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愛の減点表、初恋を選ぶ夫を0点で捨てる
結婚して3年、佐々木慎也(ささき しんや)は佐々木麻美(あおき あさみ)が付けていた減点表を見つけた。 慎也が書斎の引き出しから何気なくそ...
Chương (1)
第1章
結婚して3年、佐々木慎也(ささき しんや)は佐々木麻美(あおき あさみ)が付けていた減点表を見つけた。
慎也が書斎の引き出しから何気なくその減点表を取り出したとき、麻美の心臓は止まりそうになった。
そこには、こう書かれていた――
【私の誕生日に、慎也はS国の初恋の人のもとへ行った。マイナス5点】
【慎也が初恋の人を迎えに空港へ行くため、私を高速道路に置き去りにした。マイナス10点】
【初恋の人に料理を作ってやるため、慎也は結婚指輪をなくした。マイナス10点】
……
こうした内容が綴られ、一番下の行には小さくこう書かれていた。
【100点が0になったら、離婚しよう】
第1話
結婚して3年、佐々木慎也(ささき しんや)は佐々木麻美(あおき あさみ)が付けていた減点表を見つけた。
慎也が書斎の引き出しから何気なくその減点表を取り出したとき、麻美の心臓は止まりそうになった。
そこには、こう書かれていた――
【私の誕生日に、慎也はS国の初恋の人のもとへ行った。マイナス5点】
【慎也が初恋の人を迎えに空港へ行くため、私を高速道路に置き去りにした。マイナス10点】
【初恋の人に料理を作ってやるため、慎也は結婚指輪をなくした。マイナス10点】
……
こうした内容が綴られ、一番下の行には小さくこう書かれていた。
【100点が0になったら、離婚しよう】
しかし、慎也の視線はその紙に留まることはなかった。
彼は一度も目を通すことすらなく、減点表を麻美に突き返した。「ここは大切なものを保管している場所だ。勝手に自分のものを置くな」
だが、本棚には和田莉子(わだ りこ)が学生時代に慎也に贈った本が並び、ガラスケースには莉子の手紙が収められている。さらにデスクの上に置かれている写真立てにも、彼らの高校の卒業記念写真が飾られているのだった。
それらこそが慎也にとっての「大切なもの」なのだ。
彼はそれらを丁寧に扱い、毎日何度も眺めていた。
一方で、麻美のものは全く眼中になかった。
だからこそ、麻美が去ろうとしていることも慎也は知らずにいた。
この時も麻美は緊張しながら減点表を握りしめ、うなずいた。彼女が立ち去ろうとしたその時、慎也のスマホが鳴った。それは彼の友人からの電話だった。
「慎也、大変だ!澄波ヶ丘が火事だ!莉子ちゃんもそこに住んでるだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、慎也の顔色が変わり、車の鍵を奪うように取って飛び出した。
一方、慎也の後ろ姿を数秒見つめながら、麻美はタクシーを止めて後を追った。
道中、慎也は赤信号を何度も無視して走り続け、そのスピードはタクシーも追いつかないほどだった。
それから火災現場に着くと、麻美も燃え上がる黒煙を目の当たりにして、言葉を失った。
片や、莉子がまだ助け出されていないと知るや、慎也は死に物狂いで突入しようとした。
だが、消防士や彼の友人が必死に止めた。「これ以上の突入は命に関わります!」
「慎也、冷静になれ!お前のパイロットの夢はどうなるんだ?怪我でもしたら終わりだぞ!」
しかし、そう言われても慎也は彼らを振り切って叫んだ。
「夢なんて知るか!莉子が無事でいてくれるなら、パイロットなんかにならなくてもいい」
こうして、黒煙の中に消えていく慎也の後ろ姿を見て、友人たちは溜息をつき、お互いを責めた。
「教えるなと言っただろ!慎也は莉子ちゃんのことになると何をするかわからないんだ!」
「そうはいっても、莉子ちゃんに何かあると慎也が黙っているわけがないのはお決まりだろ。高校で莉子ちゃんが教師に絡まれた時だって彼は職員室に殴り込んだし、数年前に連絡がつかなかった時だって彼は血眼になって探し回ったじゃないか……」
その話を聞き、麻美はようやく気づいた。冷静沈着な慎也も、愛する人のためにはここまで理性を失うのだなと。
その事実に、彼女の胸の中に言いようのない痛みが広がった。
ほどなくして、友人たちは麻美に気づき、バツの悪そうな表情をした。
「麻美さん……ええと、これはその……慎也は友達を助けに行っただけだから、誤解しないで」
「そうそう!彼は莉子ちゃんと幼馴染で、兄弟みたいなものだからな」
彼らが言い繕っているのを聞きながら、麻美は唇を噛み締めると、口の中には血の味が広がった。どうやらいつの間にか自分の唇を噛み切っていたのだった。
30分後、意識のない莉子を抱えて慎也が出てきた。
