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名もなき星として輝く
橘結衣(たちばな ゆい)と九条蒼真(くじょう そうま)は、学生時代からの交際を実らせて結婚した、誰もが羨む理想の夫婦だった。 しかし結婚...
Chương (1)
第1章
橘結衣(たちばな ゆい)と九条蒼真(くじょう そうま)は、学生時代からの交際を実らせて結婚した、誰もが羨む理想の夫婦だった。
しかし結婚して五年目、蒼真は不倫をした。
結衣は、見るに堪えない写真の束を彼のデスクに静かに放った。泣き喚きもせず、問い詰めもせず、ただ極めて静かな声で告げた。
「あの女と別れるか、私と子供たちが出て行くか、どちらかにして」
それは結婚以来、初めて見舞われた大きな波乱だった。
結局、蒼真は家庭に戻ることを選んだ。
生活は平穏を取り戻したかに見えた。
蒼真は定時に帰宅し、子供たちの面倒をよく見、結衣に対しても穏やかで礼儀正しかった。だが、二人の間には見えない溝ができ、もう以前のような関係には戻れなかった。
ある日、結衣は取材を早めに切り上げ、子供たちを驚かせようと幼稚園へ迎えに行った。
幼稚園の門前に着いた途端、五歳になる双子の悠真(ゆうま)と結愛(ゆあ)が、歓声を上げながら、ベージュのワンピースを着た華奢な女性の胸に飛び込んでいくのが見えた。
その女性はしゃがみ込み、優しく腕を広げて二人を抱き止め、溺愛するような笑みを浮かべていた。
結衣の足が止まり、得体の知れない胸のざわめきを覚えた。
水城莉奈(みずき りな)。蒼真の不倫相手だったあの女が、なぜここにいるのか。
次の瞬間、結衣の血の気を引かせるような光景が目に飛び込んできた。
第1話
橘結衣(たちばな ゆい)と九条蒼真(くじょう そうま)は、学生時代からの交際を実らせて結婚した、誰もが羨む理想の夫婦だった。
しかし結婚して五年目、蒼真は不倫をした。
結衣は、見るに堪えない写真の束を彼のデスクに静かに放った。泣き喚きもせず、問い詰めもせず、ただ極めて静かな声で告げた。
「あの女と別れるか、私と子供たちが出て行くか、どちらかにして」
それは結婚以来、初めて見舞われた大きな波乱だった。
結局、蒼真は家庭に戻ることを選んだ。
生活は平穏を取り戻したかに見えた。
蒼真は定時に帰宅し、子供たちの面倒をよく見、結衣に対しても穏やかで礼儀正しかった。だが、二人の間には見えない溝ができ、もう以前のような関係には戻れなかった。
ある日、結衣は取材を早めに切り上げ、子供たちを驚かせようと幼稚園へ迎えに行った。
幼稚園の門前に着いた途端、五歳になる双子の悠真(ゆうま)と結愛(ゆあ)が、歓声を上げながら、ベージュのワンピースを着た華奢な女性の胸に飛び込んでいくのが見えた。
その女性はしゃがみ込み、優しく腕を広げて二人を抱き止め、溺愛するような笑みを浮かべていた。
結衣の足が止まり、得体の知れない胸のざわめきを覚えた。
水城莉奈(みずき りな)。蒼真の不倫相手だったあの女が、なぜここにいるのか。
次の瞬間、結衣の血の気を引かせるような光景が目に飛び込んできた。
娘の結愛は親しげに莉奈の頬にすり寄り、あどけない声で呼んだ。
「ママ!」
息子の悠真も続く。
「ママ!今日はアイスクリーム食べに連れてってくれるって約束したよね!」
ママ?
結衣は雷に打たれたような衝撃を受けた。全身の血が逆流して頭に上り、次の瞬間には氷のように冷え切っていくのを感じた。
蒼真は、莉奈と縁を切っていなかったのだ。
縁を切っていないどころか、堂々と子供たちの生活に入り込ませ、あろうことか「ママ」と呼ばせているなんて。
計り知れない衝撃と怒りで理性を失った結衣は、猛然と駆け寄り、莉奈の腕の中から二人を乱暴に引き剥がした。
「あなたたち、今この人をなんて呼んだの!」
結衣の声は怒りで震え、顔色は恐ろしいほど蒼白になっていた。
二人は結衣の剣幕に驚き、それが母親だとわかると一瞬焦ったような顔をしたが、すぐに不満げな表情に変わった。
悠真は眉をひそめ、莉奈の前に立ちはだかった。
「ひどい!莉奈おばちゃんが、びっくりしたのよ!」
結愛も口を尖らせた。
「そうよ!なんで莉奈おばちゃんを驚かすの?」
「答えなさい。さっきこの人をなんて呼んだの!」
結衣は二人を鋭く睨みつけた。
悠真は顔を上げ、子供の未熟さで言い放った。
「ママって呼んだの!莉奈おばちゃんは優しくて、かわいくて、一緒に遊んでくれるし、絵本も読んでくれるもん。おいしいお菓子も、おもちゃも、いーっぱい買ってくれる!
ママなんて嫌い!いつもお仕事ばっかりで、お家に帰ってもお部屋に閉じこもって、僕たちにプンプン怒ってばっかり!」
結愛も小さな声で付け加える。
「莉奈おばちゃんは、ぜったいに怒らないもん……」
言葉の端々が、氷の刃となって結衣の心臓を容赦なくえぐった。
莉奈は慌てて立ち上がり、いかにも申し訳なさそうな表情を作って結衣の手を引こうとした。
「結衣さん、怒らないでください。子供たちはまだ小さいですから、つい口走ってしまっただけで……気にしないでください」
「触らないで!」
結衣は思わずその手を強く振り払った。
莉奈は短い悲鳴を上げて数歩よろめき、コンクリートの地面に派手に倒れ込んだ。擦りむいた膝からは血が滲み出していた。
「莉奈おばちゃん!」
「ひどい!莉奈おばちゃんをドンってした!」
子供たちは即座に金切り声を上げた。
悠真は怒れる小さなライオンのように飛びかかり、結衣のすねを蹴り飛ばした。
「悪いやつ!あっちいけ!莉奈おばちゃんをいじめるなー!」
結愛はすぐさまリュックからキッズ携帯を取り出し、慣れた手つきでボタンを押すと、泣き声で叫んだ。
「もしもし、お巡りさん!幼稚園の前に悪い女の人がいて、ぶったりしてるの!ママをドンってして、血がいーっぱい出てるの!早く来て!」
結衣はその場に立ち尽くし、息子に蹴られるがままになりながら、娘が警察に自分を「悪い女」だと通報するのを聞いていた。そして、地面に座り込む莉奈が、涙ぐみながらも挑発的な笑みを向けてくるのを見ていた。
全身の血の気が引き、指一本動かすことができない。まるで荒唐無稽で残酷な悪夢を見ているようだった。
警察官はすぐに駆けつけ、全員が警察署へと連行された。
子供たちは莉奈に寄り添い、警察官に向かって口々に結衣の悪行を訴えた。
莉奈は目を赤くして小さくすすり泣き、ひどい目に遭いながらも必死に耐える、か弱い被害者を演じていた。
結衣は少し離れたパイプ椅子に無表情で座り、この馬鹿げた茶番を見つめながら、ただ胸の空洞が広がっていくのを感じていた。
しばらくすると、警察署の入り口が騒がしくなった。
二人の護衛を引き連れ、蒼真が足早に入ってきた。
オーダーメイドのスーツに身を包んだ、蒼真の端正な顔立ちには仕事の疲労が浮かんでいたが、それ以上に焦燥感と苛立ちが滲み出ていた。
彼は現場を一瞥し、結衣の蒼白な顔に一瞬視線を止めた後、泣いている莉奈と悠真、結愛に目を向け、すぐに眉間を揉んだ。
当直の警察官に低い声で事情を話し、名刺か何かを提示すると、警察官の態度は即座に恭しくなり、何度も頷いた。
「かしこまりました、九条社長。事情は把握いたしました。これは単なる誤解ですので、皆様お帰りいただいて結構です」
「パパ!」
「パパ!この人が莉奈おばちゃんをドンってしたの!それで、お巡りさんに連れてこられたんだよ!」
子供たちはすぐさま蒼真にすがりつき、先を争うように告げ口をした。
