夫が娘の心臓を奪った日

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夫が娘の心臓を奪った日

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私、広中紗穂(ひろなか さほ)の娘・広中葵(ひろなか あおい)には、生まれつき心臓の病があった。 五年ものあいだ待ち続け、私はようやく、...

Chương (1)

第1章

私、広中紗穂(ひろなか さほ)の娘・広中葵(ひろなか あおい)には、生まれつき心臓の病があった。 五年ものあいだ待ち続け、私はようやく、葵に適合する心臓を見つけた。 手術室に入る前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は目を赤くしながら、私に約束した。 「紗穂、安心してくれ。必ず俺の手で、葵を助けてみせる」 けれど、手術が半ばまで進んだところで、優一は何の説明も残さず、慌ただしく姿を消した。 嫌な予感に突き動かされ、私は足をもつれさせながら手術室へ飛び込んだ。 そこで目にしたのは、胸を開かれたまま、血に染まって横たわる葵の姿だった。 夫の助手の医師は、青ざめた顔で言葉を詰まらせた。 「広中先生が……葵ちゃんはまだ待てる、と。でも相川さんの息子さんは待てないからと、葵ちゃんに移植するはずだった心臓を持って出ていかれました……」 私はその場に崩れ落ち、震える手で何度も優一に電話をかけた。 けれど、葵の命が尽きるその瞬間まで、電話がつながることはなかった。 葵の遺体の処置を待つあいだ、私は優一のかつての教え子・相川律子(あいかわ りつこ)がSNSに上げた投稿を見てしまった。 【誤診だったみたい。大したことなくて本当によかった。せっかくだから、もう必要なくなったこれは、クロへのご褒美にしちゃおう】 動画の中で、律子の犬は、葵のものになるはずだった心臓に噛みつき、夢中で引き裂いていた。 冷たくなった葵を見つめた瞬間、私はようやく悟った。 もう優一を許す理由など、どこにも残っていないのだと。 そして優一がようやく、手術台の上に残した娘のことを思い出したとき。 彼を待っていたのは、がらんとした部屋と、小さな位牌だけだった。 第1話 私は広中紗穂(ひろなか さほ)。 二時間前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は、娘の広中葵(ひろなか あおい)を手術台に残したまま、相川律子(あいかわ りつこ)のもとへ駆けつけた。 律子は、夫がいつも私たち母娘より優先してきた女だった。 二時間後、私は医師から差し出された死亡診断書を受け取り、震える手で死亡届の欄に名前を書いた。 葵は霊安室へ移され、私はそのストレッチャーの横を、ただ黙ってついて歩いた。 そのときになって、ようやく優一から電話がかかってきた。 通話がつながった瞬間、耳をつんざくような音楽が鼓膜を打った。 向こうはひどく騒がしく、優一の声は信じられないほど明るかった。 「紗穂?なんでこんなに電話してきたんだ。葵が俺に会いたがってるんじゃ――」 「どうして葵を手術台に残して、途中で出ていったの!?」 私は奥歯を噛みしめ、叫ぶように彼の言葉を遮った。 「優一、約束したじゃない。あなたの手で、葵を助けてくれるって……!」 電話の向こうで、優一が息をのむ気配がした。 けれど次に返ってきた声は、まるで大したことではないとでも言うように、ひどく軽かった。 「紗穂、ごめん。俺が悪かった。でも律子のほうが本当に緊急だったんだ。どうしても放っておけなかった。心配するな。新しいドナー心臓の目処はもうついてる。二、三日中には手術を組めるから」 二、三日中? 彼は忘れてしまったのだろうか。 自分の娘が胸を開かれたまま、たった一人で手術台の上に残され、死を待っていたことを。 「優一、葵はもう……」 「優一さん!」 電話の向こうから、女の甘えた声が割り込んできた。 律子の声だった。 「拓馬が、クロの具合がまた悪いって言ってるの。早く見てあげて」 「悪い、紗穂。話は帰ってから聞く。律子の犬の具合が悪いらしい。先に診てくる」 「優一!」 返ってきたのは、ツーツーという空しい音だけだった。 すっかり血の気を失った葵の寝顔を見つめた瞬間、全身から力が抜けた。 私はその場に、崩れるように座り込んだ。 氷点下のように冷えきった霊安室にいるはずなのに、背中にはじっとりと嫌な汗がにじんでいた。 背筋に冷たいものが走り、胸の奥まで凍りついていくようだった。 葵が息を引き取る前に残した言葉が、耳元でよみがえる。 あの子は最後の最後まで、律子の息子・相川拓馬(あいかわ たくま)のことまで心配していた。 「ママ……パパがね、拓馬くんのほうが危ないんだって。