すり減った愛の終わりに

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すり減った愛の終わりに

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目を覚ますと、神崎紗依(かんざき さえ)は二十七歳の頃に戻っていた。すでに一男一女の母親であり、夫は大富豪である九条凛久(くじょう りく...

Chương (1)

第1章

目を覚ますと、神崎紗依(かんざき さえ)は二十七歳の頃に戻っていた。すでに一男一女の母親であり、夫は大富豪である九条凛久(くじょう りく)だ。 彼は世界的な長者番付で不動の一位を誇り、有名経済誌で「世界中の女性が最も結婚したい男ナンバーワン」に選ばれ、A国の王室さえも王女を嫁がせたいと望むような男だった。 誰もが彼女を幸運だと言ったが、紗依が生まれ変わって最初にしたことは、離婚協議書を持って彼の忘れられない人のもとを訪ねることだった。 彼女は浅葉栞奈(あさば かんな)の前に協議書を押しやり、淡々と告げた。「離婚するわ。凛久も、二人の子供もあなたにあげる」 第1話 目を覚ますと、神崎紗依(かんざき さえ)は二十七歳の頃に戻っていた。すでに一男一女の母親であり、夫は大富豪である九条凛久(くじょう りく)だ。 彼は世界的な長者番付で不動の一位を誇り、有名経済誌で「世界中の女性が最も結婚したい男ナンバーワン」に選ばれ、A国の王室さえも王女を嫁がせたいと望むような男だった。 誰もが彼女を幸運だと言ったが、紗依が生まれ変わって最初にしたことは、離婚協議書を持って彼の忘れられない人のもとを訪ねることだった。 彼女は浅葉栞奈(あさば かんな)の前に協議書を押しやり、淡々と告げた。「離婚するわ。凛久も、二人の子供もあなたにあげる」 栞奈は驚きで目を見開いた。六年間も九条夫人の座にしがみついていた女が、突然自ら身を引くなど信じられなかったのだ。 紗依はただ静かに付け加えた。「あの子たちもあなたのほうが好きみたいだし、私は身を引いてあげる。あなたはただ、凛久にサインをさせるだけでいい。離婚の手続きが済み次第、私はこの家を出ていくわ」 今世では絶対に同じ轍は踏まない。皆に無視される九条夫人でいるのは、もうご免だ。 栞奈は無意識にカップの縁を指でなぞりながら、眉をひそめた。「紗依、一体何の駆け引きなの?」 紗依は栞奈の顔に浮かぶ複雑な表情を眺めながら、穏やかに言った。「駆け引きなんてしていない。ただ、もううんざりなだけよ」 「紗依、九条夫人の座を狙っている女が世間にどれだけいるか分かっている?」 「分かっているわ」紗依は栞奈の目を真っ向から見据えた。「だから、あなたに譲ると言っているの」 栞奈の取り繕っていた仮面が、ついに剥がれ落ちた。 彼女はその協議書を長い間見つめていたが、最後にはそれを受け取った。「そこまで太っ腹だと言うなら、遠慮なくいただくわ。 でも、覚えておいて。一度手に入れたものは、二度と手放さないから」 「安心して」紗依はふっと笑った。「後悔なんてしないわ」 前世で、一生孤独に生きる苦しみはとっくに味わい尽くしたのだ。 栞奈は立ち上がり、カフェの別のテーブルへと移動した。そして優雅にスマートフォンを取り出し、画面をタップする。 電話が繋がると、栞奈の声は瞬時に甘く柔らかくなった。「凛久、今カフェにいるんだけど、迎えに来てくれないかしら?」 紗依は、微かに苦笑いを浮かべた。 かつて彼女が凛久に電話をかけても、十中八九は秘書が出るだけだった。 ところが今、二十分も経たないうちに、永遠に「会議中」であるはずの男がカフェの入り口に姿を現した。 ガラス越しに、凛久が長い脚を伸ばして店へ入ってくるのが見えた。黒の高級オーダーメイドスーツが、彼の広い肩幅と引き締まった腰のラインを際立たせている。 六歳の息子である九条悠人(くじょう ゆうと)と、四歳の娘である九条妃花(くじょう ひめか)は、栞奈の姿を見るなり飛びつき、抱きついたりキスをしたりしてはしゃいだ。 「栞奈さん!」妃花が甘えた声で呼び、栞奈の胸元に小さな顔をすりすりしている。 凛久はケーキの箱をテーブルに置き、指でそっと押しやった。「お前が好きな抹茶のケーキだ。甘さは控えめにしてもらった」 栞奈は目を輝かせた。「さすが、よく覚えてくれているのね」 隅の席に座ったままの紗依は、無意識に掌に爪を食い込ませた。 結婚して六年、凛久は紗依の好みの味すら知らなかった。 前世で病気で入院した際、いちごのケーキが食べたいと伝えると、彼は秘書に適当に買わせた。結果として届けられたのは、紗依が重度のアレルギーを持つマンゴーのケーキだったのだ。 「夜は何が食べたい?」凛久が低い声で尋ねる。「洋食のコースにするか、それとも和食にするか?」 栞奈はふふっと微笑み、バッグから例の離婚協議書を取り出した。「その前に、ちょっと見てほしい書類があるの」 彼女は署名欄のページを開いて見せた。「気に入った屋敷があるんだけど、手元の資金が少し足りなくて。ここにサインしてくれないかしら……」 凛久は万年筆を受け取ると、内容も見ずにそのままサインをした。「俺たちの仲だ、水臭いことを言うな」 「栞奈さん、新しいお家を買うの?」悠人が顔を上げて尋ねた。「パパも隣にもう一軒買ってよ!僕、妃花と一緒に栞奈さんのところに住みたい。毎日ママといるの、もう嫌だよ」 凛久は微かに眉をひそめたが、二人の子供の期待に満ちた眼差しを見て、あっさりと承諾した。