせた。
汗で包帯はぐっしょり濡れ、全身が痛みに震える。
突然、背中に強い蹴りが入って、美咲は地面に倒れ込む。
里奈が前に出てきて、美咲の手を踏みつけながら、見下ろして言った。「美咲、今のあんた、まるで犬みたい」
「あんた……」美咲は痛みで息が乱れ、冷や汗が目に入りそうになる。「どうして……?これまで、あんたにひどいことなんて何もしてないはずなのに……」
「やっぱり私のこと、分かってたんだ」里奈が冷たく笑う。
「本当に何もしてない?だったらなんで翔太を私に譲らなかったの?
翔太を好きなこと知ってたくせに、わざわざ付き合ったり、わざと見せつけるようなことばっかりして。
美咲、あんたなんか死ねばよかったんだよ」
美咲の瞳が一瞬揺れる。ふいにあの事故の日のことを思い出して、信じられない気持ちで里奈を見上げる。「まさか、あの交通事故……」
「そう、私がやったの」里奈は平然と美咲の目を見つめ返す。「事故の前から、海外で整形の準備をしてた。美咲、あんたは死ぬ運命なの!」
そういえば、事故の半年前から里奈はほとんど姿を見せていなかった。両親に聞いても「旅行に行ってる」としか教えてくれなかった。
みんな最初から知っていたんだ。私の死は仕組まれたものだった。里奈に全部を譲るための。
「どうして……?」美咲の目に血の色が浮かび、涙が頬を伝う。「私、橘家にだって何も悪いことはしてないのに……」
「美咲、あんたはただの養女よ。邪魔になるなら、死んでもらうしかなかったの」
美咲の中で、何かがぷつんと切れる音がした。橘家で過ごした日々が、ひとつひとつ頭の中に蘇る。
毎日毎日、冷たくされて、逆らうこともできずに、ただ言うことを聞くしかなかった。日に日に、両親の目は自分を見るたびに冷たく、暗くなっていった。
滑稽なのは、美咲が本当は橘家の実の娘じゃなかったと知ったのは、生まれ変わってからだった。
それまでの二十五年間、美咲は認めてもらいたくて、一度でも褒めてもらいたくて、何度も何度も我慢して、必死に両親の顔色をうかがいながら生きてきた。
でも、橘家はみんな美咲を手玉に取って、用が済んだら、最後には容赦なく切り捨てた。
どこから力が湧いてきたのか分からないまま、美咲は思い切り里奈の襟首をつかみ、平手打ちを食らわせた。
里奈は翔太の腕の中に倒れ込む。
美咲が顔を上げると、翔太の怒りと冷たさに満ちた目があった。
バシッ――
思い切り平手打ちされて、耳がキーンと鳴り、じわじわと血が頬を伝っていった。
第7話
美咲の頬はひりひりと焼けるように痛む。目の前の翔太を見上げるが、口を開きかけて、結局何も言えなかった。
この瞬間、もうすべてがどうでもよくなる。
事故の真相も、自分の正体も、翔太の愛も、裏切りも、もう関係ない。
美咲の目にかすかに残っていた光が、完全に消える。
翔太は手を背中で強く握りしめ、後悔の波が胸に押し寄せる。
やりすぎたと心の中で思う。
口を開きかけるが、泣きじゃくる里奈を抱きしめると、結局何も言わず、そのまま彼女を連れて去っていく。
その夜、美咲はボディーガードたちに縛り上げられた。
何が起きているのか分からないうちに、男の大きな手で思い切り頬を打たれる。
一発、また一発。全部で九十九発も殴られ、顔は真っ赤に腫れ上がり、耳の奥がずっと鳴っている。口の中も血だらけになった。
最後の一発が終わると、ボディーガードは冷たく言い放つ。「旦那様からの伝言だ。お前はただの使用人で、もしまた奥さまに手を出したら、今度はこんなもんじゃ済まないって」
そう言い捨てて、美咲の体を引き上げ、主寝室の前に投げ捨てた。
閉ざされたドアの向こうからは、途切れ途切れの甘い吐息がはっきり聞こえてくる。
「翔太、今の私と、昔の私、どっちの方が好き?」
「もちろん今のお前だ。お前だけを愛してる……」
美咲は手足を縛られ、口も塞がれたまま、強制的にその声を聞かされ続けた。
ふいに思い出す。翔太との初めての夜。あのとき翔太は、痛みでにじむ涙を宝物みたいにそっと拭ってくれて、「美咲、俺はお前だけを愛す。生涯、お前しかいらない」そう何度も何度もささやいてくれた。
もう、翔太のことで泣くことなんてないと思っていた。すべてに絶望し、どうでもいいと自分に言い聞かせていたのに――
気づけば涙が溢れて、床にポタポタと落ちていく。
夜が明けるころ、美咲はやっと使用人部屋に放り込まれ、手足の縄を解かれた。
休む間もなく、美咲は途中まで編んでいた猫のぬいぐるみを手に取り、続きを編み始める。
ふと、八歳の夏の日の記憶が蘇る。大きな木の下、木漏れ日が翔太と美咲の顔に降り注ぐ午後。
