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雪が降りしきる頃には、すでに白髪となっていた
松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。 ...
Chương (1)
第1章
松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。
冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。
彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。
五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。
真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」
第1話
松永心音(まつなが ここね)は夫の日下真一(くさか しんいち)に黙って、彼が家で大切に育てていた少女を海外の名門音楽大学へ留学させた。
冷徹で悟りきった仏僧のようだと評されてきた真一は、その瞬間、狂気に取り憑かれた。心音がわざと自分の少女を追い払ったのだと決めつけたのだ。
彼は心音との息子日下翔(くさか つばさ)を北極へ向かう豪華客船に乗せ、心音に雨宮由梨(あまみや ゆり)を差し出せと迫った。
五歳の翔が甲板で泣き叫ぶ姿に心音の胸は引き裂かれる。船はすでに公海に出ており、翔の小さな身体は真一の秘書に持ち上げられ、海に投げ落とされそうになっていた。
真一の低く冷ややかな声が響く。「心音、考える時間はあと五分だ。それを過ぎれば、息子は海の底に沈む」
一分目、心音は、五年間の真一への片想いを思い返す。彼女が真一の秘密の恋人となり、貧しく平凡な容姿の彼女が、立場のないまま、名家の医薬一族に生まれた彼と付き合っている。
二分目、日下家は卒業後すぐに政略結婚を押し付けたが、真一は心音の手を取り、役所で婚姻届を出した。
三分目、心音が妊娠したが、日下家は認めず、真一は心音を連れて家を出て、翔を生んだ。
四分目、真一は友人の姪を養女に迎え、その子が二十歳の誕生日の夜、心音は彼がその少女に注ぐ抑えきれぬ愛情を見てしまう。
五分目、真一と由梨がベッドで絡み合う姿が、心音の脳裏に焼きついて離れなかった……
真一は手を放した。二十年近く身につけていた数珠は、もう彼の手首にはなかった。
その数珠は、かつて心音でさえ触れることを許されなかったもの。それが今、由梨の足首に飾られていたのだ。
真一の瞳は凍りつくほど冷たく、微塵の温もりもない。「心音、最後にもう一度聞く。由梨はどこにいる?」
心音の喉は痛み、耳には翔の泣き声が突き刺さる。「ママ、助けて……」
海風が頬を打ち、彼女が痛みに涙が滲む。
「お前は息子を死なせたいのか?」
胸が痛み、呼吸さえ苦しい。心音は涙に濡れた瞳で彼を見上げた。
「真一、翔はあなたの息子よ。彼の命で私を脅すなんて」
だが彼の唇から吐き出されたのは冷酷な言葉だった。「由梨もまた、俺の命なんだ」
心音の涙が頬を滑る。由梨が彼の命なら、自分と息子は一体なんなのだろう。
「由梨さえ戻れば、お前は変わらず俺の妻だ」
心音は感情を必死にこらえながら言う。「真一、由梨のために翔を殺すなんて、信じられない。それに私は彼女を傷つけてなんていない」
真一は冷たく言う。「五秒以内だ。言わなければ翔は海に投げ込まれ、鮫の餌になる」
「5……4……3……」
男が本気で動こうとするのを見て、心音は耐えきれなかった。「由梨はM国のBK音楽学院にいる」
心音がその場に崩れ落ちた。彼は本当にやるのだ。由梨のためなら、息子すら捨てる。
心音は涙で曇った瞳で、真一がすぐにスマホを取り出して電話をかける様子を見つめた。男は明らかに焦っていた。「ヘリを回せ!M国へ飛ぶ」
彼はもう心音を見ることもなく、ひたすらスマホに目を落とした。
心音は震える手で砂を握る。
この十年間、彼を支えてきたのは自分だった。研究成果も、事業も、彼の背後にはいつも心音がいた。
彼が日下グループを一から築き、研究を捨て、会長となった。その薬の開発のため、心音は24時間研究室に籠もり続けた。
彼女の努力で成功を掴み、日下グループは旧来の日下家と肩を並べる巨大製薬企業となった。
その夜、彼は彼女を抱き寄せ、首筋に愛おしげな口づけを落とした。
「心音、お前は俺の骨だ。血に溶け込んだ存在なんだ」
心音は、すべてが良い方向に向かっていると思っていた。彼女は自分が彼の傍らに立つ資格があることを証明でき、日下家の人々も彼女の成果を認め、近年ようやく彼女を受け入れ始めていた。
しかし、結末はこうだった。真一は再び、自分より九歳も年下の娘に心を奪われてしまった。その娘は何も知らず、世間ずれもしておらず、無邪気で彼にまとわりついては、甘えた口調で際限なく囁く。
「真一、今日は一緒にいて」
「真一、この問題が解けないの。教えて」
「真一、チェロのコンクール、絶対来てね。来なきゃ演奏しないから」
「真一、あなたが大好き」
甘えることも、告白することも、心音は一度もしたことがなかった。
真一はなんと、心音の目の前で、あの日常生活さえまともに送れない由梨に心を奪われてしまった。由梨は彼に捧げられ、寵愛されることを求め、彼もまたそれを苦にすることむしろ喜びとしていた。
ヘリはすぐに到着し、真一は息子の船が戻るのも待たずにM国へ飛び立った。
遠ざかるヘリを見つめながら、心音は彼に電話をかけ続けたが、全て拒否された。
心音は真っ先に彼にメッセージを送った。【息子はいつ戻るの?】
【三時間後だ。心音、由梨は友人に託された娘で、俺をおじさんと呼んでいる。俺には責任がある】
その言葉に、心音は惨めに笑った。
責任?
