この花が咲く頃、君はもういない

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この花が咲く頃、君はもういない

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喧嘩から3日目、婚約者・丸山隼人(まるやま はやと)はあてつけみたいに、彼の秘書・木村泉(きむら いずみ)とのドライブ旅行をオーケーした...

Chương (1)

第1章

喧嘩から3日目、婚約者・丸山隼人(まるやま はやと)はあてつけみたいに、彼の秘書・木村泉(きむら いずみ)とのドライブ旅行をオーケーした。 いつもの私なら、嫉妬してわめき散らすと思っていたのだろう。でも1か月ぶりに帰ってきた隼人は、私がすっかり変わってしまったことに気づいた。 彼が泉に私のプロジェクトを横取りさせても、もうカッとなって辞めたりしない。それどころか、あれこれ世話を焼いて、彼女の企画書まで手伝ってあげた。 彼が泉にボーナスをあげたくて、私ががんばって作ったデザインを台無しにしたときも、私は必死に弁解したりしなかった。むしろすべての責任を負って、処分をすんなり受け入れた。 彼が泉を異例のスピードで昇進させて、会社のゼネラルマネージャーにしようとしたときでさえ、私は怒らなかった。それどころか自分の持ち株を全部手放した。 泉は、すっかり得意気になっていた。 「ほら、私の言った通りでしょう?遥さんみたいなタイプには、強く出ちゃダメなんで、あえて距離を置くのが一番効くんですよ。きっとこの1か月あなたが離れていたから、失うのが怖くておとなしくなったんです」 隼人はその言葉をすっかり信じ込んで、泉のことを賢いと褒めていた。その後、彼は私を呼び出すと、昇進と昇給、おまけに柄にもなく「最高の結婚式」まで約束してくれた。 でも、隼人は忘れていたみたい。旅行に出ている間に、私の退職届にサインしていたことを。 そして私が、もう彼と別れていたことも。 これでもう、きっぱり縁が切れた。彼とはもう赤の他人だ。 第1話 「遥さん、この企画案、社長がお急ぎなんです。悪いんですけど、必ず退社前までに終わらせてくださいね」 丸山隼人(まるやま はやと)の秘書、木村泉(きむら いずみ)がにこにこしながら、分厚い書類の束を私の机に放り投げた。 私はもう慣れたので、「わかりました」とそれを受け取る。 でも泉はまだ満足していない様子で、笑いながら言った。「この後、私は社長と接待があるので、それが終わったら彼の机に置いてください。あ、そう、帰る前に社長室の掃除もお願いしますね」 そう言って、彼女はハイヒールを鳴らしながら、とても機嫌がよさそうに背を向けて去っていった。 同僚たちは、哀れむような目で私を見ている。どんな言葉をかければいいのか、わからないといった顔だった。 社長の隼人が私の婚約者なのに、秘書の泉をものすごくひいきしていることは、誰もが知っている。 隼人は以前、泉を他の会社から特別に引き抜いてきて、いきなり営業部の部長にした。それだけじゃなく、私が1か月かけて契約を取り付け、さらに1か月以上徹夜して完成間近だった数億円の大きなプロジェクトまで、彼女に渡してしまった。 私が納得できずにいると、隼人はみんなの前で投票をして、プロジェクトの担当を決める、と言い出した。 隼人はみんなが自分に従うと思っていた。でも結果は違った。皆がこぞって私に投票してくれた。泉の手に握られていたのは、彼が入れた哀れな一票しかなかった。 すると隼人はすぐに激怒して、私が会社で派閥を作っている、となじった。 プロジェクトが私に戻ってくることはなく、それどころか、彼はみんなの前で私の役職を解き、私を支持してくれた同僚全員の給料まで下げた。 みんな怒りを感じていたが、何も言えなかった。 