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偽物クズ夫に別れを告げ、スパダリと政略結婚します
結婚して2年、水瀬一花(みなせ いちか)は婚姻届受理証明書を発行してもらいに役所に行ってはじめて、夫から受け取り大切にしていた証明書が偽...
Chương (1)
第1章
結婚して2年、水瀬一花(みなせ いちか)は婚姻届受理証明書を発行してもらいに役所に行ってはじめて、夫から受け取り大切にしていた証明書が偽物だということを知った……
夫の黒崎慶(くろさき けい)に、どういうわけか問い詰めに行ったが、6年間、自分を愛し大事にしてくれていたはずの男は、自分より6歳年上の大学時代の指導教員とすでに結婚5年目だという事実が発覚した。
一花はこの二人にうまく利用されていただけでなく、子供が生めない女だという理由からその二人の子供まで養子に迎えていた。
真実にぞっとした一花は、相続関連を任せている弁護士に電話をかけた。「未婚で子供はいません。全ての財産は私一人が相続します」
そして一花は黒崎家から離れることを決意する。しかし、慶は彼女には頼れる存在がなく、必ず自分のところに戻ってくると高を括り、悠長に構えていた。
しかしそれがある日、世間の注目を集める結婚のニュースに一花が登場したのだった。
一花はこの時、巨万の富を手にし、圧倒的な権力を持つ男と肩を並べてスポットライトの下に立ち、全国民から羨望の眼差しを向けられていた。
第1話
結婚して2年、水瀬一花(みなせ いちか)が引き出しの整理をしている時、婚姻届受理証明書がうっかり破けてしまった。
それで再度発行してもらおうと役所へ行き、申請すると、職員が困惑して言った。「申し訳ございません。既婚である事実は確認できませんが」
「そんなまさか、結婚してもう2年なんですよ?」一花はそう言うと、真っ二つに破けてしまった婚姻届受理証明書を職員に渡した。
職員はしっかりと三回確認して、パソコン画面を見つめながら一花に言った。「本当に結婚手続きされた記録は確認できません。それに、この判子も役所のものとは少し違うようです……おそらく、偽物でしょう」
あまりの出来事に気が動転して役所を出てきた一花のもとに、一本の電話がかかってきた。
「水瀬様でいらっしゃいますか?こんにちは、私はお父様からご依頼を受けた弁護士です。財産相続の件でサインをいただきたいので、河野総合法律事務所までお越しいただきたく存じます。お時間ございますでしょうか?」
詐欺電話かと思い、一花が電話を切ろうとしたその瞬間、相手が突然こう言った。「水瀬様、お母様の水瀬雪乃(みなせ ゆきの)様が、20年前に水瀬様を市内のひかりの丘学園の前に置いていかれました。調査した結果、あなたは南関市のトップに君臨する財閥家出身である西園寺匠(さいおんじ たくみ)の血を引いている唯一の娘様だったのです」
それを聞いた瞬間、一花はその場でピタリと体の動きを止め、すぐに弁護士事務所へと向かった。
彼女は弁護士から今までの人生において、最も衝撃的な話を聞かされたのだった。
彼女の実の父親は西園寺匠であり、西園寺家は莫大な資産を持つ財閥家である。彼は先月亡くなり、彼名義の株、不動産、会社を全て合わせると余裕で兆を超えていた。そして一花は彼の血を引く娘だったのだ。
あまりの衝撃で頭が追いつかない中、弁護士が突然質問してきた。「水瀬様はご結婚されていますか?お子様は?」
その瞬間、夫のあの顔が脳裏に浮かび上がった。
それからカバンの中の偽造された婚姻届受理証明書のことを思い出し、彼女はペンを持つ手に力を込めた。「2時間ほど待ってもらえませんか。少し確認したいことがあるんです」
弁護士事務所を出ると、一花はまっすぐに夫の会社へと向かった。
夫である黒崎慶(くろさき けい)のオフィスのドアは少しだけ開いていて、一花が押し開けようとした時、大人の女の甘ったるい声が聞こえてきた。
「慶、私たち結婚して5年よ。一体いつになったら、みんなに公表してくれるの?」
一花は瞬時で固まってしまった。
この声には聞き覚えがある。大学時代の指導教員である柏木綾芽(かしわぎ あやめ)だ。
綾芽は慶よりも6歳年上なのだが、年上であるだけでその美貌やスタイルはまさに女優並みだった。
大学の中で綾芽は男女問わず人気があった。さらに大学で一番の指導教員だとも謳われていた。
一花が息を殺し、音を立てないようにしていたその次の瞬間、夫のあの常に優しく魅力的な声が響いてきた。
「会社はもうすぐ上場するだろう。まだまだ彼女には力になってもらわないといけないんだ。それに、じいちゃんが昔残した遺書には、君を黒崎家に入れるなとある。もし、今俺たちの関係を公表してしまえば、きっとばあちゃんから君がひどい目に遭ってしまうよ。それじゃ俺はとても耐えられないよ……」
一花はもう頭の中がパンクしてしまい、口元をしっかり手で押さえて、喉元からあがってくる嗚咽を漏らさないように必死に堪えていた。
あの破れた婚姻届受理証明書を恐る恐る繋ぎ合わせて、まるで大事な宝物のようにそっとカバンの中になおした。
初めから彼女はこの二人の手のひらの上で踊らされていただけだったのだ。
そして一花は急いで会社を出ると、すぐに電話をかけた。彼女は深呼吸し、さっきとはまるで別人のように冷静な声でこう言った。
「河野弁護士、財産相続の書類に今すぐサインします。
それから、私は未婚で子供もいません。すべての遺産を私一人で相続します」
その手続きを済ませると、一花は家まで車を走らせた。その途中ずっとぼうっとしていて、うっかり後ろから衝突されてしまい、額に軽い傷ができてしまった。
病院で傷の手当てをしてもらい、何かを思い立ったかのようにそのまま産婦人科へと向かった。
検査結果を受け取り、一花はようやく憂いがなくなりスッキリした。
「つまり……子宮には何も問題がない、ということですよね?」
「そうですよ。検査結果を見ると、お体はとても健康そのものです」
「妊娠できますか?」
「もちろんですよ」
「じゃあ、夫婦の夜の営みにも影響はないってことですよね?」
一花のその言葉を聞いて、五十過ぎの女性医師は少し気まずそうにしていた。「そこまで説明する必要がありますかね?」
しかし、結婚前の検査では、慶が彼女の検査結果を見て子宮に大きな問題があり、妊娠できないだけでなく、性行為をすると体は取り返しがつかなくなるほどダメージを受けると説明したのだ。
「それでも、君と結婚したいんだ」と当時、慶は一花の手を握りしめて優しい決意の眼差しで見つめてきた。「一生、君しかいないよ」
その誓いのために、二人は猛反対する黒崎家に立ち向かったのだ。
一花は直に義父が湯飲みを激しく床に叩きつけ、怒鳴り散らすのを目の当たりにした。「世継ぎを生めないような女なんかと結婚する気か」
慶の母親は家族が集まっている中、親戚に泣きながら訴えた。「うちの慶はとんでもない女に騙されてしまったわ」
しかし、毎回彼は笑顔で言っていた。「家族の言うことは聞かなくていい、俺がいるからね」
2年という結婚生活の中、義母はことあるごとに一花を責めた。「子供を生めない役立たず」だの「子供が生めないくせに、結婚して何になるっていうのよ?」という言葉がまるで呪いのように一花を苦しめ、彼女は長きに渡り不眠の夜を過ごした。
一花が交通事故にあったという知らせを受けて、慶はすぐに病院まで駆けつけてきた。
真っ白なシャツを着た、一メート八十を超えるスラリとした長身の彼が勢いよく駆けてくるのを見て、一花は6年前の彼との出会いをふいに思い出した。
二人が初めて出会ったのは、指導教員である綾芽のオフィスで、同級生の代わりに書類を持って来た時のことだ。その時、慶はちょうど綾芽と何かを話し合っていて、視線を上げると一花と目が合い、礼儀正しく会釈だけした。
それからというもの、4年に渡り彼から猛アタックされたのだ。
慶は誰もが認める大学のアイドル的存在だった。そのルックスは言うまでもなく、成績優秀で、家柄も申し分ない男だった。
それに彼は女性を口説く時は非常に積極的で、誰に対しても優しく穏やかな性格をしているものだから、そんな彼を拒否できる女の子などほとんどいなかった。
そして一花も例外ではない。
彼女は孤児として育ち、性格はクールで誰かとグループを作って群れることなく一匹狼だった。そんな彼女でも、他の女の子たちと同様に、慶からの猛アタックには負けてしまった。
病院に駆けつけてきた慶は一花に何を話しかけても反応が返ってこなかったので、彼女が事故でショックを受けていると勘違いした。そしてすぐ一花を抱き寄せた瞬間、彼女は反射的に彼を力強く押し退け、立ち上がった。
「行きましょ」
短くそう吐き捨てると、一花は慶の横をスッと通り過ぎていった。
以前とても落ち着ける場所だった彼の懐は、今ではただ不快でしかなかった。
車に戻ると、慶はやはり一花の状態を心配していた。
「何があった?今までは運転にはかなり気をつけていたのに、今日は一体どうしてしまったんだ?」
「……」
一花は慶に返事はせず、自分の手に視線を落とした。すると指にはめられた大きな輝くダイヤの指輪が目障りに映った。
一花に無視されても慶は全く意に介さず、自然に彼女の手を握った。
そしてまた、一花はその手を避けた。
「なんで怒ってるんだ?分かったよ、言いたくないなら無理に聞かないから。
今日うちに重要なお客様が来たんだよ。家政婦さんには君の好きな料理をたくさん作ってもらってるんだ。君のご機嫌がそれで直るといいんだけど」
一花にこのような態度をされても慶は非常に優しかった。しかし、彼にこう優しくされればされるほど、一花は笑いたくなってくる。
「気持ちを切り替えて、怒らないで、ね。今忙しいのが終わったら絶対君と一緒にいる時間を長くするから。最近会社は上場する準備で、とっても忙しいんだよ」
慶は一花の機嫌が少し直ったと思い、笑顔を見せた。
「そうね、怒ってないで気持ちを切り替えなくっちゃね、私って本当に彩り豊かな人生を送っているわ」
一花のその言葉に隠れた意味を、慶は理解していなかった。
黒崎家の豪邸は、南関市の一等地である峰葉ヒルズにあり、その敷地面積は150坪以上だ。
しかしそれは、一花が大学を卒業して自分の事業を諦め、彼の会社に尽力した結果得られたものだった。
家に到着してすぐ、楽しそうな笑い声が二階から聞こえてきた。
男の子に、それから優しい女の声だ。
男の子は、一花と慶が結婚してすぐに養子として迎えた子で、今年5歳、名前は黒崎颯太(くろさき そうた)と言う。
一花が視線を上げると、そこには5年間会っていなかった綾芽の姿があった。今やそれを見てもまったく驚くこともない。
綾芽はブルーのニットスカートに、ウェーブがかったロングヘア姿だ。30歳を過ぎているが、まだ20歳を少し超えたくらいの若々しい顔で、輝くオーラを放っていた。
「一花、一体誰が遊びに来たと思う?」
横から聞こえる慶の低いその声からは喜びがにじみ出ていた。
一花は初めてこの横にいる男がここまで気分を向上させているのを見た。
普段、彼がいくら一花を気遣い、優しくしてくれたとしても、今のようにここまで嬉しそうに気持ちを興奮させることはなかった。
それは無意識のうちに溢れ出す、男が愛する女性へ向ける時の情熱のエネルギーなのだろう。
「柏木先生?」一花はわざと眉を寄せて驚くふりをしておいた。
しかし、内心は嫌悪で満ち溢れている。
この時、目の前にいるこの綾芽は大らかで優雅、さきほど会社のオフィスで見せていた甘ったるい様子など微塵も見せなかった。
「水瀬さん、お久しぶりね」
綾芽はすぐに颯太の手を繋ぎ、二階から降りてきて、心を込めて一花に挨拶をした。
そして一花は颯太のほうを見た。
慶は結婚後すぐに一花に相談してきて、以前彼女が暮らしていたひかりの丘学園から男の子を養子として迎え、黒崎颯太と名付けたのだ。
この子を養子とすれば、黒崎家の年配陣の要求に応えることができ、二度と一花に子供のことで責めることはないという名目だった。
その時、一花は慶が自分のためにそう考えているのだと思い、すぐに同意したのだ。
それがまさか、颯太を養子として世話をしてきた2年、ここまで苦労するとは思ってもいなかった。
この子は気性が激しく、何か面白くないことがあると、まるで彼女に敵意があるかの如く、すぐに何か物を一花に投げつけてくるのだ。
しかもある時、彼は一花のいる目の前で、慶に本物の母親を返せと騒いだこともあった。
一花の我慢が限界に達し、慶に養子として育てるのはやめたいと訴えたことがあるが、彼はいつも彼女をどうにか説得してきた。
颯太には母親がいなくて可哀想だから、一花にはもっと寛大な心で受け止めてやってほしいと言うのだ。そして一花も小さい頃に両親に捨てられたじゃないかと、孤児であることを思い返させるのだ。
そして今、颯太がしっかりと綾芽の手を握っている光景を見て、慶が自分に対して行ってきた態度を合わせると、全てが繋がった。
慶と綾芽は結婚してもう5年、颯太は5歳だ。
黒崎家は綾芽を嫁として迎え入れる気はなかった。それで……慶は一花を騙し、うまく利用してきたということなのだろう。
食事の間、慶と颯太はひたすら綾芽におかずを取り分けてあげ、この三人で楽しい雰囲気を作り上げていた。そして傍でただ黙々と食べている一花は蚊帳の外だった。
「一花、柏木先生はね、最近育児に関する書籍を執筆中なんだ。先生は静かな環境で集中したいそうで、ちょうど会社のほうも忙しいし、君がやることも多いだろう。だからさ……」
そしてタイミングを見計らって、慶は茶碗と箸をテーブルに置くと、一花に向かってこう言った。
「それで、柏木先生には暫くの間ここで暮らしてもらおうかなって。彼女も忙しい君に代わって颯太の世話をしてくれるって、この子も先生のことがとても気に入ってるみたいだしね」
それはもう滑稽でしかない。
こそこそと裏で結婚し5年もの間好き勝手楽しむのに飽きたらず、今度は正当な理由をつけて、この女をここに住まわせようということか?