心音がスマホをしまおうとしたその時、画面にさらにメッセージが表示された。
【心音、私が真一を愛しているって何が悪いの?彼だって私と一緒にいたいって言ってる。それに激しく愛し合っているんだから。とっくにあなたへの情熱は冷め切っているのよ。彼に縋りついて離さないのはあなたの方でしょ】
【今日、彼はまた私を迎えに来た。ホテルで一緒に過ごしたの。彼は私のウサギの衣装をすごく気に入ってくれた】
【……】
添付されたエロ映像。そこには、真一の狂おしい愛が生々しく映し出されていた。
心音はスマホを閉じ、海辺に座り込み、息子の帰りを待った。
涙は海風に乾き、もう流れるものはなかった。
かつては真一を愛してさえいればよかった。
浮気を知った時も、男は刺激を求めるだけだと思った。息子がいる、家庭を守らねばと思った。
だが、もう無理だった。
彼女は幼い頃から孤独で頼るものもなく、父母の愛情も、親族の愛も知らずに育った。本当の愛を見つけられたと思ったのに、今、またすべてが消えた。
彼女はスマホの契約書を開いた。
これはかつて、日下グループの上場のために彼女が署名した離婚協議書だった。
持ち株も、婚姻も、全て放棄するという内容。
当時、上場直前、日下家のお祖父様が彼女に直接言い渡したのだ。「松永さん、これにサインすれば、わしが会社の上場を手伝ってやる。真一がG港での上場を目指しているだろう。わしの助けがあれば、日下家に匹敵する企業に育て上げられる」
心音は日下家の人々を安心させ、真一のためにと、密かにこの協議書に署名した。
彼が自分を見捨てるはずがないと信じていたからだ。しかし今、全てが変わってしまった。
しばらくして、心音はまたメッセージを送る。
【承知しました。オーシャンゲートへの参加を同意します】
そこは世界最高峰の海洋医療研究チーム。選ばれた人材は、海底に30年閉じ込められ、研究に捧げねばならない。
ただ一つの条件は、息子の翔を連れて行くこと。
そうすれば、真一はもう二度と彼女と息子を見つけられない。
第2話
国境のない場所へ行くために、心音は自らの研究成果を持ち出さなければならなかった。
だが研究データもサンプルもすべて研究室の中にある。
研究室を開けるには、彼女と真一、二人の指紋とパスワードが必要で、同時に認証しなければ扉は開かない。
やがて、心音は翔を迎えた。翔の顔は涙に濡れ、疲れ果てて眠り込んでいた。
心音はその額にそっと口づけた。「翔、ママと一緒に行く気はある?」
翔のまつげが震え、母を見つめて泣きながら答える。「ママ、僕はもう少しで海に落ちるところだったんだよ」
五歳の子供であっても、もう分かっている。
自分を連れて行ったのが父の秘書だったことも。
心音の瞳に涙が滲む。
「翔、これからはパパはいないけど、ママと一緒に来てくれる?」
小さな腕が母の首に回り、しっかりと抱きついてきた。
「ママがいるなら、翔もいる」
心音は翔を連れて研究室へ行く。彼女の指紋とパスワードで高層フロアまでは入れる。
だが扉は開かなかった。
ガラス越しに見えるのは、コンピュータと数々のサンプル。
この実験の全てのデータは、彼女ただ一人が開発したものだ。これこそが、彼女がどうしても持ち去らなければならない唯一のものだった。
「ママ、どうするの?パパがいないと扉が開かないよ」
心音は、研究室を造った当時、真一が、彼女の指紋を登録し、パスワードを教えてくれたあの日のことを思い出す。
真一が彼女を抱きしめ、耳元で囁いた。「心音、このパスワードは俺に教えるな。俺のもお前に教えない。ここには会社の宝が眠っている。俺たち二人が揃わなきゃ開かない。そうすれば、俺たちは永遠に繋がって、離れない」
愛し合う二人にとって、それは互いに依存する証だった。
だが愛が消えた時、それは互いを警戒するための最良の仕組みに変わる。
真一、五年前、この日を想像したか。
結局、心音は研究室を開けられなかった。
彼女は翔を連れて二階の会社の住居へ戻る。
長年、由梨が現れるまでは、心音と翔は会社で暮らしていた。その後、彼女たちは別荘を買い、家族らしい生活を始めたのだ。
ここにある全てのものは、由梨が現れる前に心音と翔が手ずから整えたものだった。
心音は自分の持ち物を片っ端から整理する。真一が買ってくれた物、自分が真一に贈った物、こっそりと買ったペアの品。翔もまた、自分の荷物を整理し始めた。
「これはパパが買ったから、いらない。これはママが買ったから、持っていく。これは家族写真だから、いらない」
翔が三つの袋に分類していく姿に、心音は涙を堪えた。
真一、翔がどれほど賢いか知っているの?
