入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~

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入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~

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五年越しの恋、周囲も公認の仲。 しかし、入籍当日、婚約者は現れなかった。 プライドをズタズタにされた私は、彼との絶縁を誓う。 失意のど...

Chương (1)

第1章

五年越しの恋、周囲も公認の仲。 しかし、入籍当日、婚約者は現れなかった。 プライドをズタズタにされた私は、彼との絶縁を誓う。 失意のどん底で、私は彼への当てつけのように結婚を決めた。 相手は、あろうことか元カレの実の兄であり、「金融界の冷徹な帝王」と恐れられる男だった。 愛のない生活になる……そう思っていたのに。 始まった新婚生活は、予想を裏切る激甘な日々だった!? 彼は私をお姫様のように溺愛し、どんなわがままも叶えてくれるのだ。 ある日、元カレが私を嘲笑いにやってきた。 「お前なんて価値がない」と罵る弟に対し、夫は容赦なく鉄槌を下す。 「俺の妻は、何にも代えがたい宝物だ。彼女を侮辱するなら、一族から追放してやる!」 その時、私は初めて知ることになる。 私が恐れていたこの男が、実は10年も前から私に執着し、ずっと俺のものにする機会を窺っていたことを…… 第1話 「なぁ和也、今日は絵里と籍を入れる日だろ?すっぽかして、あいつ怒らねえの?」 「絵里が和也にベタ惚れなのは周知の事実じゃんか。和也が寧々のために行かなかったって知っても、怒る度胸なんてあるわけねえって」 「そうよ。絵里なんかが寧々に勝てるわけない。和也は昔っから寧々を溺愛してるんだから……」 …… 彼らが口にする「寧々」という少女は藤原寧々(ふじはら ねね)、藤原和也(ふじはら かずや)の義妹だ。 ホテルの個室のドア前に立ち尽くす水原絵里(みずはら えり)は、全身の血液が凍りつくような感覚に襲われていた。 これが、長年愛し続けた男の正体だというのか。あまりにも浅ましい。 彼女は拳を固く握りしめる。爪が掌に深く食い込むが、胸を焼く絶望に比べれば、そんな生理的な痛みは万分の一にも満たなかった。 深く息を吸い込むと、扉を押し開けた。 バンッ! 喧騒に包まれていた個室が、瞬時に静まり返る。 「絵里……」誰かが息を呑んだ。 扉の前に立つその美貌に、誰もが目を奪われた。透き通るような白い肌、引き締まった腰のラインを強調するピンクのワンピース。ハーフアップにまとめた髪が、優美さを際立たせている。 だがその瞳は、氷のように冷徹だった。彼女の視線が、和也と寧々を射抜く。 「和也。これが、役所に行けない理由?」 和也の端正な顔に、一瞬だけ気まずさが走る。だがすぐに絵里のそばへ歩み寄った。 「入籍なんていつでもできるだろ。寧々が久しぶりに海外から帰ってきたんだ。兄として、歓迎会を開くのは当然のことだろう?」 絵里は冷ややかに笑う。 「一年に一度の交際記念日も、あなたにとっては『どうでもいい』ことなの? 今回を逃せば、来年まで待たなきゃいけないって分かってるくせに」 それは二人の約束だった。 交際記念日を結婚記念日にする。一石二鳥で、特別な意味を持たせるはずだったのだ。 だが明らかに、和也には結婚する気などない。 彼が真に娶りたいのは寧々なのだ。 彼の、幼馴染であり義妹である寧々を。 何かを感じ取ったのか、和也が絵里の腕を掴もうとする。 「騒ぐな。帰ってから説明するから」 絵里はその手を乱暴に振り払った。 その時、寧々が口を開いた。 「絵里、ごめんなさい。私が悪いの。今日が入籍日だなんて知らなくて……」 うつむいて謝るその姿は、いかにも被害者といった風情だ。 絵里は常日頃から彼女を嫌悪していたため、無視を決め込む。すると寧々は顔を上げ、涙を浮かべた瞳で訴えかけてきた。 「許して。私、絵里と兄さんの幸せを心から祝福してるのに……」 祝福?絵里は鼻で笑った。 「猫かぶるのはやめてくれない?本気で祝福してるなら、わざわざ戻って来たりしないでしょ」 和也の表情が曇る。 「そんな意地悪な言い方はやめろ」 「何よ、大事な大事な妹を言われて不機嫌?」 絵里の目は、他人を見るように冷え切っていた。 和也は顔をしかめ、低い声で叱責する。 「絵里、場所をわきまえろ。滅多なことを言うもんじゃない!」 見ろよ。どれほど妹を庇うのか。 彼がそこまで肩を持つのなら、望み通りにしてやろうね。 「やったことは事実でしょう?何を怖がってるの?」 寧々の目元が赤くなり、傷ついた表情を作る。 「私と兄さんはそんな関係じゃないわ。どうして昔みたいに誤解ばかりするの? 二人の喧嘩の原因になるって分かってたら、私、帰って来なかった……」 寧々の涙声は、聞く者の庇護欲をそそるものだった。彼女が虐げられていると見た取り巻きたちが、一斉に絵里を非難し始める。 「絵里、それは言い過ぎだよ。和也と寧々は兄妹だぜ?そんなことにまで嫉妬するのか?」 「そうだよ。この三年間、あなたが寧々を受け入れないから、彼女は身を引いて出国したんだろ?また同じことを繰り返す気か?」 「調子に乗ってると、和也に捨てられるぞ!」 …… 絵里は彼らの義憤に満ちた顔を、冷徹な目で見つめ返した。 かつては和也のために、こうした友人たちにも我慢を重ねてきた。どんな冗談を言われようと、陰で笑われようと、聞こえないふりをしてきたのだ。 だが、もう終わりだ。 絵里の言葉は鋭利な刃物のように響いた。 「妹が兄に毎日べったり張り付いてるのが、正当だとでも? あんたたちの頭はどうかしちゃったの?それとも、そういう禁断の愛がお好み? 私が身を引いてあげるから、存分に見せつけてもらえばいいわ」 一同は呆気にとられた。 和也の前では従順だった絵里が、これほど辛辣になろうとは予想もしていなかったのだ。