莉奈も立ち上がり、怯えたように蒼真を見つめた。目尻を赤くし、唇を噛みしめたまま何も言わず、ただ黙って涙を流していた。
蒼真は子供たちをなだめるように軽く背中を叩き、莉奈を一瞥した。その瞳には複雑な感情が入り混じっていた。
そして、結衣の前に歩み寄ると、声を潜め、あからさまな苛立ちを込めて言った。
「結衣、また何を騒いでいるんだ。こっちはついさっき海外とのオンライン会議を終えたばかりで疲れ切っているというのに、お前が人を殴って警察沙汰を起こしたと電話が来た。しかも、子供たちの目の前でだと?」
結衣は顔を上げ、この見慣れた、そして見知らぬ男の顔を見つめた。
かつて、この顔には彼女への深い愛情と優しさが溢れていた。しかし今は、苛立ちと非難しか残っていない。
「私が騒いでいる?」
結衣は口角を引きつらせた。その笑顔は泣くよりも悲痛だった。
「蒼真、まずは私に説明するべきじゃないの?あの時、水城とは縁を切ったと誓ったはずよ。どうしてその女がここにいるの?どうして子供たちがその女をママと呼んでいるの!」
第2話
蒼真はわずかに視線を泳がせ、硬い口調で答えた。
「あの時、莉奈をこの街から遠ざけたのは事実だ。だが、彼女のお母さんが先日重病で危篤状態になった。娘として看病に戻ってくるのは当然だろう。人として当たり前の事だ」
「当たり前?」
結衣は鼻で笑った。
「だからその女が戻ってくるのを許容した?子供たちに近づくのを許し、あまつさえ……ママと呼ぶのまで許したの?蒼真、私を馬鹿にしているの!」
「言葉に気をつけろ!」
蒼真はさらに眉をひそめた。
「この件に関しては、最初から俺が悪かった。お前を裏切り、家庭をないがしろにして莉奈に心を奪われたのは俺だ。
だが莉奈は何も悪くない。子供たちが彼女に懐いているのは、莉奈が今、ピアノの講師をしているからだ。この前、悠真と結愛のピアノの先生を探していた時、大勢の候補の中から莉奈を選んだのは子供たち自身だった。
お前との約束通り家庭に戻ると決めてから、俺は彼女と一線を越えるような真似は一切していない。ただの普通の友人として接しているだけだ。お前が勝手に神経質になっているだけだろう。どうしてそこまで彼女を目の敵にするんだ?」
必死に関係を否定しつつも暗に莉奈をかばう彼の様子に、結衣の胸は張り裂けそうだった。
十六歳の時のことを思い出した。バスケットボールコートの脇で、白いシャツを着た少年の蒼真が、陽光を背にして彼女に歩み寄り、耳を赤くしながらも輝くような瞳で言った。
「橘結衣、君が好きだ。付き合ってくれないか」
大学時代、生理痛で苦しんでいた時、彼は重要な実験の授業をすっぽかし、塀を乗り越えてお汁粉を買いに行ってくれた。結衣の寮の前で一時間も待ち続け、自らの手で温かいお汁粉を渡してくれた。
プロポーズの夜、二人が初めて出会った大学のグラウンドにキャンドルで巨大なハートを描き、片膝をついて声を詰まらせながら言った。
「結衣、結婚してくれ。一生、結衣だけを愛する。永遠に変わらない」
双子を産んだばかりの時、彼は子供たちを抱きしめ、目を赤くして疲れ切った彼女に言った。
「結衣、ありがとう。これからは家族四人、永遠に一緒だ。俺が命を懸けてお前たちを守る」
かつての誓いが甘いものであればあるほど、今の裏切りは深く心をえぐる。
彼は自分の目の前で、別の女に心変わりしたと認めたのだ。
それどころか、家庭を壊そうとした女をかばい、自分のことを神経質だと責め立てた。
「つまり」
結衣の声はひどく掠れ、絶望の淵にいるような静けさを帯びていた。
「あなたの目には、私が水城を理不尽に攻撃しているようにしか見えないのね。でも、あなたは考えたことがある?自分の子供が別の女をママと呼ぶのを直接聞いた時、私の心がどれほど痛むか。ほんの一秒でも、私の立場になって考えたことはあるの?」
赤く腫れた目をして、今にも倒れそうな彼女を見て、蒼真の喉仏が動いた。
「俺は……」
彼が口を開きかけた時、結衣は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。再び目を開けた時、その瞳には冷ややかな決意だけが残っていた。
「蒼真、二つの選択肢をあげる。
一つ目、今すぐ水城をクビにして、私と子供たちの生活から完全に消え去らせること。二つ目……」
彼女は言葉を切り、全身の力を振り絞るように言った。
「離婚しましょう」
離婚。
その言葉を、彼女はついに再び口にした。
しかし、以前のように慌てふためくことはなく、蒼真の目は恐ろしいほど冷静だった。
「ダメだ。子供たちはすでに莉奈に懐いているし、彼女の教え方はとてもいい。俺はお前と約束した以上、二度と彼女と一線を越えることはない。正当な理由もなく彼女を解雇することはできない」
彼は結衣を見つめ、確信に満ちた口調で、わずかな見下しすら含んで言った。
「結衣、いつも離婚を盾にして脅すのはやめろ。わかってるんだ、お前は子供たちのために、本気で離婚する気なんてないってことを」
子供たちのために……
結衣の心は、その言葉に激しく踏みにじられた。
そうだ、前回彼にチャンスを与え、耐え忍ぶことを選んだのは子供たちのためだった。
しかし、その弱点が、彼が自分をコントロールし、つけ上がるための切り札になるとは思いもしなかった。
結衣が絶望に満ちた視線でこちらを見つめているのに気づき、蒼真は苛立たしげに眉間を揉んだ。そして、事を荒立てまいとするような、いい加減な口調で言った。
「わかった、今日は子供たちもやり過ぎた。あいつらには謝らせる。この件はこれで終わりにしよう。お前もこれ以上しつこく追求するのはやめてくれ、いいな?」
彼は振り返り、少し離れたところにいる結愛と悠真を手招きした。
「悠真、結愛、こっちへ来い。ママに謝りなさい」
二人はしぶしぶ歩み寄り、顔には不満がありありと浮かんでいた。
悠真は口を尖らせた。
「僕たち、なにも悪いことしてないもん……」
「悠真!」
蒼真は声を荒らげた。
悠真はようやく不承不承、小さな声で呟いた。
「ごめんなさい」
結愛も小さな声で言った。
「ごめんなさい」
誠意のかけらもない謝罪。二人を見つめながら、結衣はただひたすら空しく、悲しかった。
警察署を出ると、蒼真がすでに車に乗って待っていた。
彼は莉奈に二人の子供を連れて先に乗るように言い、自分は結衣の前に歩み寄った。
「乗れよ」
彼の口調はいつもの平坦なものに戻っており、先ほどの口論などなかったかのようだった。
結衣は何も言わず、黙って助手席に乗り込んだ。
車内は、重苦しい空気に包まれていた。
子供たちは左右から莉奈にまとわりつき、ぺちゃくちゃと喋っていた。莉奈は優しく相槌を打ち、時折ティッシュで結愛の額の汗を拭いてやった。
運転席に座る蒼真は、時折振り返って三人の会話に加わった。子供たちに今日幼稚園で何を学んだかを聞き、莉奈に母親の病状を尋ねた。
四人は和気あいあいと笑い合い、穏やかな雰囲気に包まれていた。
まるで彼らこそが本当の家族であるかのように。
一方の結衣は、間違って入り込んでしまった部外者のように、彼らの世界から完全に隔離されていた。
猛スピードで後ろへ流れていく窓の外の街並みを見つめながら、結衣は胸の空洞がどんどん広がり、骨の髄まで凍りつくような寒さを感じていた。
これが、私が自己を犠牲にし、苦心して維持してきた家庭なのだろうか。
あまりにも滑稽だった。
車が交差点に差し掛かったその時、横から一台の乗用車が突然コントロールを失い、赤信号を無視して突っ込んできた。
ドンッ――!