後になって隼人は私に謝ってきて、泉が社内で孤立しないように、わざとやったんだと説明した。 最初のころはそれを信じていたが、今では、ただ笑えてくるだけ。 泉の仕事ぶりは、新人のインターンにも劣るくらいだから。 彼女を守るためなのか、ただのえこひいきなのか。同僚はみんな気づいている。認めていないのは、隼人自身だけだった。 上の階で物音がして顔を上げると、階段のところに隼人のすらりとした姿が見えた。 彼はちらっと私の方に視線を向けただけで、すぐに背を向けて出ていった。カジュアルなスーツに着替えていて、シダーウッドの香水の匂いが、かすかに漂ってくる。 隼人は香水をつけない人だったが、その香水は泉がプレゼントしたものだ。 私には、彼がわざとやっているのだとわかっていた。 ここ何年も、ずっとこんな感じなのだ。 きっかけは、隼人と泉が「おやすみ」とメッセージを送り合っているのを見つけて、私が彼を問い詰めたことだった。 第2話 隼人は私をケチだと思った。「どうせ疑うなら、いっそ本当の関係にしてやる」というような口実で、泉を彼の秘書にした。 私が怒れば怒るほど、彼はわざと泉をひいきした。いろいろな会合に泉を連れていき、会社の飲み会では、みんなの前で彼女におかずを取り分けてあげたり、口を拭いてあげたりまでした。 私が隼人と喧嘩をすると、彼は無視を決め込む。私が謝ると、ここぞとばかりに友達を巻き込んで、私を諭したり責めたりする。 そのせいで私も、自分の心が狭いからこんなことになったんじゃないかと、何度も反省した。 でも、無視されて3日目、私が病気でベッドから起き上がれないのに、隼人はそれを見て見ぬふりをした。そしてわざと荷物をまとめ、泉と旅行に出かけたとき、私は完全に失望した。 そしてようやく悟ったのだ。彼はただ、私が嫉妬深い性格を直すための「脱感作療法」という名目で、自分の浮気を正当化しようとしていただけなのだと。 たとえあの時メッセージを見ていなくても、隼人はきっと別の口実を見つけて、泉と一緒になっていた。 このあいだ二人が出張から帰ってきてから、相変わらず一緒に食事やスポーツに行っているが、彼らの関係がさらにベタベタになったことに私は気づいていた。 でも好都合だ。私はもう、どうでもよくなったので。 5年にわたる恋も、もう終わりだ。 この茶番劇も、そろそろ幕引きにしなくては…… …… 企画案を作り終えたころには、会社には私一人だけになっていた。スマホを開くと、泉がSNSに何件も連続で投稿しているのが目に入った。 背景は高級そうなレストラン。二人の前のテーブルには、ロマンチックなキャンドルディナーが並んでいる。 隼人が優雅な手つきでナイフとフォークを使い、泉のためにステーキを切ってあげていた。 投稿には、【社長自ら切ってくださったステーキ、きっと格別においしいでしょ】というキャプションが添えられていた。 コメント欄には、取引先の人たちが、【お似合いですね】と書き込んでいた。私たちの関係を知らない人からは、【いつ結婚式に呼んでくれますか?】という質問もあり、隼人は【……】とだけ返し、泉はおちゃめなスタンプを送っていた。 前と同じで、関係をはっきりさせようとはしない。 でも今回は、前みたいに二人の曖昧な関係に腹を立てたりしなかった。電話をかけたところで、隼人に、「他人の一言でいちいち感情的になるな」と責められるだけだから。 私は隼人に、企画案が終わったとメッセージを送った。そして書類を社長室に置き、言われたとおりにウォーターサーバーの水を替えてから、車で家に帰った。 家に着いた途端、隼人から電話がかかってきた。 「遥さん、木村です。プロジェクト、お疲れ様でした。今度お礼にご飯でもごちそうしますね」 電話に出るとすぐ、泉の優しい声が聞こえてきた。 私が返事をする前に、横から隼人の声が割り込んだ。「礼なんて言う必要ないだろ。これは彼女がやるべき仕事なんだから」 「社長、遥さんはあなたの婚約者なんですよ?