思い出は白い雪のように消えて

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思い出は白い雪のように消えて

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前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。 出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが―...

Chương (1)

第1章

前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。 出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが――氷見寒成(ひみ かんせい)は最後まで応じなかった。 医師に人中を強く押されてようやく意識を取り戻し、彼女は震える手で手術同意書に自ら署名した。 子どもが四十度の高熱を出した日も、寒成の姿はなかった。 明里は子供を抱きかかえて病院へ走り、三日三晩つきっきりで看病した末、廊下でそのまま意識を失った。 両親が交通事故で亡くなった日も、彼は現れなかった。 冷えた骨壺を胸に抱えて帰宅した彼女を、玄関口で伯父が平手打ちした。 「男の心ひとつ掴めないなんて……あんなにも体面を重んじて生きてきたお前の両親は、婿に看取られることもなく、目を閉じることすらできずに逝ったんだぞ!」 そして五十八歳。末期がんと告げられた明里は、静かに人生の終わりを悟った。 第1話 前世、桐島明里(きりしま あかり)は「名ばかりの夫」と結婚していた。 出産の日、大量出血で昏倒した彼女は、必死に何度も電話をかけたが――氷見寒成(ひみ かんせい)は最後まで応じなかった。 医師に人中を強く押されてようやく意識を取り戻し、彼女は震える手で手術同意書に自ら署名した。 子どもが四十度の高熱を出した日も、寒成の姿はなかった。 明里は子供を抱きかかえて病院へ走り、三日三晩つきっきりで看病した末、廊下でそのまま意識を失った。 両親が交通事故で亡くなった日も、彼は現れなかった。 冷えた骨壺を胸に抱えて帰宅した彼女を、玄関口で伯父が平手打ちした。 「男の心ひとつ掴めないなんて……あんなにも体面を重んじて生きてきたお前の両親は、婿に看取られることもなく、目を閉じることすらできずに逝ったんだぞ!」 そして五十八歳。末期がんと告げられた明里は、静かに人生の終わりを悟った。 看護師に「最後に会いたい人はいますか」と問われ、枯れたプラタナスを見つめながら、彼女は最後の希望を胸に寒成へ電話をかけた。 電話は、偶然にも繋がった。 向こうからは賑やかな声が聞こえ、子どもたちの弾む声が耳を刺した。 「お父さん、ケーキ食べたら、杏奈さんと家族写真撮ろうよ!」 「いいよ」 胸の奥がずきりと痛み、明里の手からスマートフォンが滑り落ちた。床に叩きつけられた画面は、粉々に砕けた。 果てしない絶望の中、彼女は深い海に沈む小舟のように、静かに瞳を閉じた。 …… 再び目を開けた時、明里は二十七歳に戻っていた。 彼女が最初にしたのは――離婚届の作成だった。 そして次に、離婚届を手に、夫の初恋の女である沢渡杏奈(さわたり あんな)を訪ねた。 「氷見寒成と離婚することにしたわ」 明里は離婚届をテーブルに置き、淡々と言った。 「彼にこの離婚届へサインさせられるなら、氷見夫人の座はあなたにくれてやるわ」 杏奈は一瞬言葉を失い、戸惑いの色を浮かべた。 「七年も夫婦で、子どもも二人いるのに……本当に、捨てられるの?」 明里の脳裏に、前世の惨痛な記憶がよぎる。 彼女はただ静かに答えた。 「寒成はあなたを忘れられない。子どもたちもあなたが好き。私が身を引けば、みんな幸せになれる」 その時、スマートフォンが鳴った。 明里が応答すると、電話の向こうから息子・氷見蒼辰(ひみ あおと)と娘・氷見柚菜(ひみ ゆな)の泣き叫ぶ声が響いた。 「ママ、助けて!」 「悪いおじさんが僕たちを殺そうとしてる!うわあああん……」 次の瞬間、低い男の声が耳を突いた。 「お前の子ども二人は俺の手の中だ。助けたけりゃ二億円用意しろ。さもないと――」 「殺せばいいわ」 明里はその言葉を遮るように電話を切った。 杏奈が青ざめた顔で言った。 