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月だけが見ていた
工藤晴香(くどう はるか)はホテルのスイートルームの前に立っていた。中から漏れてくる息づかいが、彼女の耳に容赦なく届く。 「美優。こっ...
Chương (1)
第1章
工藤晴香(くどう はるか)はホテルのスイートルームの前に立っていた。中から漏れてくる息づかいが、彼女の耳に容赦なく届く。
「美優。こっちが大変になったときはさっさと消えたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」そして、中から聞こえる松浦誠(まつうら まこと)の声には、刺々しい怒りがこもっていた。
「お願い、父を助けて……そのためなら、私、何でもするから」それに答える、池田美優(いけだ みゆ)の声は、涙で震えていた。
衣類が床に落ちる音に混じって、誠の笑い声が聞こえてくる。「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」
その場を動けずにいた晴香だったが、ベッドがきしむ音が聞こえてくると、ふらつく足取りでホテルを後にしたのだった。
その日の夜、探偵から美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテが送られてきた。
病名は、悪性リンパ腫。骨髄移植が必要で、完治率は80%とのことらしい。
その時ドアが開いた。知らない香水の香りをまとわせた誠が気まずそうな顔で入ってくる。「晴香。恵ちゃんの骨髄のことなんだけど、待ってもらわなくちゃいけなくなったんだ。ドナーの気が急に変わっちゃって……」
晴香は、カルテを彼の顔に叩きつけた。「私の妹の命と引き換えに、あの女と寝たってわけ?本当、最低!」
第1話
工藤晴香(くどう はるか)と松浦誠(まつうら まこと)のことを知る人々は、晴香のことをあまりよく思っていなかった。
なぜなら、誠が元カノの池田美優(いけだ みゆ)と別れたとたん、すぐさま彼と一緒になったから。
でも、以前は誠のほうが晴香の前でひざまずいて、目に涙を浮かべながら「一生お前を守る」と誓ったなんて誰も知らないのだ。
「泥棒猫」なんて言われ、時には汚い言葉で罵られもした。それでも彼女は、8年間ずっと歯を食いしばって耐えてきたし、後悔なんて少しもしていなかったのに。
そんな気持ちが変わったのは、婚約パーティーの3日前のことだった。晴香はホテルのスイートルームのドアの前に立ち、中から聞こえてくる聞くに堪えない声に耳を澄ましていた。
中では、誠が美優の上に馬乗りになり、その首を力いっぱい締めている。
「美優。こっちが大変になったときはさっさと見限ってくれたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」
美優は頬を上気させ、首元には赤い痕が滲むように広がっていた。涙をいっぱいに溜めたその瞳は、守ってやりたくなるほど痛々しい。
「誠、私が悪かったわ……本当に後悔してるの。
お願い、父を助けて。そのためなら、私、何でもするから」
誠が彼女の唇の端を指でなぞる。その目の奥では、汚い欲望が渦巻いていた。
「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」
美優は何も答えなかった。しかし、ただうつむいて、一枚、また一枚と服を脱いでいく。
服が床に落ちる音と、誠の荒くなっていく息づかいが混じり合い、ドアの隙間から漏れ、容赦なく晴香の耳に入ってきた。
そして、最後に聞こえてきたのは、ベッドが激しくきしむ音と男の醜く低い笑い声。「美優、覚えとけよ。先に俺を誘ったのは、お前だってことをな」
中から聞こえる喘ぎ声はまるで毒針のように、晴香の全身にびっしりと突き刺さる。
足も鉛でも詰められたみたいに重くなり、その場から動けなくなった。
晴香は自分がどれくらいその場に立っていたか分からなかったが、なんとかこわばった体を動かし、おぼつかない足取りでホテルを出ると、すぐに探偵に電話をかけた。
その日の夜、彼女の目の前に置かれていたのは、美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテだった。
病名は悪性リンパ腫。骨髄移植が必要らしい。
なるほど、そういうことだったのか。どうして美優があんな屈辱を受けいれたのか、晴香はこの時初めて理解した。
カルテに書かれた【完治率80%】の文字をぼんやりと見つめていると、ガチャリ、と鍵が開く音がした。
誠が帰ってきた。彼の体からは、自分のではない女物の香水の匂いがしている。晴香の顔を見る誠の目には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。
「晴香、すまない。骨髄の件なんだけど、ちょっと問題が起きて……
だから、恵ちゃんの骨髄移植、少し待ってもらわないといけなくなったんだ。ドナーの気が急に変わっちゃってさ」
工藤恵(くどう めぐみ)は、晴香の妹であり唯一の家族で、もう1年も白血病と闘っている。つらい治療で体がボロボロになっていた中、やっと見えた希望の光だったのに。誠の言葉によって、その小さな光は無情にもかき消された。
つまり、彼は晴香の妹の命と引き換えに、美優との一晩を得たのだった。
晴香はスマホを握りしめる。誠を見上げる彼女の目は、まるで氷の刃のように鋭い。
「嘘つき。
それって、池田さんのためなんでしょ?」
誠は黙り込む。それは認めたも同然だった。
「今回は彼女に譲るから」と、彼はこともなげに言う。「恵ちゃんのドナーは、俺がまた探すよ」
その瞬間、晴香の中でたまりに溜まっていたものが爆発した。
彼女は、恵に出されたばかりの危篤通知書と健吾のカルテを、誠の顔に叩きつける。
「彼女のお父さんはリンパ腫なの!放射線治療だけでも8割以上は治る病気なんだよ!」
問い詰める晴香の声は震えている。「なんで、恵のたった唯一の希望を、あの人たちに奪われなきゃいけないの?」
誠は彼女の肩を押さえた。
「少しは落ち着けって。美優には父親しか家族がいなんだよ。だから、ほんの少しのリスクだって負わせるわけにはいかなかった。
それに言っただろ?恵ちゃんのことは俺がなんとかするって。死なせたりなんかしないから」
晴香は目の前の男を見つめる。体中の熱がすうっと引き、内側から凍りついていくような感覚がした。
彼女はふっと笑う。「誠、知ってる?恵も、私にとってたった一人の家族なんだよ?」
しかし、誠は晴香を抱き寄せて優しく囁いた。「でも、お前には俺がいるだろ?