翔太の肩車で二人で子猫を助けた。
それからずっと、その猫を二人で大切に育てた。まるで一緒に子どもを育てているみたいだった。
その猫はずっと翔太のそばにいたけれど、美咲が十五歳のときに橘家の別荘へ連れて帰った。
でも、猫は無残に殺されてしまった。
美咲は壊れるほど泣き続け、毎晩悪夢にうなされていたとき、翔太がずっと寄り添ってくれた。
翔太は一度も責めたりしなかったけど、美咲の心には、ずっと罪悪感が残った。
それから美咲は、「翔太のために猫のぬいぐるみを999匹作る」と約束した。
最後の一匹が完成したら、二人の子供を産んで、本当の家族になろうと決めていた。
あと一匹というときに、美咲は事故に遭った。
あのとき、美咲は幸せな未来だけを思い描いていたのに、突然すべてが終わった。
「お前がいなきゃ生きていけない」と泣き叫んでくれた男が、今はもう別の人を愛している。
美咲は最後の一匹のぬいぐるみを仕上げ、付箋に一言だけ書き残す。
【翔太へ、昔二人で助けたあの猫、返すね】
美咲は立ち上がり、部屋の鍵をかけて出ていく。
今日は翔太の誕生日。二人が出会った日、そして美咲が去る日。
今年の誕生日パーティーは海の上で行われ、美咲は豪華なクルーザーに連れてこられた。
美咲はメイド服のまま、クルーザーの片隅で立ち尽くしている。翔太が華やかに踊る姿を見つめながら、みんなの前で堂々と宣言する声が聞こえる。「俺が愛しているのは、彼女だけだ」
周囲から向けられる冷たい視線や嘲笑にも、美咲は何も感じなくなっていた。
そのとき、里奈が美咲を呼び、デッキへと連れていく。
第8話
里奈は勝ち誇ったような顔で美咲を見下ろした。
「あんた、昨日の夜聞いてた?翔太は私だけを愛してる。今の私が好きなの。全部知ってて、あんたが本物の美咲だって気づいてても、私があんたをいじめるのを止めようともしなかった。
翔太はもう、あんたのことなんて少しも愛してない!後悔してる?三年前に死んでいればよかったのに、なんでまた現れたの?」
里奈は憎しみをあらわにして言い捨てる。「さっさと消えなさい。二度と現れないで!」
美咲は皮肉な笑みを浮かべる。「里奈、本当に翔太が一途にあんたを愛してるなら、何でわざわざ警告しに来るの?どんな手を使って翔太のそばにいられるようになったのか、あんた自身が一番分かってるでしょ。翔太があんたを手元に置いてるのは――」
「黙りなさい!」里奈は顔を歪めて叫ぶ。「翔太は私だけを愛してるの!このクソ女、あんたなんか、ここに現れる資格もない!」
里奈は、いきなり美咲を突き飛ばした。
美咲は冷たい表情のまま、里奈の手をがっちり掴み返す。そのまま、二人は一緒に海へと落ちていった。
「きゃあ――!」里奈が甲高い声で叫ぶ。
「奥さまが落ちた!」誰かが叫ぶ声が、デッキに響き渡った。
翔太がすぐに飛び出してきて、コートを脱ぎ捨て、そのまま海に飛び込んだ。
二人のほうへ向かって必死に泳いでいく。
「サメがいる!」
デッキの上で誰かが叫ぶ声が響く。美咲が振り返ると、遠くにサメの背びれが見える。
翔太は必死に泳いで二人のもとにたどり着く。
右には里奈、左には美咲。
「翔太、助けて!」
里奈が泣きながら叫ぶ。美咲は静かに翔太を見つめて、何も言わなかった。
サメがどんどん近づいてくる。
翔太の心が真っ二つに引き裂かれる。
やがて、翔太は歯を食いしばりながら美咲に視線を向け、名前を呼ぶ。「美咲、もう少しだけ耐えててくれ。彼女を船に戻してから、すぐお前を助ける!」
そう叫ぶと、翔太はすぐさま里奈を抱えて船へと向かった。
美咲は二人の背中を見つめて、もう涙も出てこない。
心はとうに死んで、痛みすら感じない。
ただ、必死に前へ泳ぎ続けるしかなかった。それでも、サメとの距離はどんどん縮まる。
「美咲、しっかりしろ――!」
翔太の絶叫と、海に飛び込む音が聞こえる。
サメはもう目の前まで迫っている。美咲は力尽き、絶望に沈みながら、遠くで翔太が必死で泳いでくる姿を見た。
その瞬間、三年前、高速道路で翔太に抱きしめられていた記憶が、ふっと脳裏によみがえる。
でも、今回はただおかしくて、静かに目を閉じた。
サメが近づいてくる。
「美咲――!」
翔太の叫びが、突然のヘリコプターの轟音にかき消される。
連続した銃声、サメに命中する音。
何隻もの救命ボートが海に投げ込まれ、十人以上の黒服のボディーガードたちが次々に水中へ飛び込んでくる。
ヘリコプターの中から、少しかすれた年配の男の声が響く。
「お嬢さま、お迎えにあがりました」