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養子の誕生日のため、産ませてくれない夫
妊娠八ヶ月。破水したその日は、夫・寺沢慎司(てらざわ しんじ)の養子・寺沢春斗(てらざわ はると)の誕生日だ。 自分の子と養子の誕生日...
Chương (1)
第1章
妊娠八ヶ月。破水したその日は、夫・寺沢慎司(てらざわ しんじ)の養子・寺沢春斗(てらざわ はると)の誕生日だ。
自分の子と養子の誕生日が重なるのを避けたいという理由で、慎司は日付が変わるまで産むなと強いてきた。なかなか病院へ連れて行ってくれず、さらには私・寺沢心愛(てらざわ ここあ)を地下室に閉じ込めたのだ。
慎司は冷酷な眼差しで私を見下ろした。
「心愛、本当に図ったようなタイミングだな。わざわざ春斗の誕生日に産もうとするなんて」
私は必死に、病院へ連れて行ってほしいと彼に縋りついた。
慎司の瞳に落胆の色がよぎり、声は氷のように冷え切っている。
「まだ嘘をつくのか。医者に確認したところ、破水したからといってすぐに産まれるわけじゃないそうだ。三日後に産まれた例だってある。
俺の妻でいられなくなるのが怖くて、自分の子の誕生日を春斗と同じ日にしてまで、春斗の存在を薄めようとするなんて……お前の浅知恵には恐れ入る」
私は深く息を吸い込み、絶望の中で声を絞り出した。
「お腹にいるのは、あなたの子でもあるのよ!
慎司、お願い。この子のために助けて。赤ちゃんさえ無事なら、もう二度とあなたの前に現れないと約束するから」
慎司の顔が険しく歪んだ。彼は身を屈めて私の顎を掴むと、荒々しく言い放った。
「そんな駆け引きが通用すると思うな!
日付が変わるまで大人しくしていれば、病院へ連れて行ってやる。無事に産めたら、子供のために離婚しないと約束する。さらに、妻として認めるんだ」
その後、陣痛のあまりの痛みに私が叫び声を上げると、慎司はそれを煩わしく思い、春斗とその母親を連れて誕生日の祝いに出かけてしまった。
ようやく私を思い出し、男の子か女の子か、どちらが生まれたのかと尋ねた時、秘書は顔を真っ青にして答えた。
「社長、奥様は……行ってしまいました」
第1話
妊娠八ヶ月。破水したその日は、夫・寺沢慎司(てらざわ しんじ)の養子・寺沢春斗(てらざわ はると)の誕生日だ。
自分の子と養子の誕生日が重なるのを避けたいという理由で、慎司は日付が変わるまで産むなと強いてきた。なかなか病院へ連れて行ってくれず、さらには私・寺沢心愛(てらざわ ここあ)を地下室に閉じ込めたのだ。
慎司は冷酷な眼差しで私を見下ろした。
「心愛、本当に図ったようなタイミングだな。わざわざ春斗の誕生日に産もうとするなんて」
湿った床に這いつくばり、破水で濡れたワンピースのまま、私は病院へ連れて行ってほしいと縋り付いた。赤ちゃんが外に出ようと焦っているのが分かり、このままでは命に関わると感じた。
慎司の瞳に落胆の色がよぎり、声は氷のように冷え切っている。
「まだ嘘をつくのか。医者に確認したところ、破水したからといってすぐに産まれるわけじゃないそうだ。三日後に産まれた例だってある。
俺の妻でいられなくなるのが怖くて、自分の子の誕生日を春斗と同じ日にしてまで、春斗の存在を薄めようとするなんて……お前の浅知恵には恐れ入る」
私は深く息を吸い込み、絶望の中で声を絞り出した。
「お腹にいるのは、あなたの子でもあるのよ!
慎司、お願い。この子のために助けて。赤ちゃんさえ無事なら、もう二度とあなたの前に現れないと約束するから」
それを聞いた慎司の顔が険しく歪んだ。彼は身を屈めて私の顎を掴むと、荒々しく言い放った。
「そんな駆け引きが通用すると思うな!