助けに行かなきゃいけないんだって……葵、パパが戻ってくるまで頑張るから……だから、パパのこと怒らないで……」 けれど、葵が誰よりも大好きだった「パパ」は、いちばん助けが必要だったその瞬間に、あの子を見捨てた。 優一は、心臓外科では指折りの名医だった。 検査データを見れば、患者の状態くらいすぐに分かる。 だから律子の息子が誤診されていたことに、優一が気づかなかったとは思えない。 ただ、想いを寄せる女の前でいい顔をして、気を引きたかっただけなのだ。 これまでの私なら、見て見ぬふりもできた。 けれど今回は違う。 彼は、私たちの娘を死なせた。 意識がぼんやりとかすむ中、私はスマホを取り出し、父――竹中玄三郎(たけなか げんざぶろう)に電話をかけた。 泣き崩れる私の声を聞いた父は、痛みをこらえるような声で言った。 「紗穂、父さんは三日後には戻る。安心しなさい。あの連中には、必ず報いを受けさせる」 電話を切ると、私は冷たくなった葵を抱きしめた。 がらんとした霊安室に、私の泣き声だけがいつまでも響いていた。 葵は生前、賑やかな場所が苦手な子だった。 だから葬儀には、ごく親しい友人だけを呼ぶことにした。 第2話 葬儀の場で、優一を知る人たちはみな、娘を溺愛していたはずの彼が姿を見せないことに驚いていた。 参列者たちは心配そうに、次々と優一へ電話をかけた。 けれど、私には分かっていた。 その電話がつながるはずがないことを。 案の定、葬儀が終わるまで、優一が姿を見せることはなかった。 喉の奥にせり上がる嗚咽をこらえながら、私は出棺の前にもう一度だけ、葵の冷たくなった小さな手を握った。 父親でいる資格もないあの男に邪魔されなかったことは、葵にとって、むしろよかったのかもしれない。 そのまま納骨を迎えるはずだった。 けれど、霊園の職員が血相を変えて駆け寄ってきた。 「広中様、大変です。お嬢様のためにお選びいただいた墓所で、騒ぎを起こしている方がいまして……!」 一瞬、息が止まった。 私は足をもつれさせながら、葵のために選んだ墓所へ向かった。 そこにいたのは、職員の鼻先に指を突きつけ、声を荒らげている律子だった。 「あなた、ただの職員でしょう?どうして勝手に決めるの?」 「言っておくけど、ここは知り合いの風水師に見てもらったの。この霊園で一番いい場所だって言われたんだから。クロを納める時間に間に合わなかったら、あなたたち、ただじゃ済まないわよ!」 職員は困り果てた顔で、何度も頭を下げていた。 「申し訳ございません、お客様。こちらの墓所は、すでにご契約済みでして…… それに、恐れ入りますが、こちらは人のための霊園です。ペットの埋葬は承っておりません」 「ここを使わせるかどうか、あなたに決める権限なんてないでしょ。誰が契約したの?その人を呼んで。お金ならいくらでも払うから」 優一は律子をなだめながら、職員を見据えた。 「聞こえなかったのか。責任者を呼んでこい」 優一に味方されたことで、律子はさらに調子づいた。 彼女は優一に身を寄せたまま、次の瞬間、職員の頬を平手で打った。 「聞こえたでしょう?責任者を呼ぶか、この墓所を契約した人を連れてくるか、どちらかにしなさい。でないと……」 「それを契約したのは、私よ」 私は人垣を抜け、優一と律子のもとへゆっくり歩いていった。 私の姿を見た瞬間、優一ははっとしたように律子から身を離した。 そして、足早にこちらへ向かってくる。 目が合った瞬間、彼の瞳がかすかに揺れた。 「紗穂……?どうしてここにいる。葵のそばにいてやらなくていいのか。霊園なんかで何をしてるんだ」 そこでようやく、彼は私の言葉の意味に気づいたように眉をひそめた。 「待て。今、この墓所を契約したのはお前だと言ったのか?何のために?」 私はこみ上げてくる涙を必死にこらえ、顔を上げて彼を見た。 「優一、よく葵の名前を出せるわね。この墓所は、葵のために――」 「ああ、優一さん!早く拓馬を見て!」 律子の甲高い声が、私の言葉をかき消した。 「この子、顔色が真っ青なの。ねえ、早く!」 優一の目に浮かんでいた動揺は、一瞬で消えた。 彼はためらうことなく私から目をそらし、拓馬のもとへ駆け寄った。 優一は拓馬の顔色を確かめながら、できるだけ優しい声でなだめていた。 「大丈夫だ。怖くないからな。おじさんがいる。大丈夫だよ」 律子は勝ち誇ったように口元を緩めると、ゆっくりと私のほうへ歩いてきた。 その目は明らかに私を挑発しているのに、声だけはわざとらしいほどしおらしかった。 「ごめんなさいね、紗穂さん。まさかここをあなたが押さえていたなんて。……でも、今すぐ必要には見えないわよね?よかったら、私たちに譲っていただけないかしら。 うちのクロね、一昨日、変なものを食べてしまったの。あんな死に方をするなんて、本当にかわいそうで……拓馬もすっかり参ってしまって、この通り顔色まで悪くしているの」 「消えて」 私は顔を上げ、冷えきった声でそれだけを言った。 次の瞬間、律子の芝居がかった泣き声が霊園に響いた。 