一花はまるでその言葉など聞こえなかったかのように、ゆったりと食事を続けた。
その場の空気は瞬時に凍り付いた。
慶は少し気まずそうに声を小さくして彼女に注意した。「一花、君に話しかけてるんだよ」
すると、一花が茶碗をテーブルに置く音がカチャンと響いた。
一花が口を開く前に、綾芽がすぐに声を出した。
「ごめんなさいね。私のせいだわ。あなた達を困らせちゃって。水瀬さん、慶君はただちょっと提案してくれただけなのよ。彼もあなたが仕事が忙しいうえに、家のこともしないといけないから、それを心配しているの。それに颯太君のお世話だって、とても大変だろうし、私がお手伝いを……」
「嫌だ!僕は綾芽さんにいてほしいの!」
そう言うと、綾芽の隣に座っている颯太がすぐに不満を漏らした。
綾芽が話している途中で、彼はすぐに箸を投げ捨ててテーブルを叩き始めた。
「颯太君、そんなことしちゃダメよ……」
「颯太、はしたないわよ!」
彼の様子を見てすぐに止めに入った綾芽と、普段の癖で颯太を叱責する一花の声が同時に響いた。
すると颯太は一花をギロリと睨みつけ、腹を立ててコップに入った水を一花にぶちまけた。
第2話
一花はすぐには避け切れず、そのままジュースをかぶってしまった。
その音を聞いて、使用人たちがすぐに一花のもとに駆け寄ってきた。
「颯太!」
すると颯太は血相を変えた慶に怒られたことに驚き、脱兎のごとく二階へと駆けあがっていってしまった。
慶が追いかけようとしたが、それを綾芽が立ち上がって引き留めた。「慶君、まだ子供なんだから、力で脅すような教育をしようとしても駄目よ。私が様子を見に行ってみるわ」
彼女はそう言い終わると、体にかかったジュースを拭き取っている一花へ視線をちらりと向けて、何か言いたげにしていた。
それで慶はようやく一花のほうへと意識を向けた。
「大丈夫だったか?見せてみて」
一花はこの時すでに拭き終わっていて、慶の手が彼女の顔のほうへ近づいてくると「汚いから、触らないで!」と咄嗟にそう口に出した。
しかし慶は一花の言葉の意味を理解していなかった。「ジュースくらいで俺が嫌がるわけないだろう?ただ君のことが心配なんだよ。
颯太がこんなにわがままだったなんて、知っていれば君に世話を任せるべきじゃなかった」
一花は軽く口角を上げて、皮肉交じりに言った。「そうね。もし実の母親が世話をしていたなら、私なんかよりもずっと立派に世話していたでしょうね。だけど残念ね、彼の母親は亡くなってるんだもの。養子を育ててる母親代わりの私では、本当にどうやって世話をしたらいいのか分からないわ」
それを聞いた慶は一瞬たじろぎ、顔をこわばらせた。「何を言っているんだ、颯太は俺たちが養子として迎えた子だぞ。彼には一花という良い母親しかいないよ」
そう言い終わると、彼は愛おしそうに一花の頭を優しく撫でた。
一花は警戒しておらず、それを避けることができなかったため、触られた瞬間に気持ち悪くて体を硬直させた。
部屋に戻ると一花はすぐにシャワーを浴びた。
すると慶も彼女に続いてすぐにやって来た。彼は綾芽を滞在させる件で相談したかったのだ。
相談と言えば聞こえは良いが、彼が自分の意見など全く聞かないことくらい一花は分かっていた。
あの二人は本物の夫婦で、一花はただ偽の肩書きを持っているだけなのだ。
「今会社は上場する前の大事な時期だし、颯太には誰か世話をしてくれる人が必要だ。それに会社は君を必要としているんだよ。
柏木先生は子供教育のスペシャリストだ。君も見ただろう、颯太は先生の言うことならよく聞いて……」
「いいわ、そうしましょう」
一花はこの男の声にはうんざりだった。聞けば聞くほど吐き気がする。
「一花、君なら理解してくれると思っていたよ。俺が君のことを考えてるんだって分かってくれるもんね」
慶は話がついたのを見て、真っ黒な瞳に優しさを浮かべた。そして立ち上がり一花の細い腰に手を回した。
しかし一花はすぐに身を躱し、携帯を彼の前に差し出した。
写真に映っていたのは川沿いにある家だった。その場所はオフィスエリアだ。
そこは多くの企業が経済活動を行っているビジネス街で、南関市の中心に位置している。そして今二人が暮らす慶の家よりも、その不動産価格は高い。
「慶、この家どうかしら?」
「もちろん良いに決まってるさ。このエリアは一等地だよ」
慶は一花がどういうつもりでそう言っているのか分かっていなかった。
「来月私の誕生日でしょ、この家すっごく気に入ったの。誕生日プレゼントとして買ってくれないかな?」
一花は笑顔になり、なるべく甘えた声で言った。
慶が2年もの間彼女を騙していたのだ。この2年間に彼女が失ったものの中には時間だけでなく、自分の成功も含まれている。
一花は慶の会社を立て直すために、大企業からのオファーを断ってまで、黒崎家のこの小さな会社のために力を尽くしてきたのだ。
2年という短期間で、彼女は慶の会社の状況を一変させた。そしてあと数カ月で、会社を上場させ、2千億もの莫大な価値を生みだすことに成功する。
しかし、彼女はもうすぐ全てを搾り取られて捨てられる運命なのだ。
一花はもちろん彼らの思い通りにさせる気などない。それにこのまま彼らを見過ごすことなどもってのほかだ。
慶は以前、一花に誠実な愛を貫いていた。彼女が欲しいものなら、彼ができる範囲で何でも彼女に買って満足させてくれていたのだ。
しかし、一花はもともと物欲は少なく、本気で何かを求めたことなどなかった。
この時、慶は少し戸惑った。「どうして突然家が欲しいだなんて言い出すんだ?この家で十分じゃないか?」
「私たちが今住んでいるこの家はもちろん素敵よ。だけど、投資価値はあまりないの。でもこの写真の家は違うわ。将来的にその価値はぐんと上がるはずよ。
それに、あなたの会社はもうすぐ上場するでしょ。将来、新しい邸宅でパーティーを開いて、みなさんを招待すれば、場所だって便利なところにあるし、自慢できるでしょ」
一花が出す言葉の一つ一つは慶のことを思っての言葉だったので、すぐに彼の心に浮かんだ疑問が払拭された。
そして彼は、やっぱり一花は俺のお金をただで使うのは惜しんで、心から俺のために将来のことを考えてくれているのだ、と思った。
この瞬間、慶は自責の念に駆られた。それに一花のことを可哀想だとも感じていた。
「俺には君がいてくれるだけで、鼻が高いんだ。それ以上は望んでいないよ」
慶はまた彼女を抱きしめようと手を伸ばしたが、また一花に避けられてしまった。
「私の誕生日プレゼントにって言ったでしょ。私のために買ったと思えば、惜しくはないじゃない?」
最後のセリフを一花は冗談めいた口調で言った。
この日の一花はいつもと様子が違っていた。慶はそんな彼女を見ていると自分の欲望を抑えきれなくなっていた。
慶もあまり深くは考えずに彼女に尋ねた。「その物件はいくらするんだい?」
「そんなに高くないわ。たったの15億よ」
一花は微笑んで言った。
その金額を聞いた瞬間、彼の顔はこわばった。
一花にケチな態度を取りたいわけではなく、実際その価格は高すぎるのだ。
しかし、会社ももうすぐ上場するという大切な時期に、一花の機嫌を損ねるようなことはできず、結局頷いてしまった。
「分かった、君が気に入ったのなら、買ってあげるよ」
慶はそう言い終わると、すぐに一花の目の前で財務部に電話をかけた。
その夜、一花の個人口座に15億振り込まれた。
そして慶は彼女の要求通りに、特別に振り込む際へメッセージを付け足してもらった。【一花への家の贈り物。誕生日おめでとう】
銀行カードの残高は300万から一気に15億300万に変わった。
二人が「結婚」してから、一花は家庭の財布は慶に握らせていたのだ。
そしてこのカードに残っていた金額は、彼女が大学時代にアルバイトでこつこつ貯めたものだった。
この2年間、彼女は会社から給料を一円ももらっていなかった。
そして翌日の朝、一花が部屋を出てくると、一階のダイニングでエプロン姿の慶が綾芽と楽しそうにおしゃべりしていた。
それに颯太もまるで子犬のように二人の後ろにくっついていた。そのお利口そうな様子に、一花は今までの彼はなんだったのかと思っていた。
しかし、この一家三人の仲睦まじいシーンは、一花の登場によってあっという間に幕を閉じた。
綾芽は慶の肩に置いていた手を瞬時に離し、慶も一花のほうへと近づいてきた。
「目が覚めた?今日は俺が腕によりをかけて作ったんだよ。早くこっちに来て食べてみて」
一花がテーブルに視線を向けると、そこには豪華な朝食が並んでいた。
屋敷にはお手伝いの家政婦がいて食事を作るし、慶も朝食を食べる習慣がないので、料理を作ろうともしなかった。
それに、普段彼らは朝食には魚や味噌汁など一般的なものを食べていたが、今日は全て外国の朝食が並び、その種類も多かった。それも一体誰のためなのやら。
それが誰のためなのか分かっているが口には出さずに、一花は笑顔で綾芽に言った。「これって、全部先生が好きなものなんですね?」
「そうよ、慶君ったら本当におもてなしの心があるのよね。私が食べ慣れない物があってはダメだと心配してくれたの。彼みたいにここまで気遣いのある男性ってそうそういないわよ。水瀬さん、あなたって本当に幸運の持ち主よ。こんなに素敵な旦那さんを見つけてくるなんてね」
綾芽は自然にその言葉に返事をし、一花の目を見つめて絶妙な優越感を滲ませていた。
「そうですよ。慶は昔からずっと優しい人です。私だけにじゃなく、どんな女性にも優しく、紳士的に振舞っているんですよ」
「一花のそんな適当な話は無視してください。俺はそんなことありませんから」
慶は焦って否定してきた。一花は意味深なセリフを吐いたが、その軽い口調が、まるで愛があるからこそからかって言ったように周りに聞こえさせた。
しかし、綾芽は笑えなかった。
颯太は綾芽の不機嫌なオーラを感じ取り、一花が取ろうとした最後のオムレツの上に、これでもかとケチャップをかけた。
力を込めて絞り出したので、その勢いでケチャップが白く透明感のある一花の手に落ちた。
「颯太、一体何をやっているんだ!?」
すると慶が顔を暗くさせた。
綾芽は急いで一花にティッシュを渡し、颯太のほうを向いて低い声で言った。「颯太君、お腹がいっぱいになっても、食べ物を無駄にしてはいけないでしょ。
見なさい、お母さんの手まで汚しちゃって、彼女に謝りなさい」
颯太はこっそり一花に白目をむき、不服そうに言った。「ごめんなさい」
一花は手を拭きながら、この親子二人を一瞥した。
颯太は偉そうに顎を突き出して謝罪をしたし、綾芽の言った言葉も完全に重要な事から外れた曖昧な言い回しだった。
「いいから、食べ終わったなら、先に部屋に戻っていなさい」
颯太が謝罪の言葉を述べた後、一花がそれに返事する隙も与えず綾芽が先に言葉を発した。
「待って」
颯太が部屋に戻ろうとした時、一花が立ち上がり、サッと彼を捕まえた。そして壁際に追いやった。
「しっかり立ちなさい」
「このクソ女、放せ!」
颯太は抵抗しようと必死にもがいていたが、一花は彼の扱いに慣れているので、力強く彼の両肩を壁へと押さえつけた。そしてすぐ傍に置いてあった花瓶から棘のついた薔薇を手に取ると、それを思い切り彼のお尻に叩きつけた。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
痛みと恐ろしさで、彼は大泣きしてしまった。
「水瀬さん、一体何をしているの?颯太君は謝ったでしょ、そんな体罰で子供の教育をするつもり?」
綾芽は焦って、一花を止めに入った。
「柏木先生、颯太は私の子供です。母親として、ものの道理をしっかりと教えないといけなんです。そんなに焦ってこの子を庇おうとして、まるで……彼の本当の母親みたいですけど?」
一花は冷ややかに綾芽に返事しながら、颯太を叩く手は止めなかった。そう言う間に何度も彼のお尻を叩いていた。
綾芽は顔を真っ青にさせて、拳を握りしめて怒りを堪えるように言った。「わ……私はただこの子がまだ小さいから……それに、颯太君だって別に大きな間違いを犯したわけでは……」
「小さな間違いでもきちんと正しておかなければ、大人になってからもっと取り返しのつかない大きな過ちを犯しますよ。私は柏木先生のような教育の専門家ではないですから、うまい方法は知りません。ですので、こうやって痛めつけないと、言うことを聞かないんです」
一花の言葉に綾芽は完全に押し黙ってしまった。この状況では、一花のほうが優勢で綾芽には阻止する立場がなかった。
慶も非常におかしいと感じていた。いつもならいくら厳しかったとしても、一花も叱責する程度で、手を出すことなどなかった。
確かに颯太はやり過ぎたが、綾芽から見つめられると慶は耐えられず、一花の手を掴んだ。
「分かった、落ち着いて。もう十分叩いただろう」
確かに一花は何度も颯太を叩くことで、心の中に湧いていた怒りが少し収まっていた。
すると彼女は薔薇の花を床に捨てた。颯太は素早く綾芽の後ろに身を隠した。
彼は息もうまくできないほど大泣きしていて、一花にかかっていくような余裕はなかった。
綾芽は眉間に皺を寄せて、どうもスッキリせず息を吐き出すと、何も言わずに颯太の背中を叩いてあげていた。
「颯太、覚えておきなさい。私があんたの母親である以上、年上に対する態度を良くしなさい。また立てつくような態度を取るというのなら、今度は容赦しないわよ」
一花は相手に有無を言わさぬ態度でその言葉をはっきり吐き捨てていった。それで颯太もあまりの恐ろしさに泣けなくなってしまった。しかし、彼女はこの時笑顔で話していたのだ。
慶はそんな彼女を見てとても驚いていた。
一花はそう言い終わるとダイニングを出ていった。
慶は何も考えずに彼女を追いかけようとしたが、綾芽に手を引っ張られてしまった。「慶……」
この時、綾芽は悲しそうな瞳で彼を見つめた。彼女は本気でこれ以上我慢できないのだ。
綾芽は慶が自分のことを長年愛してくれて、二人の愛情はとても深いことは分かっていた。それで、彼女も安心感があり、どんなことに対しても大らかな態度でい続けることができた。
しかし……
水瀬一花とかいう女は、本当に人を馬鹿にするにも程がある!