あまりにも言葉が過ぎる。 「絵里、どうしてそんなに私を侮辱するの?」 寧々は今にも泣き出しそうな顔で、あざといほどに哀れっぽく言った。 「私のことが嫌いなのは仕方ないけど、兄さんはあんなに絵里が好きなのに。こんなに尽くしてるのに、まだ不満なの?」 絵里は眉をひそめた。 他人は知らないだろうが、彼女は寧々の本性を熟知している。 和也と知り合って十年、交際して五年。 一年目の絵里の誕生日に、寧々は「事故に遭った」と嘘をついて和也を呼び出した。 二年目のバレンタインには「失恋した」と言い出し、自殺をほのめかして和也に泣きついた。 三年目、四年目…… 寧々は無限に理由を作り出し、そのたびに和也は絵里を見捨てて駆けつけた。 そして三年前、寧々が突然出国を申し出た時も、周囲は「絵里が追い出した」と決めつけたのだ。 絵里の冷ややかな視線が、寧々をじっと捉える。 「まともな兄妹関係なら、入籍なんていう一大事を蔑ろにしたりしないわ。 どっちもどっちのクズとあばずれが、被害者ぶって私に寛容さを強要するなんて、笑わせないで。どの面下げて言ってるの? 恥を知りなさいよ」 寧々は顔を真っ赤にし、言い返すこともできずに涙をポロポロとこぼすだけだ。 和也は堪忍袋の緒が切れ、顔を紅潮させて怒鳴った。 「いい加減にしろ!自分が惨めだと思わないのか! たかが入籍だろ。記念日が無理なら、お前の誕生日に変えればいいだけじゃないか。どうしてそれくらい大目に見られないんだ!」 大目に? ええ、もちろん。 絵里の心は、凪のように静まり返っていた。 「和也。別れましょう」 室内がどよめく。 和也は数秒呆然とした後、苦々しい顔になった。 「また別れるとか言うのか?三年前もそうやって騒いで、寧々に気を遣わせて追い出したくせに。まだ飽き足らずに彼女を追い詰める気か? お前はどうしてそんなに性格が悪いんだ。籍を入れてやるって言ってるのに、まだ寧々が許せないのか?これ以上悪辣な真似をするなら、俺だって考えがあるぞ!」 和也に庇われ、うつむいた寧々の口元が微かに歪み、勝ち誇った笑みを浮かべるのを、絵里は見逃さなかった。 それを目にした絵里は、まるで大輪の薔薇が咲いたような、艶やかな笑みを返した。 「ええ、いいわよ。入籍はやめましょう。結婚もなし」 言い捨てて、絵里は踵を返す。 背後から和也の怒号が飛んだ。 「今ここから出て行ってみろ。寧々にちゃんと謝らないなら、絶対に許さないからな!」 周囲は皆、絵里が折れて謝罪すると高を括っていた。 あれほど和也に惚れ込んでいたのだから。 だが、予想は裏切られた。絵里は足を止め、振り返って彼らを一瞥すると、宣言した。 「ちょうどいいわ、証人になって。私、水原絵里はここに誓います。今日限りで藤原和也とは他人。復縁なんて天地がひっくり返ってもありえない。 もし私がこの誓いを破ったら、その時は藤原和也が、一生女に縁がないまま、野垂れ死ねばいいわ!」 「……っ!」 捨て台詞を残し、絵里は呆気にとられる人々を尻目に、毅然と個室を後にした。 どうやってタクシーを拾ったのかも覚えていない。ホテルを離れた車内で、絵里はひたすら和也に関する連絡先を削除し続けた。 突然の着信音が、彼女の意識を現実へと引き戻す。 ディスプレイに表示された、見知らぬ、けれどどこか懐かしい番号を見て、心臓が止まりそうになった。 通話ボタンを押すと、鼓膜をくすぐるような、甘く低い声が響いてきた。 「結婚したいなら、俺を検討してみないか?」 第2話   揶揄するような声が鼓膜を震わせ、絵里は呆気にとられた後にようやく我に返った。 「弟に遊ばれたと思ったら、今度は兄のあんたってわけ?」 男は藤原裕也(ふじはら ゆうや)。和也の実の兄だ。 絵里が和也と付き合い始めた頃から、裕也は一度として彼女にいい顔をしたことがなかった。 「一度すっぽかされたんだ。二度目を怖がる必要もないだろう?」 裕也の声には嘲笑が滲んでいた。 「いつもの恐れ知らずなお前らしくもない」 絵里は気が短い。挑発にはめっぽう弱いのだ。 彼女は意地になって言い返した。 「行ってやるわよ。誰が怖がるもんだか。でも、今日はもう遅いんじゃないの」 裕也は涼しい声で告げる。 「その心配には及ばない」 …… 二十分後。 再び市役所の前に立った絵里の視界に、裕也のすらりと洗練された姿が映り込んだ。その容貌は息を呑むほどに美しく、言葉にできないほどの艶がある。 何より、その身に纏う圧倒的なオーラ。重圧感が凄まじい。 和也もイケメンだが、裕也とは比べものにならなかった。 「よく来たな」 裕也は口の端を吊り上げ、細めた目には邪気すら漂っている。 絵里は電話口での勢いを失い、気圧されて自然と縮こまってしまった。 「来たって無駄よ。シャッターも半分閉まってるし、今日の手続きなんて無理に決まってる」 裕也は片眉を上げ、彼女の背後にある扉を一瞥した。 「本気で覚悟はできているのか?」 低く響く声。 絵里は負けじと言い返す。 「あんたが怖くないなら、私が怖がる理由なんてないでしょ」 怖がるとすれば、それは裕也の方であるべきだ。 何しろ彼と和也は実の兄弟なのだから。 「上出来だ」 裕也の瞳の奥に、微かな称賛の色が走る。彼は絵里の手首を掴み、強引に中へと歩き出した。 絵里は硬直した。マジ……マジで行くの? 彼女が不意に足を止めると、裕也が振り返り、眉をひそめた。 「どうした、怖いのか?」 絵里は僅かに躊躇った。 「どうして私と結婚するの?」 明らかに、彼は彼女を好いてなどいないはずだ。 裕也は鼻で笑った。 「いずれ結婚はしなきゃならない。違うか?他を探す時間を無駄にするより、家族が満足する相手を選んだ方が合理的だ」 絵里はそれ以上訊けなかった。 両家が旧知の仲であるせいか、藤原家の両親、そして藤原祖父も彼女を大層気に入っている。 彼の行動は、ある意味で理に適っていた。 …… 十分もしないうちに、二人は市役所を後にした。 呆然とする彼女を見て、裕也の冷ややかな声が降ってくる。 「後悔しても遅い、藤原奥さん。まさか離婚したいなんて言わないだろうな」 縁起でもない。 結婚した瞬間に離婚の話なんて、誰がするって言うのよ。 