心はすでに灰のごとし

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伸と結婚して5年目、鹿乃は伸の初恋が彼のスマホを使って送ってきた挑発的なボイスメッセージとベッド写真を受け取った。 「帰国して六ヶ月、...

Chương (1)

第1章

伸と結婚して5年目、鹿乃は伸の初恋が彼のスマホを使って送ってきた挑発的なボイスメッセージとベッド写真を受け取った。 「帰国して六ヶ月、ちょっと指を動かしただけで彼はもう私のもの」 「今夜、彼が私のために用意した青い花火。青は好きじゃないから、無駄にしないように、あなたたちの結婚記念日の時までとってあげる」 一ヶ月後、彼らの結婚5周年記念日。 鹿乃は窓の外に咲く青い花火を眺め、向かい側の空席を見つめた。 伸の初恋は再び挑発してきた。二人でキャンドルディナーをしている写真を送ってきたのだ。 鹿乃は泣きも騒ぎもせず、静かに離婚届に署名し、秘書に結婚式の準備を指示した。 「奥様、新郎新婦の名前は誰にいたしますか?」 「小笹伸と木暮深雪で」 7日後、彼女はノルウェーに飛び、自ら二人の結婚を見届け、祝福を贈った。 第1話 「奥様、金庫から離婚届をお持ちしました」 結婚5周年の記念日、レストランの個室で、秘書は離婚届を鹿乃の前に差し出した。 5年前、小笹社長と奥様が婚姻届を提出したあの日、 小笹社長は誠意を示すため、自ら離婚協議書を用意し署名し、それを金庫にしまった。 「もし自分が浮気したら、いつでもこの離婚届にサインしていい」 それが彼の約束だった。 鹿乃は迷いなく署名した。 そして、向かい側の空席を見つめ、寂しげに目を伏せた。 「この離婚届を小川弁護士に渡して。それから、ホテルをひとつ予約して、結婚式場の準備を進めておいて」 秘書は一瞬固まった後、おずおずと聞いた。 「新郎新婦のお名前は、どなたに......?」 「小笹伸と、木暮深雪に」 沈黙が数秒流れた。 木暮深雪。それは、小笹社長の初恋の相手だ。 秘書は唇を噛みしめ、声を震わせてなお問いかけた。 「奥様、結婚式は何日後に?」 鹿乃はゆっくりと窓の外に視線を向けた。 1時間続いた青い花火が、ようやく燃え尽きて空に一行の文字を残して消えていく。 『小笹伸&新川鹿乃、結婚5周年おめでとう』 視線を戻して、唇をそっと結ぶ。 「7日後に。それと、その日のノルウェー行きの航空券を一枚取っておいて」 「ノルウェー......ですか?」 秘書は驚き、ためらいながらも言葉を続けた。 「奥様......本当にそれでいいのですか?もう一度、よくお考えに......」 5年前、結婚届を出したあの日。 小笹社長が用意した離婚協議書のほかに、ノルウェーに住む彼女の両親から小笹社長に課せられた条件があった。 娘がこの結婚で傷つき、ひとりで実家に戻ることになった時には、 伸は一生、ノルウェーの地を踏むことを許されない。 それはつまり、伸が二度と彼女に近づくことも、やり直す機会も与えられないことを意味していた。 「考え直すつもりはないわ」 鹿乃はゆっくりと首を振った。 7日後、 それはちょうど、彼女の誕生日だった。 彼女はその日、伸のもとを離れノルウェーへ行く。 そしてその日に、彼と深雪の結婚式を用意してやるつもりだった。 二人を祝福して、自分は姿を消す。 秘書が出ていった後、鹿乃のスマホがふいに振動した。 画面に通知が浮かび上がる。 それは、伸が会社の公式アカウントから投稿したものだった。 一面の青い花火の写真。 そして彼女へのメンション付きで、 『鹿乃、結婚5周年おめでとう。永遠に君を愛してる』 投稿からわずか数十秒で、コメント欄は999+に達した。 「羨ましい......!林能城の今夜の花火、やっぱり小笹社長が奥様のために打ち上げたんだ!」 「結婚して5年......毎年こんなに堂々と愛をアピールするなんて......」 「去年、小笹社長が全身麻酔の手術を終えて病室に戻った時、まだ完全に意識が戻ってない状態で奥様を見て真っ先に言った言葉は『君は胃が弱いんだから、ちゃんと昼ご飯食べたか?』だったって......看護師さんたち、泣いちゃったって聞いたのよ......」 そのコメントの中に、伸が返信した一言があった。 『鹿乃は俺の妻だ。彼女を愛し、甘やかし、守り抜き、平穏無事な人生を送らせてやることが、夫である俺の責任だ』 その返信の下は、羨望の叫びで埋め尽くされた。 だが、その羨望の対象である鹿乃は、今。 ただ無表情に目の前の空席を見つめていた。 確かに、二人の間には愛があった。 7年間付き合って、一度も喧嘩などしたことがなかった。 伸は、金も、名誉も、愛も、すべて彼女に注いでくれた。 けれど、ひと月前。 伸が出張に出ていたその夜。 鹿乃は、彼の裏切りを知った。 その夜、伸から送られてきたボイスメッセージ。 再生すると、聞き慣れない女の声が流れてきた。 「帰国して六ヶ月、ちょっと指を動かしただけで彼はもう私のもの」 「今夜、彼が私のために用意した青い花火。青は好きじゃないから、無駄にしないように、あなたたちの結婚記念日の時までとってあげる」 その時はまだ、その女性が誰なのかわからなかった。 だが、2週間前のパーティー。 伸は、その女を連れて現れた。 「遠い親戚の従妹」だと紹介しながら。 木暮深雪。 