当時、黒崎家のおじいさんが断固として彼らの仲を認めなかった。
その頃の慶はまだ大学生で、祖父に抗う力などなかった。綾芽は危うく職を失うところだった。後々、大学の職員も続けられなくなり、職業を変えて、子供の教育を担う先生へ転身した。
そうして壁に突き当たったところで、慶は一花という隠れ蓑を見つけたのだ。
綾芽も慶にどうして水瀬一花を選んだのかと尋ねたことがある。
慶は綾芽に、当初一花を実家に連れて行くと、家族は一花を見てこれだけ綺麗だから慶も惚れて当然だと思ったらしいと教えた。
そして後で慶が一花について調査してみると、彼女は孤児で誰も頼れる人間がおらず、ビジネスの才能がある女性だと気がついた。多くの有名企業がこぞって彼女を招き入れようと必死になっていた。
一花と仲を深めれば、慶の事業にも一役買ってくれることになる。
しかし、綾芽を安心させるために、慶は一花と付き合い始めてからそう経たずに、綾芽とこっそり結婚してしまっていたのだ。
こうすれば、慶が一花と一緒にいたとしても、夫婦の共同財産も綾芽に渡すことができる。
慶も彼が将来、家業を継いだら、発言権が持てるようになるから、その時に二人の関係を公にすると約束していた。
そして彼ら二人にとって、水瀬一花という人間は初めから終わりまで都合の良い道具でしかなかった。
しかし今、この道具が偉そうな態度を取り始めて、綾芽は我慢できなくなったのだ。
慶はもちろん綾芽のことを可哀想だと心を痛めている。しかし、今はまだ一花と争って仲違いなどできない。彼はただ綾芽をしっかりと抱きしめてやることしかできなかった。そして苦しみをぐっと抑えこみ、一花の後を追いかけていった。
第3話
一花が車に乗り込もうとしているのを見て、慶は気持ちを切り替え、一緒に行こうとした。
この時間帯には、二人はいつも一緒に出勤する。
「あなたは秘書に送ってもらって。私は不動産屋さんと約束して部屋を見に行くの」
慶はそれを聞いて一瞬、訝しげにしていた。「だけど、今日は会社で重要な……」
「この物件はとても人気があるの。だから、今日行かないと誰かに取られちゃうわ」
一花は直接彼の言葉を切り捨てた。「あなたいつも言ってるじゃない。仕事が終わらなくても、ある程度のところで終わりにしないとキリがない、たまには自分を甘やしてやれってね」
一花は淡々とした口調で言っていて、感情を表には出さずに微笑んでいた。
しかし、その微笑みに、慶ななぜだか背筋がひやっとしてしまった。
すると彼はすぐに口角を上げた。「分かった。じゃあ、俺も今日は会社を休んで君と一緒に家を見に行くよ」
「その必要はないわよ」
一花は輝くような笑顔を見せ、振り返って、指で軽く彼の胸元を突っついた。「一人で選びたいの。選んでからあなたに見せに連れて行くから」
一花はもちろんこの時の慶の目論見が分かっていた。彼は別に彼女に付き添いたいわけではなく、見張っていたいだけだ。
慶に任せてしまい、夫婦の名義で家を購入することになれば、そこは彼と綾芽のものになってしまう。
一花が甘えるような口調で話すものだから、慶は突然ゾクッとして彼女の手をぎゅっと握りしめた。
「お楽しみってこと?」
「そうよ」
その瞬間、一花の口元はこわばり、すぐに手を引っ込めた。
「そうか、じゃ、君の言う通りにするよ」と慶は声のトーンを低くし、軽く彼女の肩を抱いた。
それを避けることができず、一花はただ気持ち悪いのを堪えるしかなかった。
そして一花が車でその場を去ると、慶の表情からスッと笑顔が消えた。
彼はどうも一花が少しいつもと違うように感じていた。
それとも、女性は敏感な生き物だから、何かに気づいて彼と綾芽の仲に嫉妬したのかとも考えていた。
慶はネクタイを整え、ソワソワする気持ちを抑えようとした。
一花に気持ちを持って行かれるわけにはいかなかった。
いくら一花が魅力的な女性で、心から自分のことを想っていてくれたとしても……
妻は綾芽、ただ一人なのだから。
それから一時間後、一花は全面ガラス窓から、オフィスエリアの風景を眺めていた。
彼女が目を付けたこのタワーマンションは、天井まで豪華な造りで、スマートホーム化されている。シンプルながらも高級感があり、レイアウトは完璧だった。総面積は90坪にもなる。
面積に関しては一番大きな部屋ではないのだが、オフィスエリアの一等地にある。
夜、街中がライトアップされれば、ここからの景色は最高だろうと一花はすでに想像していた。
「ここにします。手続きをお願いします。私の名前で契約しますね」
一花はとても満足して、この物件を担当する不動産仲介スタッフである河本にそう言った。
ここは契約すれば即入居可能であり、彼女はいつでもあの窒息しそうなほど息苦しい「家」から出て行けるのだ。
「かしこまりました」
河本は、彼女がただ見に来ただけの客だと思っていたので、即決してくれたことにとても喜んでいる様子だった。
すると一花に対する態度が一変し、担当者は一花を顧客専用の部屋へと案内し、他のスタッフに飲み物と茶菓子を持って来させた。そして自ら不動産契約書を取りに行った。
少しして一花は契約書にサインをし、一括購入を選び手付金の支払いを済ませた。その後の手続きに関しては、プロに頼んで代わりにやってもらうつもりだ。
一花が契約書にサインをしている時、甘ったるい女の声が耳に飛び込んできた。
「あなたが私が目をつけていた部屋を横取りしたのね?」
一花がその声のほうへ視線を向けると、そこにはブランド物に身を包み、めかし込んだ若い女の姿があり、勢いよく駆け寄ってきた。
彼女の後ろには二人のボディーガードと、不動産仲介の女性スタッフがいた。
「私のことですか?」
一花は一瞬驚き、すかさずそう尋ねた。
「当然でしょ、この部屋は私が先に目を付けていたのよ。この部屋を買うのはこの私よ!」
女がサングラスを外すと、その下からは魅力的な瞳が現れた。しかしその瞳には怒りを宿し、鋭い視線で一花を睨みつけていた。かなり横柄な態度の女だ。
「さっき、この部屋は誰かが予約しているなんて話は聞きませんでしたけど。あなただって手付金を支払ってはいないのでしょう?私が先に契約したので、ここは私のものです」
一花は冷たい声でそう言い放った。彼女は話の通じなさそうな相手とは言い争いたくなかった。そして彼女は立ち上がって他の席に座った。
その女は腹を立てて、あまりの怒りで何かを話す前にその場で地団太を踏んでいた。
「そんなことはどうだっていいのよ。別にあんたにお知らせに来たわけじゃないし。私には優先権があるのよ、だから私に逆らえる権利なんてあんたにはないんだからね!」
一花はまたその女のほうへ視線を戻し、理解できない様子で言った。「優先権?」
そして女の隣にいた不動産仲介スタッフの中野も淡々とした口調で言った。「我々には、家を購入できる資格があるかまずは審査をする権利がありますので、先に契約書にサインしていたとしても意味はないのです。お客様の家柄がまずは考慮されるのです」
そう話す彼女は一切一花に目を向けず、かなり相手を馬鹿にするような態度だった。
「そんな規定があるなんて、本当に……呆れて言葉も出ないわね」
一花は眉間に皺を寄せた。
そしてこの時、さっき契約書を取りに行った担当者も、申し訳なさそうな様子で戻ってきた。
そして一花の横で偉そうに腕組みしている女を見ると、小声で一花に話した。「申し訳ございません。こちらのお方は二階堂萌絵(にかいどう もえ)様とおっしゃって、国内で最も有名な玩具メーカーの会社のご令嬢なのです」
一花は有名な玩具製造会社、二階堂グループならもちろん知っている。
一花が莫大な遺産を継いだ後、家族について調査していた。南関市のビジネスランキングで、二階堂グループは第五位である。
だからこの目の前にいる二階堂お嬢様が、ここまで偉そうな態度を取れるのは当然のこと。
そして中野はまた口を開いた。「気分を害されたのは分かりますが、すみませんね、規定は規定ですので」
「別に気分を悪くはしていないけど、ただ不公平だと思っただけよ。だけど、そちらにそのような規定があるなら、その優先権とやらはそこにいる女性より私のほうが上よ」
一花は軽くため息をつき、続けて隣にいる担当者へ指示を出した。「すぐに手続きを終わらせてもらえますか。私、急いでいるので」
つまり一花は南関市の第五位に座する二階堂氏よりも格上だということだ。
「?」
その言葉に、萌絵と中野は呆然とした。
「何を言っているの。彼女のほうに優先権があるですって?」
萌絵は自分の聞き間違いかと思い、中野のほうへ目を向けた。
中野はすぐに手元にある予約表へ目を通した。
もし、二階堂氏よりも大口の顧客がここへ来るのであれば、彼らスタッフ一同には事前通達がされるはずだ。少なくとも、仲介マネージャー自ら出迎えることになる。
しかし、目の前にいる女性はいたって普通の格好をしていて、良くても宝くじで大金を当てただけの、一時的な金持ちだろうと中野は思った。二階堂家の令嬢を超える身分の人間などそうそう現れるわけがないと思っていた。
「お客様、私の言葉を理解されていないようですが、うちはお客様の家柄によって……」
「だったら、その審査とやらをしてみればいいじゃない」
一花は無駄話をしたくなかったので、再び身分証明書を突き出した。
彼女は怒っているわけではない。今までにこれ以上にムカつく連中なら嫌というほど見て来たのだ。このように人の身分にこだわる連中など屁でもない。
そして一花の担当をしている河本が少し訝しげにしていたものの、言われた通りに審査に入った。
この時、二階にあるVIPルームのカーテンが少し動いた。
後ろの背の高い人影が立ち上がってその場を離れた。
その傍にいた付き人がすぐに意味を理解し、部下に命令した。「行け、伊集院様がおっしゃっている。あの者たちにあちらのお嬢様の資産を審査をするのを止めさせろ。あの方は西園寺家のご令嬢だ」
南関市の西園寺家といえば、一つしかない。それは南関のトップ財閥家である。しかし、西園寺家に令嬢がいるという噂は今まで聞いたことがなかった。
一花はまたソファに座り直した。
この時、中野はもはや我慢できない様子だった。
「お客様、身の程を弁えられたほうがいいと思いますよ。さっきも言いましたが、我が不動産で住宅を購入される際には、その資格があるかどうか審査が必要なのです。手元に資金があっても、ここの家を買うだけで精一杯な程度でしょう。これ以上二階堂様のお時間を無駄にしないでください。でなければ、今すぐ警備員を呼んで追い出しますよ」
この時、萌絵はさっきまでの怒りを鎮め、鼻で笑うと中野を押し退けた。
「別にいいわ、ちょっとくらい待ってあげる。見せてもらいましょうよ。この女が一体どこの名家の娘なのかね。
お耳に痛い話をさせてもらうけど、もしあなたが二階堂の上をいく家柄でないのに、私の時間を無駄にしたのなら、土下座して謝るのよ。じゃなきゃ、容赦しないからね」
この女、二階堂萌絵は一花よりも少し年下で二十歳を少し過ぎたくらいだろう。完全に甘やかされて育ったわがままお嬢様だ。
一花は軽く笑った。「いいわよ、じゃ、あなたが言うその『優先権』とやらが私にあるならどうする?あなたも土下座して謝るのよね?」
「あんた……」
二人が話している時、スーツを来た男が額の汗を拭きながら一花のほうへ駆けてきた。
「お嬢様、大変申し訳ございませんでした。確かにお嬢様のほうに決定権がございます。とんでもない態度をお見せしてしまい、誠に申し訳ございませんでした!」
河本はさっき審査をしに行こうとしたところ、通知を受け、彼が担当している女性は総資産兆超えであると知り、度肝を抜かしてしまった。しかも、彼女はあのトップに君臨する財閥家、西園寺家が探し出した令嬢だったのだ。
中野はまだ一花に問い詰めようとしているところを、他の店員に引っ張られてこの件を伝えられた。するとその瞬間全身の力が抜けてしまい、床に膝をつき崩れてしまった。
しかし、彼女は我に返ると、跪いたまま謝罪し始めた。「も、申し訳ございませんでした、西園寺様。世間知らずのわたくしめが、先ほどは失礼な態度を取ってしまって、どうかお許しください……」
萌絵は目の前にいる女性が西園寺家の人間だと聞き、信じられない様子でいた。
彼女は自分が知っているあの西園寺家のことなのかと思っていた。
南関では、西園寺家が少し動くだけで、ビジネス界を大きく変えてしまうほどの実力を持っている。
「早く手続きを済ませてちょうだい。私、忙しいのよ」
一花は言い争う気もなく、ただその審査とやらをさっさと終わらせてもらいたかった。
それを聞いたマネージャーはすぐに契約書を持ってきて、一花にサインをしてもらうと、部下に手続きをしに行かせた。
「あなたが西園寺家の娘ですって?今まで会ったことなんてないはずよ」
萌絵は頭を棒で殴られたかのように衝撃を受け、呆然と一花を見つめていた。
西園寺家の同世代であれば、萌絵も知っている。しかし、唯一……この目の前にいる女とは顔を合わせたことがないのだ。
「なにが西園寺よ、絶対に嘘に決まってるわ!」
萌絵は考えれば考えるほどおかしいと思った。ここにいる全員が手を組んで自分を騙そうとしているとまで思ってしまった。そして合図一つで後ろにいたボディーガードが強引に止めようとした。
しかし、それを不動産スタッフが止めに入る前に、その場には黒服の男たちがなだれ込んで来て、萌絵たちの邪魔をした。
その一団の先頭に立っていた中年男が、朗らかな声で言った。「二階堂様、ご無沙汰しております。わたくしは西園寺家の執事、古谷と申します」
それを聞いて、萌絵だけでなく、一花も驚いていた。
西園寺家の人間がどうして突然ここへ現れたのだろうか?
