消えていったあの夢

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消えていったあの夢

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上流社会では、政略結婚の夫婦はお互いに好きに遊んで良いという不文律がある。 ただし、外で愛人に何かを買い与えた場合は、必ず家にいる相手...

Chương (1)

第1章

上流社会では、政略結婚の夫婦はお互いに好きに遊んで良いという不文律がある。 ただし、外で愛人に何かを買い与えた場合は、必ず家にいる相手にも同等のものを贈らなければならない。 江崎律(えざき りつ)は礼儀を重んじる人であったため、後に白野家が破産しても、そのルールを百倍にしてでも白野清子(しらの きよこ)に本来あるべき敬意を示し続けた。 愛人のカードに毎月百万円のお小遣いを振り込むなら、清子のカードには必ず一千万円を振り込む。 愛人に百万円の宝石を贈った直後には、オークションで競り上げて、清子には一億円のエメラルドのアンティークリングを贈るのだ。 男たちの奔放な遊びには慣れている名門の奥様たちでさえ、清子と律が街中を賑わせた恋愛劇には、ため息交じりに心を打たれたのだ。 それでも周囲からは、「満足することを知るべきよ」と諭す声が絶えない。 満足?清子はもちろん満足していた。 だからこそ、律が郊外の価値もないマンションを愛人に公然と贈ったあの時だけは、彼から岸辺一号の別荘の権利証を受け取ると、彼女は何気なくこう言ったのだ。 「なんだか急に飽きちゃった。離婚しない?」 第1話 上流社会では、政略結婚の夫婦はお互いに好きに遊んで良いという不文律がある。 ただし、外で愛人に何かを買い与えた場合は、必ず家にいる相手にも同等のものを贈らなければならない。 江崎律(えざき りつ)は礼儀を重んじる人であったため、後に白野家が破産しても、そのルールを百倍にしてでも白野清子(しらの きよこ)に本来あるべき敬意を示し続けた。 愛人のカードに毎月百万円のお小遣いを振り込むなら、清子のカードには必ず一千万円を振り込む。 愛人に百万円の宝石を贈った直後には、オークションで競り上げて、清子には一億円のエメラルドのアンティークリングを贈るのだ。 男たちの奔放な遊びには慣れている名門の奥様たちでさえ、清子と律が街中を賑わせた恋愛劇には、ため息交じりに心を打たれたのだ。 それでも周囲からは、「満足することを知るべきよ」と諭す声が絶えない。 満足?清子はもちろん満足していた。 だからこそ、律が郊外の価値もないマンションを愛人に公然と贈ったあの時だけは、彼から岸辺一号の別荘の権利証を受け取ると、彼女は何気なくこう言ったのだ。 「なんだか急に飽きちゃった。離婚しない?」 …… 律はタブレットで朝倉雪菜(あさくら ゆきな)の二十三歳の誕生日プレゼントを選んでいる。 清子の言葉を聞いても、顔を上げることはなかった。 「雪菜ちゃんにあげたマンションは安いものだよ。仲介料だって含めても、全部で千四百万円にもならない。 あの岸辺一号の別荘、街で一番の好立地じゃないか。損はしてないよ」 「清子、俺が一番大切にしているのは、やっぱりお前なんだ」彼の穏やかな声に、清子は思わず目が潤んだ。 律の言う通り、結婚して七年、彼は確かに清子を一番大切にしてきた。 雪菜の口座には毎月百万円のお小遣いが振り込まれ、清子の口座には毎月変わらず一千万円が入っていた。 雪菜に百万元の宝石を贈った直後、彼はオークションで競り上げ、清子に一億元相当のエメラルドアンティークリングを贈った。 しかし、その一千万円は江崎家が毎月ファミリーファンドからの給付金だった。 エメラルドの指輪の競売にも、律は姿を見せず、執事に任せきりだった。 一方で雪菜が雑炊が食べたいと一言つぶやけば、彼は自ら台所に立ち、鍋を二つも焦がしながら作ってくれた。 友人は彼女にこう忠告した。 「清子さん、だって今はお金も地位もあるし、ご主人だって遊んでるだけで、清子さんを大切にしていないわけじゃないんだから。恵まれてるのにそれに気づかないなんて、もったいないよ」 「そうだよ、清子さん。お父さんは亡くなって、お母さんは植物状態になって、今はご主人があなたを受け入れてくれてるんだから、それだけは、ありがたいことだと思わなくちゃね」 清子だって、現状に満足したいと思っている。 しかし彼女の心には、付き合い始めた頃のあの夜のことが、今でも鮮明に焼きついていた。律が街の半分を照らすほどの花火を、ただ彼女のために打ち上げてくれた、あの夜が。 