心に陽だまり

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私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。 妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みな...

Chương (1)

第1章

私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。 妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みなみ)のことで、四か月ものあいだ一度も健診に付き添ってくれなかった。 そして五度目の健診の日も、結局また来なかった。 電話越しの声は冷たく、その奥にわずかな苛立ちが混じっていた。 「子どもは俺だけのもんじゃないだろ。母親になるんだから、お前がもう少し頑張ればいい話じゃないか。俺がいないと何もできないのか?」 私は何も言わなかった。 ただ、待合室のテレビに映っている―― 美波に向かってやさしく微笑んでいる修一の姿を、黙って見つめていた。 そして、小さく。 「……うん」 とだけ返した。 修一は私の様子がおかしいことに気づいたらしく、まだ何か言いかけていたけれど、その前に私は通話を切った。 近くでは看護師たちが、修一が美波のために花火を打ち上げたというニュースの話で盛り上がっていた。 ようやくこちらに気づいた看護師が歩み寄ってくる。 「神宮寺さん、妊婦健診はこちらになります」 私は静かに首を横に振った。 そして、落ち着いた声で言った。 「結構です。一週間後の中絶手術を予約してください」 第1話 私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。 妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みなみ)のことで、四か月ものあいだ一度も健診に付き添ってくれなかった。 そして五度目の健診の日も、結局また来なかった。 電話越しの声は冷たく、その奥にわずかな苛立ちが混じっていた。 「子どもは俺だけのもんじゃないだろ。母親になるんだから、お前がもう少し頑張ればいい話じゃないか。俺がいないと何もできないのか?」 私は何も言わなかった。 ただ、待合室のテレビに映っている―― 美波に向かってやさしく微笑んでいる修一の姿を、黙って見つめていた。 そして、小さく。 「……うん」 とだけ返した。 修一は私の様子がおかしいことに気づいたらしく、まだ何か言いかけていたけれど、その前に私は通話を切った。 近くでは看護師たちが、修一が美波のために花火を打ち上げたというニュースの話で盛り上がっていた。 ようやくこちらに気づいた看護師が歩み寄ってくる。 「神宮寺さん、妊婦健診はこちらになります」 私は静かに首を横に振った。 そして、落ち着いた声で言った。 「結構です。一週間後の中絶手術を予約してください」 …… 修一に見つけられたとき、私は通りの端にしゃがみ込み、ぼんやりと向かいを見つめていた。 繁華街のいちばん大きな街頭ビジョンには、修一と美波の映像が映し出されている。 肩を並べて花火を見上げるふたりは、どう見ても仲睦まじい恋人同士だった。 そのとき、修一が私の前に立ちふさがり、無言で視界を遮った。 冷えきった表情のまま、乱暴に腕をつかんで立たせる。 「こんな時間に何してるんだ。ただ健診に付き添わなかっただけだろ。少しは分別を持てないのか」 私は、ほんの少しだけ目を見開いた。 結婚してからの二年間―― 彼にいちばん言われ続けてきた言葉が、それだった。 少しは分別を持て。 彼のスマホを見せてほしいと言えば、分別がないと言われる。 一緒に公の場に出たいと言っても、やっぱり分別がない。 妊婦健診に付き添ってほしいと頼んだときでさえ、返ってきたのは同じ言葉だった。 もし以前の私だったなら、きっとすぐに謝っていたと思う。 けれど今は違う。 丸く張ったお腹を見下ろしながら―― そんな「分別」なんて、もういらないと思った。 私が何も言わず歩き出すと、修一はすぐに苛立った声を上げた。 「お前、いったいどこへ行くつもりだ」 「フォトスタジオ」 そのひと言に、修一ははっとしたように黙り込んだ。 健診の付き添いと、マタニティフォト。 それが、私が彼にお願いした――たった二つのことだった。 それなのに彼は、そのどちらも覚えていなかった。 