晴香、これはずっと前に美優と約束したことなんだ。だから、俺を責めないでくれ、な?
このことが全て終わったら、彼女とは今後一切会わないって約束するから」
自分を宝物みたいに大事にしてくれるはずだって、昔はこの男を疑うことなんてなかった。それに、恵のことも守ってくれるって、信じていたのに。
でも、元カノが戻ってきた途端、そんな約束は全部ただの冗談になってしまったらしい。
美優の父親にわずかな危険も冒させないために、彼は自分の妹が死んでいくのを、ただ黙って見ていられるというのだから。
晴香は誠を突き飛ばした。「もしその骨髄を、私が絶対に手放さないって言ったらどうする?」
そう言って、彼女はバッグをつかむと外に飛び出し、タクシーを拾って病院へと急ぐ。
健吾が手術室に入る前に止められれば、恵はまだ助かるはずだ。
息を切らしながら手術室の前にたどり着くと、健吾の手術開始まであと30分だと知らされた。晴香はへなへなと壁にもたれかかり、なんとか息を整える。
「この骨髄は、もともと私の妹のために用意されたものなんです」
彼女は通りかかった医師の腕をつかみ、途切れ途切れの声で訴えた。「だからお願いします……他の人には使わないでください……」
医師は感情のない目で晴香を見下ろす。「申し訳ありません、工藤さん。松浦社長から、池田さんを優先するようにと指示を受けていますので」
膝から力が抜け、晴香はどさりと床に崩れ落ちた。
膝立ちのまま執刀医ににじり寄り、その足にすがりつく。「先生、お願いします……この骨髄がないと、妹が死んじゃうんです……」
しかし、医師たちは何も言わなかった。ただ、一斉に彼女の後ろに視線を向けただけだった。
いつのまにか誠が来ていた。彼は晴香を無理やり床から立ち上がら、その場から離そうとした。
しかし、晴香の目に手術室へと運ばれていく健吾の姿が映ると、彼女は半狂乱で手術室のドアの淵にしがみつき、絶対に手を離そうとしなかった。
「いやあぁぁ――」
悲痛な叫び声が廊下に響きわたる。誠は慌てて晴香の口を手でふさいだ。
「晴香、手術の邪魔をするな」彼の声には何の感情もこもっていない。「お前が欲しいものは、なんでもやるから。
でもこれは、俺が美優に約束したことなんだ。だから、お前のものじゃない」
手術中のランプがついた。その瞬間、晴香の全身から力が抜け、体がくたりと床に崩れ落ちる。
固く閉ざされたドアを見つめながら、彼女は笑い始めた。それも、涙を流しながら笑っている。「もう離して。大丈夫、もう騒がないから」
そう言われた誠は手を離すと、彼女を床から立ち上がらせた。
彼の目に一瞬だけ、哀れむような色が浮かぶ。そして、ぐずる子供をなだめるみたいに、晴香の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「いい子だから、先に家に帰りな。こっちが終わったら、俺もすぐに帰るからさ」
しかし、晴香は家には帰らなかった。
彼女はそのまま集中治療室に向かった。ガラス越しに、痩せ細った姿の妹を見つめる。
ベッドに横たわっている恵は、雪のような真っ白い顔色をしていた。体にはたくさんのチューブがつながれ、胸のかすかな上下運動も、ほとんど見えないくらいだった。
静まり返った廊下で、晴香はこみ上げる涙をぐっとこらえ、スマホにある番号を打ち込む。
「横山さん」電話相手の名を呼ぶ晴香の声は、感情を失ったように平坦だった。「息子さんとの結婚のお話、お受けさせていただきます。
なので、約束した骨髄の件、必ず1週間以内に見つけていただけますか?」
電話の向こうから、笑みを含んだ声が返ってきた。「ええ、いいわ。1週間後迎えの者を行かせるから」
第2話
2週間ほど前、晴香のスマホに見知らぬ番号からしきりに電話がかかってきていた。
その電話に出てみると、相手は横山家の夫人だと名乗り、「あなたの運気が素晴らしいから、植物状態の息子とぜひ結婚してほしい」と言ってきたのだった。それに、見返りとして、恵に合う骨髄を必ず見つけるとも約束してくれた。
その時は詐欺か何かだと思って、すぐ着信拒否設定にした。
でも誠が唯一適合する骨髄を健吾にあげてしまった今、こんな馬鹿げた話しか、晴香と恵には残っていない。
本来であれば、2週間後は自分と誠の婚約パーティー。
でも今は、すべてをめちゃくちゃにしてやりたかった。
晴香は夜中過ぎまで恵のそばに付き添い、容態が落ち着いたのを確認してから、ようやく家路についた。
ドアを開けると、玄関にはハイヒールが乱雑に置かれていた。
さらに部屋へ入っていくと、黒いレースのストッキングがカーペットの上に脱ぎ捨てられている。
リビングのソファでは、服をはだけさせた美優が誠の膝にまたがり、彼の首に腕をきつく絡ませていた。
「誠、お父さんを助けてくれてありがとう」甘い吐息を誠の喉仏に吹きかけながら、彼女は囁く。「今から、たっぷりお礼させて」
「ねえ、まだ怒ってる?」美優は潤んだ瞳で彼を見つめ、指先でその鎖骨をなぞった。「もう二度と離れないから。だから、私を許して?」
ホテルでドア越しに聞こえていたあの光景の続きが、まさか自宅で堂々と繰り広げられるなんて。
晴香は、鈍器で殴られたような衝撃を胸に感じ、思わず手にしていたバッグを床に落としてしまった。
誠は、熱いものにでも触れたかのように美優を咄嗟に突き放すと、慌ててシャツのボタンを留めながらソファから飛び上がった。
「晴香!これは違うんだ!誤解なんだ!」