白野家が破産し、律を巻き込みたくなくて、彼女が無理に別れを切り出したときのことも忘れられない。 あの男は土砂降りの中、ずぶ濡れになりながら待っていた。目は真っ赤に染まっていた。 彼は言った。「清子、お前は俺の命なんだ。お前がいなきゃ、生きていけない」 あれから七年が過ぎ、清子は離婚を切り出した。 律はまるで何でもないかのように、淡々と一言だけ言い残した。 「雪菜の誕生日が近いんだ。分別を持てよ。こんな時に余計な騒ぎを起こすんじゃない」 鼻の奥がツンとして、涙がこみ上げるのを感じた。清子は、事前に準備していた離婚届を取り出し、平静を装って軽い口調で言った。 「署名して。署名してくれたら、もう騒がないから」 彼女は、律が激怒するだろうと思っていた。奪い取っては離婚届をビリビリに破り、怒声をあげる。「清子、夢を見るな。お前をどこにも行かせないぞ」 しかし予想に反して、律は彼女を一瞥しただけで、書類を最後のページまでめくった。 そして署名しながら言った。 「言ったこと、ちゃんと覚えておけよ。俺が署名したら、もう騒がないってな」 清子はうなずくと、風に消えそうな、かすかな声で答えた。 「分かった。もう騒がない」 今、二人の間には、財産分与が終わるまで、後30日しか残されていない。 第2話 署名した初日。 清子は病院へ向かう途中、雪菜のSNSの投稿を目にした。 写真は一枚の賃貸アパートの室内写真だった。 淡い緑色のソファの上で、雪菜は素足を律の膝に乗せ、カメラに向かって悪びれずにピースしていた。 キャプション:【あなたの過去にも関わりたい】 白野家が破産した年、清子は大学3年生だった。 父は現実を受け入れられず、飛び降り自殺した。 母は取り立て屋に階段から突き落とされ、植物状態となった。 一夜にして、清子は世界から見捨てられ、わずかな荷物を持って街をさまよう羽目になった。 病院の廊下で三晩目を迎えたあの夜のことだ。律は家族と決別すると、持ち物の一切を売り払い、三十六万円をかき集めると、彼女の行方を追った。 彼は言った。「清子、俺もお前と同じ、ホームレスになった。せめてお前だけは、俺の道連れになってくれないか?」 清子は呆然とし、律の胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。 そして彼のことを、世界一の大バカだと罵った。 律は慌てて彼女の涙を拭いながら、笑って言った。「うん、律は清子の前では、いつだってバカでいいんだ」 二人は十六万円で六畳くらいの小さな部屋を半年間借りた。さらに六万円をかけて、やっとその部屋を「家」と呼べる場所にした。 清子は不器用ながらも包丁を握り、律の大好物であるオムライスを作った。 律は、怒っているのかそうではないのか、清子をぎゅっと抱きしめると、「寒いだろう、靴下を履きなよ」と、裸足の足を温めながら優しく言った。そんな彼のプロポーズも、この同じ部屋での出来事だった。 江崎家の跡取りとしての身分を取り戻した律は、清子の手を取り、部屋の中をぐるぐると回りながら誓った。「この部屋は永遠に清子だけのものにする」 それなのに今では、雪菜が「参加したい」と一言言っただけで、彼はすべてを忘れてしまった。 涙が頬を伝い落ちるかと思うと、さっと手で拭われた。 清子は深く息を吸い込み、雪菜の投稿に「いいね」とコメントを残した。 【私がいらないもの、あなたにはちょうどいい】 もう一度更新したら、投稿が消えていた。 その直後、律から怒鳴り声のような電話がかかってきた。 「清子、昼間から何をしてるんだ?雪菜を泣かすんだぞ。 今どこにいるか知らないけど、すぐに来て雪菜に謝れ。じゃなきゃ、お前の母親の治療費は打ち切るからな」 その言葉に、清子は思わず吹き出してしまった。 七年前、彼女が江崎家の援助を頑なに拒み、自分で治療費を払おうとした時、律は彼女の手を握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴った。 「清子、よく聞け!あの人は俺の義理の母親だ!お前だけの母親じゃない!」 なのに今では、雪菜が泣いたというただそれだけの理由で、彼は清子の母親の命の綱すら断ち切ろうとしている。 携帯を持つ手がかすかに震えながら、清子は短く答えた。 「わかった」 「……なんだって?」 律は眉をひそめ、聞き間違いかと思った。 清子は深く息を吸い、落ち着いた口調で言った。 「母の治療費は、自分で払うわ」 江崎家に嫁いだこの七年間、清子はずっと仕事を続けていた。今では、国内でそこそこ名の知れたデザイナーになっている。 