修一の顔に一瞬だけ後ろめたさがよぎり、そのまま無言で私をフォトスタジオへ連れていった。 「最近さ、ちょっと物忘れがひどくて。悪かったな」 私は心の中で、そっと笑った。 彼の記憶力は、むしろいいほうだ。 美波の誕生日も。 彼女の好きなお菓子も。 彼女が世に出した作品の発表日まで――きちんと覚えている。 その数は、数十どころか百に届きそうなくらいあるのに。 ただ。 私のことだけは、忘れてしまうのだ。 物思いに沈んでいるうちに、気がつけば車は目的地に着いていた。 顔を上げた瞬間、全身が強ばる。 そこは――美波の店だった。 彼女がこの街に戻ってきた初日から、修一がひとりの女のために店の場所まで吟味していたことを、私は知っていた。 店の名は「十年の記憶」。 ふたりが積み重ねてきた十年を、そのまま形にしたような名前だった。 若いころに恋をして、美波は夢を追ってヨーロッパへ渡り、修一は――腹いせのように私と結婚した。 それなのに結婚して二年後、その美波がまた戻ってきた。 雨の中で一度泣かれただけで、修一は彼女を許し、そして何事もなかったかのように、昔のふたりへ戻っていった。 まるで一夜にして、横から割り込んだのが私のほうだったみたいに。 けれど―― こんな中途半端な関係に、もうこれ以上付き合うつもりはなかった。 ドアにかけた手にぎゅっと力がこもる。 そこが美波の店だと思った途端、踏み込むのをためらった。 けれど修一は私の手首を取って、そのまま店の中へ引き入れた。 美波はすぐにこちらへ歩いてきた。 すらりとした体つきに、艶のある黒髪をゆるくまとめていて、肩の力の抜けた、自然な上品さがある。 顔色が悪く、手足までむくんでいる今の私とは―― 比べることすらむなしかった。 店員は修一を見るなり、にこにこと笑って言った。 「修一さん、また美波さんに会いに来たんですね」 修一の表情が固まり、すぐに私のほうをうかがうように視線を向ける。 美波は小さく笑って、その子をたしなめた。 「そんなこと言わないの。この方は修一の奥さまよ」 それから私へ微笑みかける。 「雪菜、気にしないでね。まだ若い子だから、ちょっと思ったことをそのまま言っちゃうだけなの」 そう言うと、何事もなかったかのように私の手を取り、服を見せはじめた。 私が終始淡々としていたせいか、美波は何度かこちらをうかがい、本当に動じていないとわかると、わずかに皮肉めいた笑みを浮かべた。 そのとき私の目は、目の前に掛けられていた一着のロングドレスに留まっていた。 真珠のような白で、どこか清らかな気配があった。 試着してみようと手を伸ばした、その瞬間―― 修一が横から私の手を押さえた。 低い声で言う。 「それはやめて、別のにしろ」 どうして、と顔を上げた私は―― 壁に飾られていた、修一と美波のツーショット写真を目にした。 第2話 あの写真の中で彼女が着ていたのは、まさにそのドレスだった。 それに気づいた瞬間、胸の奥がざらりと波立った。 私は何も言わず、すぐ別の一着に手を伸ばした。 体をすり抜けるようにして試着室へ入ろうとした、そのときだった。 背後で店員が口元を押さえながら、くすくす笑う声が聞こえた。 「美波さん、ドレスがかぶっても別に問題ないですよ。似合わないほうが気まずいだけですし。ほら、あの人すぐ別のに替えましたよ」 美波はふっと笑った。けれどそれは余裕でも優しさでもない。 はっきりとした――侮りだった。 それでも、私は何とも思わなかった。 着替えを終えると、私は静かに椅子へ腰を下ろした。 修一が私の隣に立ち、そっと肩を抱き寄せる。 シャッターが切られる――その直前だった。 美波が突然胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。 「修一、苦しい……」 肩に置かれていた手が、するりと離れる。 修一は血相を変えて駆け寄り、そのまま彼女を抱き上げて外へ出ていった。 最後まで、一度もこちらを振り返らなかった。 店員が気の毒そうな目で私を見る。 けれど私は背筋を伸ばしたまま、微笑んで言った。 「続けてください」 店員は一瞬きょとんとしたあと、小さく口をへの字に曲げ、それでも黙って撮影を続けた。 撮影が終わるころには、不思議と心が静かになっていた。 私は満ち足りた気持ちで、その場をあとにした。 これは私とこの子だけの記憶だ。あの人がいてもいなくても、もうどうでもいい。 店を出てから、外の風が思っていたよりずっと強いことに気づいた。 仕方なく、私は近くのホテルに入った。 ベッドに横になって間もなく、スマホが震えはじめた。 