華奢で整った顔に、無邪気な笑顔を浮かべて、鹿乃に手を振った。 「こんにちは!帰国して半年ちょっと経つけど、ようやく義姉さんに会えましたね」 その声を聞いた瞬間、 あの夜のボイスメッセージが脳内でよみがえる。 あまりの衝撃に、何も考えられなくなった。 パーティーを早々に抜け出し、夜遅く。 伸が帰宅したその時。 鹿乃のスマホに、また見知らぬ番号からメッセージが届いた。 「今夜の屋上、最高だったよ。興奮しすぎて我慢できなくて、元カレの体に爪痕いっぱいつけちゃった♡」 「でもさ、やっぱり私の元カレはすごいよね。あの腰の動き......電動マシーンかと思ったよ」 酔いつぶれてベッドに倒れている伸。 開いたシャツのボタンの隙間から覗く胸元に、無数の赤い引っ掻き傷。 そして彼が着ている白いシャツは、 去年の結婚記念日に彼女が特注したペアシャツの男性用だった。 襟元には、彼女が一針一針縫った「Husband」の刺繍。 そのシャツを受け取った夜。 伸は感極まったように彼女の手を握り、こう約束した。 『このシャツを着るたび、他の女には絶対近づかないって、自分に言い聞かせる。俺は君だけを想うから』 けれど今、その「Husband」の刺繍の上には、艶やかな赤い口紅の跡が残っていた。 そして今日——5周年の結婚記念日。 彼女はレストランに先に着いていた。 しかし、5分経っても彼は来ない。 その時、彼から電話が入った。 「今サプライズを用意してるんだ。一緒に食事できなくてごめん。先に一人で花火を見てて」 電話はそれだけで切られた。 2分後、彼から送られてきた写真。 そこに映っていたのは、 深雪と共に、キャンドルディナーを楽しんでいる伸の姿。 花とワインに囲まれ、甘くロマンチックな空間。 今頃、SNSに投稿された「永遠に愛してる」のメッセージも、 深雪の膝枕に甘えながら打ったものなのだろうか。 第2話 鹿乃は伸の遠回しな高調な愛の告白を無視した。 彼女は立ち上がり、バッグを手に家へ戻った。 寝室に入ると、使用人にハサミを持ってきてもらった。 鹿乃は自分がオーダーメイドした女性用ペアルックシャツを取り出し、それを細かく裂いた。 次に、結婚証書も細かく切り刻む。 それらをひとつのギフトボックスに詰め、「再婚祝い」と書き添えた。 ちょうど作業を終えたところで、振り返った瞬間に帰宅した伸と鉢合わせた。 男の整った顔立ちには溺愛の色が浮かび、彼女の手を取って階下へと連れて行った。 「鹿乃、サプライズを用意したんだ。早く見に来て」 鹿乃が階下に降りると、そこには大型トラックが停まっていた。 荷台には巨大なピンクのギフトボックスが積まれている。 伸が手を叩くと、自動的に箱が開き、無数の風船と紙吹雪が舞い上がった。 中から現れたのは、淡いピンク色のマイバッハ。 二人のスタッフが素早く横断幕を広げた、 「鹿乃へのプレゼント」。 その光景を見て、周囲に集まった人々は羨望の眼差しを向けた。 伸はマイバッハの鍵を取り出し、鹿乃に手渡した。 目を細めて、深く優しい声で言った。 「鹿乃、この前車を替えたいって言ってたよな?ちゃんと覚えてたよ。夫として、君が欲しいものは全部手に入れてあげるのが当然だ」 鹿乃が手を伸ばして鍵を受け取ろうとしたとき、 ふと彼女の視界に入ったのは—— 伸の左手首に、女性用下着のストラップで作ったブレスレットが巻かれていた。 吐き気がこみ上げ、眉をきつく寄せた。 「どうした?マイバッハは嫌?それともピンクが気に入らない?」 伸は彼女の異変に気付き、黒い瞳に不安を浮かべた。 鹿乃は頭を振り、涙を堪えながら彼を見つめた。 「車は......素敵だと思う」 彼女が嫌のは、車じゃない。彼そのものだ。 その一言を聞いて、伸は安堵の息をついた。 再び二人で寝室に戻る途中、 伸の視線はドレッサーの前に置かれたギフトボックスに留まった。 「これは......もしかして俺へのサプライズ?」 黒い瞳に嬉しさが滲んだ。 鹿乃は唇を引きつらせながら、乾いた笑みを浮かべた。 「うん。でもまだ見ちゃダメ。もう一つ、二つ目のプレゼントを準備中なの。7日後、二つまとめて渡すから」 「伸のことをちゃんと分かってるから、きっと気に入ってくれるはず」 「7日後に......ダブルサプライズか?」 伸は期待に胸を弾ませながらも、「7日後って何の日だ?」と小声で呟き考え込んだ。 そして突然思い出したように、部屋を出てから秘書に電話をかけた。 「危なかった......7日後は鹿乃の誕生日だな。今すぐ豪華な誕生日パーティーの準備をしてくれ。とにかく盛大に。絶対に手を抜いちゃいけないよ」 電話を終えた彼は、部屋の入り口に立つ鹿乃に気づいていなかった。 彼女の表情は氷のように冷たい。 7年間付き合ってきて、伸は一度も彼女の誕生日を忘れたことがなかった。 だけど、今年深雪が帰国した途端、きれいさっぱり忘れた。 まあ、いい。 彼が心を込めて準備するパーティーに、主役不在の状況で、どんな顔を見せるのか...... 鹿乃はスマホを取り出し、秘書にメッセージを送った。 「伸が私のために準備している誕生日パーティーは、どのホテルで開催予定か調べて。 あと、その会場の1フロア上に結婚式会場の設営をして」 「かしこまりました、奥様」 鹿乃はバスルームへ向かおうとした。 そのとき再び伸のスマホが鳴り、秘書から電話がかかってきた。 「そうだ、小笹社長。お忘れなく。