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愛も憎しみも、ここで終わり
妊娠9か月、いよいよ臨月を迎えようとしていた時、夫はたった一枚の書き置きを残し、忽然と姿を消した。 【妻へ。僕は時空を越える。心配する...
Chương (1)
第1章
妊娠9か月、いよいよ臨月を迎えようとしていた時、夫はたった一枚の書き置きを残し、忽然と姿を消した。
【妻へ。僕は時空を越える。心配するな、また会おう】
思えば結婚してからの3年間、彼はありとあらゆるくだらない言い訳をでっち上げては、心に秘めた女と旅行に出かけていたのだ。
書き置きを見たその夜、私は怒りとショックのあまり急にお腹が張り、そのまま破水して救急搬送された。
幾度となく押し寄せる陣痛の波に襲われ、私が死に物狂いで耐えていたその時、彼はノルウェーで林美桜(はやし みお)と肩を並べてオーロラを眺めていた。
分娩中の大出血で生死の境を彷徨っていた時も、彼は美桜と熱気球に乗り、ロマンチックな空の旅を楽しんでいた。
そして、私が九死に一生を得てようやく息子を産み落としたその瞬間、なんと彼は、花火の上がる夜空の下で美桜と熱い口づけを交わしていたのである。
息子の生後一ヶ月を祝う数日前、彼は格安通販で買ったおもちゃを手に、何食わぬ顔でこう言った。
「ただいま。これ、息子へのプレゼントだよ。これからは三人で幸せに暮らそうね」
その時すでに彼の嘘をすべて見透かしていた私は、とうの昔に絶望し、心は冷え切っていた。息子のお宮参りの当日、私もたった一枚の書き置きを残し、彼と同じように忽然と姿を消した。
【M78星雲から母星への帰還命令が出たわ。子どもは連れて行く。心配しないで。もう二度と会うことはないから】
第1話
大きくなったお腹を抱えて入院の準備をしていると、ふとテーブルの上に一枚の書き置きがあることに気がついた。
【妻へ。僕は時空を越える。心配するな、また会おう】
手にしていたバッグが滑り落ち、ドサッと床に転がった。
またしても彼は、黙って姿を消したのだ。もうすぐ出産を控えた妻を置き去りにして。
結婚してからの三年間、彼が家を空ける口実は、回を重ねるごとにくだらなくなっていく。
スマホの位置情報で確認すると、彼は今、海外にいるようだった。
きっとまた、林美桜(はやし みお)と旅行に出かけたのだろう。三年間連れ添った情も、結局のところ、彼が心に秘めている女には到底敵わないのだ。
こみ上げる怒りで胸が張り裂けそうになったその時、突然、下腹部に激しい痛みが走った。
両足の間に、生温かいものが伝い落ちるのを感じる。
私はお腹を押さえて苦悶し、そのまま床へ崩れ落ちた。そして、遠のく意識の中で必死に救急車を呼んだ。
ぼんやりとした意識の中、何度も激しい陣痛の波が押し寄せ、全身から容赦なく冷や汗が吹き出す。
下半身から生温かい血が絶え間なく溢れ出し、体温が徐々に奪われていくのを感じた。
搬送中の医師が声を荒らげた。「まずい、大量出血の兆候があります。至急ICUへ」
視界がだんだんと霞んでいく中、看護師が私の手を強く握りしめて叫んだ。
「ご家族は!?すぐに手術をする必要があるので、同意書のサインをお願いします!」
私は唇から血が滲むほど強く噛みしめると、かすれゆく声で絞り出すように答えた。「私……一人です」
「これから出産なのに、ご主人は?」
私は震える唇を開いた。目尻から一筋の涙がこぼれ落ちる。「……死にました」
看護師の瞳に一瞬だけ哀れみの色が浮かんだが、すぐに優しい声で励ましてくれた。「大丈夫ですよ。母体の安全を最優先にしますからね」
この三年間、ひたすら冷酷で無情だったあの男は、私の中ではもうすでに死んだも同然だった。
手術室へ運び込まれる直前、手元のスマホが短く震えた。
海外での素行調査を頼んでいた探偵から、夫である早瀬蓮(はやせ れん)の最新の写真が送られてきたのだ。