絵里は白目をむいてみせたが、口調は努めて丁寧に返した。 「そっちこそ後悔しないでよね」 階段を降りようとしたその時、突然腕を引かれ、裕也の懐に抱き寄せられた。 密着する胸板。167センチある絵里でも、彼の前では子供のように華奢に見える。 裕也から漂うシダーウッドの香りが鼻腔をくすぐり、不覚にも心臓がトクリと音を立てた。 頬が熱を帯びる。 「どこへ行くつもりだ?」 頭上から、抗いがたい引力を持った低音が降ってきた。 絵里はどうにか心を落ち着かせ、呼吸を整えた。 「家に帰るのよ」 「新婚早々、夫と別居か?」 裕也が見下ろすと、濡れたように艶やかな睫毛が怯えたように震え、白磁の肌は桃色に染まっていた。 「……忘れてた」 見上げると視線が絡んだが、彼の瞳に宿る暗い色には気づかなかった。 裕也は表情を変えずに視線を外し、彼女を解放した。 「ついて来い」 そう言って彼が先に階段を降りると、絵里は深く考えずに後を追った。 どうせ法的な夫婦になったのだ、売り飛ばされるわけでもあるまい。 それに、元彼を「義弟」にしてやるのだと思うと、なんだか胸がすく思いだった。 …… G市の一等地に佇むその邸宅。一見シンプルだが、随所に贅が尽くされ、洗練された品格が漂っている。 絵里は広々としたリビングの中央に立ち、怪訝そうに裕也を見た。 「ここは?」 裕也は短く答える。 「新居だ。これからはここに住め」 「あんたは?」 絵里は思わず聞き返した。 裕也は眉を僅かに跳ねさせ、冷ややかな視線を向ける。 「ショックで頭がイカれたか?新居の意味も分からないとはな」 当然、「俺も住むに決まっているだろう」、と言わんばかりだ。 絵里は気まずそうに唇を引きつらせた。相変わらずの毒舌だと心の中で悪態をつく。 十年前に出会った頃と同じ、棘のある物言いだ。 可愛げがない! …… 裕也は家政婦の田中(たなか)に案内を任せ、すらりとした背中を向けて二階へと消えた。 絵里はほうっと息を吐き出す。あの冷たい態度。まるで取り付く島もない。 田中に連れられて一回りし、絵里はようやくこのヴィラの規格外の広さを理解した。五階建てでエレベーター完備、十人の使用人は皆、今日配属されたばかりだという。 田中の話では、裕也は今朝、海外から帰国したばかりらしい。 絵里は驚いた。帰国早々に、和也との入籍がすっぽかされたことを知っていた? まさか彼が私と籍を入れたのは、三年前のあの件に対する復讐? 問いただそうとしたが、彼は書斎で仕事中だと告げられた。 仕方なく待つことにしたが、待ちくたびれて主寝室のソファでいつの間にか眠ってしまった。 ふと気配を感じて薄目を開けると、裕也の端整な顔が目の前にあった。 「何するのよ」 絵里は息を呑み、胸元を隠して警戒心を露わにする。 裕也はブランケットから指を離し、薄い唇を開いた。 「安心しろ。お前の発育不良な身体に欲情するほど飢えてはいない」 カチンときて、絵里の頭に血が上った。 「三年前とは違うわよ!ちゃんと成長したんだから!」 彼女は裕也の大きな手を掴み、自らの胸の膨らみへと導こうとし、寸前で正気に戻って手を離した。 どうかしてる。 和也と五年付き合って、キスさえしたこともないのに。 今、もう少しで…… 耳の根元まで真っ赤になった絵里を見て、裕也は口元を歪めて揶揄った。 「どうした?期待外れだとバレるのが怖いか?」 絵里は顔から火が出るほどの羞恥に襲われ、彼を突き飛ばした。 「発育不良だろうが何だろうが、あんたには関係ないでしょ」 立ち上がって逃げようとしたが、すぐに押し戻され、背中が再びソファに沈んだ。 身じろぎする彼女の上に、裕也の高大な体躯が覆いかぶさる。強烈なオスの匂いが押し寄せた。 「絵里……」 蠱惑的な響きを孕んだ声。 「俺と結婚する度胸はあるくせに、これをする度胸はないのか?」 その顔立ちは理知的で気品に満ちているが、瞳の奥の邪気までは隠せていない。開いたシャツの襟元から、セクシーな喉仏が覗いている。 絵里の脳裏に、三年前のある光景が鮮明に蘇る。 確かに経験はない。だが、知識までないわけじゃなかった。 頭に血が上り、絵里は裕也の襟を掴んで引き寄せると、その薄い唇を強引に塞いだ。 噛みつくようなキス。手慣れたふりをしたが、その動きはぎこちなく、何度か歯がぶつかった。 裕也の瞳に欲色が渦巻き、表情に理性のタガが外れる兆しが見える。 「絵里、自分が何をしてるか分かってるのか」 「分かってるわよ、あんたを組み敷いてやるの」 絵里はまだ意地を張って、彼の唇を食んだ。 「何、怖いの?」 挑発的な視線を向ける。三年前と同じように、彼をからかってやろうとしたのだ。 「後悔するな」 裕也は顔を伏せ、主導権を奪い返すようにキスを深くした。口腔内の空気を略奪し、火照った身体が彼女を焦がしていく。 その声は枯れ、漆黒の瞳には隠しきれない欲望が宿っていた。 「三年前にやり残した続きを、始めようか」 第3話   絵里は呆然とし、心臓の鼓動が跳ね上がった。 裕也が顔を近づけ、キスをしようとした瞬間、彼女の身体は無意識に震えた。 その反応を察知し、裕也の動きが止まる。深い瞳には理性の色が戻っていた。 「なんだ、怖いのか?」 絵里はまだ我に返っていない。 裕也は人差し指で絵里の鼻先を軽く撫で、おかしそうに言った。 「からかっただけだ。本気にするな」 次の瞬間、絵里は身体にかかっていた重みが消えるのを感じた。 裕也はすでに彼女から離れ、浴室へと向かっていた。シャワーを浴びるようだ。 彼の背中を見送り、絵里はようやく安堵の息をつき、胸を軽く叩いた。顔はまだ火照っている。 さっきは本当に、そういうことになるのかと思った…… 実は彼女、そこまで保守的な人間ではない。だが、相手はやはり和也の実の兄だ。 裕也は昔から彼女には厳格そのものだった。歳なんていくつかしか違わないのに、中身はすっかりお爺ちゃんなんだから。 この感覚、あまりにも気まずい。 特に三年前、彼女と裕也の間には、あんな気まずい出来事があったのだから…… もういい、やめよう。 絵里は頭を振り、考えるのをやめた。 