朝露のように、かすかな光を待ってる

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朝露のように、かすかな光を待ってる

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南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。 名目上は祐の婚約者である美礼は...

Chương (1)

第1章

南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。 名目上は祐の婚約者である美礼は、彼に「三つの禁止事項」を定めていた。 無謀なスピード走行は禁止。 外泊は禁止。 そして、夏目雫(なつめ しずく)という、祐が好きな女性に会いに行くことは絶対に禁止。 だが祐は、ことごとく美礼に逆らった。 ある時は南山市の山道を端から端まで飛ばし、またある時はクラブに夜通し入り浸って泥酔する。 そしてついには、美礼の誕生日に、夜空を埋め尽くす花火の下で、わざと雫とキスをし、美礼の面目を完全に潰した。 周囲は皆、面白がって二人の成り行きを見守っていた。 南山市一の名門令嬢である美礼の気性なら、その拡散しまくったキス写真を見れば、怒り心頭に達して現場へ乗り込み、この放蕩男を引きずってでも連れ帰るに違いない――誰もがそう思っていた。 写真がネットで拡散されて一時間後、美礼は確かに現れた。 しかし彼女は激昂することも、祐を連れ戻そうとすることもなく、ただ静かに祐の前へ歩み寄り、手を差し出した。 その声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほどかすかだった。「祐、七年前、あなたにお守りをあげたよね。……今、返してくれる?」 個室の中は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。 祐もまた呆然とし、無意識に首にかけていた赤いお守りに触れた。 七年前、彼はスピードを出しすぎて事故を起こし、ICUで一昼夜の救命処置を受けた。 目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、美礼だった。 第1話 南山市では誰もが知っている。月城美礼(つきしろ みれい)と木野祐(きの ゆう)は、犬猿の仲であることを。 名目上は祐の婚約者である美礼は、彼に「三つの禁止事項」を定めていた。 無謀なスピード走行は禁止。 外泊は禁止。 そして、夏目雫(なつめ しずく)という、祐が好きな女性に会いに行くことは絶対に禁止。 だが祐は、ことごとく美礼に逆らった。 ある時は南山市の山道を端から端まで飛ばし、またある時はクラブに夜通し入り浸って泥酔する。 そしてついには、美礼の誕生日に、夜空を埋め尽くす花火の下で、わざと雫とキスをし、美礼の面目を完全に潰した。 周囲は皆、面白がって二人の成り行きを見守っていた。 南山市一の名門令嬢である美礼の気性なら、その拡散しまくったキス写真を見れば、怒り心頭に達して現場へ乗り込み、この放蕩男を引きずってでも連れ帰るに違いない――誰もがそう思っていた。 写真がネットで拡散されて一時間後、美礼は確かに現れた。 しかし彼女は激昂することも、祐を連れ戻そうとすることもなく、ただ静かに祐の前へ歩み寄り、手を差し出した。 その声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほどかすかだった。「祐、七年前、あなたにお守りをあげたよね。……今、返してくれる?」 個室の中は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返った。 祐もまた呆然とし、無意識に首にかけていた赤いお守りに触れた。 七年前、彼はスピードを出しすぎて事故を起こし、ICUで一昼夜の救命処置を受けた。 目を覚ましたとき、最初に視界に入ったのは、美礼だった。 彼女の目は泣き腫らして真っ赤で、体もひと回り細くなっていた。 彼が目を開けたのを見た瞬間、また涙がこぼれ落ちた。 そして彼女は自分の首からそのお守りを外し、ぎこちない手つきで彼の首にかけた。 「これはおばあちゃんがくれたもの。子どもの頃からずっと身につけてきて、これのおかげで一度も怪我をしたことがないの」あの時の美礼の声は、かすれていて、それでいてどこか強引だった。「今、これをあなたにあげる。ちゃんと身につけて。これから先、もう二度と怪我なんてしないで」 祐はずっとこの婚約者を疎んじていた。 本来ならその場で外して、彼女の顔に投げ返すはずだった。 だがあの日、なぜかそうしなかった。 ただ冷笑して言っただけだった。「ずいぶん横暴だな。一生外せないってわけか?」 彼女は長く沈黙したあと、ようやく小さな声で答えた。「私があなたを好きじゃなくなる日が来たら、その時は外していい。……その日になったら、私が自分で取りに来るから」 なぜか今、その言葉を思い出し、言葉にできない感情が胸の奥から湧き上がってきた。 だが祐はすぐにそれを押し殺し、相変わらずソファにもたれたまま、無造作に冷笑する。「で?取り返してどうするつもりだ?」 「別に」美礼の声は淡々としていた。「ただ、もうあなたにあげたくないだけ」 胸の奥に抑えきれない苛立ちが再び込み上げる。 祐は目の前の、見慣れた顔を見つめた。 幼い頃から、この顔はいつも同じだった。 上品で穏やかな名家の令嬢の仮面。