激しい衝突音が響き渡った。
結衣は体が激しく宙に投げ出され、再び重く叩きつけられるのを感じた。額や体中のあちこちから激痛が走り、生温かい血が視界をぼやけさせた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。救急車の甲高いサイレンの音が近づいてくる。救急隊員の声が聞こえた。
「こっちだ!負傷者をすぐに病院へ!」
ストレッチャーが近づく音がしたが、次の瞬間、二つの影に遮られた。
「莉奈おばちゃんを先に助けて!」
泣き声を交えながらも、異常なほど頑なな悠真の声だった。
「血がいーっぱい出てるの!気絶して動かないんだよ!」
第3話
「坊や、お母さんの方が重傷なんだ。脳内出血の可能性があって、すぐに緊急処置が必要なんだよ!」
「いやだ!先に莉奈おばちゃんを助けて!」
結愛も金切り声を上げた。
「先に莉奈おばちゃんを助けて!」
救急隊員は困り果てているようだった。
その時、蒼真の低く掠れた声が響いた。そこには有無を言わせぬ決断が込められていた。
「莉奈を先に」
「でも九条さん、奥様の方が……」
「俺の言う通りにしろ!次の救急車がすぐに来るだろう」
蒼真の声は急に高くなり、焦燥と命令の色を帯びていた。
慌ただしい足音が響き、ストレッチャーが運び出された。
結衣は最後の力を振り絞り、血で覆われた目をわずかに開けた。
ぼやけた視界の中で、蒼真が気を失った莉奈を抱きかかえ、子供たちに囲まれながら、ストレッチャーと一緒にあの救急車に乗り込むのが見えた。
彼女を一人、事故現場に取り残して。
意識が完全に暗闇に沈む前、彼女はふとずっと昔のことを思い出した。
ある時、果物を切っていて誤って指を切ってしまったことがあった。
ほんの小さな切り傷だったが、蒼真はひどく慌てて、数億円の契約の商談を即座に放り出し、自分を車に乗せて病院へ消毒に行った。
道中、彼は眉をひそめたまま、「痛くないか?」と何度も自分に尋ねた。
まだ子供たちが幼かった頃、蒼真は彼らを抱きかかえ、自分を指差してこう言ったこともあった。
「悠真、結愛、覚えておきなさい。これがママだ。お前たちは大人になったら、一緒にママを守るんだぞ、わかったか?」
二人はその時、よくわかっていない様子で頷き、自分の胸に飛び込んで、舌足らずな声で「ママを守る!」と言った。
それが今はどうだ。
子供たちは救急車を引き止め、莉奈を先に救えと言っている。
そして二人の父親、命を懸けて自分を守ると誓った男は、自らの手であの女を先に救うことを選んだ。
自分がここで血を流し尽くすのを見捨てて。
そうか、人の心は本当に変わるのだ。
愛は、本当に消えてしまうのだ。
再び目を覚ますと、そこは病院だった。
結衣がゆっくりと目を開けると、ベッドの脇に蒼真と子供たちがいるのが見えた。
彼女が目を覚ましたのを見て、蒼真は安堵の息をついたようだった。
「結衣、気がついたか?体の具合はどうだ?」
彼の気遣いは、今の結衣には限りなく白々しく、吐き気を催すものにしか聞こえなかった。
「あの時……あなたは私を救わないことを選んだ。今更、白々しく心配してみせる必要があるの?」
蒼真の表情がこわばった。
「莉奈は体が弱く、気を失っていた。緊急事態だったんだ。俺はただ……状況を天秤にかけて、最も確実な選択をしただけだ。結衣、わかってくれ」
わかってくれ?
何を理解しろと言うのか。
事故現場で自分を見殺しにし、軽傷で気を失っただけの女を助けに行ったことを理解しろと言うのか。
その時、一人の看護師がノックをして入ってきた。
「九条さん、水城さんが目を覚まされました。少し情緒不安定で、ずっとあなたを探しておられます……」
蒼真はすぐに立ち上がった。
「結衣、ゆっくり休んでいてくれ。俺は……先に莉奈の様子を見てくる。悠真、結愛、ここでママのそばにいてやりなさい」
そう言うと、彼は足早に病室を出て行った。
子供たちは残されたものの、明らかに上の空だった。
悠真はしきりにドアの方を見つめ、結愛はキッズ携帯をいじりながら小さな声で呟いた。
「莉奈おばちゃん、大丈夫かな……」
その様子を見て、結衣は胸を締め付けられ、たまらず口を開いた。
「もし……もしママとパパが離婚したら、あなたたちはどっちについて行くの?」
子供たちは同時に顔を上げ、きょとんとした。
悠真の目が先に輝き出した。
「離婚?それって、ママとパパがバイバイして、一緒に住まなくなるってこと?」
結愛も身を乗り出した。
「じゃあ、パパは莉奈おばちゃんと一緒にいられるの?」
結衣が答える前に、悠真が遮るように言った。
「それなら絶対にパパと行く!だってパパと一緒なら、毎日莉奈おばちゃんに会えるもん!」
結愛も力強く頷いた。
「うん!私もパパと莉奈おばちゃんと一緒にいる!」
その言葉の数々が、重いハンマーのように、すでに粉々に砕け散った結衣の心に容赦なく打ち下ろされた。
彼女は信じられない思いで、自分のお腹を痛めて産んだ目の前の二つの小さな命を見つめ、声を震わせた。
「つまり……私よりも、水城の方が好きだってこと?」
「当たり前じゃん!」
悠真が即座に言い放った。
「莉奈おばちゃんはたくさんのおもちゃで遊んでくれるし、遊園地にも連れてってくれるよ。ママなんて、いつも『お仕事終わるまで待ってて』って言うくせに、いつまでたっても終わらないじゃない!」
結愛も小さな声で付け加える。
「莉奈おばちゃんは可愛いスカートを着せてくれるし、お菓子もくれるし、テレビも見せてくれるもん。ママはいつも、お菓子も食べちゃダメって言う……」
二人は莉奈の数々の良いところと、実の母親である結衣の数々の悪いところを並べ立てた。