裕也がシャワーを浴びて出てくる頃には、絵里も彼と一緒に住むという事実を受け入れ、自分もシャワーを浴びに向かった。 入浴にスキンケア、ボディクリームを塗るまで、たっぷり一時間半はかけた。 裕也はもう寝ているだろうと思っていた。 だが浴室のドアを開けると、裕也のからかうような声が響いた。 「中に住むつもりかと思ったぞ」 この憎まれ口。相変わらず、言葉に棘がある。 絵里はもう慣れっこだった。ベッドの足元に立ち、探るように尋ねた。 「私、どこで寝れば?」 裕也は端正な顔で眉を上げた。 「絵里、俺たちの婚姻届受理証明書は、法的にも規則的にも正当な状況で発行されたものだよな?」 「そうだよ」絵里はすぐには反応できなかった。 「なら、合法的な新婚夫婦が別々の部屋で寝るのを見たことあるか?」 裕也の言葉に、絵里は言い返せなくなった。 もういい。 絵里は反論を諦めた。 「おいで」 裕也は隣のスペースを叩いた。 今回、絵里はおとなしく歩み寄った。 横になった途端、耳元でまた裕也の面白がるような声がした。 「奥さん、ベッドは暖めておいたぞ」 絵里は顔を向け、彼を見る目が非常に奇妙なものに変わった。ついに我慢の限界だ。 「あなたはずっと私のことが嫌いだったはずだ。今回急に結婚を勧めてきたと思ったら、一体何がしたい?」 裕也はおかしそうに言った。 「俺があなたを嫌いだと?」 「違うの?」絵里は確信していた。 「その脳みそは……」 裕也は魅力的な声のトーンを長く引き、口元を緩めた。 「やはりあまり回転が良くないようだな」 和也を好きになるような頭だ、どれほど賢いはずがあろうか? 「どういう……」 言葉を口にする前に、絵里は裕也に抱き寄せられ、胸に押し付けられた。かすれた声が頭上で旋回する。 「いいから、今は寝ろ。 俺たちは夫婦だ。これからゆっくり理解し合う時間はいくらでもある」 彼の声には隠しきれない疲労が滲んでおり、呼吸も次第に深くなっていった。 絵里は彼の腕の中で、その体温を感じ、心音を聞き、匂いを嗅ぎながら、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。 一方。 深夜、カラオケの豪華な個室。 和也は一晩中、何度も携帯を確認し、上の空だった。 以前なら、絵里が怒っても半日もしないうちに自分から連絡してきた。 今日のことだって、彼女は怒ってあんなことを言ったが、いつも通りなら三時間以内に必ず連絡してきて、謝ってくるはずだ。 だが、こんな時間になっても、メッセージの一通すら来ない。 随分と偉くなったものだ。 「和也、絵里からの電話を待ってるの?」 寧々は彼の隣に座り、申し訳なさそうな顔をした。 「やっぱり絵里のところに行った方がいいんじゃない?今頃きっとすごく怒ってるわ。 全部私のせいね。今日帰ってこなければよかった。そうすれば二人の入籍を邪魔することも、絵里を怒らせることもなかったのに」 寧々は和也をよく理解していた。彼はプライドが高い。 彼女がそう言えば言うほど、彼は怒るのだ。 案の定。 和也はどうでもいいといった風に言った。 「あいつはそういう気質なんだ。そのうち自分から戻ってくるさ。放っておけ。 それに寧々、この件はお前に関係ない。入籍なんていつでもできる。お前が久しぶりに帰国したんだ、俺が歓迎会を開くのは当然だろ」 和也が言い終わると、友人たちが調子を合わせた。 「そうだよ寧々、あなたがいなかった三年間、和也はすごく寂しがってたんだぜ」 「そういえば、絵里がいなけりゃ、三年前にお前が海外に行くこともなかったのにな」 「あの絵里って女は器が小さすぎる。騒ぐにしても時と場合があるだろ。和也、今回はちゃんとしつけないとな」 和也は顔を冷たくし、鼻を鳴らした。 「今回、あいつが寧々にちゃんと謝らない限り、俺は復縁しない」 寧々は途端に幸せそうな笑顔を浮かべ、親しげに和也の腕に抱きつき、身体を預けた。 「ありがとう和也。私、すごく怖かったの。絵里が不機嫌になったら、また離れなきゃいけないんじゃないかって」 「あり得ない。今回はあいつの思い通りにはさせない。お前は安心してG市にいればいい。俺が守ってやる」 和也は保証し、同時に携帯を裏返して置いた。 寧々は、花が咲いたように笑った。 「和也大好き。家族の中で一番私を可愛がってくれるのは和也だけだわ」 裕也より何倍もいい。 裕也は彼女に対していつも不機嫌な顔をしていて、まるで仇を見るかのようだ。 …… 別荘では、絵里が裕也の穏やかな呼吸を感じながら、次第に深い眠りに落ちていた。 これまでにないほど、安らかな眠りだった。 翌朝。 絵里が目を覚ますと、目の前に底知れぬ深さを湛えた、艶やかな瞳があった。 その瞳の持ち主である裕也も彼女を見ており、眼差しは深く優しかった。 「昨夜はよく眠れたか?」 絵里は頷いた。「ええ、とても」 抱き合って一晩寝たが、それほど不自然ではなかった。 裕也は口角を微かに上げた。 「どうやら夫としての俺は、妻を満足させられたようだな」 絵里は眉をひそめた。 それと関係あるの? その時すでに裕也はベッドを降り、背を向けて浴室へと歩き出していた。「朝の会議があるから、朝食は一緒に食べられない」 絵里は「うん」と答えた。 和也と五年付き合っても得られなかったものを、彼に期待などしていない。 ましてや、電撃結婚だ。 …… 裕也がウォークインクローゼットから出てきた時には、すでにスーツを完璧に着こなしていた。 絵里はドレッサーの前でスキンケアをしており、鏡越しに彼の姿を見ていた。 濃い色のスーツが彼の気品を引き立てている。鋭い眉、生まれながらの威圧感。彼は一歩一歩彼女に近づいてきた。 「好きなものを買いなさい。あっちの物はもういらないだろう」裕也は彼女の隣に立ち、一枚のブラックカードをドレッサーに置いた。「奥さん」 絵里は顔を上げて彼を見た。 清廉で気高いその様子を見ていると、昨夜の毒舌で邪気な彼は幻だったのかと思えてくる。 「わかったわ」絵里は素直にカードを受け取った。それは藤原奥さんという身分を受け入れることと同義だ。 どうせ、兄弟のどちらと結婚しても「藤原奥さん」と呼ばれるのだ。 