「……ああ、買おう」 「そんなに気を遣わなくていいわ」栞奈が慌てて言った。「悠人と妃花……それに凛久の分も合わせて三つの部屋を用意しておくから、いつでも泊まりに来てちょうだい」 子供たちは歓声を上げて喜んだ。妃花にいたっては栞奈の首に腕を回してキスまでしている。「栞奈さん最高!ママより千倍も好き!」 紗依の心臓は、見えない手に力任せに握り潰されたかのような、重苦しい痛みに襲われた。あまりの苦しさに、呼吸をすることさえままならない。 視線の先には、口元を微かに綻ばせる凛久の姿があった。その眼差しは、紗依が妻として一度も向けられたことのない、穏やかで優しい眼差しだった。 これ以上は見ていられない。紗依はバッグを手に取ると、逃げるようにその場を後にした。 カフェのドアを押し開けて外に出た瞬間、前世の記憶が怒涛のように脳裏に押し寄せてきた。 前世で、彼女は凛久と政略結婚をして一男一女をもうけ、六十二歳まで生きた。しかし、その生涯で幸福を感じたことは一度としてなかった。 なぜなら、凛久の心の中には、常に初恋の相手――栞奈が居座り続けていたからだ。 当時、二人が別れた後、栞奈は海外へと渡った。凛久は数日間酒に溺れて荒れたが、プライドの高い彼が自ら頭を下げて縋ることはなく、すぐさま一族が取り決めた縁談を承諾した。 凛久は、紗依にとって学生時代の憧れそのものだった。神のように気高く、帝都の上流階級の令嬢たちで、この九条家の若き当主に嫁ぐことを夢見ない者などいなかった。 だからこそ、両家の縁談が持ち上がったと知った時、紗依は天にも昇る心地だった。 だが、結婚後に彼女がすべてを捧げて愛しても、返ってきたのは凛久の冷遇だけだった。 やがて、栞奈が帰国した。 彼は紗依に離婚を切り出すことはなかったが、その視線が栞奈から離れることも決してなかった。 さらに残酷なことに、二人の子供たちまでもが栞奈を慕い、実の母親である紗依から次第に離れていった。 晩年、アルツハイマー型認知症と診断された紗依は、凛久から「静養のため」という名目で古い屋敷に一人見捨てられた。 誕生日の日、彼女は震える手で凛久や子供たちに電話をかけた。しかし、彼らが栞奈と一緒に南の島のリゾート地でバカンスを楽しんでいると告げられただけだった。 せめて自分のために温かいお祝いの料理でも作ろうとした彼女は、記憶の混濁からコンロの火を消し忘れてしまい…… 猛火に全身を焼かれながら、紗依が最後に思い出したのは、凛久が彼女の指に結婚指輪をはめた時の、あの氷のように冷酷な眼差しだった。 彼女は苦痛の中に目を閉じ、心の底から願った。もし来世があるのなら、二度と彼のために自分の人生を棒に振るような真似はしない、と。 紗依が邸宅に戻った頃には、すでに日が暮れていた。 彼女は休むことなく、そのまま荷物の整理に取りかかった。 凛久のスーツやシャツ、子供たちのおもちゃ、家族写真……ありとあらゆるものを次々と段ボール箱に放り込んでいく。 「何をしている?」不意に背後から凛久の声が響いた。 紗依が振り返ると、二人の子供の手を引いた彼が入り口に立ち、眉をひそめていた。 「ママ、どうして私たちのものを捨てるの!」妃花が駆け寄り、自分のテディベアが箱に詰められているのを見て、顔を真っ赤にして怒った。 悠人も憤然と紗依を睨みつけた。「僕たち、栞奈さんと少し遊んできただけなのに、そんなに怒ることないだろ!」 凛久は紗依を見つめた。その瞳は相変わらず冷ややかだった。「子供たちが栞奈と一緒にいたいと言ったくらいで、これほど意固地になって癇癪を起こすのか?」 「怒ってなんていないわ」紗依は淡々と答えた。 「嘘つき!」妃花が金切り声を上げた。「栞奈さんに嫉妬してるんでしょ!だから私のテディベアを捨てたんだ。最低のママ!」 「僕、大人になったら栞奈さんと住むんだから」悠人が妃花の手を引き、憎々しげに言い放った。「二度と会いに来てやらないからな!」 凛久は子供たちの暴言を咎めることもなく、ただ微かに眉を寄せ、紗依を一瞥した。その眼差しは、まるでヒステリーを起こす見知らぬ女に向けられるもののようだった。 「もういい」彼が唇を開くと、生まれ持った気品を感じさせる低い声が響いた。長い指が無造作にカフスボタンを整える。「この後、取締役会のビデオ会議がある。捨てるなら勝手にしろ。ただし、騒ぎは起こすな」 ドアが閉まった瞬間、紗依の目からついに涙がこぼれ落ちた。 心臓がズタズタに引き裂かれたようで、呼吸をするたびに血の匂いが鼻をつく。 彼女は涙を拭い、散らかった床を見つめて、ふっと笑い声を漏らした。 安心して。もう騒いだりしないわ。 これからの残りの人生、二度とあなたの邪魔はしないから。 第2話 離婚協議書にサインをして以来、紗依は一切の家事を放棄した。 子供たちのために午前五時に起きて栄養満点の朝食を作ることも、深夜まで接待から帰る凛久を待ち、酔い覚ましの薬を買うこともなくなった。 かつて彼女が自分の本分だと思っていた家事のすべては、今や使用人たちに丸投げされた。 最初は誰もその異変に気づかなかった。 だが、悠人が学校に遅刻して教師に叱られ、妃花の宿題のノートが見つからず、凛久の懐中時計の針が止まって、そこでようやく、家の様子がおかしいと気づき始めた。 使用人たちは右往左往したが、どうしても紗依が保っていた完璧な基準には及ばない。 台所には洗っていない食器が山積みになり、リビングには子供たちのおもちゃが散乱し、アイロンをかけたはずのシャツにはいつもシワが残っていた。 