彼は何も言わずとも分かっている。あなたがもう彼を捨てたことを。
翔は走り寄り、母を抱きしめ、小さな手で涙を拭った。
「ママ、ずっと研究室に行きたいって言ってたよね。海は地球の四分の三を占めてて、守らなきゃいけないって。ママは海を守る戦士になるんだよね。ママはすごいんだから、自分の夢を叶えに行くんだよ。翔は応援する。ママについていく」
心音は遠くにある一枚の絵を見つめた。
真一の絵は、本当に上手かった。
それは翔が二歳の時、真一が描いてくれた油絵。
心音は近づき、絵具箱を開き、筆で自分の姿を塗りつぶした。
翔もまた小さな筆を取り、母と同じように、自分の姿を消していく。
翔は、心温まる言葉を紡いだ。「ママ、翔がもっと絵を習ったら、ママのためだけに描くから。絶対にこの絵より上手に描けるよ」
心音は淡く微笑み、息子の頬を撫でた。
整理が終わると、心音は電話をかけ、業者にすべてを引き取らせた。
ベッドも、ソファも、調理器具も、二人で買った思い出も。
壁に貼った写真や、翔の落書きも。
彼女は一つ残らず剥がし、真っ白に塗り直した。
200平方メートルの部屋は、何にも針一本残らない空虚な箱となり、眩しいほど白い壁が広がった。
キッチンに常備していた真一の胃薬すら、一粒も残さなかった。
それに丸一日一晩かかり、翔は床で眠り込んだ。
心音は息子を抱きかかえ、別荘へ戻る。
扉を開けた瞬間、リビングに煙が立ち込め、灰皿には吸い殻が山のように積もっていた。
真一の冷たい顔には、どこか疲れきった影が差し込み、瞳には血走った色が広がっていた。
男の声は低く沈み、冷たい。「由梨は学校でいじめられ、傷だらけで寮に寝込んでいる。薬を買う金すらないんだ」
彼は心音を待ち受けていた。彼の顔には問い詰めるような表情が浮かび、その冷たい目は冷たく、まるで彼女が敵であるかのように見えた。
心音は腕の中の眠る翔を見やり、静かに言う。
「真一、何か言いたいことがあるなら、息子の前ではやめて」
二階へ上がろうとした時、由梨が階段に現れた。
白い寝巻きを纏い、長い巻き髪を腰まで垂らし、無垢な顔には怯えが浮かんでいる。
両手でスカートの裾を握りしめ、震える声で言った。
「おばさん、わ、私はもうおじさんに甘えないから。だから国外に追い出さないで」
少し離れた場所に立っていた少女は、わざとらしくおばさんと呼び捨てにし、心音を年老いた女のように見せつける。
彼女は心音を哀れっぽい目で見つめていた。
真一はすぐに立ち上がり、階段の由梨へ歩み寄る。
髪を払って顔を露わにすると、頬には平手の跡がくっきり残っていた。
由梨は彼の胸に縋りつき、涙を流す。
「おばさん、私をいじめたのはZ国の人たちなの。お金を受け取ったからって。あなたが私を音楽学院に送ったのは、きっとそんなことをさせるためじゃないって、信じてる」
真一の瞳は完全に冷え切り、冷たい眼差しで心音を睨みつけた。
「心音、由梨を嫌うのは勝手だ。だが俺は言ったはずだ。二十五歳で大学院を卒業するまで、俺は彼女を守る。彼女の実の叔父が帰ってくるまでな。
だが俺の譲歩をいいことに、お前は何度も由梨を傷つけた」
言い合いの最中、翔が目を覚ました。
翔が振り向こうとしたが、心音はすぐに顔を覆い、囁いた。「翔、目を閉じて。聞いちゃダメ」
彼女が必死に感情を抑えながら言う。「真一、BK音楽学院はトップ3の超名門校。もし本当にいじめがあるなら、警察に届ければいい。自分で調べることもできる。ここで私を責めるのは筋違い」
由梨はなおも泣きじゃくった。「ごめんなさい、おばさん、ごめんなさい」
彼女は懇願するように、その場にひざまずいた。
「北木市の学校に通わせてください。寮生活でも構わない。月に一度、いや半日だけでも帰れればいいから。お願い、国外に出さないで。あの人たちに殺される」
彼女の涙に、真一までもが囚われた。心音の目の前で、彼は由梨を抱き上げ、鋭い視線を妻へ投げつける。
「後で書斎で話す。今は由梨を慰める」
心音は麻痺したように階段を上る。肩に頭を預けた翔の声が囁く。「ママ、早くパパから離れようよ」
心音は息子の背を撫で、痛みに耐えて答える。「ええ、ママが全部片付けたら、できるだけ早くね」
心音は翔を抱きかかえ、二階の廊下を歩き、翔の寝室へ向かう。
由梨の部屋の前を通りかかった時、ふと部屋のドアが完全に閉まっておらず、ほんの細い隙間ができているのに気がついた。
真一が由梨をベッドに押し倒し、その手を彼女の白い寝巻きの中へ滑り込ませていた。
心音の体が一瞬で硬直し、瞳には苦痛があふれていた。
真一、それがあなたの言う「守る」なの?