違いは、元カレを義理の弟にしてやったことくらい。 うん、彼より上の立場になるなんて、悪くない気分だ。 裕也は彼女が何を考えているのか見透かすように、突然身をかがめ、温かい唇を彼女の耳元に寄せて囁いた。 「早くこの身分に慣れてくれよ。俺が求めている夫婦関係は、夫婦の営みができる関係だ」 絵里の顔は一瞬で耳まで真っ赤になった…… 第4話   幸いにも携帯の着信音が鳴り、絵里の窮地を救った。 「もしもし?」 絵里は高鳴る心臓を押さえ、慌てて電話に出た。 電話の向こうからは、トップモデルであり親友の小林梨乃(こばやし りの)のからかう声が聞こえてきた。 「で、どうなの?水原お嬢様も、昨日入籍して晴れて藤原奥様になったわけだけど……昨日の夜はさっそく、待ちきれずに『いただいちゃった』のかしら?」 受話音量がかなり大きい。 絵里は裕也がまだいることを思い出し、慌てて横を見たが、幸い彼はすでにドアのところまで歩いて行き、部屋を出て行ったところだった。 「入籍はしたわ」 絵里はほっと息をついた。 「『いただいて』なんかないわよ」 「五年も付き合って、あなたたちキスしかしてないじゃない。指一本触れられてないなんて……」 梨乃が「きゃあ」と声を上げた。 「まさか昨夜、旦那がEDだって判明したとか?」 梨乃は興奮しすぎて、声がさらに大きくなっていた。 ちょうど裕也がドアを開けて入ってくるところで、過不足なく最後の一言「ED」を聞いてしまった。 すっと目尻を上げ、絵里を見る。 俺がEDだと? 音を聞いた絵里もちょうどドアの方を向き、彼を見た瞬間、呼吸が止まった。 梨乃はこちらの状況に気づかず、アドバイスを続けている。 「それはまずいわね。すぐに病院に行かせなきゃ。 もし治らなかったら、よく考えなさいよ。プラトニックな恋愛に耐えられるかどうか……」 絵里は頭に血が上り、慌てて電話を切った。 彼女は口元を不自然に引きつらせた。 「どうして戻ってきたの?」 「時計だ」 裕也はすぐにクローゼットから機械式時計を取り出し、つけながら絵里の前に歩み寄った。 つけ終わると、彼は腕を彼女の前に伸ばしてドレッサーにつき、彼女を胸の中に閉じ込めた。 裕也は身をかがめ、顔を近づけて熱い息を吐きかけた。 「立つか立たないか、夜に試してみればわかることだろ?」 絵里は身体を強張らせて座り、不自然に瞬きを二回した。 「私は言ってないわ」 裕也は口角を微かに上げた。 「帰ってきたら、証明してやる」 絵里に弁解の機会を与えず、裕也は大股で再び部屋を出て行った。 絵里は大きく息を吐き出し、再び梨乃に電話をかけた。 「誤解よ」 「何が誤解なの?」 「さっき電話切ったでしょ、怒った?私が和也はEDだって言ったから?」 梨乃は決壊したダムのように、疑問と不満を溢れさせた。 絵里は深呼吸した。 「和也じゃないの。裕也よ」 また誤解されるのを恐れ、彼女は付け加えた。 「昨日、私と結婚したのは裕也なの……」 「何ですって?」梨乃が叫んだ。 十分後…… 絵里の説明を聞き終えた梨乃は、和也と寧々を散々に罵倒した。 口汚く罵った。 梨乃は一通り発散してようやく気が済んだようで、すぐに彼女を慰めた。 「よくやったわ。彼を後悔させてやりなさいよ。夫になれないなら、義弟になればいいのよ。 絵里、今回あなたの男を見る目は急成長したわね。裕也は藤原グループの社長で、イケメンで金持ち、スキャンダルもなし。和也より何倍もいいわ。でも…… 彼が結婚を急かされないために、あなたが適当だと思って結婚したなら、感情の基盤はないし、以前は仲が悪かったわけでしょ。大丈夫なの……?」 残りの言葉を梨乃が言わなくても、絵里には彼女が言いたいことがわかった。 「大丈夫、お互いの利害が一致しただけだから」絵里は伏し目がちに言った。 昨日は腹いせで入籍したが、今日はもう吹っ切れていた。 父の遺言を果たしたのだから、離婚しようがしまいがどうでもいい。 「わかった。あなたがそう言うなら、新婚祝いを送るわ。楽しみにしてて」 「どんなプレゼント?」絵里が尋ねた。 梨乃は答えず、向こうでCM撮影に呼ばれたため、きっぱりと電話を切った。 「……」 忙しい人だ! …… 藤原グループ本社。 最上階、社長オフィス。 会議を終えた裕也はデスクの前に座り、背筋を伸ばしていた。濃い色のスーツが彼の気高く落ち着いた雰囲気、そして威圧感を引き立てている。 彼は顔も上げずに、傍らに控える室長の長谷川健(はせがわ けん)に淡々と指示を飛ばした。 「結婚指輪を選んでおけ。それと、株式贈与契約書の準備を」 健は恭しく頷いた。 「はい」 彼がなかなか立ち去らないので、裕也は顔を上げて一瞥した。 「まだ何か?」 健は答えた。 「お爺様が社長の帰国を知り、私のところに電話がありました。今夜、本宅へ食事に戻るようにと」 裕也の瞳が暗くなった。 「下がっていい。俺が処理する」 健がオフィスを出て行く。 裕也は電話をかけた。口を開く間もなく、向こうから激しい叱責が飛んできた。 「偉くなったもんだな。G市に帰ってきてもわしに連絡一つ寄越さず、居場所もわからん。わしが会うのにも予約が必要なのか?」 「おじいさん、落ち着いて。昨夜は時差ボケで、連絡する間もなかったんだ」 裕也の節くれだった長い指が、軽くデスクを叩く。 藤原賢治(ふじはら けんじ)は鼻を鳴らした。 「言い訳は無用だ。この三年間、何度も言ってきたはずだぞ。次にG市に帰る時は、必ず相手を決めて、結婚し、子供を…… 忘れたとは言わせんぞ」 賢治の言葉を聞いて、裕也は何かを思い出したように、瞳の奥に優しい光を一瞬走らせた。 「安心して。よく覚えているよ」 彼は薄い唇に笑みを浮かべた。 「きっと満足させてあげる」 …… 和也はようやく酔いから覚めた。 目を細め、ベッドの上を手探りして、ようやく枕の下から携帯を取り出した。 時間を見るともう午後になっており、一気に眠気が吹き飛び、起き上がった。 午前中に会議があったのに、絵里からリマインドの電話がなかったのだ。 その時、アシスタントが慌ててドアを開けて入ってきた。彼がベッドに座っているのを見て、頭を下げた。 