たとえ江崎家の助けがなくても、彼女には治療費を支払う余裕がある。 電話の向こうで何度か荒い息が聞こえ、律が嘲るように笑った。 「いいだろう、たいしたもんだな!」 第3話 電話を切ると、清子も病院に到着した。 エレベーターを出た瞬間、母親の主治医が慌ただしく病室に向かって走っていくのが目に入った。 嫌な予感がして、清子はすぐにその後を追った。 すると院長が彼女を呼び止め、険しい表情で言った。 「江崎夫人、ご主人からの指示で、江崎グループ傘下のすべての病院でお母様の治療が禁止されました…… 一時間以内にご主人の考えを変えられなければ、お母様を退院させるしかありません」 「何ですって?」 清子の顔色がさっと青ざめ、急いで律に電話をかけたが、応答はなかった。 メッセージを送っても、返事がない。 仕方なく彼女は苦笑いを浮かべながら階段を下り、律と雪菜の新居へ向かった。 玄関に入る前、中から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。「律さん、この方法って本当にうまくいくの?もし清子さんがおばさんを別の病院に移しちゃったら、どうするの? そうなったら、清子さんにはもう手出しできなくなるんじゃない?」 雪菜は瞬きしながら、愛らしく言った。 律は気だりげな口調で答えた。 「できっこないよ。江崎家であのくたばり損ないに一番執着してるのが彼女って、みんなわかってるからな。 彼女の母親が俺の手の中にいるからこそ、俺はこんなに堂々とお前と一緒にいられるんだ。彼女は絶対に折れるさ」 それが律が心変わりした理由なのか? 弱みを握っているからこそ、遠慮なく振る舞えるのか。 雪菜はくすっと笑うと、何かを思い出したように探るような口調で言った。「でもさ律さん、いくら何でも清子さんのお母さんだよ?ちょっとやりすぎじゃない?」 律は眉をつり上げると、灯りに照らされた金属製のブレスレットが冷徹な光を放った。 「生ける屍にひれ伏せしたなんて……思い出すだけで吐き気がする」 清子はドアの外に立ち尽くし、全身の血の気が一瞬で引いていくのを感じた。 律が言う「ひれ伏せした」のは、あの結婚式の日のことだった。 周囲は皆、清子の母親の危篤状態を「縁起が悪い」と口にし、婚礼の日にまで暗い影を落とすと非難していた。 しかし律だけが反対を押し切り、白無垢姿の清子の手を取って病院へ直行し、意識のない母親の病床前で正座――深々と頭を下げた。 「お義母さん、どうか安心してください。必ず清子を大切にして、世界一幸せな女性にしてみせます。 お義母さん、どうか生きていてください。俺がいる限り、あなたと清子に辛い思いは絶対にさせません」 あの誓いの有効期限は、たった七年だったのか。 心臓をえぐり取られるような痛み――清子は幾度か言葉を紡ごうとしたが、その前に涙が頬を伝い落ちた。 これが、究極の痛みというものなんだ。 涙を拭い、清子は手を伸ばして扉を押した。 ガラスのコップが彼女の足元で砕け散り、鋭い音を立てた。律は足を組み、雪菜を抱き寄せながら冷たく笑った。 「強気だったんだろ?それなのに、まだ俺に何の用だ?」 「母の医療支援を元に戻して。あなたの望むことなら、何でもする」 清子は下を向いて、めっちゃ静かで、まるで動きが止まったみたいだ。 律は鼻で笑い、その美しい声が部屋に響いた。 「いいよ。そこまで言うなら、まずは雪菜ちゃんに謝れよ」 「いいわ」 清子はためらうことなく、すぐに承諾した。 しかし雪菜は不満げに唇をとがらせ、無邪気なふりをして甘えるように言った。 「清子さん、それじゃあ誠意が伝わってこないな。ドラマのように、きちんと土下座して謝ってほしいね」 律の目が輝いた。 「雪菜ちゃんの言う通りだよ、清子。そんな態度じゃ、俺も手伝う気になれないな。さあ、早く雪菜ちゃんに土下座して謝って」 そう言って彼は姿勢を変え、興味津々といった様子で清子を見つめ、彼女の反応を楽しみに待った。 清子にはわかっていた。律は、ただ彼女が戸惑う姿を見たいだけなのだ。 まるでこの前の友人の結婚式のときのように。事前にメディアの取材があると知らされていたにもかかわらず、律はカメラの前で雪菜と熱いキスを交わしたのだった。 清子を一人置き去りにして、メディアの非難の嵐に晒した。 その後、彼はもっともらしく言い訳をした。 「雪菜ちゃんはメディア慣れしてなくて、人前だと緊張しちゃうタイプなんだ。でもお前は違うよね。もうそういうの慣れてるだろ?」 慣れているという理由で、清子には断る自由すらなかった。 内心はめちゃくちゃつらくても、顔だけは平気なふりをするしかない。 