今日は奥様を大学前のケーキ屋に連れて行く日ですよ。食べ損ねたら、きっと奥様は今夜落ち込むはずです」 「そうだな......忘れるところだった。鹿乃好みのケーキを用意してくれ。今から連れて行く」 電話を終えると、伸は急いで寝室に戻ってきた。 鹿乃はすべて聞いていた。 伸は彼女の手からバスローブを取り上げて脇に置き、柔らかく言った。 「鹿乃、大学前のケーキ屋に行こう。もう準備してもらってあるから」 あのケーキ屋は、彼女が学生時代によく通った店だった。 小さな偶然がきっかけで、あの店の前で彼と出会った。 付き合って2年で結婚してからは、 毎年結婚記念日に、必ず一緒にその店でケーキを食べていた。 昔は伸が全部自分で準備してくれていた。 今は秘書に言われてから思い出して動く。 もう、その時点で答えは見えている。 1時間後、黒いベントレーが小さなケーキ屋の前に停まった。 ひときわ目立つ光景だった。 配信者が偶然二人を見かけて、興奮してスマホを持って近づいた。 「やばい!愛妻家の小笹社長を見っけ!」 「配信の皆!私が推してるカップル、本当にお似合いよ!噂通り、小笹社長は毎年結婚記念日に奥様をこの店に連れてきてる!本当だったんだ!」 伸は車を降りて、鹿乃の手を引き店へ向かう。 その時、彼は鹿乃の右足の靴紐がほどけているのに気づいた。 視線を集める中、伸は立ち止まり、 静かにひざまずき、靴紐を結んであげた。 周囲の女子大生たちは羨望に目を輝かせ、 勇気を出して声をかける者も現れた。 「億万長者の社長が奥様の靴紐を結ぶなんて......夢でも見れないよ。どうか末永くお幸せに!」 鹿乃は無表情のまま伸を見下ろし、 顔を上げて、礼儀正しくも冷たい笑みを浮かべた。 二人はケーキ屋に入り、いつも二人が座っていた窓際の席に座った。 伸はレジにいるオーナーに声をかけた。 「ケーキはもうできたかな?中はマンゴークリーム、外は苺クリームで、鹿乃はこの組み合わせが好きなんだ。上には『結婚5周年おめでとう』って書いて欲しいだけど」 「ちょうど出来上がったところです」 オーナーはこの二人のことをよく覚えていた。 ついさっきも旦那さんと話していたところだった。 「もう夜9時を過ぎても、きっと来ると思ってたわ。結婚記念日を忘れないご夫婦だもの」 そしてその通りに、二人はやってきた。 オーナーはケーキを運びながら、にこやかな顔で優しく聞いた。 「もう5年......小笹さんは今でも変わらず優しいね。そろそろお子さんもいる年頃よね?」 第3話 伸は優しさと愛情に満ちた眼差しで鹿乃を見つめ、口元の笑みを抑えきれずに言った。 「成り行きに任せるつもりだ。できれば年末がいいな。男の子でも女の子でも、鹿乃が産んでくれるなら、どっちだって好きだよ」 鹿乃は目の前のケーキを見下ろし、数秒黙り込んだまま何も言わなかった。 伸は気を利かせてケーキを切り始めたが、そのとき突然、一人の男が店に入ってきた。 彼は伸に、自分の車がほかの車に擦られたことを告げて、確認に来るよう促した。 伸は眉をひそめ、不機嫌そうな表情になった。 「ちょっと見てくる。鹿乃、先に食べてて。すぐ片付けて戻ってくるから」 「飲みたいものがあれば自分で頼んでいいけど、冷たいものはダメだよ。明後日、生理が来るから」 この細やかな気遣いに、ケーキ屋の客たちはまたも羨望のため息を漏らした。 「すごい......生理の日まで覚えてるなんて、小笹社長って本当に完璧な男だわ......非の打ち所がないよ」 「羨ましい......私が新川さんだったら、どれだけ幸せだろう......」 オーナーの女性も、黙っている鹿乃を見て微笑んだ。 「新川さんは本当に運がいいわね。女にとって、自分を愛してくれる誠実な男に出会う確率は本当に低いだもの」 鹿乃は苦く笑った。 「そうですね......確率は低いです」 本当にね、自分は結局、そんな相手に出会えなかった。 鹿乃はこれ以上その話をしたくなくて、視線を外の窓に向けた。 伸は男に連れられて店を出た。 その男は俯きながら何かを小声で話している。 伸は軽く頷くと、大股で歩き、ベンテイガの隣に停めてあったピンク色のGクラスに乗り込んだ。 そのピンクのGクラス......鹿乃には見覚えがあった。 前回のパーティーで、深雪がこのピンクのGクラスで派手に現れたのだ。 ナンバーも、今目の前にある車と同じもの。 聞いた話では、それは伸が帰国祝いとして贈ったもので、6000万円近いとか。 今日、自分がもらったヌードピンクのマイバッハと、だいたい同じくらいの価格だ。 伸は平等に扱う達人だ。 元カノと現カノ、初恋と妻、そのどれに対しても、平等に扱う男。 車内の様子はよく見えなかった。 鹿乃は目を逸らし、その時、知らない番号から着信があった。 一瞬迷ってから出ると、聞き慣れた声が耳に届いた。 「うちの深雪もやっと賢くなったな。俺を呼び出す方法を覚えたか」 伸の声はかすれて、熱っぽい欲望と愛情が滲んでいた。 「秘書に俺の居場所を聞いたのか?さっき言っただろう。鹿乃が寝たら、そっちに行くって」 深雪は甘えた声で拗ねたように言った。 「だってつらいんだもん。伸があの女と記念日を過ごして、これから何かするかと思うと、気分悪くて」 男はくすりと笑い、彼女が嫉妬していることを察して、優しく宥めた。 「おいで。『エキス』はちゃんと君のところに届いただろ?