それを聞きながら、結衣の心は少しずつ沈んでいった。
家庭のため、仕事との両立のために疲弊し奔走していた間に、子供たちは、別の女の計算し尽くされた優しさにすっかり手懐けられていたのだ。
その時、結愛が悠真の袖を引っ張り、小さな声で言った。
「お兄ちゃん、パパあそこに一人でいるけど、莉奈おばちゃんのことちゃんとお世話できるかな……ちょっと心配だから、私たちも莉奈おばちゃんのところに行こうよ?どうせ……ママはもう大丈夫みたいだし」
悠真はすぐに頷いた。
「僕も莉奈おばちゃんが心配だ!行こう、早く行こう!」
二人はそう言いながら、外へ向かって走り出そうとした。
振り返った時、悠真が誤ってベッドサイドテーブルの上の電気ポットにぶつかってしまった。
電気ポットが倒れ、中の熱湯が一瞬で溢れ出し、結衣の薄い布団がかかった足に容赦なく降り注いだ。
「きゃああっ――!」
焼けつくような激痛に結衣は悲鳴を上げ、顔色は一瞬にして蒼白になった。
二人はこの予想外の出来事に驚き、振り返って苦痛に顔を歪める結衣を見た。
結愛が小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃん……どうしよう?ママ、アチチってなっちゃった……」
悠真は一瞥すると、結愛の手を引いた。
「ちょっとアチチってなっただけだよ、平気だよ。早く行こう、莉奈おばちゃんの方が僕たちを待ってる!」
そう言うと、彼は本当に、何度も振り返る結愛の手を引き、一度も振り返ることなく病室から走り去ってしまった。
結衣は痛みに全身を震わせ、額には一瞬で冷や汗が浮かんだ。
彼女はただ苦痛に耐えながら手を伸ばし、ベッドサイドのナースコールを押すしかなかった。
すぐに看護師が駆けつけ、彼女の状況を見て息を呑み、慌てて医師を呼んで処置に当たらせた。
水疱の洗浄、薬の塗布、包帯の交換。
すべての処置の間、結衣は歯を食いしばり、一言も発さなかった。ただ涙だけが音もなく流れ落ちていた。
看護師は処置をしながら、たまらずため息をついた。
「橘さん、どうしてそばに誰も付き添っていないんですか?熱湯の火傷はあなどれませんよ。感染したら大変なことになりますから」
結衣は目を閉じたまま、何も答えなかった。
看護師はさらに愚痴をこぼした。
「はあ、隣のVIP病室の水城さんだって、同じ交通事故で運ばれてきたのに、ただの軽傷なんですよ。それなのにご主人とお子さんたちが、一歩も離れずにずっと付き添っていて、すごく心配されてるんです。同じ人間なのに、運命が違うなんて……」
結衣は何も言わず、ただ低く笑い始めた。笑い声は掠れていたが、涙はさらに激しく溢れ出た。
看護師が去った後、病室は死んだような静寂に包まれた。
結衣は病床に横たわり、真っ白な天井を見つめていた。その瞳は少しずつ冷たく、そして確固たるものに変わっていった。
彼女はスマートフォンを取り出し、新聞社の上司の番号に発信した。
「社長、橘結衣です」
「おお、橘さんか。体調は良くなったか?交通事故に遭ったと聞いたぞ。ゆっくり休んで、仕事のことは後回しでいいから……」
「社長」
結衣は彼の言葉を遮り、感情のない平坦な声で言った。
「私、戦場ジャーナリストに志願したいんです」
第4話
電話の向こうで明らかに言葉を失う様子が伝わってきた。
「戦場ジャーナリスト?橘さん、どうして急に……あそこがどれだけ危険か分かっているのか!銃弾が飛び交う戦場だぞ。それに環境も過酷だ、君のような女性が……」
「それは私の大学時代からの夢でした」
結衣は静かな声で言った。
「ただ後になって……家庭のために諦めていました。でも今、その夢を叶えに行きたいんです」
「だが橘さんには今、旦那さんがいて、二人の子供がいる。円満な家庭があるのに、わざわざそんな危険を冒す必要があるのか?仮に君が行きたいと言っても、家族が反対するだろう!」
結衣は口角をわずかに引き上げ、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「社長、私、離婚する予定なんです。子供たちは……向こうが引き取ります。もう決めたことですから」
電話の向こうはしばらく沈黙した。明らかにこの知らせに衝撃を受けているようだった。
ついに、社長はため息をついた。
「はあ、それは橘さんのプライベートなことだから、私も深くは詮索できない。君がそう決断したのなら……わかった、上に報告しておこう。この数日間はしっかりと怪我を治して、準備をしておいてくれ。月末には出発だ」
「ありがとうございます、社長」
電話を切った後、結衣は再び弁護士の番号に発信した。
「佐藤弁護士、お願いします。離婚協議書の作成をお願いしたいんです。子供たちの親権は相手方に渡し、私は放棄します。財産分与は法に則って、私が受け取るべき正当な分だけを。できるだけ早く、できれば……月末までに離婚手続きを済ませたいんです」
すべての手配を終え、彼女は疲れたように目を閉じた。
心の中の荒れ果てた荒野に、ついに自由で、しかし冷たい風が吹き抜けた。
その後の数日間、蒼真と子供たちは二度と姿を見せなかった。
結衣の誕生日を迎えるまで。蒼真はおそらく埋め合わせのためか、あるいは表面上の平穏を保つためか、彼女のためにかなり盛大な誕生日パーティーを準備した。
パーティーの席に、招かれざる莉奈は現れた。
彼女は薄いピンクのドレスに身を包み、完璧なメイクを施して、しなやかな足取りで結衣の前に歩み寄り、綺麗に包装されたプレゼントの箱を差し出した。
「結衣さん、お誕生日おめでとうございます。私たちがこんなに縁があるなんて思ってもみませんでした。まさか同じ誕生日だなんて」
同じ誕生日?