まさに今のように──律と雪菜の面白がるような視線を受けながら、彼女は黙って手に持っていたバッグを床に置いた。 そして、ドサッという音とともに膝をついた。 膝にガラスの破片が食い込み、血が床一面に広がった。 それでも清子はまるで痛みを感じていないかのように、静かに口を開いた。 「朝倉さん、ごめんなさい」 律は一瞬呆然とし、ほとんど反射的に腕の中の人を押しのけ、清子を支えようと手を伸ばした。まだ近づいてもいないのに、雪菜の泣き声が聞こえてきた。 「律さん、私、血を見ると気分が悪くなるの……」 律は立ち止まり、雪菜を抱きかかえて病院へと急いだ。 清子は後を追おうとしたが、膝が崩れて地面に倒れ、ガラスの破片がさらに深く刺さった。 それでも彼女は痛みを感じていないかのように、必死に男の服の裾を掴んだ。 「律、お母さんの治療……」 「清子!」 律が彼女の言葉を遮った。 「お前って本当に自分勝手だな。雪菜ちゃんが気を失ってるのが見えなかったのか?それなのに、まだ自分の生きてるか死んでるかわからない母親のことしか考えてないのか」 「いいか、もし今日雪菜ちゃんに何かあったら、お前もお前の母親もタダじゃ済まないからな!」 そう言い放つと、彼は清子を蹴り飛ばして、さっさとその場を去った。床に倒された清子は、ただ絶望的な面持ちで、男の遠ざかっていく背中をただ見つめるしかなかった。 「……律、あなたを愛したなんて、本当に間違いだったんだわ」 気を取り直し、清子は病院に電話をかけた。 第4話 救急隊員がすぐに駆けつけた。 簡単な応急処置の後、清子はすぐに母親の病室へ向かった。 病室に入るや否や、看護師長が清子の母親の酸素チューブを外そうとしているのが目に入った。 「やめて!止めてくれ! 私は律の妻よ。ここは私たち江崎家の病院よ。誰が外していいって言ったの?」 清子は、唇が血ばむほど強く噛みしめた。その声には明らかな怒りが込められていた。 看護師長は困惑した様子で口を開いた。 「奥様、これは江崎様直々のご指示ですので、私たちも逆らうことができません。 差し支えなければ、もう一度江崎様とご相談されてはいかがでしょうか?」 電話はすぐにつながり、律のうんざりした声が真っ先に聞こえてきた。 「今度は何だ?」 清子は鼻をすすり、震える声で言った。 「律、ひざまずけば母を助けるって言ったじゃない……今、母の酸素チューブを外そうとしてるの。お願い、どうか……」 「無理だ」 律は冷たく彼女の言葉を遮った。 「今回は雪菜ちゃんにケガはなかったが、お前の態度には本当に腹が立った。安心しろ、確認したんだ。チューブを外すだけで、お前の母親はそう簡単には死なない」 「でも、母はもう脳死状態で、お医者さんが……」 律は眉をひそめ、聞く気すらなかった。 「医者が何と言おうと、今は雪菜ちゃんを寝かせることが最優先だ。それじゃ」 電話が一方的に切られた。看護師長は困り果てたように肩をすくめると、清子の母親の人工呼吸器を外した。たちまち、母親の心拍数を示すモニターが、苦しげな警告音を激しく響かせた。 脳死状態の患者は人工呼吸器によってしか生命を維持できない。 「だめ、やめて!」 清子は病院のスタッフに必死に制止され、目の前で母親が病床で震え、痙攣し、そして静かに息を引き取るのをただ見ていることしかできなかった。 医師が死亡を確認するまで、わずか三分しかかからなかった。 たった三分で、清子はこの世で最後の肉親を失った。 そして、その元凶は、かつて「一生面倒を見る」と言っていた律だった。 ちょうどその頃、雪菜のSNSには妊娠検査の報告書が投稿されていた。 【おめでとう!パパになるんだってね!】 律の母親が真っ先に「いいね!」を押した。 【やっぱり雪菜ちゃんは違うわね。すぐに妊娠できて本当に良かったよ。あの人とは大違いだね……】 【来週、律と一緒に家に来てね。ご馳走するよ】 雪菜は照れた顔のスタンプで返信した。 清子は口元を引きつらせた。自分よりも、彼女たちのほうがよほど嫁と姑らしい関係に見えた。 母の死亡証明書が涙で濡れ、清子は一人で霊安室に夜明けまで座っていた。 その後の数日間、清子は一人で母の葬儀を取り仕切った。 納棺、火葬、埋葬。 一連の流れに、7日間がかかった。 その7日間、律は一度も家に戻ってこなかった。 一方で、雪菜のSNSは決まった時間に更新され続けていた。 律は彼女の妊婦健診に付き添い、一緒にベビーベッドを選び、彼女と子どものためにお守りをもらってきた…… 清子と律がかつて一緒に思い描いていたことを、律はすべて雪菜と実現していた。 離婚届に署名してから9日目。 