慎也の顔は煤だらけで、シャツも焦げていたが、莉子は無傷で守られていた。
莉子を救急隊員に引き渡した瞬間、慎也はその場で意識を失った。
それから、救急車で病院に向かう道中、震える自分の手を見つめながら、麻美は初めて慎也に会った日のことを思い出していた。
あの時彼女はまだ大学2年生。慎也は教授である父・青木翔(あおき しょう)の愛弟子だった。その時彼は凛々しい制服姿で、笑顔が輝いていた。その教壇に立つ姿はまるで眩い光を纏っていたかのようだった。
そんな慎也に麻美は一目惚れして、いつも彼の後ろを追っていた。
彼に惹きつけられた女性は多くいたが、慎也は頑なに誰にも心を許さなかった。
しかし、卒業を目の前にして翔は重病になり、慎也に一人娘の麻美を託したのだった。
慎也もその頼みを承諾した。
葬儀の後、麻美は慎也からプロポーズされた。
その時麻美は言った。「お父さんとの約束で私と結婚してくれたの?そんなことしなくていいのに……」
だが、慎也は答えた。「違う、俺が君と結婚したいと思ったんだ」
それを聞いて、麻美は自分の思いが彼にようやく通じたのだと思った。
だが、ある夜、酔った慎也を迎えに行くために飲み会に駆けつけた時、麻美は彼の友人たちの会話を聞いてしまった。
「麻美さんって本当バカだな。慎也のやつにずっと仄めかされて、尽くしてきたのに、彼の初恋の相手が他の男と結婚しちゃったせいで、彼女を気持ちの拠り所として利用しているとも知らずに」
その瞬間、麻美は凍りついた。
慎也がずっと誰とも付き合わなかったのはクールな性格だからではなく、ただ初恋を忘れられなかっただけなのだ。
彼はずっとその過ぎ去った恋心を頑なに胸に閉じ込めたままにしていた。
かつてプライドの高い彼はその意固地な自尊心を守り、決してその想いを口にしてこなかった。
ただ、初恋の人が振り向くのをずっと待っていた。
だけど、待ち続けた結果が相手の結婚の知らせだった。
この時から、莉子という名前が、麻美の胸に消えない棘として突き刺さった。
それでも慎也が好きで、麻美は諦めきれなかった。
だから、減点表を作り、100点が0になったら立ち去ろうと誓った。
そして、これまで少しずつ、記録を溜めてきた。
たとえば、誕生日に、莉子のインスタを見て慎也が飛び出したこと。
結婚記念日に慎也が莉子と朝まで電話していたこと。
そして莉子が離婚して帰国してからは……
減点の記録もそれによってどんどん増えていった。
そして、麻美の気持ちも、次第に冷え切っていった。
そんな風に思い耽っていたら、処置を終えた医師が出てきた。
「男性の方は広範囲の火傷で痕が残るでしょう。でも女性の方は意識障害だけで無事です。安心してください」
すると友人たちがホッとして言葉を並べた。
「命が助かっただけでも十分ですよ、麻美さん。パイロットになれなくても、佐々木家は家業がありますので生活には困らないはずです。さあ、まず慎也に会いにいきましょう」
それを聞いて、麻美は目を伏せ、込み上げる切なさを隠して言った。
「私、まだ用事があるから、あなた達が先に会ってきてください」
そして家に帰ると、麻美は減点表を手に取った。
そこからまた5点を引くと、残りの点数を見て苦笑いを浮かべた。
あと20点、これでもう残りわずか、いよいよ決着が付きそうだ。
第2話
そう思って、麻美は向きを変え、法律事務所に向かった。
離婚協議書を書いてもらってから、彼女は差し入れを持って病院へ戻っていった。
病室の前まで来ると、中では莉子がバタバタと慎也の世話を焼いているのが目に入った。
どうやら莉子は何かを食べさせようとしたが、慎也にぶちまけてしまったようだ。それで彼女が慌てて拭こうとすると、誤って慎也の傷口を広げてしまい、消毒も薬さえも間違える始末だった。
慎也が痛みに息を呑むのを見て、莉子は目に涙を浮かべた。
「慎也、ごめんなさい。私を助けようと火の中に飛び込んでくれたせいでこんな大怪我をしたのに、私は看病をしてあげるのもうまくできなくて、本当にごめんなさい」
それを聞いて、慎也の涼しい目元にも仕方なさげな色が浮かんだ。「君はこれまで甘やかされて育ったから、無理に世話を焼かなくてもいいんだ。ただの軽い火傷だから、数日で治る。気にするな」
そう言われ、莉子はさらに激しく泣きじゃくった。
「またそうやって嘘をついて、こんなに大怪我してるじゃない!先生から聞いたの。火傷がひどくて、もう飛行機を操縦できないって本当よね?」
涙を流す莉子を見て、慎也の内心は複雑だった。
本当は抱きしめてやりたかったが、今の自分の立場を思い出すと、結局手を止めた。
そして、仕方なく彼はティッシュを差し出した。「実はもう退職願も準備してあるし、今月で辞めるから、もう機長になれなくても構わないんだ。君のせいじゃないから、泣かないでくれ」
それを聞いて、莉子は呆然としたまま、涙に濡れた瞳で慎也を見つめた。