修一からだった。出る気にはなれず、そのまま放っておいた。三回続いたあと、ようやく着信は止まった。 うとうとしかけたころ、今度はメッセージが一件届いた。 開いてみると―― 修一の腕の中に収まっている美波の写真だった。 しかも彼女が着ていたのは、私のパジャマだった。 五秒もしないうちに、そのメッセージは取り消された。 続いて、短いメッセージが届く。 【ごめん、間違えて送っちゃった】 わざとだと、すぐにわかった。 けれど不思議と、腹は立たなかった。 私はスマホの画面を閉じ、そのまままた眠りに落ちた。 翌朝、タクシーで家に戻った。 玄関のドアを開けた瞬間、中の空気に違和感を覚えた。 リビングでは、なぜか人が集まっていて、簡単なホームパーティーのようなものが開かれていた。 修一は眉を寄せたままスマホを見つめていたが、ドアの音に気づくと顔を上げた。 そして私と目が合う。 その表情はわずかにやわらいだのに、声にはまだ責めるような響きが残っていた。 「やっと帰ってきたのか」 私は淡々と答えた。 「昨日は風が強かったから、近くのホテルに泊まったの」 言い終えた瞬間、怒鳴られるものだと思っていた。 けれど修一は短く「そうか」と言っただけだった。 そして落ち着いた声で続ける。 「知ってる。お前のスマホの位置、見てたから。でも外泊するなら、次からはひと言くらい連絡しろ」 コートを脱ぎかけた手が止まり、私は信じられない思いで彼を見た。 「いつ、私のスマホにGPSなんて仕込んだの?」 「お前のためだ。何かあったら困るだろ」 それ以上は何も説明せず、修一は部屋にいる面々を私に紹介しはじめた。 そこにいたのは、みんな修一の友人たちだった。 けれど結婚式の日を除けば、この数年、顔を合わせたことは一度もない。 むしろ私よりも美波のほうがずっと馴染んでいる様子で、彼女は自然と場を仕切るように、いたずらっぽく一人ずつ紹介していった。 「こちらは藤宮英司(ふじみや えいじ)。スープがすごくおいしいの。 こっちは御堂圭吾(みどう けいご)。アーティストをしてるの。 それから倉田翔也(くらた しょうや)。ちょっとだけイケメンなんだけど、すごく意地悪なの」 その言葉に、みんな一斉に笑い出した。 英司はわざとむっとした顔をして、冗談めかして言い返す。 「美波ちゃん、それ贔屓入りすぎじゃない?」 美波は頬をふくらませると、そのまま彼らの輪の中へ飛び込んで、じゃれ合うように騒ぎはじめた。 最後まで、私のほうをまともに見ることすらなかった。 もちろん、挨拶もない。 私は別に構わなかった。もともと彼らは昔からずっと一緒に過ごしてきた人たちだ。私はそこに無理に入りたいと思ったことなんて、一度もない。 修一はそんな美波を、甘やかすような目で見つめながら、低く笑っていた。 私はその場を離れ、寝室へ向かおうと足を動かした。 けれど振り向きざま―― ゴミ箱の中に見えたものに、体が一瞬で固まった。 重くなった足を引きずるようにして近づく。そこに捨てられていたのは、母が生前、私のために作ってくれた漬物だった。 頭の奥で、何かがぶつりと切れる音がした。体の奥が、すうっと冷えていくようだった。 母は、あまりにも突然いなくなった。 あれは――母が最後に私へ残してくれた食べものだった。 丸一週間かけて作ってくれたものを、私はどうしても捨てられずにいたのに。 それなのに今、その漬物は生ごみにまみれて、ゴミ箱の底に沈んでいた。 胸の奥に押し込めていたものが、一気にあふれ出す。 私は震える声で言った。 「……誰が捨てたの?」 リビングでは相変わらず笑い声が続いている。誰ひとり、私の声に気づかない。 「……誰が捨てたの?」 それでも、誰も振り向かなかった。 第3話 部屋の空気が、凍りついたように止まった。誰もが顔を見合わせ、言葉を失っている。ただ、気まずさだけが重く漂っていた。 修一がそっと私の肩を押さえ、声を潜めて言った。 「美波が捨てたんだ。菌があるかもしれないって。お前の体を心配してのことだよ」 ……私のため? 私は食べるつもりなんてなかった。まして、彼女に食べさせるつもりもなかった。 それなのに、どうして勝手に捨てていいことになるの。 そうだ。この人は昔からずっとそうだった。私を諭すことばかりで、私に向けるべき最低限の敬意すらくれたことがない。 まして、私が大切にしているものなんて―― 気にかけたことさえ、なかった。 涙がぽたぽたと床に落ちていく。 修一は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、私の頬に手を伸ばしかけた。 