もう少し優しく言ってあげてください」と泉が甘えた声で言った。 その慣れた様子は、まるで二人のほうが恋人同士みたいだった。 私は、ふん、と鼻で笑った。 常にスマホを手放さず、私が彼のスマホで時間を見るだけでも、「プライバシーを覗くな」と怒る隼人が、泉に平気でスマホを預けるようになった時、誰が大事かなんて明らかだ。 でも、私の心は不思議なくらい穏やかだった。 以前なら世界の終わりだと思っていたことも、今となってはたいしたことではない。 隼人と泉はしばらく笑いながら話していたが、私が電話の向こうにいるのを思い出したのか、適当に言った。「もうすぐ帰る。俺を待たないで、先に寝てていいよ」 そう言って、電話は切れた。 隼人の言う「もうすぐ」は、少なくとも4、5時間はかかる。以前の私はいつも、イライラしながら彼の帰りを待っていた。 でも今はもう気にせず、静かな気持ちで書斎へ向かった。 そして、机の上のカレンダーに目をやる。 第3話 少し前、隼人と泉が出張と称して旅行に行っている隙に、私は退職届を出した。案の定、泉と一緒にいるときの隼人は彼女に夢中で、退職届を見もせずに承認した。 あと、3日。 3日後に引き継ぎが終われば、私は完全にここからいなくなる。 私は考えた末、海外の研究所にいる指導教授・藤田修(ふじた おさむ)に電話をかけた。 私は大学卒業後、優秀な卒業生として研究所に入り、かなり優遇されてたんだ。でも隼人が会社を作るのに人手が足りないと聞いて、ためらうことなくその仕事を辞めた。藤田先生が何度も引き留めてくれたのに、それを振り切って帰国し、隼人とゼロから会社を立ち上げた。 今思うと、あの頃の私は本当に愚かだった。 人の気持ちはすぐに変わってしまう。でも、仕事だけは自分を裏切らない。 電話がつながり、私は用件を伝えた。 てっきり怒られると思っていた。でも藤田先生はため息をついて、私の状況は知っていたし、ずっと前から戻ってきてほしかったと言ってくれた。 「今度こそ、本気で決めたんだな?」 私は頷いた。「はい。退職の件も、もうすべて済ませてあります」 「退職?なんのことだ?」 驚いたような声が聞こえた。 振り返ると、隼人がドアを開けて入ってくるところだった。 スマホを見ると、藤田先生との電話はもう切れていた。 私はごく自然に、スマホの画面を消した。 どう説明しようか考えていると、隼人のスマホが鳴った。泉からで、帰り道に野良猫を見つけて、わざわざコンビニでソーセージを買ってあげた、という内容だった。 【かわいいな】と隼人が返信する。 すぐに返事が来た。【子猫と私、どちらがかわいいですか?】 メッセージには、泉が子猫を抱きしめて、唇をとがらせてピースサインをしている自撮り写真が添えられていた。 隼人の口元が、思わずほころびる。【子猫もかわいいけど、君のほうがもっとかわいいよ】 私がまだいることに気づいたのか、彼は笑みをしまい、眉をひそめて私を見た。「先に休んでろって言ったんだろ。なんでまだここに立ってるんだ?」 その冷たい口調は、泉と話しているときとはまったく違う。私がさっき言った退職の話なんて、すっかり頭から抜けているようだ。 私は軽く笑い、説明の手間を省いた。「まだやることが残っていたので」 「こんなに遅いのに、家事でも残ってるのか?もっと早くできないのか。遥、言いたくはないが、お前は先延ばしにする癖がひどすぎる」 隼人は眉をきつく寄せて、不満そうに言った。 私のその癖が、彼の突然の無茶ぶりのせいだとは言わなかった。もう、顔を真っ赤にして自分の状況を説明する気もない。 私が黙っていると、隼人はそれ以上何も言わずに寝室に入っていた。 まもなく、部屋から彼の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。隼人があんなふうに笑うのを、もうほとんど見たことがない。