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あの日、君を忘れなければ
余命一ヶ月と知った浅見結衣 (あさみ ゆい)が、真っ先に取った行動は――桐生蓮(きりゅう れん)を呼び戻し、強引に自分のそばへ引き留めること...
Chương (1)
第1章
余命一ヶ月と知った浅見結衣 (あさみ ゆい)が、真っ先に取った行動は――桐生蓮(きりゅう れん)を呼び戻し、強引に自分のそばへ引き留めることだった。
その夜、結衣の腰に手を添えた蓮は、息を乱しながらも、沈んだ目で彼女を見つめている。
しかし、その目だけは冷えきっていた。
自分と狂おしいほどに肌を重ね合わせる女を見つめる彼の瞳の奥には、残酷なほどの憐れみが滲んでいる。
「結衣、こうしてしつこく付きまとって何になる?いくら体を重なっても、お前に惹かれることなどあり得ないって、分かってるだろう」
以前の結衣なら、それだけで十分に傷ついたはずだ。
しかし、自分の余命がわずかだと悟っている彼女は、そんな言葉は耳に入らないとばかりに、さらに艶めかしい仕草で蓮と唇を重なり、それ以上の言葉が出ないよう完全に封じ込めた。
第1話
余命一ヶ月と知った浅見結衣 (あさみ ゆい)が、真っ先に取った行動は――桐生蓮(きりゅう れん)を呼び戻し、強引に自分のそばへ引き留めることだった。
その夜、結衣の腰に手を添えた蓮は、息を乱しながらも、沈んだ目で彼女を見つめている。
しかし、その目だけは冷えきっていた。
自分と狂おしいほどに肌を重ね合わせる女を見つめる彼の瞳の奥には、残酷なほどの憐れみが滲んでいる。
「結衣、こうしてしつこく付きまとって何になる?いくら体を重なっても、お前に惹かれることなどあり得ないって、分かってるだろう」
以前の結衣なら、それだけで十分に傷ついたはずだ。
しかし、自分の余命がわずかだと悟っている彼女は、そんな言葉は耳に入らないとばかりに、さらに艶めかしい仕草で蓮と唇を重なり、それ以上の言葉が出ないよう完全に封じ込めた。
……
すべてが終わると、結衣は名残を惜しむようにそっと蓮に口づけし、ベッドを下りて洗面所へ向かった。
自分が死んだあとのことを、蓮ときちんと話しておくつもりだ。
しかし、数歩歩いたところで突然目の前が真っ暗になった。倒れ込んだ拍子に、蓮がテーブルに置いている鍵を落としてしまった。
パシャン――
部屋の中に、甲高い音が響き渡った。
次の瞬間、蓮が飛び出してきた。しかし、彼の視線は床に倒れた結衣には一切向かず、ただ自身のキーホルダーだけを捉えている。
鍵についているクリスタルのストラップが砕け散っているのを見た途端、蓮の顔色がさっと変わった。
「何やってんだよ!」
彼は低く押し殺した声で言った。「お前、どこに目をつけてるんだ!?」
怒鳴りながら、蓮の目はすでに赤く染まっている。結衣は誰かを突き落として死なせたてしまったかのような底知れぬ恐怖を覚えた。
喉の奥にひどく渋く苦い味が広がる。
結衣は分かっている。そのストラップがそれほど高価なわけではない。ただ、瀬戸清香(せと さやか)が蓮に贈ったものだからだ。
「ごめんなさい」
彼女は体を起こし、ストラップの破片を拾おうとした。だが、蓮は彼女の手を払いのけ、瞳の冷たさを露わにした。
「その汚い手で触るな!」
結衣は唇を噛みしめた。「わざとじゃないの。
ちょっと目眩がして、つい……」結衣は説明した。
彼女は少しだけためらい、言葉を紡いだ。「蓮、私……もうすぐ死ぬの」
蓮は冷笑を浮かべた。「ならさっさと死ね。今すぐにな」
今の彼には自分への想いが一欠片も残っていないことを、結衣は痛いほど分かっている。それでも胸には鋭い刃で深く抉られるような痛みが走った。
彼女は目を閉じ、踵を返して家を出た。
廊下に出た途端、結衣は耐えきれずに血を吐き出した。点々と散る血痕とともに、意識までもが急速に霞んでいった。
彼女と蓮は政略結婚だった。しかし結婚後、二人は急速に惹かれ合い、周囲が羨むほどの仲睦まじい夫婦になった。
結婚して七年、二人の愛は少しも色褪せることはなかった。
二年前、蓮が封じ込めていた記憶を取り戻したそのとき、結衣は初めて知った。彼には結婚前、瀬戸清香という忘れられないほど深く愛した恋人がいたのだ。
清香は交通事故から蓮を庇い、命を落とした。蓮は頭を打たれ、清香のことを忘れていた。
記憶を取り戻したその日から、彼は果てしない苦しみに呑まれた。
彼は、清香に一生愛すると誓ったのに、その彼女を裏切ってしまった。
それ以上に彼を苦しめたのは、結衣を本気で愛してしまったことだ。
罪悪感と悩みは、それからずっと蓮を締めつけ続けた。
彼が自分を責め続け、日々衰弱していくのを、結衣はただ黙って見ていることしかできなかった。
苦悩の末に、蓮が最終的に下した決断――それは、結衣と離婚し、催眠によって彼女と育んだ七年間の愛の記憶をすべて消し去ることだ。
「結衣、すまない。俺の心には二人を入れておくほど広くないんだ。
もう一度清香を見捨てることなんて俺にはできない。だから、お前を忘れるしかない」
結衣は聞きたかった――じゃあ、私は?捨ててもいい存在なの?