「辞めるの?どうして?パイロットになるのが夢だったじゃない?」
慎也は少し黙った後、重苦しい口調で答えた。
「パイロットになることなんて、俺の夢じゃないんだ。君が8歳の時に『パイロットと結婚して、世界中を連れて行ってもらうのが夢』と言ったからさ。君の思いを叶えてあげたかったんだ」
「慎也!」
予想外の事実に莉子は感極まり、そのまま慎也に抱きついた。
慎也も少し驚いたが、ためらいを捨ててようやく莉子を抱きしめた。
その光景を見て、麻美は胸をナイフで刺されたような痛みを覚えた。
彼女は指が白くなるほど拳を強く握りしめ、下唇を噛み締めて堪えた。
込み上げる感情を押し殺し、彼女は差し入れをドアの前に置くと、その場を立ち去った。
だが、病院の入口で、偶然にも慎也の同僚数名と顔を合わせた。
それで、見舞いに来た彼らに慎也の状態を聞かれたが、麻美は簡単に状況を説明すると、病室の番号を教えた。
だが、彼らが上の階へ行こうとしたとき、急遽飛行任務の連絡が入り、空港へ引き返すことになった。
「麻美さん、俺たちもう持ち場に戻らなければいけませんので、慎也によろしくお伝えください。ああ、あとこの辞職願を渡しておいてください。もう上層部の許可は下りていますので」
だが、書類とフルーツバスケットを受け取ると、麻美は辞職理由を見て凍りついた。そこにはこう書かれていた。
【入社以来、S国航路を往復してきた3年間。異国の土地に降りるたび、どこか寂しさを感じていました。飛んでいる時も、どこか地に足がつかない浮遊感に襲われていました。
それで、ある友人からの知らせで、ようやく気づきました。自分が生涯求めていたのは大空を飛ぶことではなく、ある人への思いを断ち切れなかっただけでした。でも、今その人が帰ってきました。ですから、もう思い残すことはありません】
これまで麻美は慎也にとってパイロットの仕事こそがすべてだと思っていた。
しかし、慎也にとって本当に大事なのは莉子だったのだ。
莉子に喜んでもらうためにパイロットになり、莉子に会うためにS国への航路を飛び、そして今、彼は莉子のために仕事を辞めた。
麻美はただ彼の妻になったというだけで、本当は一度も慎也と気持ちが通じ合ったことがなかったのだ。
そう思うと、絶望に襲われた麻美は目を閉じ、5年前に意気揚々と講演する慎也の姿を思い出した。
あれは自分が慎也に恋をした瞬間であり、同時に慎也が莉子に近づこうとして努力していた時でもあった。
なんとも哀れで、滑稽なことだろう。
そして、今慎也の待ち人が帰ってきたんだ。だから、自分はもう引き下がる番なのかもしれない。
帰宅後、麻美は前々から誘いをしてきていた先輩の九条夏帆(くじょう かほ)に連絡を取り、デザイン事務所を一緒に立ち上げることを承諾した。
卒業後、慎也はほぼ週単位の出張があったため、彼女は彼の世話をちゃんとできるように家庭に入って、専業主婦をしてきた。
だけど、ここを離れると決めた以上、もう自分の夢を追うつもりだ。
一方、夏帆は麻美の連絡を受けて喜びを隠しきれずにいた。
「麻美ちゃん、あなたは学生時代先生から『生まれつきのデザイナー』と言われていたのよ。それで、みんな期待していたんだから。あなたが思い切ってくれて本当に嬉しいわ。盛沢市を拠点にすれば家庭との両立もしやすいし、明日にでも契約の話をしに行くね」
第3話
「いいえ。夏帆さんは今深津市にいるでしょ?拠点をそっちに移そうと思って。それに、私もうすぐ離婚するし、こっちの身辺整理が済んだらすぐに向かうね」
麻美はこうして淡々と離婚について話したが、電話の向こうの夏帆は驚いたのか、長い間絶句していた。
それでも夏帆は気を遣ってか深くは聞かず、彼女の意見を受け入れた。
そして、電話を切った後、麻美は大量の専門参考書や雑誌を取り寄せ、学生時代の資料も引っ張り出した。
それから、彼女は病院へも行かず、慎也にも連絡せず、一人自宅で復習に打ち込んだ。錆びついた知識を再び呼び起こすために。
制作に没頭するうちに、麻美はかつての自分を取り戻していった。
それは決して恋愛に囚われず、ただひたすらにデザインを愛し、世界一のデザイナーを目指していた頃の自分だ。
月日は流れ、結婚記念日当日、慎也が帰宅した。
そして、デスクを埋め尽くす大量の原稿を見て、慎也は訝しげな視線を向けた。
「ここ数日、ずっと自宅で作業をしていたのか?」
そう聞かれ、麻美はペンを持つ手を止め、穏やかに頷いた。
「デザインの仕事を再開するつもりなの。今は感覚を取り戻すのに必死だから、あなたの世話を焼く余裕はなくて」
麻美の理由を聞いて、慎也の胸にわずかな違和感がよぎった。
以前、自分がフライト中に乱気流で軽傷を負った時は、麻美は消息を聞くやいなや病院へ駆けつけ、目を真っ赤にして3日間も徹夜で付き添っていた。