「社長……」 「何をしてたんだ?」和也は責めるような口調で言った。携帯には数件の不在着信があり、すべてアシスタントからだった。 「重要なご用事があると思い、邪魔をしてはいけないと……」アシスタントは弁解した。今来たのは、裕也が帰国したことを伝えるためだった。 だが彼が口を開く前に、和也は冷たい声で尋ねた。 「絵里は?」 アシスタントは呆気にとられ、首を横に振った。 知るわけがない。 この五年間、どんな重要な会議でも、彼が心配する必要はなく、すべて絵里が自ら社長にリマインドしていたのだ。 その点、和也はすっかり慣れきっていた。 どんな時でも。 たとえ絵里が病気でも、必ず一時間前には電話をかけて、彼を起こしてくれた。 こうした些細なことで、絵里は一度も彼を失望させたことがなかった。 今回、入籍しなかったという些細なことで、彼女はあえて彼に顔向けしなかったのだ。 以前、彼女を甘やかしすぎたせいだ。 和也は顔を曇らせ、絵里に電話をかけた。 だがワンコール鳴った後、通話は自動的に切断された。 もう一度試したが、結果は同じだった。 着信拒否されている! 和也の顔色はさらに悪くなった。 メッセージを送ろうとしたが、いつまで経っても既読がつかない。 ブロックされたのだと悟った瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。 いいだろう! 上等だ! 和也の瞳に陰湿な怒りが浮かんだ。今回は絶対に甘やかさない。復縁したいなら、そのお姫様気質を改めさせなければならない! …… 影が長く伸びる頃。 カッパー・ポートの別荘。 寝室で、絵里は出窓にあぐらをかいて座り、ノートパソコンを膝に乗せ、白く華奢な指でキーボードを叩いていた。 今日はどこへも行かず、家で脚本を練っていた。 脚本家として、彼女の脚本は二度ウェブドラマ化され、再生回数はまあまあだった。 大ヒットではないが、コケてもいない。 突然携帯の着信音が鳴り、番号を見て、彼女はおとなしく電話に出た。 「おじいちゃん」 「絵里、しばらく顔を見せに来ないじゃないか。昨日入籍したんだろう?時間を作って帰っておいで。和也も連れてな……」 絵里は数秒固まり、正直に言った。 「あの……おじいちゃん、私と和也は別れたの」 向こうで朗らかな笑い声がした。水原治夫(みずはら はるお)は慣れた様子だ。 「どうした?あいつがまた馬鹿なことをして、お前を怒らせたのか?」 治夫の態度に、絵里は過去の様々なことを思い出し、胸が締め付けられた。 彼女は苦々しく言った。 「おじいちゃん、今回は本当よ」 一呼吸置いて、絵里は言った。 「私、和也と別れて、裕也と入籍したの」 寝室のドアの外で、裕也は彼女の言葉を聞き、空中の手を止め、瞳を深く暗くした。 第5話 絵里の言葉が信じられないのか、治夫は何度か確認した後、先ほどよりもさらに豪快に笑い声を上げた。 「よし、結婚したのならそれでいい。いつ連れて帰ってきて、一緒に飯を食うんだ?」 絵里は素直に頷いた。 「うん、分かった」 電話を切ると、寝室のドアが開いた。 裕也が部屋に入り、長い脚で彼女の前に歩み寄る。 気品ある涼やかな顔立ちに、凛とした眉目。思わず見惚れるほどの美青年だ。 絵里は息を呑み、彼を見上げた。 「お帰りなさい」 裕也は「ああ」と答え、かすれた声で言った。 「あなたと一緒に食事をしようと思って帰ってきた」 絵里の心がふと温かくなった。 「ありがとう」 以前、和也と付き合っていた頃は、食事の約束をしてもレストランで数時間待たされることがあった。 後になって、彼が寧々に呼び出されていたことを知った。 寧々がくしゃみをしただけで、和也は慌てて病院へ連れて行くのだ。 絵里はいつだって置き去りにされる側だった。 彼女が怒ると、和也からは「わがままだ」、「細かい」と嫌味を言われた。 絵里は思考を切り替えた。 ノートパソコンを閉じ、出窓に無造作に置くと、立ち上がって彼に微笑んだ。 「でも、無理して帰ってこなくていいのよ。気にしないで」 どうせ利害の一致した電撃結婚なのだから。 「あなたと一緒にいるのは当然のことだ」 裕也は彼女を見つめ、穏やかに言った。 「言っただろう。俺が求めているのは、共に生活し、共に眠る結婚だと」 絵里の心にさざ波のような温かさが広がったが、深くは考えなかった。 裕也は元々成熟して落ち着いた人であり、自分に特別な感情があるわけではないと知っていたからだ。そこで彼女は頷いた。 「わかったわ。手を洗ってくるから、一緒に下に降りて食事しましょう」 彼女は浴室へ向かった。 裕也はその背中を見送り、瞳の色を濃くした。 …… 一階のダイニング。二人は四角いテーブルに向かい合って座り、柔らかな照明が彼らを照らしていた。 男はハンサムで女は美しく、とても心温まる光景だ。 テーブルには数種類の料理が並んでいたが、すべて絵里の好物だった。 まさか好みが同じだとは。 絵里は行儀よく座り、静かに食事をしていた。 突然。 裕也がスペアリブの唐揚げを一つ掴み、彼女の器に入れた。 「好物だろ。たくさん食べなさい」 絵里は不思議そうに顔を上げた。 「どうして私の好物を知ってるの?」 「知ろうと思えば、難しくない」 裕也の深い瞳が彼女を真っ直ぐに見つめ、低い声で、さも当然のように言った。 「俺たちは夫婦だ。あなたのことをもっと知ろうと努力するのは当たり前だ」 その言葉に、絵里は鼻の奥がつんとした。 そう、本当に人を知ろうと思えば、方法はいくらでもあるのだ。 和也はいまだに彼女の好きな食べ物も飲み物も覚えていない。 彼女はマンゴーアレルギーだ。 なのに和也は、マンゴー果肉入りのタピオカドリンクを注文したことがあった。 それは寧々の好物だった。 「裕也……」 絵里の声は少しかすれていた。裕也は優しく応じた。 「なんだ?」 絵里はしばらく彼をじっと見つめ、勇気を出して尋ねた。 「私のこと嫌いじゃなかったの?どうして急にこんなに優しくするんですか?」 嫌い? 彼女はそう思っていたのか。 裕也の瞳の奥の濃い色が徐々に消え、口角を上げて意味深に笑った。 