かつて塵一つなく整然としていた家は、徐々に収拾のつかない惨状へと変わり果てていった。 凛久が寝室のドアを押し開けた時、紗依は窓辺に寄りかかって本を読んでいた。 レースのカーテン越しに差し込む陽光が、彼女の体にまだらな光を落としている。 「お前、いつまでこんな真似を続けるつもりだ?」入り口に立った彼の声は、不機嫌を隠そうともしていなかった。 紗依は本のページを閉じ、視線を上げて彼を見た。「ふざけてなんかいない」 「なら、なぜ家のことを放り出した?」彼は数歩近づいた。その身体から漂う微かなアンバーグリスの香りが空気に溶け込む。「まだこの前のことで怒っているのか?」 「怒ってなんていない」彼女は本を脇に置いた。「ただ、もう放っておきたくなっただけよ」 凛久は目を細め、指先でデスクを軽く叩いた。「理由を言え」 「疲れたの」 彼女は淡々と答えた。「家には使用人がいるんだから、私がやらなくてもいいでしょう」 彼女の脳裏に、前世の記憶がよぎった。毎日、夜が明ける前から起き出していた自分の姿が。 凛久のコーヒーは必ず八十五度で淹れ、サンドイッチは黄金色にサクサクと焼き上げなければならなかった。子供たちの服は手洗いし、靴下の一足に至るまでアイロンをかけて完璧に整えていた。 だが、その見返りは何だったのか?凛久が栞奈に向ける優しさであり、子供たちが栞奈を慕う姿であり、紗依自身が六十二歳の誕生日に迎えた孤独な死だった。 「紗依」彼の声がさらに冷ややかになった。「不満があるならはっきり言え。子供みたいに駄々をこねるな」 彼女は口元を微かに歪めた。「不満なんてないわ。ただ、休みたいだけ」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドアが乱暴に押し開けられた。 悠人と妃花が飛び込んできた。その顔には、ありありと怒りが浮かんでいる。 「ママは怠け者だよ!」妃花が金切り声を上げた。「私たち、栞奈さんに面倒を見てほしい!」 悠人もそれに同調して喚き立てる。「栞奈さんのほうがやさしいし、頑張り屋だし、ママよりずっといい!」 凛久の視線はずっと紗依の顔に注がれていた。まるで彼女が非を認めて頭を下げるのを待っているかのようだ。 しかし、彼女はただ深く息を吸い込み、静かな声で言った。「あなたたちが栞奈のほうがいいと言うなら、この家に呼べばいいわ。私は構わないから」 空気が一瞬にして凍りついた。 凛久の顔が、一気に険しく歪んだ。 「お前、本気で言っているのか?」 紗依は再び息を吸い込んだ。「ええ、本気よ」 「パパ、早く行こう!」妃花が待ちきれない様子で凛久の袖を引いた。「私、今すぐ栞奈さんに来てほしい!」 「栞奈さんがいれば、ママなんてもう必要ないんだ!」悠人が紗依に向かってあっかんべーをした。「出て行けよ!この家からいなくなれ!」 凛久は最後に紗依を一瞥したが、彼女が依然として無関心な様子であるのを見ると、背を向けて子供たちを連れ、大股で去っていった。 紗依はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく車のエンジン音を聞きながら、静かに目を閉じた。 すぐに、彼女は彼らの望み通りにしてやるつもりだ。 完全に彼らの前から姿を消し、この家から去るのだと。 第3話 栞奈がこの家に越して来た初日、彼女はさっそく使用人たちに指示を出し、リビングの模様替えを始めた。 「このソファ、少し重苦しいわね」彼女は細い指先で本革のソファをそっと撫でると、凛久を振り返り、甘く柔らかな微笑みを向けた。「凛久、アイボリーホワイトのものに買い替えてもいいかしら?」 凛久は眉ひとつ動かさず、即座に執事へ命じた。「彼女の言う通りにしろ」 紗依は階段の踊り場に立ち、自分が半年前に入念に選び抜いたソファが、作業員たちによって運び出されていくのを静かに見下ろしていた。 悠人と妃花は、まるで金魚の糞のように栞奈の後ろをついて回り、興奮した様子であれこれと指を差している。「栞奈さん、このクッションも捨てて!ママが買ったやつ、ダサくて大嫌い!」 栞奈は優しく二人の頭を撫でた。「ええ、全部新しくしましょう」 紗依は拳をぎゅっと握りしめたが、すぐにその力を抜いた。 あのクッションは、彼女が妊娠中に自らの手で縫い上げたものだった。幼い子供たちの肌が敏感だったため、中には特注の抗アレルギー羽毛を詰めていたのだ。 それが今、情け容赦なくゴミ箱へと放り込まれていく。 それからの数日間で、この家はますます見知らぬ場所へと変貌していった。 食卓では、かつての紗依の指定席に栞奈が座り、二人の子供に甲斐甲斐しく料理を取り分けている。 凛久は時折、自ら彼女のためにコーヒーを注ぎ、長い指でそれをそっと差し出した。その瞳の奥には、紗依が一度も向けられたことのない柔和な光が宿っていた。 夜になればリビングの照明が落とされ、四人でソファに身を寄せ合って映画を鑑賞する。 妃花は栞奈の腕の中に丸まり、悠人は凛久の肩に寄りかかり、そこからは絶え間なく笑い声が漏れ聞こえてくる。 紗依がその傍を通りかかっても、彼らは一瞥もくれなかった。まるで彼女がそこに存在しない、空気のような透明人間であるかのように。 さらに滑稽なのは、かつての凛久も悠人も妃花も、生活の質に対して異常なまでに潔癖で厳格だったことだ。 だが、今はどうだ? 