だけど今回、怪我は前回より深刻だというのに、麻美は心配する様子もなく、何のリアクションもないのだ。
変だと思ったが、これまで麻美の私生活に干渉しないと決めていた慎也は、それ以上問い詰めなかった。
「そうか。夢を追うのはいいことだ。天国にいる青木先生も、君が再びデザインに向き合うようになったと知れば喜ぶだろう」
「それじゃ、あなたも私の決断を応援してくれるってこと?なら……離婚はどう?」
麻美は反射的に問いかけたが、ちょうど慎也のスマホが鳴った。
彼はそのまま書斎へこもってしまい、彼女の言葉さえ聞き入れていなかったようだ。
そして、扉が閉まる間際、かすかに聞こえたのは莉子の声だった。すると、麻美は軽く口元を歪めて笑った。
こうして一呼吸をおいてから、麻美が再び設計に打ち込み、時間さえ忘れてしまうほどだった。
夕暮れ時、慎也が部屋から出てきて、何気なく声をかけてきた。
「レストランを予約してあるんだ。一緒に食べに行こう」
一日中座りっぱなしだった麻美も空腹を感じたから、彼女はそれに応じた。
レストランに到着し、麻美を降ろした後、慎也は車を停めに駐車場へと向かった。
再び戻ってきた慎也は、左手にプレゼントボックス、右手にはピンクのバラの花束を抱えていた。
彼は麻美の目の前まで歩み寄ると、花を差し出した。それを見て、麻美は立ち尽くした。
結婚して3年、慎也から花を贈られたのは初めてだ。その瞬間、彼女の中で複雑な感情が湧いた。
どうして急に花なんて?中身は何?記念日を祝ってくれるの?
喉まで出かかった言葉を飲み込もうとしたその時、見慣れた人影が目に入った。
莉子が新しく開店したレストランの前に立ち、笑顔でこちらへ手を振っていた。
「慎也!こっち!遅かったじゃない?この方が奥さんね?初めまして、慎也の友達の和田莉子です」
莉子は自然な仕草で挨拶をし、手を差し出してきた。
麻美は一瞬固まったが、すぐに表情を正し、その手を握り返した。
「初めまして、麻美です」
そして挨拶を交わすと、慎也は淡々とした態度でプレゼントを差し出した。
「新装開店初日に手ぶらじゃ失礼だろ。少し祝いの品を選んでいたら、時間がかかってしまった」
彼の言葉を聞きながら、麻美は手の中で咲き誇る鮮やかなバラの花束を俯いて見つめた。
この贈り物も、花も、全て莉子のためのもの?
その事実に、麻美の胸は締め付けられ、言いようのない苦さが体中を駆け巡った。
彼女は震える手で花を莉子に手渡し、努めて何食わぬ顔を演じた。
一方、莉子は贈り物を受け取り、中身のバッグを見た瞬間、喜びに顔を輝かせた。
「どうして最近私がこのバッグを探し回っていたって知ってるの?これ、全世界で限定10個しかないのに!花も素敵。何年経っても、私がこの店のピンクのバラを好きだって覚えていてくれたのね」
すると、慎也は涼しい顔で通りがかった時に、ついでに買ったのだと、言った。
だが麻美は知っている。そんな都合の良い偶然なんて、この世には存在しないのだ。
全ては、慎也が特別に用意したものだ。
慎也が「一緒に食事へ」と誘ったのは、ただ莉子に会うための言い訳に過ぎない。
結局、最初から最後まで、自分はただの都合のいい言い訳でしかないのだ。
第4話
それから、莉子は慎也を案内しながら、店の中をあちこち連れまわした。
「ねえ、覚えてる?中学の頃、私がずっと言ってた夢。自分のお店を開くこと」
「ああ。リゾート風の内装で、壁には印象派の絵を飾って、テーブルや椅子は黒と白に揃えるんだろ?アロマにもこだわって、毎日違う花の香りを漂わせるんだって言ってたよな」
慎也が当時の言葉をひとつも間違えず語るのを聞いて、莉子は言葉を失った。
「どうしてそんなに細かく覚えてるの?それじゃ、あれも覚えてるかな……」
「当然だろ。『お店の株の3割をやるから、慎也がバーテンダーをしてよ』っていうあの約束、それは今でも有効だよね?」
すると、莉子の瞳が喜びで揺れ、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「昔の冗談を、本気にしちゃだめよ。それに慎也、これからは会社を継ぐんでしょ?私の店でバーテンダーなんてさせたら、そんなの恐れ多いわよ」
すると、慎也の表情が一瞬暗くなり、何か言いたそうに唇を動かしたが、やがて黙り込んだ。
一方、そのやり取りをただ見つめていた麻美は、胸の奥に黒い影がどんどん広がっていくかのように、息が詰まりそうになった。
麻美にはわかっていた。慎也の言葉には偽りがないことが。
彼は本当に、いつでもどこでも莉子のそばにいたい、たとえバーテンダーとして、遠くから見つめるだけで十分だと思っているのだ。
かつて失った痛みを知っているからこそ、慎也にとってもう一度手に入れるチャンスをなによりも大切にしたいはず。
こうしている今も、慎也の視線は莉子に釘付けで、一度も振り向くことがなかった。
