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身代わり妻の海外逃亡〜遅すぎた夫の懺悔〜
流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。...
Chương (1)
第1章
流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。
今日あった楽しい出来事をわざわざ彼に話すこともなければ、帰りが遅いからといって夜通し電話をかけ続けることもない。
当たり屋のトラブルに巻き込まれて警察署に連行され、身元引受人がいなければ出られないと言われた際も、彼女は「呼べるような家族はいません」とだけ告げ、一週間の拘留を淡々と受け入れた。
七日後の夕暮れ時。
重々しい鉄の扉がガランと音を立てて開いた。
小夜子が警察署の階段を下りようとしたその時、一台の黒いマイバッハが猛スピードで彼女の目の前に急停車した。
開いたドアから降りてきたのは、仕立てのいい高級スーツに身を包んだ湊だった。
長身で、広い肩幅から引き締まった腰へと流れる見事なスタイル。相変わらず冷ややかで気高く、どこか浮世離れした美しさを纏っていた。
第1話
流産を経て、桐生小夜子(きりゅう さよこ)はいつの間にか、夫である桐生湊(きりゅう みなと)が望んでいたような「理想の妻」になっていた。
今日あった楽しい出来事をわざわざ彼に話すこともなければ、帰りが遅いからといって夜通し電話をかけ続けることもない。
当たり屋のトラブルに巻き込まれて警察署に連行され、身元引受人がいなければ出られないと言われた際も、彼女は「呼べるような家族はいません」とだけ告げ、一週間の拘留を淡々と受け入れた。
七日後の夕暮れ時。
重々しい鉄の扉がガランと音を立てて開いた。
小夜子が警察署の階段を下りようとしたその時、一台の黒いマイバッハが猛スピードで彼女の目の前に急停車した。
開いたドアから降りてきたのは、仕立てのいい高級スーツに身を包んだ湊だった。
長身で、広い肩幅から引き締まった腰へと流れる見事なスタイル。相変わらず冷ややかで気高く、どこか浮世離れした美しさを纏っていた。
湊は彼女の目の前まで大股で歩み寄ると、わずかに眉を寄せた。
「小夜子、トラブルに巻き込まれたなら、なぜ俺に電話をしなかった」
小夜子は、ふっと力なく微笑んだ。
「電話をしたところで、あなたの携帯、電源が入っていたかしら?」
昨日の仕事帰り、一台の自転車が彼女の車の前で唐突に倒れ込んだ。慌てて車を降り、倒れていた老人に手を貸そうとした瞬間、その男は彼女の腕を力任せに掴んで叫んだのだ。
「人殺しだ!この女、人を撥ねておいて逃げようとしてるぞ!」
ドライブレコーダーの映像によって小夜子の潔白はすぐに証明されたが、規定の手続き上、身元引受人の署名がなければ署を離れることはできなかった。
「私には、呼べるような家族はいません」と小夜子は言ったが、警察側はそれを信じず、戸籍情報を照合して湊の連絡先を突き止めた。
しかし、警察が何度ダイヤルしても、彼の携帯電話は、無情にも電源が切られていた。
何十回とかけ直しても、結局、一度として繋がることはなかったのだ。
湊の表情がかすかに揺れた。
「昨夜、理央が胃痛を訴えてな。病院に付き添っていたんだ。彼女、騒がしいのを嫌がるから……電源を切っていた」
一拍おいて、彼は声を低めた。
「すまない」
「いいのよ」小夜子は言った。「もともと、あなたに来てもらおうなんて思っていなかったし。自分の用事を優先してくれて構わないわ」
その口調はあまりに穏やかで、眼差しも凪いだ水面のように静まり返っていた。感情の波紋ひとつ立たないその様子に、湊は突き動かされるように彼女の手首を掴んだ。
肌に触れる彼の手は熱く、力強い。小夜子はわずかに眉をひそめた。
「……なぜ怒らない?」
湊は彼女を凝視した。その瞳には困惑と、彼自身も認めようとしない微かな不安が混じっている。
小夜子は、それがおかしくて仕方がなかった。
「どうして怒らなきゃいけないの?あなたは理由を説明したし、私はそれを理解した。怒るようなことなんて何もないわ」
「小夜子……」
「疲れたの。家に帰らせて」
彼女はそっと手を振り払い、彼を避けるようにして車のドアへと向かった。
湊はその場に立ち尽くし、彼女の背中を見つめていた。
一週間会わないうちに、彼女はひどく痩せてしまったようだ。シャツの袖から覗く腕は細く、衣服が身体の上で虚しく泳いでいる。
以前の彼女なら、ほんの少し蔑ろにされただけで、瞳を潤ませて彼に詰め寄ったものだ。
「湊、私のことなんてどうでもいいの?」
そんなふうに、いじらしく、切実に。
当時の彼は、それを子供じみた我がままだと冷ややかに一蹴していた。
だが、今の彼女は騒がない。泣きもしない。彼が何を言っても「わかった」と頷くだけだ。
それなのに、湊の胸には得体の知れない焦燥が広がっていた。
車内は静まり返っていた。
運転手が前を向き、小夜子は後部座席の窓際に身を寄せて、飛ぶように過ぎ去る街並みを眺めている。
かつての彼女なら、車に乗るなり彼の方を向き、その瞳を彼への情愛でいっぱいに満たしていたはずだ。たとえ彼が生返事しか返さなくても、独り言のように延々と話し続けていた。
今の彼女は、ただ静かに座っている。
まるで隣に、彼という人間が存在していないかのように。
湊はついに堪えきれず、口を開いた。
「……まだあの時のことを根に持って、当てつけをしているのか?」
小夜子は顔を彼の方へ向けた。その瞳はどこまでも静かだ。
「いいえ。もう終わったことだもの」
「なら、どうしてそんな――」
「湊」
小夜子が彼の言葉を遮った。
「私にどうしてほしいの?昔みたいに毎日あなたにまとわりつけばいい?それとも、今みたいに物分かりよく、あなたに十分な自由をあげればいいのかしら?」
湊は言葉に詰まった。
深町理央(ふかまち りお)のことでいちいち騒ぎ立てず、静かにしていてほしいと願っていたのは自分のはずだ。だが、いざ彼女が理想通りの妻になると、何かが決定的に違うという違和感が拭えない。
「……ただ、君が変わった気がしてな」
彼は声を落として、独り言のようにつぶやいた。
小夜子は再び視線を窓の外へと戻した。
変わった、だろうか。
たぶん、そうなのだろう。
人を愛している時と、愛するのをやめた時。その姿が同じであるはずがない。
車内に沈黙が戻った。湊が何かを言いかけようとした瞬間、彼のスマートフォンが震えた。
理央からだった。
彼が通話ボタンを押すと、スピーカーから理央の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。
「湊さん、今どこ?私、ショッピングモールにいるんだけど、買いすぎちゃって荷物が重いの。迎えに来てくれない?」
湊は小夜子を盗み見た。
しかし彼女は、まるで何も聞こえていないかのように、相変わらず窓の外を眺めていた。
言いようのない苛立ちが、湊の胸を突き上げる。
「理央、君はもう大人だろう。いつまでも俺を頼るな。それに、俺たちの間にはもう何の関係もないはずだ」
「でも、ずっと私を甘やかしてくれたじゃない。もう慣れちゃったんだもの」
理央はさも当然のように言い放った。