子供たちはすぐに驚いた顔で莉奈を見た。
「莉奈おばちゃんも、今日がお誕生日なの?どうして早く教えてくれなかったの?」
悠真はすぐに蒼真の方を向いた。
「パパ!今日は莉奈おばちゃんのお誕生日でもあるんだって!だったら……このパーティー、ママと莉奈おばちゃん、二人のお祝いにしちゃおうよ!いいでしょ?」
結愛も蒼真の手を引っ張って揺さぶった。
「パパ、お願い!莉奈おばちゃんが一人でお誕生日を過ごすなんて可哀想だよ!」
蒼真は子供たちの期待に満ちた眼差しを見て、隣で沈黙している結衣に目をやり、顔に一瞬の躊躇を浮かべた。
彼は結衣のそばに寄り、声を潜めて相談した。
「結衣、子供たちもこう望んでいることだし……莉奈も今日は確かに一人なんだ。どうだろう……一緒に祝わせてあげないか?これがお前にとって不本意なのはわかっているが、でも……」
「いいわよ」
結衣は彼の言葉が終わるのを待たずに、平然と一言だけ言い放った。
蒼真は呆然とし、用意していた様々な説得の言葉が喉に突っかかった。
「……そんなに簡単に同意するのか?」
彼は信じられないという表情だった。
「気にならないのか?」
彼は結衣が騒ぎ立てると思っていた。以前のように、目を赤くして問い詰め、えこひいきだと訴えるものだと。
結衣をどうなだめるか、どう理屈を説明するかまで考えていたのだ。
それなのに、彼女はあっさりと承諾した。
結衣は血の気のない唇を引きつらせ、温度のない笑みを浮かべた。
「あなた、理由を説明したでしょう。水城はただ子供たちのピアノの先生で、あなたたちには何もない。ただ子供たちを通じての接点があるだけだと。私が何を気にする必要があるの?」
彼女は言葉を区切り、顔を上げて彼を見つめた。その瞳は凪のように静まり返っていた。
「安心しなさい、蒼真。
これからはもう、二度と騒ぎ立てたりしないから」
なぜだろうか。彼女がこれほど物分かりが良く、これほど寛大になったというのに、蒼真の心は激しく沈み込み、強烈な不安と焦燥感がかすめた。
彼女の様子はあまりにも平穏すぎた。何もかもを気にしていないかのように平穏だった。
自分と子供たちが莉奈に優しくすることも気に留めず、そして……自分達自身のことすらも。
第5話
「パパ!」
悠真が蒼真の袖を引っ張り、思考を遮った。
「見て、莉奈おばちゃんが腕をさすってる。寒いのかな?莉奈おばちゃんに上着を取りに行こうよ!」
蒼真は我に返り、少し離れたところで招待客と談笑している莉奈を見た。確かに彼女はわずかに腕を抱えていた。
おそらく自分の考えすぎだろう。結衣は自分を深く愛し、子供たちを愛し、この家庭を愛しているのだから、気にしていないはずがない。
ただ……一時的にすねているだけか、あるいは本当に吹っ切れたのだろう。
彼は胸に湧き上がる言い知れぬ苛立ちを押し殺し、子供たちを連れて莉奈のショールを取りに向かった。
蒼真と子供たちが離れていくのを見て、莉奈の顔に浮かんでいた穏やかな笑みが少し薄れた。
彼女はワイングラスを手に、しなやかな足取りで結衣のそばに歩み寄った。
「橘結衣、見たでしょう?あなたの夫も、あなたの子供たちも、今は私の周りを回っているのよ。あなたはまるで滑稽なピエロみたい。自分の誕生日すら私と共有しなければならないなんて。どんな気分かしら?」
結衣は相手にする気になれず、振り返ってその場を離れようとした。
しかし、莉奈は彼女の手首を強く掴んだ。爪が肉に食い込むほどの強さだった。
「何を急いでいるの?私の話はまだ終わってないわよ!」
莉奈は彼女に近づき、甘い笑みを浮かべながらも、毒を含んだ声で言った。
「橘結衣、聞いたわよ。あなたの母親は昔、夫の不倫が原因で飛び降り自殺したんだってね。何年経っても、あなたは母親と同じ、男を引き留められない負け犬ね!
あなたは親孝行だから、お母さんの頼りになれるけど、あなたの子供たちの場合になったら……あははは……」
パァン――!
澄んだ平手打ちの音が、莉奈の頬に容赦なく響き渡った。
結衣は彼女の手を振り払い、氷の刃のような冷たい視線を向けた。
「水城莉奈、私はずっと我慢してきた。次に母のことを一言でも口にしたら、その口を引き裂いてやる!」
莉奈は叩かれた勢いで顔を背け、頬は瞬く間に赤く腫れ上がった。
彼女は頬を押さえ、目には一瞬で涙をいっぱいに溜めたが、いつものように悲鳴を上げることはなく、むしろ思い通りになったかのような笑みをわずかに浮かべた。
なぜなら、蒼真と子供たちがショールを持ち、こちらに向かって歩いてきていたからだ。
「何をしているんだ!」
蒼真は莉奈の赤く腫れた頬と結衣の冷たい表情を見て、すぐに眉をひそめた。
莉奈の涙は瞬時にこぼれ落ち、蒼真の胸に飛び込んで、嗚咽と悲痛な声を上げた。
「蒼真さん、結衣さんは悪くないの……私が悪いのよ。うっかりシャンパンを結衣さんのドレスにこぼしちゃって……叩かれても仕方ないわ……」
子供たちは即座に激怒した。
悠真は結衣を指差し、大声で非難した。
「シャンパンがちょっとこぼれただけじゃない!どうして莉奈おばちゃんをぶったりするんだよ!」
結愛も怒りで顔を真っ赤にしていた。
「悪い女!私たち、ママなんて大嫌い!」
蒼真は腕の中で泣く莉奈を見て、そして無表情な結衣を見た。怒りの炎が頭へと突き抜けた。
「結衣!今日は随分と寛大になったと思っていたが、この時のために待っていたのか。すべての怒りを莉奈にぶつけるためだったとは!
誕生日パーティーを合同にするよう言ったのは俺だ!何か不満があるなら俺にぶつけろ!どうして関係ない人に八つ当たりするんだ!」
結衣は目の前で怒りに震える男を見つめた。心臓を彼の言葉で深くえぐられたようで、息ができないほどの痛みに襲われた。
彼女は口を開き、何かを言おうとした。
「蒼真さん!もう喧嘩しないで!」
莉奈は絶妙なタイミングで前に進み出て、涙を流しながら蒼真を止めた。
「全部私が悪いの!来るべきじゃなかった……私が結衣さんの誕生日パーティーを台無しにしてしまったのよ……私……今すぐ帰るわ!」
そう言うと、彼女は顔を覆い、泣きながら振り返って宴会場を走り去った。
「莉奈おばちゃん!」
「莉奈おばちゃん、行かないで!」
子供たちはすぐに叫びながら後を追った。
蒼真は結衣をきつく睨みつけ、「自分が何をしでかしたかよく見ろ!」と吐き捨てると、足早に後を追いかけていった。
周囲の招待客たちの様々な視線を一身に浴びながら、結衣はただ一人、その場に取り残された。
彼女はただ極度の疲労を感じ、誰の噂話にも耳を貸さず、自分のバッグを手に取り、この名ばかりの誕生日パーティーから静かに立ち去った。
家に帰り、疲労と酒の匂いを洗い流す。
結衣は早々にベッドに入った。蒼真と子供たちがいつ帰ってきたのか、知らなかったし、関心もなかった。
真夜中になるまで。突然、ガサガサという物音で目を覚ました。
目を開けると、窓の外の微かな月明かりを頼りに、悠真と結愛がいつの間にか彼女の部屋に忍び込み、手に持った縄で彼女の手足を縛り付けていることに気がついた。
「何をしてるの!」
結衣は勢いよく上半身を起こした。
二人は驚いたようだったが、すぐに悠真の顔に、その年齢には似つかわしくない憎しみを帯びた表情が浮かんだ。
「何をしてるの?今日、莉奈おばちゃんをぶって、お外でずーっと泣かせたじゃない!パパがいっぱいヨシヨシして、やっと泣き止んだんだよ!僕たち、莉奈おばちゃんがあんなに悲しむの、見たことないよ!