今夜は鹿乃には指一本触れないって。2時間前にも3回も抱いたばかりで、まだ足りないのか?」 「うん、まだ欲しいもん。早くあの女に帰らせて、私のところに来て」 「この小悪魔。あとで車でついて来い。車の中でやろうか」 「もう!」 やがて、受話器の向こうからねっとりしたキス音が聞こえてきた。 鹿乃は震える手で通話を切った。 目の前のケーキを見つめていると、急に吐き気がこみ上げてくる。 心臓をわし掴みにされているようで、胸が苦しく、頭がくらくらして、全身が不快だった。 彼女はフォークを握りしめ、ケーキに飾られた「結婚5周年おめでとう」のチョコプレートをぐちゃぐちゃに刺し潰した。 30分ほどして、伸が戻ってきた。 鹿乃の前に、ほとんど手を付けていないケーキと、彼女の蒼白な顔を見て心臓がぎゅっと締めつけられた。 「どうした?顔色が悪いぞ。どこか具合悪い?今すぐ病院行こう」 男の声は焦燥でいっぱいだった。 鹿乃は顔をそむけて、その偽善的な顔を見たくなかった。 「気持ち悪いことを聞いたから、もう食欲がない」 「何を聞いたんだ?」 伸は眉をひそめ、不安でいっぱいの顔だった。 「伸には一生わからないことだよ」 鹿乃の目は赤く潤んでいた。 伸は訳が分からず、鹿乃を抱き寄せようとしたが、彼女は避けた。 鹿乃は立ち上がり、大股でケーキ屋を飛び出し、タクシーに飛び乗って、自宅へ向かうように指示した。 「鹿乃、待ってくれ!」 伸はタクシーを引き止められず、慌ててベンテイガに乗り込み、後を追いかけた。 鹿乃は後部座席でバックミラーを見た。 滑稽な光景だった。 ベンテイガがタクシーを追い、さらにその後ろをピンクのGクラスが追ってくる。 別荘地に着くと、鹿乃はタクシーを降りた。 伸も慌てて降り、彼女の手を掴んだ。 「鹿乃、どうして怒った?」 「さっき俺が車の件を処理してて、一緒にケーキを食べなかったからか?」 鹿乃は顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめた。 男の整った顔は心配と後悔でいっぱいで、浮気をした後の罪悪感のようなものは一切なかった。 「うん」 伸はため息をついた。 「俺が悪かったよ。次からは、どんなに車が壊れても、鹿乃のそばにいるから」 そう言って、彼は鹿乃の手を取り、慎重に言葉を選びながら口を開いた。 「さっき秘書から電話があって、ある大事な取引先が事故で落下して危篤状態だって......行かなくちゃいけないんだ。鹿乃、俺、行ってもいい?」 鹿乃は眉をひそめた。 その顔には無念さを装いながらも、期待と興奮が見え隠れしていた。 そこまでして会いに行きたいのか。 取引先が事故死しそうなんていう嘘までついて。 鹿乃は口元を引きつらせて、もう真実を暴く気力もなかった。 ただ「うん」と一言だけ。 ゆっくりと別荘の中へ向かうフリをして、入り口を通り過ぎ、そのまま駐車場に向かって歩いた。 そこで目にしたのは、ピンクのGクラスの中で激しく抱き合い、キスを交わす二人の姿。 車内で、深雪は色っぽい目で伸を見つめた。 「黒いストッキングは伸のために特別に穿いたものよ?中はノーパンなの。何年経っても、伸の性癖は変わらないのね」 伸の瞳は興奮で潤んでいた。 手が我慢できずに彼女のスカートの中へ伸びる。 「今夜、俺を搾り取るつもりか?もう我慢できないから、入れてもいい?」 深雪は彼の手を抑えて、欲望に溺れた男の表情を見て、赤い唇を上げた。 「場所を変えようよ。湖のほとりが好きなんでしょ?」 伸は口角を上げ、喉仏を上下させた。 「今夜は大胆だな」 「明日は私の誕生日だよ?これはご褒美だよ」 深雪はウインクした。 ピンクのGクラスはエンジンをかけ、地下駐車場から走り去っていった。 その瞬間、鹿乃のスマホが震えた。 伸からのメッセージだった。 開くと、そこには湖の位置情報が送られていた。 第4話 半時間後、鹿乃はタクシーの中に座り、遠くに停まっているピンク色のGクラスを見つめていた。 伸はサンルーフを開けた。ほんの一分ほどで、ピンク色のGクラスは激しく揺れ始めた。 周囲には立ち止まって見物する人が少なくなかった。 「野外でって......刺激的だな」 「さすが金持ちはやることが違う。湖のほとり、高級車、美女......今夜は最高だろ」 鹿乃は目を赤くしながらその揺れる車を見つめ、全身が冷え切っていくのを感じた。 震える手で5分間の動画を撮影した。 そして、その動画を秘書に送信し、かすれた声で指示した。 「結婚式当日、この動画を流して」 音声を送り終えると、鹿乃は母親に電話をかけた。 「母さん、7日後にノルウェーに行く。父さんと母さんに会いに」 電話越しに、母は鹿乃のかすかな声の震えに気付き、眉をひそめた。 「伸は一緒に来るの?」 「ううん、一人で帰る」 「そう。落ち込まないで、お母さんとお父さんがいるからね」 母は状況を察しているようだった。優しく慰めた。 「空港まで迎えに行くよ」 夜中、伸が帰ってきたとき、物音が大きく、鹿乃は目を覚ました。 彼は酒に酔っていて、鹿乃の顔をずっと両手で包み、しつこくキスをした。 今夜鹿乃が突然怒ったことを気にしているのか、不安げに繰り返していた。 「俺、本当に鹿乃のこと愛してるんだ」 「君は怒っていいし、俺を罵っても叩いてもいい......