スーツに革靴姿の中年男は、白髪交じりの頭に、黒ぶち眼鏡と白手袋をはめていた。非常に優雅な雰囲気を醸し出しているが、人を圧倒するオーラを持っている。
萌絵は古谷を見ると、さっきまでの勢いがしぼんでいった。
「古谷さん、彼女は……まさか、本当に西園寺家の令嬢なのですか?」
ここまで来ても萌絵は信じたくなかった。
萌絵が知るところでは、西園寺匠の妻は不妊症で、一人だけ養子をもらったはずだ。匠が他界してから、どうして何もないところから急に彼の娘が現れたのだろうか。
まさか……隠し子なのだろうか。
「間違いなく、こちらにいらっしゃるお方は、我が西園寺家の匠様の娘様でございます。そして今、唯一西園寺家を継ぐお方なのです」
そう言い終わると、古谷は萌絵を通り過ぎ、一花をじっと見つめた。
一花は見つめられて非常に慣れない様子だった。そして次の瞬間、古谷が丁寧にお辞儀をした。「お初にお目にかかります。一花お嬢様」
「お嬢様」
古谷がそう言うと、後ろに付き従っている黒服の男たちが一斉にお辞儀をした。
その光景に一花は驚き、萌絵も怯えた様子で思わずよろけてしまった。
萌絵はカバンをぎゅっと抱きしめ、すぐにその場を離れようとしたが、黒服たちに囲まれてしまった。
「お嬢様、こちらの二階堂様と何かあったようですが、解決いたしましょうか?」
古谷は萌絵のほうをちらりとも見ず、薄い笑みを浮かべて恭しく一花に尋ねた。
この時、萌絵は顔を真っ青にさせていた。さっき一花に言った言葉のように、ここで土下座をさせられるのかとおどおどしていた。
ここで土下座でもしてしまったら、今後上流社会の集まりでどんな顔をして出席すればいいのか。恥ずかしくてたまらない。
「……」
西園寺家が上流社会ではかなりの地位であることは知っていても、一花はこのような状況は初めてだから少し戸惑った。「いいです。別に何かされたわけじゃないですから」
「そうおっしゃられるのでしたら、二階堂様には我が西園寺家のお嬢様に謝罪の言葉を述べていただきましょう。そうしないと両家の面子というものがございますので」
そう言いながら古谷は背筋を伸ばした。一花が気に留めなくとも、如何なる人間もこの西園寺家に失礼な態度を取らせたままで終わらせるわけにはいかない。
古谷はニコニコと微笑んではいるものの、萌絵はその圧力に押し潰されそうに感じていた。
彼女はゴクリと唾を飲み込むと、大勢の前で一花に謝るしかなかった。「す、すみませんでした」
そう言い終わると、黒服たちはようやく萌絵に道を開けた。
萌絵は顔を真っ赤にさせて、すぐに付き人を連れてその場を去っていった。
萌絵が去った後、古谷が合図を送ると、さっき萌絵を担当していた中野も人に連れられていった。
一花が口を開く前に、古谷が前で進み出て、彼女に「どうぞ」と手を出口のほうへ向けた。
「こちらの事はわたくし達が処理しておきます。車が外に待ってますので、お嬢様は先にお乗りください」
古谷を見つめる一花の瞳は、最初警戒していた様子だったが、この時幾分か落ち着いていた。
彼女はすぐには動かず、ただ平然とした様子で尋ねた。「車って、どこへ向かうのですか?」
「もちろん、西園寺家にお戻りになるのです」そう答える古谷は穏やかだったが、相手に有無を言わさぬ口ぶりだった。
第4話
「西園寺家にですか?」一花はまた強調して尋ねた。
「ええ、西園寺家でございます。これからは一花様のお家でございます」
それを聞いて一花は一瞬黙ってしまった。西園寺匠は一花の実の父親だ。兆を超える遺産がまるで棚から牡丹餅のように一花のもとへ降ってきた。そして遅かれ早かれ西園寺家に戻る運命なのだ。隠れもできないし、隠れる必要すらない事実だった。
一花は首を傾げた。「それもいいですね。私の家なわけだから、いつかは行ってみるべき場所なのだし」
それが遅いか早いかだけの違いだ。
そしてその途中、古谷が簡潔に西園寺家の現状について説明した。
西園寺家が展開している事業は広範囲に及んでいる。そのほとんどの資産は匠に帰属している。残り一部分の資産は匠の父親、つまり一花の祖父と、匠の兄のもとにある。
そして今、その匠の莫大な遺産が一花の手の中にあるということだ。つまり、一花は西園寺グループの筆頭株主となった。
現在、祖父にあたる西園寺幸雄(さいおんじ ゆきお)は海外で療養中だ。それで西園寺家は今、匠の妻である和香(わか)が一族の管理をし、会社は養子である西園寺陸斗(さいおんじ りくと)が責任者として率いている。
一時間後、ロールスロイスファントムが西園寺家の本宅に到着した。
300坪を超える庭は見る者を圧倒する雰囲気だった。門を入って屋敷に到着するまで、車でも十数分かかった。
西園寺邸の建物は普通の豪邸と比べても雄大で壮観だった。足元の石畳ひとつ取っても相当な価値がありそうなくらいだ。
一花は生まれて初めてここまで贅沢に金を使って造られた豪華絢爛な場所に来て、緊張しないと言えば嘘になる。しかし、できるだけ平静を装っていた。
彼女は古谷の案内で本館の応接間へとやって来た。重々しい雰囲気の扉をメイドが開けると、全面ガラス窓の前には優雅で高貴そうな人影が現れた。
貴婦人の傍には二人の付き人が立っていて、ソファにはスーツに革靴の若い男性の姿があった。
一花が現れると、その女性は軽く一花に視線を走らせ、近づいてきた。
この時、古谷が小声で一花に、目の前にいる女性は西園寺匠の妻である西園寺和香であると紹介した。
そしてソファに腰掛けているのは、匠と和香の養子である一花の名義上の兄、西園寺陸斗だ。
和香が視線を上げると、古谷が他の使用人を連れて部屋を離れた。そしてこの時、広い応接間には一花と和香、陸斗だけになった。
「あなたが水瀬一花さん?」
一花は頷いた。和香は微笑んではいるものの、そこまで友好的な感じではなかった。
「座ってください。自分の家に帰って来たんだから、緊張しなくていいんですよ」
和香の次に、陸斗が一花に向かってそう言った。彼は礼儀正しい口調で言っていたが、和香と同じく距離感があった。
一花は二人と視線を合わせながら、向かい側のソファの端に座った。「奥様、私をここへ呼んだのは……」
「単刀直入に申し上げます。今日あなたをここへ呼んだのは、一部相続権を破棄していただくためです」
和香が一花の言葉を遮った。
陸斗のほうを見ると、彼は事前に用意していた同意書を一花の前に差し出した。
「水瀬さん、父が急逝してしまい、あなたが継ぐのは父名義の全ての遺産です。しかし、会社の経営権はあなたに譲るわけにはいかないことを、お分かりいただきたい。その補償として、20億を現金でお支払いします」
陸斗の声は冷淡で、まるで話し合いというより、ただの通達を受けているかのように感じられた。
一花は驚き、その同意書を手に取って確認した。
「西園寺グループ全ての株を放棄すること。会社の経営権、及び西園寺家名義の全ての不動産を……」
和香はお茶を手に取ると、一口すすった。
「あなたの事情は把握しています。あなたの母親は匠と一時的にそういう仲になり、うっかりあなたを妊娠してしまった。あなたは3歳になると児童施設に預けられ、ここまで苦労をしてきたのでしょう。
この20億はあなたにとってはかなりの金額のはずです。だけど、西園寺家の後継者を外に捨てられた隠し子などに渡すわけにはまいりません。この点、あなたにも分かっていただきたいのです。
それでも、あなたが匠の娘であることには変わりありません。つまりこの西園寺家の血を引く人間だということです。今後、あなたは西園寺家の令嬢という肩書を持つことになるのだから、何か必要な時は、いつでも私に相談してちょうだい」
和香は相手に有無を言わさぬ口ぶりで、一花が拒否することができないと決めつけているかのようだった。
一花はいたって落ち着いた様子でその同意書を置くと。また和香へ視線を向けた。
和香は非常に美しかった。肌の手入れもよくされていて、その年齢は見た目だけでは判断できない。
「水瀬さん、問題がなければサインをしてください」
陸斗が再びテーブルの上に置いてあったサインペンを一花のほうへ寄せた。
「お断りします」
一花は西園寺家が簡単にこの「私生児」を認めないことは分かっていた。話し合いと言う名目であるが、これは相手に圧力をかけて、人のものを強奪するような行為だ。
一花は一瞬だけ黙り、淡々とした口調で拒否する言葉を吐き出した。
そして、引き続き声のトーンを低くして話し始めた。「奥様は私を『隠し子』だとおっしゃっていますが、実際に血を継ぐ私を法は認めるはず。それに、父が自ら遺言を残し、雇った弁護士を通して私に相続のサインを求めました。そんな父の遺言と、血縁を決定付けるDNA鑑定があれば、私のほうこそ相続人に相応しいと法で認められることでしょう」
その瞬間、和香の表情は暗くなった。そして彼女は再び一花をじろじろと奇異なものでも見るかのように見つめていた。
和香は一花が拒否するとは思っていなかったのだ。
「水瀬さん、あなたはただの『私生児』であると分かっているはずです。西園寺家の事業をあなたに託したところで、それを経営していく実力などあなたにはないでしょう」
和香は思わず冷笑した。
陸斗のほうも少し驚いていた。この南関において、彼の母親に逆らう者など唯の一人もいないことは誰もが知っていることだ。
「水瀬さん、あなたはきっと何か勘違いされているのでしょう。これは話し合うことではないのです。西園寺一族は巨大な一族、あなたの知る一般家庭とはわけが違うのですよ。あなたの決定が全ての一族に関係してくるのです。もちろん、あなた一人だけでは全ての西園寺一族に対抗することなど不可能」