しかし、あまりの苦痛に今にも壊れそうな蓮の瞳を見ていると、一言も言葉を発することができなかった。
しばらくの沈黙のあと、蓮は口を開いた。「結衣……もし、清香を覚えているままで、それでももう一度お前を好きになれるなら……そのときは、また一緒にいよう」
その言葉に、結衣の目にようやく一筋の光が宿った。
まるで眼前にぶら下がる餌。その一言に魅せられて、彼女は長い長い追いかけっこを始めた。
しかし、現実は残酷だ。
丸二年間、彼女は必死に蓮を追いかけ続けたが、彼の心の中には清香しかいない。
固く閉ざされたその心に、ほんのわずかな隙間すらこじ開けることはできない。
それどころか、この二年間で様々な出来事が重なり、蓮は彼女に対してますます嫌悪し、反発心を抱くようになった。
口の中に広がる血の匂いを感じながら、結衣の顔に自嘲とも哀しみともつかない薄い笑みがよぎった。
開いたままのドア越しに、部屋の中でストラップの破片を慎重に拾い集める彼の背中を見つめながら、結衣の目尻から涙がひとすじ伝い落ちた。
ねえ、蓮、知ってる?私にはもう、こうしてあなたの背中を追いかけ続ける時間なんて残されていないの。
第2話
ポケットの中のスマホから突然、通知音がした。
【浅見様、お申し込みの墓地使用契約が無事に承認されました】
ちょうどその時、蓮が両手に破片を持って部屋から出てきた。
「墓地ってなに?」
結衣はそれ以上、自身の状況について口にすることはなかった。
「死」という言葉を出せば、蓮からほんの少しの同情を引き出せるのではないかと期待していた。
しかし今の冷たい態度を見る限り、もし自分が本当に死ぬと知れば、彼は間違いなく祝杯をあげるほど喜ぶに違いない。
結衣は、そんな残酷な光景を絶対に見たくない。
結局、彼女は「何でもないわ」とだけ返した。
そして話題を変えるように、「どこへ行くの?」と尋ねた。
蓮はわざとらしいことを聞くなとばかりに冷ややかな視線を向けた。「清香からの大切な贈り物を台無しにしておいて、これ以上俺がここにいられると思うのか」
結衣は唇を強く噛みしめた。「どこへ行こうか知らないけれど、今すぐ部屋に戻って。さもなければ、浅見家と桐生グループの取引はすべて白紙に戻してやる」
蓮の胸が一瞬激しく鼓動した。そしてその瞳の奥が、みるみるうちに氷のように冷たくなった。
「お前がここまで卑劣な女だとは思わなかった」
結衣は淡々と頷いた。「だから、大人しく言うことを聞いた方が身のためよ」
結局、蓮は顔をこわばらせたまま部屋に入った。
固く閉ざされた寝室のドアを見つめながら、結衣は自嘲めいた笑みを浮かべた。
無理に引き留めたところで、蓮の心はもう自分に向くことはないと、結衣は痛いほどわかっている。
それでも、もう愛されていなくてもいいから、せめて人生の最後くらいは蓮にそばにいてほしい。
翌朝、結衣はまた血を吐いた。
彼女は無表情に口元を拭い、アシスタントからの電話に出た。「社長、今夜八時から新港ふ頭で晩餐会がございます。ご出席をお願いいたします」
結衣は眉をひそめた。残されたわずかな時間はすべて蓮と一緒に過ごしたいが、この晩餐会はずっと前に出席を承諾しており、今さら断ることはできない。
仕方なく、結衣は蓮と一緒に晩餐会へと向かうことにした。
しかし、華やかな晩餐会の会場で、結衣は決してそこにいるはずのない人物の姿を捉えた。
白河紗良(しらかわ さら)が笑顔で歩み寄ってくる。「浅見社長」
そして蓮の方へ視線を移すと、ひときわ親しげな声色になった。「蓮さん」
その瞬間、結衣の目つきが鋭く冷えた。相手の顔には、清香を思わせる面影が確かにある。
「あなた、どうやってここに入ったの?」
紗良はにこにこと笑いながら答えた。「蓮さんが招待状をくれたんだ」
結衣は思わず拳を強く握りしめた。紗良の顔立ちは、死んだ清香に八割方似ている。
そもそも蓮が清香の記憶を取り戻したのも、紗良に出会ったことがきっかけだったのだ。
その上、紗良は一見すると穏やかで無害そうに見えるくせに、陰では何度も手を回し、この二年で蓮が結衣をますます疎ましく思うよう仕向けてきた張本人でもある。
結衣は紗良に対して、反吐が出るほどの嫌悪感を抱いている。
これ以上口を利きたくない結衣は、蓮に向かって言った。「行きましょう。社長たちが待ってるから」
しかし紗良が言葉を遮るように口を開いた。「蓮さん、お渡ししたいものがあるの。ちょっと、いい?」
結衣は咄嗟に蓮の手を強く握りしめ、声を潜めて警告する。「行かないで」
蓮は一瞬ためらい、断ろうと口を開きかけたが、紗良がさらに一言付け加えた。「清香さんの遺品なの」
その言葉を聞いた途端、蓮は一切の躊躇なく結衣の手を振り払い、紗良の後を追って歩き出した。
紗良は振り返り、結衣に向けて挑発的な笑みを浮かべた。
結衣の瞳に怒りが宿った。しかし、大勢の視線が集まる場で騒ぎを起こすわけにはいかず、ただ二人が離れていくのを見送るしかなかった。
晩餐会の舞台となったのは、海に浮かぶ巨大なクルーズ船だ。
しばらくすると、外の甲板の方から突然悲鳴が上がった。
誰かが慌てて駆け込んできた。「浅見さん、桐生さんが海に落ちました!」
結衣の瞳が大きく揺れた。蓮は深海恐怖症なのだ。
彼女は何も考えずに甲板へ飛び出し、そのまま海へと身を投じた。
「蓮!」
しかし、外は風が強く波も荒れ狂っており、結衣は蓮の姿をまったく見つけることができない。
「蓮!」結衣の叫び声が掠れている。
その時、誰かが大声で叫んだ。「あそこだ!」
結衣はハッと顔を上げ、指差された方向へと必死に泳ぎ、ついに蓮を見つけ出した。
