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愛という名の嘘
私は、宍戸心未(ししど ここみ)。画家として生きてきた。けれど、ある交通事故で視力を失った。 絶望の底にいたあの頃、ずっとそばで支えて...
Chương (1)
第1章
私は、宍戸心未(ししど ここみ)。画家として生きてきた。けれど、ある交通事故で視力を失った。
絶望の底にいたあの頃、ずっとそばで支えてくれたのは、幼なじみの宍戸耕平(ししど こうへい)だった。
彼は、私の人生に残されたたったひとつの光だった。
やがて私たちは結婚した。
けれど二年後、私は偶然、パソコンに残されていた録音を聞いてしまう。そこには、夫の耕平と、彼がずっと想い続けていた女――江坂香奈美(えさか かなみ)の声が残されていた。
「耕平、助けてくれてありがとう。でも……心未に黙って、彼女の角膜を私に移植したことが知られたらどうするの?目を覚ましたら、どう説明するつもり?もし警察に行かれたら?」
「気づかせるつもりはない。あいつはもう目が見えない。俺が妻にして、ずっとそばに置いておけばいい。
香奈美、お前のためなら、俺は何だってできる」
息が止まりそうになった。
私が救いだと信じていたものは、最初から最後まで、ただの嘘だったのだ。
録音をスマホに保存すると、私は病院へ連絡し、中絶手術の予約を入れた。
――もう終わりにしよう。
そうして私は、彼との別れを決めた。
第1話
私は、宍戸心未(ししど ここみ)。画家として生きてきた。けれど、ある交通事故で視力を失った。
絶望の底にいたあの頃、ずっとそばで支えてくれたのは、幼なじみの宍戸耕平(ししど こうへい)だった。
彼は、私の人生に残されたたったひとつの光だった。
やがて私たちは結婚した。
けれど二年後、私は偶然、パソコンに残されていた録音を聞いてしまう。そこには、夫の耕平と、彼がずっと想い続けていた女――江坂香奈美(えさか かなみ)の声が残されていた。
「耕平、助けてくれてありがとう。でも……心未に黙って、彼女の角膜を私に移植したことが知られたらどうするの?目を覚ましたら、どう説明するつもり?もし警察に行かれたら?」
「気づかせるつもりはない。あいつはもう目が見えない。俺が妻にして、ずっとそばに置いておけばいい。
香奈美、お前のためなら、俺は何だってできる」
息が止まりそうになった。
私が救いだと信じていたものは、最初から最後まで、ただの嘘だったのだ。
録音をスマホに保存すると、私は病院へ連絡し、中絶手術の予約を入れた。
――もう終わりにしよう。
そうして私は、彼との別れを決めた。
……
両目の見えない私が付き添いもなく中絶を受けに来たと知った医師は、ひどく気遣うような声で言った。
「中絶は体に負担のかかる処置です。ご家族の方は?お電話して付き添っていただかなくて大丈夫ですか」
私は静かに首を横に振った。
「……家族はいません」
十年前、両親は事故で亡くなった。そのあと私を引き取ったのが、宍戸家だった。
うちと宍戸家は代々親しい付き合いがあり、私は耕平と幼なじみとして一緒に育った。耕平は昔から何度も、まるで当たり前のように言ってくれていた。
――お前のことは、俺が守る。
けれど。
香奈美が現れてから、すべてが変わってしまった。
香奈美は気性が強く、いつも人目を引くような存在だった。気づけば耕平は、自然と彼女に惹かれ、いつもそばで守る側に回っていた。
たとえ香奈美が別の人と結婚しても、その気持ちが変わることはなかった。
あの事故の日。
車に乗っていたのは、私と香奈美だった。ふたりで国際絵画コンクールへ向かう途中だった。
私はずっと、事故で自分の目が見えなくなったのだと思っていた。けれど本当は違った。
傷ついていたのは――香奈美の目だった。
耕平は彼女を救うために、私の目を奪ったのだ。
ここ数年、彼が私に優しくしてくれていた理由も、そばにいてくれた理由も、全部ただの罪悪感と償いだった。
それなのに私は、それを生きる支えのように思い込んでいた。愛されているのだと、信じてしまっていた。
……本当に、滑稽だった。
私はうつむいたまま、手術同意書に名前を書いた。
三十分後、処置は終わった。
病室のベッドに横になり、経過観察を受けながらぼんやりしていると、不意にスマホが鳴った。
着信の相手は――耕平だった。
「心未、いまどこにいる?どうして使用人も連れずに出かけたんだ。迎えを向かわせる。
目が見えないのに一人で外にいるなんて危ないだろ。心配したんだぞ」
電話の向こうから聞こえてくる声は、ひどく切迫していた。
けれどもう、その言葉を聞いても、彼の気持ちは伝わってこなかった。
胸の奥の感情を押し込めながら、私は答えた。
「ずっと家にいて息が詰まってしまって……少し外を歩いていただけ。もう帰る」
そう答えて電話を切ると、私は静かに身支度を整えて病室を出た。
退院の手続きをしに向かう途中、正面から来た人にぶつかり、倒れかけたところを腕を支えられた。
