真実の愛は、もう還らない

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真実の愛は、もう還らない

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会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手...

Chương (1)

第1章

会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手は激怒し、その場で契約を取りやめ、会社には20億を超える損失が出た。 社長である恋人の山本颯太(やまもと そうた)は激しく怒り、私を副社長の座から平の営業にまで降格させたうえ、毎日睡眠は三時間まで、それ以外の時間はすべて会社のために身を粉にして稼ぎ、会社の損失を完済するまで働けと命じた。 私は罪悪感を抱えながら、毎日必死に働き、案件を取って金を稼いだ。だが、もうすぐ借金を返し終えられるというところで、喜び勇んで進捗を報告しに社長室へ向かった私は、そこで彼と女性秘書の会話を耳にしてしまった。 「山本社長、あのとき久世さんは私の歩合からたった一円差し引いただけなのに、あなたはこっそり彼女の飲み物に下剤を混ぜて、取引先の前であんな大失態を演じさせたんですよね。そのあとも、巨額契約を失ったのは彼女のせいだって責任を押しつけて、死にものぐるいで損失を穴埋めさせて……さすがに少しやりすぎじゃありませんか? もう借金もほとんど返し終えていますし、そろそろ許してあげてください。だって、社長は本気で久世さんを愛しているんでしょう?もし久世さんを追い詰めすぎて、本当にあなたのもとを去ってしまったらどうするんですか。私のせいで、お二人が引き裂かれるようなことにだけは……」 井上桃花(いのうえ ももか)の言葉を、彼は遮った。 「だめだ。君は俺の命の恩人なんだ。あのとき交通事故で大出血した俺が、今こうして生きていられるのは、君が輸血してくれたからだろう? 怜奈は、俺がこの世でたった一人愛している女だ。だが、君の歩合を差し引いた以上、罰は受けてもらう。それが20億なら20億だ。一銭たりとも減らすつもりはない。それに、あいつは有能だ。あと一か月もあれば完済できる。そのときはきちんと埋め合わせをして、結婚するつもりだ」 けれど彼は知らない。私には、もう一か月も残されていない。 この数年、彼のいう損失を返すために身体を酷使しすぎたせいで、私は胃がんになっていた。余命は、あと一週間しかない。 それに、あの日交通事故に遭った彼に輸血したのは、桃花ではなく私だった。 第1話 会社が巨額契約を締結するその日、私、久世怜奈(くぜ れな)はひどい風邪で嘔吐と下痢に見舞われ、取引先の顔に汚物を浴びせてしまった。相手は激怒し、その場で契約を取りやめ、会社には20億を超える損失が出た。 社長である恋人の山本颯太(やまもと そうた)は激しく怒り、私を副社長の座から平の営業にまで降格させたうえ、毎日睡眠は三時間まで、それ以外の時間はすべて会社のために身を粉にして稼ぎ、会社の損失を完済するまで働けと命じた。 私は罪悪感を抱えながら、毎日必死に働き、案件を取って金を稼いだ。だが、もうすぐ借金を返し終えられるというところで、喜び勇んで進捗を報告しに社長室へ向かった私は、そこで彼と女性秘書の会話を耳にしてしまった。 「山本社長、あのとき久世さんは私の歩合からたった一円差し引いただけなのに、あなたはこっそり彼女の飲み物に下剤を混ぜて、取引先の前であんな大失態を演じさせたんですよね。そのあとも、巨額契約を失ったのは彼女のせいだって責任を押しつけて、死にものぐるいで損失を穴埋めさせて……さすがに少しやりすぎじゃありませんか? もう借金もほとんど返し終えていますし、そろそろ許してあげてください。だって、社長は本気で久世さんを愛しているんでしょう?もし久世さんを追い詰めすぎて、本当にあなたのもとを去ってしまったらどうするんですか。私のせいで、お二人が引き裂かれるようなことにだけは……」 井上桃花(いのうえ ももか)の言葉を、彼は遮った。 「だめだ。君は俺の命の恩人なんだ。