泉と一緒のときだけ、彼はあんなに楽しそうなんだ。 私はもう気にせず、机の前に座って、読みかけだった英語の資料を取り出した。 5年も経てば、研究所の研究分野も昔とは全然違う。戻るには、藤田先生が手伝ってくれるとはいえ、自分自身の実力も必要だ。 でも幸い、基礎はしっかりしているので、感覚を取り戻すのにそんなに時間はかからない。 「英語の雑誌を読んでるのか?」 私が集中していると、いつの間にか隼人が部屋に入ってきていた。 彼は私の手から雑誌を取り上げ、ぱらぱらとめくってから、投げ返すように返してきた。 鼻で笑う。「なんでこんなものを読んでるんだ?読めるのか?」 「なんとなく見ているだけ」 私は資料を片付けながら、冷めた声で言った。 第4話 「何か用?」 以前の私なら、隼人から話しかけられるだけで大喜びだった。だから、こんなに冷たい態度を取られるとは思ってもいなかった。彼は一瞬、呆気にとられていた。 その表情は、少し気まずそうだった。 「実は、話がある。 泉が大きなプロジェクトを成功させたから、彼女を昇進させようと思うんだ。他の社員への励みにもなるしな。お前はどう思う?」 隼人は私を見た。 口では私の考えを聞いているが、これはすでに「決定事項」で、本当に私の意見を求めているわけじゃないことはわかっている。 それでも私は頷いた。「反対はない」 「でも、励みがあるなら罰も必要だ。そうしないとチームがまとまらない。 お前はもう長い間、プロジェクトを一つも完成させていない。だから、一時的に現場に異動してもらおうと思う。また頃合いを見て、元の部署に戻すから。 心配するな。長くはかからないさ。これも会社全体のためだ。お前は俺の婚約者なんだから、わかってくれるよな?」 私は心の中で鼻で笑った。 なんだ、隼人はまだ私が退職したことを知らないね。 彼は、泉のほんの些細な変化から、彼女の気持ちを読み取ることができた。どんなものが好きか、どんなことをされたら喜ぶのか、全て把握していた。それなのに、婚約者である私のこととなると、全くの無関心。退職届が彼のサイン入りで受理されているというのに、彼は何も気づいていないのだ。 やっぱり、関心があるかないかなんて、ほんの数言でわかってしまうものだ。 黙っているのを見て、隼人はまた私が反論してくると思った。彼の顔が、とたんに曇った。 「反対したって無駄だ。辞令はもう出したし、お前のオフィスも泉に譲った。 異動を受け入れるか、会社を辞めるかだ。でも、一つ言っておく。会社はもうすぐ上場準備に入るんだ。辞める前によく考えたほうがいいぞ」 私が会社を辞めるはずがないと、隼人は信じきっている口調だった。 こんなことは今まで何度もあった。この1年だけで、私は泉の言葉のせいで、社内の立場をどんどん下げられてきた。 あの時の私でさえ我慢できたんだから、今の私が会社を辞めるわけがない。隼人はそう確信していた。 私は苦笑した。 「反対するとは言っていない」 「じゃあ、そういうことで」と隼人はほっとした様子だった。 私が反対しないのは、同意したということだと思っている。 部屋を出ようとしたとき、何かに気づいたのか、彼はまた戻ってきた。 「確か、お前の机の上に俺たちの写真立てが置いてあったよな。今はどこにやったんだ?」 言われて、私ははっとした。 机の上だけではない。スマホの待ち受け画面も、部屋の壁も、お財布の中も、以前はどこもかしこも、二人の写真で飾られていた。 隼人は昔、そんな乙女チックなことで頭がいっぱいだな、とバカにした。でも、あれは私が自分に言い聞かせるためだった。どんなひどいことをされても、彼は私を愛しているんだ、と。 でも後になって、自分がどれだけ滑稽だったかわかった。 どの写真も、自分がどれだけピエロだったかをあざ笑っているようだった。 私はあまり説明したくなくて、静かな声で言った。