写真の中の彼は美桜の肩を抱き寄せ、二人はノルウェーの夜空に広がるオーロラをうっとりと見上げていた。
かつて彼は、「新婚旅行ではノルウェーへオーロラを見に行こう」と私に約束してくれていた。
だが、仕事が忙しいという口実で先延ばしにされ続け、今になってようやく悟った。
彼にとって、一緒にその景色を見る相手は私ではなかったのだと。
酸素マスクを当てられた途端、全身を激痛が駆け巡る。
大量出血により体内の血が失われていくにつれ、すべての細胞が恐ろしいほどの寒気に蝕まれていくかのようだった。
次々と輸血が行われ、冷え切った私の体内へと血が注ぎ込まれていく。
やがて、私の幾度目かの引き裂かれるような絶叫に重なるようにして、赤ん坊の元気な産声が手術室に響き渡った。
点灯したままのスマホの画面には、蓮が美桜と熱く口づけを交わしている写真が映し出されたままだ。
私は泣き叫ぶ息子をしっかりと胸に抱きしめ、とめどなく涙を流した。
第2話
九死に一生を得て産み落とした我が子。私はそっと息子の額に唇を落とす。
夫はもういらない。今日から私はあの男を捨て、この子と二人だけで生きていくのだ。
出産を終えたばかりの体は、ひどく衰弱していた。
傷口の激しい痛みに耐えながら、なんとかベッドから降りようとしたその時、姑の早瀬和子(はやせ かずこ)が勢いよくドアを押し開け、嫌味な口調で言い放った。
「蓮はどこにいるの?出産なんて一大事なのに、あの子に知らせてないわけ?」
「蓮なら、『時空を越える』と言い残して消えましたよ」
私は口元に冷ややかな笑みを浮かべてそう答えた。
姑は途端に顔を曇らせた。どうやらそれが息子のいつものくだらない口実だと察したようで、忌々しそうに吐き捨てる。
「まったく、夫ひとりまともにつなぎ止められないなんて、本当に甲斐性のない嫁ね」
しかしそう嫌味を言ったかと思うと、すぐに視線をずらし、私の傍らにあるベビーベッドを覗き込んで満面の笑みを浮かべた。
「まあ、湊(みなと)はなんて可愛らしいんでしょう。パパにそっくりね」
私はただ黙っていた。
この姑の嫌味な態度には、とうの昔に慣れっこだった。
思えば、私の祖父と蓮の祖父はかつての戦友だった。
私の両親が公務中に相次いで殉職して身寄りをなくした私を、祖父が臨終の際に早瀬家に託したのだ。
それが縁で、私は早瀬家に嫁ぐことになった。
これまで私がこの家で耐え忍んできたのは、ひたすら蓮の祖父の思いに報いるためであり、「早瀬家に跡継ぎを残す」という約束を果たすためだった。
そして今、その約束はようやく果たされた。息子・湊が「お宮参り」を迎える生後一ヶ月のその日に、私はこの家を去るつもりでいた。
和子は孫の顔を一目見て満足したのか、私のことなど気にも留めずに病室を出て行った。
あとに残されたのは、病院のベッドで一人きり、孤独に赤ん坊を抱く私だけだった。
入院中、私はほとんど眠ることもできず、一人で湊の世話に追われた。そして退院の日を迎えても、結局蓮が姿を見せることはなかった。
その間にも、探偵からは彼と美桜が仲睦まじく過ごす写真が次々と送られてきていた。
ようやく退院して早瀬家に帰ると、あろうことか和子は雇っていたお手伝いさんを勝手に解雇しており、悪びれもせずこう言い放った。
「子供っていうのはね、母親が自分の手で育てなきゃいけないの。そうしないと親子の絆が深まらないでしょ?」
まだ回復していない体で、24時間休む間もなく続く授乳と夜泣きの対応。私の心身はすでに限界に達していた。
絶え間ない湊の泣き声と、ストレスで抜け落ちていく髪の毛を見つめる日々。
この一ヶ月間、私は何度も心が折れそうになりながら、ギリギリのところで理性を保っていたのだ。
そんな私をあざ笑うかのように、スマホには美桜からの挑発的なメッセージまで届き始めた。
【ねえ、優奈(ゆうな)さん。蓮と結婚したからって、それが何?