第3話
目の前で真一の裏切りを見てしまった瞬間、心音の胸はえぐられるように痛んだ。
彼女は翔を抱きかかえて部屋へ運び、ベッドに寝かせる。
必死にあやしながら言った。
「翔、三日だけ待って。三日後には必ず出て行こう。その間に部屋の荷物を少しまとめてね」
翔は真剣にうなずいた。
それを見届けてから、心音は静かにドアを閉めた。
廊下には真一が立っていた。その瞳は冷たく陰鬱で、声も低く重い。「書斎で話そう」
書斎に入った心音の目に映ったのは、以前とはまるで違う光景だった。
真一の書斎には由梨の痕跡が残されるようになっていた。ソファやカーペットには由梨の髪飾りやアクセサリー、楽譜やお菓子が散らばっている。
かつてここは、彼女と真一が研究データや未来の研究方向を語り合った場所だった。
いつの間にか全てが変わってしまっていた。
あの頃、妊娠中で疲れ果てて彼の肩に寄りかかり、眠り込んでしまったことがあった。
目を覚ました時、真一は彼女の額にそっと口づけて言った。「心音、無理するな。お前と子どもが俺の未来だ。お前たちが元気でいてくれなきゃ、俺も生きられない」
あの時、全ての努力が報われると信じていた。
なぜなら真一が彼女に家と温もりを与えてくれたから。
しかし書斎に入った瞬間、真一が分厚い資料の束を心音に投げつけた。
それは、すべて手書きの反省文や供述書。
「心音、これは学校から届いた報告だ。由梨をいじめた生徒たちの自白。金を受け取ってやったと。送金元を追ったら、最後に出てきたのはお前の口座だった」
心音は一言も発しなかった。
真一は冷たい声で言い放った。「離婚はしない。今回の件は由梨を落ち着かせるが、二度と彼女を俺のそばから離すことはない。もしおまだ俺と一緒にいたい、この結婚を続けたいと思うなら、これ以上、邪魔をするな」
心音はもはや説明する気力さえ失っていた。彼女は必死に気持ちを押さえ、静かに切り出す。「真一、明日、時間を作れる?研究室に一緒に入ってほしい。前回のデータに不具合が出て、確認が必要なの」
仕事の話とあって、真一の眉がわずかに動いた。
「午前中は由梨を病院に連れて行く。傷跡が残らないよう治療しなきゃならん。その後、昼食を一緒に食べて、午後なら行ける」
なるほど、彼女はずっと最後に回されていたのだ。以前は気づかなかったが、今なら、はっきりと分かる。
由梨のチェロのコンクールのため、彼は心音を会議に一人残し、海外の取引先と向き合わせただけで、自分は由梨の舞台を見に行ったのだ。
由梨が少しでも痛いと言えば、彼は心音を道端に置き去りにし、自分でタクシーに乗って日下家に行かせ、日下家の人々に一人で向き合わせた。
由梨が「餃子を食べたい」と言えば、彼は深夜に心音を起こし、十何時間も働いた後でもお構いなしに餃子を作らせた。
「うん……」心音は大きくため息をついた。
翌朝。
心音は耳をつんざくような叫び声で目を覚ました。
次の瞬間、狂ったように真一が部屋へ飛び込んでくる。
彼は心音をベッドから乱暴に引きずり下ろした。
痛みに呻いた心音は、整った顔をしかめた。
「心音!よくも由梨に」
そばで翔は泣きながら真一を叩いていた。
「やめろ!ママを離せ!この悪いパパ」
だが真一は翔を押し飛ばし、翔は瞬く間に床に倒れた。
真一はスマホをベッドに叩きつけた。
「心音、あの連中が由梨の裸の写真を撮るなんて、写真がネットに流出した!今、北木市中の人間が見ている」
「旦那様!雨宮さんが自殺しました」
真一はすぐに心音を押しのけ、斜め向かいの部屋へ走っていく。
心音が立ち尽くす中、由梨がベッドに倒れ、手首を切り血が止めどなく流れ、床に滴っているのを見た。
心音は蒼白になり、咄嗟に翔の目を手で覆った。
「翔、ママの言うことを聞いて。部屋から絶対に出ちゃダメ」
由梨は命さえ賭けて、この状況を作り出したのだ。
その代償が、どれほどのものになるのか、心音には想像もつかなかった。
由梨は真一に抱きかかえられ、病院へ運ばれていく。
一方、心音はボディーガードに押さえられ、別の車に乗せられる。
車は猛スピードで走り、日下家傘下の病院に到着する。
真一は慌てふためきながら由梨を抱えて走り込む。
だが、忘れたのか。彼自身も優れた外科医だということを。
真一が心音の部屋に入ってわずか30秒も経たないうちに、由梨は手首を切り、たまたま家政婦の野村(のむら)に見られていた。
流れる血の量は人の命を脅かすほどではない。
心音は手術室の前まで連れて来られた。
真一は冷たい目で心音を見つめる。
「撮られるのが好きなんだろ?なら、見せてやる」