「すみません。目が見えない方だと気づかなくて」
その人は慌てて謝った。
私は首を横に振って、大丈夫だと伝える。
けれど彼は手を離さず、私のまぶたをそっと開いて、小さくつぶやいた。
「この状態なら治療できますよ。角膜移植をすれば、また見えるようになります。どうしてここまで放っていたんですか」
息が止まりそうになって、私は思わず問い返した。
「……私、また見えるようになるんですか」
「ええ。私はこの病院に新しく赴任した眼科医です。あなたの目は、治療できる可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
意識は――二年前へと引き戻されていった。
事故から半年のあいだ、耕平は私の目を治すためだと言って、国内外の病院をいくつも回った。
けれど、どの医師も同じことを口にした。
損傷がひどすぎて、もう視力は戻らない、と。
それなのに今、この人は治せると言う。
胸の奥に、ひとつの考えがふいに浮かんだ。
――もしかして耕平は、ずっと私の目が治らないようにしていたのではないか。
私は何も知らないふりをして家に戻った。
玄関に入った途端、耕平は私を強く抱き寄せた。
低い声には、隠しきれない心配がにじんでいた。
「こんなに冷えるのに、一人で出歩くな。体だってまだ万全じゃないだろ。次からは運転手をつけてくれ。連絡が取れないと心配する。
お腹も空いただろ。先に食事にしよう。お前の好きな鮭の塩焼きを用意させてある」
そう言うなり、彼は私を抱き上げ、そのままダイニングへ向かった。
食卓でも、耕平はずっと私のために魚の骨を取り分けてくれて、私が箸を置くまで自分はほとんど手をつけなかった。
けれど、その気遣いはもう、私の中では別のものに変わっていた。
夕食を終えると、彼は会社で会議があると言って、慌ただしく出ていった。
私はスマホを取り出し、耕平の会社名を検索して最新のニュースを開いた。
目が見えない私は、読み上げ機能の音声に頼るしかない。
「今夜、宍戸グループが多額の資金を投じ、画家・江坂香奈美の新作をオークションで落札――」
第2話
その記事には、もう一枚写真が載っていた。
写真の中の耕平は、きっと嬉しそうに笑っているのだろうと思った。
私は二階の廊下の突き当たりにある部屋まで歩いた。そこは耕平のコレクションルームだった。
彼はよく、そこで一日中過ごしていた。
私が見えないこともあってか、彼は一度も私を気に留めたことがなかった。
ドアを押し開けて中に入ると、私はスマホで部屋の隅々まで写真を撮った。
撮った写真をネットに投稿し、写っているものが何なのかを見た人に尋ねた。
コメントはすぐについた。
【これ、画家の江坂香奈美の作品じゃない?投稿者さん、かなりのファンなんだね】
【正直、江坂香奈美の絵って受賞作の何点かを除けば、同じ人が描いたとは思えないものばかりで、コレクションする価値はないと思う】
【こんなにあるの?数えてみたら、全部で百二十枚もあった】
そこで私は、香奈美についてネットで調べてみた。
この二年、彼女は作品で国内外の賞をいくつも受賞していて、そのたびに耕平はわざわざ会場まで足を運び、直接祝っていた。
香奈美の知名度を上げるためなら、耕平は多額の資金を投じて、彼女の絵を高額で落札することさえ惜しまなかった。
香奈美の夫の会社が経営危機に陥ったときでさえ、宍戸グループの資金援助によって救われていた。
本当に、耕平は香奈美を深く愛しているのだ。
彼女に苦労をさせたくなくて、自分の恋敵にまで手を差し伸べるほどに。
香奈美に向ける彼の愛は、まっすぐで疑いようもないものだった。
その一途さに、胸が震えるほど心を揺さぶられてしまった。
翌朝、私は立て続けに三つの病院で目の診察を受けた。
どの病院でも答えは同じだった。角膜移植を受ければ、かなり高い確率で視力が戻るというのだ。
実はその三つの病院には、どこも以前、耕平に連れられて来たことがある。けれど当時の医師たちは、そろって「治療は不可能だ」と言っていた。
――これで確信した。
耕平は最初から、私の目が治ることを望んでいなかったのだ。
病院を出た途端、私はこらえきれず、その場にしゃがみ込んで泣いた。
悔しさも、戸惑いも、苦しさも――洪水のように胸へ押し寄せてきた。
この二年間の嘘には、もう耐えられなかった。
しばらくして気持ちが落ち着くと、私は弁護士事務所へ向かい、離婚協議書を二通受け取った。
それをバッグにしまい、路肩に立ってタクシーを待つ。
やがて一台の車が目の前で止まり、運転席の女が窓を下ろした。
「心未じゃない。どうして一人でこんなところにいるの?ちょうど耕平の会社に行くところなの。乗って、一緒に行きましょう」
香奈美の声だった。
断る間もなく、彼女は車を降りてきて私の腕をつかみ、そのまま車の中へ押し込んだ。
道中、彼女はずっと私を見下すような言葉ばかり並べ立てた。
「昔、先生がクラスのみんなの前で言ってたわよね。あなたはきっと大画家になるって。なのに皮肉よね、目が見えなくなった今、どうやって絵を描くの?