でも俺のそばから離れないでくれ」 「心配しなくていい、浮気なんか絶対しないから」 広いベッドの上で、鹿乃は冷たい目で伸を見つめていた。 酔った伸は、帰宅前に首元についた口紅の跡を消し忘れていた。 それでも、彼の目の中に映る愛情は、一点の偽りもないように見えた。 翌朝、鹿乃はぼんやりと目を覚ました。 伸は歯磨き粉をつけ、ぬるめの水を差し出し、今日着る服まで選んでくれていた。 鹿乃が支度を終えると、伸は一緒に階下へ。 朝食の席で、伸のスマホが振動した。 彼は画面を一瞥し、申し訳なさそうに鹿乃を見た。 「鹿乃、今夜は帰れないかもしれない。飲み会があるんだ」 鹿乃は食べていた煎餅の手を止めた。 今日、伸が深雪と会うことを知っていても、もう指摘する気力もなかった。 「わかった」 伸が家を出ると、鹿乃はタクシーを拾ってその後を追った。 20分ほどで、伸は高級マンションに車を停めた。 白いツイードのコートに白いマフラーを巻いた深雪が遠くから駆け寄り、伸の車に飛び乗った。 車内でしばらく甘い時間を過ごした後、伸は車を発進させた。 30分後、黒のベントレーはウェディングフォトスタジオの前に停まった。 深雪が助手席から降り、伸に腕を絡めてスタジオの中へ。 入口でスタッフが笑顔で迎えた。 「小笹社長と木暮さんですね。すでに貸し切りにしておりますので、ご案内します」 車の中から鹿乃は無表情にその光景を見つめた。 冷たい寒気が心臓まで突き刺さった。 その時、スマホが鳴った。 画面を見ると、親友の絵美からだった。 「鹿乃、どこにいるの?一緒にアフタヌーンティーしよう!」 鹿乃は淡々とウェディングフォトスタジオの住所を伝えた。 数秒沈黙の後、絵美が叫んだ。 「はぁ?結婚してもう5年なのに、またウェディングフォト撮りに行くの?ラブラブすぎて羨ましいわ、独り身の私には毒!」 鹿乃は視線を落とし、苦笑いした。 「絵美、その相手は私じゃないの」 絵美は一瞬言葉を失い、それから察した。 「他の女と!?伸が浮気なんて......ありえない!待ってて、20分で行くから!」 20分後。 鹿乃は絵美の車に乗り込んだ。 絵美の問いかけに、鹿乃はこれまでの出来事を話した。 一か月前、深雪が伸のスマホを使って挑発的なボイスメッセージを送ってきたこと、そして今日の出来事も。 「絵美、今日、深雪の誕生日なんだ。伸は、彼女と一緒にウェディングフォトを撮りに来てる」 絵美の視線が鋭くなる。 店の中では伸が深雪のドレスの襟元を優しく整えていた。 その表情は、まるで芸術品を扱うかのように細やかだった。 絵美は堪えきれず、袖をまくり上げて車を飛び出そうとした。 「もう無理だわ、ぶん殴ってくるから!」 鹿乃は慌てて絵美を止めた。 「待って、もう少し見ていたい」 30分後、二人はウェディングフォトスタジオから出てきた。 伸は黒いタキシード、深雪は真っ白なウエディングドレス。 二人は手をつないでベントレーに乗り込み、湖畔に向かった。 その場所は盗撮防止のため、すでに立ち入り禁止エリアとして囲われていた。 カメラマンが笑顔で出迎えた。 「小笹さん、木暮さん、本当にお似合いですね。今まで撮った中で一番の美男美女です」 深雪は伸に腕を絡め、嬉しそうに笑った。 「私って、見る目があるよね。旦那様は最高にかっこいいでしょ?」 その後の30分間で、二人は三度衣装を替えて撮影を続けた。 寒さで深雪が震えると、伸は優しく肩掛けをかけてあげた。 彼女の機嫌が悪くなれば、伸は何度も優しい言葉でなだめ、笑わせようとした。 そして撮影が終わると。 伸はその場を離れることなく、突然片膝をついた。 驚く深雪の前で、用意していたバラの花束と婚約指輪を差し出した。 「前に君は、ウェディングフォトを撮りたいって言ってくれた。でも、プロポーズをちゃんとしないといけないと思ってた」 「君は気にしないって言ってくれたけど......俺は、ちゃんと君を大事にしたいんだ。深雪、俺と結婚してくれる?」 第5話 深雪は目を赤くし、興奮したように何度も頷いた。 「うん!伸と結婚するなら、喜んで!」 周囲の撮影チームが一斉に騒ぎ始めた。 「付き合っちゃえ!付き合っちゃえ!」 車の中で、鹿乃は冷たい表情でその光景を見つめていた。 全身が冷たくなっていく。 5年前、 伸が彼女にプロポーズしたときも、同じように真剣で情熱的だった。 彼もまた、きちんとした黒いスーツを身にまとい、鮮やかなバラを抱え、用意した指輪を差し出していた。 あの時、彼は涙を流しながら言ったのだ。 「俺は鹿乃だけを愛する。ほかの女なんて心に入らない」 「お願いだ、俺と結婚してくれ」 「誓うよ、この俺、小笹伸が浮気したら、万死に値するよ」 全部、全部嘘だった。 鹿乃は冷たく笑った。笑いながら、ふと涙が頬を伝った。 誓いなんて全部嘘。 本気なんてものも、結局はその場限りで消えてしまうもの。 隣で絵美が心配そうに彼女を見つめ、優しく声をかけた。 「二人は行っちゃったよ......追うの?」 「うん」 鹿乃は伏せたまつ毛をゆっくり上げ、窓の外を見やった。 このあと、伸たちがどこに行くのか、確かめたい。 1時間後、ベンツはある高級料理店の前に停まった。 そのレストランは林能城で最も賑わう場所にあり、窓際の席は予約困難で有名だ。 食事の時間ではないため、店内はまばらにしか客がいない。 テーブル同士の間はパーテーションでしっかり区切られており、プライバシーが守られていた。 