この悪い女!僕たちが莉奈おばちゃんの仕返しをしてやる!」
結愛はポケットからハンカチを取り出した。月明かりの下で、そこに細かい粉末が付着しているのがかすかに見えた。
「ママ、お花がダメなんだよね?このハンカチに、花粉をいーっぱいつけたの……絶対に、すっごく苦しくなるよ。これで反省して、二度と莉奈おばちゃんをいじめないでね!」
結衣の瞳孔が急激に収縮した。
彼女は重度の花粉アレルギーで、一度発作が起きれば気道の痙攣や窒息を引き起こし、最悪の場合は命に関わる危険があった。そのことは、最も親しい家族しか知らないはずだった。
それなのに、彼らはこれを使って自身を懲らしめようとしているのか。
彼女は全身を震わせ、まだ我に返る間もなかった。次の瞬間、悠真と結愛は協力して、花粉がたっぷりついたハンカチを、結衣の口と鼻に力一杯押し当てた。
「ううっ――!!」
強烈な花粉の匂いが一瞬で侵入してきた。
結衣は必死に抵抗したが、二人は決心したかのように、全身の力を込めて彼女を押さえつけていた。
窒息感が急激に襲いかかる。喉が無数の手で首を絞められているようになり、肺は焼け焦げるように痛み、目の前が真っ暗になっていった。
第6話
二人は、結衣の顔色がみるみる赤紫色に変わり、ヒューヒューと恐ろしい音を立てて呼吸し始めたのを見て、ようやく事の重大さに気づいたようだった。慌てて手を離し、ハンカチを放り投げ、縄を解けると、パニックになって部屋から逃げ出した。
「ゴホッ……ゴホッ、ゴホッ!!」
結衣は激しく咳き込み、貪るように空気を吸い込もうとしたが、気道はすでにひどく腫れ上がっていた。
薬……アレルギーの薬!
彼女はよろめきながらベッドから這い出し、手探りでベッドサイドテーブルの引き出しを開けた。そこには緊急用のアレルギー薬の吸入器を常備している。
あった!
震える手で吸入器を取り出したその瞬間。
バンッ!
再びドアが乱暴に開けられ、悠真と結愛が戻ってきた。
結衣の手にある吸入器を見るやいなや、悠真は目を吊り上げ、飛びかかってきてそれを奪おうとした。
「お薬、使っちゃダメ!いーっぱい苦しくなって、ちゃんとはんせいしてよ!そしたら、もう莉奈おばちゃんをいじめないでしょ!」
「返しなさい……ゴホッ……」
結衣は命綱である吸入器を死に物狂いで握りしめた。
揉み合いに結愛も加わり、悠真と協力して力一杯引っ張った。
チャポンッ。
小さな吸入器は手から滑り落ち、宙に弧を描いて、蓋の開いたトイレの便器の中に正確に落ちてしまった。
「いやっ――!!」
結衣は絶望的な叫び声を上げた。
便器に飛びつこうとしたが、すでに窒息感で目の前が真っ暗になり、四肢から力が抜け落ちていた。
最後の意識が途切れる直前、彼女は結愛と悠真が戸口に立ち、冷たい視線を投げかけてから、振り返りもせずに走り去っていくのを見た。
次に目を覚ました時、喉と胸は相変わらず焼け焦げるように痛かったが、呼吸はずいぶん楽になっていた。
ベッドの脇には、心配そうな顔をした使用人の鈴木千恵子(すずき ちえこ)が立っていた。
「奥様!ようやくお気づきになりました!」
千恵子は目を赤くしていた。
「家の中に花なんて飾っていないのに、どうして急に花粉アレルギーの発作なんて……旦那様が夜遅くに帰ってきて、異変に気づいてくださらなかったら……」
結衣は目を閉じ、何も答えなかった。
蒼真が気づいた?だとしたら彼は、誰が自分のアレルギーを引き起こしたのか知っているのだろうか。
「鈴木さん」
彼女は口を開いたが、その声はひどく掠れていた。
「悠真と結愛を呼んできて」
千恵子は少し躊躇したが、言われた通りにした。
すぐに、子供たちがぐずぐずと入ってきた。ベッドから数歩離れたところに立ち、うつむいたまま、彼女と目を合わせようとしない。
結衣は二人を見つめた。自分の体から生まれた命。かつて、持てるすべての愛情と心血を注いで守り育てた子供たち。
しかし今、彼女が感じるのは、骨の髄まで凍りつくような寒気だけだった。
「私を見なさい」
声は大きくなかったが、そこには冷ややかな強さがあった。
二人はゆっくりと顔を上げたが、その視線は泳いでいた。
「昨夜のこと、何か言うことはないの?」
結衣は尋ねた。
悠真は唇を噛み締め、黙っている。結愛は小さくすすり泣き始めた。
「どうして?」
結衣の声は震え始めた。
「私はあなたたちの母親なのよ!十ヶ月間お腹で育てて、命がけであなたたちを産んだの!初めての母乳を飲ませて、初めての言葉を教えて、初めて歩くのを助けたのは私よ!
あなたたちに最高の暮らしをさせたくて、一生懸命働いてきたの!私が一体どんな悪いことをしたっていうの!花粉で私を殺そうとするなんて……!」
言葉を紡ぐほどに感情が高ぶり、悲痛と絶望が入り混じった涙がとめどなく溢れ出た。
「わざとじゃないよぅ……」
悠真が小さな声で弁明した。
「わざとじゃないですって!?」
結衣は猛然と声を張り上げ、感情の高ぶりでまた激しく咳き込んだ。
「花粉まみれのハンカチを私の顔に押し当てるのが!?アレルギーの薬を奪って便器に捨てるのが!?悠真、結愛、あなたたちはまだ五歳よ!誰がそんなことを教えたの!?水城なんでしょう!?」
「莉奈おばちゃんじゃないもん!」
悠真が即座に反論した。
「僕たちが自分でやったの!ママが莉奈おばちゃんに意地悪するからだもん!」
「そうよ!」
結愛も泣き叫んだ。
「私たち、ママなんて大っ嫌い!いつも莉奈おばちゃんに意地悪ばっかりするから!」
あの女をここまで庇い、あまつさえ実の母親を殺そうとすらする二人を見て、結衣の中の最後の未練も完全に砕け散った。
彼女はベッドから身を起こした。衰弱と怒りで、体はわずかに揺れていた。
「わかった……いいわ!あなたたちが私をそんなに悪い人間だと思っているなら、今日は私がしっかりと教えてあげる。親に対する口の利き方と、やっていいことと悪いことの区別をね!
鈴木さん、竹の物差しを持ってきて」
千恵子は驚いて跳び上がった。
「奥様、それは……」
「早く!」
千恵子は恐る恐る物差しを取りに行かざるを得なかった。
結衣は冷たい竹の物差しを握りしめ、目の前で顔面蒼白になっている二人を見た。心は刃物でえぐられるように痛んだが、無理やり心を鬼にした。
「手を出しなさい」
悠真は首をすくめて動かず、結愛は恐怖で彼の後ろに隠れた。
結衣が物差しを振り上げ、まさに振り下ろそうとしたその時――
「やめて!!!」
突然、莉奈の声が響き渡った。
彼女は風のように部屋に飛び込んでくると、両腕を広げ、二人を自分の後ろにしっかりと庇った。
「結衣さん!叩くなら私を叩いてください!子供たちから聞きました。私を庇おうとしたって……全部私が悪いんです。気が済むまで私を叩いてください、子供たちを怖がらせないで!」
莉奈の白々しい演技を見て、結衣は吐き気がした。
「消えなさい」
「嫌です!」
莉奈は子供たちをきつく抱きしめた。
「子供たちはまだ小さくて、何も分かっていないんです。こんなふうに扱っちゃダメです!」
「消えなさいと言っているのよ!」
結衣の我慢は限界に達し、前に立ちはだかる莉奈の手を猛然と振り払った。
莉奈は短い悲鳴を上げ、勢い余って後ろに倒れ込んだ。その腕がちょうどテーブルの角にぶつかり、痛みに顔を青ざめさせた。
「何をしているんだ!!」
戸口で蒼真の怒鳴り声が響き渡った。
彼が大股で踏み込んでくると、真っ赤に腫れ上がった腕を押さえて痛みに涙を流す莉奈と、その後ろで震え上がり、涙まみれになった子供たちが目に入った。
そして結衣は、手に物差しを持ち、青筋を立てて冷酷な目をしていた。
「結衣!」
蒼真は歯を食いしばるようにして彼女の名前を絞り出した。その瞳には恐ろしいほどの怒りが宿っていた。
「いつまで騒ぎ立てるつもりだ!!」
莉奈はすぐさま泣きながら蒼真の胸に飛び込んだ。
「蒼真さん、結衣さんは悪くないの……子供たちが昨夜……悪いことをしてしまって、結衣さんはそれを叱ろうとしていたの。私が……私が止めきれなかったせいで……」
蒼真は彼女を抱き寄せ、結衣をさらに氷のように冷たい視線で睨みつけた。
「子供たちから全部聞いたぞ!お前が昨日莉奈を叩いたから、お前を懲らしめようとしたんだ!元を正せばお前が悪いんじゃないか!お前が心が狭くて人を許せないから、子供たちがこんなことをしでかすんだ!!」
彼は結衣の手にある物差しを指差し、冷酷な声で言った。
「今度は何だ。物差しを持ち出して、子供たちにまで手を上げる気か!?莉奈にまでこんな怪我を負わせて!?結衣、本当にやりたい放題だな!