「今、蒼辰と柚菜の声が聞こえたけど……行かないの?」 明里は冷ややかに笑った。 「ただのいたずらよ」 前世では、彼女はこの電話を信じた。 家計を握る寒成とは連絡が取れず、必死に金を工面してやっと二億円を揃えた。 子どもたちの無事を祈りながら車を走らせ、焦りのあまりガードレールに衝突して血まみれになった。 だが、あの拉致は子どもたち自身の仕業だった。 彼らは杏奈の誕生日プレゼントを買うため、金を騙し取ったのだ。 だから今度こそ、もう騙されない。 明里はバッグを手に取り、立ち上がった。 家に戻ると、寒成と子どもたちのために編んだマフラーや、用意していたクリスマスプレゼントをすべてゴミ箱に放り込んだ。 彼女と寒成の結婚は、ただのビジネス婚だった。 そして杏奈こそ、彼が一生忘れられない初恋の女だった。 当時、寒成と杏奈はすでに結婚を前提に交際していた。だが、氷見家が沢渡家の裏にグレーなビジネスの影を見つけ、「素性の怪しい女」として杏奈との関係を一方的に引き裂いた。 杏奈が渡航したあの日から、寒成はまるで魂を抜かれたように、半年もの間、何も手につかずにいた。 その後、氷見家と桐島家のビジネス婚が決まった。 結婚式の日、寒成は明里に向かって、冷たく宣言した。 「俺たちはあくまでビジネス婚だ。氷見夫人という肩書き以外、お前に与えられるものは何もない」 明里は口では「気にしない」と答えながらも、どこかで幻想を捨てきれずにいた。 人の心は血の通ったもの。 尽くして、耐えて、寄り添い続ければ―― いつか、この冷えきった関係にも、少しは温もりが生まれるかもしれない。 そう信じて、彼女は寒成の好物を覚え、ひとつひとつ丁寧にシャツへアイロンをかけ、彼と子どもたちの好みをすべて心に刻み込んでいった。 けれど、彼が彼女に与えたのは――週に一度、機械のように繰り返される義務的な夜だけだった。 心は、最初から最後まで、彼女に向いてはいなかった。 メッセージは既読無視。 電話も出ない。 彼女が何をしても、何を望んでも、寒成は微塵も気に留めなかった。 杏奈が帰国してからは、二人の関係は再燃し、子どもたちまで杏奈になついていった。 だからこそ、今世では、もう誰のためにも自分を犠牲にしない。 その時、背後から足音が近づき、低く冷たい声が響いた。 「何をしている?」 振り返ると、寒成が立っていた。 第2話 明里は、半月ぶりに帰宅した寒成に目をやり、淡々と口を開いた。 「家の中が散らかってたから、ちょっと片付けてただけよ」 寒成は、彼女の異変に気づくこともなく、広いリビングをざっと見渡して言った。 「蒼辰と柚菜は?」 その声が落ちた瞬間―― 玄関の扉が「バンッ」と勢いよく開き、二つの小さな人影が拳を握りしめながら駆け込んできた。 その後ろには杏奈がついていた。 柚菜の目は真っ赤で、喉を詰まらせながら叫んだ。 「ひどいママ!助けてくれなかった!」 蒼辰も眉をひそめて怒鳴るように言った。 「もし杏奈さんが助けに来てくれなかったら、もうとっくに殺されてたんだよ!ママは僕たちのことなんかどうでもいいんだ!そんな人、ママじゃない!」 寒成の顔色が見る見るうちに険しくなり、周囲の空気が一気に冷え込んだ。 「どういうことだ」 彼は明里を見据え、低く鋭い声で問い詰めた。 「寒成、桐島さんを責めないでね」 杏奈が程よく心配げな表情を浮かべながら口を開いた。 「さっきカフェで桐島さんにばったり会って、電話で拉致って言ってるのが聞こえたの。気になって声かけたけど、『ただのいたずらでしょ』って、気にしてなかったみたい。 でも、なんとなく不安で……知り合いに頼んで調べてもらったら、二人が吊られた状態で殴られてるのを見つけて……もう、喉が枯れるほど泣いてたの」 そう語る杏奈は、まるで母親の役目を奪ってしまったかのように、申し訳なさそうに明里を一瞥した。 その言葉を聞き終えた寒成の表情は、さらに険しさを増した。 二人の子どもを抱きしめながら、氷のような視線を明里に向ける。 「お前に家で子どもの面倒を見ろって言ったよな。これがお前のやり方か?」 明里は眉をひそめ、抑えきれない怒りをにじませた声で言い返した。 「拉致なんて嘘よ。この子たちが仕組んだ自作自演なの」 「嘘じゃないもん!」 柚菜が泣きながら叫ぶ。 「ママは助けてくれなかったくせに、今度は私たちのこと責めるなんてひどい!」 「パパ、ママは嘘をついてるよ!自分の責任逃れようとしてるんだ!」 明里の目が鋭く光った。 