さすがに用意周到だ。 鹿乃は、伸たちが店に入るのを見届けると、近くの店で少し大人びた服装を買い、マスクと帽子を被ってからゆっくり店内に入った。 絵美はすでに準備万端だった。 金を積み、伸たちの真後ろの席を予約してくれていた。 二人が席に着くと、間もなく中年夫婦が店員に案内されて伸のテーブルに座った。 夫婦は五十代くらいで、一見普通の人に見える。 しかし、女性の顔立ちはよく見ると深雪とかなり似ていた。 「まさか、伸は深雪の両親に会ってるの?」 絵美が思わず声を上げた。 鹿乃は無表情でスマホを取り出し、絶妙な角度を見つけ、パーテーションの隙間から写真を何枚か素早く撮った。 タイミングは完璧だった。 伸が深雪の母親にブラックカードを渡している瞬間もバッチリ押さえた。 「クソ野郎、気前いいじゃん」 絵美が小声で毒づいた。 鹿乃は少し視線を落とし、スマホをゆっくりしまった。 昔、伸が自分の両親に初めて挨拶に来たときも、誠意を見せようとして同じようにブラックカードを差し出していた。 しかし、両親はそれを断った。 彼らは娘を「売る」つもりなんてなかったから。 それなのに今、同じ光景を目の当たりにすることになるなんて。 「......行こう」 もう、ここに一秒もいたくない。 一階に降りると、絵美が家まで送ろうかと聞いてきたが、鹿乃は首を振った。 「絵美......私、今は頭がぐちゃぐちゃで。ひとりにしてくれる?」 絵美はそれ以上何も言わず、ただ「気をつけて」と何度も繰り返した。 絵美が立ち去ったあと、鹿乃はひとり街を歩いた。 外は気温が氷点下一度まで下がっていて、薄い上着だけでは寒すぎた。 だけど、その冷たさなんて、心の寒さに比べたらなんでもなかった。 どれだけ歩いたのか、自分でも分からない。 そんな時、スマホが震えた。 伸からのメッセージだった。 画面を開くと、目に飛び込んできたのは三枚のウェディングフォト。 一枚目、深雪が伸の肩にもたれ、恋人同士のように親密な姿。 二枚目、二人が甘く口づけを交わしている写真。 三枚目、伸が片膝をつき、花束を差し出しているところに、深雪が誇らしげに笑っている写真。 さらにメッセージが届いていた。 「今日はウェディングフォトを撮ったの。彼は人前で私にプロポーズしてくれたのよ。すごく感動した」 「彼のほうから私の両親に会いたいって言ってくれてね。籍こそ入れられないけど、結婚に必要なことは全部済ませたよ」 「一夫多妻は何が悪いというの?私は受け入れられるよ。あなたはどうかな?まあ、私は損しないし」 鹿乃はその挑発的な言葉を黙って読み終え、何も返信しなかった。 三枚の写真を秘書に送り、自分が撮影した伸と深雪の家族との食事写真、そして全てのチャット記録をまとめて送信した。 「結婚式当日、全部流して」 全ての操作を終えると、鹿乃はスマホをポケットに戻した。 ぼんやりと街を歩く。 まるで魂が抜けたように。 そのとき。 急に黒い車がコントロールを失い、ものすごいスピードで彼女の方に突っ込んできた。 ドンッ! 避ける間もなく、鹿乃の体は空中に投げ出され、2メートル先の地面に叩きつけられた。 どれだけの時間が過ぎただろう。 鹿乃はゆっくり目を開けた。 消毒液のツンとした臭い。 目の前には真っ白な病室の天井。 伸がすぐに駆け寄ってきた。 その目は赤くなり、不安と後悔が入り混じった表情。 「目が覚めた?どこか痛いところはない?」 鹿乃は視線をゆっくり動かし、彼に向けた。 男は必死な顔で彼女を見つめている。 まるで、代わりに傷つきたいとでも思っているように。 吐き気がこみ上げた。 あのウェディングフォトの光景が頭をよぎり、胃がひっくり返るようだった。 伸。 いったいどれが本当のあなたなの? 「どうして黙ってるんだ?苦しい?医者を呼んでくる!」 伸が立ち上がろうとした瞬間、鹿乃は彼の手を掴んだ。 掠れる声で、静かに問うた。 「どうして伸がここに?」 第6話 伸は少し驚いた。病院から電話を受けたとき、彼はまだ深雪の両親と食事をしていた。 そのとき、一瞬冷や汗をかき、深雪一家を置き去りにして急いで駆けつけた。 幸い、鹿乃に大きな怪我はなかった。 「夜は取引先との食事で、大きな案件を追ってたんだ。病院から君が事故に遭ったと聞いて、すぐに来たんだよ」 鹿乃は瞳を伏せず、真っ直ぐに彼を見つめた。 「さっき帰ってきたの?」 「そうだよ、鹿乃。もう、すごく疲れた......」伸は眉間を軽く指で押さえた。 鹿乃はゆっくりと目を閉じ、それ以上何も言わなかった。 伸はそのまま彼女のそばに座り、静かに付き添った。だが、ほどなくして彼のスマホが鳴り始めた。 彼はすぐに着信を切ったが、相手は諦めずにまたかけ直してきた。 伸は音を消し、俯いてメッセージを送った。 1分後、彼は明らかに落ち着きをなくし、何か口実をつけてそそくさと部屋を出て行った。 伸が出て行って間もなく、絵美が鹿乃を見舞いにやって来た。 ただ、その表情はどこか険しかった。 「当ててみて、私が誰に会ったと思う?」 そう言われ、鹿乃は体を少し起こし、数秒考えてから答えた。 「伸?」 絵美は唇を尖らせ、嫌そうに顔をしかめた。 「この病院の3階は産婦人科なんだ。エレベーターのドアが開いた瞬間に、伸と木暮深雪が並んで立ってるのが見えた」 「おかしいと思って、周りに紛れて後をつけたんだけど......