だが不運なことに、嵐はさらに勢いを増し、すべてを飲み込もうとするかのような巨大な波が次々と押し寄せてきた。
結衣はすでに意識を失っている蓮をしっかりと抱き抱えながら、荒れ狂う浪の中で浮き沈みを繰り返した。
彼女の体力は次第に奪われていく。
幸いにも、荒れ狂う波を乗り越えて一隻の救助ボートが近づいてきた。隊員たちは総出で海に身を乗り出し、蓮を船上へと引き上げた。
そして、隊員の一人が結衣へ向かって手を伸ばした。「手を出せ!」
けれど、蓮を持ち上げた時点で、結衣の力はもう尽きていた。隊員たちの目の前で、彼女はそのまま暗い深海へと沈んでいった。
自分は確実に死んだものと思っていた結衣は、除細動器の衝撃で強引に意識を叩き起こされた瞬間、ここがどこなのか理解できずひどく混乱している。
すぐに、切羽詰まった医師の声が耳に飛び込んできた。「浅見さんはすぐに手術が必要です。桐生さん、出てください……」
その時初めて、結衣は自分の手が蓮にきつく握りしめられていることに気がついた。
「すまない」
蓮は目を真っ赤にして結衣を見つめていた。
「俺のせいで、お前がこんな目に遭うなんて……思ってもなかった」
結衣の胸に、ふわりと温かいものが広がった。彼の言葉に思いがけない喜びが込み上げ、彼女は全身の痛みを堪えながら「大丈夫よ、心配しないで」と逆に彼を慰めようとした。
しかし蓮は唇を引き結び、言葉を継いだ。
「紗良も海に落ちて、ひどい怪我をしているんだ。結衣、お前のところには市内でいちばん腕のいい医者が集まってるんだろ。頼む、そいつらを紗良のほうへ回してくれないか?」
結衣が無理をして浮かべたかすかな笑みは、そのまま顔に張り付いて凍りついた。
涙で濡れた蓮の顔をじっと見つめながら、結衣はついに悟った。
——天国から地獄へ突き落とされるのは、こんなにもあっけないほど一瞬だったのか。
第3話
結衣の全身は激しく震え、言葉には、魂を削るような痛みが滲んでいた。
「蓮、分かっているの?この医師たちが去れば、私の手術だって失敗に終わる可能性が高いのよ」
「それに……あなたをあの海から救い出したのは私なの。紗良じゃないわ!」
蓮の目元が、痛々しいほど赤く染まった。「すまない、分かっているんだ……でも、彼女がまた俺の目の前で命を落とすのを、ただ黙って見ることなんて、俺にはできないんだ」
結衣は絶望に耐えるように、静かに瞼を閉じた。
「……蓮、いい加減に目を覚まして。紗良は清香さんじゃないのよ」
しかし、蓮はなりふり構わず、結衣の前に崩れ落ちるように膝をついた。
「結衣、一度だけでいい、彼女を助けてくれ。頼む。……もしお前が死ぬのなら、俺も一緒に逝く。だから、お願いだ」
その時の彼は、絶望と悲しみの果てに、どこか病的なまでに追い詰められていた。
縋り付くような低い声で、彼は結衣に何度も哀願を繰り返す。
紗良のために、これほどまでの醜態をさらす蓮の姿を、結衣は想像すらしていなかった。
ただ、あの女の顔が清香に似ているという、たったそれだけの理由のために。
諦めずに思い続けていれば、いつかは彼の頑なな心も溶かせる日が必ず来ると、結衣はずっと信じていた。
しかし今、かつて味わったことのないほどの激しい敗北感が、彼女の心を冷酷に締め上げた。
「……私の後を追うなんて、そんなこと必要ないわ」長い沈黙の後、結衣は声を絞り出した。
「もし私が生き延びることができたら、その時は……私と再婚して」
蓮は考える間もなく、即座に拒絶の言葉を叩きつけた。「ダメだ!」
彼はガバッと顔を上げ、結衣をじっと見つめた。「分かっているだろ、俺が愛しているのは清香なんだ。そんなことをして、一体何の意味があるっていうんだ?」
何の意味があるのか——。その答えなんて、自分でも分からなかった。
おそらく、共に過ごしたあの幸せな七年間の記憶があまりにも深く魂に刻まれてしまい、どうしても手放すことができないのだろう。
あるいは、ただ単に清香に負けたくないだけなのかもしれない。たとえ蓮の心は手に入らなくても、せめて彼の存在だけは自分の隣に繋ぎ止めておきたかった。
結衣は一歩も引かず、一点を射抜くような声で言い放った。「答えて。……受け入れるのか、しないのか。それだけを教えて」
蓮は奥歯を噛みしめ、絞り出すように唸った。「結衣……お前、人の弱みにつけ込んで、なんて卑劣な真似を」
「ええ、そうよ。嫌なら、今すぐここから立ち去りなさい」
結局、病院で一番の専門医たちは紗良の救命へと回され、結衣は別の医師団による手術を受けることになった。
麻酔薬が血管へと流れ込み、意識が闇に沈んでいく中、結衣の頭の中に、かつての記憶が淡く蘇る。それはまだ幸せだった頃、二人で事故に遭い、瓦礫の下に閉じ込められた時のことだった。
あの時、彼自身ももう限界だったはずなのに、救助隊に向かって必死に叫んでいたのだ。
「先に彼女を……結衣を助けてくれ!俺のことは、後でいいから!」
今となっては、それほど遠い過去の出来事が、まるで前世の記憶のようにさえ感じられた。
結衣はかろうじて一命を取り留めたものの、その体は以前にも増してボロボロになっていた。
主治医は検査結果を手に、重苦しい表情で告げた。「本来ならあと一ヶ月は持つはずでしたが、今回の海で溺れたことで、臓器の機能低下が急速に進んでしまいました。おそらく……」
結衣はその言葉の裏にある残酷な意味を察し、静かに問いかけた。「……私に、あとどれくらいの時間が残されていますか?」
「……二週間も、持たないでしょう」
医師の言葉を裏付けるかのように、結衣の体は一日ごとに目に見えて衰えていった。一方の蓮は紗良の側に付きっきりで、結衣の元へ一度も顔を出すことはなかった。