真一はボディーガードや行き交う人々の目の前で、彼女の服を無理やり引き裂いた。
スカートが破れ、心音の白い肌が露わになる。
体は寒さで震え、手で服を押さえようとするが、真一の大きな体が覆いかぶさり、強く手首を握り、抵抗を許さない。
冷たい視線で言う。「心音、お前が由梨にしたこと、俺は百倍返しする」
心音の体が震え、喉がまるでナイフで切られたように詰まる。
「真一、私はあなたの妻であり、あなたの子どもの母親よ。こんなに多くの人の前で、私にこんなことをするの?」
だが真一は心音を冷たい壁に押し付け、集まった人々を気にせず、服を一気に引き裂き、床に落とす。
瞬く間に無数のフラッシュが彼女に向かい、ライブ配信、写真撮影、動画撮影が始まる。
真一は残酷に唇を歪める。「心音、お前は由梨の名誉を汚した。だから俺は、お前を街中に晒してやる」
顔色が青ざめ、体を手で覆おうとするが、覆いきれない。
真一はさらに手首を押さえ、強引に手を頭上に固定し、わざと彼女の体を見せつける。
現場の人々はより熱心に撮影する。
真一が誰か、全員が知っている。
心音はその瞬間、涙がこぼれた。
五年前の真一を思い出した。
あの時はスカートが引っかかるだけで、真一はすぐに自分の上着で彼女を包み、何も見えていなくても必死に守ろうとしていた。
しかし今、目の前の男は別の女のために、彼女を踏みにじった。
真一が手を離した瞬間、心音は床に落ち、震える手で服を掴み急いで着直した。そしてすぐに立ち去ろうとした。
冷酷な声が響く。「心音、今ネット上は全部お前の写真だ。由梨の写真は全て削除した。お前のは……自分でなんとかしろ」
心音は顔を引きつらせ、胸を押さえたまま、何も言わず去った。
頭の中には、真一が初めて彼女を求めたときの光景が蘇る。
彼は胸元のホクロに唇を寄せて言った。「心音、これからお前の体は俺だけのものだ。誰にも触れさせるな」
車に座った彼女がスマホを開くと、全ネットニュースがこう報じていた。
【日下夫人の胸元に赤いホクロ】
【ホクロ美人】
【抜群のスタイル!】
【話題】
【……】
第4話
心音は動画を再生した。
そこには真一にドレスを引き裂かれ、必死に抵抗する自分の姿が、鮮明に映し出されていた。
彼の冷酷な仕打ちも、自分の狼狽も、すべてが捉えられていた。
画面下には無数のコメントが流れていた。
【いつも黒のスーツ姿で堅物ぶってたけど、実は相当だらしない女だったんだな】
【この体、この腰の細さ、これなら日下社長が結婚したのも納得だ】
【俺はあの脚すき!細くて真っ直ぐで、弄ぶのに最高だろ】
【胸は……目測でDかな】
【うわ、ヤバ……】
下卑た言葉の数々が心を抉る。
その時、スマホが鳴った。
通話に出ると、耳に届いたのは真一の冷たい声だった。
「心音、ネットに出回ってる写真は誰も救ってやらない。方法は一つ。自分の金で一枚ずつ買い取れ」
続けざまに彼は言い放った。
「これは由梨を傷つけた代償だ。俺は彼女の叔父に説明する義務がある」
通話は切られた。
心音は震える指で口座を開く。
残高は1億円強、それは五年間、日下グループから支給されていた給与の全額だった。
そう、ただの給料だ。
彼女には会社の株はなく、配当金はすべて真一の元に管理されていた。
ただ一枚、彼から預けられたブラックカードがある。
彼女は信頼できる友人に、1億円とそのカードを託し、ネット上の写真や動画を買い取ってほしいと頼んだ。
しかし、動画を公開しているブロガーたちは法外な値段を要求してきた。
彼女の1億円では、わずか7サイト分しか買い取れなかった。
友人がブラックカードで支払いを試みる。
最初の1回はカードが使用できた。
だが、2回目の支払いで、カードは凍結されてしまった。
「心音、このカードもう使えない!彼らは応じてくれない。残りの動画は数十億円なければ、買い取れない」
心音はそのカードを見つめた。
会社が上場した日に、真一が手渡してくれたものだった。
「心音、このカードには限度がない。お前がお金に困ることは一生ない。俺が養うから」
視界がぼやけ、涙がブラックカードの上に落ちた。
この五年間、彼女は会社に住み込みで働き、ほとんど消費はしてこなかった。
会社から給与も支給されていたため、心音はこのカードを使うことは一度もなかった。
たった一度使おうとしたその時、カードはたった一回の使用しか許してくれなかった。
頭の中は由梨のことでいっぱいだった。
由梨は真一のカードを持ち、あちこちのショッピングモールで買い物を楽しんでいた。