そんな中、麻美だけが一人、誰にも気づかれることなく、取り残されていた。
個室に入ると、慎也は当たり前のようにメニューに手を伸ばした。
すると隣に座った莉子が、彼が注文した料理を聞いて、わざとらしく口を開いた。
「慎也、どうして私の好物ばっかり頼むのよ?奥さんは何が好き?彼女にも聞いてあげなきゃ」
それを聞いて、慎也は手を止めた。一瞬、麻美に目をやると、平然とした様子でメニューを差し出した。
「君の好みがわからないから、適当に頼んだんだ。食べたいものは自分で頼んでくれ」
そんな慎也の無関心な態度と、莉子の誇らしげな笑みを目の当たりにして、麻美は息が詰まりそうになりながらも、掌に跡が残るほどギュッと強く握りしめた。
もともと慎也はすべてにおいて冷淡な人だとわかっていた。結婚記念日を忘れても、ロマンチックな演出がなくとも、自分の気持ちを気遣ってもらえなくても、すべて我慢できた。
しかし、目の前で莉子への情愛を見せつけられ、それと対照的な自分の扱われ方を比べると、やはりどうしようもない惨めな気持ちがこみ上げてきた。
麻美はメニューを受け取らず、青ざめた顔で立ち上がると、洗面所へ行くと言って部屋を出た。
案の定、莉子が道案内を口実についてきた。そして、連絡先を交換したいと言いながら、莉子はたびたび棘を帯びた言葉を投げかけてきた。
「麻美さん、気を悪くしないでくださいね。慎也とはもう十何年もの付き合いなんです。私の体のことだって、彼は全部わかってくれてるんです。
少し前もね、私の体調を気にして隣の市までわざわざ専門医を探して紹介してくれたのですよ。昔もよく、海外にいる私にクリスマスプレゼントを贈ってくれたりして……」
そんな単なる釈明に見せかけた自慢話に、麻美は胸が押しつぶされそうなほどの苦しさを感じた。
ついに足を止め、莉子に向き直ると、麻美は震える声で尋ねた。
「それで?結局何が言いたいのですか?」
すると、莉子は表情を一変させて、口角に冷ややかな笑みを浮かべた。
「隠す必要なんてないですよね。あなたが彼の奥さんであろうと、慎也にとって私は唯一無二の存在よ。彼は近いうちに必ず私の元へ戻ります。あなたも分別があるなら、自分から身を引くことね。そのほうがお互いうまくいくでしょう?」
確かに莉子の言うことはすべて否定しようのない真実だと、麻美も分かっていた。
だから、麻美は視線を落として一度深く息を吸い込んで、何か言おうとしたその時、頭上のきらびやかなシャンデリアが突如ぐらつき、二人が立つ場所へと一気に崩れ落ちてきた。
その瞬間客たちの悲鳴が響き渡り、店内が瞬時に恐怖で満ちていった。
一方、何が起きたか理解する間もなく、空から降ってくる巨大な黒い影に二人は戦慄した。
そして、シャンデリアの破片が降り注ぐ中、数メートル離れた場所から走り寄った慎也は、真っ先に莉子を引き寄せ、安全な場所へと連れ出した。
だが、取り残された麻美の体は、無残にもシャンデリアの直撃を受け、血の海に倒れ込んだ。
全身を駆け巡る激痛が、脳の神経を容赦なく切り裂いていく。
額を流れる血で視界が真っ赤になる中、薄れゆく意識で麻美が見た光景。それは、取り乱す莉子を守ろうと群がる客たちの中心で、ただ莉子のことだけを気に掛ける慎也の姿だった。
彼はまるで守護者のように寄り添い、店長である莉子をすべての非難やパニックから隠すように守り抜いていた。
どんどん遠ざかる二人の影を最後に、麻美は力尽き、意識が闇の中へと消えていった……
目を覚ますと、麻美は病院のベッドに横たわっていた。
全身を包帯で巻かれ、少し動かすだけでも鋭い痛みが走った。
だが、病室はガランとしていて、誰一人として付き添いがいなかった。
しばらく天井を眺めていた麻美は、痛みをこらえ、テーブルに置かれたカバンから例の減点表を取り出すと、10点の減点を記入した。
ペンの置き所を探していると、指先から滑り落ちた減点表を、ちょうど巡回に訪れた看護師に拾われてしまった。
減点表の内容を一瞥した看護師が、好奇心を隠そうともせず言った。
「これ何ですか?ずいぶん点が減ってますけど……最後はどうなるんですか?」
麻美は小さく視線を動かし、看護師の手から減点表を受け取ると、静かな声で告げた。
「婚姻減点表です。満点から始まって、0点になったらすべてが終わるんです」
「終わるって……離婚ってことですか?あと10点しかないじゃないですか?」
看護師の驚いた声が上がると同時に、病室のドアが力強く開かれた。
眉を寄せた慎也が入ってくると、鋭い眼差しで麻美を見つめた。
「10点って何の話だ?」
第5話
麻美は慎也が突然現れたことに驚いた。彼女がまだ状況が飲み込めていない間に、看護師が先に口を開いた。
「ご主人ですか?奥さんは昨日搬送されてきて、一晩中懸命な治療を受けていたんですよ。こちらが何度も電話したのに、どうして出ないんですか?