律は珍しく何通ものメッセージを送ってきた。どれもが詰問の言葉だった。 【いったいお前は母親をどこに連れて行ったんだ!?冗談で言っただけなのに、本気でお前の母親を隠すなんて、そんなことするつもりか!?】 【母さんの言う通りだよ。お前を甘やかしすぎた結果がこれか。すぐにお義母さんを病院に戻しなさい。俺と喧嘩することで、お前の母親を苦しむな】 …… だが、清子が返したのは、たった一言だった。 【必要ない】 その言葉を見た律は、夜中に別荘へ駆け戻り、清子の手を強く握りしめて、歯を食いしばりながら言った。 「どういう意味だ?必要ないってどういうことだ?まさか、俺と縁を切るつもりか? 清子、警告するぞ……」 「おめでとう」 清子は彼の言葉をさえぎり、嘲るような目で言った。 「あなた、父親になるのよ」律は彼女の手を放し、ばつが悪そうにソファに腰を下ろした。 だがすぐに何かを思い出したようで、表情が緩んだ。 「お前、雪菜ちゃんが妊娠したから、お義母さんを連れて出て行ったのか? まさか、雪菜ちゃんが妊娠したからって、お前のことを構ってやれなくなると思い、わざと俺の気を引こうとしたのか? 清子、そんなことする必要はない。たとえ雪菜ちゃんが子どもを産んだとしても、お前は永遠に俺のただ一人の妻だ。この気持ちは死ぬまで変わらない」 律は得意げに口元を緩め、施すように懐から赤いトルマリンのブレスレットを取り出した。 このブレスレットを、清子は以前雪菜のSNSで見たことがあった。 オークションに出された一点物で、世界に一つしかない品だ。 雪菜はそれをダサいと言って、ごみ箱に捨てちゃった。 【こんなの、年増の女しか好まないわ】とSNSで投稿していた。 清子がぼんやりしているのを見て、律は彼女が驚きすぎて固まっているのだと思い、笑いながら言葉を続けた。 「そこまで必死に媚びを売ってくるなら、明日、実家で集まるんだけど、一緒に来いよ」 清子は眉をひそめ、断ろうとした。 すると律が不思議そうに尋ねた。 「この前俺に署名させた書類、何を買ったんだ?なんで支払い通知が来てないんだ?」 胸がドキリとし、清子は思わず両手を強く握りしめた。 彼は、自分が署名したのが離婚届だとは知らなかったのだ。 それならそれでいい。少なくとも別れるときに、もう彼と揉めずに済む。 そう思うと、清子はこれまでの感情をしまい込み、そっけなく答えた。 「たいしたことじゃないの。あとでやっぱりいらないと思って」 律は深く考えず、地味な服装の清子を見て、胸が痛んだ。何かを言おうとしたその時、雪菜から電話がかかってきた。 「律さん、また赤ちゃんが暴れてて辛いの。早く来て、一人にしないで」 律は反射的に清子を見た。 以前なら、雪菜の言葉を聞いた清子は必ず怒りを爆発させて、彼が出て行くのを許さなかった。 あるいは、彼を別荘から無理やり追い出して、勢いよくドアを閉めて不満をぶつけていたかもしれない。 でも今回は、清子は何もしなかった。 彼女は無言で背を向け、階段を上がっていく。律の目に残ったのは、ただ彼女の細い背中だけだった。 「清子!」 律は彼女を呼び止めた。どこか苛立ちを含んだ声だった。 「聞こえなかったのか?雪菜ちゃんが俺を呼んでる。赤ちゃんに付き添ってほしいって」 清子はうなずいたが、足を止めなかった。 「行ってらっしゃい。気をつけてね」 律は一瞬立ち尽くし、ぼんやりとした。 最後に雪菜の怒った声で我に返り、慌てて返事をした。 「すぐに行く!」 第5話 離婚届に署名した10日目、清子は大使館でビザの手続きを済ませた。 夜7時、彼女は時間通りに江崎家の本家に到着した。 誕生会は非常に華やかで、出入りしているのは名家ばかりだ。 かつて白野家もその一つだった。 律の母、菫(すみれ)はよくこう言っていた。 「京西市には女の子がたくさんいるけれど、清子だけがうちの律にふさわしい。将来清子がうちに嫁いでくるなら、絶対に実の娘のように大切にするわ」 白野家が破産した後、その態度を一変させたのも菫だった。 清子の父親の葬儀では、清子の目の前に二百万円の小切手を叩きつけ、律の将来を台無しにするなと警告し、金を受け取って身を引くよう迫った。 気持ちを整え、清子は本家の中へと足を踏み入れた。 中に入った瞬間、周囲から異様な視線を感じた。それは嘲笑や軽蔑、あるいは好奇の目だった。 人だかりの中で、菫は雪菜の手を取り、周囲の客たちに愛想よく挨拶していた。 「そうよ、こちらはうちの律の恋人――雪菜、今妊娠三ヶ月なの」 誰かがわざと挑発するように言った。 「あなたたちの息子のお嫁さんって、姓は白野じゃなかった?