しかし真一は、由梨が外に出たがるのを嫌い、毎回疲れて足が痛いと甘えると、真一は「毎月一度、すべて当月発売の新作だけを持って来い」と、好きなブランドの品を自由に選ばせていた。
スマホが鳴り、真一からのメッセージが届く。
【俺の金で写真を買うな。心音、売春でもして自分で何とかしろ、俺は助けない】
心音は手で涙を拭った。
「この特許を売って、写真や動画の購入代金にして」
友人は驚いた。「心音、正気か?それは十年かけて研究したものだ。絶対ダメだ。でも手伝う、絶対助ける」
友人は自分の貯金をすべて出し、名義の三軒の家まで急いで売って、ようやく全ての写真と動画を買い取った。
拡散されたコピーも、ハッキングで消し去ってくれた。
全ての写真が消えたのを見て、心音の頭に友人の言葉が浮かぶ。
「心音、あの研究は十年の結晶だ。絶対に安売りしてはいけない。ただ少し整理するだけでいい。世界に出た時、それは世界のためになり、価値は何千億にもなる。俺に20億だけ分けてくれればいい」
友人の冗談めいた言葉を思い出すと同時に、真一の冷酷さが胸に迫る。
この十年で、最もしてはいけなかったのは、全ての時間を真一に捧げることだった。自分が彼を愛してしまったことを後悔した。
心音が屋敷に戻ると、息子の泣き声が響いていた。
部屋に駆け込むと、由梨が勝ち誇った目をしながら、翔を平手で打った。
心音はすぐに彼女の手首を掴み、平手打ちを二度浴びせた。
翔を胸に抱きしめると、由梨は大げさに泣き叫ぶ。
「真一!真一」
階下から現れた真一に、由梨はすがりついた。
そして由梨の顔にある手の跡を見た真一の目は、一瞬で殺気に変わった。
由梨は泣きながら言った。「おばさんのせいじゃない。誤解だわ。さっき翔が積み木で遊んでいたら、おばさんが帰ってくるなり怒り出して、翔の顔をいきなり叩いた。あなたに似すぎているって。私が止めたら、この顔に二発」
翔は泣きじゃくりながら必死に訴えた。「パパ!由梨が僕を叩いたんだ!ママは僕を守っただけ」
だが真一は冷たく言い放つ。「心音、本当に由梨を叩いたのか」
心音は、真一が核心を無視して、ただ彼女が由梨を殴ったことだけを責めていることに耳を傾けた。
「真一、翔の顔を見た?生まれてから一度でも、私がこの子を叩いたことがある?」
由梨は慌てて手首を押さえ、包帯から血を滲ませる。
真一の瞳は一瞬で憂いに染まった。
「由梨、傷が開いたのか」
彼女が泣きながらうなずく。
そして真一が再び心音を見た時、その声は冷たかった。「沢村(さわむら)、心音に十発だ。由梨が受けた痛みを十倍にして返せ」
心音には反抗する余地など全くなかった。
彼女は真一の秘書に容赦なく十発叩かれた。左右交互に。顔は痛みに歪み、口元から血が滲んだ。
その間も、彼女は必死に翔の目を覆っていた。翔は絶望の声で泣き叫ぶ。
「パパ、ママは悪くない。あの女が僕をいじめたんだ。ママは僕を守っただけだ。パパなんか大嫌い」
心音は、絶えずもがく息子を抱きしめ、動かせないようにした。
十発を耐え終わるまで、息子の泣き声は痛々しかった。
「ママ、もうパパなんていらない、僕はママだけでいい」
真一の顔色が一変し、怒りに震える。「心音、こんな風に息子を育てるのか。まだ五歳だぞ。俺を父親として認めさせたくないのか?お前が悪いんだ。由梨は何も悪くないのに、なぜ受け入れられない?」
心音は息子を抱き、外に向かって歩こうとする。
だが真一はボディーガードに彼女たちを止めさせる。
「馬小屋に閉じ込めろ。反省させろ」
二人は馬小屋へと押し込められた。
扉が閉まる瞬間、由梨の勝ち誇った視線が突き刺さる。
口元だけがわずかに動いた。「真一は私のものよ」
だが心音はもう分かっていた。真一など、もう二度といらない。
夜、冷え込む馬小屋の中で、抱きかかえた翔が突然高熱を出した。
心音はすぐに馬小屋を開けようとしたが、施錠されている。
震える指で真一に電話をかけると、出たのは由梨だった。
「心音、馬小屋の居心地はどう?分かったでしょ、真一はあなたを信じない。愛してるのは私。翔を連れてさっさと消えなさい。さもないとあなたと息子を地獄に落としてやる」
第5話
「由梨、翔が高熱を出してるの。真一に代わって!」
「ふふ、ちょうどいいじゃない。あんたの息子がバカになってくれれば。言っておくけどね、心音、私もう真一の子を妊娠してるのよ。お腹の子こそが日下グループの後継ぎ。あんたの息子なんて、バカのままでいればいいの」
電話は無情に切られた。
再びかけ直しても、もう繋がらない。
心音は腕の中でますます熱くなる息子を抱きしめ、全身が震えた。