あのとき交通事故で大出血した俺が、今こうして生きていられるのは、君が輸血してくれたからだろう? 怜奈は、俺がこの世でたった一人愛している女だ。だが、君の歩合を差し引いた以上、罰は受けてもらう。それが20億なら20億だ。一銭たりとも減らすつもりはない。それに、あいつは有能だ。あと一か月もあれば完済できる。そのときはきちんと埋め合わせをして、結婚するつもりだ」 けれど彼は知らない。私には、もう一か月も残されていない。 この数年、彼のいう損失を返すために身体を酷使しすぎたせいで、私は胃がんになっていた。余命は、あと一週間しかない。 それに、あの日交通事故に遭った彼に輸血したのは、桃花ではなく私だった。 …… オフィスの外。 颯太と桃花の会話を耳にした瞬間、私は全身を雷に打たれたような衝撃に襲われ、身体の震えが止まらなくなった。 この三年間、私は毎日三時間しか眠っていない。いや、三時間にも満たない日だって少なくなかった。徹夜で働き続けることも何度もあった。 仕事を取るために、私はほとんど毎日取引先の酒席に付き合わされ、日本酒や焼酎を浴びるように飲まされた。限界を超えれば病院で胃洗浄を受け、退院したその足でまた、命を削るように酒をあおった。 普段も金を浮かせるため、接待のとき以外は蒸しパンのような質素なものだけで飢えをしのぎ、水だけを飲んでいた。会社と家は十キロ離れていたが、私は毎日走って通勤していた。 ただ一日でも早く、自分が会社に与えてしまった20億を超える損失を返しきるために。 その20億を超える損失は、まるで巨大な山のように私の肩にのしかかり、颯太に対する罪悪感と自責の念で、私はずっと押し潰されそうになっていた。 颯太は何もないところから会社を立ち上げ、一歩ずつ会社を上場目前まで育て上げた。その道のりがどれほど苦しかったかは、ずっとそばで支えてきた私が誰よりよく知っている。 だからこそ、取引先の前で失態をさらし、会社に巨額契約の機会を失わせたうえ、上場まで延期に追い込んでしまったあのとき、颯太から厳しい処分を下されても、私はそれを当然の報いとして受け入れた。 この数年、疲れ果ててもう無理だと思うたびに、押し寄せてくる強烈な罪悪感が私を支え、また命を削るように働き続けさせた。 けれど今、最後の案件がまとまろうとしていて、20億を超える損失もまもなく返し終え、この身にのしかかっていた大きな山がようやくどかされようとしていたそのとき、颯太は私にさらに重い一撃を与えた。 第2話 まさか、命がけで私を愛しているはずの颯太が、こんな卑劣な企みを巡らせていたなんて、夢にも思わなかった。 私の水筒に下剤を入れ、取引先の前で恥をかかせ、身に覚えのない20億超の損失を背負わせて返済させる。 そのすべてが、たった1円、桃花の歩合を差し引いたというだけの理由だった! けれど、私が桃花の歩合を1円差し引いたのは、彼女が毎日遅刻し、営業成績もまるで基準に達していなかったからだ。 今でもはっきり覚えている。その1円の歩合の件で、当時の颯太は烈火のごとく怒っていた。 とはいえ、私の判断は規定に則った正当なもので、あくまで軽い戒めにすぎなかった。颯太は怒りこそしたものの、社内規定がある以上、最終的には引き下がるしかなかった。 私はてっきり、その件はそれで終わったのだと思っていた。まさか颯太がそのことで私を逆恨みし、ここまで容赦なく手を下していたなんて。 すべては、桃花が彼の命の恩人だったから。彼の恩人を傷つけた私を罰しようとしたのだ。 でも、あの時、交通事故で大出血した彼に3000ミリリットルの血を輸血して命を救ったのはこの私だ。 どうして、それが桃花になっているの? 颯太は騙されてる! 私はその瞬間、すべてを悟った。 あの時、颯太に輸血したあと、私は極度の虚弱状態に陥って、そのまま意識を失った。目を覚ましたあとも、私はそのことを颯太に一度も話さなかった。彼に気を遣わせたくなかったからだ。だからこそ、桃花に付け入る隙を与えてしまい、私のしたことを横取りされたのだ。 すべてを理解した私は怒りで全身が煮え立ち、オフィスのドアを蹴り飛ばして中へ駆け込んだ。 「颯太、あの時あなたに輸血して命を救ったのは私よ!この女に騙されてる!」 私は桃花を睨みつけた。口先だけでは証明にならないと分かっていたから、すぐにスマホの中の献血記録を突きつけた。 