日付が変わるまで大人しくしていれば、病院へ連れて行ってやる。無事に産めたら、子供のために離婚しないと約束する。さらに妻として認めるんだ」
言い捨てて、彼は立ち去ろうとした。
私は青ざめた手で彼のスーツの裾を掴み、血の気のない顔を上げて必死に訴え続けた。
「病院へ……お願い、連れて行って」
慎司は鼻で笑い、私の手を力任せに振り払うと、ためらうことなく地下室の外から鍵をかけた。扉の向こうから冷淡な指示が聞こえてきた。
「山本さん、こいつを見てろ。俺の許可なく出すんじゃないぞ」
慎司に蹴り飛ばされ、私は床に激しく叩きつけられた。
咄嗟にお腹を庇ったが、足の間から熱いものが溢れ出すのを感じた。目を向けると、真っ白だったワンピースが、じわじわと鮮血に染まっていく。
私は必死に抗い、少しずつ前へと這い進んだ。床には真っ赤な筋が引かれていく。力を振り絞って扉まで辿り着くと、拳を固めて扉を叩いた。
「山本さん、山本さん!血が出てるの!
出して……痛いの。もう産まれそうなの!」
扉に耳を寄せて私の声を聞いた使用人の山本佐知子(やまもと さちこ)は、鼻を鳴らしてあざ笑うような声を上げた。
「奥様、もう演技はやめてください。旦那様からは厳しく言いつけられているんです。あなたを出したりしたら私の給料が削られてしまいます。しがない使用人を困らせないでいただけますか。
いい加減、騒ぐのはおやめください。
奥様のせいで、せっかくの誕生日会を家で開けなくなったんです。
春斗様は誕生日会の後、私が作ったショートケーキを食べにお帰りになりますよ。奥様に構っている暇なんてありません」
ワンピースを握りしめる手に力がこもった。お腹の痛みは刻一刻と激しさを増していった。
佐知子が去ろうとする気配に、私は正気を失いそうになりながら叫んだ。
「山本さん!
行かないで!本当に産まれるの!
あなたが独断で決められないのは分かってる。だから慎司に電話するだけでいいの!こんなに血が出てるのよ。今すぐ病院に行かないと赤ちゃんが死んじゃう!」
第2話
「どれほど私を見下してても、お腹の子の命まで無視するつもり?もしこの子に何かあったら、お義母様にどう申し開きするの!あなたの仕事は私の世話をすることでしょう!」
私の脅しに、佐知子はようやく足を止めたようだ。
しばらくして、扉の外から苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。
「旦那様に電話しますよ。でも、もし許可が出なかったら、大奥様に聞かれても私のせいじゃありませんからね」
私は何度も頷きながら、扉に身を寄せて電話の結果を待った。
「旦那様、奥様が血が出て、もうすぐ産まれるとおっしゃっています。病院へお連れしましょうか?」
ちょうど料理の注文を終えたばかりの慎司は、佐知子からの電話を受けると、不快感を露わにして一喝した。
「山本さん、仕事を辞めたいのか?
しっかり彼女を見張れと言ったはずだ。情けをかけろとは言ってない!」
怒鳴られた佐知子は顔をしかめ、地下室の扉を忌々しげに睨みつけた。
その時、彼女は扉の隙間から流れ出る血に気づいた。顔色は瞬時に土気色に変わり、震える声で悲鳴を上げた。
「ち……血が!旦那様!奥様の言ったことは本当みたいです!血が出ています!
扉の下から、たくさんの血が流れ出ています!」
電話越しにそれを聞いた慎司の手が止まった。沈黙が流れた後、彼はためらいがちに口を開いた。
「待ってろ、すぐ……」
朦朧とする意識の中、受話器から聞こえてきた幼い声が、慎司の言葉を遮った。そして、私の最後の希望も。
「パパ、アイス食べたいな」
慎司が振り返った。
菅岡実(すがおか みのる)は息子を抱き寄せ、優しい視線を慎司に向けた。
「慎司、心愛ちゃんから?