結衣はあえて、しばらくの間、蓮に連絡を取ることはなかった。ただ独りで、静かに式の準備を進めていた。
そして蓮さん当日、蓮はようやく姿を現した。
結衣は穏やかな笑みを浮かべて彼に歩み寄り、「行きましょう」と短く告げた。
式場となったのは、広大な敷地に佇む荘厳な邸宅だった。
会場には、数多くの招待客が詰めかけていた。
蓮の手を取り、中央ステージへと進む中、結衣の手のひらはじっとりと汗ばんでいた。それは、初めて彼と結婚した時よりもずっと激しい緊張だった。
「ねえ、蓮。この式、気に入ってくれた?」
かつて蓮は、自分たちの結婚はあくまで政略的なものに過ぎなかったと言っていた。式のすべてが型に嵌まったありきたりなもので、もしチャンスがあるなら、もう一度やり直したいのだと。
バラではなく、ひまわりで飾りたい。
結婚行進曲なんてベタすぎるから、いらない。
式は必ず夜に挙げて、最後には花火を打ち上げるんだ——。
結衣はそれらのこだわりを一つ残らず形にした。ウェディングケーキの味さえ、彼の好みに合わせたものだった 。
だが、蓮はそれをチラッと見ただけで、何の反応も示さなかった 。
結衣の胸に暗い影が落ちる。それでも、彼女はすぐさま顔を上げ、眩しいほどの笑みを浮かべた 。
ステージの中央に立ち、司会者の祝辞がようやく終わると、いよいよ指輪交換の儀が始まった 。
「それでは蓮様。あなたは結衣様を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、彼女を永遠に愛し、敬い、守り抜くことを誓いますか……」
その問いが終わった瞬間、結衣は思わず息を止めた。彼女の瞳は、蓮が司会者から指輪を受け取り、自分の方へと向き直るその動き一つひとつに釘付けになっていた 。
「……蓮」彼女は愛おしげにその名を呼び、期待に胸を震わせながら、そっと手を差し出した 。
蓮と結衣は数秒の間、言葉もなく見つめ合った 。彼が結衣の指に指輪をはめようとしたまさにその時、紗良が会場へと乱入してきた 。
「蓮さん、お願いだからその人と結婚しないで!」
結衣の表情は一瞬で凍りつき、冷徹な声が会場に響いた。「その女を今すぐ追い出しなさい!」
だが紗良は怯むどころか、激しい口調で結衣に食ってかかった。
「浅見社長、蓮さんは私を助けるために、あなたに無理やり再婚を強いられただけじゃない!愛してもいない女と結婚する彼を、ただ黙って見ることなんて私にはできない。……今ここで、あなたにこの命を返してあげるわ」
そう叫ぶなり、彼女は手に持っていた正体不明の液体を一気に飲み、空になった瓶を床へ激しく叩きつけた 。
瓶のラベルに気づいた誰かが、悲鳴のような声を上げた。「大変よ、彼女が飲んだのは猛毒の薬だわ!」
蓮はステージから飛び降りるようにして、彼女の元へと駆け出した 。
紗良の言葉を聞いた蓮の顔からは完全に血の気が失せ、結衣を射抜くその瞳には、もはや骨の髄まで凍りつくような憎悪しか残っていなかった 。
「……これで満足か?」
結衣は何も言わず、目の前の凄惨な光景を見つめながら、ただ唇をきつく噛みしめていた 。
第4話
蓮はすぐさま、大急ぎで119番に通報した。
救急車が来るのを待つ間、彼は紗良をその腕に抱きかかえ、鋭い視線を突き刺すように結衣を睨みつけた。
「さっきの質問を、今答えてやる。……俺は、嫌だ」
結衣の瞳が、わずかに震えた。
蓮は指輪を床へと投げ捨て、そらすことなく結衣を見つめ返した。怒りのあまり、彼の言葉はもう誰にも止められないほど残酷なものになっていた。
「もし選べるのなら、たとえ一生独りで死ぬことになったとしても、お前と再婚なんて絶対にしない」
それだけでは飽き足らず、大勢の招待客たちの前で、蓮はさらに追い打ちをかけるような一言を吐き捨てた。
「結衣……お前と過ごしたあの七年間の結婚生活こそが、俺の人生で一番の後悔だ」
周囲からの冷ややかな視線と嘲笑まじりの囃し立てが、一斉に結衣を包み込んだ。
だが、今の結衣にはそんな騒音すら耳に届かなかった。ただ信じられないという思いで、呆然と蓮を見つめていた。「……今、なんて言ったの?」
「言ったはずだ」蓮は射抜くように見据え、言葉の一つひとつを心に叩きつけるように繰り返した。「俺の人生で一番の後悔は、お前のような女と七年もの時間を無駄にしたことだ!」
その残酷な言葉がようやく現実のものとして突き刺さったのか、結衣は膝の力が抜け、よろめくように一歩後ずさった。
……そして次の瞬間、彼女の口から真っ赤な血が激しく噴き出した。
意識が遠のき、その場に崩れ落ちる瞬間、結衣の目に映ったのは、真っ青な顔をしてステージへと駆け寄ってくる両親や親族の姿だった。 その一方で、蓮は一度も振り返ることなく、紗良を抱きかかえたまま会場を去っていった。
二人の結婚式は、結局のところ、あまりにも滑稽で無残な笑い話となり、人々の好奇の目に晒される格好の噂の種に成り果ててしまった。
結衣は、もう二度と目が覚めることはないだろうと、心のどこかで確信していた。
しかし、再び意識を取り戻した彼女は、ただ静かに天井を見つめたまま、長い間、物思いに沈んでいた。
蓮が最後に言い放ったあの冷酷な言葉が、いつまでも頭の中で鳴り止まない。
それを思い出すたびに、鋭い刃で生身の心を切り刻まれているような、言葉にできない苦痛が結衣を苛んだ。
共に寄り添い、歩んできた二千日以上の歳月。
生死を分かつような絶望的な状況でさえ、かつては互いの命を懸けて守り合ったはずだったのに。
結衣の胸が、一瞬だけ激しく波打った。
かつてのあの、胸を焦がすような愛までもが、すべて嘘だったというの?