こんなに堂々としてて、怒られないの?」 菫は目をむき、鼻で笑うように言い放った。 「何が怖いっていうの?うちの息子がいなきゃ生きていけない落ちぶれ女に、何を遠慮する必要があるのよ! うちの息子がお人好しだから引き取ったのですよ。そうでなかったら、とっくに路地裏で野垂れ死になったでしょうね。 それにさ、子どもも産めない、こんな女ですからね」 清子は三年前に妊娠したことがある。律が車で彼女を海に連れて行く途中、ブレーキが故障し、玉突き事故が発生した。 危機一髪の瞬間、清子は咄嗟に律の前に身を投げ出した。 窓ガラスが砕けて飛び散り、清子の肌に深く突き刺さった。 彼女はその場で意識を失った。 次に目を覚ましたのは病院の病床の上だった。 医者からは、妊娠していたが流産してしまい、今後はもう母親になれない可能性が高いと告げられた。 その知らせを聞いた清子は、一晩中泣き続けた。 そんな彼女に執事はこう告げた――律はある女性に助けられ、その恩に報いるため、彼女をアシスタントとして会社に迎え入れるつもりだと。 その女性こそが雪菜だった。 清子の目には皮肉な色が浮かび、群れから離れて一人裏庭へと向かい、心を落ち着かせようとした。 しかし雪菜は彼女を追い、そっと清子のそばに近づいてきた。「清子さん、どうして中に入らないの?おばさんが私に優しくしてくれるのを見て、思わず涙が出ちゃいそうで怖いの?」 彼女はわざと目をぱちぱちさせて、清子に挑発していることを悟らせようとしていた。 「見て、これおばさんがさっきくれたの。江崎家の女主人がみんな持ってる翡翠のブレスレットなんだって。きれいでしょ?」 雪菜は得意げに手首のブレスレットを見せびらかす。 清子はもうそんなことは気にしていない。 「結局、何が言いたいの?」 「言いたいのはね、律さんはもうあなたのことなんて好きじゃないし、おばさんもあなたを認めてないってこと。なのに、なんでしつこく江崎家の奥様の座にしがみついてるの?素直に私に譲ったらどう? 昨夜、律さんが言ってたの。私を堂々と自分の隣に立たせるって。私と子どもに辛い思いはさせないって」 雪菜が怒りに満ちた様子で詰め寄る中、清子はふっと笑った。 「それなら、おめでとう」 清子はとっくに、江崎家のことも、律のことも、見限っていた。 そう言い残し、清子はくるりと背を向けてその場を後にした。 雪菜は何かを思いついたように、「あっ」と声を上げて地面に倒れ込んだ。 「誰か来て!助けて!お腹がすごく痛いの!」 律が駆けつけたとき、ちょうど雪菜が腹を押さえて苦しんでいるところだった。 ほとんど反射的に、彼は手を振り上げ、清子の頬を激しく平手打ちした。 「清子、お前はなんてことをするんだ!妊婦にまで手を出すとは!」 清子は頬に手を当て、深く失望したような眼差しを浮かべていた。 「私はやってない」 「俺はこの目で見たんだ!」 律は清子の手首をつかみ、骨が砕けそうなほど強く握りしめた。 「前回の教訓をもう忘れたのか?もし雪菜ちゃんに少しでも危害を加えたら、お前のあのくたばり損ないの母親を、骨の髄まで悔いさせてやる!」 「次なんて待つ必要はない、今やってもいいよ」 菫は怒りをあらわにしてボディーガードを連れて駆けつけ、清子を押さえつけるよう命じた。 雪菜はすすり泣きながら首を振った。 「おばさん、律さん、お願いだからやめて。清子さんも、わざとじゃないんです。私が律さんの子供を妊娠したことが、ただ嫉妬しただけなの。その気持ち、私にも分かりますから」 彼女は振り返り、ドサッと清子の前にひざまずいた。 「清子さん、続けて私を殴ってください。それであなたの怒りが収まるなら、私はどんなことでもします。ただ……お願いです、私の赤ちゃんだけは傷つけないでください」 清子は思わず呆れて笑いそうになった。 「だから言ったでしょ、私は彼女を突き飛ばしてなんかいないって。信じられないなら、裏庭に監視カメラがあるんだから、それを見れば一目瞭然よ……」 雪菜の顔色がさっと青ざめ、歯を食いしばったまま気を失った。 律の怒りがついに爆発し、清子の腕をつかんでプールサイドまで引きずり、髪をつかんでそのまま水に押し込んだ。 一度、二度…… プールの水が清子の口と鼻から流れ込み、肺にまで達した。 激しい痛みで視界が真っ暗になり、喉から血がにじみ出し、耳元ではブンブンと音が鳴り響く。 プールのほとりでは、雪菜がいつの間にか目を覚まし、菫の胸にすがって弱々しく身を寄せていた。 周囲の招待客たちはひそひそとささやき合っていた。 「江崎社長はちょっとやりすぎじゃない?本気で殺す気だったんだね」 「自業自得よ。