彼が心から愛しているのは、昔も今も私だけなのよ】
添付されていた動画を開くと、二人がベッドで肌を重ね合う生々しい映像が目に飛び込んできた。
スマホのスピーカーからは、男の荒い息遣いと、女の甘ったるい嬌声が入り混じって漏れ聞こえてくる。
夜が更け、私は湊の静かな寝顔を見つめながら、ただひっそりと胸を痛めるばかりだった。
スマホを開けば、SNSには美桜と蓮が海外旅行を楽しむ写真が次々とアップされているのが目に入る。
観光名所を訪れるたびに、二人の親密なツーショットが残されている。
その何百枚にも及ぶ写真を、私はまるで自らを傷つけるかのように、ただ黙って見つめ続けていた。
コメント欄には、蓮の友人たちからの冷やかしの書き込みが並んでいる。
【早瀬、お前すげえな。奥さんが出産で大変な時に、世界一周旅行かよw】
【で、今回はどんな言い訳で家を抜け出してきたんだ?】
蓮はそれに対し、悪びれもせずにこう返信していた。
【今回は「時空を越える」って言ってやった】
【マジかよ、そんなふざけた言い訳思いつくのお前くらいだろ。奥さんガチギレしねえの?】
すると蓮は、こう書き込んだ。
【この三年間、あいつはずっと文句も言わずに僕に従ってきたんだ。今回も同じさ。どうせ家で大人しく僕の帰りを待ってるよ】
この三年間、私が我慢して必死に耐え忍んできたことのすべてが、彼やその友人たちにとっては単なる笑い話の種でしかなかったのだ。
だが、今回はもう決して彼を許すつもりはない。
その夜、私は一人で涙が枯れるまで声を殺して泣き続けた。やがて夜が明け、外が明るくなった頃、突然玄関から激しいノックの音が響き渡った。
「優奈、ただいま。湊にお土産も買ってきたぞ」
重い足取りでドアを開けると、そこには完璧にメイクしておしゃれに身を包んだ美桜が、蓮に寄り添うようにして立っていた。
彼女は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて言った。「優奈さん、どうしてそんなにボロボロな格好してるの?女はもっと自分のケアをしなきゃダメだよ」
その時の私は、よれよれの部屋着のままで、襟元には湊に飲ませた母乳の染みがくっきりと残っていた。
美桜は露骨に鼻をつまむと、自分のバッグから香水を取り出して辺りにシュッシュッと振りまき、嫌悪感を隠そうともせずに言った。
「なんか、ミルクの腐ったような匂いがするわ。ほんと、くさい」
第3話
そして、わざとらしい作り笑いを浮かべて付け加えた。
「ごめんなさい優奈さん、私って匂いに敏感なタチで。気にしないでね」
蓮もわずかに眉をひそめながら口を開いた。
「ここ数日、一人で大変だったな。ほら、僕は時空を越えて無事に戻ってきたぞ。これ、湊へのプレゼントだ」
そう言って彼が安っぽい紙袋から取り出して私に押し付けたのは、適当なお店で安く買ったであろうおもちゃだった。
以前の私なら、怒りに任せてその場で彼に投げつけていたことだろう。
彼が毎回のように渡してくる、この適当に誤魔化すためだけのプレゼントを。
でも今はもう、そんな感情すら湧いてこない。
彼に対する期待も愛情も、とうの昔に冷え切り、どうでもよくなっていた。
蓮は自分の後ろに立つ美桜にちらりと視線をやると、こう言い訳をした。
「帰りの道中で偶然美桜に会ってな。赤ん坊の顔が見たいって言うから、一緒に連れてきたんだ」
私が無言でいると、彼はいつものように、私が嫉妬して機嫌を損ねているのだと思ったらしい。
だが次の瞬間、私はふっと笑みをこぼして答えた。「いいわよ、どうぞ入って」
予想外の反応に蓮は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに表情を緩め、気を良くしたように言った。
「やっぱり母親になると変わるもんだな。前よりずっと大らかになったよ」
これまでなら、彼が美桜を連れてくるたびに私は激怒し、二人はいつも美桜のことで大喧嘩になって、最後は最悪の空気で終わるのが常だった。
だが今は、彼の本性がすっかり見えてしまったため、もうすべてがどうでもよくなっていた。
美桜はカツカツとヒールの音を鳴らしながら、遠慮する素振りもなくズカズカと家の中へと足を踏み入れていく。
蓮もそそくさと寝室へ向かい、息子を見に行ってしまった。