常に整っていて、常に抑制されていて、そしていつも自分には退屈に映った。 彼はこれまで、彼女が自分の後ろを追いかけてきた姿や、あれこれ口出ししてくる姿を思い出し、ふと何かに気づいたように笑った。 「へえ――」わざとらしく語尾を引き伸ばし、口元に不良めいた笑みを浮かべる。「何年もやっても俺を好きにさせられなかったから、今度は『駆け引き』に出たってわけか?」 美礼は何も答えない。 祐は図星だと思い込み、立ち上がって彼女を見下ろした。「いいじゃないか。やりたいならやればいい。お守りも返してやるよ。ただし、このマンゴー、全部食え。そしたら返してやる」 その言葉が落ちた瞬間、個室の空気が凍りついた。 最初に耐えられなくなったのは雫だった。 彼の袖を引き、小声で言う。「祐……それ、ちょっとひどすぎない?月城さん、マンゴーにアレルギーがあるのに……」 祐は雫を見ることすらせず、視線を美礼に固定したまま言い放つ。「嫌なら食わなきゃいい。無理にやらせてるわけじゃないからさ」 彼が言い終わるや否や、美礼はテーブルの前に腰を下ろした。 マンゴーを一切れ手に取って、口に入れる。噛み、飲み込む。 一口目で、唇が赤くなり始めた。 二口目で、頬に細かい発疹が浮かぶ。 三口目で、呼吸が荒くなり、首には大きな赤い斑が広がっていく。 部屋は水を打ったように静まり返った。 祐はただ美礼をじっと見つめていた。 白かった肌がみるみる赤く染まり、呼吸が苦しくなっていく。 それでも美礼の手は止まらない。 一切れ、二切れ、三切れ―― 皿が空になるまで一切れも残さず、美礼は食べ続けた。 そしてようやく顔を上げる。 目は腫れてほとんど開かず、唇は紫に腫れ上がっている。 声は途切れ途切れで、全身の力を振り絞るようだった。「……全部、食べた。……これで……返して、くれる?」 祐の胸の奥で燃え上がる何かが、さらに激しくなった。 彼は突然、目の前のテーブルを蹴り飛ばす。ガラスが砕け散る耳障りな音が響いた。 「ほらよ!」首からお守りを乱暴に引きちぎり、美礼に叩きつける。「消えろ!」 そう吐き捨てると、雫の手を掴み、振り返ることなくそのまま外へ向かった。 周囲の人間も、空気を読んで次々とその場を離れていく。 彼がまもなくドアを出ようとした、そのとき。 背後から、鈍い音が響いた。 雫が振り返り、悲鳴を上げる。「祐!月城さんが……倒れた!すごくひどいアレルギー反応よ、危ないんじゃない?病院に連れて行かないと――」 祐の足が止まる。思わず振り返ると、美礼は床に丸まり、全身を痙攣させていた。 顔中の発疹は一面に広がり、荒い息をしていた。 彼の胸がきゅっと締めつけられた。思わず駆け寄ろうとした、その瞬間―― 雫が足をくじき、そのまま彼の胸に倒れ込んできた。 彼はすぐに向き直り、雫を支える。 眉をひそめた。「どうした?急に捻ったのか?痛むか?」 雫は彼に寄りかかり、弱々しく言う。「大丈夫……我慢できるから。先に月城さんを見てあげて……本当に危なそうだから……」 祐は振り返り、床に倒れる美礼に一瞬だけ視線を向けた。 胸の奥に説明のつかない苛立ちが渦巻く。 だが口から出たのは冷たい言葉だった。「放っておけ。彼女は自分で食ったんだ、死んでも自業自得だ。ちょうどいい、これで二度と煩わせられずに済む。先にお前の足を診てもらおう」 そう言い切ると、彼は雫を横抱きにし、そのまま大股で立ち去った。 個室は再び静寂に包まれる。 美礼は床に倒れたまま、最後の力を振り絞ってポケットから携帯を取り出し、【119】を押した。 「……南山市のノワールクラブ……三階……308号室……」声は途切れ途切れで、ほとんど聞き取れない。「アレルギー……救急車を……」 電話を切ると、彼女は冷たい床に頬を押しつけ、意識が少しずつ遠のいていくのを感じた。 「安心して、祐……」彼女は呟く。その声は羽のように軽かった。「もうすぐ……あなたを煩わせることは、なくなるから……」 ――まだ知らないでしょう。 私は……月城家の娘じゃなかったの。 本当の令嬢が……もうすぐ戻ってくる。 そして私は……ここを去るの。 第2話 美礼は生まれながらにして月城家の令嬢だった。 幼い頃から厳格に育てられ、あらゆる教養において秀でており、誰の目にも「完璧な名家の淑女」と映っていた。 だが――それがどれほど息苦しいものかを知っているのは、彼女自身だけだった。 起床の時間も、ピアノの練習時間も、読書の時間も。さらには笑うとき、口元をどれだけの角度で上げるかまで、すべて決められていた。 彼女はまるで丹念に磨き上げられた陶器人形のようだった。美しく、完璧で――けれど、魂がない。 そんな彼女の前に現れたのが、祐だった。 南山市で最も名の知れた放蕩者。スピード違反まがいの走りも、喧嘩も、エクストリームスポーツまで何でもこなす男だった。 自由奔放で、型にはまらず、何者にも縛られない風のような男。 彼女が初めて彼を見たのは、両家の集まりの席だった。 彼は一時間も遅れて、バイクで轟音を響かせながら現れた。 ヘルメットを外すと、風にかき乱されたままの、それでも目を奪うほど整った顔が現れる。 彼は周囲に向かってにやりと笑い、「渋滞しててさ」と軽く言い放ち、そのまま無造作に席へ座ると、妙に人を惹きつける目で彼女を一瞥し、顎で軽く合図を送った。 その夜、美礼は眠れなかった。 あんな人を、自分は見たことがなかった。 彼の全身から「自由」が溢れているようで、一方で自分は、豪華な檻に閉じ込められたまま、羽ばたくことすら許されない鳥だった。 両家に婚約があると知った日、彼女は一晩中眠れないほど嬉しかった。 ――だが、祐は美礼を嫌っていた。 初対面の時から、ずっと。 彼は彼女を「取り繕っている」と言い、「つまらない」と言い、「まるで波一つ立たない水面みたいだ」とさえ言った。 やがて彼は、雫を好きになった。 奨学金で通っている雫に向ける眼差しは、今にも溶けてしまいそうなほど優しかった。 祐は何度も婚約解消を試みたが、うまくいかなかった。 結局、開き直るしかなく、名ばかりの婚約関係を保ちながら、結婚の話は先延ばしにし続けた。 美礼が嫌がることを、彼はむしろ意地になってやり続けた。 雫を連れて堂々と街を歩き、婚約者である美礼の面目を潰した。 美礼は仕方なく、毎日のように彼の後を追い、口出しし、止めに入った。 まるで鬱陶しい追っかけのように。 それでも―― いつかは彼が気づいてくれると信じていた。 自分はつまらない人間なんかじゃない。ただ、不器用なだけなのだと。 けれど一年、また一年と過ぎても、彼が振り向くことはなかった。 心がすっかり冷え切るまで待っても、彼は一度も自分を見ようとしなかった。 だが一週間前、すべてが変わった。 美礼は両親に呼び出され、人生を覆す真実を告げられた。 彼女は、月城家の娘ではない。 当時、病院で取り違えられ、本当の令嬢は別にいるのだと。 両親の表情は複雑だった。 申し訳なさ、戸惑い――だがそれ以上に、どこか安堵したような解放感があった。 「美礼、受け入れがたいのは分かっているが」美礼の父・月城隆一(つきしろ りゅういち)の声は低く重かった。「だが由奈(ゆな)は外でずいぶん苦労してきた。私たちは彼女に償いたい。彼女は月末には帰ってくる……だからお前には、出て行ってほしい」 美礼は長い沈黙のあと、ただ一つだけ尋ねた。「……木野家との婚約は?」 母の月城恵美(つきしろ えみ)は美礼を一瞥し、顔をそらした。 「それはもともと両家の取り決めよ。取り違えだった以上、その婚約も……本来の娘のものになるのが筋でしょう。 あなたにはここを出て、祐とも、完全に縁を切ってほしい。両家の結婚式はすぐにでも進めるわ。その時も、あなたは来なくていい」 その瞬間、美礼は自分の中で何かが完全に砕け散る音を聞いた。 それでも彼女は何も言わず、ただ静かに頷いた。 これまで、どれだけ努力しても祐に好かれることはなかった。 もう疲れていた。 長年「名家の令嬢」を演じ続けるのも、限界だった。 すべてが自分のものではなかったのなら、何もいらない。 ただ一つ、取り戻したいものがあった。祖母が生前にくれた、あのお守り。 それだけが、この世界で美礼に残された、最後の「自分のもの」だった。 美礼の意識は次第に遠のいていく。 遠くから近づいてくる救急車のサイレンが聞こえる。 彼女は、静かに目を閉じた。 第3話 目を覚ましたとき、まず鼻をついたのは消毒薬の匂いだった。 美礼はゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、無機質なほど白い天井。 病室は静まり返っていて、点滴の滴る音さえはっきりと聞こえる。 ふと顔を横に向けると、ベッドのそばを見た――誰もいない。 意外でもなんでもなかった。 祐が来るはずもないし、月城家の人間が来ることもない。 それから数日間、彼女はひとりで病院に残り、静かに療養を続けた。 スマホには毎日のようにニュースの通知が届く。どれも祐と雫に関するものばかりだった。 祐が雫をプライベートドクターに連れて行ったり、祐が雫に限定モデルのバッグを棚一列分も買ってあげたり、祐が雫を海辺へ連れて行って気晴らしに付き合ったり…… 以前なら、こんなニュースを見ればすぐに手を止め、祐のもとへ駆けつけていた。そして雫のそばから彼を引きはがし、無理やり家へ連れ帰っていた。 だが今は違う。 通知を無言でスワイプして消し、ただ薬を服用し、食事をとり、眠るだけ。 怪我がほぼ治ると、彼女は退院手続きを済ませ、タクシーであの屋敷へ戻った。 そこは彼女が何年も暮らしてきた場所。両家の年長者たちが無理やり二人を同居させ、感情を育てさせようとした家だった。 当時の美礼は嬉しくて仕方なかった。 三ヶ月もの時間をかけ、自ら設計し、内装を整え、家の隅々までを自分の思い描いた「居場所」に作り上げた。 リビングのカーテンは、彼女が選んだ淡いブルー。書斎の本棚は、彼女自身がデザインしたもの。キッチンの食器は、彼女が海外から一つひとつ持ち帰って揃えた。 けれど今、この場所はもう彼女のものではない。 美礼は二階へ上がり、持ち出す荷物の整理を始めた。 クローゼットの服を半分ほど畳んだところで、スマホが鳴る。 画面に表示された名前は――神谷和也(かみや かずや)。祐の友人だった。 「美礼!大変だ!」和也の声は切羽詰まっている。「祐のやつ、頭おかしいぞ!夏目雫にネックレスを勝ち取るとか言って、競馬のレースに出るつもりだ!前の事故で入れたプレートもまだ抜いてないのに、また転んだら脚が駄目になる!」 美礼は少し沈黙してから、静かに答えた。「……それで?私に何の関係があるの?」 「何の関係があるだって?」和也は言葉に詰まり、すぐに声を荒げた。「……止めに来いってことだよ!これまでだって、お前以外の言うことなんて、あいつは一切聞かなかっただろ?」 「彼は私の言うことなんて聞かない」美礼は淡々と続ける。「それに、もう関係ない。今も、これからも。彼が何をしようと、私には関係ないわ」 「何言ってるんだよ!?美礼、お前どうかして――」 彼女は最後まで聞かず、通話を切った。そして何事もなかったかのように、服を畳み続ける。 だがすぐにまた着信が来る。