嘘を暴かれ、桃花の顔には一瞬、狼狽と後ろめたさが浮かんだ。だが次の瞬間にはそれを押し隠し、いかにも傷ついたような顔で言った。 「さっき、私と山本社長の話を聞いていたんでしょう?それで私を恨みしてるのかもしれませんけど、でもこの件は私のせいじゃありません。山本社長がどうしてもあなたを罰して、私のために鬱憤を晴らすんだって聞かなかったんです。私はそのとき、ちゃんと止めたんですよ。 あなたが私を恨む気持ちは分かります。この三年間、あなたがどれだけ苦しんできたかも。でも、あのとき山本社長に献血したのは本当に私なんです!恨んでいるからって、私に濡れ衣を着せるのはやめてください!」 桃花は演技にますます熱が入り、その場で声を上げて泣き出した。その芝居がかった泣きっぷりはまるで名女優のようだった。 「そう?じゃあ、あなたの献血記録を出してみなさいよ!」 私は怒りのあまり、逆に笑ってしまった。 この三年、私が味わってきたものは、ただ苦しいなどという生易しいものではなかった。 「わ……私は、その時、山本社長を助けるのに必死で……献血記録なんて受け取っていません……」 桃花はまたしても動揺を見せた。 「献血記録は全部オンラインで確認できるのよ。スマホを開けばすぐ分かるでしょう」 私は冷たく笑い、じりじりと追い詰めた。 「もういい、怜奈。お前を罰したのは俺の意思だ。桃花は関係ない。恨むなら俺を恨め。桃花に八つ当たりするな」 颯太は私を突き飛ばし、桃花を庇うようにその前に立った。 「でも、あの時あなたに輸血したのは本当に私なのよ!これが献血記録よ。当時あなたの手術を担当した医者だって証言できる。調べればすぐ分かるわ!」 私はスマホに表示した献血記録を、颯太の目の前に突きつけた。 けれど彼は、それを一目たりとも見ようとしなかった。私のスマホをそのまま叩き落とし、顔いっぱいに失望を滲ませながら―― 第3話 「1円の歩合の件で、お前への処分が少し重すぎたのは認める。けど、だからってここまでやるか?俺に罰された腹いせに桃花を陥れて、挙げ句の果てには、俺に献血した手柄まで自分のものにしようとするなんてな。 怜奈、今はっきり言う。あのときお前を罰したのは、恩人を傷つけたからだけじゃない。お前が桃花に嫉妬して、何かあるたびに突っかかってたからだ。俺はその性根を叩き直すつもりで、お前に罰を与えた。けど、今になって分かった。お前は嫉妬深いだけじゃない。他人の手柄まで横取りしようとする最低な人間だったんだな。 本当に見る目がなかった。もともとは、お前がこの二十億の損失を返し終えたら結婚するつもりだった。けど今のお前は、到底そんな資格なんかない。処分はさらに十億上乗せだ。 会社のためにあと十億稼いだら、そのとき改めて結婚のことは考えてやる。受け入れられないなら、そこで終わりだ。 今すぐ跪いて、桃花に謝れ」 私は一瞬、呆然と立ち尽くした。胸の奥からどうしようもない失望がじわじわと広がっていく。 桃花が彼の命の恩人としての功績を横取りしていたと知った時、私はこの三年間の颯太の仕打ちを責めようとは思わなかった。颯太が、恩義というものを何より重く見る人間だと知っていたからだ。しかも、その恩は常軌を逸するほど返そうとする。 だから私は、彼はただ桃花に騙されていただけだと、そう固く信じていた。 けれど今、私は証拠を彼の目の前に突きつけたのに、彼は一瞥すらしなかった。ただひたすら桃花の言葉だけを信じて、さらに私への罰を重くしようとした。 私が桃花の能力に嫉妬している? あの女に何の取り柄があるというの? 毎日遅刻して、成績は最下位、どうしようもない役立たずじゃない。 その時になってようやく分かった。彼の桃花への感情は、ただの恩義なんかじゃない。とっくに心はあの女へ傾いていたのだ。 「ははっ、私がこの女に謝る?寝言は寝て言って」 私は込み上げるものを押し殺しながら、苦く笑って背を向けた。 ここまで完全に心が離れている相手に、これ以上ここへ留まる理由なんて、もうどこにもない。 「久世さん、怒らないでください。このことは全部、私が悪いんです。私がいけなかったんです、あのとき社長を助けたりしなければよかった。全部私のせいですから、お願いです、私のことでお二人の仲まで壊さないでください。