今日は春斗の誕生日で、あなたが春斗をお祝いするのが気に入らなくて、わざと理由を作って帰らせようとしてるのかしら。前の参観日の時みたいに。
ごめんなさい。私が無理にこの子を産んだせいで、春斗はパパがいないって学校で馬鹿にされて……野良犬みたいだって笑われてきたから」
実が涙を浮かべる姿を見て、慎司の胸は少し痛んだ。
春斗は慎司のもとへ駆け寄り、その腕にしがみついて顔を見上げ、甘えた。
「パパ、一緒に誕生日をお祝いして?パパと過ごす誕生日は初めてなんだ。今まではママと二人きりだったから、みんなにパパがいないって笑われてたんだ」
慎司は春斗を強く抱きしめ、実に痛ましげな表情を浮かべた。
「今日は最後まで一緒にいると約束しただろう。何が起きようと、春斗の誕生日より大事なことなんてない」
実はぱっと笑顔を浮かべた。
「慎司、ありがとう」
扉の外で、佐知子は立ち尽くし、一言も発せなくなった。
電話の向こうから聞こえる慎司の声を聞いて、私の張り詰めていた糸がぷつりと切れた。扉にもたれかかっていた体が、力なく床へと滑り落ちた。
意識を失う直前、慎司が佐知子に告げた最後の言葉が耳に入った。
「山本さん、俺は帰れない。
後で宇佐野先生に電話して、家へ向かわせる。そこで様子を見させろ。
心愛は嘘つきだ。先生が着いたらすべてその指示に従え。勝手に外へ出すことは絶対に許さん。いいか、しっかり見張っておけ」
――私が嘘つき?
遠のいていく意識の中で、固く閉じた目から涙がこぼれ落ちた。
慎司にとって、私はそんな風に映っているのだ。彼は私を一欠片も信じていない。
あの参観日の時、学校へ向かう途中の彼に電話をかけたのは事実だ。けれどそれは、赤ちゃんがお腹の中で初めて蹴ったからで、その喜びを誰よりも先に彼と分かち合いたかっただけなのに。
第3話
慎司がわざと隠していたせいで、私は彼が参観日に行くことを知らなかった。
あの日、私のお腹に耳を当てて胎動を喜んでいた彼の姿が、今も鮮明に焼き付いている。それなのに、彼は私の言葉をすべて嘘だと決めつけ、子供相手に嫉妬していると思い込んでいたのだ。
「奥様、奥様!しっかりしてください!」
大きな手に力任せに揺さぶられ、かき混ぜられた泥のような意識を必死に手繰り寄せ、ゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは、佐知子の姿だ。
私が目を覚ましたのを確認すると、彼女は安堵したように胸をなでおろした。
「ああ、死ななくてよかったですわ」
そして愚痴をこぼした。
「奥様、驚かさないでください」
私は視線を落とし、自分のお腹を見た。視界が赤く染まっている。
佐知子も私の視線を追い、何かに気づくと鼻をつまみ、嫌そうに言った。
「奥様、なんで扉の近くに置いてあった職人さんのペンキ缶を倒したりしたんですか?鼻を突くような嫌な臭いがしますよ。
家の片付けもしないくせに、これじゃあ家を大事にする気なんてさらさらないですね」
呆然と隅に目をやると、ひっくり返った赤いペンキの缶が転がっていた。おそらく、のたうち回っていた私の手が当たってしまったのだろう。
地下室は暗く、扉の前に立つ佐知子の影で手元も見えない。彼女は合点がいったように声を張り上げた。
「旦那様のおっしゃる通りです!わざとペンキを倒して、私に血だと思わせて旦那様を呼び戻そうとしたのですね!
旦那様が騙されなくて本当に良かったです!
危うく春斗様とご両親が過ごせる誕生日会が、あなたのせいで台無しになるところでした」
私は彼女を激しく睨みつけたが、激痛のせいで言葉が出ない。
佐知子は私の目つきに気圧されたのか、慌てて掃除道具を取りに地下室を出ていった。その際、扉を閉めるのを忘れた。
外へと続く階段は曲がりくねって長く見えたが、もう迷っている暇はない。ここで自力でどうにかしなければ、私は死んでしまう。
深く息を吐き出し、お腹を抱えながら、震える手で壁を伝って立ち上がった。一歩、また一歩と外へ向かって歩を進める。
この階段がこれほど長く感じたことはなかった。絶え間ない陣痛に襲われ、一歩踏み出すたびにお腹の中を刃物でかき回されるような痛みが走る。
スマホは慎司に取り上げられている。外へ出て助けを求めるしかない。
大通りまで辿り着いた時、私は力尽き、無様に地面へ崩れ落ちた。
夕食後の散歩を楽しんでいた人々が、すぐに私を取り囲んだ。
悲鳴を上げる者や、慌てて救急車を呼ぶ者もいる。
その中に慎司の仕事仲間・安生正紀(あんじょう まさのり)がいて、驚愕の声を上げた。
「寺沢くんの奥さんじゃないか!妊婦さんがどうしてこんな格好でここに?家に強盗でも入ったのか!