それに、私に感謝しなきゃだめよ。私が耕平を断らなかったら、あなたが彼と結婚できるはずなかったんだから。目も見えないあなたじゃ、一人で生きていくことだって難しいでしょう?」
膝の上に置いた手を、私は知らないうちに強く握りしめていた。
香奈美は私の目を奪い、人生まで壊しておきながら、よくもこんなことを平然と言えるものだ。
耕平と本当にお似合いだと思った。まさに似た者同士だった。
車を降りて会社に入ると、すぐに社員たちのひそひそ話が耳に入ってきた。
「あの人が社長の奥さんでしょ?江坂さんと並ぶとさすがにちょっとね。片方は白杖ついてるし、もう片方はあんなに仕事もできて華やかで」
「だから社長、パーティーにはいつも江坂さん連れてくるんだよ。目の見えない奥さん連れて歩きたい人なんて、普通いないでしょ」
「でも社長と奥さんって幼なじみなんでしょ?あえて外に連れ出さないのも、守ってるつもりなんじゃない?」
エレベーターに乗り込むと、香奈美がふいに笑い出した。
「心未って、本当にかわいそう。ちょっと同情しちゃいそう。
安心して。あなたの代わりに、この世界は私がちゃんと見ておいてあげるから」
長いあいだ胸の奥に積もっていた怒りが、その瞬間、弾けた。
私は白杖を放り出し、手を振り上げて彼女の頬を打とうとした。
けれど香奈美は、あっさりと身をかわした。
そのくせエレベーターの扉が開いた途端、耳をつんざくような悲鳴を上げた。
「心未、どうして私を叩くの?」
次の瞬間、誰かが駆け込んできて、私は勢いよく床に突き倒された。
その人はすぐに、床にしゃがみ込んだ香奈美を抱き起こした。
――耕平だ。
彼の声には、はっきりと怒りがにじんでいた。
「心未、お前、なんで香奈美に手なんか出すんだよ。
香奈美はたまたまお前を見かけて、親切にここまで送ってくれただけだろ。何してるんだよ」
第3話
私はその場に尻もちをつき、腹の奥をえぐるような痛みに息が詰まりそうになった。
昨日、中絶手術を受けたばかりの体で、耕平にあんなふうに突き飛ばされて、平気でいられるはずがなかった。
床に落ちた白杖を拾い上げ、私はどうにか体を支えて立ち上がる。
「目が見えなくても、何もわからないわけじゃない。
あんたたちが私に何をしてきたかくらい、自分たちがいちばんよくわかってるでしょ」
その言葉に、耕平の声がわずかに揺れた。
「俺たちが何したっていうんだよ。俺と香奈美は、そんなやましい関係じゃない。
何か言いたいことがあるなら、いきなり手なんか出さないで、先に俺に言えよ。
こんな騒ぎにして、周りにどう見られるか、少しは考えろ」
私が言い返すより先に、香奈美が泣き出した。
「ごめんね、全部私のせい。勝手に心未を会社まで連れてきたから、こんなふうになっちゃったんだよね。
これからはちゃんと距離を置くから。もう二度と誤解されるようなことはしない。私がいなくなれば、それでいいんでしょ?」
そう言い残すと、香奈美は泣きながら駆け出していった。
耕平も、迷うことなくそのあとを追っていく。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私はとうとう立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
――耕平、もう終わりにしよう。
次に目を覚ましたとき、私は病院のベッドの上にいた。
そのときになって、ようやく耕平から電話がかかってきた。
「心未、今日のことは気にするな。あんな言い方をしたのは悪かった。でも、あの場ではああ言うしかなかったんだ。社員も見ていたし、お前を庇うつもりもあった。
今は病院でちゃんと休んでいてくれ。もう無理するな。俺も今、そっちに向かってる。着いたら、もう一度ちゃんと診てもらおう。