すぐに野村へ電話をかける。
野村が不安げに言う。「奥様、申し訳ありません。旦那様の命令です。誰一人、あなたや若様に水一杯でも届けたら、即刻解雇されると」
通話はまた切れた。
彼女の瞳には痛みがあふれていた。スマホのバッテリー残量が残り5%しかないのを見て、彼女は息子をそっと地面に降ろした。
全身で馬小屋の木の扉に体当たりした。一度、二度、数え切れないほど繰り返す。
骨が砕けそうな痛みに襲われても、決してやめなかった。
そして、何百回目かの衝撃で、ついに扉が開いた。
指一本持ち上がらないほどに痛みで痺れていたが、それでも息子を抱き上げ、必死に外へ駆け出す。
「翔、頑張って、ママがすぐ病院へ連れて行くから」
すでに翔の意識は薄れ、返事すらない。
心音の涙がこぼれ落ちた。
「翔、絶対にママが助けるから」
心音は車を運転できない。屋敷の誰も助けてくれない。夜中に頼れるのは真一しかいない。
必死に屋敷へ駆け込み、息子を抱いて真一の部屋の扉を開けると、そこには、由梨を優しく抱きしめる真一の姿。
一瞬、彼の瞳に動揺が走ったが、すぐに冷たく言った。
「由梨が悪夢を見たから、慰めていただけだ」
二人のあまりに親密な光景に、心音がもはや心は何も感じなかった。
「真一、翔を病院へ、高熱なの」
真一にはまだ良心が残っていた。やって来て、翔が本当に高熱を出しているのを見ると、すぐに翔を抱き上げ病院へ向かおうとした。
だがその時、由梨が泣き叫んだ。「おばさん、なんて酷い人なの、どうして翔を傷つけるようなことばかりするの?わざと熱を出させて、真一に心配させたいの」
この言葉を聞いた真一の顔は曇った。
彼はすぐに翔を再び心音に押し戻す。
「わざと息子を使って俺の同情を引こうとしたのか?自分で招いた結果なら、自分で連れて行け」
真一は頑として聞き入れようとしない。
心音の顔は蒼白だった。
「真一、離婚するから。お願いだから、今すぐ翔を病院に連れて行ってよ。高熱なの。本当に待てないのよ」
真一の目に一瞬、驚きが走った。
心音は、決して弱い女ではなかった。
彼女は恐ろしく冷静で、たとえ彼の身の下にいる時でさえ、照れ以外には冷静さしか残らなかった。
真一が口を開こうとしたが、由梨が腹を押さえて泣き出した。
「真一、お腹が痛い」
真一は由梨を見た。
手にはためらいもなく、由梨の平らな腹部に触れた。
「由梨、大丈夫か?」
心音は真一の腕を掴んだ。
「真一、翔を病院に連れて行って、お願い。お願いだから。あなたが望むものなら何でもあげる。離婚も、財産も、全部いらない。私が欲しいのは翔だけなの」
しかし離婚の言葉に真一の怒りが爆発する。
「ふざけるな、俺は絶対に離婚しない!心音、お前は俺の妻だ。この先も永遠に」
その言葉の後、彼は由梨を抱え、そのまま屋敷を出ていった。
「写真の件を解決できたんだ。なら今回の熱もお前が解決できるだろう」
車で走り去る背中を、必死に追いかけながら叫んだ。
「真一、お願い!子供を病院へ」
しかし、車は一瞬たりとも止まらず、猛スピードで夜の闇へ消えていった。
そのあまりに冷酷な真一の姿を見て、心音は壊れたように笑った。
間違いだった。
翔、あの人は父親になる資格も、私の研究成果を得る資格もない。
心音は震える指で屋敷の電話を掴み、119を押す。
真一、お願いしても拒んだ。もう二度とあなたにチャンスはない。
二日後。
息子の看病をしてから二日間、彼女は他人の噂話も耳にした。
「聞いた?日下さんが奥さんのために病院の一フロアを貸し切ったんだって。宝物みたいに大事にしてるらしいよ」
「十年の愛を貫くなんて、素敵すぎるわよね」
「でも、この前の騒ぎは?」
「さあ……あれは偽物でしょ。奥様と顔が似てただけって、ネットでそう囁かれてるよ」
「そうそう。日下さんが奥様をあれほど愛しているなら、あんな場で服を剥ぎ取るなんて絶対にあり得ない。きっと偽物が日下さんに媚びようとしたから、怒った日下さんがそうしたんだよ」
息子の熱が完全に下がると、心音は一つの決意を固めた。
会社へ行き、奪われたものを取り戻す。パスワードの見当はついている。
友人に翔を預け、会社へ向かう途中、突然、猛スピードの車が横から突っ込んできた。
全身に激痛が走り、彼女は地面に倒れた。血が少しずつ地面に広がっていく。
そして、朦朧とする中で真一の声が聞こえた。
「日下さん、本当に奥様の腎臓を一つ、雨宮さんに移植するんですか?」
第6話
「手術の同意書はすべて署名済みだ。心音の腎臓と由梨のマッチングは成功してる。由梨は急性腎不全で、絶対に失うわけにはいかない」