「前にお願いした時は、一度だって断らなかったわよね?」
「前は前だ」湊の声が冷たく険しさを帯びる。「当時は君が恋人だったが、今の俺には奥さんがいる」
「奥さん?」理央が鼻で笑うのがわかった。「本当に彼女を愛してるの?自分に嘘をつくのはやめて。……もし来てくれないなら、他の男の人に頼むからいいわ。私の荷物を持ちたがる人なんて、いくらでもいるし」
湊はスマートフォンを握りしめた。
理央は彼の急所を熟知している。彼女が他の男に頼る素振りを見せるのが、彼にとって何より耐えがたい屈辱であることを知り抜いているのだ。
「……待っていろ」
奥歯を噛み締めるようにしてそれだけを告げると、湊は一方的に通話を切った。
彼は深く息を吐き出し、隣に座る妻に向き直る。
「小夜子、俺は――」
「タクシーで帰るわ」
小夜子はすでにドアに手をかけていた。「彼女を迎えに行ってあげて」
その動作はあまりに速く、湊が反応する暇もなかった。
「小夜子!」
慌てて車を降りた湊が、歩き出した彼女の腕を掴んで引き止める。
「俺と彼女の間には、本当に何もないんだ。だが、あいつとは親同士も昔からの仲だし、家族ぐるみの付き合いがある。完全に縁を切るわけにはいかないだろう」
「わかっているわ」
小夜子は短く頷いた。「理解しているから、大丈夫よ」
彼女はいつだって「わかっている」「理解している」と答える。まるでプログラムされた人工知能のように、そこには感情の欠片も見当たらない。
その空虚な態度が、湊の胸の内で燻る正体不明の怒りに油を注いだ。だが、無慈悲にも理央からの着信が再び鳴り響き、彼を急き立てる。
「……先に帰っていてくれ。俺も後で……」
戻ると言いかけた言葉を、小夜子が遮るようにタクシーを停めた。
彼女は流れるような動作で乗り込むと、迷うことなくドアを閉める。湊を一度も振り返ることなく、視線は前方に据えられたままだった。
タクシーが走り去る。
テールランプが夜の車列に紛れ、やがて完全に見えなくなった。
湊はその場に立ち尽くし、胸の奥をざわつかせた。何かが、決定的に狂い始めている。そんな予感が拭えなかった。
その頃、走り出したタクシーの車内で、小夜子のスマートフォンが鳴った。
人事部からの着信だった。
「小夜子さん、海外赴任の審査が正式に下りたよ」
受話器越しに、担当者の弾んだ声が聞こえてくる。
「おめでとう!今回は海外本社への配属だ。滅多にないチャンスだよ。ただ……旦那さんは大丈夫かい?帰任時期も未定だし、しばらくは離れ離れになるだろうから」
窓の外、流れていくネオンの光を、小夜子はただ見つめていた。
「夫はいません」
彼女の声は、夜の静寂に溶けるほど微かだった。
「海外赴任の申請を出した同じ日に、離婚届も提出しましたから。受理されて手続きが終われば、すぐに発ちます」
第2話
受話器の向こうで、数秒の沈黙が流れた。
「……本気なのかい? あんなに彼のことが好きで、そのためにどれほどのチャンスを棒に振ってきたか。それがどうして急に……」
小夜子は小さく笑い、首を振った。
「今はもう、好きじゃないんです。それだけですよ」
電話を切ると、彼女は窓に頭を預け、そっと瞼を閉じた。
この数年間、彼女が湊に心酔していることは誰もが知る事実だった。
自分を失うほどに、プライドを捨てて縋り付くように、彼を想い続けてきた。
けれど、もう疲れ果ててしまったのだ。
心のなかに永遠に別の女性を住まわせている男を愛し続けるのは、あまりに過酷だった。
十八歳の春。大学の一年生だった小夜子は、新入生歓迎の式典で初めて湊を見かけた。
うららかな陽光が降り注ぐ中、白いシャツに黒のスラックスを纏って壇上に立つ彼は、清廉で、どこか浮世離れした輝きを放っていた。まさに選ばれし者という言葉が相応しい彼の姿に、会場にいた女子学生たちの多くが頬を染めた。
小夜子もまた、そのうちの一人だった。
しかし、彼に近づける者など誰もいなかった。
湊の心には、幼馴染である理央しかいない。それは周知の事実だったからだ。
理央は奔放で、わがままで、気性の激しい女性だったが、湊はそんな彼女を慈しみ、すべてを許容していた。誰もが、彼は彼女を死ぬほど愛しているのだと噂し合った。
彼が理央を愛した歳月と同じだけ、小夜子もまた、彼の背中を影から追い続けてきた。
やがて、理央が湊との結婚を何度も反故にするようになる。
一度目は「まだ若すぎるから、結婚なんて早すぎる」と言い、二度目は「マリッジブルーだから」とはぐらかした。三度目は「あなたの愛が足りない気がする」と。
そして九度目。結婚式を翌日に控えた夜、海外にいた彼女から一本の電話が入った。
「湊さん。やっぱり自由の方が大切だって気づいちゃったの。今の結婚はやめておきましょう?しばらく海外で遊んでくるわ!」
その時、湊はもう彼女を追いかけなかった。
しばらくの間、彼は抜け殻のようになっていたが、やがて親の勧める見合いに応じ始めた。何人もの女性と会っては、一度きりで縁を切る。そんな日々が続いていた。
その知らせを耳にしたとき、小夜子の鼓動は激しく跳ね上がった。
知人を介し、あらゆる手を尽くして、彼女は彼との見合いの席をもぎ取った。
当日、彼女はどういう風の吹き回しか、理央が好んでいたものとよく似たデザインのワンピースを身に纏った。案の定、小夜子を一目見た湊は、その場に釘付けになった。
彼はじっと彼女を見つめ、やがてこう告げた。
「……結婚しよう」
小夜子の狂おしいほど高鳴っていた鼓動は、その瞬間、すとんと冷え切った。
分かっていた。彼は自分を見ているのではない。自分の向こう側にいる、別の誰かを見ているのだと。
それでも、彼女は頷いた。
あまりに好きすぎて、たとえそこに愛がひとかけらもなくても、彼の側にいたいと願ってしまったから。
結婚してからも、二人は他人のように礼儀正しく暮らした。
湊は夫としての務めを完璧にこなした。経済的に不自由させたことは一度もないし、妻としての立場も十分に尊重してくれた。けれど、小夜子には痛いほど分かっていた。そこに愛などひとかけらもないことを。
彼の方から肌を求めてくることは決してなかった。
唯一の例外は、小夜子が理央の好むような服を身につけている時だけ。そんな時、彼は何かに取り憑かれたように彼女を抱きすくめ、うわごとのように「理央」と呼んだ。
そのたびに、小夜子は聞こえないふりを貫いた。
そんな生活が五年続いた。
このまま、緩やかな不幸の中で生きていくのだと信じていた――あの女、理央が帰ってくるまでは。
ちょうど妊娠三ヶ月を迎えた頃だった。
ある日、腹部を突き刺すような激痛に襲われた。小夜子が脂汗を流しながら救急車を呼ぼうとしたその時、理央が家に乗り込んできたのだ。
「あなたが小夜子さん?」
理央は彼女を値踏みするように見下ろし、侮蔑の笑みを浮かべた。
「私がいない隙に、私の場所を奪い取った泥棒猫ってわけ?」
痛みで血の気を失った小夜子には、言い返す気力さえ残っていなかった。ただ病院へ行きたい一心でその場を離れようとしたが、理央が執拗に立ちはだかる。
揉み合いになり、小夜子は思わず彼女を突き飛ばしてしまった。よろめいた理央はドア枠に頭を強打し、鮮血が飛び散った。
その夜、帰宅した湊は事情も聞かず、小夜子を空き部屋に閉じ込めた。