「蒼辰、柚菜……ママ、嘘をつくなって教えなかったっけ?本当はどうだったのか、自分たちでちゃんと言いなさい!」 だが、二人は頑なに否定し続けた。 明里はその場で彼らのスマートフォンを奪い取り、そこに残された杏奈へのプレゼント計画の証拠を探そうとする。 「やめろ!」 寒成が一喝した。 「たかが六歳の子どもに、自作自演の拉致だなんて言うのか?お前、自分が母親だって自覚あるのか?」 「母親の自覚がない?そんなふうにしか見えないのね、あなたには!」 明里の目に涙が浮かび、声がわずかに震えた。 「じゃあ、あなたは?子どもが六歳になるまで、何回父親らしいことをしてきた?」 空気が一段と張りつめた。 杏奈が慌てて割って入る。 「もうやめよう、寒成。幸い、大したケガじゃなかったし……桐島さんを責めたって意味ないでしょ」 杏奈のなだめる声に、寒成はようやく怒りを抑えた。 だがその目は、相変わらず冷たく明里を射抜いていた。 そして何も言わず、二人の子どもを抱えて背を向けた。 明里のそばを通り過ぎざまに、杏奈がささやいた。 「桐島さん、恨まないでね。あなた、離婚したいんでしょ?寒成に嫌われれば嫌われるほど、早く解放されるわよ」 …… その日の夕方―― 蒼辰と柚菜は「杏奈さんも一緒にごはん食べて!」と駄々をこねた。 食卓には、色とりどりの海鮮料理が並んでいた。 蒸し魚、海老のオイル煮、大きな蟹…… 寒成は慣れた手つきで蟹の殻を外し、ほぐした身を杏奈の器に入れる。 「蟹は蒸しが一番好きだって言ってたよな。ここの味、どう?」 蒼辰と柚菜も夢中で蟹をほおばっている。 そんな家族の団欒のような光景を目の前にして、明里は、ふっと力なく唇を歪めた。 ――誰も覚えていない。 彼女が海鮮アレルギーだということを。 何度も言ってきた。 特に蟹は絶対にダメだと。 けれど、その言葉はまるで風にさらわれたように、寒成の記憶にも、子どもたちの心にも、一片も残っていなかった。 明里はそっと箸を置いた。 そして、席を立とうとした瞬間―― 杏奈がすっと離婚届を取り出し、サイン欄のあたりを指で押さえた。 「そうだ寒成、渡しそびれるところだったわ。 子ども向けの玩具を大量に発注する予定があって、関連会社の承認印が必要なの。ここにサイン、お願いしてもいい?」 第3話 杏奈が話し終える前に、寒成は黙って使い捨て手袋を外し、ペンを手にサインを書き込んだ。 「そんなにあっさりでいいの?一度も目を通さないで?」 杏奈がわざとらしく問いかけ、ちらりと明里の方を見やった。 寒成は唇をかすかに歪めて笑った。 「俺たちの関係に、そんなもの必要か?」 「杏奈さん、私も玩具ほしいー!」 柚菜がぱちくりと目を瞬かせて言った。 「お部屋にぬいぐるみ、もっともっといっぱい飾りたいの!ママのは変だし、全然可愛くないから――もういらないっ!」 「僕も!」 蒼辰も手を挙げて叫ぶ。 「ウルトラマンを百体並べる!」 明里は眉をひそめて口を開いた。 「二人とも喘息持ちなんだから、部屋にそんなに置いたら命に関わるわよ」 杏奈が一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。 「ちゃんと安全な素材のものを選ぶから、桐島さんは心配しなくて大丈夫」 寒成も続けるように言った。 「杏奈が選ぶなら問題ない」 寒成の許可が出た瞬間、二人の子どもは大はしゃぎで杏奈の頬にキスをした。 「やったー!杏奈さん大好き!」 「ママが杏奈さんだったらよかったのに!」 三人が笑い合う光景を、寒成は終始穏やかな目で見守っていた。 その様子を見ていた明里は、ただ黙って唇を引き結んだ。 ――なんて、皮肉な話だろう。 前世、明里は少しでも子どもたちの健康を害さぬようにと、素材にこだわり、自らの手で一つひとつ玩具を作っていた。 指が擦り切れても、眠れぬ夜が続いても、すべては子どもたちのためだった。 だがその心は、結局、彼らにとって何の価値もなかったのだ。 明里は一人、静かに部屋へと戻った。 しばらくして、杏奈が離婚届を手に明里の部屋を訪れた。 「寒成、もうサインしたわ。あなた、今さら撤回しないわよね?」 「もちろんよ」 明里はまっすぐに答えた。 「手続きが終わったら、すぐに出ていく」 …… 翌日、杏奈は蒼辰と柚菜を連れて、たくさんの玩具を買ってきた。 二人はまるで子犬のように杏奈にまとわりつきながら、自分たちの部屋を嬉しそうに飾っていた。 