同じく和也だった。 今度は迷わずスマホの電源を切った。 その夜、テレビをつけるとローカルニュースが流れていた。 ――【木野家御曹司・木野祐、競馬で落馬 搬送され治療中】 彼女は観る気もなく、リモコンでテレビの電源を切り、二階の寝室へ戻って寝た。 だがしばらくして、階下から慌ただしい足音が響いてきた。 彼女は気にせず横になっていたが、次の瞬間、寝室のドアが勢いよく開かれた。 祐だった。 病衣をまとい、左腕を包帯で吊ったまま立っていた。失血のせいか顔色は悪いが、その視線だけは鋭く、室内を見渡した。 美礼は一瞬驚き、体を起こす。「……どうして戻ってきたの?」 祐は彼女の淡白な態度を見て、瞳をわずかに細めた。 次の瞬間、苛立ったように冷笑した。「戻ってきた理由?決まってるだろ。お前がまた競馬の件で大騒ぎして、俺のガレージの車を全部ぶっ壊すんじゃないかと思ってな」 その言葉で、美礼は思い出した。 前回――彼が雫のために無茶な走りをして事故を起こしたとき、自分は怒りのあまり、ガレージにあった十数台の高級車をすべて叩き壊させたのだ。 その後、彼に指差して罵られた。横暴だ、狂っている女だ、と。 その記憶は、今でも鮮明だった。 美礼は深く息を吸い、胸の奥にわずかに残る痛みを押し込める。 そして、できるだけ穏やかな声で言った。「心配しすぎよ。もうあなたの車なんて壊さない。これからは、あなたが何をしようと自由。……私も、もう干渉しないから」 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど、体が軽くなった気がした。 ――だが、祐はその場で固まった。 ついに、長年望んでいたはずの「自由」を手に入れた。 それなのに、彼女の口から告げられた瞬間、胸の奥で得体の知れない苛立ちが、雑草のように一気に広がった。 第4話 「美礼、お前どういうつもりだ!?」祐は大股で近づき、目の奥に鋭い詮索の色を宿す。「ここ数日、その『駆け引き』がうまくいってると思ってるのか?俺と雫がニュースになっても無視、俺が落馬して入院しても無視、それで今度は『もう干渉しない』だと?」 彼は身をかがめ、その影で彼女を覆い込んだ。 声には露骨な嘲りが滲んでいた。「美礼、最後に言っておく。そんな古臭い手で俺の気を引こうとしても無駄だ」 美礼は疲れ切っていた。 「誤解してる」と言おうとした、その時―― 入口のほうから、震えるようなか細い声が響いた。 「月城さん……」 雫だった。 いつの間にかそこに立っていて、目はひどく赤く、風に吹かれれば倒れてしまいそうなほど、体を震わせている。 おずおずと少し前に進み、祐と美礼の間を視線が揺れる。 やがて俯き、蚊の鳴くような声で言った。「月城さん……お願いです……怒りは全部、私に向けてください。祐とはもう喧嘩しないで……彼、まだ怪我が治っていないんです……」 言い終わる前に、糸の切れたように涙が零れ落ちた。 「私……分かってるんです。祐にふさわしくないことくらい……」雫は口元を押さえ、肩を震わせながら泣く。「お二人が結婚したら、私は遠くへ行きます。二度と現れません……だからこの間だけ、どうか……少しだけ彼のそばにいさせてください……」 その言葉は、蜜を塗った刃のように、正確に祐の心臓を刺した。 「雫!何を言ってるんだ!」 祐の表情が一瞬で変わる。 ほとんど反射的に駆け寄り、雫を抱き締めた。その腕は強く、今にも彼女を自分の中に閉じ込めてしまいそうなほどだった。 彼は雫が怯えていないか確かめながら、ふと顔を上げ、美礼を睨みつける。 その視線には、露骨な嫌悪をにじませた。「俺がどれだけ美礼を嫌ってるか、他人が知らなくても、お前なら分かってるだろう!?俺は死んでもこいつを好きになんてならない!たとえ結婚したところで、あるのは名ばかりだ。それ以外は何もない!」 腕の中の雫を落ち着かせると、祐は指先でそっと彼女の涙を拭った。 声は先ほどとは打って変わって、溶けるように柔らかい。「いい子だ、泣くな。そんなに泣かれたら、こっちまで苦しくなる」 雫は彼の胸に寄りかかり、しばらくしてようやく泣き止む。 手で彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。「祐……先のことは後でいいの。今は……まず怪我を治して。病院に戻ろう?」 祐はようやく顔を上げ、ベッドの縁に座ったままの美礼に視線を向けた。「いや、行かない。消毒薬の匂いが嫌いなんだ。どうせここに専属の医療チームがある。家で療養する」 そして美礼に向き直り、顎を少し上げて命じた。「『大人ぶった駆け引きごっこ』をやりたいんだろ?ちょうどいい。ゲストルームを一つ用意しろ。雫はしばらくここに泊まる。俺が療養している間、毎日彼女の顔を見ていたいんだ」 美礼は無表情のまま頷いた。「……分かった」 立ち上がり、彼の横を通り過ぎる。足を止めることもなく、視線すら向けない。 まるで、抱き合っている二人がそこにいないかのように。 …… それから数日。屋敷には、もう一人の住人が増えた。 祐と雫がリビングでテレビを見ているとき、美礼はキッチンでミルクを温める。 二人が庭を散歩しているとき、美礼は書斎で本を整理する。 祐が雫にリンゴを剥いてやるとき、美礼は二階で黙々と服を畳んでいる。 まるで魂の抜けた殻のように。 騒がない。怒らない。追いかけない。 彼の行動を詮索することも、視線を向けることすらない。 この家の中で、美礼は完全な「透明人間」になっていた。 最初、祐は静かでいいと思った。だが三日もすると、違和感が募り始める。 