腹部の痛みは、ナイフで内臓を掻き回されるような激痛へと変わっていた。彼女はドアを叩き、枯れた声で叫び続けた。
「湊……助けて……赤ちゃんが……私たちの子供が……」
だが、誰も来ない。
冷たい床の上で体を丸める彼女の股間から、生温かい液体が溢れ出した。震える指で触れると、べっとりと赤い血がついた。
やがて、彼女の意識は痛みと絶望の中で途切れた。
目を覚ました時、彼女は病院のベッドの上だった。
子供はもう、いなかった。
ベッドの脇に立つ湊の瞳には、さすがに罪悪感が滲んでいた。
「俺が悪かった。退院したら、また子供を作ろう」
彼は言い訳をするように早口で続けた。
「……君があの時、理央を突き飛ばさなければ、閉じ込めたりはしなかった。彼女には血液凝固障害があるんだ。あの一撃が命取りになるところだった。俺も気が動転していて……償いはするから……」
その瞬間、小夜子は笑った。
涙を流しながら、声を上げて笑った。
「湊。命の償いができるものが、この世にあるとでも思っているの?」
それが、彼に見せた最初で最後の涙だった。
あの日から、小夜子は変わった。
水面下で離婚届を用意し、会社には海外赴任の希望を出した。
湊が理央とどうなろうが、もうどうでもいい。
だって、私はもう彼を愛していないのだから。
第3話
小夜子は、一人で家に戻った。
広すぎる邸宅は冷え冷えとしていて、空虚な静寂に包まれている。彼女は靴を脱いで二階へ上がると、淡々と荷造りを始めた。
この日のために、少しずつ整理は進めていた。あとは最後の仕上げをするだけだ。
彼女はクローゼットから、かつての理央を彷彿とさせる服を一枚ずつ取り出し、丁寧に畳んで箱に詰めていく。
こんな服、もう二度と着ることはない。
階下でドアが開く音がした。
湊が帰宅したのだ。だが、足音は一つではない。
「久しぶりね、小夜子さん」
階段の吹き抜けに、理央の甘ったるい声が響いた。彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべてそこに立っていた。
小夜子は、何も答えなかった。
「理央がハクに会いたいと言い出してな」
湊が口を開いたが、その声にはどこか落ち着かない響きがあった。「久しぶりだから、どうしても見たいと」
ハクは、湊と理央が付き合っていた頃に飼い始めたサモエドだった。理央が海外へ逃げた後、犬は湊の元に残され、結婚してからはずっと小夜子が世話をしてきたのだ。
「好きにすれば」
小夜子は背を向け、自室に戻ろうとした。
「ハク!ハク、おいで!」
理央はすでに床に膝をつき、手を叩いて犬を呼んでいる。
部屋の隅から一匹の白いサモエドが駆け寄り、理央を見つけると、ちぎれんばかりに尻尾を振って飛びついた。
「まあ、ハクったらちゃんと覚えててくれたのね!」
理央は目を細めて犬を抱きしめた。
「よその女の人に何年も世話になってたみたいだけど、誰が本当のママか、ちゃんと分かってるじゃない。賢い子!」
その言葉には、隠しきれない挑発の色が混じっていた。
小夜子の足が止まった。
湊が眉をひそめる。
「理央、勝手に国を出てハクを捨てたのはお前だ。今さら親気取りで可愛がる資格なんてない。もう顔は見ただろう。そろそろ帰れ」
理央は不満げに唇を尖らせた。
「外はこんなに暗いし、雨まで降ってきたわ。一人で帰るなんて危ないもの。……ねえ、今夜だけここに泊めてくれない?」
湊は断ろうとした。
だが、窓の外では確かに激しい雨が降り始め、遠くで雷鳴が轟いている。
彼は無意識に小夜子の方を見た。彼女を説得し、同意を得ようとしたのだ。以前なら、理央が来るたびに小夜子は激しく詰め寄り、そのたびになだめるのが常だった。
しかし今回、彼が言葉を発するより先に、小夜子が口を開いた。
「ゲストルームなら一階の突き当たりにあるわ。シーツも枕カバーも清潔なものに替えてあるから」
彼女のトーンは、驚くほど平坦だった。
「泊まりたければ、好きにすればいいじゃない」
それだけを言い残すと、彼女は一度も振り返ることなく、自分の部屋へと消えていった。
湊は呆然と立ち尽くした。
理央も一瞬虚を突かれたようだったが、すぐに表情を崩して湊の腕にすがりついた。
「湊さん、聞いた?小夜子さんもいいって言ってるわよ」
湊は、すでに閉じられた小夜子の部屋のドアを凝視していた。胸の奥に澱のように溜まった違和感が、再びじわりと浮き上がってくる。
彼は、まとわりつく理央の手を振り払った。
「……大人しくしてろ」
折しもスマートフォンが鳴り、仕事の電話を告げた。
理央に鋭い視線を向ける。「勝手な真似はするな。いいな」
そう釘を刺すと、彼は足早に書斎へと向かった。
リビングには、理央が一人残された。
その顔から笑みが瞬時に消え失せる。彼女は小夜子の部屋の前まで歩み寄ると、乱暴にドアをノックした。
小夜子がドアを開ける。
理央はドア枠に寄りかかり、目の前の女を冷ややかに見極めるように眺めた。
「物分かりのいいふりをして、何様のつもり?そんなふうに従順にしていれば、湊さんが見直してくれるとでも思ってるの?無駄よ、小夜子さん。今から、あなたがどれだけ惨めな存在か教えてあげるわ。この数年間、あなたは彼の心を繋ぎ止めるどころか、一匹の犬の心さえ掴めていなかったんだってことをね」
理央が鋭く口笛を吹くと、ハクが弾かれたように駆け寄ってきた。
「ハク」理央は小夜子を指差した。「ほら、噛みなさい!」
ハクは一瞬戸惑う素振りを見せたが、自分を支配する旧主である理央の執拗な催促に抗えず、小夜子のふくらはぎに牙を剥いて飛びついた。
「っ……!」
不意を突かれた小夜子は、激痛に声を上げ、その場に崩れ落ちた。顔色は一気に血の気が引き、紙のように白んでいく。
理央は、その光景を恍惚とした表情で見つめていた。
「見たかしら?たかが犬一匹さえ手懐けられないあなたが、私から湊さんを奪おうなんて、百年早いのよ。……いい加減、身の程を知って消えたらどう?」
痛みと屈辱で全身が冷え切っていくのを感じながら、小夜子は唇を強く噛み締め、それ以上の悲鳴を喉の奥へ押し込んだ。
彼女は顔を上げ、氷のように冷たい眼差しで理央を見据えた。
「言い忘れていたけれど、理央さん。この家の廊下や階段といった共有スペースには、二十四時間作動の監視カメラがあるの。もちろん、音声も鮮明に録画されているわ。
もし、これからもこの家に留まって湊さんとよりを戻したいなら、私に構わないことね。さもないと、たった今の映像を彼に見せることになる。……そうなった時、彼はあなたをこの家に置いておくかしら?」
理央の顔色がさっと変わった。
小夜子はそれ以上彼女を見ることもなく、踵を返して自室に入り、鍵をかけた。
ベッドの脇へ歩み寄り、引き出しから救急箱を取り出す。傷口に塗った消毒液が焼けるように沁みたが、彼女の表情は能面のように動かない。
手当てを終えると、彼女はそのままベッドに潜り込み、目を閉じた。
いつものようにホットミルクを用意して彼の仕事が終わるのを待つことも、「おやすみ」を告げに行くこともない。
彼女は、泥のように眠りに落ちた。
深夜、小夜子は喉を焼くような煙の臭いで目を覚ました。
激しく咳き込みながら目を開けると、部屋中が白煙で充満している。
慌ててベッドから飛び起き、ドアを開けた瞬間、熱波が顔を打った。廊下はすでに紅蓮の炎に包まれていた。
火事だ!