「夫が妻に優しくするのは当然だろう?」 絵里は答えが得られず諦めようとしたが、裕也が鋭く付け加えたのが聞こえた。 「それに、昔のあなたが馬鹿すぎて、見ていて腹が立っただけだ」 「……」 聞くんじゃなかった。 その後は静かに食事を終え、お互いに何も話さなかった。 食後、裕也は再び書斎へ行った。 夜になり、絵里は田中が淹れてくれたお茶の入った保温ボトルを持って、書斎のドアをノックした。 実家に帰って治夫に会う件について、裕也の意見を聞こうと思ったのだ。 「入れ」 中から裕也の低い声がした。 絵里はドアを開けて入り、デスクの前まで行くと、温かいお茶を彼の右側に置いた。 「お茶をどうぞ」 「ああ」 裕也は一口飲み、ふと瞼を上げ、瞳に艶めかしい笑みを浮かべた。 「クコの実入りの薬膳茶か……これ、精がつくって言うよね。奥さんは、何か暗示でもしているつもり?」 絵里は頬が熱くなり、今朝の「ED」の話を思い出して慌てて説明した。 「違う、田中さんが淹れてくれたんだ」 裕也は彼女の顔に紅潮が広がるのを見て、驚かされた小ウサギのようで、いじらしく、これ以上からかうのが忍びなくなった。 そしてこの話題を続けるのをやめた。 裕也は不意に立ち上がると、その巨躯で彼女を見下ろし、黒いベルベットの箱を差し出した。 「はい、これ」 「これは?」 絵里は不思議に思いながら箱を受け取り、開けた。 箱の中にあるペアリングを見て、彼女は驚きを隠せなかった。 裕也の声は低く響いた。 「昨日は入籍が慌ただしかったからな。これはその埋め合わせの婚約指輪だ。 気に入ったか?」 彼はまた尋ねた。その眼差しはあまりにも真剣だった。 絵里の呼吸が早くなる。電撃結婚とはいえ、こうして心に留めてもらえる感覚には抗えない。 彼女は強く頷いた。 「うん、とても!」 裕也は彼女の手を取り、女性用のダイヤモンドリングを薬指にはめると、少し強引な口調で言った。 「これからはずっとつけていろ」 彼が顔を伏せると、至近距離で見る顔立ちはさらに立体的で深く、絵里は無意識に息を止め、心臓が激しく高鳴った。 裕也はしばらく彼女からの返事がないので、拒絶されたのかと思い、瞳の色を少し暗くした。 「嫌か?」 絵里はすぐに首を横に振った。 「つけるよ」 裕也の表情がようやく和らぎ、左手を差し出した。指は長く、節々がはっきりとしている。 「なら、奥さんの手で、俺に指輪をはめてくれないか」 絵里は当然のことだと思い、素直に男性用の指輪を取り出し、優しい動作で彼の手にはめた。 彼女の指は柔らかく繊細で、指の腹が肌に触れる感触が、雰囲気を妖艶なものに変える。 裕也は突然彼女の細い腰を抱き寄せ、胸の中に引き込み、頭を下げて彼女を見つめた。 「次は、夫婦らしいことをするべきじゃないか?」 彼の言葉を聞いて、絵里の心臓はさらに速く打ち、頭が一瞬真っ白になった。 しばらくして、ようやく声が出た。 「な、何を?」 裕也は手を上げ、親指の腹で彼女の柔らかな頬を撫でた。瞳には熱いものが渦巻いている。 「奥さん、まさか男女の営みを知らないわけじゃないだろう?」 彼がキスをしようと頭を下げると、彼女は緊張のあまり身体を縮こまらせ、無意識に顔をのけぞらせた。 彼女の拒絶を感じ、裕也の瞳の熱は徐々に消え、彼女を離した。 「大丈夫だ、時間をやる」 絵里は呆然とした。 これは、彼女の同意なしには触れないということか? なぜか、以前は冷淡で近寄りがたいと思っていた裕也が、言葉にできないほど優しく感じられた。 絵里は理由がわからず、さっきの態度を申し訳なく思い、目を伏せた。 「ごめんなさい、まだ心の準備ができてなくて」 裕也は口角を微かに上げ、彼女の頭を軽く撫でた。 「そんな些細なことで謝るな。 時間をやると言っただろう。ただ、あまり長く待たせないでくれよ」 絵里はぼんやりと、甘やかされているような感覚を覚えた。これは和也にはなかったものだ。 しばらくして、彼女は素直に頷き、「はい」と言った後、ふと用件を思い出した。 「そうだ、爺ちゃんがあなたに会いたがってるの。一緒に実家に来てくれる?」 「いいよ。でも……」 裕也はその深邃な瞳で彼女を見つめると、身をかがめて耳元に唇を寄せた。鼓膜を甘く痺れさせるような低音で、彼は囁く。 「キスしてくれないか?」 第6話 絵里は頭に血が上り、彼に翻弄されて顔を真っ赤にしながら、唇を噛んで背伸びをし、彼の頬にキスをした。 「これでいい?」 キスをして、すぐに立ち去ろうとした。 裕也の瞳孔がゆっくりと開き、瞳の奥の一角で氷山が溶け出したようだった。 手を伸ばして素早く彼女を腕の中に抱き寄せ、大きな手で後頭部を押さえ、頭を下げると、湿った熱い吐息が魅惑的に彼女の頬にかかった。 「一回だけで足りるわけないだろう?」 言い終わるや否や、裕也はさらに頭を低くし、薄い唇を彼女のピンク色に輝く唇に触れんばかりに近づけ、呼吸を絡ませた。 彼の眼差しは熱く、獲物を長く狙っていた野獣のようだ。 絵里は息を止めた。 頬が熱い。心臓が胸から飛び出しそうで、窒息しそうになった時、ようやく裕也が離してくれた。 絵里の心臓は早鐘を打ち、涙に潤んだ瞳で彼を見上げた。その姿はまるで、雨に濡れた子猫のようだ。 彼女は弱々しく尋ねた。「じゃあ……約束してくれた、ってこと?」 裕也は瞳に理性を保ち、口角に笑みを浮かべた。「奥さんの頼みだ、もちろん叶えるさ」 彼の言葉を聞き、絵里は視線を外し、慌てて逃げ出した。 さっき、身体の奥に馴染みのない熱を感じた。何らかの反応があったような…… 裕也は彼女が逃げ去る姿を見て、思わず笑い声を漏らした。瞳はますます深く暗くなる。 普段は毛を逆立てて威嚇する野良猫のくせに、中身は無防備な子羊だ。 あの強気な態度は、ただの虚勢に過ぎない。 …… 二日後、絵里は裕也を連れて水原家に戻った。 「おじいちゃん」 絵里は淡い色のドレスを着て、両足を揃えておとなしく治夫の前に立ち、紹介した。 「こちらが話していた裕也だ」 治夫は彼女の隣にいる裕也を見て、満足そうに頷いた。「うん、いい男だ」 裕也は端正で気品があり、落ち着いて礼儀正しかった。