彼は顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに弁解している。「俺がこいつを心底憎んでることは、お前も知ってるだろ?だから、今さら何かあるはずがない!」
晴香はその場から動けずにいた。指先から血の気が引いていくのを感じる。
そういえば、8年前もこの男は同じようなことを言っていたっけ。
当時、大学を卒業したばかりの誠は起業に失敗し、数千万円の借金を抱えていた。
そんな貧乏暮らしに耐えられなくなった美優は、彼のなけなしの貯金をすべて持ち去って、忽然と姿を消したのだった。
そして、冷たい雨が降る冬の夜、バーの裏口で泥酔していた誠を家に連れ帰ったのが晴香だった。
彼は晴香の手を握り、子供のように泣きじゃくった。美優は世界で一番ずるい女だ、死んでも許さないと言いながら。
その後、立ち直った誠は、鬼気迫る勢いで晴香に猛アタックをかけてきた。
あの頃は、冬になっても厚いブーツが買えないほど本当に貧しかった。
薄いスニーカーから雪が染み込み、足の芯から凍えそうだった晴香を、誠は黙っておんぶしてくれた。雪に足を取られながらも、40分もかけて会社まで送ってくれたのだ。
当時、彼は借金返済のためにフードデリバリーのバイトをしていた。丸一日脚がパンパンになるまで働いていたのに、稼ぎはほんのわずかしか無かった。
手袋は擦り切れ、凍えて紫色になった指先が覗く。それでも誠は、いつも遠回りして焼きたての焼き芋を晴香に買って帰ってきてくれていた。
そして、彼は長年吸っていたタバコをきっぱりとやめた。さらに、暮らしに少し余裕ができると、晴香が何気なく「バラが好き」と言ったのを覚えていてくれたのか、毎朝30分早く起きて、市場で一番きれいなバラの花束を買ってきてくれるようになった。
他には、しつこく言い寄ってくる御曹司を断り、路地裏で待ち伏せされた時のことだった。
誠はすぐに駆けつけてくれ、血走った目で男たちに殴りかかった。無我夢中で相手を叩きのめしていたけれど、彼自身もひどく殴られ、2週間も入院することに。
退院の日、誠は段ボール箱を抱えて晴香の前にひざまずいた。
ダンボールの中身は、美優が残していった思い出の品々だった。
色褪せたペアブレスレット、書きかけのラブレター、誠が初めて彼女に贈ったネックレス、など。
誠は晴香の目の前で、それらをめちゃくちゃに壊すと、こう言った。「晴香、これからは俺の心にはお前一人だけだ。
俺の心に、美優はもういない。信じてくれ。だから、これからずっと、俺と一緒にいてくれないか?」
あの日、晴香は泣きながら頷いた。この恋という賭けに、自分は勝ったんだ、と。
この人が心から自分を愛してくれるなら、どんな苦労も報われる。そう信じていた。
なのに彼が立派な社長になり、かつて愛していた女が戻ってきた今、あの日の誓いは全部、ただの戯言になってしまったのだった。
晴香が黙っているのを見ると、誠は突然、美優のすねを蹴りつけた。「俺の婚約者が帰ってきたんだ。さっさと出ていけ!」
痛みに顔を歪めてよろめく美優の目には、みるみる涙が溜まっていく。
「誠、私に気持ちがないなんて嘘。だって、父を助けてくれたばかりじゃない……」
「可哀想だと思っただけで、お前とは何の関係もない!」
誠は、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。それは美優に、いや、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。「美優、よく聞け!俺はもうすぐ晴香と結婚するんだ。二度と邪魔なんかするな!」
美優は唇を噛みしめ泣きながら、靴を手に持ってはだしで飛び出していった。
誠は床からバッグを拾うと、駆け寄ってきて晴香を強く抱きしめた。
「なあ、晴香。怒らないでくれ。手術の件は、俺があいつにした最後の約束なんだ。だからこれで、もうあいつとは完全に終わり。二度と会わない」
誠は、少しも悪びれる様子もなく、堂々とそう言った。
でも、晴香はもう彼の言葉を聞くのにうんざりしていた。
美優が帰国してから、誠の「最後」という言葉を、一体何度聞かされただろうか。
おそらく、彼本人でさえもう覚えていないのだろう。
もう言い訳を聞く気力もなく、晴香はそっと誠を押し返しす。「わかった。私は、先に部屋に戻って休むから」
「俺も行く」
誠はすぐ後ろからついてくると、晴香の腰を強く抱きしめ、頭に顎を乗せた。いつものように、下手な鼻歌で機嫌を取ろうとしてくる。
そして、真夜中。突然スマホの着信音が鳴った。
誠は彼女の手をそっとどけると、音を立てないようにバスルームに入り、内側から鍵をかける。
第3話
しかし、恵が入院してから晴香はずっと眠りが浅かった。
だからスマホが一度鳴っただけで、すぐに目を覚ましてしまっていた。
バスルームのドアには、男の影がぼんやりと映り、中からは美優の甘ったるい声が聞こえてくる。「誠、なんだか停電しちゃったみたいなの。一人でこわいから、今すぐ会いに来てくれないかな?」
誠の声には、いら立ちが滲んでいた。
「もう電話してくるなって言ったよな?」
しかし、美優は柔らかい声で続ける。「わかってる。晴香さんが怒るのが心配なんでしょ?でも、大学のときの停電、覚えてる?私、夜はあんまり目が効かないから、もう少しで階段から落ちて死ぬところだったよ。
今夜、もしまた何かあったら……」彼女はそこで言葉を切り、声を震わせた。「私が死ぬだけならいいの。でも、病院のお父さんを面倒見るのは私しかいないから……」