栞奈が数億円を超える彼の最高級腕時計を、文字盤を下にして無造作にローテーブルに放り出しても、彼は文句一つ言わずに甘やかすようにそれを身につけている。 栞奈が適当に洗濯機に放り込んだだけの、襟元に昨日のソースの染みが残っている制服を、子供たちは喜んで着て登校していく。 栞奈がデリバリーの料理を皿に移し替えて「自分で作った」と嘘をついても、誰もそれを暴こうとはしなかった。 あろうことか、彼らは栞奈をまるでお姫様のように蝶よ花よと甘やかしているのだ。 「栞奈、お前はこんな雑用に手を出すな」凛久は茶器を片付けようとする栞奈を制し、長い指で彼女の細い手首をそっと押さえた。「お前の手は、ピアノを弾くためのものだろう」 「栞奈さん、僕がバッグを持ってあげるよ!」悠人は甲斐甲斐しく栞奈の限定バッグを受け取った。実の母親である紗依には一度も見せたことのないような、媚びへつらう笑顔を浮かべて。 「栞奈様は、どうぞごゆっくりお休みになってください」執事は恭しく最高級のハンドメイドスリッパを差し出した。「他のことは、すべて私どもにお任せを」 なんという皮肉だろうか。 六年もの間、この家で「無償の家政婦」として尽くしてきた紗依の努力は、当然のこととして一顧だにされなかった。 栞奈が来た途端、彼女はお姫様としてもてはやされている。 使用人たちも、陰でひそひそと噂し合っていた。 「旦那様、栞奈様には本当に甘いわね。奥様にそんなお顔を見せたこと、一度もなかったのに」 「お子様たちもあんなに懐いて。この家の奥様の座が入れ替わるのも、時間の問題ね」 紗依はとうの昔に心が死に絶えており、何を見ても何も言わず、ただ黙々と自分の荷物を整理し続けていた。 そんなある日の午後、彼女のスマートフォンが狂ったように震え始めた。 「奥様!悠人様と妃花様が学校でアレルギーを起こされました!今、救急車で病院へ搬送されました!」 紗依が慌てて病院に駆けつけると、二人の子供はすでに救急処置室へと運ばれていた。 廊下には凛久が立っていた。腕にはジャケットを無造作に引っかけ、ネクタイはだらしなく緩んでいる。その瞳の奥底には、冷徹な怒りが渦巻いていた。 「紗依」地を這うような低い声が、静まり返った廊下に響く。押し殺した怒りが、言葉の端々に滲んでいた。「お前、一体何をやらかした?」 紗依は呆然と立ち尽くした。「……何の話?」 「あの子たちがマンゴーアレルギーだと知っているはずだろう」凛久は一歩身を乗り出し、その長身の影で彼女を覆い隠した。「なぜマンゴージュースを飲ませた?」 「私じゃない!」紗依は彼の目を真っ向から見据えた。「私は家の中にマンゴーを持ち込んだことなんて、一度たりともない」 初めてあの子たちがアレルギーで入院して以来、彼女は万全の注意を払い、子供に関わるすべての人々にマンゴーを遠ざけるよう、重ねて念を押してきた。学校の食堂の献立表さえ自ら徹底的にチェックしていた彼女が、そんなミスを犯すはずがなかった。 「お前じゃないだと?」凛久は鼻で笑った。「なら誰だ?使用人か?それとも、彼らが自ら死にたがったとでも言うつもりか?」 紗依が反論しようと口を開きかけたその時、看護師がドアを開けて出てきた。「お子さんたち、目を覚ましました」 病室に入ると、悠人と妃花が青白い顔をしてベッドに横たわっていた。病室に入ってきた両親の姿を認めるなり、彼らの視線は一瞬、不自然に泳いだ。 「どういうことだ?」凛久が重苦しい声で問い詰める。 二人の子供は顔を見合わせると、突如として同時に紗依を指差した。「ママのせいだよ!この前ママが私たちにマンゴーのジュースを飲ませてくれたんだ!」 紗依は全身を強張らせ、信じられないものを見るような目で彼らを見つめた。「……あなたたち、今なんと言ったの?」 第4話 「ママのせいよ!」妃花は泣きじゃくりながら叫んだ。「私たちがアレルギーだって知ってるくせに、わざと食べさせたんだわ!」 悠人も力強く頷いた。「本当に、ママは最低だ!」 紗依はドアの枠を壊さんばかりに握りしめ、その指先は血の気が引いて真っ白に変色していた。「悠人、妃花。あなたたち、自分が何を言っているのか分かっている?今すぐ本当のことを言いなさい!」 「いい加減にしろ!」凛久が猛然と立ち上がり、骨が砕けそうなほどの強い力で彼女の手首を掴み上げた。「紗依、お前はそれでも母親か?子供たちを危険に晒した挙句、嘘まで強要するつもりか!」 「私は、そんなこと……」紗依の声は微かに震えていた。 「子供たちが嘘をついてお前を陥れたとでも言いたいのか?」彼は冷笑を浮かべた。「これほど幼い子供たちが、嘘をつくはずがないだろう。自分のしたことも認められないなら、母親なんて名乗るな!」 二人の子供が突然わあわあと泣き出し、凛久はすぐさま彼女から手を離し、彼らをあやしに向かった。 だが、泣き声はさらに激しさを増し、小さな顔は真っ赤に染まっている。 「パパ……」妃花がしゃくり上げた。「すごく、苦しいよ……」 「どうすれば楽になる?」凛久は低い声で問いかけ、彼女の涙を指で優しく拭った。 悠人は真っ赤な目を紗依に向けた。「ママもマンゴーアレルギーなんだから、ママにもマンゴージュースを飲ませて、同じ目に遭えばいい!」 紗依の心は完全に凍りついた。 彼女は凛久を見つめたが、その瞳の奥底に渦巻く冷徹な殺意に、全身の血の気が引いていくのを感じた。 「ああ、いいだろう」 凛久は身を起こし、パチンと指を鳴らした。すると即座に、二人の屈強なボディガードがドアを押し開けて入ってきた。 