あんなに人をいじめてたんだから……」 三十分後、律はようやく手を離した。 彼は雪菜のそばへ歩み寄り、優しい声で話しかけた。 「もう大丈夫。仕返しはしておいたよ。お腹、まだ痛む?病院に連れて行くよ」 そう言って、雪菜を横抱きにし、振り返ることなくその場を後にした。 菫は清子を見下ろしながら一蹴りし、怒りを込めて立ち去った。 その場には誰もいなくなった。 残されたのは清子ただ一人。地面にうずくまり、まるで死んだ魚のように動かない。 涙が枯れた頃、彼女は手元の結婚指輪を見つめ、突然、心底から引き裂かれるような笑い声をあげた。 携帯を取り出し、見知らぬ番号に電話をかけた。 「前に言ってた、江崎家の脱税の証拠と引き換えに六十億円出すって話、まだ有効?」 第6話 あの日以来、清子は家に戻らなかった。 代わりにホテルで十数日を過ごしていた。 その間、律は彼女への当てつけのように、毎日SNSで雪菜に関する投稿を更新し続けた。 雪菜の誕生日を祝って、プレゼントには清子が欲しがっていた宝石のブローチを贈った。 雪菜を自宅に住まわせ、シーツや布団カバーは清子が自ら選んだデザインのものだった。 雪菜との結婚式を約束し、その場所は清子と結婚式を挙げた教会だった。 業界の友人たちはこぞって祝福し、二人はまさにお似合いのカップルだと口をそろえた。 律もようやく目が覚めた、清子のようなブス女はとっくに捨てるべきだった、と言う者もいた。 中には、どうせなら徹底的にやればいい、結婚式どころか清子と離婚して雪菜と結婚してしまえ、という声まであった。 そのコメントは最上位に表示されていた。 律は返信しなかった。 翌日見返すと、それはすでに誰かに削除されていた。 清子はそんな些細なことには気を留めず、星野雄太(ほしの ゆうた)との取引に全力を注いでいた。 離婚届に署名した29日目。 清子は律との家に戻った。 案の定、家の中はすっかり雪菜の好みに変えられていた。 清子の写真や衣類はすべて切り裂かれていた。 幸い、クローゼットに隠しておいた免許や離婚協議書は、無事に見つからずに済んだ。 免許を手に取り、清子が出て行こうとしたその時、雪菜が大きなお腹を抱えてドアの前に立ちふさがった。 「清子、まさかそこまで我慢強いとは思わなかったわ。私にあれだけ辱められて、上流階級の笑い者にまでなって、それでもまだ江崎家にしがみついて出て行こうとしないなんて。 でも、そうよね。お父さんは飛び降り自殺して、お母さんも亡くなったばかり。そりゃあ、江崎家っていう大きな船にしがみつくしかないわよね?だって、京西市であんたを相手にしてくれるのは、律さん以外に誰もいないんだから」 そう言ったあと、雪菜はふと何か面白いことを思い出したように、清子に無邪気な笑みを浮かべた。 「ねえ、どうして律さんがあんなに私のこと好きか、知ってる? だって私、彼に言ってあげたんだもの。あの日あなたたちが一緒に交通事故に遭った時、あなたは逃げるために彼を置き去りにしたって。彼を車から救い出したのは私だよと。 律さんを病院に連れて行った時、あなたはまだ助手席に閉じ込められたままで、下半身からはたくさんの血が流れていた。私はその目であなたが流産する瞬間を見ていたのよ。 それから、あなたのお母さんのこともね。私が医者に金を渡して、植物状態でも呼吸器を外して問題ないって、律さんに伝えさせたの。だからあなたは、目の前でお母さんが死んでいくのを、ただ見ているしかなかったのよ。 清子さん、見てよ、私こんなに頑張ったんだから、あなたが私に敵うわけないでしょ?」 ハンドバッグがバサッと音を立てて床に落ちた。 清子はついに堪忍袋の緒が切れ、手を振り上げて雪菜の頬を打った。 次の瞬間、首の後ろに鋭い痛みが走り、そのまま意識を失った。 目を覚ますと、彼女と雪菜は交通事故で車内に閉じ込められており、三年前と同じ状況だった。 ただ違ったのは、今回は選択の立場にあるのが律だった。 救助隊員が状況を確認し、深刻な口調で言った。 「江崎社長、奥様と朝倉さんが変形した車体の前に閉じ込められています。時間がありません。今はお一人しか救出できません。どちらを先に助けますか?」 律は一瞬の迷いもなく答えた。 「清……」 その言葉が終わらぬうちに、雪菜が腹を押さえながらか細い声で言った。 「律さん、清子さんを助けてあげて。彼女は七年間ずっとあなたのそばにいたので、私はただ一度、あなたの命を救っただけだから。彼女を選んで。私と赤ちゃんは大丈夫だから」 律は一瞬言葉を飲み込んだ。 「雪菜を助けてください」 救助隊員は眉をひそめた。 「江崎社長、本気でおっしゃってますか?