「おじいさん、これはほんの少しですが手土産です」 健が贈り物を次々と運び込み、長いテーブルに置いてから出て行った。 テーブルはすぐに高級なサプリメントや銘酒で埋め尽くされた。 明らかに、贈り物選びには心を砕いている。 治夫は豪快に笑った。「絵里と結婚したんだ、もう家族だ。そんなに他人行儀にしなくていい」 「当然のことです。礼儀は欠かせません」裕也の言葉遣いには教養が滲み出ていた。 治夫は一目見て、絵里が今回こそ正しい相手を選んだと確信した。 かつて、絵里の父である水原拓海(みずはら たくみ)が重病に伏した際、将来絵里の面倒を見る者がいないことを案じ、長年の友人でありビジネスパートナーでもある藤原洋二(ふじはら ようじ)に彼女を託し、縁談まで持ちかけた。 その年、絵里は十七歳で、ちょうど和也と交際を始めたところだった。 拓海は臨終の際、和也と仲良くやっていくようにと言い残した。 和也もまた拓海の前で、一生絵里を大切にすると誓ったのだ。 まさか、両家の縁談はそのままに、相手が弟から兄の裕也に変わるとは。 治夫は言った。「絵里、お前は仏間へ行って、おばあちゃんと両親に線香をあげてきなさい。わしは裕也と少し話がある」 絵里は心配そうに裕也を一瞥し、すぐには返事をしなかった。 おじいちゃんは人を困らせるのが好きなのだ。 和也も散々いじめられ、おじいちゃんを恐れるだけでなく、拒絶反応すら示していた。 この数日、絵里と裕也は一緒に過ごしてみて、彼はたまに毒舌だが、細やかな気遣いができる人で、夫としては悪くないと感じていた。 ましてや、電撃結婚だ。絵里は彼を巻き込みたくなかった。 治夫はその様子を見て、からかった。「なんだ、わしが旦那をいじめるとでも思ってるのか?」 絵里は一瞬で顔を赤くした。 裕也は軽く笑い、顔を向けて彼女に言った。「大丈夫だ、おじいさんと少し話すだけだよ。行っておいで」 絵里はようやく頷き、線香をあげに仏間へ向かった。 線香を立て、絵里は清潔な布で母の位牌を拭いた。 幼い頃から、彼女は家族に溺愛されていた。 母はいつも優しく彼女の頭を撫で、愛おしそうに言った。「絵里は我が家の姫様よ。楽しく、何の悩みもなく生きていけばいいの……」 「この子は世界のあらゆる美しさにふさわしい」 そう…… 彼女は家では姫様だった。なのに和也はいつも彼女を悲しませ、嫌悪し、疎んじた。 絵里は自分が親不孝だと感じた。 もし両親が、彼女が和也の前で尻尾を振って哀れみを乞う子犬のように卑屈になっている姿を見たら、きっとひどく悲しんだことだろう。 そう思うと、絵里は思わず目を赤くし、涙がぽたぽたと位牌に落ちた。「お母さん、私がダメな娘で……」 彼女は悲しみのあまり、位牌を抱いてしゃがみ込み、子供のように泣いた。 彼女がなかなか戻ってこないので、裕也は使用人に案内させて彼女を探しに来て、ちょうどその光景を目にした。 彼女があまりにも悲しそうに泣いているのを聞いて、裕也は胸が締め付けられ、早足で近づいて彼女を起こし、強く抱きしめた。 「いい子だ、もう泣くな。悲しまないで」 裕也は彼女が両親を想って泣いているのだと思い、心苦しそうに慰めた。「これからは俺があなたを守る。彼らの代わりに、あなたを大切にするから。な?」 絵里はその言葉を聞いて、さらに激しく泣いた。 裕也は位牌を元の位置に戻し、彼女を強く抱きしめた。胸のどこかが欠けたような気がした。 絵里が泣き疲れて、全身の力を抜いて彼に寄りかかるまで待ち、彼は彼女を抱き上げて水原家を後にした。 去り際、治夫が心配しないよう、さっきのことは内緒にするよう使用人に言い含めた。 車の中で、絵里はようやく落ち着きを取り戻した。 泣き腫らして鼻も目も赤くなり、声はまだ涙声だった。「裕也、ありがとう」 裕也は彼女の左側に座り、優しい眼差しで彼女を見ていた。 「本当に感謝してるなら、笑ってくれ。 あなたが幸せでいることが、一番大事なんだ」 その言葉を聞いて、絵里は夢から覚めたような気がした。 かつて、和也は彼女にこう言った。「絵里、誰もずっとお前を甘やかし続けることはできない。妥協と寛容を学ばなければ、遅かれ早かれ別れることになるぞ」 絵里は晴れやかな気持ちで頷き、ふと気づいた。かつて恐れていた裕也は、和也より何倍も素晴らしい人だと。 …… 別荘に戻り、絵里は先にシャワーを浴びた。 裕也が浴室でシャワーを浴びている時、絵里の携帯が鳴った。市内からの知らない番号だった。 彼女は深く考えずに電話に出ると、和也の怒りを含んだ声が聞こえてきた。 「絵里、いい加減にしろ! 着信拒否に、LINEもブロック。家にも帰らない。一体何がしたいんだ?」 数日連絡を取らなかっただけで、再び連絡が来た時、絵里は彼の声に極度の嫌悪感を覚えた。 「忘れたの?私たちはもう別れたのよ! 私が帰ろうが帰るまいが、あなたには関係ないでしょ」 和也は一瞬、言葉に詰まった。以前なら、互いに口をきかない時間が数時間と続くことはなかった。こちらから少し機嫌をとれば、すぐに元の鞘に収まったものだ。 絵里の今回の態度は和也を不安にさせた。彼は態度を軟化させた。 「わかった、あの日入籍に行かなかったのは、俺が少しやりすぎた。 謝るよ。だからもう騒ぐな、いいだろ?」 絵里は冷笑した。「人間の言葉がわからないの?私たちは別れたの。もう電話してこないで」 「絵里、調子に乗るなよ」和也が低く唸った。 絵里は相手にするのも面倒で、電話を切ろうとした。 突然、浴室のドアが開いた。 絵里は音のした方を見た。 裕也が下半身にバスタオルを巻いただけの姿で出てきた。ほどよく引き締まった腹筋のラインに、彼女は電話を切るのを忘れてしまった。 「誰からの?」裕也は近づいてきて、眉を冷たく上げ、携帯の画面を一瞥してわざと尋ねた。 絵里の視線は彼のくっきりとした胸筋に釘付けになり、すぐには我に返れなかった。 逆に電話の向こうの和也は男の声を聞いて、頭が真っ白になり、彼女に向かって怒鳴った。「絵里、そこに男がいるのか?誰だそいつは?」 裕也は絵里の手から携帯を取り上げ、瞳に冷ややかな光を浮かべた。「焦るな。すぐに俺が誰かわかる」