優一が勢いよく立ち上がり、大股でこちらへ歩いてくる。 私を見下ろす彼の声は、これまで聞いたことがないほど冷たかった。 「紗穂、葵のことで怒っているのは分かる。だが、それを律子にぶつけるな。拓馬の顔色を見ただろう。子どもがあんなに怯えているのに、お前は何とも思わないのか」 そう言うと、彼は霊園の職員に顔を向けた。 「この墓所は、妻には必要ない。相川さんに譲るから、必要な手続きを進めてくれ」 「ふざけないで!出ていって。あの女と、その子を連れて、今すぐここから出ていって!」 私が言い切った直後、優一の手が振り上げられた。 乾いた音が響き、頬に焼けるような痛みが走る。 「いい加減にしろ、紗穂!お前にはもう、うんざりなんだよ!」 第3話 「少しは事情を汲んでやれないのか!お前が使うわけでもないんだろ。だったら譲ってやればいいだけの話じゃないか!」 そこで、私の中で何かが切れた。 私は優一の襟元をつかみ、喉が裂けるほど叫んだ。 「葵のために用意した場所だからよ!葵は死んだの!あなたが手術の途中であの子を置いていったせいで、手術台の上で死んだのよ! それでも父親なの!?」 それまでざわついていた周囲が、私の言葉に一瞬で静まり返った。 優一は呆然とした顔で振り返り、墓石を見た。 けれど、その表情が崩れたのはほんのわずかな間だけだった。 すぐに彼は顔をしかめ、馬鹿にしたように笑った。 「紗穂、お前……そんな嘘までつくようになったのか。俺が二日戻らなかっただけで、今度は葵が死んだって? 昨日の夜、拓馬は葵と話していたんだぞ。それなのに、今日になったら死んでいた?さすがに無理があるだろ。 もういい。これ以上、相手にしていられない。うちに嫁いだ以上、勝手な真似は許さない。この墓所は律子たちに譲る」 そう言って、優一は職員へ視線を向けた。 「手続きを進めてくれ」 ほどなくして、職員は困り果てた顔で書類を差し出してきた。 「お客様、こちらにご署名をお願いいたします……」 私はその書類を破り捨てようと手を伸ばした。 けれど、優一のほうが早かった。 彼は私に詰め寄ると、容赦なく腹を蹴りつけた。 息が詰まり、体がその場に崩れかける。 その隙に、優一はポケットから小さなナイフを取り出し、私の親指の先を切りつけた。 痛みで指先が震える。 けれど彼は構わず、血のにじむ親指をつかみ、そのまま無理やり書類に押しつけた。 私は血走った目で優一をにらみつけた。 「優一、この人でなし……父が私をあなたに託したとき、あなたは何て約束したの?あなたは……」 言い終える前に、平手が私の頬を打った。 乾いた音が響き、視界が大きく揺れる。 「お前の父親のことを、いちいち持ち出すな。あいつの名前を出せば、俺が黙るとでも思ったのか?」 優一は吐き捨てるように続けた。 「はっきり言ってやるよ。俺はもう、お前にはうんざりなんだ。葵を産んでいなかったら、とっくに捨てていた。お前が俺の妻だと思うだけで、こっちが恥ずかしいんだよ」 そう吐き捨てると、優一は私を力任せに蹴り飛ばした。 そして片腕で律子を抱き寄せ、もう片方の手で拓馬を連れ、振り返ることなく去っていった。 たかが律子の犬一匹のために、優一はとうとう本性を隠そうともしなくなった。 彼は忘れているのだろう。 今の優一があるのは、すべて父の後ろ盾があったからだということを。 そこまで踏みにじるつもりなら、こちらも遠慮はいらない。 …… 霊園を出て、葵のいない家へ戻る途中、珍しく優一から電話がかかってきた。 その声には気まずさと、こちらの様子を探るような不安がにじんでいた。 「紗穂、もう何日も葵に会っていない。動画を撮って送ってくれないか。顔が見たいんだ……」 「分かった」 優一が言い終えるのを待たずに、私は電話を切った。 それから、以前撮っておいた葵の動画を一つ選び、優一へ送った。 すぐに、また優一から電話がかかってきた。 今度の声は、さっきまでとは打って変わって、どこか機嫌がよさそうだった。 「そうだよ、それでいいんだ。最初から素直にしていれば、俺だってお前にきつく当たらずに済む。 これからは、つまらない嫉妬で騒ぐな。さっきだって律子も拓馬も、お前のせいですっかり怯えていたんだ。明日は拓馬の誕生日だから、それが終わったら帰って葵のそばにいてやる。 それから、今日の霊園でのことは、このままにはできない。明日の誕生日会にはお前も来い。律子にきちんと謝るんだ。これからも顔を合わせることはある。これ以上、俺に恥をかかせるな」 「分かった。行くわ」 私は静かにそう答えた。 優一は一瞬、言葉に詰まった。 けれどすぐに、満足そうに笑った。 「そうだ。それでいい。お前は黙って言うことを聞いていればいいんだ。また明日な」 電話が切れたあと、私は家の中を見渡した。 葵の笑い声が消えた部屋は、ひどく広く、ひどく冷たかった。 もう、この家に未練はない。 私はそのまま背を向け、歩き出した。 さよなら、優一。