静かな夜、誠が「面倒なやつ」と小さく毒づき、「わかった、すぐ行くから待ってろ」と答える声は、晴香の耳にはっきりと聞こえてきた。
誠がバスルームから出てくると、晴香はベッドに座っていた。
時計の針は、午前2時を指している。
誠の顔に一瞬だけ動揺が浮かぶ。しかし、慌ててシャツを羽織り、彼女から目をそらして言った。「晴香、ごめん。会社で急用ができたんだ。だから、先に寝てて。待ってなくていいから」
晴香は彼を見ようともせず、ただ静かに尋ねる。「明日、あなたの実家で食事する約束だったよね。それはどうするの?」
誠の両親は、ずっと晴香を良く思っていなかった。とくに誠の仕事が軌道に乗ってからは、息子には不釣り合いだとあからさまに見下すようになっていた。
だから、彼の実家に行く度いつも嫌がらせを受けた。しかし、そのときは誠がいつも間に入って守ってくれた。
でも、今回は……
ネクタイを結ぶ誠の手は一瞬止まったが、彼の声には迷いがなかった。「行くさ。心配するな、すぐに戻るから」
玄関のドアがカチャリと閉まると、庭で車のエンジン音がせわしなく鳴り響く。
それからすぐに、スマホの画面が光った。
新着メッセージが一件、表示されている。
【ねえ、見た?私が呼べば、彼はいつでも飛んできてくれるの】
【せっかくおやすみのところ邪魔しちゃって、ごめんね】
晴香は顔をしかめ、スマホの画面をオフにした。
送り主は、考えなくてもわかる。美優からの挑発だ。でも、今の晴香にとって、そんなことはもうどうでもよかった。
どうせ、もうここを出ていくのだから。
誠のことが欲しいなら、美優にでもくれてやればいい。
晴香は寝室で一晩中座ったまま朝を迎えたが、夜が明けても誠は帰ってこなかった。
彼女は重い体をなんとか起こすと、ファンデーションで目の下のクマを隠し、服を着替える。そして、一人で車を運転して誠の実家へと向かった。
数日後に控えた婚約パーティーのことなんて、もうどうでもよかった。ただ一つ気がかりなのは、亡くなった母親が妹に遺した水晶のペンダントのこと。以前、誠の母親・松浦茜(まつうら あかね)が妹のお見舞いに来た、それを持っていってしまったのだ。
その時は、いつか同じ家族になるんだし、と急いで返してもらおうとは思わなかった。しかし、茜はそれを半年も我が物顔で身につけ、返す素振りなど一切ない。
もうここを去るのだから、妹の大切なものを取り返さなくてはならない。
そして、今日は誠がいないから、彼の両親が晴香にいい顔をするはずもなかった。
リビングに座った茜は、横柄な態度で言う。「晴香、あなたはもう何年も誠の家で暮らしてるでしょ?食べ物も服も、全部誠のお金で。だから結納金なんて、払わなくていいわよね?」
晴香は言い返すのも面倒だったので、視線も上げずに答えた。「ご自由にどうぞ」
「なにその態度は!」茜がテーブルをバンと叩く。「もうすぐ私のことも『お母さん』って呼ぶことになるのに。未来の姑に向かって、そんな口の利き方。誠がいつもあなたの味方だからって、私が何もできないとでも思ってるの?」
晴香はぐっと息を飲み、なんとか喉までこみ上げてくる苦い思いを抑え込む。「誠は今日ここに来ていませし、婚約の話だって、どうなるかわかりません。それに、私が今日ここに来たのは、母の形見の水晶のペンダントを返してもらいたかったからなので」
茜はとっさに首から下げたペンダントを手で覆い、不機嫌さを全面に出す。「これは、あなたが私にくれたものでしょ?一度あげたものを返せだなんて、そんな話があるわけないじゃない!
まだ嫁にもなっていないくせに、なんて生意気な。いい加減にしなさいよ!」
意地悪い言葉が耳元でうるさく響き、晴香はどんどん頭が重くなっていくのを感じた。
「おばさん。元々は、数日お貸しするというお約束でしたよね?」なんとか、冷静さを保つ。「返してほしいと、ずいぶん前からお伝えしているはずですが」
もともと品のある育ちではない茜は、とうとう床にへたり込み、大声でわめき始めた。「なんてめちゃくちゃなの!まだ嫁入りもしてない女が、私たちを脅すなんて!
早く誠に電話して!あの子が結婚しようとしてるのが、どんな女か思い知らせてやるんだから!」
大げさな泣き言が終わるか終わらないかのうちに、誠本人が勢いよく部屋に駆け込んできた。
彼のシャツの襟は乱れ、首筋にはうっすらと赤い痕がついている。それは誰の目から見ても、かなり生々しいものだった。
しかし晴香はすでに松浦家の使用人たちによって、両肩をがっちりと押さえつけられ、茜の前に無理やりひざまずかされていた。
手加減を知らない数人の力で、晴香の膝はすでに赤く腫れ上がっている。
誠の姿を見た瞬間、痛みと悔しさが堰を切ったようにあふれ出し、晴香は声を震わせた。
「誠……私たち、ここまで一緒にやってきたのに。それなのに、あなたの家族はまだ、私にこんな仕打ちをするの?」
しかし誠は、その場に立ち尽くしたまま、深いため息をついただけだった。
「晴香、こっちは仕事で疲れてるんだ。これ以上邪魔しないでくれるか?」
第4話
晴香は誠を見つめた。悔しさが、じわじわとこみ上げてきて、胸の奥が締めつけられるように痛む。
「私が邪魔……した?」
誠はジャケットをソファに投げ捨て、イライラした様子で眉間を揉む。
「晴香。今まで、お前の言うことはだいたい何でも聞いてきたつもりだ。でもな、それにも限界ってものがあるだろ?