明里が廊下を通りかかると、彼らが自分の手で作った積み木の城や布で縫った人形を、次々とゴミ箱へ放り込んでいるのが目に入った。 そのとき、廊下の向こうから重たいものを引きずる音が聞こえてきた。 数人の作業員が、新品のフロアランプやドレッサー、ローテーブルなんかを次々と運び込んできた。 「子どもたちと玩具を見に行ったときに、可愛い家具もあったからついでに買っちゃった」 杏奈は寒成に向き直り、微笑を浮かべて言う。 「この家、無機質すぎて落ち着かないのよね。思いきって雰囲気変えてみない?」 寒成は一瞬の迷いもなく、即答した。 「好きにして」 その瞬間、明里の指先は無意識のうちに拳を握りしめ、掌に爪が食い込んだ。 この家は―― 彼女が七年かけて、少しずつ丁寧に整えてきた場所だった。 それが、杏奈のたった一言「無機質」で、全否定された。 その日から、杏奈は「工事の管理をする」という名目でこの家に住み着いた。 明里は離婚届を受け取ったその日から、完全に家のことに口を出さなくなった。 そして、目の当たりにした。 十日に一度帰るかどうかだった寒成が、毎日決まった時間に家に戻るようになったことを。 四人でキッチンに立ち、料理に手間取ってソースを床にぶちまけながら、笑い合っている姿を。 潔癖症のはずの寒成が、杏奈の手から洗っていないイチゴを受け取り、何も言わずに口にしたことを。 時間にうるさかったはずの寒成が、夜中まで子どもたちと映画を観て、そのままソファで寝落ちし、翌朝の重要な会議をすっぽかしたことを。 明里は、ようやく悟った。 寒成が課していた数々の「ルール」は――すべて、自分だけに向けられたものだったのだ。 本当に愛する人の前では、彼はこんなにも寛容で、優しくて、すべてを壊してでもその人に合わせられるのだと。 …… 深夜、明里の寝室の扉が突然、乱暴に開かれた。 何日も彼女に口をきこうとしなかった男が、怒りを湛えた目で彼女の前に立っていた。 「桐島明里……俺の我慢にも限度がある」 寒成の声は低く、冷え切っていた。 何が起きたのかわからず明里が戸惑っていると、寒成は毛布を彼女の足元へ投げつけた。 「このところ家のことを完全に放り出してるのは、もう目をつぶってきた。でも―― 子どもにまで八つ当たりするのは、さすがに許せない。 お前、自分の娘が喘息持ちだってわかってるよな? それなのに、何日も洗ってない毛布をかけて寝かせて、死ぬところだったんだぞ!」 明里は目を見開いた。 この毛布は―― 二年前に、何度も店舗を回って素材を比べ、やっとの思いで選び抜いた高品質の綿毛布だ。 どう考えても、たかが数日洗っていないだけで発作が起きるはずがない。 「柚菜の喘息の原因が毛布なわけないでしょ」 明里は冷静に返す。 「むしろ、沢渡杏奈が買ってきたあの大量の玩具を調べたほうがいいんじゃないの?」 その言葉を言い終える前に―― 蒼辰が泣きながら駆け寄ってきて、寒成の足元にしがみついた。 「ママは、僕たちのこと嫌いなんだ!もういらないって……! 拉致されたときも、助けに来てくれなかったし、『殺せばいい』って電話で言ったんだ! パパ、ママなんか追い出してよ!僕たちも、もうママなんかいらない!」 第4話 掌の中で大切に育ててきた我が子が、自分に向かってそんな言葉を吐いた。 その瞬間、明里の胸の奥で何かが鋭く裂けた。 「そう……じゃあ杏奈のところへ行きなさい。きっとあなたをたくさん愛してくれるわ」 涙を堪えながら絞り出したその声は、自分でも驚くほど冷たかった。 「明里!」 寒成が彼女の態度に完全にキレた。 「柚菜はお前のせいで命を落としかけたんだぞ!それでもそんなことが言えるのか?発作の苦しみがどんなものか、わかってるのか!」 そう言って、寒成は扉の外に控える使用人を冷たく見やった。 「棉を持ってこい」 その声音には、氷よりも深い怒りが潜んでいた。 明里がようやくその意図を悟った時には、すでに数人の使用人に床へ押さえつけられていた。 「その綿を口に詰めろ。息ができない苦しみを、身をもって知るがいい」 「寒成……や、やめて――っ!」 悲鳴は途中で途切れた。 使用人が明里の両肩を押さえつけ、掴み上げた棉をひと握りずつ、容赦なく口の中へ押し込んでいく。 細かい繊維が喉を裂き、肺へと刺さり込む。 息を吸うたびに、火のついた藁を飲み込むような痛みが走った。 明里は背を弓なりに反らせ、目から涙と鼻水を一緒に溢れさせながら、「ひ、ひぃ……っ」と喉を鳴らした。 