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遥けし道に星の遅れ
彼女は父親の友人で、自分より一回り年上の男性に恋をしてしまった。 初めて会った日、彼はスーツに身を包み、肩幅の広い逆三角形の体型で、一...
Chương (1)
第1章
彼女は父親の友人で、自分より一回り年上の男性に恋をしてしまった。
初めて会った日、彼はスーツに身を包み、肩幅の広い逆三角形の体型で、一瞬にして人混みの中で輝いていた。
彼は笑いながら彼女の頭を撫で、綺麗なドレスをプレゼントしてくれた。
二十歳の時、彼はパーティーで薬を盛られ、彼女はそのドレスを着て、まだ幼い体を彼の「解毒剤」として捧げた。
第1話
彼女は父親の友人で、自分より一回り年上の男性に恋をしてしまった。
初めて会った日、彼はスーツに身を包み、肩幅の広い逆三角形の体型で、一瞬にして人混みの中で輝いていた。
彼は笑いながら彼女の頭を撫で、綺麗なドレスをプレゼントしてくれた。
二十歳の時、彼はパーティーで薬を盛られ、彼女はそのドレスを着て、まだ幼い体を彼の「解毒剤」として捧げた。
翌朝、乱れた服姿の二人を彼の幼馴染み・橋本夏実(はしもと なつみ)に見られ、ショックを受けた夏実は顔色が蒼白になり、泣きながら外に飛び出した。しかし制御を失ったトラックに轢かれ、即死した。
それから、中野梨花(なかの りか)は深谷浩史(ふかや ひろし)が別人になったと感じるようになった。
彼は冷静に夏実の葬儀を済ませ、梨花と結婚し、毎晩彼女と床を共にし、そして冷静に「今は子供はいらない」と言い、何度も中絶に連れて行った。
十八回目の中絶で大出血を起こし、手術台で息も絶え絶えになった梨花は、医者が彼に電話する声を聞いた。
「亡くなりましたか?死んだら連絡してください」
その時、梨花はようやく悟った--彼は彼女を恨んでいると。
彼は、自ら解毒剤になった彼女を、夏実を死なせた彼女を恨んでいた。
手術台で息を引き取る瞬間、後悔が全身を駆け巡った。
そして目を開けると、彼女は浩史が薬を盛られた「あの日」に生まれ変わった。
普段は冷徹で高潔な彼が、シャツのボタンを何個か外し、目尻を赤らめてベッドに横たわる姿は、まさに雲の上から引きずり下ろされた高嶺の花だった。
前世の梨花はそんな彼に魅了され、父親の友人であること、十二歳も年上であること、全てを顧みずに解毒剤になった。
だが後になって知った。浩史と夏実は互いに想い合っており、ただチャンスが来る前に、彼女が先に割り込んでしまったのだと。
天が哀れんだのか、運命を決めるこの日に再び戻ってきた今世の梨花が成すべきことは一つだけ。二人を結びつけることだ。
迷いなくバッグから携帯を取り出し、夏実に電話をかけた。
十分後、慌てて駆けつけた夏実の手を梨花が掴む。
「彼は夏実さんが好きで、夏実さんも彼が好きなはず。タイミングが掴めなかっただけでしょ?今なら薬のせいで理性が効かないから、想いを伝える最高のチャンスよ」
電話を受けた時から疑心暗鬼だった夏実は、さらに複雑な表情を浮かべた。
「梨花さん、何を企んでるの?あなた浩史さんのことが好きでしょ?こんな時に私を呼ぶなんて……」
その言葉に、梨花は自嘲的に笑った。
確かに今の彼女は、浩史に猛アタックしている最中だ。
かつては努力さえすれば、立場や年の差も越えられると信じていた。だが彼が愛さない限り、全てが無駄になることを身をもって知った。
前世の過ちは大きすぎた。
「もう好きじゃない。これからも絶対に好きにならない」
部屋から抑えたうめき声が漏れる。
「限界よ。早く入らないと手遅れになる」
夏実が部屋を見つめた瞳に迷いが浮かんだ。
そして覚悟を決めたように言った。「……じゃああなたはここで音でも聞いてるつもり?」
梨花の身体が硬直し、道を空けた。
夏実の手が浩史の頬に触れた瞬間、彼女はドアを閉めた。
厚い扉の向こうから、男のうめきと女の喘ぎが梨花の鼓膜を揺らす。
一つ一つが鉄槌のように心を砕き、血肉を削いだ。
力尽きたように床に座り込む梨花の頬を、涙が次々と伝う。
でもどこか解放感があった。
前世の運命から、ようやく逃れられる。
顔を拭い、自分の部屋へ逃げる梨花の背後で、隣の部屋の二人は夜明けまで絡み合った。
朝、父親から電話があった。
「梨花、海外に来て一緒に暮らさないか?」
数年前、中野グループが海外進出を目指し、梨花は父親の旧友・浩史に預けられた。
その後、浩史を好きになった彼女は、何度も父親の誘いを断り続けていた。
だが今、浩史と夏実が結ばれた以上、彼女は自分の人生を歩むべきだ。
「パパ、行く。海外行くよ」
電話の向こうで父親が息を呑んだ。
「やっと気が済んだか!浩史はお前に合わないって何度も……まあいい!こっちで良い相手を紹介するからな。同い年の婚約者候補だ。ゆっくり付き合ってみろ」
父親の言葉に、梨花の腫れた目からまた涙が溢れた。