本当に無事でよかったです。もしものことがあれば、最期に会うことさえできなかったんですよ。こんな大怪我をさせておいて、もう少し奥さんのことを大切にしたらどうですか?」
こうして看護師はぶつぶつと文句を言いながら、カルテを差し出した。
手に持った診断書を見て、慎也の眼差しは暗く沈んだ。彼にしては珍しく、言い訳をするように口を開いた。
「昨日はシャンデリアが落ちて多くの客が怪我をし、現場が荒れていたんだ。周りの興奮した客たちが莉子に危害を加える恐れがあったから、先に彼女を連れ出したんだよ。混乱していたし、君が怪我をしていたなんて知らなかったんだ。病院に付き添えなくてすまなかった」
麻美は静かに聞き入っていたが、落ち着いた口調で反論した。
「それじゃあ、どうして今ここにいるの?」
ここに来る前、麻美はきっと泣いたりわめいたりするだろうと慎也は思っていた。
だが、彼女の予想外の反応に彼は少し戸惑った。
「莉子が昨日の件で怯えていてな。カウンセリングに連れてきたついでに、受付で君の名前を見かけたから様子を見に来たんだ」
それを聞いて、麻美は目を伏せ、心の中で思わず嘲笑った。
「なるほど。ただの偶然だったのね」
麻美の声に含まれる落胆を感じ取り、慎也が何か言いかけたところで、彼のスマホが震えた。
莉子からの【どこにいるの?】というメッセージを目にした途端、慎也はすぐに他のことなどどうでもよくなったようだった。
「ああ、偶然だよ。まあ、無事なのが分かって安心した。しっかり休んでくれ、後でまた来るから」
そう言い捨てると、慎也は振り返りもせずに立ち去った。
慎也が莉子のところへ向かったことを悟り、麻美は衰弱した体に鞭打って後を追った。すると彼がカウンセリング室へ入っていくのが見えた。
窓越しに、目を赤く潤ませた莉子が手を差し出し、慎也が自然とその手を握りしめ、指を絡める様子が目に入った。
カウンセラーが莉子の過去の経験や既往症について質問すると、慎也はそれを知り尽くしたかのように流暢に答えていった。
カウンセリングの途中、莉子が情緒不安定になると、慎也は寄り添って根気強く慰めた。その表情と優しい声色は、麻美が今まで一度も見たことのないものだった。
一連のカウンセリングが終わると、カウンセラーは明確な診断を下した。
「以前の恋愛での深い傷がトラウマとなっていて、心が閉ざされている状態です。非常に繊細で、ちょっとした刺激でも不安定になってしまいます。親しい家族や友人の付き添いがなければ、この苦境から抜け出すのは困難でしょう」
その結果を聞き、慎也の表情は一瞬にして暗くなった。
莉子を寝かしつけた後、彼は冷徹な声音で側近の部下に電話をかけた。
「莉子の過去の結婚生活で何があったのか、徹底的に調べて報告しろ。それと、プライベートジェットの準備も。莉子の気分転換のために遠くへ連れて行くから」
一方その一連のやり取りを目の当たりにした麻美は、とめどなく押し寄せる切なさに押しつぶされてしまいそうになった。
慎也は愛の伝え方を知らないのではない。彼が心から愛する人は、ずっと自分ではなかったのだ。
だから自分が傷ついても心配しないし、結婚生活で悲しい思いをしている自分を見て見ぬ振りできるし、自分が弱まっている時でさえ、そばにいようと思わないだろう。
そう感じて、麻美は顔を上げ、涙を堪えながら心の中で自分自身に誓った。
最初から一方的だったこの結婚生活も、もう終わりだ。
慎也も解放してあげよう。
そして自分自身も、これで自由になるのだ。
第6話
それから、麻美が入院している1週間、慎也は一度も姿を見せなかった。
ただ、出張中だという連絡とともに、時折部下が届け物やサプリメントを持ってくるだけだった。
そして、病室が贈り物やサプリメントで埋め尽くされていくのを見ていても、麻美の心に波風が立つことはなかった。
スマホを開くと、ここ数日で莉子が慎也と過ごしている様子の写真が送られてきていた。
そこには岩場に座って水平線から昇る朝日を眺め、壮大な景色の中で肩を並べる二人の姿、そして神社で神々に誓いを立てる様子まで収められていた……
写真のあとに、莉子からさらに長いメッセージが届いた。
【この場所は全部、昔慎也が私を連れて行ってくれたところですよ。そこには私と彼の素敵な思い出があって、そして互いにずっと一緒にいようと約束した場所でもあります。だから慎也も私と同じ思いでよりを戻したいと思ってくれてるじゃないかな?】
一方、麻美は淡々とメッセージを見つめるだけで、返信はしなかった。
体調が良くなり帰宅した麻美は、家の入り口で慎也の友人たちの声が聞こえてきて足を止めた。