爪が割れるほど床を掻きながら、それでも彼女は顔を上げた。 視線の先には――氷のような瞳で立ち尽くす寒成と蒼辰の姿があった。 「パパ、もっと詰めてやって、こいつに思い知らせてやれ!」と、蒼辰は息を荒げながら指示を飛ばした。 寒成はその隣に立ち、まるで他人事の茶番を眺めるかのように冷ややかに見下ろしていた。 最後の一筋の呼吸が尽きるまで、明里は綿で窒息させられ、やがてどさりと床に叩きつけられて、意識を完全に失った。 …… 再び目を開けたとき―― 明里は、ベッドの脇に座る杏奈の姿を見た。 彼女は気づくとすぐ、申し訳なさそうに微笑んだ。 「桐島さん、ごめんなさい。全部、私のせいなの。柚菜にあんなにたくさんのぬいぐるみを買ってあげたから…… 病院の検査結果が出たの。柚菜の喘息の発作は、あのぬいぐるみが原因だったそうよ」 杏奈は沈んだ声で続けた。 「もう寒成には謝ったわ。だから、あなたも許してくれる?」 明里は喉が焼けつくように乾いて、言葉を発することができなかった。 そこへ、蒼辰が駆け込んできた。 「杏奈さんのせいじゃないよ!ママがちゃんと教えてなかったのが悪いんだ!」 蒼辰はそう言いながら、杏奈の手を取った。 「早く行こうよ。パパを待たせたら怒られちゃう……」 杏奈は立ち上がり、もう一度ベッドに横たわる明里を見下ろした。 「柚菜のこと、本当に怖かったの。寒成がね、私が気に病みすぎるって……お詫びにネックレスを買ってくれるって言うの。 何か欲しいものある?一緒に見てきてあげようか」 明里は顔を背け、沈黙した。 胸の奥で渦巻く苦い思いが、喉を焼くようにせり上がる。 ――たった数日、子どもたちの毛布を洗えなかっただけで、彼は自分をあんな残酷な方法で罰した。 それなのに、杏奈が柚菜の喘息を誘発させても、彼は慰めの言葉を向け、贈り物まで与えようとしている。 何も言わない明里に、杏奈は小さく肩をすくめ、蒼辰の手を取って部屋を出ていった。 残されたのは、静寂だけ。 明里はシーツを握り締め、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。 声にならない嗚咽がこぼれ、涙が頬を伝って次々と落ちていった。 それはまるで、二度の人生で積み重なったすべての悲しみと屈辱を洗い流すようだった。 …… 明里は三日間、ほとんど眠るようにベッドに伏せていた。 四日目の朝、ビザセンターから電話が入り、手続きがすべて完了したことを知らされる。 離婚の手続きが完了するまで、あと十日。 だが――明里はもう一刻たりともこの家にいたくなかった。 その日のうちに、十日後に国外へ発つ航空券を予約した。 部屋のドアが開いたのはちょうどその時だった。 子どもたちを連れて現れた寒成の視線が、明里のスマホに映った航空券に一瞬止まった。 「どこへ行くつもりだ?」 「別に。旅行サイトを見てただけよ」 明里は何でもないように言い、画面を閉じた。 寒成はそれ以上追及せず、冷ややかな声音で言葉を落とした。 「毛布の件は、俺の早とちりだった。だが、柚菜の母親として――彼女がぬいぐるみで発作を起こすとわかっていながら、止めなかったのは、お前の落ち度でもある」 その理不尽な言葉に、明里は思わず笑ってしまった。 「あなたも父親でしょう?仕事が理由で全部免除されると思ってるの?」 寒成の表情が一瞬固まる。 「俺は外で働いてる。お前とは違う。それに、氷見夫人としてのお前の役目は、子どもをきちんと育てることだけだ」 そう言って腕時計を見下ろした。 「これから子どもたちを遊園地に連れて行く。お前も来い。子どもたちに謝るいい機会だ」 明里は口を開きかけたが、蒼辰が小さな手で彼女の手を握った。 「ママ、もう怒ってないよ。一緒に行こうよ」 柚菜も涙ぐんだ目で訴える。 「ママも一緒がいい……!」 二人の子どもたちの純粋な瞳に見つめられ、明里の胸がきゅっと締めつけられる。 結局、断りきれなかった。 ――どうせ、もうすぐここを去るのだ。 母親として一緒に遊園地へ行けるのも、きっとこれが最後になる。 第5話 明里は外出用の服に着替え、玄関を出て車に乗り込んだ。 助手席に座っていたのは――杏奈だった。 「子ども二人を一人で見るのは大変だろう?だから、杏奈を手伝いに呼んだんだ」 ハンドルを握る寒成が、何でもないように言った。 明里は何も言わず、黙って後部座席に身を沈めた。 