壁を支えに、一歩、また一歩と出口へ向かおうとする。だが、数歩も行かないうちに、濃煙を吸いすぎた足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
床は高熱を帯びている。這い上がろうと必死にもがいたが、体は鉛のように重く、指一本動かせない。
もう駄目だ、ここで死ぬんだ――そう覚悟した瞬間、火の海を割って一つの人影が飛び込んできた。
湊だ!
煤だらけのパジャマ姿で、彼は血相を変えて何かを探している。
小夜子は彼を呼ぼうとしたが、焼けた喉からは空気が漏れる音しか出ない。
必死に手を伸ばした。ここにいる、と彼に知らせようとした。
けれど、湊は彼女に目もくれなかった。
彼は部屋の隅へと一直線に駆け寄ったのだ――そこには、ハクが小さく丸まり、恐怖に震えていた。
彼は迷わず犬を抱き上げると、躊躇なくきびすを返した。
一度として、妻である彼女を振り返ることもなく。
炎の向こうへ消えていく彼の背中を見つめながら、小夜子の口元からふいに笑みが漏れた。
乾いた笑いは、やがて涙へと変わる。
彼は、ただハクを助けに来ただけだったのだ。
湊の心の中で、私は飼い犬一匹にも劣る存在なのだと、残酷な炎が教えていた。
第4話
濃煙がさらに色を濃くし、肺を焼く。意識が混濁し始めた。
小夜子は奥歯を噛み締め、壁にすがりついてどうにか立ち上がると、ふらつく足取りで出口へと向かった。
しかし、扉の前には焼け落ちた梁が横たわり、行く手を完全に塞いでいる。もう、ここからは出られない。
燃え盛る梁を絶望の眼差しで見つめた後、彼女は翻って窓際へと走った。
窓を押し開けると、冷たい夜風が流れ込み、わずかに意識が鮮明になる。
眼下を見下ろすと、ちょうど湊がハクを抱きかかえて邸宅から飛び出してきたところだった。そこへ、理央が狂ったように彼に縋り付く。
「湊さん!怖かった、本当に怖かったわ!」
理央は激しく涙を流し、取り乱した様子で叫んでいた。
「ハクが死んじゃうかと思った……この子は、私たちの愛の証なのに……」
湊の身体が一瞬強張った。彼女を突き放そうとするかのような躊躇いが見えたが、あまりにひどく泣きじゃくる姿を前に、結局はその背を優しく叩いた。
「……泣くな。もう大丈夫だ。ハクも無事だ、お前もな」
その光景を目の当たりにした瞬間、小夜子の心臓を冷たい手で握り潰されたような衝撃が走り、直後にそれが無情にも放り出された感覚に陥った。あとに残ったのは、どこまでも続く、麻痺したような虚無の穴だけだった。
もう、誰にも期待しない。
彼女は窓枠に足をかけ、深く息を吸い込むと、静かに目を閉じて夜の闇へと身を投げた。
身体が宙を舞う時間は、恐怖を感じる暇もないほど短かった。
鈍い衝撃と共に、彼女の身体は地面に叩きつけられた。
「……っ!!」
全身を凄まじい激痛が突き抜ける。冷たい地面に横たわる彼女の身体から、生温かい血がじわじわと広がっていった。
「きゃあああ!小夜子様!小夜子様が飛び降りたわ!」
家政婦の悲鳴が夜の闇を切り裂き、湊が弾かれたように振り返った。
彼の視線の先にあったのは、血の海に沈む小夜子の姿だった。
「小夜子!!!」
その顔に浮かんでいたのは、これまでの結婚生活で一度も見せたことのない表情だった。
驚愕、信じがたいものを見た戦慄、そして――隠しようのない狼狽。
小夜子は彼を見つめ、何かを言おうと口を開いたが、ただ鮮血が溢れ出すだけだった。
そのまま、彼女の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
再び意識が戻ったとき、鼻腔を突いたのは重苦しい消毒液の臭いだった。
小夜子がうっすらと目を開けると、視界には無機質な白い天井が広がっていた。
わずかに身体を動かそうとしただけで、全身に凄まじい激痛が走る。特に足の痛みは、骨の芯を直接抉られるような鋭さだった。
「小夜子!」
傍らから湊の声がした。
首を巡らせると、ベッドの脇に彼がいた。瞳は真っ赤に充血し、顎には青々とした無精髭が伸びている。そのやつれきった姿は、かつての気高い彼とは別人のようだった。
彼は小夜子の手を強く握りしめ、震える声で問いかける。
「気がついたか?気分はどうだ、どこか痛むところはないか?」
小夜子はその問いには答えず、ただゆっくりと、けれど拒絶の意志を込めて、彼の手の中から自分の手を引き抜いた。
湊の手が空中で凍りつき、その顔がわずかに強張る。
彼は、彼女が火災の件や飛び降りたことに腹を立てているのだと思った。自分を真っ先に助けなかったことを恨んでいるのだと。
「小夜子」彼は声を低め、言い訳を絞り出した。「あの時、部屋に入ったんだが君の姿が見えなかったんだ。もう逃げ出した後だと思い込んで、だからハクだけを連れて出た。あの子はただの犬じゃない、あれは……」
あれは、何? 彼と理央の愛の証? 二人の輝かしい思い出の象徴?