この女性はエアバッグに挟まれているだけですが、奥様は脚全体が押し潰されており、傷の程度は比較になりません。処置を誤れば、最悪の場合は切断という事態も考えられます……」 「雪菜を助けろと言った」 律の声は氷のように冷たかった。 「清子は俺の妻だ。たとえ脚を失っても、江崎家が一生面倒を見るから。 でも雪菜は違う。彼女はかつて俺を救ってくれた。だから、俺が責任を取らなければならない」 救助隊員はそれ以上何も言わず、道具を手に取りドアをこじ開けた。 清子は、救援隊が雪菜を慎重に救出する様子をじっと見つめていた。しかし車体の反対側では、圧迫された金属片が彼女の太ももに深く食い込み、耐えがたい激痛が瞬時に全身を走った。朦朧とする意識の中、彼女はまるで七年前に戻ったかのような感覚がよみがえった。 うっかり転んだ彼女の前で、律が片膝をつき、傷口にそっと息を吹きかけてくれた。 「清子、そんなに俺を心配させないでよ?」 今、彼女は車の中に閉じ込められ、血が止まらない。 最後に目にしたのは、律が雪菜を抱きかかえ、大股でその場を去っていく姿だった。その背中は、どんどん遠ざかっていった。 第7話 清子が再び目を覚ましたのは、病院の集中治療室だった。 医師は彼女の傷口を診察しながら、安堵の表情を浮かべて言った。 「非常に危険な状態でした。あと1ミリでも深ければ大動脈を傷つけるところで、不幸中の幸いです。すぐに救急搬送されたおかげです。そうでなければ、脚の機能はおろか、命自体が危険に晒される状況でしたよ」 清子はかすかに笑みを浮かべた。しかし、意識が朦朧としていた時に耳にした会話が、頭の中で繰り返されていた。 「患者が緊急で輸血が必要なのに、なぜ血液バンクが使えないんです?」 「実情を話すとね……江崎社長の彼女が腹痛を訴えられて、社長の指示で血液バンクが使用禁止になったんです。万が一に備えて、全血液をそちらで確保とのことですよ」 「そんな……ありえません!これで我々はどうしろと?」 「もう……自然治癒を待つしかない状況です」 やっぱり律は、本気で彼女の死を望んでいたのか? 極限の痛みに、心までもが麻痺してしまったのか、この瞬間、清子の目からは一滴の涙もこぼれなかった。 ただ、彼らはあと数時間で財産分与が終わり、離婚が成立することだけが、唯一の救いだ。 夜、律が彼女を見舞いに来た。包帯で覆われた彼女の太ももに視線を落とし、しばらく呆然としたまま、ようやく口を開いた。 「雪菜は俺の命を救ってくれた。だから、彼女に対して責任を果たさなければならない」 清子は何も言わず、ただ目の前にいる、この七年間を捧げた男をじっと見つめていた。 彼女は尋ねたかった。かつて自分をどれほど愛していたのか、覚えているのかと。 そして、あの交通事故で、自分も彼のために一人の子どもを失ったことを、覚えているのかと。彼に聞いてみたかった。もし本当に彼女が死んだら、どうするつもりだったのかと。 清子は何度も考えた。でも、口から出たのはたった一言だけだった。 「わかったわ」 彼女は知っていた。彼が自分を愛していないことを。 あの赤ちゃんのことも、最初から気にかけたことがなかったことを。 自分が死んでも、律は微塵も気に留めないことを。 そして何より、今日が終われば、自分と律との関係は完全に終わるということを。 深く息を吸い込み、清子は静かに口を開いた。 「律、私たち、離……」 そのとき突然、スマホの着信音が鳴り響き、雪菜の甘える声が聞こえてきた。 「律さん、おばさんがカメラマン連れてきたの。一緒に家族写真撮るんだって。あとはあなたが来るだけだよ!」 律は一瞬ハッとしたように表情を曇らせ、思わず病床を見た。そこにあったのは、清子の閉じられた瞳だけだった。彼女はもう彼のことを気にしていないのか? 律の脳裏にふとその言葉がよぎった。 だがすぐに首を振る。 そんなはずはない。清子はあれほど自分を愛していたし、そもそも……彼女の母親だって江崎家の支援がなければ生きていけないはずだ。 そう思った瞬間、律の目がふと優しくなった。 「清子、ゆっくり休んで。退院したら、俺が自分でお義母さんを迎えに行くよ」 部屋のドアが閉まると、清子はスマホを取り出して執事に電話をかけた。 「私の部屋にある、証明書類が入ったバッグを病院に届けて」 そして雄太にメッセージを送った。 【迎えに来て】 一時間後、清子は律のすべての連絡先を削除し、車椅子に乗って病院を後にした。 その頃、家族写真を撮っていた律のもとに、弁護士から通知が届いた。 【江崎様、ご通知申し上げます。あなたと白野様の財産分与が終わり、離婚が本日正式に成立いたしました】