あのとき山本社長を助けたのがあなたということでも構いません。この功績はあなたにお譲りしますから!」 桃花は慌てて駆け寄ってきて、私の腕をつかんだ。いかにも気まずそうな顔をして取りなすふりをしながら、その実、私と颯太の溝をさらに深めようとしているのが見え透いていた。 「触らないで!」 私は吐き気がするほど嫌悪感を覚え、彼女の手を力任せに振り払った。 すると桃花はその勢いのまま、わざとらしく壁にぶつかり、鼻を強かに打って、すぐに鼻血を流した。 「きゃあっ!」 彼女は悲鳴を上げ、そのまま床に倒れ込んで苦しげに身体を痙攣させた。 「久世さん……あまりにもひどすぎます……私はただ、お二人に仲直りしていただきたかっただけなのに……どうして私を殴るんですか?」 「怜奈、お前はやりすぎだ!」 颯太は私を怒鳴りつけると、血相を変えて桃花のもとへ駆け寄った。 「桃花、大丈夫か?」 桃花は得意げに私を一瞥したあと、すぐに力のないふりをして弱々しく言った。 「貧血の発作が出たみたいで……もう死んでしまいそうなんです……なるべく早く病院へ連れて行って、必要であれば輸血もお願いしたいのですが…… でも、私の血液型は少し特殊で、病院でも毎回、血液を確保するのに何日もかかるんです。私……久世さんの血液型が私と同じだったのを覚えています。お願いです……彼女から輸血用の血液を提供していただけませんか?」 「私が輸血する?笑わせないで」 私は鼻で笑い、この芝居がかった女をこれ以上相手にする気にもなれず、そのまま背を向けて立ち去った。 第4話 「それはお前に決められることじゃない!俺の命の恩人に手を出したんだ、この血は嫌でも輸血してもらう!誰か、怜奈を病院へ連れて行け!」 颯太が怒鳴ると、すぐに外から二人の警備員が駆け込んできて、私を取り押さえた。 まさか彼が、桃花のためにここまでやるとは思わなかった。 私は慌てて叫んだ。 「颯太、私は胃がんなの。余命はあと一週間しかない。輸血なんてできない、したらその場で死んでしまう!」 私は本当に、もうすぐ死ぬ。 この三年間、私は死にものぐるいで働き、死にものぐるいで酒を飲み続けた。そのせいで胃はとっくにぼろぼろになっていて、三か月前にはすでに胃がんの末期だと診断されていた。 本来、今日ここへ颯太に会いに来たのは、仕事の進捗を報告するためだけじゃない。別れを告げるつもりでもいた。 末期の胃がんで、余命一週間の人間が、雲の上のような社長である彼に釣り合うはずがない。 私なんかが彼の未来を邪魔したくなかった。この三か月、私を生かしていたたった一つの支えは、20億の借金を返しきって、せめて颯太が少しでも楽に生きられるようにすることだけだった。 なのに、そこで私は真実を知ってしまった。しかも、颯太の心がとっくに私から離れていたことまで思い知らされた。 それでも私は、もうすぐ死ぬことを颯太に伝えるつもりはなかった。 さっきまでは、彼の負担になりたくなかったから。今は、彼には知る資格なんてないと思ったからだ。 私はもともと、相手にすがりつくような性格じゃない。 颯太の心が桃花へ傾いているとはっきり分かった時点で、私はもう彼とこれ以上関わるつもりはなかったし、何かしらの正義を取り戻したいとも思わなかった。 死を間近にした人間にとって、これまで受けた理不尽も、怒りも、どれも取るに足らないものになっていく。 けれど、私はまだ今日ここで死にたくはない。 颯太と出会う前の私は父も母もいない孤児で、必死に働いて、たった一人で生きてきた。 彼と付き合うようになってからは、ずっと彼に付き添って会社を立ち上げ、上場の夢を叶えるために走り続けた。この三年、身に覚えのない借金を返すために、私は自分の人生を一度も生きてこなかったようなものだった。 だから残された最後の一週間だけは、自分がずっと生きたかったように生きてみたかった。海を見て、山を見て、この美しい世界をちゃんと自分の目で見たかった。 でも今、颯太は私に桃花への輸血を強要している。もうどうしようもなくて、私は真実を口にするしかなかった。 「颯太、私は胃がんなの。余命はあと一週間しかない。輸血なんてできない、したらその場で死んでしまう!」 「本当か?」 颯太の目に、一瞬だけ迷いがよぎった。 だがその時、桃花がまた芝居がかった悲鳴を上げた。 