すぐに寺沢くんに電話する!」
……
「もしもし、安生くん?」
電話を受けた慎司の声には、戸惑いが滲んでいる。
正紀はまくし立てるように言った。
「寺沢くん!君の家に強盗が入ったぞ!奥さんが血まみれで表に倒れてるんだ!
救急車はもう呼んだ。君もすぐにD病院へ向かってくれ!」
電話越しの騒ぎを聞き、慎司は眉をひそめて思わず立ち上がろうとした。
しかし、細い手が彼の腕を掴み、困ったようにスマホの画面を差し出した。
「慎司、これ。山本さんから連絡が来てるわ」
慎司がトーク画面に目を落とすと、瞳孔が縮み、顔色が険しくなった。彼は冷酷な声で応じた。
「安生くん、誤解だ。家に強盗など入ってない。妻が俺と喧嘩をして、腹いせに自分で赤いペンキを被っただけ。
救急車は帰してくれ。パーソナルドクターには連絡したから、もうすぐ着くはず」
第4話
正紀は呆然と私の全身を見やり、ためらいがちに尋ねた。
「本当に、これは赤いペンキなのだろうか?」
慎司は断固として言い切った。
「間違いない。
電話を妻に代わってくれ。少し話がしたい」
正紀は身を屈め、憐れみのこもった視線を私に向けながら、スマホを耳元に差し出した。
受話器から慎司の声が聞こえてきた。
「心愛、お前の猿芝居にはもう飽き飽きだ。
今日産まれるのが本当だろうが嘘だろうが、意地でも腹に収めておけ!
お前は赤ちゃんのことを考えず、勝手に薬を飲んで早産を引き起こしたんじゃないか?そんなお前の子供に、春斗と同じ誕生日を祝う資格など永遠にない。その子は一生、春斗の足元にも及ばないんだ!
これで分かったか?もう諦めろ。
さっさと家に帰れ。これ以上、外で恥をさらすんじゃない!」
彼の言葉は鋭い刃となって、私の心を幾重にも切り刻んだ。私が実より下なだけでなく、この子まであの女の子供に及ばないというのか。
涙が血に混じり、頬を伝って地面へと滴り落ちた。
「勝手に、薬を?」
私は枯れた声で絞り出した。
「慎司……私をそんな風に見てたのね。私たちが積み重ねてきた日々は、まるで下手な冗談のようだわ」
慎司は苛立ちを隠せず、行き来しながらスマホを握る手に力を込めた。怒鳴りつけようとしたその瞬間、ふわりと消え入りそうな声が聞こえた。
「もう、二度と会わないわ」
……
正紀は思いやりのある人だ。慎司の言葉に従って救急車を帰すようなことはせず、私を病院へと送り届けてくれた。
冷たい薬液が体内に送り込まれ、激痛は和らいでいく。けれど、心の奥底から計り知れない悲しみが込み上げてきた。この子の命が、体の中から少しずつ失われていくのを感じている。
私の子。宿ったと知った時の戸惑いと喜び。八ヶ月の間、この子は私と共にいてくれた。私を本当の母親にしてくれた。私と同じ血が流れ、悲しい時にはお腹を蹴って励ましてくれた子。
この世界の光を一度も見ることなく、あともう少しで産まれるはずだったのに。本当に、あと少しだったのに。
温かな手が医療用ガーゼで私の涙を拭い、頭の上から医師の焦った声が降りかかってきた。
「旦那さんへの連絡はつきましたか?