リビングには私と美桜の二人だけが残された。すると彼女は、私を見下すように鼻で笑い、嘲りの笑みを浮かべた。
「ねえ優奈さん、今の自分の姿、鏡で見てみたら?そんじょそこらのおばさんの方が、まだマシな格好してるわよ。
そんなだらしない見た目じゃ、どうやって蓮の心をつなぎ止めるつもり?」
私は哺乳瓶の消毒作業を黙々と続け、彼女の方には一瞥もくれなかった。
その完全に無視する態度に苛立ったのか、美桜はさらに声を荒らげた。
「あんた、自分が愛されてないって分かってるくせに、それでもしつこく早瀬家に居座るなんて、ほんっとみっともないわね」
あまりの滑稽さに、私は冷ややかな声で言い返した。
「私は早瀬家に正式に嫁いだ妻よ。それであんたは何?ただの愛人?」
図星を突かれた美桜は一瞬言葉に詰まり、悔しそうに顔を歪めた。
「ちょっと子どもを産んだからって、彼があんたの元に心変わりするなんて思わないでよ。
私だって蓮の子どもくらい産めるんだから。あんたの子どもなんか、彼にとっては何の価値もないのよ!」
私は完全に無視を決め込み、黙って粉ミルクをすくい、スプーン一杯ずつ哺乳瓶へと入れていく。
相手にされないことに苛立ったのか、美桜の顔には明らかな怒りの色が浮かんでいた。
やがて私がお湯を注いでミルクを作ろうとしたその瞬間、彼女は突然ポットを奪い取り、あろうことかわざと自分の手へ熱湯を浴びせたのだ。
そして、わざとらしく甲高い悲鳴を上げた。
「痛っ!優奈さん、酷い!なんで私に熱湯なんかかけるの!?」
その悲鳴を聞きつけ、蓮が慌てて奥の部屋から飛び出してきた。
それと同時に、彼が開け放ったドア越しに、驚いた息子・湊の泣き声が響き渡る。
私が急いで寝室へ向かおうとしたのを遮るように、美桜が蓮の胸にすがりついて泣きじゃくった。
「蓮……っ!優奈さんがいきなり熱湯をかけてきたの。私、何か怒らせるようなこと言っちゃったのかな……」
私が事情を説明しようと口を開きかけたその瞬間、蓮は無言で腕を振り上げ、力任せに私の頬を張り飛ばした。
強い衝撃でバランスを崩し、私は床にどさりと倒れ込む。
耳鳴りがして視界が白く明滅する中、頭上から蓮の怒号が降ってきた。
「優奈!母親になって少しは丸くなったかと思えば、相変わらず陰湿で性根が腐ってるな!」
私はふらつく足に力を込めて立ち上がると、彼らを無視して、泣き叫ぶ湊の待つ寝室へと向かった。
もはや蓮に対する期待や未練など、とっくに冷え切っているはずだった。それでも、胸の奥を鋭い刃物でえぐられたかのように痛んだ。
蓮は「病院へ行くぞ」と美桜を抱きかかえ、そそくさと家を出て行った。
玄関のドアが閉まる直前、彼の腕の中にいる美桜の口元には、私を嘲笑うかのような勝ち誇った笑みがはっきりと浮かんでいた。
寝室へ駆け込み、顔を真っ赤にして泣きじゃくる湊を強く胸に抱きしめると、堪えきれずに目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
――あともう少しよ。あと三日経ったら、ママがこんな家からちゃんと連れ出してあげるからね。
その日の夜、蓮はあろうことか、再び美桜を連れて帰ってきた。
私が暗闇の中で湊を抱きかかえていると、壁一枚隔てた隣のゲストルームから、二人の抑えきれない嬌声が漏れ聞こえてきた。
それは情欲のままに放たれるあられもない喘ぎ声であり、明らかに壁の向こうにいる私に向けた、美桜からの悪意に満ちた挑発だった。
「ねえ、蓮……こんな声出したら、優奈さんに聞こえちゃうんじゃない……?」
第4話
蓮は鼻で笑いながら言った。
「聞こえたらどうだっていうんだ。あんな陰湿なやり方で君に火傷を負わせた罰だ」
激しい雷雨の中、私は湊を抱きしめたまま、一睡もできずに朝を迎えた。
ようやく浅い眠りに落ちかけたその時、バンッという大きな音とともに、寝室のドアが乱暴に蹴り開けられた。
そこには、挑発的な笑みを浮かべた美桜が立っていた。
「ねえ優奈さん、早く朝ごはんの支度してくれない?蓮が待ってるんだけど」
私が無言のままでいると、彼女はわざとらしく距離を詰め、首筋に残る生々しい赤い痕を見せつけるように立ちはだかった。
そして、私の耳元で楽しげに囁いた。
「昨日の夜ね、蓮があんたのボロボロな姿を見て『気持ち悪い』って言ってたわよ。
全身からミルクのすえたような臭いがして、吐き気がするんだってさ」