「紗依を押さえつけろ」 紗依が状況を理解する間もなく、椅子に押さえつけられた。 ボディガードの一人が彼女の顎を力任せに掴み、無理やり口を開けさせる。 大量のマンゴージュースが喉の奥へと流し込まれた。甘ったるい液体が気管に入り込み、彼女は激しくむせ返る。喉が焼け付くように痛んだ。 目に見える速さで赤い発疹が皮膚に広がり、顔が腫れ上がり、呼吸は苦しくなっていく。 彼女は苦しさに首元をかきむしりながら、涙で霞む視界で凛久を見つめた。 彼はただそこに立ち尽くし、冷ややかな目で見下ろしているだけだ。止める気配など微塵もなかった。 二人の子供はすでに泣き止んでおり、興奮した様子で手を叩いていた。「ざまあみろ!ママも苦しめばいいんだ!」 暗闇に意識が呑み込まれる直前、紗依が最後に見たのは、凛久の氷のように冷酷な眼差しだった。 どれほどの時間が経ったのだろうか。紗依は病室のベッドの上で目を覚ました。 喉にはまだ焼け付くような痛みが残り、顔にはアレルギーの発疹が消えずに残っている。 病室の外から、聞き慣れた声が聞こえてきた。栞奈だ。 「凛久、私、あの子たちがアレルギーだなんて本当に知らなくて……ただ、フルーツジュースを絞ってあげたかっただけで……」 「お前のせいじゃない」凛久の声は、信じられないほど甘く優しかった。「お前は知らなかったんだから」 「私がもっと早く本当のことを言っていれば、あなたが紗依を誤解することもなかったのに……」彼女はそう言うと、困ったように溜息をついた。 「悠人、妃花、あなたたちもよ。全部私のせいなのに、私を庇うために、ママに罪をなすりつけるなんて駄目じゃない」 二人の子供の、不満げで哀れっぽい声がはっきりと耳に届いた。 「栞奈さん、ごめんなさい……」妃花がしゃくりあげながら言う。「私たち、ただ……ママのことが嫌いだったから……」 「そうだよ」悠人もそれに同調した。「いつも僕たちに口うるさくして、おやつも食べさせてくれないし、時間通りに寝ろってうるさいし……ママにこの家から出て行ってほしかったんだ」 紗依の指がシーツを死に物狂いで握りしめた。 これが、彼女が十月十日お腹に宿し、手術台で命を落としかけてまで産み落とした子供たちなのだ。 悠人を産んだあの日のことを覚えている。分娩室の外には、誰一人としていなかった。 看護師は、凛久は重要な会議の最中で手が離せないのだと告げた。 彼女は身を引き裂かれるような激痛に耐え、ただ一人で歯を食いしばって乗り切るしかなかった。 妃花を産んだ時はさらに危険な状態だった。難産による大出血。医師からは危篤を知らせる通知が出され、まさに生と死の境界線を彷徨っていたのだ。 それなのに凛久は、多国籍企業の買収案件があるからと、海外へ飛び立っていた。 だが今、彼女が命を懸けて産んだ二人の子供は、彼女を最も深く傷つける刃となってしまった。 第5話 紗依は胸を掻き毟られるような痛みに、止めどなく涙を流した。胸元をきつく押さえて、しばらくしてようやく息を整えることができた。 その直後、突然スマートフォンの着信音が鳴り響いた。航空会社からの、航空券の確認電話だった。 「神崎さん、ご予約いただいた雲都行きの片道航空券が発券されました。お座席の指定はなさいますか?」 「窓側で、お願いします」紗依は慌てて涙を拭い、消え入るような声で答えた。 電話を切った直後、病室のドアが押し開けられた。 凛久が落ち着いた足取りで入ってきた。パリッとしたスーツを身に纏い、袖口にまで一糸の乱れもない。 「誰と電話していた?」彼は淡々と尋ねた。 紗依はスマートフォンを傍らに置いた。「友達よ」 凛久はそれ以上追及することなく、ただベッドの傍らに立ち、彼女を見下ろして言った。「この前の件は俺の勘違いだった。彼らにマンゴージュースを飲ませたのは栞奈だった」 彼の口調は、まるで天気の話題でもするかのように平坦だった。「だが、彼女は知らなかったんだ。この件はこれで水に流す」 紗依の心臓は、目に見えない巨大な手に力任せに握り潰されたかのように、窒息しそうなほどの痛みを覚えた。 紗依のせいだと思った時は、殺さんばかりの勢いで責め立てたくせに。それが栞奈だと分かった途端、ただの「知らなかった」という言葉で済まされてしまうのだ。 彼女は口を開き、問い詰め、叫び、胸に溜まった無念と理不尽さをすべて吐き出したかった。 しかし、喉まで出かかった言葉は、ただ一言となった。「……ええ」 全身から力が抜け落ちたようだった。ひどく疲れ果て、もう言い争う気力すら残っていない。 かつて彼女を苛み、眠れぬ夜を過ごさせた理不尽さも、日夜積み重なった不満も、今は唇の端に浮かぶ自嘲気味な笑みへと変わった。 愛されているか、いないかの違いとは、これほどまでに残酷なほど単純なものだったのだ。 凛久は彼女の無反応さに少し意外そうな顔をしたが、少し間を置いてから続けた。「来週、子供たちがサマーキャンプに行く。俺と栞奈が付き添うから、お前は一人で帰れ」 彼は彼女がいつものようにすがりつき、泣きわめくのを待っていた。しかし、紗依はただ静かに頷いただけだった。「分かった」 凛久は眉をひそめ、彼女の異様な態度をいぶかしんだが、タイミングよくスマートフォンが鳴った。彼は着信画面を一瞥した。「会社で急用だ。行くぞ」 ドアが閉まった後、紗依は固く握りしめていた拳をようやく解いた。その掌には、くっきりと四つの三日月型の血の滲む爪痕が残されていた。 それからの数日間、紗依のスマートフォンは絶え間なく震え続けた。 そのすべてが、栞奈からのメッセージだった。 