朝食のとき、わざと茶碗を落としてみた。 以前なら「気をつけて」と小言を言うはずだったが、美礼はただ使用人を呼んで片付けさせ、その後ミルクを持って二階へ上がった。 夕食のあとには、わざとスピーカーの音量を上げ、部屋中に響くほどの大音量で音楽を流した。 美礼が来て止めるかどうかを見たかった。 だが、美礼の部屋の扉は閉ざされたまま、何の反応もなかった。 祐は眉をひそめ、思わず美礼を何度も見てしまう。 美礼はソファに座り、本を読んでいた。その表情は、まるで波一つ立たない水面のように静かだった。 祐の帰りが少し遅いだけでリビングで待ち続け、雫と少し長く話しただけで目を赤くしていたあの頃の美礼は、まるで突然消えてしまったみたいだった。 ここまで耐えられるものなのか。 祐の中の苛立ちは、ますます膨れ上がっていく。 雫は、彼が美礼に向ける視線に気づいた。 その目の奥の光がわずかに沈む。だが、何も言わなかった。 その夜、美礼が眠ろうとした瞬間、ドアが蹴り破られるように開いた。 祐が、泣き腫らした雫を連れてきた。顔色は怒りで凍りついたように青い。 美礼が何か言う前に、スマホが勢いよく投げつけられ、美礼の体に当たった。 「美礼、とうとう我慢できなくなってきたんだな」彼の声は氷のように冷たかった。「今度はこんな卑劣な手まで使うようになったか?」 第5話 美礼は携帯を拾い上げた。 画面に映し出された動画が再生された。 顔の判別がつかない男が地面に跪き、血だらけになりながら叫んでいた。「月城様の指示だ!月城美礼様が夏目さんをさらえって言ったんだ!もうやめてくれ、頼む、殴るのはやめてくれ……!」 頭の中で何かが弾ける音がした。 しばらくして、ようやく状況を理解する。 ――雫が拉致され、犯人は「月城美礼の指示」だと証言している。 「……私じゃない」美礼は携帯を脇に置き、疲れきった声で言った。「この件は、私と関係ない。やってない」 「お前じゃなきゃ誰だっていうんだ!?」祐の声が震えていた。怒りか、それとも別の感情か分からない。「前に俺の車を壊して、無理やり家に連れ戻した件は、全部我慢してきた!でも何度言えば分かる、雫は俺の大事な人だ!手を出すなって!もし俺が少しでも遅れてたら、どうなってたか分かってるのか!?」 「何度言えば分かるの?私じゃない!」美礼の声に、初めて明確な起伏が生まれる。「あなたが夏目雫をどう愛そうと、もう私は関係ないって言ったでしょ?この数日、私があなたに干渉したことなんてあった?それなのに、どうして急に彼女をさらわせる必要があるのよ!?」 その言葉は、祐の中にわずかに残っていた迷いを、一瞬で焼き払った。 彼は冷笑する。 「なるほどな。この数日、お前が何もしてこなかったのは事実だ。だが、それが『大きな仕掛け』の前触れじゃないとでも? 美礼、お前のことはよく分かってる。自分の手に入らないものは、他人にも渡さない――そういう人間だろ?」 「……あなた……!」美礼の胸が上下する。怒りが込み上げる。「もうたくさん……これ以上言い争うつもりはない。でももう一度言う。私はやってない!」 「もういい!」祐は一言一言を噛みしめるように告げた。「大事にはならなかった。それだけが救いだ。今すぐ雫に謝れ。そして今後、一切彼女に手を出さないと誓え」 「……謝らなかったら?」 「父と母、そしてお前の両親を呼んで、この婚約を破棄する」 「あなた、分かってるでしょ。この婚約は破棄できないって」 祐は笑った。いつもはどこか気だるげな笑みを湛えているその目が、今は氷のように冷え切っている。「そうなのか?じゃあ、もし俺が死ぬと言ったら?」 その一言で、美礼の心臓が強く打ち鳴った。 ――彼は、雫のためなら死ぬつもりなの? もし以前なら、息が詰まるほど苦しかっただろう。だが今は、ただ果てしない疲労だけが押し寄せてくる。 もう彼を好きでいることをやめた。だから、どんな脅しも意味を持たない。 けれど、この婚約は、もう自分のものではない。 本当の令嬢が戻ってくる。 自分は、この立場も、この婚約も、何一つ欠けることなく返さなければならない。 今、壊すわけにはいかない。 美礼は深く息を吸い、胸の奥のわずかな痛みを押し込めた。「……分かった。争わない。謝るわ」 彼女は振り返り、雫に深く頭を下げた。「ごめんなさい。拉致の件は私とは無関係です。でも、この謝罪で少しでも気が晴れるなら……謝ります」 祐は、美礼が本当に頭を下げるとは思っていなかった。一瞬、言葉を失う。 雫は彼の腕の中で身をすくめ、小さな声で言う。「祐……私、もともと月城さんを責めていないの。彼女はあなたの婚約者で……私がずっとあなたのそばにいるのも悪いの。嫉妬して、ああいうことをさせたとしても……仕方ないと思う……行きましょう?」 そう言って彼の袖を引き、部屋を出ようとする。 だが一歩踏み出した瞬間―― 「っ……!」 小さく声を漏らし、足を止める。眉を歪め、体がぐらりと揺れた。 祐は即座に気づき、雫を支える。「どうした?」 雫は慌てて腕を後ろに隠した。「なんでもない……本当に、大丈夫……」 「雫」祐の声が低く沈む。拒否を許さない響き。「見せろ」 彼は強引に袖をまくり上げた。 ――次の瞬間、彼の動きが止まった。 白い腕には、無数の傷跡が走っていた。新しいものと古いものが重なり、見るに耐えないほどだった。 「……これは、何だ……?」声が震える。目には赤い怒りが燃え上がる。 雫は必死に腕を引っ込めようとし、涙をこぼす。「なんでもないの……もう終わったこと……言いたくない……」 「言え」祐の声はかすれていた。 彼はまるで壊れ物のように、雫の腕をそっと抱える。