「部屋にいたのなら、なぜ俺を呼ばなかったんだ」
なぜ呼ばなかったのか。
小夜子はついに視線を上げ、彼を真っ向から見据えた。
その瞳は深く、暗い。そこには恨み言もなければ、縋るような期待もない。ただ、底の見えない静寂だけが横たわっていた。
「……あなたを、もう頼りにしていないからよ」
湊の身体が激しく震えた。まるで何かで強く殴りつけられたかのように瞳孔が収縮し、信じがたいものを見る目で彼女を凝視する。
「頼りにしていない……とは、どういう意味だ?」
自分の声が、ひどく乾いていくのが分かった。彼女の一言で、胸の奥が急にがらんどうになったようで、そこへ、得体の知れない冷たさが入り込んできた。
小夜子はまるで赤の他人を見るような冷ややかな眼差しで、彼を見つめ返した。
「言葉通りの意味よ。あなたが助けてくれるなんて思っていないし、私を選んでくれるとも思っていない。……愛してくれるなんてことも、もう一ミリも期待していないの」
湊の心臓が大きく脈打った。反論しようと口を開きかけたその時、無慈悲にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
理央からだ。
彼は窓際まで歩き、小夜子に背を向けて通話に出た。
具体的な内容は聞こえなかったが、強張った彼の横顔からは、最初は苛立ちを含んでいた声が、最後には抑え込んだ妥協と「……わかった」という一言に変わるのが分かった。
通話を終え、ベッドの脇に戻ってきた湊の表情は冴えなかった。彼は小夜子を見つめ、何かを言いかけては躊躇っている。
「行っていいわよ」
小夜子は彼の言葉を待たず、先にそう告げた。その口調は、やはり息が詰まるほどに淡々としている。「ここには本当に、誰も必要ないから」
湊は彼女を凝視した。胸の奥に湿った綿でも詰め込まれたかのように、息苦しいほどの圧迫感が彼を襲う。
彼は何度か口を動かし、ようやく言葉を絞り出した。
「理央の方で少しトラブルがあってな。……片付けてくる。すぐに戻るから」
一拍おいて、彼は自分に言い聞かせるように付け加えた。
「さっきのは、あの火事のことで気が立っているから出た嫌味だろう。分かっている。……安心しろ、あんなことは二度と起こさない。
数日後は、君のお母さんの命日だ。一緒に墓参りに行こう」
伏せられていた小夜子の睫毛が、わずかに震えた。
「母の命日と、理央さんの誕生日は同じ日よ」
彼女はふっと自嘲気味に笑った。
「彼女の誕生日、お祝いしに行かなくていいの?」
湊は不意を突かれたように、一瞬だけ表情を強張らせた。
数秒の沈黙の後、彼は彼女の視線を避けるようにして、硬い声で答えた。
「あいつの誕生日が……俺に何の関係がある」
小夜子は、また笑った。
関係がないはずがない。
結婚してからの五年間、毎年この日になると、湊には決まって「外せない用事」があった。
一年目は出張、二年目は会議、三年目は接待。
後になって知ったのだ。母の命日が理央の誕生日と同じであること。そして毎年その日に、湊が十数時間もかけて海外へ飛び、理央の家の前で一晩中立ち尽くし、プレゼントを置いて立ち去っていたことを。
今年は理央が帰国しているのだ。わざわざ海を越えなくても、その溢れんばかりの愛を直接伝えることができるだろう。
「ああ、そう」
小夜子は小さく相槌を打つと、それ以上は何も語らず、再び瞼を閉じた。対話を拒絶し、心底疲れ果てたという様子だった。
何を言っても響かないその頑なな態度に、湊はやり場のない苛立ちを募らせる。
青白い小夜子の顔と、固く閉じられた瞳を見つめながら、「俺と理央には本当に何もない、誤解するな」という言葉が喉元まで出かかったが、結局、彼は一言だけ残した。
「……ゆっくり休め。夜にまた来る」
そして背を向け、逃げるように病室を後にした。
第5話
それからの数日間、小夜子は静かに病院で怪我の回復を待った。
湊も何度か足を運んできた。高価な補給品や見事な花束を携えてはいたが、滞在時間はいつも短い。彼のスマートフォンは、ひっきりなしに仕事の連絡を告げていた。
小夜子は取り乱すことも、縋ることもなかった。湊が何を言っても、ただ「ええ」と短く頷くだけだ。その手応えのなさは、まるで真綿に拳を打ち込んでいるような、得体の知れない無力感を湊に抱かせた。
退院の日、湊は供え物を準備し、小夜子と共に郊外の墓地へと向かった。
車窓を流れる見慣れた景色を眺めながら、小夜子の胸には言いようのない荒涼とした思いが込み上げていた。
結婚して五年。湊が「義理の息子」として彼女の母の墓を訪れるのは、これが初めてのことだった。
墓地は静まり返り、松や柏の枝を揺らす風の音だけがさらさらと耳を撫でる。
墓標の前に立った湊は、そこに刻まれた義母の名を見つめていた。小夜子によく似た面影を心に思い描きながら、彼は長い沈黙を貫いた。
「お義母さん」
ようやく口を開いた彼の声は、どこか乾いていた。
「……こんなに長い間、ご挨拶に伺えず申し訳ありませんでした」
湊は言葉を継ぐ。
「これからは、僕が責任を持って小夜子を大切にしていきます。どうか安心してください。二度と、彼女に辛い思いはさせませんから」
小夜子は、母の眠る冷たい墓石を、ただ無感動に見つめていた。
お母さん、聞こえた?
十年間、私が心から焦がれ続けたあの人が、今さら私を大切にするなんて言っている。
でもね、もう遅すぎるの。
その言葉を必要としていた時間は、もう、とっくに過ぎ去ってしまったのだから。
墓参りを終えた後、湊は小夜子を連れて、あるレストランへと向かった。
そこは都内でも予約が取れないことで有名な店で、かつて小夜子が何度も行きたいと口にしていた場所だった。だがそのたびに、湊は忙しさを理由に聞き流してきたのだ。
今日は彼が店を貸し切りにしたらしく、テーブルにはキャンドルが揺れ、幻想的なディナーが用意されていた。
「ここ、前から来たがっていたよな」
湊が丁寧に椅子を引き、彼女を促す。
「食べてみてくれ。君の口に合うといいんだが」
小夜子は席に着き、目の前に並ぶ洗練された料理の数々を眺めた。けれど、胸のうちは凪いだ海のように静まり返ったままで、何の感慨も湧いてこない。
コースが中盤に差し掛かった頃、湊のスマートフォンがまた震えだした。
画面には、理央の名前。
静かな店内に、彼女の苛立った声が漏れ聞こえてくる。受話器越しでもはっきりと分かるほどの剣幕だった。
「ねえ湊さん!私のためにあんなに盛大な誕生日パーティーを企画してくれたのに、どうして主役のあなたが来ないのよ!」
湊は眉をひそめ、向かい側に座る小夜子に視線を走らせた。
小夜子はただ黙々とステーキにナイフを入れていた。その所作は優雅で、表情はどこまでも穏やかだ。まるで何も聞こえていないかのように。
「……用事があるんだ」
湊が声を潜めて応じる。
「私の誕生日より大事な用事なんてあるわけないじゃない!今すぐ来なきゃ承知しないから。あなたが来ないなら、パーティーなんて台無しよ!」
理央の執拗な追及に逃げ場を失ったのか、湊は溜息をついて電話を切った。
彼は小夜子に向き直り、何かを言い訳しようとしたが、彼女はすでにナイフとフォークを置いていた。
「行ってきたら?」
小夜子は淡々と言った。
「ちょうど私も食べ終わったところだから」
「小夜子、あいつ……理央は帰国したばかりで、友達を呼び集めたいって言っていたんだ。でも自分じゃパーティーの段取りもできないから、少し手助けしただけで……他意はないんだ」
必死に弁明する湊に、小夜子は小さく頷いた。
「わかってるわ。理解してるから」
またその言葉だ。
湊の胸の奥で、正体の知れない苛立ちがふつふつと沸き上がった。
「君も一緒に行こう」
彼は唐突に言い放った。
「会場はすぐ近くだ。少し顔を出してすぐに帰ればいい。気分転換になるだろう」
小夜子が断ろうとするよりも早く、湊は席を立った。
「行こうか」
理央の誕生日パーティーは、都内でも指折りの高級ホテルのバンケットルームで開かれていた。
会場に足を踏み入れると、そこはすでに着飾った人々で溢れかえっている。
その中心に、理央はいた。真紅のドレスを纏い、まるで誇り高い孔雀のように、賛辞と視線を一身に浴びている。
湊の姿を認めるなり、彼女は瞳を輝かせ、ドレスの裾を翻して駆け寄ってきた。
「湊さん!やっと来た!」
小夜子の存在など最初から目に入っていないかのように、理央は当然のような顔で湊の腕に絡みつく。
「おい、理央」
湊が眉を寄せ、腕を解こうとするが、彼女は離さない。
「ねえ、ファーストダンスの相手してよ。最近全然かまってくれないじゃない」
甘えるような猫撫で声。湊は助けを求めるように小夜子を振り返った。
しかし、小夜子の視線は彼を見ていなかった。壁に飾られた絵画でも鑑賞するかのように、ふいと顔を背けている。
「小夜子……」
「行ってらしたら?」
小夜子は平然と言った。
「私、あっちで何かいただいてくるわ」
そう言い残すと、彼女は躊躇いなくきびすを返し、ビュッフェ台の方へと歩き出してしまった。
湊は呆然と立ち尽くした。
以前なら、自分が理央と言葉を交わすだけで、小夜子は悲しげに目を潤ませていたはずだ。
それなのに、今の彼女は自分から進んで、夫を他の女の元へ追いやろうとしているのか?