送られてきた大量の写真や動画には、サマーキャンプでの楽しげなひとときが記録されている。 動画の中で、悠人と妃花は誇らしげに同級生たちへ栞奈を紹介していた。「これが僕たちのママだよ!」 同級生たちの羨望の歓声が次々と上がる。「わあ!あなたのママ、すごく綺麗だね!」 「パパもかっこいいしママも美人で、本当に幸せだね!」 「じゃあ、いつも送り迎えしてくれてる人は誰なの?」一人の子供が不思議そうに尋ねた。 画面の中の悠人と妃花の表情が一瞬強張った。「ああ、あれは……僕たちの家で働いている、ただの家政婦だよ」 紗依の手が震え、持っていたグラスが床に滑り落ちた。 彼女はゆっくりとしゃがみ込み、床に散らばった破片を見つめながら、ふっと笑い声を漏らした。 そうか。この数年間、私はただの「タダ働きの家政婦」でしかなかった。 でも、もう構わない。この家政婦の役目も、もうすぐ終わるのだから。 これからは、彼らの大好きな「ママ」に世話をしてもらえばいい。 一週間後、執事が悠人と妃花を家へと送り届けた。 二人の子供は家に入るなり、隠しきれない得意げな顔をして真っ直ぐに台所へと駆け込んできた。 「ママ!」妃花が甲高い声で叫んだ。「知ってる?栞奈さんが親子運動会で足を捻挫しちゃって、パパ、すっごく心配してたんだから!」 悠人も待ちきれない様子で付け加えた。「パパなんて、栞奈さんを治療するために病院を丸ごと貸し切ったんだよ!会社の会議もキャンセルして、ずっとそばに付いてたんだ!」 紗依はオーブンの前に立ち、子供たちの残酷な見せつけを静かに聞きながら、手際よく耐熱グローブをはめた。 「ママ、ちゃんと聞いてるの?」妃花が不満げに足を踏み鳴らす。「パパは栞奈さんにすっごく優しいんだよ!ママなんかよりずっと――」 オーブンがチンと鳴る音が、彼女のやかましいおしゃべりを遮った。 甘く香ばしい匂いが瞬く間に台所に広がる。二人の子供は目を輝かせ、すぐさま身を乗り出してきた。 「ケーキだ!」悠人がつま先立ちになる。「僕、食べたい!」 紗依がオーブン皿を取り出すと、ケーキの縁は少し焦げていた。 紗依は眉をひそめると、それをそのままゴミ箱へと放り捨てた。 「あっ!」妃花が金切り声を上げた。「なんで捨てちゃうの!」 「焦げているから、食べられない」紗依は淡々と告げた。 「嘘つき!」悠人が怒りに任せてゴミ箱を蹴り飛ばした。「わざとだろ!この前のことでまだ怒ってて、僕たちに食べさせたくないんだ!悪いママだ!」 妃花も顔を真っ赤にして叫んだ。「私たち、こんなママなんていらない!」 紗依は耐熱グローブを外した。心臓が目に見えない手で再びきつく握り潰されるような感覚に襲われる。 彼女は、自分の命を懸けて産み落とした目の前の二人の子供を見つめながら、ふと彼らがひどく見知らぬ他人のように思えた。 「ちょうどよかった」彼女は静かな声で言った。「私も、あなたたちみたいな子はいらない! これからは、栞奈のところへ行きなさい」 そう言い残し、彼女は背を向けて階段へと歩き出した。 背後から、二人のヒステリックな絶叫が追いかけてくる。「ママなんか大嫌い!ずっとずっと、一生大嫌いだよ!」 紗依は一瞬足を止めたが、決して振り返ることはなかった。 だが、彼女が三段目の階段に足を踏み入れたその時、背中を背後から力任せに突き飛ばされた。 「死んじゃえ!」 第6話 視界がぐるりと回った次の瞬間、紗依の体は階段を激しく転げ落ち、床に叩きつけられた。 凄まじい激痛が瞬時に全身を駆け巡り、額から生温かい液体が流れ落ちて、視界を赤く滲ませた。 階段の最上段には、二人の子供が悪意に満ちた笑みを浮かべて見下ろしている。 「いい気味だわ!」妃花が楽しそうに手を叩いた。 「ケーキを食べさせないからバチが当たったんだ!」悠人はあっかんべーと舌を出して嘲笑う。 紗依は激痛に耐えながら、辛うじて身を起こした。顎を伝う鮮血が、冷たい床にポタポタと滴り落ちる。 目の前にいるこの小さな悪魔たちを、かつて分娩室で死の淵を彷徨いながら、命懸けで産み落とした我が子だとは、どうしても結びつけることができなかった。 その時、突然玄関のドアが押し開けられた。 「一体、どうしたんだ?」 凛久の低く響く声が聞こえ、その後ろには栞奈の姿があった。この凄惨な光景を目にして、彼らは一瞬息を呑んで立ち尽くした。 「パパ!」二人の子供は瞬時に怯えた泣き顔を作り、凛久の元へ駆け寄った。「ママがケーキを捨てて僕たちに食べさせてくれなかった!それに、僕たちのことなんてもういらないって……うわあん!」 凛久の視線がゴミ箱に捨てられたケーキに落ち、次いで血まみれの紗依へと向けられる。彼は不快げに眉をひそめた。「紗依、なぜお前はそうまでして、幼い子供たちを目の敵にするんだ?」 その声は、氷のように冷酷だった。「実の子供に向かってそんな口を利くなんて、お前には母親を名乗る資格などない!」 紗依は壁を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。血が彼女の襟元を赤く染め上げている。 彼女は凛久を見つめ、ふっと笑いを漏らした。 「あなたの目に、私が母親としてふさわしく映ったことなんて、一度でもあったかしら?」彼女の声はひどく掠れていた。「あなたは最初から、私のことをただの『跡継ぎを産むための道具』としか見ていなかったじゃない」 凛久の瞳孔が微かに収縮した。 紗依は手の甲で顔の血を拭った。