私はその手を、力いっぱい振り払った。 その瞬間―― 「きゃっ!」 美波の甲高い悲鳴が部屋に響いた。 彼女は修一をかばうように前に立ち、怒った顔で私を睨む。 「雪菜、漬物を捨てたのは私よ。文句があるなら、私に言って」 英司まで不機嫌そうに口を開いた。 「たかが漬物ひとつだろ。そこまで騒ぐことかよ。空気悪くなるじゃないか」 翔也も露骨にうんざりした顔で言う。 「美波は生物学専攻だったんだぞ。お前よりよっぽど詳しいだろ。せっかく気を遣ってやったのに、恩知らずだな」 ――みんな、美波の味方だった。 まるで私が、ひとりで騒ぎ立てる面倒な女みたいに。 そのうえ、彼らの修一を見る目には、同情まで浮かんでいる。 こんな女とよく結婚したものだ―― そう言いたげな視線だった。 でも、そんなことはどうでもよかった。 本当にどうでもいい。 私が気にしているのは―― 母が、私のために作ってくれた漬物。ただ、それだけだった。 涙が床に落ちる。私はその場に膝をつき、ゴミの中から漬物を拾い上げようと手を伸ばした。 「何してるんだよ!」 修一が慌てて腕を掴もうとする。 「まだ妊娠中なんだぞ!」 その言葉に、美波の目が揺れた。 彼女は慌てたように私のそばへしゃがみ込み、震える声で言った。 「……ごめんなさい。私が悪かった。私も一緒に拾うから」 口では殊勝なことを言いながら―― その指先は、容赦なく私の手の甲に食い込んできた。 鋭い痛みに体がびくっと跳ねる。 私は反射的に、美波を突き飛ばしていた。 美波は無様に床へ倒れ込み、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、傷ついたような目で私を見上げてくる。 次の瞬間―― リビングにいた全員が一斉に彼女の前へ立ちはだかった。 まるで敵を見るような目で、私を睨みつける。 修一が低い声で怒鳴った。 「雪菜!何をしてるんだ!」 私は何も言わなかった。 ただ黙って、床に散らばった漬物を拾い集める。 修一の顔が暗く沈む。 そして、美波のためにけじめをつけさせるつもりなのか―― 乱暴に私の腕を掴んだ。 「……謝れ」 私は静かに修一を見返した。 けれど――引くつもりは、少しもなかった。 修一が都合よく悪いのを私のせいにするのは、これが初めてじゃない。 これまでは、私が弱かっただけだ。 母に余計な心配をかけたくなくて、何もかも飲み込んできた。 でも、その母ももういない。だから私は、もう我慢するつもりはなかった。 「修一、離婚しましょう」 その言葉が落ちた瞬間、修一の顔つきがみるみる険しくなる。 結婚して二年。 言い争いは何度もあった。 けれど―― 私が離婚を口にしたのは、これが初めてだった。 修一が何か言い返そうとした、そのとき。美波が甘えるような声で口を挟んだ。 「雪菜。同じ女として言うけど、そんな駆け引きはやめたほうがいいわ。 お腹の子だってもうこんなに大きいのに、本気で離婚なんてできるわけないでしょう? まさか、その子を堕ろすつもりじゃないでしょうね」 そのひと言で、場の空気が一変した。修一がいちばん嫌うのは、脅されることだった。 彼はじっと私を見つめたまま、ひどく失望したような声で言った。 「雪菜、お前ちょっと頭冷やせ。しばらく家で反省してろ」 そう言い捨てると、彼は美波の手を引き、そのまま玄関から出ていった。 ほんの数秒で、広い家には私ひとりだけが取り残された。 漬物を丁寧に包み直したところで、スマホが震えた。 病院からの通知だった。 手術は――五日後に迫っていた。 私は部屋へ戻り、必要な書類や身の回りのものを静かにまとめて、その日が来るのを待った。 けれど翌日。 友人から切羽詰まった声で電話がかかってきた。 「雪菜、早くニュース見て」 言われるままニュースアプリを開く。 トップに表示されていたのは―― 週刊誌に撮られた修一の写真だった。 修一と美波が、手をつないで浜辺を歩いている。 美波は幸せそうに微笑んでいて、その腰には―― 修一のイニシャルのタトゥーまで入っていた。 さらに記事は、修一がこの二年間ずっと外したことのなかった結婚指輪まで、いつの間にか消えていると書き立てていた。 そのせいで世間は一斉に、私たちの結婚がどうなっているのかと騒ぎはじめた。 しかも記事は、修一と美波の恋愛話まで勝手に作り上げていた。 かつてふたりを応援していた人たちまで戻ってきて―― 今度は私のSNSアカウントに押し寄せてきた。 第4話 【あんたが横から割り込んだから別れたんでしょ。ほんと最低。人の男奪っといて何様?】 