いいだろう、罰を与えるのがそんなに好きなら、地下室に行って、しっかり反省してこい!おい!結衣を地下室へ連れて行け!俺の許可があるまで出すな!」
第7話
二人の護衛が声に応じて入室し、無表情のまま結衣に向かって歩いてきた。
結衣は必死に抵抗したが無駄だった。護衛になすがままにされ、部屋から連れ出された。
閉じ込められた地下室は狭く、窓もない。薄暗い裸電球が一つぶら下がっているだけの空間だ。
彼女が幼い頃から暗闇と閉所を極端に恐れていること。そのことを、蒼真は知っていたはずだ。
それなのに今、彼自身の手で彼女をここに閉じ込めた。
どれくらいの時間が経っただろうか。彼女が朦朧とし、暗闇と静寂に気が狂いそうになっていたその時、地下室のドアがわずかに開いた。
二つの小さな人影が、こっそりと忍び込んできた。
悠真と結愛だ。
二人の手には黒い袋が握られており、その顔には恐怖と悪戯のような興奮が入り混じっていた。
「ママ、パパがここに閉じ込めたのはね、はんせいさせるためだって。でもね……僕、それだけじゃ足りないって思うの」
「莉奈おばちゃんが言ってたよ……ママは暗いところも、こういうのも怖いんでしょ?って……だからね、お友達を連れてきてあげたの……」
そう言うと、彼らは手に持っていた布袋を、結衣に向かって力一杯投げつけた。
袋の口が開き、中から十数匹のヌメヌメとした冷たい、うごめく小さな蛇と、キーキーと鳴くネズミが瞬飛び出し、結衣に向かって這い進んできた。
「いやあああっ――!!」
結衣は極限の恐怖から凄絶な悲鳴を上げた。
彼女はパニックになって飛び退き、必死に逃げ惑ったが、地下室はあまりにも狭すぎた。恐ろしい動物たちが絶えず彼女の足首に触れ、腕を這い上がってくる。
暗闇、閉所、それに加えて身の毛のよだつような動物たち……まさに究極の拷問だった。
彼女は地下室の隅にうずくまり、全身を震わせた。涙が狂ったように溢れ出たが、声は一切出なかった。極限の恐怖が彼女の喉を締め付けていたのだ。
ドアのところで、中にいるパニック状態の結衣を見つめながら、悠真と結愛は顔を見合わせ、あろうことか「やっつけてやった」という快感すら浮かべていた。
そして二人は、こっそりとドアを閉めた。
結衣と蛇やネズミたちを、終わりのない暗闇と恐怖の中に一緒に閉じ込めたのだ。
地下室のドアが再び開いた時、結衣は顔色を青ざめ、視線の焦点も定まらず、壊れる寸前だった。
連れ出された後、彼女は自分を寝室に閉じ込め、誰にも会わなかった。
食事すら、使用人の千恵子が恐る恐るドアの隙間から差し入れる状態だった。
そして今日、突然悠真と結愛が彼女の部屋のドアをノックした。
二人はドアの前に立ち、うつむきながら、不器用な字で書かれた謝罪のカードを手に持っていた。
「ママ……僕たち、ごめんなさい」
悠真が小さな声で言った。
「許してくれないの?……これからは、いい子にするから」
結愛も目を赤くして言った。
「一緒にパズルしよ?新しく買ったんだけどね、難しくって……」
二人の態度の突然の豹変に、結衣の心には微塵の感動も生まれず、ただ冷ややかな警戒心だけが湧き上がった。
彼女はドアを開けることなくベッドに戻り、スマートフォンを手に取ってLINEタイムラインを開いた。
やはりだ。
莉奈は十分前、新しい投稿をしていた。
きれいに編集された短い動画だった。
背景はロマンチックな高級レストラン。キャンドルの光が揺らめき、そばでバイオリニストが演奏している。
動画の中で、蒼真は莉奈の向かいに座り、優しくステーキを切ってあげている。
莉奈は頬杖をつき、甘い笑顔で彼を見つめていた。
投稿文には「ハッピーバレンタイン。あなたと一緒にいられて、特別な日になりました。♡」とあった。
なるほど。
結衣は口角を引きつらせ、冷ややかな笑みを浮かべた。
子供たちの突然の歩み寄りと謝罪は、ただ自分を引き留め、蒼真と水城のバレンタインデートを邪魔させないための時間稼ぎに過ぎなかったのだ。
これが、自身がお腹を痛め、命がけで産んだ子供たちなのか。
これが、自身が十数年愛し、一生を共にできると信じていた夫なのか。
結衣は蒼真とのトーク画面を開き、その投稿動画を転送した。
【末永くお幸せに】
ほぼ次の瞬間、蒼真から電話がかかってきた。
結衣は出なかった。
すぐに、蒼真からメッセージが届いた。
【結衣、また何をバカなことを言っている。末永くお幸せにとは何だ。前回お前が莉奈に手を上げたから、俺がお前の代わりに謝罪し、食事に誘っただけだ。たまたまバレンタインデーと重なっただけだ。理不尽に騒ぎ立てるな。夜にはプレゼントを買って帰るから】
代わりに謝罪?食事?たまたまバレンタインデー?
結衣は自嘲気味に笑い、スマートフォンの電源を切り、寝室のドアにも鍵をかけた。ドアの向こうで焦って叫び、ドアを叩く子供たちの声を完全に遮断した。
夕方になり、寝室のドアがバンッと激しい音を立てて蹴破られた。
蒼真が怒り狂った様子で踏み込んできた。顔色は真っ青で、目からは火を吹きそうな勢いだった。
「結衣!俺、説明したはずだ!前回お前が莉奈をあんな目に遭わせたから、申し訳なく思って食事で償おうとしただけだ!たまたまバレンタインデーだっただけだ!どうしてお前はそんなに悪質なんだ!どうしてあの動画を週刊誌の記者に売ったりしたんだ!
今、ネット上は莉奈が不倫相手だという報道で溢れ返っている!莉奈がそのニュースを見てショックを受け、自殺を図ったのを知っているのか!」
第8話
自殺を図った?