「写真立て、うっかり割ってしまったので、片付けた」 「なんでお前は何をやっても、そんなに不器用なんだ?」 隼人はうんざりしたように眉をひそめ、すぐに自分の足元にガラスの破片がないか確認し始めた。 「時間があるときにちゃんと掃除しておけよ。誰かがケガでもしたら大変だからな」 私がもう反抗的な態度をとらないのを見て、隼人の口調も少し和らいだ。そう言って、彼は書斎を出ていった。 隼人の背中を見ながら、私は自嘲気味に笑った。 もちろん、私のことを心配しているわけではない。さっきのは明らかに、泉をケガさせるな、という意味だ。 ここは私たちの家で、家のことは全部私がやっていた。でも数か月前、隼人の書斎にヘアゴムが落ちているのを見つけ、寝室の枕が動かされているのに気づいて、彼が何度も泉を家に連れてきていたことを知った。 第5話 私が問い詰めると、隼人はすぐに仕事のためだったという証拠を突きつけてきた。そして、ここぞとばかりに私を嫉妬深い、心が狭いと責め立て、私への当てつけのように、堂々と泉を家に連れてくるようになった。 私に対する泉の挑発的な態度と敵意は、うすうす感じていた。 でも二人の関係は普通で、一線を越えているようには見えなかった。 時間が経つにつれて、私は自分を疑うようになった。 毎日、自分が間違っているんじゃないかって反省していた。でも今思えば、そんなことを考える時間があったら、何をやったって成功できたはず。 翌朝、隼人は泉の昇進と、私の降格を正式に発表した。 発表するとき、隼人は少し警戒していた。でも私が終始何事もなかったかのようにしているのを見て、ようやく私が本当に受け入れたんだと信じたようだった。 彼は上機嫌だったし、私の気分も悪くなかった。 その後の数日間、隼人が泉のためにお祝いパーティーを開いている間、私はビザの申請をしていた。 あの二人が遊園地で息抜きをしている間、私は荷物の整理をしていた。持っていくものは、スーツケース一つにも満たなかった。 二人が接待の席で、はやし立てられている間、私はすべての仕事の引き継ぎを終わらせた。 …… 2日後、会社での最後の日。私は人事部で最後の手続きを終えた。 「帰る前に社長室へ寄ってください。社長がお呼びです」 人事部長の小川玲奈(おがわ れな)は、顔も上げずにそう言った。 断ろうかと思った。でもよく考えたら、私は今夜ここを離れるのだ。もし隼人がいつものように泉と出かけて帰ってこなければ、これが最後に顔を合わせる機会になる。 5年間も一緒にいたんだから。お別れには、それなりのけじめが必要でしょ。 そう思い、私は階段を上がって社長室へ向かった。 ドアを開けようとしたとき、ガラス張りの壁の向こうに、ソファに座っている隼人の姿が見えた。その膝の上には、ロングドレスを身にまとった泉が、頭を乗せていた。とても親密な様子だった。 隼人が何かを言うと、泉は口元を押さえて、笑いが止まらないようだった。 私は足を止めた。 入るのをやめようか考えていると、先に泉が私に気づき、「きゃっ」と声を上げて慌てて起き上がった。 「遥さん、どうしてここに来たんですか?」 隼人の顔にも緊張が走った。彼は乱れたスーツを慌てて直し、私に向かって怒鳴った。「遥、誰が入っていいと言った?! 俺の許可なく、上の階に来て邪魔をするなと言ったはずだ!」 そのルールは、前に隼人が言っていた。 でも、もともとのルールは、「木村さん以外は、誰も許可なく上の階に来てはいけない」というものだった。 以前は、泉だけ特別扱いしてくれているんだと思っていた。でも、こういうことのためだったんだと、今やっとわかった。 まあ、どうせ辞めるのだから、今さら驚きもしない。 私は静かな声で言った。「小川さんに、用があるからと、呼ばれた」 隼人は冷たく鼻を鳴らし、大股で机まで歩いていくと、内線電話のボタンを叩きつけた。2分もしないうちに、玲奈が上がってきた。 