さっきのことは母さんから聞いたよ。たかが水晶のペンダントじゃないか。なのに、そんな風に逆らうなんて、あまりにも子どもじみてるぞ」
使用人が手を離すと、晴香は目を赤く腫らし、よろめきながら床から立ち上がった。
「誠、よく見て!あのペンダントは、恵を守ってくれるものなの!それに、自分のものを取り返して、何が悪いっていうの?」
茜がそばで甲高い声でわめく。「誰のものとかうるさいわね!これはあなたが私にくれたものでしょ!もうすぐ松浦家の嫁になるんだから、あなたの物は全て松浦家の物になのよ!」
「いい加減にしろ!」
誠は数歩で茜のそばに駆け寄り、彼女の首からペンダントをひったくり、晴香が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、彼はその水晶のペンダントを床に叩きつけた。
「これでいいだろ?もう物はなくなったんだから、二人して騒ぐな」
晴香は駆け寄って床に這いつくばりながら、破片を拾い集めた。割れた破片が手のひらに食い込み、いくつも切り傷ができて血がにじむ。
彼女は勢いよく顔を上げ、涙を浮かべて誠を睨みつけた。「これは私の物なのに、どうしてこんな勝手なことをするの!」
しかし、誠は晴香の怒りを気にも留める様子もない。
「もっといいのを買ってやるから」
晴香は破片をすべて布の袋に詰め込むと、言い放った。「いらない!」
誠は彼女の腕を掴んだ。「新しいのを買ってやるって言ってるだろ。なんでそんなに意地を張るんだよ?もうすぐ婚約パーティーだってあるのに。少しは大人になれよ」
険悪な雰囲気の中、美優が紙袋を手に部屋に入ってきた。彼女は誠の両親の様子を伺うと、おずおずと口を開く。「あの……お取り込み中でしたか?」
美優は袋から、生々しいキスマークがついたネクタイを取り出した。「誠のネクタイ、昨日の夜うちに忘れて帰っちゃったみたいんで、返しに来たんですけど。
他には何もないので、私はこれで失礼しますね?」
「待て。ここにいろ」誠は手を伸ばして彼女の腰に手を回し、懐に引き寄せる。
美優が、晴香のことを刺激する存在だということは、誠自身が誰よりも分かっていた。
この数年、彼は美優の名前を口にすることさえ避け、彼女の物が家にあることなど決してないようにした。
しかし今は、晴香を「懲らしめる」ため、わざと彼女の目の前で、かつて想いを寄せていた相手と仲のいい様子を見せつける。
晴香は全身を震わせた。胸に熱い油を注がれたように、焼けるような痛みとしびれが走る。
美優は頬を赤らめ、わざとらしく誠を押し返した。「誠、こんなこと……晴香さんが見てるでしょ?さすがに、まずいんじゃない?」
しかし、誠は晴香から目を離さず、そのまま美優の唇にキスをし、低い声で言う。「こいつには一度しっかり灸を据えてやらないとだからな。
晴香、出ていけ。反省して謝る気になったらに戻ってこい」
彼の言葉が終わるやいなや、茜が親しげに美優の腕を組んだ。
「あら、美優ちゃんじゃないの!高校の時、よくうちにご飯を食べに来てたわよね。数年見ないうちに、こんなにきれいになっちゃって!
ずっと前から、あなたにはとても好感が持てたのよ。あんな品のない女より、あなたがうちへお嫁に来てくれた方が、よっぽどいいのに」
美優は恥ずかしそうに微笑みながらも、横目では誠の様子を伺っていた。「そんなこと言わないでくださいよ。晴香さんはただ、少し気が強いだけなんでしょうから。だから、お嫁に来る前に、少し考えを改める時間があってもいいんじゃないですか?」
彼女はそっと誠の体を押し、「そうでしょ?」と同意を求める。
誠は腹を立てていたので、何も考えずにこくりと強く頷いた。
晴香は布の袋を抱きしめ、血のにじむ手を固く握りしめると、みじめな思いで松浦家の門を出た。
彼女の背後で門が閉まる。中からは、四人の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、針のように耳に突き刺さった。
晴香は家には帰らず、まっすぐ病院へ向かった。
両親を早くに亡くした二人は、小さい頃から姉妹で支え合って生きてきたのだ。だから、晴香は辛いことがあると、いつも恵に会いに来たくなった。
この子がいてくれるだけで、どんなに辛い日も一人で耐えているわけじゃないと思える。
恵が細い小さな手を伸ばし、晴香の頬に触れた。「お姉ちゃん、最近なんだか元気ない?」
「ううん、元気だよ」
「でも、目が赤いよ?」
晴香は涙を見られないように、慌てて顔をそむける。
恵の優しい声が耳元で響く。「お姉ちゃんが私の看病で大変なのは分かってるから。だから、もしお姉ちゃんと誠さんが幸せになれるなら、私の病気は治らなくてもいいからね……
お姉ちゃんには幸せになってほしいの」
晴香は背を向けた。涙が止まらない。「恵、私はうれしいの。
それに、恵がずっと行きたいって言ってたレストラン、もう予約したから。先生も、最近は容体が安定してるから、少しなら外出してもいいって言ってくれたし」
恵はうれしくて、ベッドの上で飛び上がりそうになった。
「本当?本当に外出できるの?」
晴香は泣き笑いを浮かべた。「もちろん、本当だよ」
横山家がドナーを見つけてくれる件は、正直あてにしていなかった。
だから、もし本当に恵が間に合わなかったら、せめて彼女の人生から、少しでも後悔を減らしてあげたいと思っていたのだった。
しかし、1ヶ月も前に予約したそのレストランに着くと、ウェイトレスに貸し切りだと告げられた。
晴香が事情を尋ねようとしたその時、中からワイングラスを手にした美優が現れた。
「晴香さん?あなたも、私の誕生日パーティーに来てくれたの?