信じられない。
蓮が、本気であの七年間を後悔しているだなんて…… 結衣には、どうしても信じられなかった。
結衣は傍らに控えていたアシスタントに視線を向け、静かに口を開いた。「……一つ、頼みたいことがあるの」
それから間もなくして、USBメモリが蓮の元へと届けられた。
その中には、結衣と蓮がこれまでの歳月の中で大切にしてきた思い出がたくさん詰まっていた。
蓮はかつて、清香に似た面影を持つ紗良を見ただけで、かつての記憶を呼び覚まされた。
だから結衣は信じていた。これらを目にすれば、二人の歩んできた過去を、蓮も必ず思い出してくれるはずだと。
これまでは、すべてを思い出した蓮が、どちらを選ぶべきかという苦しみに苛まれるのが見ていられなくて、あえて何も言わずにいた。
でも、今の結衣は、たとえ自分勝手だと思われようと、彼にすべてを思い出してほしかった。そして、「後悔なんてしていない」と、そう伝えてほしかった。
あの言葉を取り消してくれさえすれば……。自分はまだ、この命を繋ぎ止めておける気がした。
箱の中には、不格好な手作りの陶器のマグカップや、どこかの観光地で買ったお揃いのストラップ、そして色あせたペアの映画の半券が入っていた。
それらを目にした瞬間、蓮の視線が止まった。
結衣と過ごした日々の断片が、不意に脳裏をかすめる。
だが次の瞬間、紗良が何気ない様子でパチンと指を鳴らした。「蓮さん、それ、なあに?」と、甘い声で問いかける。
その音とともに、蘇りかけていた記憶は一瞬で霧散し、跡形もなく消え去った。
蓮はどこかぼんやりとした様子で首を振ると、無造作に箱の中身をかき混ぜた。
「……ただの、くだらないガラクタだな」
彼は興味を失ったように視線を逸らすと、皮肉めいた笑みを浮かべてアシスタントを見た。
「浅見家もいよいよ破産か? こんなゴミを送りつけてくるとは。ここは不用品回収所じゃないんだぞ」
アシスタントは言葉を飲み込み、縋るように問いかけた。「……本当に、何も思い出せないのですか?」
「何もない」
食い下がるアシスタントは、今度はUSBメモリを差し出した。「では、こちらだけでも見ていただけませんか?」
蓮はそれを受け取ることすらせず、そのままゴミ箱へと放り捨てた。
「結衣に伝えろ。無駄な真似はやめろとな。催眠を成功させるには、本人の『忘れたい』という強い願いが必要なんだ」
「つまり俺が彼女のことを忘れたのは、出会ったことを心の底から後悔していたからに他ならない」
病院のベッドの上で、結衣はずっと病室の入り口を見つめていた。
ようやくドアが開いたが、思い描いていたように蓮が駆け込んでくることはなかった。戻ってきたのは、アシスタント一人だけだった。
結衣の瞳の光が、見る間に弱まっていく。
「……思い出しては、くれなかったの?」
アシスタントはかける言葉が見つからず、長い沈黙の後、ようやく蓮の反応と、彼が吐き捨てた残酷な言葉をそのまま伝えた。
それを聞き終えた結衣は、長い間、何も言わなかった。
これまでずっと、彼女の心を支え、生へと繋ぎ止めていたのは、あの七年間という記憶だけだった。
だというのに……
不意に心の奥底が崩れ落ち、底知れぬ虚無感が押し寄せてきた。結衣は喉をかきむしるように、肺がちぎれそうなほど激しく咳き込んだ。
混濁していく意識の中で、彼女はようやく悟った。
自分の抱き続けてきた執着は、最初から最後まで、ただの滑稽な笑い話にすぎなかったのだと。
清香には勝てず、その身代わりにすぎない紗良にさえ及ばない。その現実を、もっと早くに見極めるべきだったのだ。
まるで運命が追い打ちをかけるように、国際天文学連合から一本の電話が入った。
「浅見様、大変申し上げにくいのですが……以前、ご主人様と共に購入されたあの星が、三日後に消滅することになりました」
その瞬間、結衣の心から、すべての重荷がふっと消えていった。
第5話
一方、結衣のアシスタントを追い返した蓮は、掃除に来ていたスタッフにあの箱を無造作に押しつけた。
「これ、捨てておいてくれ」
その様子を見ていた紗良の口元には、満足げな笑みがかすかに浮かんだ。 だがすぐに心配そうな表情を作ると、蓮に問いかけた。「蓮さん、こんなことをして……浅見社長にまた何かされるんじゃないかしら?」
「俺のことは心配しなくていい」
蓮は微笑みながら、紗良の髪を優しく撫でた。
「それより紗良の方だ。あんな無茶なことは二度としないでくれ。処置が少しでも遅れていたら、命を落としていたんだぞ」
紗良が毒を飲んだ瞬間の光景を思い出すだけで、蓮の心は今も恐怖で震える。
「でも……」紗良の瞳に涙が浮かぶ。「私のために、蓮さんが望まない結婚をするなんて耐えられなかったの」
蓮は何も言わなかった。本音を言えば、自分だって結衣と再婚などしたくはなかった。
だが、結衣は目的のためなら手段を選ばない狂った女だ。下手に逆らえば、容赦なく桐生グループに牙を剥くだろう。
ここ数年、経営が思わしくない桐生グループに対し、浅見グループの勢いは留まるところを知らなかった。
数日後、蓮は迷った末に、やはり結衣の元を訪れた。
結衣はもう自分の足で立つことさえできず、車椅子に深く身を預けていた 。
その姿を目にした瞬間、蓮は思わず息を呑んだ。「……どうしたんだ、その体は」
車椅子を押していたアシスタントが、思わず声を震わせた。「社長は、あなたのせいで……」
だが、結衣はそっと手を挙げ、それ以上は言わせなかった。
一ヶ月前、蓮が拉致された際、彼を救い出した結衣は正体不明の薬物を注射されていた 。
それは、この世に存在しない新型の猛毒だった。
一度体内に入れば、二ヶ月も経たないうちに、逃れられない激痛の中で命を落とすことになる 。
かつての結衣は、どれほど彼を繋ぎ止めたくても、この件を切り札にして同情や愛を乞うような真似はしなかった 。すべてを諦めようとしている今なら、なおさら伝える必要などない。
「なんでもないわ。少し不注意で怪我をしただけよ」結衣は淡々と、静かに答えた。
蓮は、彼女が結婚式で吐血したことを言っているのだと思い込み、鼻で笑った。「相変わらず、大げさなやつだな」
彼は少し言葉を切り、続けた。「お前が望むなら、式の続きを挙げてもいい」
かつての結衣なら、その言葉に震えるほどの喜びを感じていただろう。だが今、その心にはさざ波一つ立たなかった。
彼女は思わず胸元をそっと押さえた 。
諦めるということは、本当にあっけないほど一瞬のことだったのだ。
「いいえ、いらないわ」結衣は伏せ目がちに言った。「安心して。桐生グループには、もう手出しはしないから」
あまりにも意外な返答に、蓮はしばらく呆然としていた。
「……つまり、再婚しなくていいということか?」信じられないといった様子で、彼は問い返した 。
結衣は彼の瞳をまっすぐに見つめた。「ええ。ただ、今夜の二時までに蒼桐山の山頂に来て。そうすれば、もう二度とあなたに付きまとったりしないわ」
結婚を無理強いされることに比べれば、そんな条件など取るに足らないことだ。蓮はそれを承諾した。
夜の九時、結衣は蒼桐山の山頂に到着した。
天文学連合によれば、かつて蓮と一緒に名付けたあの星は、深夜二時に消滅するという。ここ蒼桐山は、その最期を見届けるのに最高の場所だった。
結衣は、無数の星が瞬く夜空を遠く見つめた。
ずっと前、結衣と蓮の間には子供がいた。
けれど、その子は二歳の時、骨の癌でこの世を去ってしまった。
子供を忘れないために、二人は星の命名権を買い、愛する我が子の名前を付けたのだ。
「蓮、見て。あの子は星になって、空から私たちを見守ってくれているわ」
なのに今、あの子はまた自分たちの元から永遠に離れていこうとしている。
結衣は喉の奥が締め付けられるような痛みを感じた。最後くらい、蓮と一緒にちゃんとお別れをしたかった。