道中、杏奈は時折、寒成の口元へお菓子を差し出し、蒼辰と柚菜は身を乗り出して前の席に顔を寄せ、まるで車内に明里がいないかのように楽しげに笑い声を上げていた。 遊園地に着くと、二人は両手いっぱいの荷物を明里の腕に押しつけた。 「ママ、これ持ってて!」 「パパと杏奈さんと一緒にメリーゴーランド乗るの!」 ――母としてではなく、お手伝いさんとして。 呼ばれた理由がそれだと気づいた瞬間、明里は指先が白くなるほど拳を握りしめた。 メリーゴーランドの上で笑い合う四人。 その光景を見つめながら、明里の胸の奥にこみ上げてきたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。 ――ただ、乾いて冷え切った虚しさだけだった。 通りすがりの人々が、微笑ましげに声を漏らす。 「なんて幸せそうな家族!お父さんもお母さんも美男美女だし、子どもたちも可愛いわね」 「ほんと。お手伝いさんまで美人だなんて」 「お手伝いさん」という言葉に、明里は思わず笑ってしまった。 そう、彼女は確かに――この家の「お手伝いさん」にすぎなかった。 だが、この地獄のような日々も、もうすぐ終わる。 遊具をいくつか回ったあと、蒼辰と柚菜が今度は「ジェットコースターに乗りたい」と騒ぎ出した。 「ダメよ。あなたたち、喘息があるでしょう?そんな激しいのは無理よ」 思わず母として口を出すと、二人は一瞬で不機嫌になる。 「いやだ!乗りたい!」 「ママなんていつもダメばっかり!何も楽しくない!」 そのとき珍しく、寒成が明里の味方をした。 「ママの言う通りだ。ジェットコースターはやめなさい」 二人は顔を見合わせて、こっそり笑う。 「じゃあパパと杏奈さんが乗ってきなよ。僕たちはママとアヒル見に行くから!」 杏奈は恥ずかしそうに寒成を見上げ、誘うように微笑んだ。 寒成の目には柔らかな笑みが浮かび、明里へと冷たく言い残した。 「悪いけど、子どもたちを頼む」 淡々としたその口調は、妻に向けた言葉ではなく、雇い主がお手伝いさんに仕事を命じる声だった。 そう言い残して、寒成と杏奈は並んで歩き去った。 明里は子どもたちを連れて湖のほとりへ向かった。 だが、アヒルを探す間もなく―― 柚菜が不意に足を伸ばし、明里の足を引っかけた。 「きゃっ!」 明里の体がぐらりと傾き、そのまま「ドボン」と水面に落ちた。 冷たい水が一瞬で体を包み込み、喉にまで流れ込む。 必死に水をかきながら咳き込むが、もがくほどに沈んでいく。 「いやなヤツ!溺れちゃえばいいんだ!」 蒼辰は腕を組み、冷たく言い放つ。 「ママが口出しなんかするからだよ。杏奈さんとパパと遊びたかったのに!」 柚菜も頬を膨らませて叫んだ。 「ゆ、柚菜……蒼辰……」 明里は震える手を伸ばした。 けれど、二人は岸辺に立ったまま、ただ彼女の苦しむ姿を見下ろしていた。 その光景に、明里の心は音を立てて崩れた。 ――命を賭けて彼らを産んだあの日。 ――高熱の夜、眠らずに看病した日々。 ――朝早く起きて、好きな朝食を作り、服を洗い、ランドセルを整えた毎日。 すべては無意味だった。 報われたのは、冷たい軽蔑の眼差しだけ。 どれほど悲惨で、どれほど滑稽だろう。 絶望と痛みが明里の身体を引きずり、ゆっくりと、暗い水の底へ沈めていった。 …… 次に目を開けたとき、明里は岸辺に横たわっている。 全身がびしょ濡れで、息も絶え絶え。 そのすぐそばに、寒成が立っている。 明里が咳き込みながら汚れた水を吐き出すと、男は冷たい目で言い放った。 「明里、いい加減にしろ」 冷たく響く声。 「杏奈が気に入らないのは分かる。だが、子どもたちが彼女を慕っているからといって、こんな芝居じみた真似で距離を引き裂こうとするなんて、正気か? お前、考えたことあるか? 自分の子どもたちが母親より他人を好きになる理由を」 その冷たい言葉に、明里は何も言えなかった。 寒成は彼女を愛していない。 子どもたちも、彼女を愛していない。 ――何をどれだけ言っても、誰一人、彼女を信じてはくれない。 「そうね。あなたの言うとおりだわ」 明里は震える手で地面を押し、かろうじて身を起こした。 目の縁は赤く染まり、声は掠れている。 「あなたと結婚したこと。この子たちを産んだこと。そして、愛されたいなんて夢を見たこと――それが、私の一番の過ちよ」 寒成は黙り込み、眉をひそめた。 冷ややかな声で言い捨てる。 「俺は最初から言ったはずだ。