「慎也、莉子ちゃんの前の旦那を借金漬けにして破産させたんだろう?これで、あいつはもう二度と立ち直れないし、莉子ちゃんの病気も回復に向かっているのに、お前はどうして戻ってきてからずっと荒れているんだ?」
少し開いたドアから見ると、慎也の周りには空のボトルが散乱していた。
酔っているのだろう。普段はクールな顔つきも薄く赤らみ、瞳は潤んでいた。
「俺は過去の自分を許せないんだ。くだらないプライドを捨てられず、自分からやり直そうと言えなかった。自分で思い詰めた結果、3年もの時間を無駄にしてしまった。それで、莉子は傷つけられてしまったんだ」
そんな慎也の様子を見て、友人たちは溜息をついた。
「そもそも別れを切り出したのは莉子ちゃんだろう?それでいて絶対によりを戻さないなんて言ったのも彼女だし、周りの反対を押し切って海外に嫁いだのも彼女自身だ。だから、あんなクズ男に傷つけられたのもお前のせいじゃない。自分を責めるな!」
「そうだ。莉子ちゃんは他の男を選び、お前は今の奥さんと一緒になった。二人は別々の道を歩んでいるんだ。わざわざ執着して苦しむことはない。麻美さんはお前を一心に想っているんだ、傷つけるなよ!」
「麻美さんはいつもお前のことを考え、お前が仕事で忙しくしている間もちゃんと家のことをやってきたし、ご両親の世話も完璧にこなしてきた。
それでお前が体調を崩した時だって必死に栄養をつけさせようと工夫したり、夜遅く帰った時も温かい食事を用意して待ってあげただろ?あれほど尽くしてくれる人なんてそうそういないぞ。少しは彼女の気持ちも酌んでやれよ」
すると、一瞬静まり返った部屋の中で、慎也は酒の勢いでポツリと一言を漏らした。
「どんなに良くても、彼女は俺の運命の相手ではない」
その言葉を耳にした麻美はまるで胸を鋭い刃物で切り刻まれたかのような痛みを感じた。
手を震わせながら、目を閉じると麻美はかつて慎也が自分に結婚を申し込んだ時のことを思い出した。
「君とは運命を感じるんだ」と、慎也はそう言ったはずだ。
それが今となっては、運命の相手ではないという言葉に変わった。
この結婚が慎也にとって間違いだとしたら、自分が捧げた3年の時間や愛情は、一体なんだったのだろうか?
答えは分からない。
そして、今の彼女にとってそんな答えはもうどうでもよくなった。
第7話
公園で日が暮れるまで座り続け、麻美はようやく心を落ち着かせた。
立ち上がって家の中に入ると、リビングのソファでは慎也が独り眠っていた。友人たちは既に帰ったようだった。
慎也はひどく酔っ払っていて、寝言でも莉子の名前を何度も呼んでいるのだった。
麻美は黙ってその声を聞きながら、減点表を取り出し、さらに5点を減点した。
いつもの彼女なら慎也を介抱していたが、今日はそれもせず、黙々と荷造りを始めた。
慎也からの贈り物や、二人の思い出のツーショット写真、お揃いのコップやスリッパまで……
麻美は慎也に関係するものは全て整理して、ゴミ袋へ放り込んだ。
一晩かけて片付けたあと、翌朝、目が覚めた慎也はリビングの変わり様に驚いた。
「退院したのか?なんで家の中がこんなにすっきりしてるんだ?」
「昨日の夜、寝られなくて使わないものを片付けたのよ」
そう答えると、慎也は家中を見回して首をかしげた。「使わないもの?いくらなんでも、キレイに片付けすぎだろ?」
麻美が言い返そうとした瞬間、慎也のスマホがまた鳴った。
「慎也、今日リハビリの付き添いをお願いできる?」
「ああ、分かった」と答えると、慎也は慌ただしく身支度をして、急いで出て行った。
一方、扉が閉まるのを見送ってから、麻美はぽつりと呟いた。
「もうすぐここを離れるから。どれも必要なくなるのよ」
それからの数日間、慎也は姿を見せなかった。
ただ、莉子のメッセージを見ていれば、二人が楽しそうにデートをしているのは明らかだった。
だが、麻美は気になんてしていなかった。彼女はただ深津市への引っ越しに向けて、ひたすら準備に没頭した。
そして、翔の命日。麻美は喪服に着替えて花束を持とうとしたところ、帰ってきたばかりの慎也に声をかけられた。
「今日は青木先生の命日だろ。墓参りに行くぞ」
毎年二人で行っていたことだし、あえて拒む理由もなく、麻美は助手席に乗った。
道中、車内は静まり返っていて、沈黙が続いた。
墓地に着くと、二人は並んで手を合わせた。
麻美は父の墓の前で、何度も頭を下げた。
「お父さん、私、決めたの。慎也とは離婚して、深津に行って夢を追いかけるわ。お父さんも喜んでくれるよね?亡くなる前、ずっと私のことが心配で慎也に託してくれたけど、私ももう大人になったから大丈夫。これからは自分の人生を一人で歩んでいくから、もう誰にも頼らずに」
そう想いを伝えていると、空から雨がポツポツと降ってきた。
二人はそのまま墓地を出た。