でも、残念。誠が言ってたの。ここは私以外、関係ない人は入れちゃダメだって」
第5話
晴香はとっさに恵を少し離れたところにやった。「恵、少しここで待ってて。あの人、私のちょっとした知り合いなの」
「食事に来ただけなので。どいてもらえるかしら?」
しかし、美優は鼻で笑った。その目には、あからさまな嘲笑の色が浮かんでいる。「おかしいわね。確か、ここは誠が私のために貸し切りにしてくれたって言ってたんだけどな。それに、あなたたちがここの値段を払えるとでも?
まさか、こんな客も受け入れるなんて。このレストラン、大丈夫かしら?」
晴香は恵の前でもめたくなかった。しかし、美優はしつこく絡んできて、毒針のような視線を、恵へとまで向けた。
「この子が、父と骨髄ドナーをとり合ったっていう病気持ちの子?
もし彼女が、自分の姉が松浦家から追い出されたって知ったらどうなるかしら?ショックで倒れちゃうんじゃない?」
晴香の顔からさっと血の気が引く。恵の体は、強いショックにはとても耐えられない。もしこんなことを知らされたら、今夜もつかどうかすらわからないのに。
晴香は爪が食い込むほど拳を握りしめ、声をしぼりだす。「どうしたいの?」
美優は得意げな笑みを隠そうともせず、首をかしげた。「私と誠、今夜ここで食事するんだけど、実は、給仕してくれる人がちょうど一人足りないらしくて。
そういえば、あなたは人の世話が得意だったわよね?だから、どうかしら?まさか、できないなんて言わないでしょ?」
晴香は唇をかみしめる。先にタクシーで恵を病院に送り、ちゃんと落ち着くのを見届けると、店に戻り美優に頭を下げた。「私がやるわ。だから、恵には絶対に何も言わないで」
誠がレストランに入ると、ウェイトレスの制服を着た晴香が、おとなしく美優にワインを注いでいた。
くすんだ色の制服に包まれた華奢な体が、なぜか誠のいらだちをかき立てる。
彼は乱暴に晴香の手首をつかみ、眉をひそめて冷たく言った。「晴香、なんでここにいるだよ?」
晴香はその手を振りほどき、冷めた声で答える。「あなたには関係ないから」
誠は険しい顔になった。「いつまで拗ねてるつもりだ?俺はお前の婚約者だぞ。松浦家の嫁になるっていうのに、そんなみすぼらしい格好なんかして。俺に恥でもかかせる気か?」
しかし、晴香はワインを注ぎ終えると、何も言わずにすっと脇へ下がった。
彼女の無言の抵抗に、誠は怒りで体を震わせる。「そうか。わざと俺を怒らせてるんだな。そんなにウェイトレスをやりたいなら、気が済むまでやらせてやるよ!」
彼は厨房から、なみなみと注がれたシーフードスープのボウルを晴香に運ばせた。そしてボウルの下のトレイを抜き取ると、「直接手で持て」と命じる。
焼けつくように熱いボウルが手のひらに触れた瞬間、晴香はびくりと体を震わせ、思わず手を引っこめようとした。
しかし、誠は彼女の手の甲を押さえつけ、無理やり熱いボウルに押し付ける。
「何離そうとしてるんだ?お前がやりたいって言ったんだろ?厨房のスープなんて、少し冷ましてから出すもんだから、このくらいで火傷するわけないだろ?」
晴香は歯を食いしばって、必死でスープのボウルを抱えた。
心の中で何度も自分に言い聞かせる。もう少しの辛抱。恵が無事でいてくれるなら、これくらい平気だ、と。
しかし、熱いものは熱い。
焼けるような痛みが腕をはい上がり、熱さで涙がこぼれた瞬間、抱えていたボウルが床に落ちて粉々に砕け散った。
飛び散った鋭い破片が、美優の首をかすめて一筋の赤い線を描いた。
次の瞬間、個室に彼女の甲高い悲鳴が響き渡る。
美優は首を押さえ、指先についた血を誠に見せつける。その目はみるみるうちに潤み、いかにも可哀想な被害者を演じていた。
「誠。私、ただ素敵な誕生日を過ごしたかっただけなのに、晴香さんが……私を殺そうとした」
その血を見た誠は、顔色を変えて晴香を突き飛ばした。そして、美優を優しく抱きかかえる。
「美優、大丈夫か?すぐに病院へ連れて行ってやるから!」
去り際に、彼は床に倒れたままの晴香を睨みつけた。「8年も付き合ってきたけど、お前がこんなひどい女だとは思わなかったよ。まさか、俺が美優と食事をしていただけで、彼女を殺そうとするなんてな。
お前ってやつはたいしたもんだな、晴香!」
ボディーガードが道を開ける中、誠は美優を抱きかかえて足早に去っていった。そして、一度たりとも晴香を振り返ることは無かった。
晴香は床に座り込んだまま、動けなかった。背中はスープでべっとりと汚れている。
震える手を開くと、手のひらは一面の水ぶくれで覆われていた。いくつかは既に破れ、生々しい肉が見えて痛々しい。
レストランの人たちがスマホを片手に彼女を取り囲み、あちこちでシャッター音が鳴り響く。
「撮らないで……」晴香はとっさに手で顔を隠し、か細い声でつぶやいた。
でも、周りからは波のような嘲笑が押し寄せてきた。「今さら何を気取ってんだか。婚約者にも捨てられたんだろ?ネットで有名になれるチャンスじゃん」
「婚約者が浮気相手にやり返されるなんて、みっともないね。愛されてない方が悪いのよ、結局は!」
晴香はなんとか立ち上がり、よろよろとレストランを飛び出した。
いつのまにか外は土砂の大雨で、冷たい雨が彼女の体をあっというまに濡らしていく。
雨が降る中、通りの反対側に停まる高級車の中では、松浦家お抱えの医師が、美優のたいしたことない傷を丁寧に手当てしていた。