容態が良くありません。一刻も早く手術が必要です!」
傍らにいる看護師が答えた。
「旦那さんはお電話に出られたのですが、すぐに切られてしまいました。今は電源が入っておらず、連絡が取れません」
「手術の同意書はどうしますか?誰がサインを?」
「身内のサインがなければ、手術はできません!」
誰もが焦りを見せる中、医師は重いため息をついて言った。
「確か、駒井教授は別のオペに入っているはずです。大谷さん、そのオペが終わっているかどうか確認してきてください。もし終わっていたら、必ずこちらへ来ていただくように」
朦朧とする意識の中、冷たいメスが体内をかき回す感覚がある。幻聴だろうか、赤ん坊の産声が聞こえた気がして、私は必死に目を見開いた。
「赤ちゃん……」
熱を帯びた手のひらが私の手首を掴み、ベッドへと押しとどめた。低く掠れた声が響いた。
「動くな、針が抜ける」
顔を向けると、私は目頭が熱くなった。目の前の人影を信じられず、呆然と呟いた。
「……お兄ちゃん」
下の兄・砂川和希(すながわ かずき)はひどく疲れ切っており、目は血走っている。私の青ざめた顔を見ると、堪えきれずに涙を流し、顔を背けて声を詰まらせた。
「兄貴も、今こちらに向かってる」
私は声を上げて泣いた。子供のように、ただひたすらに泣きじゃくった。
「お兄ちゃん……私、間違ってた」
第5話
和希はようやく私の方を向き、優しく抱きしめて頭を撫でてくれた。
「大丈夫だ、心愛。もう安心していいぞ。お兄ちゃんがここにいるから」
……
深夜、慎司は眠りの中で、ふと耳元に赤ん坊の泣き声が聞こえた気がして目を覚ました。咄嗟に隣を振り返ると、隣には春斗が大人しく丸まって眠っており、泣いている様子はなかった。
春斗に毛布をかけ直してやったが、言いようのない不安に襲われ、どうしても寝付けなかった。タバコに火をつけた後、スマホを開いたが、通知は一つも届いていなかった。
昼間に拒否した何度かの知らない番号からの着信を思い出し、胸のざわつきは激しさを増していく。心愛の顔が脳裏をよぎり、彼はパーソナルドクター・宇佐野夏江(うさの なつえ)の番号を押した。
「先生、妻の様子はどうですか?」
「奥様ですか?奥様は救急車で病院へ運ばれました。私がそちらに着いた時、ちょうど救急車が出ていくところでした。てっきり私では間に合わないと判断して、旦那様が手配されたものだと思っておりましたが」
慎司は息を呑み、椅子から跳ね起きた。歓喜の声が漏れた。
「産まれた、ということですか!
道理で、さっき夢の中で赤ん坊の泣き声が聞こえました。産まれたばかりでしたか。きっとあの子は俺と心が通じ合っているから、知らせてくれました!」
弾んだ声で話す慎司に、夏江は何か言いかけてから口を閉ざした。あの時、現場で聞き及んだ状況とはあまりにもかけ離れている。彼女はしばらく考えた後、言葉を選んで告げた。
「旦那様、早急にD病院へ向かい、奥様の様子を確かめることをお勧めします」
慎司は興奮気味に何度も頷いた。
車の鍵を手に取って出かけようとした時、実が春斗を連れて玄関に来た。春斗は眠たそうに目をこすり、慎司に向かって両腕を広げた。
「パパ、だっこして。
パパがいないと、春斗眠れない」
実は薄手で透けるような白いネグリジェを纏い、慎司の腕に手を添えた。
「慎司、聞こえてしまったわ。心愛ちゃんが産んだの?
こんな夜更けにここから向かうなんて、運転が危ないわ。それに、彼女もきっともう眠ってるはずよ。お産はとても疲れるものだから、邪魔をしないであげて。数時間くらい急ぐことはないわ」
慎司は頭を伏せて少し考え込み、春斗を抱き上げて実に向き直った。
「そうだな。数時間遅れても大丈夫だ。朝になってから行っても変わりはないだろう。赤ん坊が逃げるわけでもないしな。
秘書が近くにいる。彼に先に見舞いの品を届けさせて、心愛の様子を見てくるよう言っておこう」
……
翌朝、慎司はチューリップの花束を用意し、秘書の森中純矢(もりなか じゅんや)に電話をかけて、産まれたのが男の子か女の子かを尋ねた。
純矢は脂汗を流している。病院の中を何度も回っているが、私の病室が見つからないのだ。
退院の手続きを済ませ、病院の玄関まで歩いてきた私は、車に乗り込もうとしている。その時、背後から大きな呼び声が聞こえた。
「奥様!」
振り返ると、純矢が必死の形相で駆け寄ってきた。彼は肩で息をしながら、スマホを指さして言った。
「奥様、社長がもうすぐ病院に到着されます。どちらへ行かれるご予定ですか?」
私は彼のスマホに視線を向け、まつ毛を伏せた。腕の中にある骨壺をきつく抱きしめ、一言も発さずに車へと乗り込んだ。
呆然とその場に取り残された純矢は、走り去る黒い車を見送りながら、慎司に告げた。
「社長、奥様は……行ってしまいました」