陸斗は一花が理解できないと思い、はっきりとそう言った。
しかし、一花はよく分かっていた。この二人はただ圧力をかけて言うことを聞かせようとしているのだ。
彼らのように名家出身者は権力があり地位も高いため、その力で他人を抑え込むことに慣れている。それで当たり前のように20億さえあげておけば、簡単に言いくるめることができると思い、馬鹿にしているのだ。
しかし、一花はこれしきのことで弱腰になるような女ではなかった。
「西園寺さんは、これは話し合いではないとおっしゃるのですね。つまり通達だと?残念ですが、法律上、相続権というものは誰かの一言で簡単に奪えるようなものではないのですよ。
西園寺家の資産、それから株に関して、私はここ数日の間にすでにいろいろと学ばせてもらいました。不動産業は見積もりだけでも2兆、グループの収益は年間安定して1兆5千億は超えている。そして私にただ20億の『賠償』を渡すですって。それではただグループ傘下の小さな店を一軒買うのが関の山でしょうね。20億と2兆。その違いなら私にだって分かりますよ。これは補償という聞こえの良いものではなく、ただ私から強奪する行為ですよね」
一花は薄く笑った。そう言い終わると、同意書を閉じ、何もせぬまま陸斗に突き返した。
「……」
この時、和香と陸斗はこんなはずではなかったのに、という表情で互いに目を合わせていた。
「他の用がなければ、私はこれでおいとま致します。法に従うか、遺産相続の規定に従って話し合うかです。西園寺さん、あなたは父の養子ですよね。そもそも法律上では実子の私よりも後ろにあなたは位置しているのです。まさか西園寺家は、血縁の一切ない養子に父の遺産全てを相続させるような一族なのですか?」
そう言い終わると、一花は踵を返して去ろうとした。
そして扉を開けようとした時、和香が陸斗に目配せし、彼が低く沈んだ声で一花を呼び止めた。「待ってください」
応接間の外にはボディーガードが二列に並んで待機していた。一花はそれを見て、今日は簡単には帰れそうにないと悟った。
彼女はその場に立ち止まり、和香へ視線を向けた。「奥様、つまり強引な方法で私に相続権を破棄させるおつもりですか?」
和香は冷たく鼻で笑った。その声は相変わらず傲慢な様子だ。「水瀬さん、あなたはまだ私がどのような人間なのか分かっていないのです。あのね、私がまだ我慢しているうちに、きちんと話し合ったほうがいいですわよ」
すると陸斗が立ち上がり、大きなその影が、圧力を感じさせるオーラを纏いだんだん近寄ってきた。そして不機嫌そうに「水瀬さんが納得できないというなら、補償の金額をあげることも可能ですが」と言った。
一花はその彼の目線と対峙し、一歩も退かず確固たる意志を持ってこう告げた。「私が要求する金額をあなた達が差し出すことは不可能でしょう。父が残した2兆を超える遺産の一円たりとも譲る気はありません」
「それなら、交渉決裂だな」陸斗は怒りと殺意を込めた眼差しで睨みつけた。
その言葉が出ると、一花の後ろにいたボディーガードはすでに動きだし、勢いよく駆け寄ってきた。
和香は窓のほうへ体の向きを変えて歩いていった。そして応接間の扉がゆっくりと閉じられようとしていた。
この時、一花は背筋をまっすぐに伸ばし、自分に近づく者たちを冷ややかな目で見つめていた。
するとこの瞬間、廊下から突然、慌ただしい足音が伝わってきた。
十数名の漆黒のスーツを身に着けた男たちがなだれ込んできて、その後ろには古谷もついていた。
陸斗は驚いていたが、そのやって来た者たちの格好を見ると、動揺したように瞳を震わせ、素早く和香へ目を向けた。
「奥様」
古谷は小走りで和香の傍へ来ると、コソコソと何かを話した。すると彼女の顔色が一変した。「何ですって?」
「おじい様から先ほどご連絡がありまして、確認いたしました。伊集院家はすでに一花様に決めたと」
古谷がそう言い終わると、こちらにも男が一人一花のほうへやって来た。
「失礼いたします。あなた様が西園寺一花様でいらっしゃいますか?」
一花はこの状況に少し呆気にとられていて、状況の把握ができていなかったが、一応頷いておいた。
「我が家の主人が、明日の夜、一花様とディナーをしたいと申しております。こちらは主人の名刺でございます」
すると、その男は黒地に金で印刷された名刺を一花に差し出した。
一花がそれを受け取り何か言う前に、相手はすでに他の人を連れて去っていた。
彼女は再びその名刺に視線を落とした。精巧に作られたそのカードには、名前と携帯番号が印刷されていた。
その名は、伊集院柊馬(いじゅういん とうま)。
スーツの男達が去った後、一花の目の前にいるボディーガードもどうすればいいのかと陸斗に視線を送っていた。
陸斗は躊躇った後、和香が手を挙げ指示を出したことで、彼は頷き一花を解放した。
一体何が起きたのか全く理解できていない一花だったが、この場に長居することなく、さっさと離れた。
一花が去ると、陸斗も大股で和香のもとへ近寄った。「母さん、彼女を解放してよかったの?」
「じゃなかったらどうしろと?あなたも見たでしょ、あれは伊集院家よ」
和香は声を低くし、拳を握りしめていた。
一花は速足で歩き、邸宅の門を出たところで、ある車の列がゆっくりとこの場を去っていくのが見えた。
それは数台の黒いセダンで、どれも南関市のナンバープレートだった。
真っ黒で中が見えない車の窓から、一花はなぜか誰かに見られているような気がして、身震いした。
「水瀬一花さん」
自分を呼ぶほうへ振り返ると、そこには白のベントレーがいつのまにか横に止まっていた。
車の窓が下がり、カジュアルなスポーツウェアを着て、シンプルな格好をした中年くらいの男性が彼女に声をかけてきた。
「自己紹介しましょう。私はあなたの伯父にあたる西園寺勇(さいおんじ いさむ)と言います。さ、車に乗って。送って差し上げましょう」
一花が彼をよく見てみると、男の目元が確かに自分に少し似ているように感じた。
しかし、さっき起きた出来事を思い出し、彼女はやはり淡々とこう言った。「ありがとうございます。ですが、私は自分で帰れますので」
「警戒しないでください。私はあなたがさっき会った連中とは違います。私はあなたを助けるためにやって来たんですよ」
一花は立ち止まることなく、勇がゆっくりと車で彼女についていった。
一花が自分を信用しないのを見て、勇はこう言うしかなかった。
「あなたは隠し子です。突然兆を超える遺産を継ぐことになったのだから、どの一族であってもあなたを野放しにはしておかないでしょう。
しかし、とてもラッキーでしたね。伊集院家に見染められたのですから。あなたの政略結婚が成立すれば、あなたの西園寺家における地位はゆるぎないものになるでしょう。あの和香さんたちもあなたには手を出せなくなりますよ」
その勇の言葉がやっと一花の興味を引いた。
「政略結婚って何ですか?」
第5話
車を止め、勇はドアを開けてまた一花に言った。「車に乗ってください」
一花は少し迷って、やはり乗ることにした。
この日、自分を助けてくれた人物が国内トップクラスの財閥家である伊集院家であると、勇から聞いて知ることになった。
伊集院家は、金融、テクノロジー、そしてエネルギー分野を中心にビジネスを展開している。国内の経済を牛耳る巨大財閥であり、「一国に匹敵するほどの財力を持つ」と言っても過言ではない。
現在伊集院家の後継者は、28歳という若さの伊集院柊馬である。彼はその力で一族の事業を新たな高みへと押し上げ、ビジネス界では最も影響力を持つ若きリーダーだと認められている。
昨晩、一花の祖父に当たる幸雄が伊集院家から電話をもらい、政略結婚の話を持ち出されたのである。そして彼らが選んだのが一花だった。
勇は、伊集院家と親戚関係になりたいと考える名家は数えきれないほど存在し、もちろん西園寺家もその中の一つであると一花に教えた。
そして、勇自身も柊馬の祖父である伊集院和彦(いじゅういん かずひこ)の指示で一花を探しに来ていた。
「つまり、伊集院家は西園寺家よりも格上ということですか?」
一花はあまり勇からあれこれ聞くのが面倒で、直接そう尋ねた。
勇はそれに答えた。「比べることはできませんね。しかし、どうしても比べろと言われたら、西園寺家は南関で最も資産を持つ一族で、ビジネス界では首位にあります。しかし、伊集院家のほうは、国内において誰一人として頭の上がらない存在です」
「その、伊集院柊馬って……どのような方なんですか?」一花はまた尋ねた。
「伊集院柊馬は海外ではかなり有名な方です。国内ではあまり表舞台に現れないので、謎に包まれた存在、とでも言いましょうか。私自身、彼に会ったことはないのです。ただ、噂によると……」
勇は鼻を擦った。彼は一花にこの政略結婚の説得にやって来たのだが、何か話そうとして少し思いとどまっていた。
「噂によると?」
「噂だと彼は……人付き合いにおいては、あまり積極的に交流される方ではないようですね」
勇は事実を述べているが、かなりオブラートに包んで言っておいた。
もし、柊馬がただ人付き合いが難しいだけの人間であれば、伊集院家は彼と政略結婚しようとする人がすでに殺到し、家の中はごった返しているだろう。
「あまり積極的に交流されないとは?」
一花は柊馬について洗いざらい聞き出してしまいたいという様子で尋ねていた。
勇は気まずそうに笑っていた。「恐らく……少しクールなタイプで、人に対してちょっと厳しいとか、女性を近づけさせないところがあるとかでしょうかね。しかし、伊集院家は公私混同せず正しい道を進む一族です。そんな家柄出身の彼ですから……きっと品行方正な方でしょう」
きっと?