あの女、妊娠検査の結果を持ってたよ。伸なんてもうニヤニヤで、『俺、父さんになるんだ』って繰り返してた」 鹿乃は一瞬呆然としたが、すぐに目を伏せ、表情ひとつ変えずに言った。 「妊娠したんだね」 絵美はその落ち着いた様子に違和感を覚え、思わず鹿乃の額に手を当てた。 「怒らないの?熱が出て頭がおかしくなったわけじゃないよね......?」 鹿乃は淡く笑い、かすかに唇を開いた。 「知らないんだね......伸は子供を作れない身体なんだ。お医者さんからそう言われたんだよ」 3年前、二人で1年近く妊活をしても全く結果が出ず、原因は自分にあると思っていた。 病院で検査を受けた際も、伸は彼女の精神的負担を心配し、一緒に検査を受けてくれた。 しかし、出た結果は、 小笹伸、不妊症。 その夜、彼女は一睡もできず、子供を持たずに生きていく覚悟を決めた。 伸さえ自分を愛してくれれば、それでいいと思った。 彼のプライドやキャリアを傷つけないよう、担当医にも頼んで「自分の体調を整える必要がある」ということにしてもらっていた。 それなのに今、伸が「父さんになる」と嬉しそうにしている姿は、この3年間、自分が必死に隠してきたことすべてを愚かに思わせた。 「うわ......とんでもない修羅場だね」 絵美は興奮して、思わず立ち上がりそうになった。手をこすり合わせながら目を輝かせた。 「いいこと思いついた。5日後、鹿乃はノルウェーに移住するでしょ?何も知らないフリをしよう」 「深雪が子供を産んだら、伸の不妊証明書を送りつけてやろうよ。彼、発狂するかもね?」 翌朝、伸は病院に来なかった。 午後、秘書が病室にやって来て、結婚式の準備状況を報告したあと、少し躊躇ってから鹿乃を見た。 「言いたいことがあるなら、はっきり言って」 鹿乃はきりりと眉をひそめた。 秘書はおずおずと視線を落とし、小声で告げた。 「今日の昼、社長に資料をお届けするよう言われて別荘に行きました。そのとき......木暮さんが、奥様の家のリビングのソファにパジャマ姿で座っているのを見ました」 「奥様には本当にお世話になっていますので、これは黙っていられなくて......」 足元から冷たいものが這い上がるような感覚がした。鹿乃の顔色がうっすら冷たくなった。 自分がまだ入院しているのに、深雪はもう家に入り込んでいる......? 昨夜、伸が「退院のときは必ず連絡して。迎えに行くから」と言った理由がようやくわかった。 「わかった。ありがとう」 鹿乃は机上のスマホを手に取り、別荘の監視カメラを確認しようとした。 だが、画面は真っ暗だった。 伸が事前にカメラを塞いでいた。 鹿乃は眉をひそめ、まだ部屋にいる秘書を見た。 「今夜、伸と木暮を外に誘き出して。その間に新しい監視カメラを設置してもらって。誰にも気づかれないように」 「はい、奥様」 深夜10時。 伸が病室に現れた。 病床に横たわる鹿乃を見つめ、黒い瞳にかすかな後ろめたさを浮かべた。 「鹿乃、俺を呼んだのは......会いたかったからだよね?ごめん、今日一日忙しくて......」 鹿乃は眉をひそめて彼の言葉を遮り、あえて逃げ道を作ってやった。 「知ってるよ。私の誕生日パーティーの準備で忙しかったんでしょ?だから、今日遅くなったんだよね」 伸は一瞬固まり、それから笑顔を浮かべて彼女の手を取り、優しく揉んだ。 「やっぱり鹿乃は、わかってくれるんだね」 鹿乃は伸を見つめ、そのまま彼の言葉に合わせて静かに言った。 「うん、全部わかってるよ。伸がしていること、全部」 伸の心臓が一瞬止まったように感じた。 「鹿乃......」 何か言おうとしたとき、看護師が治療ワゴンを押して入ってきて、新しい点滴を取り替え始めた。 翌日。 鹿乃は監視カメラの映像を開いた。 そこには、伸と深雪が一緒にランチをしている姿が映っていた。 深雪は、いつも自分が座っていた席に腰掛け、妊娠を口実にわがままを言いながら食事を渋っていた。 伸は辛抱強くスプーンで一口ずつ食べさせてあげていた。 「ちゃんと食べないとダメだよ。元気な赤ちゃんを産んで......それから鹿乃に頼んで、俺たちの子供を養子として迎えてもらうんだ」 30分後、深雪はお腹いっぱいになって満足そうに階段を上っていった。 伸は召使いを呼びつけ、真剣な表情で言った。 「深雪は妊娠しているから、わがままを言っても我慢してやってくれ。それと、深雪がここに住んでいることは鹿乃が帰ってくるまで、誰にも言うな」 「はい、旦那様」 鹿乃は無表情でその映像を見つめ、画面を閉じた。 そして秘書に向かって指示を出した。 「招待状の準備を進めて。今日中にリストをまとめるから」 第7話 隔日、カウントダウン残り3日。 朝早く、伸はスープを持って鹿乃を見舞いに来た。 「おばさんに頼んで特別に煮てもらったんだ。君が一番好きな芋入りのスープだよ。味見してみて」 「うん」鹿乃は断らず、少しずつ口に運んだ。 伸が帰った後、さらに30分ほど経ってから、鹿乃は監視映像を開いた。 リビングでは、深雪が出かけて買い物に行きたいと駄々をこねていた。 今日は雨で道が滑りやすい。伸は彼女が転んでお腹の子に影響が出ることを心配し、高級ブランドの出張サービスを手配して、好きなだけ選べるようにしていた。 さらには、ベビー用品ブランドに新生児用の服まで持って来させ、深雪に選ばせていた。 その夜、小川弁護士が病室にやってきた。 