一方、自分は捨てられた犬のように、雨と血に濡れながら、一歩ずつその場を離れることしかできなかった。
第6話
美優の首の傷は、ただの浅いかすり傷だった。しかし、心配した誠は、彼女を私立病院の最上階にある特別ルームに入院させ、自らつきっきりで看病していた。
晴香は病院の中をずいぶん探し回って、やっとその病室を見つけることができた。
ドアを開けたとたん、誠の笑顔が凍りつく。「なんでお前がここにいるんだ?また、美優を苦しめにきたのか?」
美優は布団に顔をうずめるようにして、おびえた声を出す。「晴香さん、私と誠はただの同級生だから、本当に何にもないの。誤解しないで……
それに、私が怪我したことは気にしないで……私は大丈夫だから。あと、お願いだから、このことで誠と気まずくならないで欲しいな」
誠は布団の中に手を伸ばすと、美優の肩をそっと抱き寄せ、優しい声でささいた。「大丈夫、俺がそばにいるから。怖がらなくていい。彼女には何もさせない」
晴香はぐっと目をつぶり、こみ上げてくる悔しさを飲み込む。「誤解よ。私は恵の薬をもらいに来ただけ。薬がもう無くなってしまったから」
恵の病状を安定させるには、M社のあの特効薬が欠かせなかった。
しかし、その薬はまだ市販されていなくて、誠の力で週に一箱だけ融通してもらっていたのだった。
以前の誠なら、いつも恵のことを気にかけてくれていたので、言わなくても、時間通りに病院へ届けてくれたのに。
でも今は、プライドをすべて捨てて、こうして彼にお願いするしかなかった。
誠はボディーガードから薬の箱を受け取ると、それを指でつまんで晴香の目の前でひらひらさせ、冷たく笑った。
「昨日はずいぶん強気だったから、もう俺の助けなんていらないのかと思ったよ。なのに、結局はこうして俺に頭を下げに来るんだな?
晴香、忘れたとは言わせないぞ。まずは、俺と美優に謝らないといけないはずだ。な?そうだろ?」
恵のことを思うと、晴香は逆らうことなんてできなかった。
彼女は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。「ごめん。お願い、その薬をちょうだい」
晴香がそう言ったとたん、誠のスマホが鳴った。
電話を切ると、彼は晴香には目もくれず、美優に向かって優しく言った。「会社で急用ができちゃった。少しだけ戻らないといけないんだ。一人でも大丈夫か?」
美優は誠のほっぺを優しくつねって、にっこり笑う。「もう、心配しすぎだよ。子供じゃないんだから。早く行ってきて」
彼女は少し間を置いてから、晴香に視線を移した。「そうだ、晴香さんとちょっとだけ話したいことがあるの。薬はここに置いておいてくれる?帰るときに私が渡しておくから」
誠は少しも疑うことなく美優に薬を渡すと、急いで部屋を出ていった。
病室のドアが閉まった瞬間、美優の顔からか弱い表情がすっかり消えた。目に宿るのは、何かを企むような笑みだけ。「薬はあげてもいいわよ。ただし、1日分ずつね。
条件はキャバクラで働くこと。そして、毎晩お客さんからもらったチップで、この薬を買う」
晴香は、憎しみを込めた目で美優をにらみつけた。「そんなことして、誠に知られてもいいの?」
それを聞いて、美優はもっと楽しそうに笑った。
「あなたの病気の妹なんて、誠にとって何でもないわ。だって、彼は私のために、骨髄まで奪ってくれたのよ。そんな人が、あなたの妹の命なんて気にすると思う?」
晴香は全身の力がすーっと抜けていくのを感じていた。固く握りしめていた拳が、ゆっくりと開いていく。
確かにそうだ。恵は自分の妹だけど、誠とは何の血のつながりもないのだから。
今の彼は、自分のことさえ、もうどうでもいいと思っている。そんな中、恵のことまで心配してくれるはずがない。
晴香は唇から血の味がにじむほど強く噛みしめた。そして、やっとのことで声を絞り出す。「わかった。やるわ。だから薬をちょうだい」
「待って」
美優は、去ろうと背を向けた晴香を呼び止めた。「見張りをつけるから。ズルしようだなんて考えないことね」
晴香がキャバクラで働き始めて3日目のこと。個室で、ひどくお酒臭い、いかにも成金といった感じの男たちによ取り囲まれてしまった。
机にはショットグラスが山積みになっている。彼女はマイクを無理やり握らされ、次から次へと歌うことを強要された。
声がかすれるまで歌わされた、その時だった。スキンヘッドの男たちがニヤニヤ笑いながら晴香を囲み、べたつく手を肩に置いてきた。
「おい、今夜は俺たちと朝まで楽しまないか?
俺たちを満足させてくれたらさ、チップは欲しいだけやるからよ」
晴香は、熱いものに触れたかのようにその手を振り払った。そして、震える声で言う。「すみません、うちはそういうお店じゃありませんので」
ヒゲ面の男が目をむいて、晴香の服をつかんだ。「やるかやらないかは、お前が決めることじゃないんだよ!俺がお前を気に入ってやったんだ。ありがたく思え!」
下品な言葉と一緒に、酒臭い手が伸びてくる。そして、男が乱暴に彼女の服をむしり取ろうとしたその時、晴香は必死にもがきながら、ありったけの声で叫んだ。「助けて!やめて!」
ちょうどその時、仕事の打ち合わせでここに来ていた誠は、晴香の個室の前を通りかかったとき、中から叫び声が聞こえたので、彼はふと足を止めた。「なんの声だ?」
そのとき、晴香の視界の隅に、ドアの隙間から見覚えのある人影が映った。最後の希望にすがるかのように、彼女はドアに向かって必死に叫ぶ。
「誠!助けて!私、晴香よ!