「あなたが望む妻が栞奈で、子供たちも彼女をママにしたがっている。なら、私が身を引いて、あなたたち『家族四人』、水入らずの幸せを叶えてあげるわ」 空気が瞬時に凍りついた。 凛久の顔色が途端に底知れぬほど険しくなる。彼はまるで初めて彼女という人間を直視するかのように、紗依を射抜くような目で見据えた。 「紗依、勘違いするな」 彼の声は地を這うように低く、冷徹だった。「神崎家と九条家の結婚は、あくまで政略結婚だ。最初から感情など存在していない。俺に何を求める?愛でも欲しいのか?」 彼は鼻で笑った。「悪いが、そんなものは持ち合わせていない」 紗依はその言葉に笑った。笑いながら、止めどなく涙が溢れ出した。 ええ、彼の言う通りだ。 愚かだったのは私のほうだ。手の届かない場所にいる人を、無理に自分の側へ引き寄せようとしていたと思い上がっていたのだから。 凛久が「愛」の泥沼に引き摺り下ろされたことは確かにあった。だが、彼をそうさせたのは私ではない。 そんなこと、とうの昔に分かっていたはずなのに。 「凛久、もういい……」栞奈が絶妙なタイミングで凛久の腕にすがりついた。「子供たちが怯えているわ。ひとまず二人を上の階へ連れて行きましょう」 凛久は紗依を射抜くような鋭い視線で一度だけ見つめると、踵を返し、両腕に子供たちを一人ずつ抱え上げて、栞奈と共にその場を去っていった。 遠ざかっていく彼らの背中を見つめながら、紗依の額からは依然として鮮血が滴り落ちていた。 今、彼女はかつてないほどに後悔していた。 凛久に嫁いだことを。あの二人の子供を産んだことを。 この一生、二度と同じ轍は踏まない。 これからの人生は、彼女自身のためだけに生きるのだ。 三日後、悠人の誕生日がやってきた。 パーティーの会場は、都心で最も豪奢なホテルだった。 クリスタルのシャンデリアが眩い光を放ち、宴会場の中央ではシャンパンタワーが煌びやかに輝いている。凛久は例のごとくホテルのワンフロアを貸し切り、悠人のために盛大な誕生パーティーを開いていた。 会場の片隅に佇む紗依の視線の先では、悠人と妃花が栞奈の左右の手をしっかりと握りしめていた。二人はまるで楽しげな小鳥のように彼女の周りを飛び回り、片時も離れようとしない。 その姿は、わざとあてつけのように栞奈にべったりと寄り添い、実の母親である紗依を完全に蚊帳の外へと追いやっていた。 少し離れた場所には凛久が立っていた。長く美しい指でシャンパングラスを傾けながら、その視線は時折栞奈へと注がれている。その瞳の奥には、紗依がかつて一度も向けられたことのない、甘く優しい光が宿っていた。 「九条さんは本当に一途だよね。何年経っても、浅葉さんしか見えていないようで」 「ええ、まったく。あのお子さんたちもすっかり九条さんに似て、浅葉さんにしか懐いていらっしゃらない」 第7話 ゲストたちの心無い噂話が、紗依の耳にはっきりと届いていた。 「俺、九条さんと浅葉さんとは大学の同級生なんだけどさ。当時の九条さんの彼女への溺愛ぶりは、それはもう凄まじかったよ」スーツ姿の男が声を潜める。「卒業を待たずにプロポーズするんじゃないかって勢いだったからな」 「なるほど!」隣の男が手を打って納得した。「やっぱり『忘れられない初恋の人』は格別ってわけだ。たとえ妻という名分がなくても、永遠に一番大切な存在なんだろうよ」 「どうにかしてこの家に嫁いできたところで、結局はあのザマよ」別の誰かが、紗依を蔑むような目で見やった。「子供を産んだって、夫の心は手に入らない。あの女は一生、惨めで孤独な人生を送る運命なのよ」 紗依はただ静かに聞き入っていた。心臓が氷に覆われたかのように重苦しかったが、不思議ともう、痛みは感じなかった。 彼女は深く息を吸い込み、踵を返してエレベーターへと向かった。 エレベーターの扉が閉まりかけたその瞬間、突然、隙間に手が差し込まれた。 栞奈がハイヒールの音を響かせて優雅に乗り込んでくる。 「離婚の手続きも、もうすぐ完了するわね」栞奈は紗依の目を真っ直ぐに見据えた。「約束通り、出て行ってくれるんでしょう?」 紗依は一階のボタンを押した。「当然よ。私だって、誰よりも早くこの家を出て行きたいわ」 栞奈はついに満足げな笑みを浮かべた。「安心して。この家は私が代わりに、しっかり守っていくから。 どうせ凛久も子供たちも、あなたのことなんて好きじゃないもの。すぐにあなたのことなんて忘れるわ」 エレベーターがゆっくりと下降し始める。紗依は何も答えなかった。 突然、轟音と共にエレベーターが激しく揺れ、次の瞬間、その内部は完全な暗闇に包まれた。 「きゃあああっ!」栞奈が金切り声を上げ、パニックになりながらスマートフォンを取り出した。「凛久!助けて!エレベーターが壊れた!」 紗依は壁に激しく打ち付けられていた。額に鋭い痛みが走り、生温かい液体が頬を伝い落ちる。 どれほどの時間が経っただろうか。外から慌ただしい足音が聞こえてきた。 「中にいる方、無事ですか!」救助隊員の声がエレベーターの扉越しに響く。 「早く助けて!」栞奈が扉をバンバンと叩く。「足が、足が挟まってるの!」 金属をこじ開ける甲高い音が鳴り響き、一本のまばゆい光が暗闇に差し込んだ。 救助隊員が隙間から中を覗き込み、険しい顔つきで言った。「九条さん、お二人とも変形した扉に足を挟まれています。一刻を争う非常事態です。先にどちらか一人を出します。どちらを優先しますか?」 涙と血で霞む視界の先、救助隊員の後ろに、凛久が二人の子供を連れて立っているのが見えた。 