「頼む、雫。言ってくれ。誰にやられた?」 雫は唇を噛み、しばらくしてようやく小声で言った。「……月城さんが……あの人たちに命じたの……あなたのそばは、誰でもいられる場所じゃないって……」 言い終えると、慌てて首を振り、祐の手を掴む。「でももういいの!祐、月城さんを責めないで……全部、私が悪いの。あなたに近づきすぎたから……」 美礼はその場に立ち尽くしていた。 雫の涙ながらの「証言」を聞きながら、頭の中が真っ白になる。 ここまで徹底して仕組んでくるとは。 「……やってない」美礼は必死に言葉を絞り出す。「祐、信じて……本当に私は――」 言い終える前に、祐が振り向いた。 「パシッ――!」鋭い音が部屋に響いた。 頬に激痛が走る。 美礼は体勢を崩し、そのまま後ろのナイトテーブルにぶつかった。 額を角に強く打ちつけ、血が一気に流れ出る。視界が赤く染まり、温かく鉄の味のする液体が頬を伝った。 痛みで視界が暗くなる。 だが耳には、はっきりと彼の声が届いていた。歯を食いしばるような、冷酷な声。 「美礼……今までは、ただつまらない女だと思ってた。古臭くて、鬱陶しいだけのな。だが、違った。お前は腐った性根の狂人だ。 雫がどれだけ大事か、分かってるはずだろ。それでも手を出した?なら、俺は百倍にして返してやる」 第6話 美礼は弁解しようとした。自分は濡れ衣だと伝えようとした。 だが口を開いた瞬間、広がったのは生臭い血の味だけだった。 祐の視線が、部屋の隅に置かれた白いグランドピアノへと移る。 それは彼女がこの屋敷に越してきたときに持ち込んだ、最も大切にしているものだった。 その瞬間、彼は最も効果的な仕返しを思いついたかのように笑った。「そういえば、お前……ピアノが好きだったな?」 言葉が落ちた瞬間、彼は床に散らばっていた花瓶の破片を拾い上げ、美礼の手首を乱暴に掴んだ。 そして、鋭い破片で、彼女の手首を一気に切り裂いた。 「――ああああっ!」 美礼の絶叫が部屋に響き渡る。 激痛が手首から弾けるように広がり、血が噴き出して、瞬く間に腕全体を赤く染めた。 「あ……な……た……」 全身が痙攣し、言葉にならない声が漏れる。 彼女はただ、絶望的な目で彼を見つめることしかできなかった。 祐は手を離し、苦しみにうずくまる彼女を見下ろす。 その目には一片の情もなく、あるのは冷たい満足感だけだった。「覚えておけ。お前が雫に手を出したなら、俺はお前の一番大事なものを壊すんだ」 彼は振り向き、震えが止まらない雫を引き寄せて抱きしめた。 そして、柔らかな声で言う。「行こう。こんな場所、反吐が出る」 二人の足音が遠ざかり、やがて完全に消えた。 …… 美礼は血の中に倒れたまま、声すら上げられない。 意識がゆっくりと遠のいていく。朦朧とした中で、彼女は遠い昔を思い出した。 まだ学生だった頃。 手作りのチョコレートを祐に渡そうと体育館の裏へ行ったとき、彼と仲間たちの会話を聞いてしまった。 「なあ祐、こんなにモテるのに、どんな子がタイプなんだ?」 若い頃の祐は壁にもたれ、棒付きキャンディーをくわえながら、だらしなく笑っていた。 だがその視線には、どこか気の抜けたような自信が漂っている。「ピアノ弾ける子かな」 …… その日から、美礼は狂ったようにピアノを練習した。指が腫れるまで、指先にタコができるまで。 いつか、祐に一番綺麗な曲を聴かせるために。 だが今は―― 彼女は血にまみれた自分の手首を見下ろし、ふと笑いたくなった。 何年もかけて積み上げたものを、最後は彼自身の手で壊されたのだ。 視界が暗く沈む。 そして彼女は、完全に意識を失った。 …… 次に目を覚ましたとき、彼女は自室のベッドに横たわっていた。 血の痕はすべて片付けられ、専属医が道具を整理している。 彼女が目を開けたのを見て、医師はため息をついた。 声には隠しきれない憐れみが滲んでいた。「月城さん……手ですが、腱と神経を損傷しています。今後、精密な動作は難しいでしょう。ピアノのような楽器については……元の精度を取り戻すのは難しいでしょう」 美礼は包帯でぐるぐるに巻かれた手首を見つめ、長い間沈黙した。 「……分かりました」 彼女は小声で答え、静かに目を閉じる。 …… それからの屋敷は、異様なほど静かだった。 祐は雫を連れて旅行に出た。彼女を慰めるためだという。 雫のSNSには毎日のように更新があり、海辺や山、ホテル――二人の親密な写真が並んでいた。 【あなたと一緒の毎日が、とても幸せ】といった言葉が添えられていた。 以前なら、それを見るたびに、美礼は胸が痛み、涙がこぼれ、どうして祐が好きなのは自分じゃないのか、どうして自分が雫に負けてしまったのかと苦しんでいただろう。 だが今は、ただ静かにスクロールして、それで終わりだ。心に波は立たない。 もう、彼の婚約者は自分ではない。彼が誰を好きでも、自分には関係ない。 美礼は毎日、荷物をまとめ続けた。服、本、細々とした私物。 彼女はここで七年も暮らしてきたはずなのに、この家にあった彼女のものは、たった三つの箱に収まるほどしかなかった。 …… ある日、美礼が書棚を整理していると、月城家本家の執事が訪ねてきた。 「美礼様」 その声は丁寧ではあるが、どこかよそよそしい。かつての敬意はもうない。 「旦那様と奥様からの伝言です。由奈様は数日以内にお戻りになります。 美礼様の航空券はすでに手配済みです。こちらでの用事を速やかに片付け、期限通りにご退去ください」 美礼はチケットを受け取り、日付を確認し、頷いた。「分かりました」 執事は一礼し、それ以上何も言わずに去っていった。 ――しばらくして、外から聞き慣れたエンジン音が響く。 窓越しに見ると、祐の黒いスポーツカーだった。 冷たい外気をまとったまま、彼が入ってくる。 眉をひそめ、去っていく執事の背中を目で追いながら、不機嫌そうに言う。「月城家の執事がなんで急に来た?」 美礼はさりげなく航空券を本棚の引き出しに押し込み、振り向くと、何事もないように話題を逸らした。「それより……どうして急に帰ってきたの?夏目雫と旅行中じゃなかったの?少なくとも一ヶ月は戻らないと思ってたけど」 祐は冷笑し、ネクタイを緩め、上着をソファに投げる。 そのまま深く腰を沈めた。「俺が帰りたくて帰ったとでも?」 彼は彼女を見上げる。その目には嘲りが混じっていた。 「なかなかやるじゃないか。告げ口なんて覚えたのか?お前の親がうちに来て、結婚の話を進めてきたんだ。今月末には式を挙げるってな。 美礼、よく聞け。たとえ結婚したとしても、俺がお前を好きになることはない。俺の心には、この先一生、雫しかいないんだ」 第7話 美礼は黙ったまま、何も答えなかった。 ただ静かにまつげを伏せ、瞳の奥の感情を隠す。 祐もそれ以上は構わず、立ち上がってリビングを歩き回り、周囲を見渡した。「モチは?」 モチは彼と雫が何年も一緒に飼ってきた、大切なラグドールの猫だった。 今回出かける前にも、彼はわざわざ使用人に、しっかり世話をするよう言い聞かせていた。 部屋を一周しても、あの白い姿が見当たらない。 彼の眉間の皺が深くなる。「モチはどこだ?」 呼ばれた使用人は顔を青ざめさせ、慌てて部屋中を見回した。 視線を泳がせた末、何かを決心したように、小さな声で言う。「若様……その……美礼様が……モチを外に出してしまいました……止めたんですが、聞いていただけなくて……」 美礼ははっと顔を上げた。「何を言ってるの?私がいつモチを逃がしたの?」 使用人は頭を下げたまま、さらに声を小さくする。「美礼様……モチのこと、お好きじゃないのは分かっています。でも、あれは若様と雫様が何年も一緒に育ててきた猫で……」 「やってない」彼女の声が冷たくなる。「いい加減なことを言わないで」 「もういい!」祐が鋭く遮った。 その目は氷のように冷たく、露骨な嫌悪を帯びている。「美礼、お前はどこまで陰湿なんだ?モチは雫にとってどれだけ大切か、分かってるだろ。それすら許せないのか?」 彼は数歩で距離を詰め、彼女の手首を乱暴に掴んだ。 骨を砕きそうなほどの力だった。「モチが無事であることを祈れ。今すぐ探しに行け。見つからなければ、婚約はなしだ。ここにも二度と戻れないと思え」 美礼は息を整えた。 胸が上下する。だが、反論はしなかった。 彼の手を振りほどき、そのまま外へ出ていく。 …… 外は街灯もなく、手を伸ばしても指先さえ見えないほどの暗闇だった。 彼女はスマホのライトをつけ、屋敷の周囲を一つ一つ探し始めた。 草むら、木の陰、岩の裏。 一時間近く探した頃、突然雨が降り出す。大粒の雨が体に叩きつけられ、美礼はあっという間に全身が濡れた。 それでも戻れない。 祐は言ったことを必ずやる男だ。モチが見つからなければ、本当に中に入れてくれない。 ヒールが泥に取られ、まともに歩けない。彼女は靴を脱ぎ、裸足で地面を踏みしめた。 さらに三十分ほど探し続け、ようやく湖の中で何かがばたついているのが見えた。 ――モチだ。 いつの間にか湖に落ちたらしく、必死にもがいている。今にも沈みそうだった。 美礼は考える暇もなく、上着を脱ぎ捨てて湖へ飛び込んだ。 思っていたよりもずっと水は冷たく、湖底には誰かが捨てたガラスの破片が散らばっていた。足の裏に鋭い痛みが走る。 歯を食いしばりながら、必死にモチのところまで泳ぎ、一気に抱き上げる。そしてやっとのことで岸へと戻った。 岸に上がって初めて、自分の足の裏がガラスで切り裂かれ、血にまみれていたことに気づく。一歩踏み出すたび、刃の上を歩くような痛みが走った。 それでも彼女はモチを抱きしめ、一歩一歩、足を引きずりながら屋敷へと戻る。 「……モチ、見つけた」美礼は猫を差し出し、かすれた声で言った。「大丈夫。少し驚いただけ」 祐は猫を受け取り、泥と水にまみれ、なおも血が滴る彼女の足に目を落とす。 眉をひそめた。「……どうしてこんなになるまで無茶をした?」 美礼は答えず、そのまま自分の部屋へ向かおうとする。体がぐらりと揺れ、かろうじて踏みとどまった。 「美礼!」祐は思わず彼女を呼び止める。その声には、わずかな焦りが滲んでいた。「今、俺が話しているぞ!」 彼女は足を止めたが、振り返らない。 その背中は紙のように薄く、声は風にさらわれそうなほどかすかだった。「あなたにとっては、この猫のほうがずっと大事なんでしょう。だったら、今気にするべきなのは……あなたと夏目雫が飼っている猫。私がどうなろうと、関係ないはずよ」 そう言い残し、彼女は振り返りもせず階段を上っていった。 祐はその場に立ち尽くし、彼女の背中が階段の曲がり角に消えていくのを見つめる。胸の奥に、言葉にできない不快な感情がまたじわりと広がった。 腕の中で震えるモチを見下ろし、それから階段の方へ視線を移す。喉の奥に何かが詰まったようだった。 結局、彼は追いかけなかった。 …… 美礼は部屋に戻ると、シャワーを浴び、着替えを済ませてベッドに倒れ込んだ。 頭が重く、体の芯から冷えがこみ上げてくる。熱が出ているのは明らかだった。 目を閉じたその時、ドアを叩く音がした。 「美礼様」使用人の声が外から響く。「若様がお部屋に来るよう仰っています」 美礼は目を開けた。体はだるくて動きたくなかったが、行かなければ祐は引き下がらないと分かっている。 