お願いだから、ここから連れ出して」
聞き覚えのある声に、誠は深く眉をひそめた。そして、隣にいる美優の方を振り向く。
「今の声、聞こえたか?まるで……晴香みたいだった」
第7話
美優は誠の前にさっと割り込むと、その腕をつかんだ。「誠、ちょっと疲れすぎじゃない?幻聴が聞こえてるみたい。
それに、彼女はまだあなたに怒ってるんだから。あんなにプライドが高い子、こんな場所に来るわけないでしょ?」
個室のなかで、晴香は狂ったようにドアを叩いた。「誠!私よ!こっちを見て!中にいるの!
助けて!こんな人たちと一緒なんていや……」
誠の耳に、助けを求める声がだんだんはっきりと届く。でも、美優の確信に満ちた目を見て、彼は眉をひそめ、結局そっぽを向いてしまった。
「そうだな。あいつの性格じゃ、人を困らせることはあっても、自分が捕まるなんてありえないか」
最後の一筋の光が、晴香の目の前で完全に消えた。
誠の足音はどんどん遠ざかっていく。その背中からは、もう振り返らないという決意がにじみ出ていた。
男たちが意地悪く笑いながら彼女をテーブルのそばまで引きずっていく。その時、晴香はとっさに酒瓶を掴んで床に叩きつけた。そして一番鋭い破片を拾い上げ、自分の首に突きつける。
「これ以上はやめて!さもないと、ここで死んでやる!
こんなところで死人が出たら、あなたたちだって困るでしょ?」
破片が皮膚を切り、血の玉がにじみ出た。
案の定男たちはひるんだ。ヒゲ面の男が悔しそうに、箱ごと酒をテーブルにどんと置いた。「相手ができないって言うなら、酒を飲むくらいはできるだろ?
だったら、飲め!潰れるまで飲め!じゃなきゃこの部屋からは出さないからな!」
晴香は夜明けまで頭を押さえつけられてお酒を飲まされた。そして血を吐いて倒れたところで、ようやくキャバクラの人たちが慌てて彼女を病院に運んでくれた。
次に目を覚ましたのは、もう翌日のお昼だった。携帯を確認すると、画面にはたくさんの不在着信が表示されている。
2件は恵の担当の医師から、そして残りは全部、誠からだった。
晴香はためらわず、急いで医師に電話をかけ直した。「先生、妹に何かあったんですか?」
電話に出たのは看護師で、深刻そうな声だった。「工藤さん、患者さんが明け方に感染症ショックを起こしました。今も集中治療室にいますので、すぐに来ていただけますか?」
電話を切った途端、今度は誠からかかってきた。「晴香!恵ちゃんはなんてことしてくれたんだ!美優が親切にお見舞いに行ってやったら、あの子、果物ナイフで刺しやがったんだぞ!」
「うそよ!」晴香の声はひどく震えていた。「恵は今、集中治療室にいるのよ。人を刺せるわけないじゃない!あなたと話してる時間なんてないの!」
彼女は電話を切り、患者衣のままふらふらと集中治療室へ走る。しかし、ドアの前に着いたところで、美優の手続きをしていた誠と鉢合わせてしまった。
彼は何も言わずに、いきなり晴香の腕を強く掴んだ。
「一日中連絡がつかないと思ったら、今ごろ患者衣で現れて同情でも引くつもりか?もう遅いんだよ!
俺と一緒に家へ帰るぞ!美優が元気になるまで、一歩も家から出るな!」
晴香は二日酔いが抜けていない上に、妹のことで気力も使い果たしていたので、まったく抵抗できない。
彼女はほとんど叫ぶように言った。「離して!恵は今、手術中なの!そばにいさせてよ!」
しかし誠はまったく譲らない。「芝居はやめろ!人を刺す元気があるやつが、集中治療室に入るかよ。彼女を言い訳に使う手は、もう通用しないぞ!」
晴香はボディーガードに無理やり車に押し込まれ、家に連れ戻された。
彼女は屋上に閉じ込められた。目の前には、立派な仏像が置かれた仏壇があった。
そして、これは誠からの命令だった。美優が完全に回復するまで、ここで毎日祈りを捧げ懺悔をしろ、と。
晴香は汚れた患者衣のまま、冷たい床の上で体を丸めていた。胃の激痛で全身が震える。彼女は地面に額を押しつけながら、スマホを取り出して横山家に電話をかけた。
「横山さん……」晴香の声は、かろうじて聞き取れるほどか細かった。「今から、K市に行きます。
でも、ヘリコプターが必要なんです。私と恵を、すぐに迎えに来てくれますか?今すぐお願いします……」
言い終わるか終わらないかのうちに、見張りのボディーガードにスマホを蹴り飛ばされた。続いて、腹部を思いきり強く蹴られる。
「ここで池田さんのために罪を償えって社長が言ってただろ?こそこそしてんじゃねぇ!」
冷や汗がこめかみから流れ落ちる。晴香は痛みでうめき声も出せず、ただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。
一分一秒が、地獄のような苦しみで、命が少しずつ削り取られていくようだ。
意識が闇に沈む、もうだめだと思ったその時。ヘリコプターのプロペラ音が聞こえてきた。
その音がどんどん大きくなる。どうやら、だんだん近づいてきているようだ……