「もう無理です……私、死んじゃいそう……山本社長、死にたくない……助けてください……」 その瞬間、颯太の目に浮かんだためらいは、きれいさっぱり消え去った。そして彼は冷たく笑った。 「怜奈、お前って本当に最低だな。毎日徹夜同然で働いて、取引先との飲みだって平気な顔でこなしてるお前が、病気だって?桃花に輸血したくないからって、自分が死ぬなんて嘘までつくのか。俺はこんな女を何年も本気で愛してたのかよ。 はっきり言う。たとえお前が本当に死にかけてたとしても、今日は絶対に桃花に輸血してもらう。桃花にけがを負わせたんだ。それはお前の責任だ。 それに、輸血が終わったら俺たちは終わりだ。お前みたいな卑しい女に、俺の気持ちを受け取る資格なんてない」 颯太の心がもう私にはないと、頭では分かっていた。 それでも、その言葉を実際に突きつけられた瞬間、胸の奥が激しく引き裂かれるように痛んだ。まるで無数の刃に一斉に貫かれたかのようだった。 第5話 「ポケットに診断書が入ってるの!出して見れば分かる!」 私は最後の抵抗を試みた。 「連れて行け!」 颯太はもう私に視線すら向けず、警備員に私を引きずって行けと冷酷に命じた。 はは…… なんて滑稽なのだろう。 この、私が十年近く守ってきた男。命を懸けてまで、彼の上場という夢を叶えようとしてきた男が、こんなふうに私を扱うなんて。 たとえ桃花が本当に彼の命の恩人だったとしても、たとえ私が本当にどんな手でも使う卑劣な人間だったとしても、それでも私たちは十年ものあいだ、ずっと一緒に生きてきた。 苦しい時には寄り添い合い、一緒に会社を立ち上げ、一緒に駆けずり回り、金のない頃には屋台の焼きそばを二人で分け合って食べた。私たちは…… 脳裏に浮かぶのは颯太と過ごした、苦しくも甘いあの頃の日々だった。 私たちの間には、確かにたくさんの幸せな思い出があった。 いったいいつから、私たちの愛は変質してしまったのだろう。 たぶん、桃花が現れてからだ。 あの日、桃花が突然現れた時、颯太の目にそれまで見たことのない光がよぎった。 あの時の私は、それをただ新人への期待や評価だと思っていた。けれど今なら分かる。あれは、颯太が彼女に恋心を抱き始めたサインだったのだ。 そうだろう。若くて美しい命の恩人の魅力に、誰が抗えるというのだろう。 だから颯太は、桃花を際限なく庇うようになった。私が会議で彼女を少し注意しただけで、颯太は私の四半期ボーナスをまるごと取り上げた。 私が規定どおりに桃花の歩合を1円引いただけで、彼は私に20億を背負わせる罠まで仕掛けた。 恋ゆえのえこひいきは、きっとずっと前から始まっていたのだ。そして今、それがようやくはっきり形になって現れただけだった。 私も、もっと早く身の程を知るべきだったのだ。 この十年を振り返ると、自分がとてつもなく大きな笑い話の主人公みたいに思えてくる。 ふと、海を見たいとか、山を見たいとか、この世界を見てみたいとか、そんな願いさえ急に色を失っていった。 こんな人生で、こんな境遇なら、こんなふうに死んでいくのも相応しいのかもしれない。 私はもう抵抗しなかった。もう何も説明しなかった。ただ二人の警備員に引きずられるまま会社を出て、車に乗せられ、病院へと運ばれていった。 今の颯太は巨万の富を持ち、思いのままに物事を動かせる男だった。 私は病院へ連れて行かれ、検査すらされないまま、そのまま処置室へ送られ、採血用の管をつながれた。 最初から最後まで、私は一切抵抗しなかった。一つは、二人の警備員に押さえつけられたうえ、颯太にもずっと監視されていて、抵抗のしようがなかったから。もう一つは、抵抗する気力さえなかったからだ。 処置が始まる前、颯太は珍しく表情を和らげ、穏やかな口調で私のそばに寄ってきた。 「ちゃんと桃花のために血を出せ。さっき別れると言ったのは、あれは売り言葉に買い言葉だ。俺たちは十年も愛し合ってきたし、一緒にいくつもの苦労を乗り越えてきた。たとえお前の人間性に問題があったとしても、どうして本気で別れられると思うんだ? ちゃんと輸血して、外に出たら今度は会社のために200億稼げ。そうしたら、お前と結婚してやる」 私はもう死の淵にいた。そのうえ二人の警備員にあれだけ乱暴に扱われ、身体は極限まで弱り切っていた。