氷見夫人という肩書き以外、お前に与えられるものは何もないと。今さらそれを理解するなんて――遅すぎるんじゃないか?」 明里は静かに笑った。 ――ええ、前の人生では遅すぎたわ。 けれど、今度は違う。 彼女はもう、振り返らない。 この場所から――永遠に。 第6話 五日後、学校では保護者会が開かれた。 明里のスマホに、寒成からの【保護者会を忘れないように】という短いメッセージが届いた。 余計な波風を立てたくない――そう思いながら、明里は静かに家を出た。 講堂は人で溢れ返っていた。 明里は端の席に腰を下ろし、開会を待つ。 ほどなくして、校長が満面の笑みで壇上に上がった。 「今日は特別に、氷見蒼辰くんと氷見柚菜ちゃんのお母さまに、代表としてご挨拶をいただきます!」 ――お母さま? 明里は耳を疑った。 そんな連絡、聞いていない。 困惑する間に、杏奈がステージへ上がり、マイクを取った。 「皆さん、こんにちは。蒼辰と柚菜の母、沢渡杏奈です――」 その先の言葉は、まったく耳に入らなかった。 明里の視線は、花束を抱えて跳ねるように杏奈のもとへ駆け寄る二人の子どもに吸い寄せられる。 杏奈の左右の腕にしっかりと手を絡ませ、頬を寄せ合いながら嬉しそうに写真に収まる姿。 「僕たちの大好きなママだよ!」 ――同級生たちの羨望の声。 明里は、自分がそこにいること自体、間違いのように感じた。 保護者会が終わると、彼女は逃げるように会場を後にした。 だが、通り過ぎた教室の中から、聞き慣れた声がした。 「蒼辰、柚菜、本当のことを言いなさい。沢渡さんがあなたたちのお母さんなの?」 担任の先生の声は険しい。 「入学時の書類には、たしか――」 「僕たち、あの女が大嫌いなんだ!」 蒼辰が拳を握りしめる。 「杏奈さんはいつも優しいし、パパも彼女が好きなんだ。きっとすぐに僕たちのママになる!」 「そうよ!」と柚菜が続けた。「パパは絶対、杏奈さんと結婚するんだから!」 明里は扉の外で静かに聞いていた。 痛みはもう、痛みですらなかった。 唇をかすかに噛み、背を向ける。 外に出ると、空から突然の豪雨。 屋根の下で雨宿りをしていると、目の前に一台の車が止まった。 窓がするすると下がり、運転席から杏奈の顔がのぞいた。 「送っていくわ。この天気じゃタクシー、つかまらないでしょう?」 明里は「付近に車両が見つかりません」という表示を見つめ、黙って助手席に乗り込んだ。 後部座席の子どもたちは、彼女を見るなり笑顔を消した。 まるで、明里の存在がその空間の幸福を壊したかのように。 「桐島さん、今日のこと、本当にごめんなさいね」杏奈はハンドルを軽く叩きながら、柔らかく微笑んだ。 「蒼辰と柚菜が『ママは忙しいから代わりに来て』って言うものだから……怒ってない?」 「怒るわけないでしょう。どうせ、もうすぐ出ていく身だし」 「ママ、どこに行くの?」後ろの蒼辰が眉を寄せた。 「僕と柚菜、洗濯ものいっぱいたまってるのに!」 柚菜も口を尖らせて言った。 「そうよ、ママ、早く帰ってきてね。ママがいないと家の中ぐちゃぐちゃで、杏奈さんも困っちゃうんだから!」 明里は無表情のまま、唇を引き結んだ。 ――もう二度と、そんなことはしない。 そう言いかけたその瞬間、杏奈の甲高い悲鳴が車内に響いた。 「きゃっ!」 激しい雨に視界が奪われ、彼女は横から来た車に気づかなかった。 慌ててハンドルを切った瞬間、車体がガードレールに激突。 明里の体が大きく前に投げ出され、額がフロントガラスに打ちつけられた。 視界が白く弾け、意識が途切れた。 再び目を開けたとき、明里は自分が傾いた車の中に横たわっていることに気づいた。 車体は橋の縁に辛うじて引っかかり、軋むような音を立てている。 視界のすべてが、滲むような鮮紅に覆われていた。 耳の奥で、救助隊員の叫び声が断片的に届く。 「車が橋の上で引っかかってる!今にも落ちるぞ!一人を助けたら、もう一人のバランスが崩れる……どうする?」 「パパ!杏奈さんを助けて!痛いのは嫌なんだって!」 「ママなんか、もういい!私たちのことなんて、どうでもいい人だもん!」 二人の子どもの叫び声が、鋭い刃のように明里の胸を突き刺した。 次の瞬間、寒成の低く沈んだ声が聞こえた。 「杏奈を先に助けろ」 「杏奈さん……重傷の方ですか?」 「違う。隣の――あの女じゃない方だ」 その言葉と同時に、救助隊員たちが動いた。 杏奈の体が引きずり出され、車体の片側が大きく傾ぐ。 