第6話
呆気に取られている間に、湊は理央に手を引かれ、ダンスフロアの中央へと連れ出されていた。
ワルツの旋律が流れ出す。湊は理央の腰に手を回しステップを踏みながらも、視線はどうしても会場の隅へと向かってしまう。
そこには、小夜子がいた。
彼女はビュッフェ台の前に立ち、小さく切ったケーキを口に運んでいた。その横顔はあまりにも静かで、瞳には何の感情も浮かんでいない。まるで、まったく赤の他人のパーティーに紛れ込んでしまった客のようだ。
心ここにあらずな湊の様子に、敏感な理央が気づかないはずがない。
「……そんなに小夜子さんのことが気になるなら、あっちに行けばいいじゃない」
不機嫌そうに唇を尖らせる。
「私は他の人と踊るから」
言い捨てるなり、理央はパッと湊から身を離した。
彼女の視線の先には、純白のスーツを着込んだ男が立っていた。大学時代の同級生で、以前から理央に熱を上げていた男だ。
チャンスとばかりに彼が恭しく手を差し伸べると、理央はその手に自身の指を重ね、滑るようにダンスフロアの奥へと消えていった。
湊はその場に立ち尽くし、楽しげに語らう理央と男の姿を凝視していた。その表情が、一刻ごとに険しく沈んでいく。
理央はわざと当てつけるように、男との距離をいっそう縮めてみせた。しまいには男の耳元に唇を寄せて何かを囁き、それに応えるように男が満足げな笑みを浮かべ、彼女の頬に唇を落とした。
パリン、と硬質な音が響く。
湊の手の中で、ワイングラスが砕け散った。
破片が指に食い込み、鮮血がアルコールと混じり合って滴り落ちる。だが、彼にはその痛みすら感じていないようだった。
湊はダンスフロアへ突き進むと、理央の手首を強引に掴み、人だかりの中から引きずり出した。
「湊!何するのよ、放して!」
理央が身をよじって抵抗するが、湊は一言も発しない。凍りついたような顔のまま、半ば引きずるようにして彼女を宴会場から連れ出し、人気のないバルコニーへと連行した。
冷たい手すりに理央を押しつけ、湊は抑えきれない怒りをぶつけるように声を荒らげた。
「理央、恥を知れ! あんな男と……」
「恥を知れですって?」
一瞬たじろいだ理央だったが、すぐに表情を険しくして湊の手を振り払った。
「私が誰と何をしようと勝手じゃない!私も彼も独身なの。お互い納得の上で楽しんでるのに、何が問題なわけ?そもそも湊さん、あなたに何の関係があるのよ。どの立場で私に文句を言ってるの?元カレとして?それとも、よそ様の旦那様として?」
「貴様――っ!」
その言葉が棘のように突き刺さり、湊の瞳が血走った。理智の糸が、音を立てて千切れる。
長年愛し続けてきたその顔を前に、強烈な独占欲と執着、そして自分でも正体の掴めない複雑な感情が濁流となって押し寄せ、彼の防波堤をことごとく決壊させた。
湊は衝動に任せて顔を伏せ、理央の唇を力任せに塞いだ。
それは慈しむような接吻ではない。罰を与えるような、あるいは獲物を奪い去るような、荒々しく暴力的な口づけだった。
理央は一瞬身体を強張らせたが、すぐにその瞳に勝利の光を宿した。彼女は拒むどころか、湊の首に腕を絡め、熱烈に応え始めた。
バルコニーのガラスは曇り加工が施されており、外の喧騒からは中の様子は判然としない。だが、会場の隅に立っていた小夜子は、ガラスの僅かな隙間から、その光景をすべて目にしていた。
湊が理央を貪るように求めている。理央がその首に縋りつき、二人が離れがたく絡み合っている。
胸に痛みはなかった。ただ、麻痺したような、ひどく滑稽な心地がするだけだった。
二人の接吻は、互いの呼吸が荒く乱れるまで長く続いた。
だが、湊は唐突に理央を突き放した。まるで深い迷夢から叩き起こされたかのような顔で、潤んだ理央の赤い唇と、虚ろな熱を帯びた瞳を見つめる。心臓が大きく跳ねた直後、言いようのない混乱と自己嫌悪が濁流となって彼を襲った。
「すまない……」
湊は顔を背け、ひどく掠れた声で絞り出した。それは無様なほど必死な逃避だった。
「……飲みすぎたようだ。君を、小夜子と見間違えた」
そんな言い訳を理央が信じるはずもなかった。彼女は一歩踏み込むと、湊の腰にしがみつき、泣き出しそうな顔で彼を見上げた。
「湊さんの心の中に、小夜子さんなんて一度もいたことないじゃない!私を彼女と間違えるなんて、あり得ないわ。ねえ、自分に嘘をつくのはもうやめて。あなたは今でも私を愛してる。私のことを、どうしても断ち切れないんでしょう?」
理央の声は、次第に哀願へと変わっていく。
「もうお互いを傷つけ合うのは終わりにしましょう?小夜子さんと別れて、私とやり直して。もう二度と昔みたいに我儘は言わない。誓うわ。あなたの妻として、今度こそちゃんとあなたを愛してみせるから。ねえ、いいでしょう?」
別れる?やり直す?