力の入らない体を無理やり支えながら、ふらつく足取りで祐の部屋へ向かった。 扉を開けた瞬間、目に入ったのは―― 床に伏せたモチが、嘔吐と下痢を繰り返し、ぐったりとしている姿だった。 傍らでは獣医がしゃがみ込み、診察している。その表情は険しい。「若様……これは殺鼠剤を食べています。しかも、かなりの量です」 祐の顔は、嵐の前の空のように暗く沈んでいた。 彼は美礼を見据え、氷のように冷たい声で言い放つ。「美礼、説明しろ」 第8話 美礼はドア枠にもたれかかっていた。 高熱で体は力が入らず、唇は青白い。声もかすれている。「……やってない。説明することもないわ」 「やってないだと?」祐は一歩、また一歩と詰め寄る。目の奥の怒りは今にも噴き出しそうだった。「モチはお前が逃がして、お前が連れ戻して、それで毒を盛られた。美礼、俺をバカにしてるのか?」 「やってないって言ってる」彼女はもう一度繰り返した。声はかすれている。「信じないなら……それでいい」 その頑なな態度に、祐の怒りはさらに燃え上がった。 彼は振り返り、テーブルの上の強い酒を掴んだ。 蓋をねじ開けると、彼女の顎を強引に掴んで、そのまま喉へと酒を無理やり流し込む。「いい度胸だな。どこまで強がれるか、試してやる!」 酒が喉に流れ込み、美礼は激しく咳き込む。涙がにじみ、アルコールが食道を焼くように痛んだ。 押し返そうとしても、熱で体は言うことを聞かない。力が入らず、振りほどけない。 半分以上を無理やり飲まされ、息が詰まりそうになる。必死に逃れようとするが、祐の手は鉄の枷のように彼女を縛りつけていた。 「放して……っ、げほ……放して……」 ようやく彼の手を振りほどき、彼女はよろめきながらドアへ向かう。胃の中がかき回されるようで、とにかく吐ける場所を探したかった。 だが祐が追いつき、美礼の後ろ襟をつかむ。 もがけばもがくほど、彼の手は強くなる。もみ合いの中で足を滑らせ、彼女はバランスを失い――二階の手すりを越えて転落した。 「――ドンッ!」 鈍い衝撃音が、がらんとしたホールに響く。 美礼は冷たい床に叩きつけられ、全身の骨が砕けたような痛みに襲われた。額も腕も脚も、あちこちから血が流れている。 痛みで声も出ない。ただ体を丸め、大きく息を吸い込むことしかできなかった。 駆けつけたボディガードがその惨状を見て顔色を変え、上を見上げる。「若様……救急車を呼びますか?」 祐は二階に立ち、眼下にある血まみれの人影を見下ろしたまま、長いこと黙り込んでいた。 「必要ない」背を向け、彼は冷たく言い放つ。「少しは思い知ればいい。何にでも手を出していいわけじゃないってな」 足音が遠ざかり、ドアの閉まる音だけがやけに大きく響いた。 美礼は床に倒れ込み、発熱と酒のせいで意識が朦朧とし、全身の骨が砕けたような痛みに襲われていた。 視界が暗くなり――ついに耐えきれず、目を閉じた。 …… 次に目を覚ましたのは、病院だった。 消毒液の匂いが鼻を刺し、天井は異様に白い。 ベッドの横に人影がある。しばらくして、それが祐の秘書だと分かった。 「月城様。目が覚めましたか」秘書の表情はどこか微妙だった。 「……私……」 美礼は声を出そうとしたが、かすれてほとんど聞こえない。 秘書は水を差し出し、淡々と言う。「モチが亡くなりました。夏目様がとても悲しんでおられて、木野社長はずっと付き添っておられます。このところは特にご用もなければ、木野社長のもとへは控えていただけますか?」 美礼は長く沈黙し、小さくうなずいた。水を受け取るが、一口も飲まない。 秘書がさらに尋ねる。「何か、木野社長にお伝えしますか?」 美礼は天井を見つめ、しばらく考えてから、静かに言った。「……結婚のこと、忘れないでって伝えてください」 秘書は一瞬言葉を失い、すぐに頷く。「承知しました」 立ち上がり、部屋を出ていった。 病室は再び静かになった。 美礼は携帯を手に取り、時間を確認しようとして――両親からのメッセージに気づいた。 【美礼、由奈が今日帰ってくる。あなたのことが済んでいなくても、もう出発しなさい】 彼女はその文面をしばらく見つめ、やがて一行だけ打ち込む。【分かりました】 送信して、携帯を置く。全身の痛みに耐えながら、自分で退院手続きを済ませた。 …… 屋敷に戻った頃には、空はもう暗くなりかけていた。 まとめておいた荷物を手に、胸には段ボール箱を抱えていた。 段ボール箱の中に入っているのは――これまで祐に関する、すべてのもの。 出せなかったラブレター。何通も、ずっとここにしまっていた。 彼が何気なく捨てたキャンディーの包み紙を、こっそり拾って残していた。 彼が表紙を飾った雑誌のページを切り抜き、丁寧にラミネートして、大事に残していた。 そして彼と一緒に撮った唯一の写真。両家の集まりで無理やり撮られたもの。彼は不機嫌そうで、美礼だけが嬉しそうに笑っていた。 彼女は玄関に立ち、この場所を最後に一度だけ振り返った。何年も暮らしてきた、この家を。 リビングのカーテンは、自分が選んだ淡いブルー。 ソファのクッションも、一つひとつ自分で選んだもの。 キッチンの食器は、自分が海外からわざわざ持ち帰った。 ――ここに、自分の青春はすべて置いてきた。 それでも最後には、何ひとつ残らなかった。 美礼は振り返り、その段ボール箱を屋敷の入口脇のゴミ箱へ投げ入れる。 そしてタクシーに乗り込み、空港の名前を告げた。 車はゆっくりと走り出す。 バックミラーの中で、屋敷は次第に小さくなり、遠ざかっていく。 やがてそれは、ぼやけた一点となり―― 夕暮れの中に、静かに溶けて消えていった。