しかし、深夜二時になり、星が空から零れ落ちるように消えていっても、蓮が姿を現すことはなかった。
空が白み始めた頃、彼はようやく遅れてやってきた。
「すまない、紗良の具合が急に悪くなって……。看病をしていたら、遅くなってしまった」
結衣は何も言わなかった。朝露に濡れた服をまとい、薄暗い空の下でポツンと座る彼女は、まるでこの世に成仏できなかった亡霊のように孤独だった。
なぜか、蓮の胸にチクリとした痛みが走った。それは、久しく忘れていた罪悪感だった。
「……それなら、明日の夜にまた一緒に来ようか?」
「いいえ、もういいの」 結衣はふっと笑った。その瞳の奥には、もはや言葉にできないほど深い感情が瞳に揺れていた。「蓮……あなたはもう、自由よ」
そう言い残すと、結衣は彼と目を合わせることなく、車椅子を自ら動かして山を下り始めた。
蓮は眉をひそめた。その言葉を信じることはできなかったが、遠ざかっていく彼女の背中を見ていると、今度こそ本当に終わってしまうのだという予感に襲われた。
思わず、彼は叫んでいた。「結衣!」
結衣にはその声が聞こえていたが、決して振り返ることはなかった。
これが、彼と顔を合わせる最後になる――結衣は心の中で、そう静かに決めていた。
第6話
結衣は、蓮とこれほど早く再会することになるとは思ってもみなかった。
翌日、アシスタントが興奮に声を震わせながら、知らせを持ってきた。
「社長……あなたの体にある毒の出所が分かりました!」
「海外のある研究所で開発された新型の毒物で、少し前にスタッフの一人が盗み出したそうです」
アシスタントは大きく息を吸い込み、言葉を継いだ。「そのスタッフというのが……白河紗良だったんです!」
結衣の表情が、一瞬で鋭くなった。
つまり、一ヶ月前に蓮を拉致したのは紗良だったのだ。
おそらく、彼女と蓮の運命的な出会いさえも、最初からすべて仕組まれた計画の一部にすぎなかったのだろう。
「……彼女はどこ?」結衣は低い声で問いかけた。
「すでに捕らえさせました。地下室にいます」
三十分後、結衣は自宅の地下室で、激しく抵抗する紗良と対峙していた。
「今すぐここから出しなさい! 蓮さんに知られたら、あなたたち、ただじゃ済まないわよ!」
結衣は冷え切った瞳で、騒ぎ立てる女を見つめた。「一ヶ月前、蓮を拉致して私に毒を打ったのは……あなたね」
紗良の顔色が一変した。だが、すぐさま声を荒らげてしらを切った。「……何のことか、さっぱり分からないわ」
「いいわ。今から思い出させてあげる」
結衣の言葉が終わるか終わらないかのうちに、誰かの蹴りが紗良の腹部へとめり込んだ。
紗良の口から苦悶の悲鳴が漏れる。
それからしばらくの間、静まり返った地下室には、彼女の絶叫だけが響き渡った。
どれほどの時間が経っただろうか。結衣はようやく手を止めさせると、ボロボロになり、血の気が引いた紗良の前に車椅子で進み出た。そして、逃げ場のない視線で冷酷に見下ろした。
「……そろそろ、話す気になったかしら?」
紗良の体は、激しく震えていた。
目の前にいる結衣は、病に侵され、今にも死にそうな姿をしているはずなのに。紗良は、骨の髄まで凍りつくような恐怖が、自分の手足を侵食していくのを感じていた。
「私は……」
彼女がようやく口を開きかけた、その時だった。 一つの人影が、凄まじい勢いで地下室へと飛び込んできた。
パシンッ――
乾いた音が地下室に響き渡り、結衣の頬にはくっきりと手形が浮かび上がった。
蓮は怒りのあまり全身を震わせ、その瞳には底知れぬ殺意が宿っていた。
「結衣……お前という女は、どこまで虫酸が走る真似をすれば気が済むんだ。自由にしてやると言いながら、裏では俺の大切な人を拉致するなんてな!」
口の中に、鉄の味が広がっていく。
結衣は指先で口角に滲んだ血を拭うと、一瞬で周囲を圧するような鋭い気配を放った。
怒りに燃える蓮の視線を真っ向から受け止め、彼女は低い声で言い放った。「……紗良があなたを拉致した犯人だと知っていて言っているの?」
蓮の瞳が大きく見開かれた。彼は眉をひそめ、吐き捨てるように問う。「……証拠はあるのか?」
傍らにいたアシスタントが、すかさず調査資料を差し出した。
「桐生様、あの日あなたを救い出したのは、他の誰でもない浅見社長です」
「犯人との激しい争いの末、逃げ際の犯人に毒の注射を打たれたのも、社長です」
「そしてその毒は、間違いなく白河紗良が手に入れたものだという裏付けが取れています!」
蓮は資料に目を通したが、次の瞬間、嘲笑うかのようにそれを投げ捨てた。
ひらひらと舞い落ちる紙片の中で、彼の瞳はさらに冷たく凍りついていく。
「……これっぽっちの紙切れが証拠だと?」
「結衣、相変わらずいい加減な嘘を並べるのが得意だな。紗良が研究所から毒を盗んだことは、とっくに俺に話してくれたし、目の前で破棄するのも確認している」
「それに」と、彼は残酷な言葉を重ねた。「あの時、俺を救ってくれたのは紗良だ。お前なわけがないだろう?」
結衣の表情が、一瞬で凍りついた。視線を紗良へと向けると、彼女は蓮に見えない位置で、勝ち誇ったような挑発的な笑みを浮かべていた。
……すべて、先回りされていたのだ。
結衣は再び蓮に視線を戻した。「……つまり、私を信じないというのね?」
「信じろと言う方が無理だ」蓮の言葉には、ひとかけらの慈悲もなかった。
結衣は何も言わなかった。
かつての彼は、「結衣、何があっても俺は君だけを信じるよ」と言ってくれていたのに。
今、彼は誰よりも残酷に自分の対極に立っている。
これ以上の皮肉があるだろうか。
結衣の口元に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。彼女は冷徹な声で命じた。「……続けなさい」
どんなに口の固い奴でも、吐かせられない秘密などない。
「蓮さん、助けて!」紗良が悲鳴を上げた。
それとほぼ同時に、蓮もまた絶叫した。「浅見結衣!」
結衣が振り返ると、そこには自分の頸動脈に果物ナイフを突き立てている蓮の姿があった。
「結衣、これ以上紗良に指一本でも触れてみろ。今すぐ、お前の目の前で死んでやる!」
覚悟を証明するかのように、彼がナイフを強く押し当てると、鮮やかな赤がその首筋を伝い落ちた。
「桐生様、その毒のせいで社長の命はもう……! 無駄にできる時間なんてないんです!」アシスタントが悲痛な声を上げる。
「この女がそばにいるのは、絶対に何か目的があるからだ!」
だが、蓮は全く取り合おうとしない。
結衣は、彼の首筋を流れる、目に刺さる赤を、ただじっと見つめていた。
長い間、空気は凍りついたように静まり返った。
やがて結衣は、ゆっくりと瞼を閉じた。「……失せなさい」
蓮は警戒を解かずに動かない。
「消えなさい!」結衣の声が地下室に響き渡った。
蓮はすぐさま紗良を引き寄せ、逃げるように地下室を去っていった。
遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、結衣の唇がわずかに動いた。 「蓮……いつか後悔する日が来ないことを、願っているわ」
第7話
目の前で紗良が逃げ去るのを黙って見送るしかなく、その屈辱と憎しみで、結衣の心は押しつぶされそうだった。
表情こそ平穏を装っていたが、その内側では荒れ狂う海のように激しい感情が渦巻いている。
蓮が去って間もなく、彼女は力尽きたように車椅子の上で意識を失った。
今回の発作は、かつてないほど激しいものだった。
処置室からは、ひっきりなしに危篤の知らせが次々と伝えられ、ついには浅見家の人々が全員駆けつけるほどの事態となった。
廊下の向こう側。一号処置室の前のただならぬ騒ぎを、蓮は眉をひそめて見つめていた。
そこには、結衣の両親らしき姿も見える。
……結衣の体は、本当にそこまで酷いのか?