その言葉は、湊の耳元で激しい落雷のように轟いた。
彼は何かに弾かれたように理央を突き飛ばすと、荒い声を上げた。
「ふざけたことを言うな!俺は、小夜子と別れるつもりなんてない!」
「どうして!?あの女が五年間、惨めったらしくあなたの後ろを付いて回ったから?」
理央の声が鋭く響く。
「いつまで自分の気持ちから逃げ続けるつもり?私のことがもうどうでもいいって言うなら、生きていたって意味がないわ。いっそ死んでやる!」
そう叫ぶなり、理央はバルコニーの手すりへと向かって走り出した。本当にそのまま身を投げてしまいそうな、狂気を孕んだ勢いだった。
「理央!正気か!」
湊の顔色が変わった。慌てて彼女を制しようと手を伸ばす。
その時だった。天井に吊るされた装飾用の巨大なクリスタル・シャンデリアが、耐えきれないような不気味な軋み声を上げた。次の瞬間、轟音と共に真下へと落下したのだ。その直撃コースには、理央がいた。
「危ない!」
湊の瞳孔が収縮する。彼は考えるより先に身体を投げ出し、理央を抱きかかえるようにして横へと転がった。
凄まじい衝撃音と共に、重厚なクリスタルが床で粉々に砕け散る。
湊の背中には大きな破片が突き刺さり、鮮血が溢れ出して、仕立てのいい高級なスーツをどす黒く染め上げた。
「湊さん!大丈夫!?血が出てるわ、どうしよう!」
理央が顔をひきつらせ、泣き叫ぶ。
異変に気づいた人々が次々とバルコニーへ駆けつけ、現場は一気にパニックに陥った。
救急車を呼ぶ声、助けに入ろうとする者たちの怒号。
人だかりのさらに外側で、小夜子はただ静かに立っていた。胸にはさざ波一つ立たず、目の前で繰り広げられる騒動が、ただひどく滑稽で、目に痛い茶番劇のように思えた。
彼女は駆け寄ることも、声をかけることもしなかった。一秒たりとも、そこに留まる理由を見いだせなかったのだ。
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる中、小夜子は独り、静かにその場を後にした。
第7話
湊はそのまま入院することになった。
だが、小夜子が彼を見舞うことはなかった。
彼女は自宅で独り、淡々と自分の時間を過ごしていた。読書をし、映画を観て、着々と荷物を整理していく。
そんなある日の夜、執事から突然の電話が入った。
「小夜子様、どうか一度病院へ来ていただけませんか?湊様の持病の胃痛が再発してしまい、かなり苦しんでおられるのです。お医者様の薬もあまり効かないようで……冷や汗を流しながら、看護師さんを寄せ付けようともなさいません。
以前は、小夜子様がマッサージをしてくだされば和らぐとおっしゃっていましたが……私共ではもう、どうにもできなくて」
小夜子は窓辺へと歩み寄り、雨の幕に覆い尽くされた街を見下ろした。ガラスを激しく叩く雨音は、まるで世界すべてを呑み込もうとしているかのようだ。
執事の必死な訴えを最後まで聞き終えてから、彼女は静かに口を開いた。
「雨がひどいから、行かないわ」
電話の向こうで、執事が絶句したのが分かった。数秒の間、沈黙が流れる。あまりの返答に、自分の耳を疑っているようだった。
「さ、小夜子様……今、なんとおっしゃいましたか?」
執事がしどろもどろに問い返す。
「だから、外は雨がひどいから出かけたくないの。今夜は行かないわ」
「ですが、湊様が……っ」
「もう寝るわ」
小夜子は彼の言葉を遮った。
「おやすみなさい」
そのまま通話を切り、スマートフォンの電源を落とす。彼女はベッドに潜り込むと、外界の喧騒を一切断ち切って目を閉じた。
翌日、湊は予定を切り上げて退院し、屋敷へと戻ってきた。
その顔はまだ蒼白で、どこか痛みに耐えているような陰がある。リビングのソファで本を読んでいる小夜子の姿を認めると、彼はわずかに足を止め、やがて彼女の正面に立ちはだかった。
「昨夜……」
湊が口を開く。低く沈んだ声で、射抜くような視線を彼女に注いだ。
「執事から電話があっただろう」
「ええ」
小夜子は視線を本に落としたまま、静かにページを捲った。
「どうして来なかった」
湊の問いには、抑えきれない感情が滲んでいた。
「以前の君なら……どんなに雨や風が強くても、俺が少し体調を崩したと口にしただけで、すぐに駆けつけてくれたはずだ」
小夜子の指が止まった。
彼女はようやく顔を上げ、湊を見つめた。その瞳は凪いだ湖のように、一筋の波紋すら立っていない。
「あなたも言った通り、それは『以前』の話よ」
見つめ返す彼女の声はひどく穏やかだった。だが、その一言は鋭い刃のように、湊の心臓を静かに、深くえぐった。
「湊。人間、変わらないものなんてないわ」
湊は口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。
確かに、人は変わる。
小夜子も変わった。
だが、今の彼女の変化は、湊の理解を遥かに超えていた。いつから、なぜ、彼女はこうなってしまったのか。その理由がまったく掴めないという事実に、湊はかつてない不安を覚えた。心臓が早鐘を打ち、足元が崩れるような感覚に襲われる。
彼は、小夜子が怒っているのだと思い込もうとした。理央を庇って自分が怪我をしたことへの当てつけで、冷戦状態にあるだけなのだと。
「数日後だが」
湊は重苦しい空気を払拭するように、あるいは自分自身に言い聞かせるように提案した。
「結婚記念日だろう。以前、君はずっと言っていたじゃないか。一度くらいは盛大に祝いたいと。今年はパーティーを開こう。知人を招いて、賑やかに祝うのはどうだ?」
言いながら、彼は小夜子の顔色を窺った。
小夜子は静かな瞳で彼を見返し、短く答えた。
「お好きなように」
また、その言葉だ。
湊の胸に再び苛立ちが込み上げる。
それでも、彼はパーティーの準備を進めた。彼女の機嫌を直すには、これしかないと思ったのだ。
最高級ホテルのバンケットルームを押さえ、一流のプランナーを雇い入れた。小夜子のためにオートクチュールのドレスを仕立て、さらに目玉として、とびきり高価なジュエリーを用意した。
当日、小夜子は湊が選んだドレスを身に纏い、その首元には都心の高級マンションが優に一軒買えるほどのダイヤモンドを輝かせていた。二人が腕を組んで会場に姿を現すと、ゲストたちの視線が一斉に注がれた。
「小夜子さんはお幸せですね」
「湊さんは本当に愛妻家だ」
「聞いたか?あのネックレス、先日のオークションで数億円の値がついた品らしいぞ」
周囲から漏れ聞こえる羨望の声。小夜子はその一つひとつに完璧な微笑みで応じていたが、その心は深海のように冷たく、何の感慨も抱いていなかった。
宴もたけなわという頃、小夜子は人いきれを避けてバルコニーへ出た。
夜風に吹かれて一息ついたところへ、背後からヒールの音が近づいてくる。
理央だった。
「どうしてここに?」
小夜子が振り返る。
「湊さんに招待されたのよ」
理央は小夜子の隣に並び、手すりに身体を預けた。