あまり思いつめるな。今年の誕生日は、俺が海外に連れていく。だから、もうそんなに気にするな」
――嘘つき。
私に怒鳴ったとき、その声に滲んでいた怒りを、私ははっきり聞いていた。
あれは演技なんかじゃない。
今さら優しいことを言うのも、私をなだめて、まだ自分の支配の中に置いておきたいだけだ。
私が彼の思い通りにならなくなって、真実に気づくのが怖いだけ。
そして、自分がいちばん大事にしている香奈美に、私が何かするんじゃないかと怯えているだけだ。
でも、もうこんな芝居に付き合うつもりはない。
この目を耕平にくれてやったことで、宍戸家に育ててもらった恩は返したことにする。
これで私と耕平は、もう何の貸し借りもない。
耕平が病院に来たら、私は離婚のことを切り出すつもりだった。
しばらくして、病室のドアが外から開いた。
けれど入ってきたのは、耕平ではなかった。
彼の秘書・葉山徹(はやま とおる)だった。その声には、どこか気の毒そうな響きが混じっていた。
「奥様、社長は急遽海外での案件対応が入ってしまいまして、本日は私が付き添うよう言われております。何か必要なことがございましたら、何でもお申しつけください。
それから、こちらは社長からです。奥様に元気を出してほしいと」
そう言って差し出されたのは、イチゴのケーキだった。
私は無表情のまま答えた。
「……そうですか。わかりました」
手の中のスマホは熱を持っているのに、胸の奥はひどく冷えきっていた。
ついさっき、香奈美の夫が海外で女優とホテルに入ったというニュースが出ていた。
耕平が突然海外へ飛んだのは、きっとその件を処理するためだ。
香奈美のために動いたのだ。
自分でひと言説明することすらせず、適当に秘書を寄こして私をやり過ごそうとした。
しかも、彼は忘れている。
私はイチゴのケーキが大嫌いだ。
両親は、私にイチゴのケーキを買いに行った帰りに事故に遭って亡くなった。
今の耕平の頭の中には香奈美しかなくて、ほかのことなんて何ひとつ見えていないのだ。
翌朝、私は耕平に電話をかけた。
離婚のことは、やはり自分の口で伝えておきたかったからだ。
けれど電話に出たのは、耕平ではなかった。
香奈美だった。
「心未、まさかまだ、耕平があんたと結婚したのは、あんたが好きだったからだなんて思ってるの?」
続いて、眠たげな耕平の声が聞こえてきた。
「香奈美、誰からだ?」
「知らない番号。どうせ営業よ」
そこでぶつりと通話は切れ、耳元には切れたあとの無機質な音だけが残った。
私はもう掛け直さなかった。
もう、遅かった。
着替えを済ませると、私は耕平の邸宅へ戻り、荷物をまとめた。
持ち出したのは、もともと自分がこの家に持ち込んだものだけだった。
気遣わしげな執事には、耕平と旅行に行くことになったとだけ告げた。
署名を済ませた離婚協議書と、あの録音を入れたUSBメモリを、彼の書斎の机の上に置いた。
荷物を手に、私は空港へ向かう車に乗り込んだ。
空港に着いたころ、彼からメッセージが届いた。
【心未、明日の朝には戻れる。こっちでお前の土産も買ってある】
私は返事をしなかった。
スマホからSIMカードを抜き取り、そのままゴミ箱に捨てた。
飛行機がドイツに到着すると、私はそのまま眼科病院へ向かう車に乗り込んだ。
手術室へ運ばれていくその瞬間、不思議なくらい心は静かだった。
この手術が終われば、私はまた目が見えるようになる。
その日の午後、耕平はなぜかひどく胸騒ぎを覚えていた。
まぶたも妙にぴくついて、落ち着かない。
スマホを見て、私がずっとメッセージを返していないことに気づいた彼は、すぐに執事へ電話をかけた。
「旦那様、奥様はご一緒にご旅行へ出られたのではなかったのですか?」