蓮の心臓がドクリと跳ねた。思わず立ち上がり、様子を見に行こうとしたその時、隣から押し殺したような紗良の呻き声が聞こえてきた。
踏み出そうとした足が止まる。蓮は慌てて振り返り、紗良の体を支えた。
「どうした? どこか痛むのか」
紗良は顔を蒼白にさせ、「胸が……。きっと肺まで傷ついてしまったんだわ」と苦しげに呟いた。
言うなり、彼女はどす黒い血を激しく吐き出した。
蓮の顔色が変わり、すぐさま医者を呼びつけた。「さっきの検査では、肋骨が折れているだけだと言ったじゃないか!」
彼は申し訳なさに眉を寄せ、紗良を抱き寄せた。「すまない……結衣がここまで紗良にひどいことをするなんて、思わなかったんだ」
紗良の瞳の奥にどろりとした憎悪がよぎったが、口から出たのは別の言葉だった。「蓮さん、自分を責めないで。あんな狂った女に関わってしまったのが運の尽きだわ」
彼女は逆に蓮をなだめるように言った。「蓮さん、急ぎの用があるんでしょう? 私は大丈夫だから、行って。ただ……」
「……どうして結衣さんがあそこまで私を犯人だと決めつけるのか、それが怖いの。また酷いことをされるんじゃないかって」
それを聞き、蓮の罪悪感はさらに深まった。彼は力強く首を振った。
「いや、もうどこへも行かない。これからは片時も離れず、俺がそばにいてやる」
「あいつには、二度と紗良に手出しをさせないよう、釘を刺しておく」
彼は紗良を抱き上げると、「行こう。もう一度、ちゃんと診てもらおう」と告げた。
検査室に入る直前、蓮は遠くで人々がひしめき合っている廊下を一度だけ振り返った。
……いや、よそう。
結衣のような執念深い狂った女なら、たとえ死んだとしても自業自得だ。
それに「憎まれっ子世に憚る」と言う。あいつのことだ、そう簡単にくたばりはしないだろう。
蓮から見えない角度で、紗良は満足げにほくそ笑んでいた。
彼女は先ほど自分でわざと抉った傷口をそっと撫で、心の中で呟く。――事前に手を打っておいて正解だったわ。
だが、と紗良は目を細めた。
……一刻も早く、あの女を確実に死に追いやる方法を考えなくては。
結衣が目を覚ましたとき、自分の目が、もう何も見えなくなっていることに気づいた。
だが、彼女はその事実を驚くほど冷静に受け入れた。「……あと、どのくらい持つかしら?」
主治医は眼鏡のブリッジを押し上げ、重苦しい表情で告げた。「……緩和剤が見つからない限り、あと二日の命でしょう」
海外の研究所から流出したあの毒には、未だ対応する解毒剤が存在しない。
それどころか、その毒に関する一切のデータさえも、紗良によって盗み出された後だった。
「唯一の方法は、白河紗良から強引に資料を奪い取ることですが……」
傍らに控えていたアシスタントが報告を続けた。「ですが、桐生様がつきっきりで彼女を自宅から出そうとしません。その上、二十名を超えるボディーガードを雇って周囲を固めています」
「社長、人を向かわせて強行突破を試みますか?」
だが、結衣はその提案を静かに、力なく首を振って拒んだ。
蓮の自宅に力ずくで乗り込んで、紗良を引きずり出すことも、不可能ではない。
だが、もし大人数での殴り合いや乱闘騒ぎに発展すれば、取り返しのつかない社会問題になってしまう。
いくら力のある浅見家とはいえ、その責任は負いきれない。
「最後の手は、白河紗良が何かを企んでいる確かな証拠を掴んで、桐生様に自分から彼女を引き渡させることですが……それにはどうしても時間がかかります」
だが、今の結衣に最も足りないのは、その時間だった。
絶望がじわじわと病室に広がり、誰も口を開こうとはしなくなった。
結衣はそっと唇を噛み、窓の方へと顔を向けた。
焦点の合わない彼女の瞳には、窓の外から差し込むわずかな光が、ぼんやりと映り込んでいる。
以前の自分なら、これが運命だと諦めていただろう。
けれど、すぐそこに生きられる望みがあるのに、それを蓮に邪魔されているのだ。怒りや憎しみが湧かないはずがなかった。
蓮……もし後になって、自分がある人のたった一つの生きる道を閉ざしたのだと知った時、あなたは一ミリでも後悔してくれるのかしら。
結衣は自嘲気味に、力なく口角を上げた。 ――でも、彼が後悔しようがしまいが、もうどうでもいい。その答えを知る機会なんて、自分にはもう訪れないのだから。
結衣のスマートフォンが、不意に短く鳴った。
まるで、ようやく運命が彼女に微笑みかけたかのようだった。メッセージを見たアシスタントは、全身を震わせ、歓喜の声を上げた。 「社長……! 研究所が、あの毒の成分を完全に解明したそうです!」
結衣はハッと顔を向けた。
アシスタントは興奮で上ずった声のまま、彼女にスマートフォンを差し出した。「あと二日あれば、解毒剤が作れるって言っています!」
病室にはまず、親族たちの歓声が響き渡った。続いて、安堵のあまり堪えきれずに泣き出した両親の、絞り出すような泣き声が漏れ聞こえてくる。
結衣の顔にも、ゆっくりと、だが確かな希望の笑みが浮かんだ。
絶望の淵から、ようやく光が見えた――彼女は今、まさにその実感を噛み締めていた。
「でも、社長。研究所が、最新の血液サンプルと体の詳細なデータが必要だと言っています」 アシスタントが笑顔で促すと、
結衣は静かに頷いた。
間もなくして、結衣は車椅子に乗せられ、検査を受けるために病室を出た。