「奥様と小笹社長の離婚契約が正式に成立しました」 「ありがとう」鹿乃は離婚契約書を見つめ、横にいる秘書に顔を向けた。 「コピーを取って、『再婚祝い』の箱に入れておいて」 7年の苦しい縁は、ここで終わりだ。 カウントダウン残り2日。 朝早く、伸はひまわりの花束と、数千万円をかけて求めたというお守りを持って病室にやってきた。 元気そうな鹿乃を見て、そのお守りを首にかけてやりながら、優しい笑顔を見せた。 「明日には退院できるよ。昨夜、大師にお願いしてもらった仏様のお守りだ。君の無事を祈ってる」 鹿乃は首元のお守りを見つめ、表情が僅かに硬くなった。 昨夜、深雪は腹痛を訴えた。 伸は彼女を心配して病院へ送り、その帰りに急いで子どものお守りを求めに行った。 このお守りは、そのついでに買ったものだ。 伸が病室を去ると、秘書がやってきた。 「奥様、招待状はもう準備が整いました。飛行機に乗った後で、電子版を送信いたします」 少し間を置いて、秘書は言いにくそうに付け加えた。 「小笹社長は、たった今、高額を支払ってご自宅の裏手にある別荘を買いました」 鹿乃の眉がわずかに寄る。 「あの別荘は、ずっと誰か住んでいたんじゃなかったっけ?」 秘書は密かに首を振り、慎重に答えた。 「はい、奥様。しかし小笹社長は大金を積み、相手に大型契約まで提示して、その家族を引っ越させたんです」 「聞いたところ、その別荘は木暮さん名義で、妊娠祝いとして贈るものだそうです......」 鹿乃は唇を引き結び、その目は冷たさを増していた。 伸は、彼女を囲って子供を生ませるつもりだ。 夕方、鹿乃は監視映像で、深雪が不満そうな顔でメイドに指示を出し、自分の荷物を裏手の別荘へ移動させている姿を見た。 そして今日、鹿乃が去る最後の日。 朝早く、伸が退院の迎えにやって来た。 車内で伸は、丁寧に鹿乃のシートベルトを締めてやり、優しい声で言った。 「鹿乃、今日は君の誕生日だ。パーティーはもう準備万端だよ。夜7時に開始するから、君も親友を招待して」 「うん」 黒い車は別荘地に入っていった。 4日ぶりに、鹿乃はこの家に戻ってきた。 すべては、あの日入院した時のまま、何一つ変わっていなかった。 まるで深雪が一度も訪れていないかのように。 鹿乃は主寝室に入った。 ドレッサーの上には一本の口紅が置かれていた。 彼女は何気なく視線を滑らせた。 ゲランの539、使用済み。 わざと残されたその口紅は、まるで無言の挑発だ。 鹿乃は長くは留まらず、メイドに呼ばれて食卓へ降りた。 食卓では伸がエビを剥き、鹿乃の口元に差し出してくる。 親密で優しいその仕草は、2日前に深雪にご飯を食べさせていた時と何ら変わらない。 鹿乃はゆっくりと咀嚼しながら、伸の優しくて深い瞳を見つめ、不意に口を開いた。 「もし......ただの例えだけど、ある日私が伸のもとを離れていく夢を見たら、伸は悲しくなるの?」 伸の手が一瞬止まり、表情が緊張した。 彼は鹿乃の手をぎゅっと握りしめた。 「......悲しいなんてもんじゃないよ。俺はきっと、狂ってしまう。だからどうか、俺のそばから離れないでくれ」 鹿乃は唇を軽く噛んだ。まだ何か言おうとした時、テーブルに置かれた伸のスマホが振動した。 鹿乃は自然に目を向けた。 深雪からのメッセージだった。 「下腹から出血してる......すごく痛い......赤ちゃん、大丈夫かな......?」 伸の黒い瞳に焦りが走る。 彼は立ち上がり、急いで言った。 「鹿乃、ごめん。誕生日パーティーの会場にトラブルがあって、今すぐ行かないと。あとで迎えに行くから」 彼はそのまま出て行こうとした。 鹿乃はふと手を伸ばして彼の手を掴み、微笑んだ。 「伸、さようなら」 伸は驚いたように振り向き、静かな鹿乃を見つめて体が震えた。 以前はあれほど自分だけを見つめてくれていたのに、今はその瞳に荒涼と冷たさしか残っていない。 「鹿乃......?」 伸が言葉を継ごうとしたその時、スマホが再び震えた。 彼は何も言えず、慌ただしく出て行った。 鹿乃は主寝室に戻り、すべての証明書類をまとめた。 お守りをゴミ箱に捨て、秘書に電話をかけた。 「伸は木暮の元に行ったわ。私は今から空港に向かう。搭乗したら予定通り実行して」 「それと、木暮を自身の結婚式に招待するのを忘れないで」 「かしこまりました、奥様」 1時間後、鹿乃は空港に到着。 手続きを済ませ、両親に「30分後に搭乗する」とメッセージを送った。 そのあと、伸とのチャット画面を開いた。 【今夜、二つのサプライズを用意したの。気に入ってくれるといいけど】 伸からすぐに返信が来た。 【サプライズを楽しみにしてるよ。今、まだ会場の準備で忙しくて現場を離れられないんだ。もう少し待ってて。必ず迎えに行くから、その時は一緒に誕生日を祝おう】 鹿乃は薄く微笑んで返信した。 【迎えに来なくてもいいよ。自分でホテルに行くから】 もちろん、行くつもりなんてない。 二階はパーティー会場。三階は結婚式会場。 伸をマハト・ホテルに行かせて待たせておけば、秘書がその場で結婚式の招待状を送信してくれる。そうすれば、あとは式を進めるだけだ。 30分後、搭乗案内のアナウンスが流れた。 「ノルウェー行きのお客様、搭乗口へお進みください」 鹿乃はSIMカードを取り出し、それをゴミ箱に投げ入れた。 もう二度と会うことはない。 小笹伸、さようなら。