結衣はゆっくりと顔を上げ、目の前で怒り狂う蒼真を見た。ただただ荒唐無稽で、ひどく滑稽に思えた。
彼女は口角をわずかに引き上げ、波一つない静かな声で言った。
「第一に、私は週刊誌になんて売っていないわ。第二に、あの動画はあの女自身がタイムラインに投稿したものよ。自分から発信しておきながら、他人に言われるのが怖いの?」
「お前っ!」
蒼真は全く取り付く島もない彼女の態度に、額の青筋をピクピクとさせた。
「結衣!莉奈を死に追いやらないと気が済まないのか!莉奈は純粋で優しい女だ。そんな裏の事情なんて何も分かっちゃいない!
彼女はただタイムラインを更新しただけだ。それを悪意を持って動画を流出させたのはお前だ!今や世界中が彼女を不倫女だと罵っている!これから彼女はどうやって生きていけばいいんだ!」
結衣は冷ややかな目で彼を見つめた。
「あの女が不倫相手かどうか、あなた自身が一番よく分かっているんじゃないの?」
「俺と彼女は潔白だ!」
蒼真は低く吠えた。
「言ったはずだ。あの夜だけだ、それから俺は彼女に指一本触れていない!結衣、いつまでこの件にこだわり続けるつもりだ!
事態が大きくなりすぎた。このままでは莉奈の名誉に関わる。俺は記者会見をセッティングした。お前は今すぐそこへ行き、全国民の前で彼女に謝罪しろ!さもなければ、これは二度と戻らないと思え!」
彼はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を表示させて結衣の目の前に突きつけた。
それは、結衣の母親が遺してくれたクリスタルのブローチだった。祖母の形見でもあり、母親が生前最も大切にしていたもので、ずっと銀行の貸金庫に預けてあったはずだ。
蒼真は冷酷な声で言った。
「もし記者会見に行かず、俺の要求通りに謝罪と釈明をしないなら。このブローチには、永遠にお目にかかれないと思え。俺は本気だぞ」
結衣は写真に写る見慣れたブローチを見つめ、全身が氷の穴に突き落とされたように冷え切った。
蒼真はあろうことか……母親の形見を使って脅しているのか?
それも、他の女のために……
「蒼真……」
結衣の声は、極限の苦痛と衝撃によって震え、途切れ途切れになった。
「あなた、それでも人間なの……」
蒼真は視線をそらしたが、その口調は相変わらず強硬だった。
「選択権はお前にある。謝罪に行けば、ブローチは返す。行かなければ、結果は自分で責任を取れ」
結衣は彼の冷酷な横顔を見つめ、半生を懸けて愛したこの男を見つめた。最後のかすかな火種すらも完全に消え去り、そこには冷たい灰だけが残っていた。
「分かったわ」
彼女は自分の声を聞いた。恐ろしいほど平坦な声だった。
「行くわ」
記者会見は九条グループ本社ビルにある会議場で行われた。
会場には大勢の記者が詰めかけ、カメラの砲列が壇上の結衣に向けられていた。
彼女は地味な服を着て、青白い顔に虚ろな目を浮かべ、蒼真のアシスタントが用意した原稿を読み上げていた。
「この度、インターネット上で流布されている水城莉奈様への事実無根の噂につきまして、ここに謹んで訂正いたします。水城様は決して不倫相手などではなく、私の夫である九条蒼真とは単なる友人関係に過ぎません。
すべての噂は、私の嫉妬心に起因するものです。私が二人の関係を誤解し、事実とは異なる情報を拡散したことで、水城様の名誉を著しく傷つけてしまいました。
私は深く恥じ入り、自責の念に駆られております。ここに、水城様ならびにご家族の皆様に対し、心より深くお詫び申し上げます……
どうか皆様には、これ以上誤った情報を拡散されることなく、水城様の平穏な生活を取り戻していただけますようお願い申し上げます……」
結衣の声は機械的で一本調子だった。まるで自分とは無関係の判決文を読み上げているかのようだった。
客席ではフラッシュが絶え間なく焚かれ、記者たちの質問は鋭く、そして辛辣だった。
「奥様、嫉妬心から水城さんを陥れたと認めるということですね?」
「あなたと九条社長の結婚生活は、すでに破綻していたのではありませんか?」
「今回の謝罪は心からのものですか?それとも何らかの圧力がかかったのでしょうか?」
結衣は目を伏せ、すべての質問に答えることなく、ただ原稿の内容を繰り返すだけだった。
ようやく会見が終わった。
護衛に守られながら、結衣はうつむき加減で早足に駐車場へと向かった。
しかし、ビルの外に出た途端、集まっていた群衆から怒号が沸き起こった。
「あいつだ!あの性悪な嫁だ!」
「自分の嫉妬で他人を不倫相手呼ばわりするなんて!」
「最低!恥を知れ!」
ゴミや石、結衣に向かって容赦なく投げつけられた。
彼女は投げつけられてよろめき、髪や服は汚物にまみれた。
顔を上げると、混乱する群衆の中に、あろうことか見慣れた二つの小さな顔を見つけた。
悠真と結愛だ。
二人も群衆に紛れ、手に何かを握りしめ、自分に向かって力一杯投げつけていたのだ!
悠真が投げたのは、鋭く尖った石だった。
ゴッ!
石は正確に結衣の額に命中した。
激痛が走り、生温かい血が一瞬で噴き出して視界を赤く染めた。
彼女はその場に呆然と立ち尽くした。少し離れた場所で、興奮と正義感に満ちた顔で自分に石を投げる子供たちを見て、ついに心臓の奥底が完全に死に絶えた。
最後の血の繋がりさえも、二人自身の手によって断ち切られたのだ。
目の前が真っ暗になり、彼女は崩れ落ちて倒れた。
次に目を覚ました時、そこは寝室のベッドだった。
額には包帯が巻かれており、鈍い痛みが走っていた。
蒼真がベッドの脇に立ち、目を覚ました彼女を見下ろしていた。顔には何の表情も浮かんでおらず、ただ淡々と言った。
「これで、今度こそ本気で反省してくれることを願うよ。
これからしばらく、俺は家に帰らない。莉奈の状況が不安定なんだ。病院で付き添ってやらなきゃならない」
彼は少し言葉を切り、付け加えた。
「お前が彼女に作った借りだ。俺が代わりに償うのは当然のことだ」
そう言い残すと、彼はもう彼女を見ようともせず、振り返って部屋を出て行った。
寝室には、結衣一人と満ちあふれる静寂だけが残された。
彼女は静かに横たわり、涙も流さず、怒りも感じなかった。
スマートフォンの画面が突然光った。
弁護士からのメッセージだった。
【離婚の手続きがすべて完了いたしました。離婚届受理証明書はご指定の住所へ郵送手配済みです。本日午後には到着する予定です】
長年胸にのしかかっていた巨大な石が、音を立てて崩れ落ちた。
彼女はゆっくりと起き上がり、窓辺に歩み寄って、外の明るい陽射しを見つめた。
午後、書類は予定通りに届いた。
封筒を開けると、中には役所からの離婚届受理証明書が入っていた。
彼女はそれを取り出し、そこに書かれた「離婚」の文字と、自分と蒼真の名前が並んでいるのを見て、指先がわずかに震えた。
そして、彼女はそれを、寝室のベッドサイドテーブルにそっと置いた。
その隣には、すでに荷造りを終えたスーツケースがあった。
今日はちょうど月末。
彼女が戦場ジャーナリストとして出発する日だ。
別れの言葉もない。未練もない。
彼女はスーツケースの持ち手を握り、最後に一度だけ、自分の愛憎のすべてが詰まったこの場所を見回した。
振り返り、ドアを閉める。
過去のすべてを、完全に後ろへと封じ込めた。