「こいつに俺が用事があるって言ったの、君か?」と、隼人が冷たく問い詰めた。 玲奈はただならぬ雰囲気を察した。隼人の冷たい顔と、その横で悔しそうにしている泉を見て、緊張のあまり言葉も出ないようだった。そして、やっとのことで「覚えていません」と言った。 「ふん」 その言葉を聞くと、隼人は「ほらな」と言わんばかりの顔で、私を冷たい目でにらみつけ、皮肉たっぷりに言った。 「遥、面白いか? やっと聞き分けがよくなったかと思えば、結局こんなに腹黒いとはな。そんなに俺が信用できないなら、いっそ上の階に引っ越してきて、四六時中俺を監視したらどうだ? それか、俺の体にカメラでもつけて、お前の好奇心を満たしてやろうか」 第6話 私は、ただ立ち尽くすしかなかった。 「社長、そんなに怒らないでください。遥さんだって、きっと心配でそうなってしまっただけです。わざとじゃないと思いますよ」 泉は優しく隼人の背中をさすりながら、私に言った。「遥さん、誤解しないでください。さっきのは私が疲れて頭が痛かったからで、社長は、私が仕事を続けられるよう、少しでも楽にしてあげようとしてくれただけです。 すべて会社のためで、変に勘ぐらないでくださいね」 でも、彼女の得意げな目は、私に勘ぐってほしいとでも言いたげだった。 すべてがわかったわけではないが、これは泉が仕組んだことだと確信した。 玲奈は世渡り上手だ。泉が隼人のお気に入りだと知っているから、場の空気を読んで本当のことを言えなかった。 でも、たとえ本当のことを言ったとしても、おそらく隼人は信じなかっただろう。 私が黙っていると、隼人はまだ怒りが収まらない様子で、声を荒げた。 「彼女に説明する必要はない。 プライベートと仕事は別だ。今は会社にいるんだから、会社のルールに従ってもらう! 会社のルールを従わない以上、今月のボーナスは全額カット、給与も半分にする」 玲奈が慌てて言った。「社長、山下さんはもう……」 彼女はきっと、私が退職することを言おうとした。でも、言い終わる前に、隼人が冷たい目で睨みつけた。 「彼女の言い訳は聞きたくない。俺の言う通りにしろ!」 玲奈はもう何も言えず、踵を返して下に降りていった。 私も帰ろうとすると、突然、隼人に呼び止められた。 ひとしきり怒鳴ったせいか、彼は少し落ち着いて見えた。そして、諭すような口調で言った。「遥、わざとお前をいじめているわけじゃない。でも、これは俺が作ったルールだ。お前を罰しなければ、他の社員たちが納得しないだろう」 横で泉が頷いた。「そうですよ、遥さん。今度わからないことがあったら、まず社長に聞いてみるといいですよ。それが無理なら、私に聞いてもいいんですよ」 隼人は感心したように頷いた。 「泉は、いつも会社のことを一番に考えている。会社のことは、誰よりもよくわかっているんだ」 そう言って、彼はまた私をにらんだ。「それに比べてお前は、嫉妬したり張り合ったりするだけで、他に何ができるんだ?少しは泉を見習ったらどうだ?」 見習うって、何を? 人の恋に割り込むこと?陰で嫌がらせをしたり、手柄を横取りしたりすること? 私は鼻で笑ったが、もう何もかもを暴く気力もなかった。 私が黙っているのを、隼人は反省していると勘違いしたようだ。 彼は私の方に数歩近づき、乱れてもいない私の襟を直し、また諭すように言った。 「お前が何でこんなことをするのか、わかっている。正直、お前には本当にがっかりしたよ。 でも、今回お前はずいぶん聞き分けがよくなった。ご褒美に、明日、結婚写真を撮りに行こう。結婚の話も本格的に進める。だが調子に乗るなよ。結婚というのはただ……」 「結婚?」 私はその言葉を遮って、軽く笑った。 そして、隼人の手を振り払う。 準備しておいた退職届を、彼の目の前に突きつけた。 「隼人。私たち、別れよう。 それから、私はもう会社を辞めた。これからはもう、私たちは何の関係もないわ」