その言葉は聞いていると褒め言葉には聞こえなくなってきた。
一花は静かに勇を見つめていた。
そして結局、勇は降参した。
「ああ、分かりましたよ。噂によると、伊集院柊馬という人間は一匹狼で気難しい男らしいです。利益しか目になく、手段を選ばないタイプで冷酷な人だそうです。彼を怒らせるようなことがあれば、相当悲惨な目に遭うとか」
一花は必ず彼とは会うことになるのだから、先に心の準備をしておいたほうがいいだろう。
「でも、ただの政略結婚なんだから、あなたもあまり気にしないほうがいいです。名家の間ではこのように愛のない婚姻というものは数多く存在しています。それに、あなたには莫大な財産がありますから、西園寺家の人間以外にも、あなたを狙っている連中はたくさんいます。大きな後ろ盾がなければ厳しいでしょうね」
勇は一花が話を聞いて逃げ出すのではないかと不安になり、再び彼女の今置かれている現状を強調しておいた。
「分かりました、いいでしょう」
「まずは状況を見てから、開口一番に拒否しないように……」
勇は驚いた。彼は一花が結婚を拒否すると思って、説得する言葉をずっと考えていたのだ。それが、一花はあっさり受け入れてしまった。
「結婚に同意するので?」
「ええ」
あの結婚は偽だったのだから、今は独り身だ。
勇から聞いた伊集院柊馬はその家柄も能力も、慶よりも百倍上を行く。
慶は婚姻届受理証明書を偽造し、2年もの間一花を騙し続けていた。彼女を隠れ蓑として上手く利用していたのだ。
そして、柊馬のような人物を味方につけることができれば、強力な助っ人になるだけでなく、一花をこの困難な状況から抜け出させてくれるだろう。
何よりも、西園寺家の沼は深すぎる。
和香と陸斗の二人は虎視眈々と一花を狙っている。彼女は最近になってその存在が明らかになった「私生児」である。兆を超える額の遺産相続書類だけでは、法的なものであってもこの場を収めることが難しい。
本気で自分の立場を確固たるものとし、滞りなく多くの事業を継ぐためには、一花一人の力ではここから一歩も進めないだろう。
政略結婚はそもそも愛のためではなく、取引きと同盟を結ぶためのものなのだから。
一花は窓の外の景色を眺めながら、落ち着いた声ではっきりと伝えた。「孤軍奮闘では簡単に相手にやられてしまいます。それなら似た者を見つけて協力したほうがいい。伊集院家が私でいいと言うのであれば、私も断る理由なんてありません」
夕方。
一花は黒崎家に戻った。しかし、慶と綾芽の二人は不在だった。
使用人に尋ねてみると、慶は綾芽と颯太を連れて隣町の絵画展へ行き、今夜は帰ってこないらしい。
一花が携帯を取り出して見てみると、午後に何度も慶から電話がかかっていて、ショートメッセージも送られてきているのに気づいた。
「一花、颯太が突然先生と一緒に絵画展に行きたいって言ったんだ。ちょっと遠くだから、俺も二人に付き合って行ってくるよ」
これは礼儀正しいことに、一家三人は出かける時に伝言まで残してくれていたとは。
しかし都合が良い。彼らが今夜不在であれば、一花も誰にも邪魔されずに静かに行動できる。
ショートメッセージの確認を終えると、一花は使用人を数人呼んできて、部屋の片付けをし始めた。
「奥様、暫く遠出されるのですか?」
一花が自分の荷物をまとめているのを見て、使用人たちが堪らずどういうことなのか尋ねてきた。
「そうよ」
一花は引き出しの中にある書類を整理しながら言った。「これは慶には教える必要はないわ。彼は最近とっても忙しいから、あなた達も彼の邪魔をしないであげてちょうだい」
慶は今確かに忙しい。妻と息子との幸せな時間を過ごしているのだから。
どのみち彼が今のように良い暮らしができるのは残りわずかだ。
そしてすぐに、一花は全ての荷物をまとめてしまった。
そして夜静まり、使用人たちも休息に入ってから、彼女は引っ越し業者に荷物を運び出してもらった。
しかし、いくつか彼女が見つけ出せていないものがある。
まずは彼女が卒業して今に至るまでに書いた重要な論文だ。そこには彼女が長年研究してきた貴重なデータがある。それは非常に重要な業務資料なのだ。
それから、彼女が慶の会社のためにやってきたプロジェクトの重要データだ。
論文に関しては、彼女はずっと自分の引き出しの中に鍵をかけてなおしておいたのに、見当たらないということは、恐らく慶が勝手に持ち出したのだろう。
それからもう片方は、慶の会社に保管されているので、彼女にはそれを取り戻す権利がない。
しかし、この二つは彼女の血と涙と努力の結晶だ。どうであっても慶のところに残しておくわけにはいかない。
そして翌日の朝早く、一花は慶から電話を受けた。
電話の向こうは少しうるさかった。きっとまだ高速を走っている途中なのだろう。
「一花、昨日俺が送ったメッセージは確認した?」
「ええ、見たわよ」
一花はこの時、コーヒーを混ぜていた。彼女の声からは彼女が今どんな感情なのか一切読み取れない。
「ごめんな、急に出かけることにしちゃったから、君に何も相談しなかったんだ。だけど、先生はお客様だし、彼女一人で颯太を連れて行ってもらうわけにはいかなくて」
「そんな別に謝ることはないでしょ。あなたが柏木先生に付き合うのは当然のことよ」
この一花の言葉に、慶は少し驚いた。
彼は一花から返事がないので怒っていると勘違いしていたのだ。しかし、昨夜は綾芽と一緒にいたものだから、彼もずっと一花に連絡をするのは都合が悪かった。
だが、この時の一花の声はまるで全く気にしていない様子だ。
「一花、昨日の夜はメッセージの返事がなかったから、俺はてっきり君が……」
「昨日は私とっても忙しかったの。部屋を見に行った後、商談に行っていたから、あなたに返事する時間が本当になかったのよ」
慶の話を遮った一花の声は明るくはきはきとしていて、全く怒っていないようだ。
慶は心の中でホッと息を漏らした。「君が忙しいことは分かってたよ。そんなに頑張りすぎないようにね、俺、心配だから」
それを聞き、一花は眉間に皺を寄せた。彼女は朝元々あまり食欲がなく、慶の言葉を聞くとさらに朝食を取る気が失せてしまった。
「パパ、そんな悪い女なんかと話してないでよ!」
突然、颯太の声が電話越しに聞こえてきた。すると続いて綾芽が彼を止める声も耳に入ってきた。
「じゃあ、これで電話を切るよ。運転中だから、また夜にね」
すると今度は一花が返事するのを待たずに、慶は直接電話を切ってしまった。
慶が不在の隙に、一花は会社に到着すると、まずは彼のオフィスに行き資料を探した。
オフィス全体を探し、慶のパソコンを見ても、見つけることはできなかった。
どうしたものかと一花が頭を抱えていると、誰かが急いで彼女を探しに来た。
「水瀬さん、社長が今日不在なので、資金用途合意書にあなたのサインが必要なんです」
一花はその契約書を手に取った。
そのいくつかの契約に当たり、プロジェクトの提携先は今の黒崎グループでは実力不足であったのだが、彼女が努力しあらゆる手を使って、かなりの時間と労力をかけてようやく掴んできた契約だった。
もし資金調達が遅れれば、大きな確率でこの契約は白紙になってしまうだろう。
「黒崎社長には連絡したの?」
「しました。ですが、社長は今とても忙しいらしく、何かあるなら水瀬さんに相談しろと」
一花は皮肉な笑みを浮かべた。
慶の会社のために、彼女は必死に努力してきた。その仕事ぶりにおいて一度もミスを出したことはない。慶が処理する時間がない時には、全部一花に任せていた。
しかし、その社長代理というのは口頭で言っているだけだ。
実際、一花の役職では社長代理が務まるような権利などない。それに、中間層の社員でも持っているような会社の株を彼女は一つも持っていない。
それで、毎回一花が慶の代わりに決議する際、男たちは会議中に彼女を叱責し処罰を与えることは多々あった。それにより会社全社員と株主への見せしめとしたのだ。
慶は二人の関係がみんなにばれたら、社員たちの士気に影響してしまうかもしれないと心配で、こうやって処罰を与えるしかないのだと一花に訴えていた。
「そこに置いておいて。今はちょっと用事で出かけないといけないから、戻って確認してからサインするわね」
「分かりました」
相手が去ると、一花は契約書を適当に放り投げて、会社を出ていった。
伊集院家のほうから、今夜は柊馬が食事に誘っているということだった。
婚約する相手と会うのだから、少しは着飾っておいたほうがいいだろう。
一花はまず美容室に行き、綺麗にしてもらって店を出るとすでに5時近くになっていた。そして近くのモールへ行き、一番好きなブランドの店でワンピースを選んだ。
「これはこれは、お客様。スタイル抜群でいらっしゃいますね。うちの服は人を選ぶんですよ。お客様がお召しになると、アンバサダーのモデルよりもお綺麗です!」
女性店員は心から一花を絶賛していた。
鏡に映る一花は元々スタイル抜群の体に、人を選ぶデザインのキャミワンピースを身に着け、まさに女神のような姿だった。
それにこのワンピースは淡い紫色で、キラキラ光る細かいビーズが施されたチュールスカートだった。確かに見た目はお嬢様なスカートだが、着る人によっては肌が暗く見えて、ダサくなってしまう。
しかし、一花の肌は雪のように白く、端正な顔をしている。その美しい顔にはこの優しいイメージのスカートがこの上もなくぴったりだった。
「では、これにします」
一花は笑顔で軽くスカートを揺れ動かしてみた。
このキャミワンピースはシンプルながらも高級感もあり上品だった。胸元が大きく開いていないので、デートにはぴったりだ。
慶と一緒に過ごした2年間、彼女は一心不乱に仕事に集中していたので、長いことこのようにお洒落をしていなかった。それですっかり自分が元々美人であることなど忘れていた。
一花は暫く鏡の前で自分の姿を映していてから、会計しに行った。カードを取り出して支払いしようとした時、店員からさっき電話があってすでに会計は済んでいると伝えられた。さらに、それに合わせてバッグとジュエリーセット、それから靴まで買ってくれていたのだった。
「その方はお名前をおっしゃっていましたか?」
「伊集院とだけ」
その名字を聞いて、思わず後ろを振り向いてみたが、周りには誰もいなかった。
勇は伊集院柊馬は冷酷な人間だと言っていなかったか?
一花がモールを出ると、そこには当然のように一台の車が止まっていた。
前回、西園寺家に行った時に見たのと同じで、車にはエンブレムはなく、ナンバープレートが目立っていた。
「水瀬様、前回お会いいたしましたね。主人がすでにあなた様をお待ちです。車にお乗りください」
第6話
一花が車のほうへ数歩近づくと、男が車から降りてきて後部座席のドアを開けた。
その男は前回、一花に名刺を差し出してきた人物だ。しかし、この日彼は制服を着用しておらず、シンプルな黒のスーツにサングラス姿だった。その雰囲気は前回よりもだいぶ和らいだ印象だった。
一花は微笑み、車に乗り込んだ。
相手は恐らくわざわざ彼女を迎えに来たのだろう。車の中には二人しかいなかった。
「すみません、あなたは……」
「私は柊馬様の秘書です。私のことは来栖とお呼びください」
一花がそう言っただけで、相手は彼女が何を聞きたいのか理解した。
「来栖さん、どうして伊集院柊馬さんは私を政略結婚相手として選んだのですか?私は彼と知り合いではありませんよね?」
一花は探るようにそう尋ねた。
彼は口を開いた。「柊馬様のプライベートな事は私も分かりかねます。しかし、彼は帰国したばかりですので、恐らくあなたとはお知り合いではないかと」
「じゃあ……」一花は少し考えて、やはり気になって尋ねた。「伊集院さんはどんなお顔をしていらっしゃいます?」
彼は謎に包まれた人物で、あまり人前に出ないということだ。まさかかなりのブサイクだとか?
政略結婚ではあるが、もし相手の見た目が悪いのであれば、彼女も心の準備が必要だ。
その言葉を聞いて、来栖は思わず笑い出してしまった。
来栖湊(くるす みなと)は柊馬の傍に長年仕えている秘書だ。今まで柊馬の容姿を心配するような女性など現れたことはない。
しかしすぐに彼は真面目な様子に戻った。「柊馬様のお顔に関しましては、私には評価できるような資格はございません。後ほどご自身で会ってご確認ください」
どうやらかなりの確率で彼の容姿はイマイチのようだ。期待しないでおこう。
そして少し経って、車はある豪華な外国風の建物の前に止まった。
そこは市内ではあるが、少し辺鄙なところにあるので人に気づかれにくい。
湊から、ここはある有名な個人レストランであると教えてもらった。会員でないとここに来ることができず、今日のディナーのために柊馬がこのレストランを貸し切ったらしい。
一花がレストランへ入る時、湊が入り口に立っているボディーガードを下がらせた。そして店員が彼女をある静かな個室へ案内した。
「伊集院さん?」
個室の中は、豪華なシャンデリアがキラキラと輝き、スラリと背の高い後ろ姿を照らしていた。
一花が相手が彼なのか確かめるように呼びかけてみると、すぐに一度見れば忘れられないほど魅力的な顔が瞳に映った。
目鼻立ちの整った、まるで彫刻のように端正な顔立ちの男が、そこにはいた。
男の鋭く冷たい声が聞こえるまで、一花は彼に見とれていた。「ええ、西園寺さん。どうぞ座ってください」
「……あ、はい」
その瞬間、彼女はすぐに目線を元に戻した。慌てていて優雅さを保つことなど忘れてしまっていた。
容姿が悪いわけじゃなかったのか?
「どうしました?俺の見た目が悪かったですか?」
一花が顔を下にして自分を見ようとしないので、柊馬は思わずそう尋ねた。
男からは圧倒的なオーラが感じられる。
一花はすぐさま首を横に振った。「いいえ、そんなまさか。とてもカッコイイです。整ったお顔をされています」
今まで彼ほどのイケメンなど見たことがない。
慶は大学で一番のイケメンで、その容姿は俳優やアイドルにも負けないくらいだ。彼は現実世界で最もカッコいい男だった。
一花はそんな慶を長年見続けてきて、だいぶ目は肥えているといえる。
しかし、この伊集院柊馬という男は、この世のものとは思えないほど神レベルの容姿だ。
ここまで自然で完璧な容姿なら、神様でも思わず見とれてしまうだろう。
「どうも」柊馬は少し首を傾げて淡々とした口調で言った。「あなたのほうこそ、とてもお綺麗ですよ。その服はとてもお似合いですね」
「プレゼントしてくださって、ありがとうございます」
一花は微笑んで、顔を上げ柊馬と目を合わせた。この男は想像していたほど付き合いづらい人間ではないようだ。
「ついでに買っただけですから、贈り物とは言えません。もし、あなたが好きな物があれば、今後はいくらでもプレゼントしますよ」
柊馬は相手を考慮した気遣いのある話し方をしていて、聞いていて心地が良かった。
ただ、常に冷たい印象があるから、非常に距離感を感じられるだけだ。
それから二人は少し話をして、柊馬の合図で食事を始めた。
ここの料理は一品ずつ運ばれてくる。非常に綺麗に盛り付けてあり、一品は一口で食べるような少量ずつだった。どれも絶品で、奥深い味わいがあり最高だった。
一花にとっては、一品ずつゆっくりと食べていくスタイルなので、お腹が満たされるのも時間がかかった。
そして、この長い食事の間、柊馬も何も言わず、ただ静かに彼女と向かい合っているだけだった。
二人はこの日初めて会ったので話が少なくても仕方がない。食事をする手は動かしているものの、互いに黙っているから気まずさが流れていた。
気まずいが、勇が言うには柊馬は他人に対して厳しい人間であるらしいから、彼が何も話さなければ、彼女もなかなか口を開くことができなかった。
メイン料理を食べ終え、デザートが出された時に柊馬がようやく口を開いた。「ここの料理はお口に合いますか?」
「ええ、とっても美味しいです」
一花は口に運ぼうとしていたデザートをすぐにまた下ろした。
一花は料理への評価がかなりお子様のように感じて、耳が少し熱くなるのを感じた。そして少し考えて、また付け加えた。
「伊集院さんは美味しいお店をよくご存じなんですね。選んでくださった料理も全て特徴があって、食材本来の味を生かしつつ、深い味わいがあります」
一花の言葉を聞いて、柊馬は顔を下に向けたので、どのような表情をしているのか分からなかった。
さっきの評価の言葉は拙すぎただろうか?