バランスを失った車は、きしむ音を立てながら―― 明里を乗せたまま、闇の底へと落ちていった。 第7話 明里が目を覚ましたとき、全身が大型トラックに轢かれたかのように痛んだ。 肋骨の奥からは、錐を突き立てられるような激痛。 さらに、腹部には厚い包帯が何重にも巻かれている。 ――嫌な予感がした。 「目が覚めたか」 寒成がベッド脇に立っていた。 凍りついたような声と、まるで他人を見るようなまなざし。 沈黙ののち、彼は淡々と告げた。 「杏奈が数日後に重要な会議に出る。彼女はプロジェクトの中核だから、欠席させるわけにはいかない」 明里は何も言わなかった。 生気を失ったその姿は、まるで魂を抜かれた人形のようだった。 寒成に言ってやりたかった――もう、そんなつまらない言い訳で取り繕う必要なんてないと。 結局、彼の冷たく薄情な心は、一生をかけてようやく見抜けたのだから。 寒成は少し間を置いてから、言葉を続けた。 「それと……杏奈は腎臓を傷めていた。だから、医師に頼んでお前の腎臓を移植した」 その言葉を聞いた瞬間、明里の身体がかすかに震えた。 ゆっくりと顔を上げ、寒成を見つめる。 その瞳には驚愕、痛み、そして墨のように濃く滲み、二度と晴れることのない絶望が宿っていた。 ――あの事故は杏奈の過失だった。 なのに、犠牲になったのは自分。 彼は、いったいどこまで杏奈に盲目でいられるのだろう。 明里はふっと笑った。 ――自分でも可笑しくなる。前の人生を、こんな薄情な男のためにすべて捧げてきたなんて。 寒成は、その笑みを見た瞬間、胸の奥を鋭く刺されたような不快感を覚えた。 だが、彼は顔を背け、冷たい声で言い放つ。 「ちゃんと養生しろ。早く退院してくれ。子どもたちにも、家にもお前が必要だ」 明里は唇を震わせ、掠れた声で呟く。 「でも、氷見寒成……」 ――私は、もうあなたを必要としていない。 そう言う前に、扉がノックされた。 「氷見さん、沢渡さんが『傷口が痛む』と……」 若い看護師の声に、寒成は一度も振り返らず、無言のまま病室を後にした。 残されたのは、彼の背中と、冷えきった空気だけ。 そして、あの日を境に、寒成が彼女のもとを訪れることは、二度となかった。 …… その後、寒成の噂だけが、彼女の耳に届いた。 「氷見さんって、本当に沢渡さんに優しいよね。毎日お子さん二人を連れてお見舞いに来て、仕事まで病室でしてるんだって!」 「知らないの?沢渡さんは氷見さんの初恋なんだよ。大学のころはみんなが憧れる理想のカップルで、遠距離だった時期も、氷見さんは彼女と夕ご飯を食べるためだけに、毎日四時間も飛行機で往復してたんだって」 「それじゃ、奥さんの桐島さんって、ただの代わりってことじゃん……かわいそう」 どんな言葉を浴びても、明里の胸には何の波も立たなかった。心は、もう壊れることすらできなかった。 そして、彼女は一人で退院し、まっすぐ市役所へ向かった。 手続きの書類に署名を終え、離婚届受理証明書を受け取った瞬間、思っていたような痛みはなかった。 あったのは、空っぽな静けさだけ。 明里は一通の郵便を出した。 もう一枚の離婚届受理証明書を、彼の家へ。 それから空港へと向かう。 飛行機の搭乗前、彼女は寒成の連絡先をすべて削除した。 胸の奥を締めつけていた痛みが、風にほどけるように消えていく。 ――もう、呼吸すら軽い。 前の人生では、彼は「名ばかりの夫」だった。 どんな瞬間も、そこにいなかった。 ならば今世は、彼の世界から、跡形もなく消えてやる。 …… 数日後、寒成は医師の口から「桐島さんが退院した」と聞かされた。 彼女が杏奈に腎臓を提供したことを思い出し、わずかな罪悪感が胸を掠める。 償いのつもりで、彼は小さなネックレスを買った。 家に帰ると、子どもたちは上着をソファに放り投げ、駆け上がっていく。 「ママ!クッキー焼いて!」 「チョコケーキも食べたい!」 だが、家の中は静まり返っていた。 寒成の胸に、不穏な気配が走った。 「明里は?」 使用人が首を振り、一つの小包を差し出した。 「奥さまは数日戻られていません。ですが、こちらを送ってこられました。宛名は旦那様です」 寒成は眉を寄せ、包みを受け取った。 「三日前はご結婚記念日でしたね。きっと、奥さまからの記念日の贈り物でしょう」 その言葉に、彼の表情が少しだけ緩んだ。 ――やはり、明里は分別のある女だ。 どんなに拗ねても、記念日は忘れない。 彼はハサミを手に取り、慎重に封を切った。