【妊娠してるんだって?だったら早く堕ろしなよ。絶対産まないで。美波がかわいそうでしょ】 【もう美波の方選んでるでしょ。しがみついても無駄だって。いい加減、二人の邪魔するのやめなよ】 騒ぎは日に日に大きくなり、三日間もニュースの話題を独占していた。 修一が私の置かれている状況を知らないはずがないのに、彼は何ひとつ動かなかった。 わかっていた。彼は、私が折れるのを待っているだけだった。私たちの関係の中で、いつだって強いのは彼のほうだったから。 着る服にも口を出して、食べるものにも口を出して、しまいには私の行動まで把握しようとする。 やさしさは全部、美波に向けて。私に向けられるのは、強引さと冷たさだけだった。 自分は私がいなくても平気でいられるって思わせておきながら、私には、彼がいなきゃ何も残らないと思い込ませようとしていた。 昔みたいに、また私が泣いて謝るのを待っていたんだ。 そしてもう一度、自分の腕の中に閉じ込めて――どこにも行けないまま大人しくしていろって。 でも―― もう、あの頃の私じゃなかった。 だから四日目に、修一は戻ってきた。 その日はひどい雨だった。 彼は全身ずぶ濡れで、どれだけ外に立っていたのかもわからないほどだった。 私を見る目は暗く複雑で、悲しそうにも、どこか傷ついたようにも見えた。 こちらへ歩き出しかけて―― ふいに自分の体が冷え切っていることに気づいたらしい。 慌てて上着を脱ぎ捨てる。 それから私を抱きしめ、くぐもった声で言った。 「健診はもう予約してある。今度は絶対、俺も一緒に行く。 漬物のことも……悪かった。あのときは俺が止めるべきだった。 変な噂もただの行き違いだ。もう会社にも話は通してある。これ以上、お前が悪く言われることはない」 修一は黙ったまま私を見つめていた。 ――またここで、私が折れるのを待っている。 突き放しておいて、最後に少しだけやさしくする。 それが、彼のいつものやり方だった。 でも私は知っている。 美波がいる限り、修一が最後に切り捨てるのは――いつだって私だ。 こんなふうに、誰かと取り合うみたいな関係には、もう疲れていた。 私は何も言わず、そのまま寝室へ戻った。 修一があとを追って入ってこようとしたとき、スマホが鳴った。 美波からの着信だった。 修一はスマホを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。 強く握りしめているのに、それでもすぐには出なかった。 シャワーを浴びたあと、彼はベッドに入り、後ろから私を抱き寄せた。 低く押さえた声で言う。 「俺とあいつはもう終わってる。余計なこと考えるな」 私は腰に回されたその手へ目を落とした。 そこには――いつの間にか、あの結婚指輪が戻っていた。 けれど、もう二度と、昔には戻れないと――私は知っていた。 翌朝、目が覚めたその日は―― 私が中絶手術を受ける日だった。 しかも修一は、よりによって私のために妊婦健診の予約まで入れていた。 彼が初めて、付き添って病院へ行こうとしていた日だった。 普段は落ち着いている修一が、このときばかりは妙にそわそわしていた。 持ち物を何度も確かめては、またバッグを開け直している。 そんな彼を見ながら、私は決めていたことを話そうとした。 そのときだった。 スマホが短く通知音を鳴らした。 修一は反射的に画面を開き――次の瞬間、表情が固まった。 手からスマホが滑り落ちる。 床に落ちた画面には、血のにじんだ手首の写真が映っていた。 修一はそれを拾い上げると、そのまま外へ飛び出そうとした。 「待っ――」 呼び止めるより早く、彼はすがるような顔で言った。 「今回だけだ。これで最後にするから。美波が危ないんだ。放っておけない!」 私は小さく笑って、彼が手にしていた書類を受け取った。 そして静かに言った。「行って。私はただ、自分のものを返してもらいたかっただけだから」 修一は一瞬だけ立ち止まった。 けれど考える余裕なんてなかったのだろう。 そのまま背を向けて、足早に出ていった。 ――けれど途中で。 ここ数日の私の様子を思い出したのか、不安に駆られたように引き返してきた。 そして突然、強く抱きしめられる。 「先に病院で待っててくれ」 言い聞かせるような声だった。 「今度こそ、必ず行くから」 そう言い残すと、彼はもう振り返らなかった。 私はその背中から目をそらし、タクシーで病院へ向かった。 手術室へ運ばれていくその瞬間―― ようやく、深く息をつくことができた。 麻酔が少しずつ体に回っていくにつれて、まぶたが静かに重く沈んでいった。