しかし、一花もグルメ研究家でもないし、このように高級なレストランで食事することも滅多にないから、語彙力には限りがある。
「もし、西園寺さんのお口に合わなかったようであれば、次は他のレストランにお連れしましょう。あなたに決めていただいて結構ですよ」
「いいえ、私は好きです……」
一花は慌てて否定するように手を左右に振っていた。しかし、柊馬が本当かどうか疑うような目つきをしているので、また口を開いた。
「ここの料理はとっても美味しかったです。本当に好きなんです。ただ、私はあまりこのような高級レストランには来ないし、初めて伊集院さんとお会いしたので、少し緊張してて。
次回はもう少し気軽に行けるようなお店だったら、私たちももうちょっと話が弾むかもしれません」
彼女はやはり自分の気持ちを率直に話すことにした。
どうせただの政略結婚で、本気で恋愛しているわけではないので、自分の気持ちを伝えることが一番重要だと思ったのだ。
「分かりました」
柊馬は頷き唇を閉じた。相変わらず感情の読めない表情だった。
「ただ、俺は口数が少ないので、あなたと何を話せばいいのか分からないんです」
「そんな感じします」一花は笑った。
この時、柊馬は少しリラックスしたようだった。そのスラリとした長身で後ろにもたれ掛かり、黒のシャツに少し皺ができた。するとそのスタイルの良さがさらに際立った。
「西園寺家の幸雄おじい様から聞きましたが、結婚の件は同意されたそうですね?」
「ええ」
一花は頷いた。
「うちはとても伝統を重んじる家系です。婚約してから結婚するまで、必要な流れは全て行うつもりです。
俺は最近少し忙しいので、そのせいで慌ただしく適当に済ませることはしたくないんです。それで、西園寺さんには数日待っていただかなければいけないでしょう。もちろん、あなたに何か要求があれば俺に言ってください」
「問題ありません。全て、伊集院さんのほうで決めてください」
「分かりました」
一花が迷いもせずはきはきと答えるので、柊馬はとても満足している様子で頷いた。
そして彼は腕時計を確認した。「こんな時間ですか、今日はそろそろ……」
「伊集院さん、私の身の上もきっとご存じだと思います。あの、どうして私と政略結婚することにしたのか、お伺いしてもいいでしょうか?」
「俺は、西園寺さんの財産や西園寺家に関しては全く興味はありません。もうこんな年齢なので、そろそろ結婚すべきだと考えたんです。西園寺家は確かに良い結婚相手だと思いましたので」
柊馬は一目で一花の意味を理解したようだ。
確かに、一花は相手が自分を選んだのは兆を超える遺産と関係していると思っていたのだ。
しかし、ここへ来る前に一花も伊集院家については調べていた。伊集院家の資産も聞くだけで相当驚愕してしまう額だった。それに周りに影響を与える力も持つ一族だ。莫大な資産を持つ多くの企業ですら、彼らと友好関係を築こうとしてもなかなかできないものだ。だから、柊馬がただ利益だけで結婚を決めたとは考えにくい。
「ご家族から催促されたんですか?」
「まあ、そんなところですね。
ただ、俺は言うことを聞いてくれて、何をするのも俺に合わせて支えてくれる妻が必要なだけです」
柊馬のその言葉で一花はどういうことなのか分かった。
慶が当初一花のことを口説いていたのは、彼女が言うことをよく聞く女だったからだ。彼女は孤児で、頼りになる家族はいないから。
一花はいたって冷静に柊馬を直視して言った。「私は西園寺グループの後継者です。西園寺家はここ南関での基盤が厚い。もし、伊集院家がさらに勢力を拡大させたいのであれば、大きな手助けとなるはずです。でも、私は最近になって西園寺家の人間であることが分かった隠し子。たった一人で闘うには脆いでしょう。
私とあなたの政略結婚は、伊集院家にとって利益を増やすための手段でもあり、私にとっては強い後ろ盾が得られることになります。お互いに得られるものがあって、ウィンウィンの関係になれますよね」
それに対して柊馬は返事をしなかったが、微かに頷いていた。つまりそういうことなのだろう。
柊馬は忙しい身だ。二人がレストランから出てくると、彼のもとへある人が近づき、空港へ行く時間だと伝えた。
一花はその場の空気を読んで、すぐに柊馬には自分でタクシーを拾って帰るから、送ってもらう必要はないと伝えた。
柊馬は特に返事をすることはなかった。相変わらず礼節をもって一花をまずは車まで連れていき、彼女が車に乗るのを見届けてから、去っていった。
そして帰る途中で、勇から電話がかかってきた。
彼は一花と柊馬の二人が今夜初対面することを知っていて、どうだったのか状況を尋ねてきた。
一花は正直にありのままを伝えた。二人は、まあ和やかに交流できたはずだ。
何か気になるところがあるか聞かれれば、それは柊馬が圧倒的なオーラを放っていて、彼の傍にいるとどうも圧迫感があるくらいだ。
深夜、一花がちょうど風呂を済ませて出てきた時、携帯が光った。
彼女が電話に出ると、すぐに慶の声が耳に飛び込んできた。「一花、もうこんな時間なのに、どうしてまだ帰ってきてないんだ?何かあったんじゃないのか?電話にも出ないし」
一花は携帯を耳に当ててはいるものの、全く彼の話を聞いていなかった。
この時、彼女の視線は窓の外に映る夜景に釘付けになっていたのだ。自分がここを選んで正解だったと、思わず感動していた。
「一花?」
慶の声はどんどん焦ってきた。
するとようやく一花は我に返った。「ああ、今日は顧客に会いに行っていたの。ちょっと遠くだから、ホテルに泊ってるのよ」
一花は自分が引っ越したことを、慶はすでに知っているものだと思っていたのだが、彼のその口ぶりではきっと綾芽のほうに気を取られていて、まだ気づいていないのだ。
それならば、一花は適当な嘘をついておくことにした。
「ホテルは慣れないだろ?それじゃ、俺が迎えに行こうか。場所を教えてくれないか」
慶はホッとしたらしく、さっきとは打って変わり関心を寄せる声になっていた。
「いいの、今日はとても疲れてるから、動きたくないわ。もうこんな時間だし、私、もう休むわね」
慶はそれを聞いて無理強いすることはできず、ただこう言うしかなかった。「分かったよ。明日会社でな」
一花はそれに「ええ」と一言被せて電話を切ってしまおうとしたが、慶が再び話し始めた。
「一花、君に会いたいよ。君もそう思ってくれてる?」
「……」
電話の向こうが暫く沈黙しているので、慶が再び口を開いた。「一花?」
「もう寝るわ……すっごく眠くて……」
一花はわざと声のトーンを低くして、ウトウトしている様子を演じていた。
慶はどうしようもなく、名残惜しそうに言った。「分かったよ。おやすみ、じゃあね」
「ええ」一花はそれだけ返事し、一秒も迷わずさっさと電話を切ってしまった。
「……」
そのあっさりと電話が切られる音に、慶はなんだか虚しさを感じていた。
ここ数年、彼は一花に甘い言葉をかけ、優しく接してきた。これはかなり前から演じてきたもので、今では常態化している。しかし、今まで一度たりとも、一花になんらかの感情を抱いたことはない。
しかし、この数日、どういうわけか彼は一花のことがどうしても気になりソワソワしていた。
「慶、私のこと、好き?」
慶がハッとした時、細い腕が彼の腰に巻きついてきた。
綾芽だ。
彼女はやわらかい声で、まるで羽根のようにふわりと撫で、一瞬で彼の気持ちを虜にしてしまった。
慶は微かに口角を上げ、すぐに彼女の手をぎゅっと掴んだ。「そんなこと聞くまでもないだろ。君は俺の人生で最も愛する女性だよ。君のためだったら、どんなことでも厭わない」
確かに、綾芽は彼が心の底から愛している女だ。
16歳の時、彼女に命を救われてからというもの、一生彼女には何の憂いもなく幸せに過ごせるよう守っていくと彼は心に決めたのだ。彼女とともに白髪になるまで末永く永遠に。
「だけど、私不安なの」
第7話
「何がそんなに不安なんだ?」
慶は振り向き、綾芽を心配して懐に抱きしめた。それはまるで春の日差しのように柔らかい声だった。
「黒崎家が私たちを引き裂くのが怖いのよ。私と颯太が一生黒崎家から認められなかったらどうしよう。年も取りたくないし、あなたが……心変わりしたらどうしようって」
綾芽は俯き、話しながらだんだん嗚咽交じりの声に変わっていった。
「そんなことにはならないよ」
慶は綾芽の顔を上に向けさせ、指で優しく彼女の瞳に溜まった涙を拭ってやった。
「言っただろう。俺が君を守るって。誰も俺たちの仲を引き裂くことなんてできないよ。
俺も絶対に心変わりしたりしない」
「慶……」
それを聞いて綾芽はとても感動したらしく、サッと目を閉じて彼と唇を合わせた。
会社はもうすぐ上場する重要な時期で忙しく、一花の能力を必要としている時であるが、慶はやはり綾芽を満足させるために、彼女を連れて家に帰った。
しかし、綾芽はなんだか慶はこの2年でかなり変わったと思っていた。
彼は昔ほど自分に対して情熱的ではなくなった。それに彼と一緒にいる時に、一花のことを気にする回数がどんどん増えている。
女性は敏感で不安を感じやすい生き物だ。慶がこれほど自分だけを愛しているのだと確信しても、やはり不安が生じるのだった。
慶は綾芽にキスをされて身体が熱くなり、大きな手をゆっくりと彼女の首の後ろに這わせて、寝室に戻り、気分が盛り上がっていった。
ただ一瞬、慶の脳裏には一花の姿がよぎった。
そして、ここぞという大事な時に、彼は突然その動きを止めた。
「どうしたの……」
綾芽は驚き、急いで慶の腕を引っ張った。
しかし、慶はその手を振りほどき、直接浴室まで行くと、自分の気持ちを鎮めようと冷水で頭を冷やした。
この時の慶は頭の中が混乱していた。一花のことを思い出しただけで、一気に萎えてしまったのだ。
しかし、そんなことを綾芽に知られるわけにはいかない。
「なんか悪いものでも口にしたのか、突然お腹の具合が悪くなっちゃって」
浴室から出てくると、慶は再び綾芽を抱きしめてキスをし、ひたすら謝っていた。
綾芽はかなり不機嫌になっていたが、ここ二日慶はよく尽くし従順な姿を見せていたので、やはり余計な事は言わないでおくことにした。
翌日の朝早く、慶はすぐに会社へ向かった。
その途中、やっとのことで契約にこぎつけたというのに、いくつかの提携先が次々と提携を取り消すと電話をかけてきた。
「一体どういうことなんだ?」
慶は怒り狂い、会議室の中で暫くの間、誰も声をあげることができずにいた。
「社長、あの……振込が遅れたせいで……」
「振込が遅れた?なぜだ」
「社長が昨日不在で、サインをする人がいなくて……」
慶はそれを聞いてハッとした。彼はこの時ようやく昨日は綾芽と外出していて、その内容の電話を受け取ったことを思い出した。
しかし、このような簡単なことは、一花に任せろと言ったはずだ。
「昨日、水瀬は不在だったのか?どうして彼女に頼ま……」
しかし、慶はそう口にした瞬間、立場上、一花には彼の代わりにサインをする権限などないことを思い出し、言葉を呑み込むしかなかった。
「クズが!出て行け!」
そこにいる全ての社員を罵ると、慶は一花を呼び、来させた。
この時、一花もちょうど会社に到着したばかりで、遠くから契約が白紙になり、慶がまさに雷を落としている声を聞いていた。
同僚たちは顔をこわばらせ、一花の元へとやって来た。「水瀬さん、社長がお怒りなんだ、契約がダメになってしまったから。早く様子を見て来て」
すると一花は淡々と返事をした。「分かった」
彼女はすぐにオフィスのドアを押し開けた。
この時慶はまだ怒り心頭だったが、一花を一目見ると怒りを抑えた。「来たんだね」
一花はデスクの前まで歩いていった。「昨日、あなたの秘書がサインを求めてきた時、ちょうど重要顧客との面会があって、急いでいたのよ」
彼女はここぞとばかりに、どうしようもないといった口調で続けた。「あなたも知っての通り、私には何も権限がないもの。代わりにサインするなんて、そもそもグレーゾーンなんだし、もし何かあったら私にはその責任が取れないだけでなく、あなたまで巻き込んじゃうかもしれないでしょ」
そこまで言うと、彼女は軽くため息をついた。「まさかあの提携先の数社がここまで目先の利益を得ようと焦るだなんてね。たった一日遅れたくらいで、本当にせっかちなんだから」
一花が話す時、わざとらしく思い悩む様子は出してはいなかったが、それでも「権限がない」というところははっきりと強調していた。彼女の努力が足りなかったせいではなく、彼が彼女に社長代理が務まる地位を与えていなかったことと、提携先があまりに薄情だと主張したのだ。