頭もぼんやりしていて、颯太の言葉が本心なのか、それとも私を大人しく輸血させるための口先だけなのか、もう判断もつかなかった。 でも、私にとってはどちらでもよかった。 血を抜かれ始めたその瞬間から、私の命はもう秒読みだった。血を抜き終えた時、それがそのまま私の最期になるのだと思った。 善悪も、真実も、結婚するかどうかも、もう何一つ私には関係ない。 「……ええ」 私はかすかにそう答え、目を閉じて、死神が訪れるのを待った。 手術室の中は静まり返っていた。 自分の呼吸の音さえ聞こえるほどに。その息はあまりにも弱く、あまりにも不規則に揺れていた。 第6話 それから、颯太が立ち去る足音が聞こえた。扉が閉まる音も。 そのあとで、桃花の得意げな声が耳に入った。 「まさか、自分が十年も愛した男が、ここまで私に肩入れするなんて思わなかったでしょう? 私があんたの手柄を横取りして命の恩人になりすましただけで、あの人は私に感謝してくれた。あんたが私の歩合をたった一円引いただけで、私は少し可哀想なふりをしただけなのに、あの人はあんたを丸三年もかけて罰したのよ! あんたが献血の証明書を目の前に突きつけても、あの人は一目も見ようとしなかった。でも私は少し口を動かしただけで、全部信じてもらえたの。 今だって、私はただの貧血なだけなのに、あんたから3000ミリリットルも血を抜こうとしてる。あんたが胃がんの末期で、もうすぐ死ぬなんて、これっぽっちも信じてないのよ。 それなのに、あんたはあんなに弱ってて、病院へ来る途中には血まで吐いてた。普通の人なら、誰だって様子がおかしいって気づくはずなのに、あの人はまるで気づかなかった。どういうことか分かる?あの人の心は、全部私に向いてるってことよ。 久世怜奈、あんたって本当に哀れね!」 「それであなたが満足なら、それでいいわ」 私は冷たくそう返した。 桃花はたしかに憎たらしいし、口にすることも腹立たしいものばかりだった。けれど私はもうすぐ死ぬ身だ。今さら何もかも、どうでもよかった。 桃花は、こちらがまるで相手にしないのが気に入らなかったのか、悔しそうにぎりっと歯を食いしばった。 「じゃあ、もう一つ秘密を教えてあげる。あんたの胃がん、酒の飲みすぎが原因じゃないの。私がずっと少しずつ毒を盛ってたのよ!」 私ははっと目を見開いた。もうすぐ死ぬとしても、自分の胃がんが誰かに毒を盛られたせいだと知れば、さすがに怒りが込み上げてくる。 桃花は嘲るように笑った。 「そんな目で見ないでよ。私だって、こうするしかなかったの。だって、あんた本当にしぶといんだもの。三年も寝る間も惜しんで働き続けるくらいなら、いっそ社長と別れてくれればよかったのに、最後までしがみついて離れようとしなかったでしょう? それに、社長も社長よ。あんたに本気だったから、私が命の恩人として三年間ずっとあんたの悪口を吹き込んでも、なかなか別れようとしなかった。どうしてもあんたと結婚するつもりだった。だからもう、あんたに消えてもらうしかなかったの。あの人も、あの人の財産も、全部手に入れるにはね。 安心して。あんただけ先に逝かせたりしないわ。あんたが死んだら、死因なんて適当にごまかして、そのあとで社長にプロポーズするの。そして財産を手に入れたら、今度はあの人もあんたのところへ送ってあげる」 ふっと、心の底で笑いが漏れそうになった。 どうやら哀れなのは、私だけではなかったらしい。 颯太はきっと、自分があれほど大事にしてきた命の恩人が、ここまで腹黒い女だったなんて夢にも思っていないだろう。 それなら、もう安心だ。 まさに因果応報。 やがて、医者が入ってきた。 採血が始まった。 けれど私から抜かれた血は、桃花には使われなかった。私の胃がんは彼女自身が引き起こしたものだ。そんな女が、私の血を使う危険を冒すはずがない。彼女はとっくに医者を買収していて、私の血はそのまま排水へ流されていった。 血が少しずつ失われていく。 全身がじわじわと冷えていき、死神が近づいてくるのをはっきり感じた。 ぽたっ。 ぽたっ。 ぽたっ。 死の足音が迫るにつれ、私の呼吸はますます弱くなっていった。 魂が身体を離れようとした、その時―― 手術室の扉が乱暴に開いた。三年前の献血記録を握りしめた颯太が、血の気の引いた顔で取り乱したまま駆け込んできた……