だが、検査室へと向かう廊下の途中で、背後と頭上から突然、居合わせた人々の悲鳴と叫び声が響いた。
「危ないっ!」
その絶叫が耳に届くのとほぼ同時に、鋭い刃が結衣の腹部へと深く突き立てられた。
結衣はまず、ひやりとした冷たさを感じた。その直後、腹部の奥から激痛が走り、彼女の呼吸を奪い去った。
第8話
結衣の目には何も見えなかった。だが、自分に刃を突き立てたのが誰なのか、瞬時に悟った。
「……蓮?」
絶望が波のように押し寄せ、喉はひりついて声にならない。「どうして……?」
「清香の墓を掘り返すなんて……。結衣、よくもそんな真似ができたな」 蓮の冷酷極まりない声が、目の前で響いた。
結衣は力なく口を開きかけた。これもきっと、紗良の仕業に違いない。
だが、あまりの激痛に、一言も説明することができなかった。
……いや、もう説明する気力すら、残っていなかったのだ。
蓮は結衣の沈黙を「認めた」のだと受け取り、瞳の奥に恐ろしいほどの怒りを燃え上がらせた。
彼は結衣の耳元に顔を寄せた。その囁きは、まるで恋人に囁きかけるように甘く、だがその内容は、この上なくおぞましい呪いだった。
「結衣……あの世に行って、清香に詫びを入れろ
お前のような人でなしは、地獄のどん底まで堕ちるのがお似合いだ。
安心しろよ。お前が死んだ後は、二度と生まれ変わってこられないように、仏様の前で毎日祈ってやるからな」
言い終えるなり、突き立てられていた刃が、容赦なくその体から引き抜かれた。
次の瞬間、傷口から鮮血が激しく噴き出した。
結衣はこらえきれず、苦悶の声を漏らした。そのまま意識は深い闇へと沈んでいく。
だが、いつもならそのまま眠り続けるはずの意識が、今回に限っては、恐ろしいほどの鮮明さですぐに目覚めた。
続いて彼女の耳に届いたのは、医師の重苦しい宣告だった。 「……もう、手遅れです。今の浅見様の状態では、手術に耐えられるだけの体力は残っていません」
それと同時に、両親の激しい怒鳴り声と、身を切るような泣き声が響き渡った。
それを聞きながら、結衣は心の中で、声にならない絶望の叫びを上げた。
この瞬間、彼女は蓮を心の底から憎んだ。
あと少し……。あと少しで解毒剤が手に入り、健康な体を取り戻せたはずなのに。
「社長……」 すぐそばで、アシスタントが震える声で呼びかけた。
結衣はわずかに首を動かした。「……蓮は?」
「……混乱に乗じて、どこかへ立ち去りました」
結衣は小さく「そう」とだけこぼすと、力なく、だがはっきりとした口調で命じた。 「私の首にかかっている……このお守りを、外して」
アシスタントは言われた通り、そっとその紐を解いた。
しばらくして、血に染まったあのお守りが結衣の手のひらに戻された。
結衣は指先で、そのなめらかな感触をゆっくりとなぞった。
このお守りは、数年前、蓮がわざわざ寺を訪れ、膝をついて祈り、手に入れてきてくれたものだ。
あの時の彼はこう言った。「結衣がずっと、穏やかで幸せでいられるようにって、仏様にお願いしてきたよ」だというのに、
今、同じ神仏に彼女が地獄へ落ちるよう願っているのも、また彼なのだ。
唇から、乾いた笑いがこぼれた。結衣はそっと指の力を抜いた。「……これ、あの人に返してあげて」
生きている間も、死んでからも、もう二度と交わることのない運命。
アシスタントはたまらず声を震わせた。「社長、諦めないでください! 解毒剤はもうすぐ完成しますし、白河紗良の正体も暴けそうです。すべてが明らかになれば、また桐生様とやり直せるチャンスだって……」
だが、結衣は力なく微笑むだけだった。「いいのよ。真相が分かったら、それを蓮に届けてあげて」
「私からの、ささやかな誕生日プレゼントだって言ってね」
それは、彼女が蓮に残せる、最後で唯一の復讐だった。
アシスタントはなおも言葉を続けようとしたが、結衣は疲れ切ったように、静かに瞼を閉じた。
迷った末、アシスタントは病室を飛び出し、蓮の番号を呼び出した。
「桐生様、社長がもう……! 今すぐ来てください、最期なんです!」
電話の向こうの蓮は、まだ怒りが収まらない様子だったが、その言葉を聞いてわずかに動揺を見せた。
「……何だと?」
だが、その横から紗良の冷ややかな笑い声が聞こえてきた。
「まあ、あの女もずいぶんと古い手口を使うのね。そんな見え透いた嘘で気を引こうなんて、お里が知れるわ」
蓮は我に返った。清香の墓を掘り返したと聞いた時は、確かに怒り狂って彼女を殺してやりたいとさえ思った。
だが、刺した瞬間、彼は無意識に急所を外していたはずだ。死ぬような傷ではない。
瞳に宿ったわずかな不安は、再び冷たい殺意に塗り潰された。
「死んだらまた連絡しろ」蓮は突き放すように言った。「葬式になら、出てやってもいい」
「本当なんです、社長はもう……!」
必死の訴えも虚しく、冷え切った機械的なビープ音が響くだけだった。
アシスタントは唇を噛み締め、画面に表示された番号を睨みつけた。――いつか必ず後悔させてやる。
そう心に誓って結衣の元へ戻ったが……「社長、桐生様に電話しました。彼は……」
ふと見ると、結衣の手は力なくベッドに投げ出され、彼女はいつの間にか、静かに息を引き取っていた。
結局、彼女は蓮のことなど、一秒たりとも待つつもりはなかったのだ。