彼はいたって冷静な一花を見て、心の中にあった「一花がわざとやったのかもしれない」という猜疑心を振り払った。
一花はずっと会社のために行動してきた。昨日はまたわざわざ遠くまで顧客に会いに行っていたのだから、わざとこのようなことをするはずがない。やはり、彼女に権限を与えていなかったことが最大の落ち度だったのだ。
そして彼のほうはというと、会社を上場させるという大切な時期に、綾芽に付き合っていたのだ。
慶は考えれば考えるほど、一花に対して申し訳ない気持ちで満たされていった。
「慶、ここ最近はとっても重要な時期よ。いっそ、私に会社の一部の権限を私に任せるってのはどう?もし、何か特殊な状況になったら、すぐに解決できるでしょ」
頃合いを見て、一花はその流れに乗って提案した。
慶は少し驚き、訝しそうにしていた。
一花から権限がほしいと言われるとは思ってもいなかった。一花は今まで彼を信頼し、会社のデータが必要な時には、彼の付き添いの下で確認していたからだ。
「どうしたの、難しい?もしあなたが安心できないのであれば……」
「そんなことないよ。君に権限を渡しても不安なんてないさ」
慶は一花に自分の考えを読まれるのではないかと思い、すぐに要求を呑むことにした。
「だけど、全ての権限が使えるようにするには、株主の同意が必要だ。だから、部分的なものだけにしておくよ」
「分かったわ」
一花はニコリと微笑んだ。彼女も慶があっさりとそれに同意することはないと分かっていた。
しかし、一部の権限が得られただけでも、重要なデータをコピーするには十分だ。
慶の会社を崩壊させるにしても、焦ってはいけない。
権限を得ると、一花は早速ここ2年間の会社の重要データをコピーした。
このデータを手中に収めれば、今後慶が競争入札するにしても上場するにしても、彼女の思いのままだ。
昼、一花に突然慶の母親である黒崎京子(くろさき きょうこ)から電話がかかってきた。
「柚ちゃんがあなたの作った料理を食べたがっているわよ。慶にはもう伝えてあるから、さっさと来なさい!」
そう言い終わると、京子はすぐに電話を切ってしまった。これは彼女に頼むのではなく、命令だ。
一花はこんなことを言われるのにはすでに慣れていた。慶と結婚してからというもの、京子は一度も一花に良い顔をしたことはない。
まるで一花が黒崎家に大きな借りがあるかのように、黒崎家の全員が偉そうに彼女をこき使ってきたのだ。
黒崎家では使用人を雇っているというのに、一花は毎週必ず帰って義父母に食事の用意をし、家事をしなければならなかった。
慶の妹の柚葉(ゆずは)は妊娠していた時から、他の人間が作った食事は食べられないと言っていた。彼女は一花の料理が好きで、毎日彼女の料理を届けさせていた。
慶を困らせないために、一花はこれに2年もの間耐え続けていた。
一花は冷ややかに携帯画面を見つめ、横に置くと、ゆっくりとパソコンを起動し、最近のプロジェクトや企画に一度目を通した。
赤くチェックしているプロジェクトは、近い将来で最も重要なものだ。しかもそれは彼女が一人で立ち上げ今まで努力してきたものだった。取引相手の責任者も彼女だからこそ、このプロジェクトを受けてくれたのだ。
一花は少しの間考えてから、慶のいるオフィスの扉を叩いた。
しかし、彼の秘書から慶はさっき出かけていったと告げられた。何か急ぎの電話を受けたらしく、後で行われる予定だった会議も延期されたらしい。
一花は直接慶に電話をかけてみたが、電話に出たのは綾芽だった。
「水瀬さん?慶君に用かしら?」
「柏木先生?彼と一緒にいるんですか?」
「あ、勘違いしないでちょうだいね。私たち今病院にいるのよ。颯太君が転んじゃって足を怪我したの。だけど、心配しないでね、ちょっと擦りむいただけだから、ひどい怪我じゃないのよ。慶君は今颯太君に付き添って薬を処方してもらっているところなの。後で慶君に電話をさせましょうか……」
「いいえ、颯太のほうが大事ですから、よろしくお願いします」
一花は言い終わると、綾芽の返事を待たずに電話を切ってしまった。
この時、綾芽は口を開けて、不機嫌そうに顔を歪めていた。
水瀬一花、礼儀というものを知らないのか。
綾芽が視線を上に向けると、慶が颯太を連れて戻ってきたところだった。
「水瀬さんからあなたに電話があったわよ。私が代わりに出たんだけど、折り返しかける?」
綾芽は携帯を慶に差し出した。
慶は一瞬驚き、その携帯を受け取ろうとしたら、颯太の手が伸びてきて奪っていった。
「パパ!僕足が痛い!」
それがわざとだと分かり、慶がきつく颯太の顔をつねると、また携帯を綾芽のほうへ返した。
慶が綾芽から電話がかかってきた時、何か大ごとかと思っていた。綾芽が焦った声で息子が二階から落ちてしまったと言ったのだ。同時に電話の向こうからは颯太の泣き叫ぶ声が聞こえてくるものだから、慶は急いで駆けつけて来た。
しかし、病院まで来てみると、颯太はただ膝を少し擦りむいただけで、病院に来る前に血は止まり固まり始めていたのだ。
「一花からって、会社関係の事か?」
「別に急を要することじゃないから、こちらのことに集中してって言ってたわ。もしかしたら、彼女あなたが恋しくなったのかもね」
慶の顔は見ず、淡々とした声でそう言った。少し嫉妬している様子だった。
慶は仕方なく綾芽の手を握った。二度彼女にその手を振り払われてしまったが、彼は指をしっかりと絡め合わせ握った。
「綾芽」
慶は綾芽の耳元で低く囁き、次の瞬間彼女の唇をキスで塞いだ。
「あなたには他に奥さんがいるでしょ」
「そんな傷つくことを言わないでくれよ。俺の妻は君一人だけなんだから」
二人はこそこそと話しながら、そのまま踊り場へ入っていった。
颯太は両親が二人一緒にいる姿を見て、嬉しそうにニヤリと笑っていた。
母親がいれば、あの水瀬一花という悪い女は、いつか必ず家から追い出されるはずだ。
「ほら、今はそんな腹を立てている場合じゃないよ。一花に電話をかけ直さないと、何か疑われてしまったらマズいだろ」
「あの女があなたを疑うなんてまず有り得ないわ。あの子すっごく馬鹿みたいだもの。あなたに完全に虜になってるじゃないの、あなた考えすぎだわ」
「綾芽……」
「別にどうでもいいけど。もしあなたが彼女に電話をかけ直すってことは、心変わりしたってことだわ」
今までであれば、綾芽のご機嫌を取ってあげれば、すぐ良くなっていたのだが、今回は慶が暫く彼女をなだめ続けても、綾芽は全く聞き入れようとしなかった。
慶も、綾芽を傷つけるようなことはしたくなかったので、彼女に従うしかなかった。
しかし、綾芽の言う事も間違っていない。一花はかなり慶にぞっこんで、彼のためであれば何でもやっていた。それに彼の話であれば、一切疑うことを知らない。
一花の扱いに関しては、慶はかなり自信を持っていた。
そして30分後、一花のほうは慶の母親である京子からまた電話を受けていた。
「一花?何をグズグズしているわけ?会社から柚ちゃんの家までは遠くないでしょ。あんた亀みたいにのろまね」
京子はこの時語気をさらに強めていたが、さっきのように用件だけさっさと済ませてすぐ電話を切るようなことはなかった。
一花は口角を上げ、冷ややかに言い放った。「お義母さん、今会議中なんです。会社はもうすぐ上場するから、少しのミスでも大きな損失を与える可能性が高いんです。こんな時期に、私が会社を離れるわけにはいかないでしょう」
その言葉を聞いて、電話の向こうは少しの間沈黙していた。
京子は自分の耳を疑っていた。今まで一向に自分の言うことをおとなしく聞いていた一花が、今反抗的な態度を取っているのだ。
「一花、あんた何か変なものでも食べたんじゃないの?私の言うことを聞けないっていうわけ?黒崎家にある規則を忘れてしまったのかしら?第一条、年長者のことを尊重……」
「さっき言いましたよね。私は会社から離れられないって。慶に関することは何よりも大事なんです。それはお義母さんが普段から口を酸っぱくして私に言っていたことですよ」
一花は軽く京子の言葉を遮ってしまった。そしてすぐまた口を開いてこう言った。「でも、柚葉ちゃんは産後だからしっかり栄養を取ったほうがいいでしょう。
彼女は何を食べたいと言っているんですか?慶の秘書に頼んでガストリスタの料理をそちらに配達してもらいます。それか、シェフを家まで呼んでもいいですよ。どのみちお金を出せば済む問題ですから。その請求は会社に付けておけばいいですんで」
第8話
「あんた……」京子は言葉を失ってしまった。暫く経っても何を言えばいいのか分からなかった。
一花は以前から言葉数は少なく、おとなしく言うことを聞く女だった。それがどうして今日突然このように口答えするようになったのだろうか。
しかも、一花はうまく慶と会社を引き合いに出してきたのだ。それでは逆に、自分のほうがわがままに騒いでいるように見えるではないか。
「いいですか、お義母さん。柚葉ちゃんが何が食べたいか決めたら、どのレストランがいいか教えてください。こっちは忙しいので、これで失礼します」
一花はそう吐き捨てると、そのまま京子の電話を切ってしまった。
一花がさっさと電話を切ってしまったので、京子はあまりの怒りで卒倒しそうだった。
「あの小娘……この私と電話していて、さっさと切ってしまうなんて」
京子は怒りで体を震わせ、八つ当たりでその携帯を床に叩きつけたいくらいだった。
柚葉は母親のそんな様子を見て、訝しんだ。「一花さん、来ないの?」
「慶ったら、あの女に甘すぎたのよ!子供すら生めないメス豚で、大した家柄でもないくせに、黒崎家に嫁いできたのは幸運なんだから感謝すべきじゃないの?ここまで恩知らずにもこの私に逆らってきやがって」
京子はあまりの怒りで胸を大きく上下させながら怒鳴り散らし、口汚い言葉まで吐いていた。
柚葉はそんなことは前から分かっていたことだろうと、呆れ返っていた。
「お母さん、前から言ってたでしょ。一花さんは普段おとなしく言うことを聞いているふりしてるだけだって。まずは利益を先に考えるうちの兄さんが、家柄の合わない女なんかと結婚したのよ。そんな女が腹黒くないわけないでしょ?
だけど、そんなに心配しないで。あの女にはギャフンと言わせてあげるから」
柚葉は嘲笑し、自ら一花に電話をかけた。
柚葉は普段から一花をこき使うのが好きだったが、表面上は一花との仲は悪くない。それに彼女の夫である五十嵐泰司(いがらし たいし)は慶の会社で管理職をしている。多くの場合、一花の仕事には泰司との協力が必要なのだ。
柚葉は一花は弱い女だと思い込んでいた。今日京子に歯向かったのも、慶のためで間違いない。
黒崎家で、慶はこの妹である柚葉のことを一番可愛がっている。そんな彼女が口を出せば、一花もおとなしく従うしかないのだ。
そしてその時には、しっかりと一花にお仕置きをし、母親の鬱憤を晴らしてやろう。
電話は暫く呼び出し音が続いてから、ようやく繋がった。そして柚葉は一花の声が聞こえてくると、すぐに涙声に変えた。「一花さん、私に何か怒ってるの?
私たちとっても仲が良いって思ってたのに。兄さんから頼まれたら、一花さんは私のことをちゃんと面倒見てくれていたじゃない。今日お母さんから言われたら、ご飯も私に作ってくれないなんて……」
一花はその柚葉の訴えを電話越しに聞きながら、パソコン画面に表示されているデータグラフを確認していた。
「そんなわけないでしょう。私が柚葉ちゃんに怒るわけないじゃない。ただ今日はちょっと忙しくて、ご飯を作ってあげる時間がないだけなの」
一花はいたって落ち着いた声で、聞いた相手が疑うことのできないくらいはっきりとした口調でそう言った。それは以前とは異なり、柚葉が泣きそうな顔をしても、すぐに折れる様子もない。
柚葉は面白くなかった。「だけど、私今食欲がなくて、あなたの料理が食べたいの。もし来てくれないなら、私何も食べ……」
「じゃ、こうしましょ。柚葉ちゃんはヨーグルトが大好きでしょ?お兄さんの秘書に頼んで一箱持って行ってもらうわ。デパートで高級フルーツのヨーグルトセットを買って来てもらうから。葉酸、鉄分にビタミンも豊富で産後にぴったりよ。慶の妹なんだから、その代金は会社の経費で落とすから」
この日の一花の態度は今までと180度違っている。柚葉もまさかこんなことになるとは思ってもいなかった。まるで綿を殴っているかのように全くの手ごたえもない。
「ヨーグルト?一花さん、まさかわざとなの?私、あなたの料理が食べたいって言ったはずなんだけど」
柚葉はこれ以上悠長に一花と駆け引きしていられず、一気に語気を荒げた。
今日はなにがなんでも、一花を来させてやる!