「今日は二人の大切な結婚記念日だから、その幸せを私にも見届けてほしいんですって」
そう言って、理央は口元を歪めて笑った。
「ねえ小夜子さん、あなた今、幸せ?」
小夜子は答えない。
理央がその顔に唇を寄せた。
「知ってるのよ、あなたが少しも幸せじゃないことくらい。湊さんの心の中にいるのは私だけ。あなたは可哀想で滑稽な、ただの身代わりなのよ! 昨夜だって、彼は私のために……」
「理央さん」
小夜子は静かに言葉を遮った。その声は、背筋が凍るほど凪いでいた。
「あなたって、本当に騒がしくて惨めな人。まるでお菓子がもらえなくて駄々をこねる子供ね。私と湊のことがどうなろうと、それは私たちの問題。そして、あなた――」
小夜子は一歩踏み出し、冷徹な視線を突き刺す。
「いつまでも過去に縋りついて、他人に嫌がらせをすることでしか自分の価値を証明できない敗北者に、私の感情を割いてあげる余裕なんてないの」
第8話
「この……っ!」
小夜子の瞳に宿る、隠しようのない蔑みと憐れみ。それに逆上した理央の顔が、怒りで醜く歪んだ。彼女は小夜子の背後にある低い装飾用の手すりに目をやり、その瞳にどす黒い殺意を浮かべた。
「死んじゃいなさいよ!」
理央は叫ぶなり両手を突き出し、全身の力を込めて小夜子を突き飛ばした。
不意を突かれた小夜子は、なす術もなく身体をのけぞらせ、バランスを崩して宙に投げ出される。
だが、落下する刹那。死の淵に立った小夜子の生存本能が、反射的に空を掴んだ。彼女の手は、引っ込める暇もなかった理央の手首を、万力のような力で掴み取った。
「――っ!?」
二人の悲鳴が夜の闇に重なる。
小夜子の身体はすでに大半がバルコニーの外へと放り出され、理央の手首を掴む片手一本でかろうじて繋ぎ止まっている状態だった。理央もまた、その重みに引きずられるように手すりへ前のめりになり、もう片方の手で必死に欄干を掴んで、共倒れになるのを防ぐのが精一杯だった。
「助けて!湊さん、助けて、落ちちゃう!!」
理央が狂乱状態で叫ぶ。
異変に気づいたゲストたちが、雪崩を打ってバルコニーへと押し寄せた。
真っ先に飛び込んできたのは、湊だった。目の前の光景に、彼の顔から一気に血の気が引いた。
「湊さん!助けて!私、死んじゃう!早く引っ張り上げて!!」
理央は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、自由なほうの手を必死に湊へと伸ばした。
湊の視線が、奥歯を噛み締め沈黙を守る小夜子と、泣き叫びながら助けを求める理央の間を激しく往復した。
だが、その迷いは一瞬だった。電光石火の勢いで駆け寄ると、彼は躊躇うことなく理央が差し出したその手を掴んだ。
「小夜子、あと少しだけ耐えてくれ!」
湊の声が震える。必死に理央を支えながら、彼は階下を睨むように叫んだ。
「先に理央を引っ張り上げたら、すぐに君を助ける。だから……!」
懸命に訴えかける湊を、小夜子はただ見つめていた。やがて、その唇がふわりと弧を描く。
彼女は、掴んでいた手を離した。
重力に引かれ、身体が夜の闇へと沈んでいく。耳元で風が猛烈に唸りを上げた。
刹那の浮遊感の後、彼女の身体は階下の屋外プールへと叩きつけられた。
激しい水飛沫が上がる。
氷のような水が視界を奪い、意識は深い闇の底へと飲み込まれていった。
再び目を覚ました時、小夜子は自宅の自室にあるベッドに横たわっていた。
身体には清潔な部屋着が着せられ、怪我の手当ても済んでいる。部屋の中に、自分以外の気配はない。
重い腕を伸ばしてスマートフォンを手に取ると、湊からのメッセージが届いていた。
【小夜子、理央がひどいショックを受けているから、先に病院へ送っていく。君はゆっくり休んでいてくれ。戻ったらすべて説明するし、埋め合わせも必ずする。本当にすまない】
埋め合わせ。
また、その言葉。
画面に並ぶ文字を見つめながら、小夜子はこみ上げてくる失笑を抑えられなかった。
もし本当に誰かを愛しているのなら、「埋め合わせ」なんて言葉が必要になるような状況には、そもそもならないはずだ。
湊。私はもう、あなたを愛していない。
だから、そんな傲慢な償いなんて、これっぽっちも欲しくない。
今の望みはただ一つ。一刻も早く、あなたとの繋がりをすべて断ち切り、この場所から遠く、誰も知らない場所へ消えてしまうことだけだ。
スマートフォンの通知音が、静まり返った部屋に再び響いた。
今度は役所からの通知だった。
【白泉小夜子(はくせん さよこ)様。桐生湊様との離婚届の受理、および離婚の証明手続きが完了いたしました。三日以内に窓口までお越しください】
離婚が、成立した。
小夜子はスマートフォンを握りしめたまま、その短い一文を何度も、何度も読み返した。
やがて、彼女は長く、ゆっくりと息を吐き出した。
その吐息には、この五年の結婚生活で積み重なった絶望も、苦痛も、葛藤も、そしてやり場のない未練も、すべてが混ざり合っているようだった。
彼女は羽織っていた毛布を跳ね除けてベッドを下りると、最後の荷造りを始めた。
といっても、整理すべきものはほとんど残っていない。大半の荷物はすでにまとめ終えていた。数着の服をスーツケースに押し込み、最後にジッパーを勢いよく閉じた。
それから彼女は、海外行きの航空券を予約した。
今日の午後三時、国際空港発。
スーツケースを引きながら階段を下りていくと、出くわした執事が息を呑んで立ち止まった。
「……小夜子様、そのお姿は一体……」
「私、行くわね」
小夜子は静かに告げた。
「長い間、お世話になりました」
「何を、おっしゃるのですか!湊様が戻られましたら……」
「彼とはもう、離婚したの」
小夜子は小さく微笑んだ。
「今日から、私はもう『桐生』の人間じゃないわ」
彼女は混乱する執事を残して屋敷を出ると、タクシーを拾って役所へと向かった。
窓口で離婚の証明書を受け取り、中を改める。そこには、どこか他人行儀で無機質な自分と湊の記載があった。
よかった。
これで、ようやく終わったのだ。
そのまま空港へ向かい、搭乗手続きを済ませて待合ロビーの椅子に腰を下ろした。
不意に、鞄の中でスマートフォンが震え出す。
画面には、湊の名前。
小夜子は出なかった。
着信は一度では終わらず、何度も、何度も執拗に繰り返される。
彼女は最後の一撃を加えるように、電源ボタンを長押しして画面を真っ暗にした。
ロビーに搭乗案内のアナウンスが流れ出す。
小夜子は立ち上がり、スーツケースを引いて搭乗口へと歩き出した。
飛行機が離陸し、窓の外で街並みがみるみるうちに小さくなっていく。それを見つめる彼女の心は、かつてないほど穏やかだった。
さようなら、湊。
さようなら、私の過去。
これからは、小夜子は小夜子自身のためだけに生きていく。
雲を突き抜け、機体はどこまでも続く青い高空へと昇っていく。
新しい人生という名の、大空へ。