「ですが腎臓を一つ摘出すれば、奥様は気づきます」
「なら、永遠に知られなければいい。手術痕について聞かれたら、交通事故の傷だと説明すれば済む」
体を動かしたいのに、まったく力が入らない。瞼を開けることすらできない。
皮膚が切り開かれ、臓器を奪われ、縫い合わせていく感覚をはっきりと感じ取った。
心音の脳裏に蘇ったのは翔を身ごもった記憶だった。
真一が膝をつき、優しくお腹に口づけてくれた。
その低い声には、深い愛が溢れていた。
「心音、お腹に妊娠線なんて残してはいけない。毎日オイルを塗ってやる。俺が必ず守ると誓う」
あの時、心音は真一を見つめ、瞳には愛が溢れていた。
彼が由梨の腹を撫でるその手つきは、研究よりもよほど真剣に見えた。
なのに今、同じお腹は彼の命令で切り裂かれ、醜い傷を刻まれている。
やがて、手術室の扉が開いた。
心音の耳に、駆けつける足音と共に、ほんの数歩先で真一が話す声が届いた。
「由梨の容態は?」
「ご安心ください、手術は成功しました。急性腎不全ですから、再び悪化すれば、もう一つの腎臓も必要になりますが」
「心音には腎臓が二つある。それでいい」
その言葉を耳にしながら、心音の目から涙が溢れ、意識は再び暗闇に沈んだ。
手術台の上で、心音は涙を流した。
そして再び意識を失った。
たとえ由梨が彼女の命そのものを要求したとしても、真一は躊躇うことなく、彼女にそれを差し出させるのだ。
心音は目を開けた時、七日が経っていた。
翔は熱も下がり、彼女の傍に寄り添っていた。
心音が目を覚ますと、その黒い瞳がぱっと輝いた。
「ママ、やっと起きたんだね。パパが言ってたよ、僕のごはんを買いに行く途中で車に轢かれたんだって。全部僕のせいだ……」
翔は泣き出し、心音の胸にしがみついて悔やんだ。
少し離れたところから真一が歩み寄り、低い声で言った。
「目を覚ましてよかった。何も心配するな。ただ車にぶつかって腹部を強く傷つけただけだ」
心音は何も答えず、静かに言った。
「真一、研究室のパスワードはあなたの誕生日よ。中のパソコンを持ってきて。今夜までに修正しないといけないデータがあるの」
一瞬、彼の表情が揺れた。
「俺は、初めて結ばれた日設定した」
心音は震える手で翔を抱きしめる。
あの夜、翔を授かった。
彼にとっても、家族にとっても大切な日だ。
けれど、もう意味はない。
今はただ、彼の手でパソコンを持ってきてもらえばいい。
「しっかり休め。医者は出血が多かっただけだと言ってる。養生すれば治る。パソコンを取ってくる」
真一は部屋を出た。
心音は翔を抱きしめ、囁いた。
「翔、やっと私たち、自由になれるのよ」
彼女は翔の腕時計を取り出し、メッセージを送る。
【二時間後、X病院屋上からヘリで離脱】
一時間後、真一はパソコンを抱えて戻り、二人の好きな食べ物を買ってきた。
彼女に食べさせようとスプーンを差し出すが、心音は顔を背けた。
「大丈夫。仕事を先にやるから」
「言え。俺が直す」
真一が手伝おうとしたが、心音は首を振った。「いいえ。この実験にあなたは関わっていない。私がやる」
真一は二人の側を離れず見守るが、心音はデータを直すふりをして、ひたすら時間を稼ぐ。
その時、真一の携帯が鳴った。
心音には内容がはっきりと聞こえた。
「日下さん、雨宮さんがお目覚めになりました。あなたを探し回って、会えないと泣いています。すぐ来てください」
通話を終えると、真一の顔に焦りが浮かんだ。
「心音、会社でトラブルがあった。すぐ戻る」
扉を出る前、一瞬立ち止まって振り返る。
「心音、翔、お前たちは俺の一番大切な存在だ。離婚なんてあり得ない。待っていてくれ」
待つ?もう二度と待たない。
真一が出ていった後、間もなく窓の外にヘリの轟音が響き渡った。
翔は大喜びで叫んだ。
「ママ、やっと僕たち、出発できるんだね」
心音は窓の外の空を見上げた。ようやく晴れ上がった。
ベッドから起き上がると、腰に鋭い痛みが走った。彼女はそれをこらえた。
片手に翔の手を握り、もう片手にパソコンを持ち、部屋を出た。
ヘリに乗り込むと、迎えに来た上司が言う。「心音さん、何か残すことは?」
「二つだけ。友人に20億円を渡すこと。それと、真一との離婚」
「うん。組織が必ず処理する」
「最後にもう一つ。日下グループの研究室を爆破して」
彼女と真一が共に生み出した全ての特許は、これで消え去る。彼とのしがらみは、きれいさっぱり断ち切る。
十年前、真一と出会った時、彼女は一人だった。
今、翔と夢を抱えて去っていく。
ただ、これからの世界に、真一という男はもういない。