彼の視線は真っ直ぐに栞奈へ注がれ、一分の迷いもなく言い放った。「栞奈を助けろ」 「栞奈さんを先に助けてください!」悠人と妃花も泣き叫びながら、救助隊員の袖を引っ張った。「早く助けてくださいよ!」 救助隊員は困惑したように眉をひそめた。「あちらの女性の方が明らかに重傷です。我々としては、彼女を先に救助すべきだと――」 「栞奈を助けろと言っているんだ!」凛久の声は、凍りつくほど冷酷だった。 救助隊員はため息をつき、やむを得ず栞奈の方へと手を伸ばした。 紗依は、彼らが慎重に栞奈を救出していく様を見つめていた。その時、支えを半分失った変形した扉がギギギと不気味な軋み音を立てた。 突然、ひしゃげた重厚な金属が、紗依の足に容赦なく叩きつけられた。骨の髄まで突き抜けるような激痛が、瞬時に全身を駆け巡る。 薄れゆく意識の中で彼女が最後に見たのは、栞奈を大事そうに抱き抱えて去っていく凛久の背中と、歓声を上げて喜ぶ二人の子供の姿だった。 そして、闇が彼女の意識を呑み込んだ。 第8話 紗依が再び目を覚ました時、突き刺さるような白い光に思わず目を細めた。 鼻を突く消毒液の匂い。耳元では、心電図モニターの規則的な電子音が鳴り響いていた。 「気がつきましたか?」医師が歩み寄り、彼女の瞳孔を確認する。「骨が三本折れていました。搬送が早かったから良かったものの、一歩間違えれば命に関わるところでした」 紗依は呆然と天井を見つめた。脳裏には、エレベーターが落下する直前の、あの最後の光景が焼き付いていた。 凛久は一分の迷いもなく栞奈を救うことを選び、ひしゃげた扉が紗依に叩きつけられた瞬間も、彼は一度たりとも振り返ろうとはしなかった。 彼女は少し体を動かそうとしたが、即座に全身を貫くような激痛が走った。 だが不思議なことに、涙は一滴も出なかった。極限の痛みのあまり、心まで完全に麻痺してしまったのだろう。 三日後、凛久が退院の迎えにやって来た。 彼は病室のドアの前に立っていた。しわ一つないスーツ姿のまま、紗依の包帯が巻かれた胸元に視線を落とす。そして、長い沈黙の末にようやく口を開いた。 「栞奈はこれからも舞台に立たなければならない。彼女の足に傷をつけるわけにはいかなかった」 紗依はゆっくりと顔を上げ、彼を見つめた。 「だから、お前には我慢してもらうしかなかった」彼の口調は、まるで明日の天気を話すかのように平坦だった。「お前は専業主婦だ。多少体に不自由が残ったところで、生活に大した影響はないだろう」 紗依は何も答えなかった。ただ、人生の半分を捧げて愛してきたこの男の正体を、初めてこれほどまで残酷なほどはっきりと見定めた。 その目鼻立ちは相変わらず美しかったが、その瞳の中に彼女の姿が映ったことなど、これまで一度もなかったのだ。 「凛久」彼女は掠れた声で言った。「もしあの日、私が死んでいたとしても、あなたは気に留めなかった?」 凛久は眉をひそめただけで、何も答えなかった。 彼はスーツの内ポケットから一枚のカードを取り出し、ベッドサイドのテーブルに置いた。「そんな無意味な質問をするな。これは埋め合わせだ。お前が大人しく身の程をわきまえ、二人の子供を育て上げる限り、お前は永遠に俺の妻だ」 紗依はふっと笑いを漏らした。 前世では、死ぬその瞬間まで凛久の妻であり続けた。だが、それが何になったというのか? 孤独のまま老い衰えたのも私、誰からも忘れ去られたのも私、そして業火に焼かれて死んだのも、この私ではないか。 だからこそ、やり直したこの人生で、彼の妻でいることなどもう真っ平ごめんだった。 もっと美しく、もっと眩いほどに生きてやる。そして、私を本当に愛してくれる人を見つける。 溢れ出す感情をもう抑えきれず、彼女は今すぐ「あなたなんてもういらない」と言い放ってやりたかった。 「凛久、私は――」 唐突に鳴り響いた着信音が、彼女の言葉を遮った。 凛久が電話に出ると、栞奈の甘ったるい声がスピーカー越しに漏れ聞こえてきた。「凛久、子供たちと一緒にレストランで待ってるわ。サプライズがあるのよ!」 つい先ほどまで氷のように冷たかった彼の眼差しが、一瞬で嘘のように和らいだ。「すぐに行く」 電話を切ると、凛久は腕時計に目をやり、再び冷たい声に戻った。「急用ができた。先に出る。運転手を下で待たせている」 背筋を伸ばし、迷いなく去っていくその後ろ姿を見つめながら、紗依は無意識に爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。だが結局、彼を引き留める言葉は口にしなかった。 まあいい。どうせすぐ、離婚手続きが完了したことを栞奈から聞かされるはずだもの。彼にはもう、何の未練もない。私を他人のように扱うあの二人の子供も、もういらない。 「佐藤さん」紗依は付き添いの家政婦の佐藤幸子(さとう ゆきこ)に告げた。「私の荷物を空港まで運んでちょうだい」 一時間後、彼女はスマートフォンから凛久にまつわるすべての連絡先を削除し、あのカードを病室の引き出しに残して病院を後にした。 飛行機が離陸する時、窓の外に広がる雲海は、夕日を浴びて燃えるような黄金色に染まっていた。 紗依はその眩い空を見つめながら、微笑みを浮かべてそっと目を閉じた。 この一生、二度と誰かのために自分を卑しめてまで尽くすような生き方はしない。 愛を乞うために惨めに這いつくばった日々など、この飛行機と共に、雲の彼方へ消え去ってしまえばいい。 この先に待っているのは、真っ新な、私だけの未来なのだから。