私は彼女の言葉を冷ややかに無視し、洗面所へと向かおうとした。
しかし次の瞬間、火のついたような湊の泣き声が部屋中に響き渡った。
慌てて振り返ると、あろうことか美桜の長い爪が、湊の細い腕に深く食い込んでいるではないか。
赤ちゃんの柔らかな肌には、くっきりと痛々しい爪痕が残されている。
私への嫌がらせならともかく、無抵抗な息子にまで手を出すなんて。
母親としての逆鱗に触れられ、私の中で激しい怒りが爆発した。
私は反射的に美桜の髪を掴み、力任せに引きずり倒そうとした――だが、その時だった。
騒ぎを聞きつけた蓮が飛び込んでくるなり、私を蹴り飛ばして怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、優奈!今のお前はただのヒステリー女だぞ!」
それだけでは収まらなかったのか、彼は傍らにあったガラスのコップを掴み取るや否や、私の頭に向かって思い切り叩きつけたのだ。
ガシャッと鈍い音が響き、一瞬、目の前が真っ白になる。
直後、額から生温かい血が線を引いて流れ落ちてきた。
ポタッ、ポタッと、真っ白な床に赤い血しぶきが散っていく。
その瞬間、私の中に残っていた彼へのわずかな情も、完全に死に絶えた。
顔の半分を血に染めた私の惨状を見て、蓮もさすがにハッとしたのか、一瞬だけ視線を泳がせた。
だが、すかさず美桜が「蓮……髪引っ張られて、痛いよぉ」と甘えた声で泣きついた。
すると彼は、わずかに覗かせた罪悪感をすぐに掻き消すように冷酷な表情に戻り、吐き捨てるように言い放った。
「いいか、明日の湊のお宮参り、絶対に遅れるなよ。
お前が大人しく僕に従っていれば、『早瀬家の奥様』という立場だけは今まで通り保証してやる」
そう言い捨てると、彼は美桜を抱き寄せ、ドアを乱暴に閉めて部屋を出て行った。
去り際、私の方を振り返ることは一度もなかった。
蓮はいつだって、私が「早瀬家の妻」という空虚な肩書きにしがみついていると思い込んでいる。
だが、今の私にとっては、そんなものはもう何の価値もない、ただのゴミ同然だった。
ズキズキと痛む額を押さえながら、私は明日の会場の司会者に電話をかけた。
「明日のパーティーで、これから送る動画をスクリーンに流していただけますか?
夫への特別なサプライズなんです」
ここ数日で集めていた、美桜と蓮が旅行先のホテルで親密に出入りする写真。それらをすべて繋ぎ合わせて、一本の映像に編集したのだ。
もちろんその中には、美桜がわざわざ送りつけてきた、二人の情事の生々しい動画もちゃっかり組み込んである。
手はずを整えると、私は金庫の中から蓮の祖父の遺言書を取り出した。
そこに記されているのは、財産譲渡に関する契約事項。蓮の祖父は息を引き取るその瞬間まで、私の行く末を案じてくれていたのだ。
彼は自分名義の財産の六割を、当時まだ見ぬ私の子供へと譲るよう手配してくれていた。
つまり、子どもが生後一ヶ月を迎えたその日をもって、私は正式に早瀬グループの権限を引き継ぎ、筆頭株主となることができるのだ。
必要な書類をすべてカバンにしまい終えると、私はかつて蓮から贈られた品々を一か所に集め、未練ごとすべて焼き払った。
そして月明かりに照らされる中、私は湊をしっかりと抱きかかえ、一番早い海外便に乗って誰も知らない場所へと旅立った。
……
翌日。息子の生後一ヶ月を祝う大規模なパーティーの会場には、各界から大勢の客が詰めかけていた。だが、主役の母である優奈の姿はどこにもなかった。
蓮が苛立ちながら何度も優奈の番号に電話をかけるも、虚しいコール音が響き続けるだけだ。
次第に彼の心に焦りが生まれ、得体の知れない不安が胸をよぎる。
たまらず自宅へと車を飛ばし、家の中に飛び込んだ彼。だが、寝室のサイドテーブルには、たった一枚の書き置きが残されているだけだった。
【M78星雲から母星への帰還命令が出たわ。子どもは連れて行く。心配しないで。もう二度と会うことはないから】
蓮は顔を真っ赤にして怒り狂い、その書き置きをくしゃくしゃに丸めると、力任せに床へと叩きつけた。
だがその直後、けたたましく鳴ったスマホの通話ボタンを押すと、友人からの切羽詰まった声が耳に飛び込んできた。
「早瀬、とにかく今すぐ会場に戻ってこい!パーティーがとんでもないことになってるぞ!」