帰りの車内、麻美がいつもより静かだと気が付いたのか、慎也が口を開いた。
「青木先生が恋しいのか?先生はもういないけど、俺がそばにいるから、辛いときは話してくれよ」
麻美は慎也と確かに話したかった。
父のことではなく、これからの離婚について。
息を深く吸い込んで言葉を選んでいると、慎也の電話が鳴った。
「佐々木社長、大変です!和田さんが事故に遭いまして!今救急搬送されています!」
それを聞くやいなや、慎也は急ブレーキを踏み、麻美を一瞥した。
「麻美、悪いがタクシーで帰ってくれ」
そんな取り乱した慎也を見て、麻美は静かに視線を落とし、ドアを開けた。
残された彼女は、雨の中疾走していく慎也の車を見送ると、タクシーの配車アプリを開いた。
しかし、この時風が強まり、傘があおられて思うように掴めないでいた。
麻美は必死に雨を避けながら前に進もうとしていると、迫ってくる車に気づけずにいた。
ドーンという衝撃。彼女の体は宙を舞い、そのままアスファルトに叩きつけられた。
そして、冷たい雨に打ち付けられる中、血が止めどなく広がっていった。
激痛の走るお腹を押さえ、麻美の意識は闇の彼方へと薄れていった。
第8話
どれくらい時間が経ったのだろう、潮のように押し寄せる激痛を感じ、麻美は現実へと引き戻された。
そして朦朧とする意識の中で目を開けると、そこは病院で、看護師が慌ただしく緊急対応に追われていた。
「妊娠2ヶ月の患者さん、腹部への衝撃による大量出血で、至急輸血が必要です!でも院内の在庫は全て株主の指示で移送済みです……先生、どうしましょう?」
医師はすぐに決断し、その株主の元へ事情を説明するよう指示した。
「佐々木社長、病院の血液庫を全て押さえられていますね。こちらで交通事故に遭った妊婦さんが緊急輸血を必要としています。妊婦さんとお腹の子を助けるため、少しだけ調整できませんでしょうか?」
かすかに聞こえてくる看護師の声に、麻美は無意識のうちに激痛が走る下腹部を抱きしめた。
妊娠していたなんて。
その事実が頭の中で回り続ける間もなく、スピーカーからは慎也の冷酷な声が響いた。
「断る」
「ですが患者さんの容態は極めて深刻です。他の病院から取り寄せている時間など……」
「誰の病院だと思っている?莉子も緊急なんだ。万が一の事態は許されない。莉子の安全を優先しろ!」
慎也はその言葉を突きつけるように言ったあと、一方的に電話を切った。
医師が慌ててかけ直すが、繋がるはずもなく、呼び出し音すら鳴らなくなった。
一方、耳に聞こえたその会話に、麻美は心の底から凍りつくような寒さを感じた。
まだ平坦なままのお腹を見つめると、冷や汗が雫となってこぼれ落ち、まるで涙のように頬を伝った。
だが、泣く力すら残されておらず、麻美はただ絶望と共にゆっくりと目を閉じた。
どれほど経ったのか。昏睡から覚めた時、ベッドの傍らに看護師が立っていた。
「本当に残念ですが……お子さんを助けることはできませんでした」
麻美は無意識に、まだ平坦な下腹部を撫でた。
この子は、父親の手によって、見捨てられたのだ。
「まだお若いですから、きっとすぐにまた授かりますよ」看護師はそう慰めた。
しかし、麻美はただ軽く首を横に振った。
もう二度と、授かることはない。
永遠にないのだ。
「その……」と麻美はか細い声で尋ねた。「株主さんの、大切なお友達は……無事なんですね?」
看護師は気まずそうに顔を曇らせた。「ええ、回復に向かっています……あの女性は佐々木社長が何よりも大切に思われている方ですので」
「ええ、分かります」麻美は弱々しく微笑んだ。「本当に、大切にされている方なんでしょうね」
妻よりも。子供よりも、ずっと。
看護師が去った後、麻美はバッグから少し黄ばんだ減点表を取り出し、最後の行に書き足した。
【和田さんを優先し、子供を見捨てた。5点、減点】
これで終わり。合計100点、すべてなくなった。
ペンの先が紙を突き破った瞬間、彼女の胸の奥で何かがパシッとはじけたようだった。
家に戻る頃には、空はもうすっかり暗くなっていた。
麻美は迷わず書斎に向かい、一番下の引き出しからしまっておいた離婚協議書を取り出した。
そこに迷いなく自分の名前を書いた。その間、彼女は自分が思っていたよりもずっと落ち着いていた。
最後の手配として、その離婚届と100点すべてが刻まれた減点表を、慎也のデスクの上に置いた。
そして、荷物をまとめると彼女は玄関で立ち止まり、この3年間を過ごした場所を振り返った。
ダイニングテーブルには慎也が昨日飲み残した水、ソファにはいつもの黒いセーター、そして部屋には彼の愛用している香水が今もかすかに漂っていた。
麻美は静かに扉を閉め、振り返らず立ち去った。