前世も同じ台詞をかけられていた。あの時聞いていれば--
手の平を掐み、笑顔を作る。
「うん、パパの言う通りにする。すぐ移民の手続きするから」
第2話
電話を切ると、梨花は慌てて涙を拭い、身分証明書を手にドアへ向かった。
扉を開けた瞬間、目の前に立っていた男と鉢合わせた。
浩史の首筋に、無数のキスマークがくっきりと浮かび上がる。
夏実との関係を覚悟していたとはいえ、梨花は思わず視線を逸らした。
その小さな仕草も、浩史の目には逃げなかった。彼女の赤く染まった瞼を見て、男はある推測を確信する。
「梨花」冷たい声に警告が滲む。「俺は夏実と付き合った。たとえお前が納得できなくてもな」
「いつか結婚する。お前がここに住むなら、彼女を尊重しろ。以前のような戯言は二度と口にするな」
梨花は俯き、平然と答えた。「分かりました。深谷さん」
「深谷さん」という呼び名に、浩史は違和感を覚えた。
ふと目の前の梨花を見下ろす。この呼び方を聞くのは、いったい何年ぶりだろう。
あの頃--彼が深谷家に引き取ったばかりの頃、梨花はいつも「深谷さん」と甘く呼んでいた。
だが彼女の気持ちが変わり、呼び捨てにするようになってから、この言葉は途絶えていた。
眉を顰めた瞬間、背後から女の声が響き、張り詰めた空気を切り裂いた。
「浩史さん、荷物運んできたわ。どの部屋にする?」
浩史は我に返り、近寄ってくる夏実を腕に抱き寄せた。「陽当たりの良い部屋がいいだろう?梨花の部屋は南向きで光が入りやすい。彼女を客室に移させればいい」
夏実の目尻が緩んだが、わざとらしく遠慮がちに首を傾げる。「でも……悪いわよね」
「梨花さんより後から来た私が客室にすれば?」
階段へ向かうふりをした次の瞬間、嬌声を上げて浩史の胸に戻される。
「この家の女主人が客室に泊まるわけにはいかん」
「でも梨花さん、長く使ってた部屋でしょう?急に替わったら慣れないかも」
浩史はドア際の梨花を一瞥した。「慣れるさ。結婚する俺のこと、この家に女主人がいること、自分が他人であることをな」
梨花の睫毛が微かに震えた。自嘲的な笑みが唇に浮かぶ。
他人--そう、彼の言う通りだ。自分は所詮よそ者なのだ。
「今すぐ荷物をまとめて客室に移ります」
どうせすぐ、父のもとへ帰る。二度とここには戻らない。ここは浩史と夏実の家なのだから。
その後数日、梨花は領事館で手続きに通い、浩史との接触を避けて朝早く夜遅くの生活を繰り返した。
それでも、浩史が夏実を溺愛する光景を目にせずにはいられなかった。
夏実が食欲不振と言えば、高級シェフを何人も呼び寄せる。
体調を崩せば、千億円の契約を投げ打って付き添う。
何気なく呟いた宝石の話を十分も経たぬうちに、彼女の手元に届ける。
梨花は静かにそれらを見つめ、騒ぎ立てずにいた。移民手続きの許可を待ちながら、自分の荷物を整理し始めた。
昔、浩史に書いたラブレターや描いたスケッチを段ボールに詰め、捨てようと抱えて玄関へ向かう。
ちょうど夏実のお菓子を買って帰った浩史と、再び鉢合わせた。
梨花は視線を合わせずに通り過ぎようとしたが、次の瞬間、手首が軋むほど強く握られた。
「この数日、俺を避けてたのか?」
第3話
梨花は眉をひそめた。「そんなこと、ないです」
浩史が数歩前に進み、彼女の避けるような表情をじっと観察した。「ないだと?毎日朝早く出て夜遅く帰り、俺を見ると挨拶もせずに立ち去る……これでも『避けていない』と言えるのか?」
「なぜだ?俺が夏実と付き合ったからか?」
梨花は慌てて首を振った。「違う!深谷さん、好きな人と一緒になれたなら、私は……心から嬉しいです。本当に、お幸せになってください。もう分かりましたから。あなたが私を好きになることはないって。だから、私も諦めます」
彼女は淡々と事実を述べたが、浩史の顔は険しくなった。梨花が自分を好きでない--そんな戯れ言ほど荒唐無稽なものはない。
「告白しては断られ、しつこく纏わり付いては拒まれ……今度は注目を引くための新手を使う気か?」
浩史は言葉を投げながら、彼女の表情を盗み見た。梨花が一瞬たじろぐのを確認し、確信を深めた。
彼は彼女に歩み寄り、ふと梨花が抱えた箱に目を留めると、声がさらに冷たく響いた。
「好きじゃないのに、これほどのラブレターを書き、密かに俺の絵を描き、何年も執着し続けて……急に『諦めた』だと?中野梨花、その言葉、自分で聞いても滑稽だと思わんか?」
梨花は黙って眼前の男を見つめた。
狼少年の話のように、嘘を重ねれば誰も信じなくなる--彼女だって知っていた。だが、この滑稽な言葉こそが真実なのだ。
「深谷さん、確かに長い間、あなたを好きでした。でも……あなたが私を好きになることは絶対にないです。だから、本当に諦めます」
そう言い終えると、梨花は浩史の目の前で箱の中身をぶちまけた。そして、ラブレターとスケッチを一枚一枚、粉々に引き裂いていく。
舞い散る紙屑の向こうで、男の顔が喜ぶどころか、むしろ暗く淀んでいくのを彼女は見た。
錯覚かと思った瞬間、浩史の冷たい声が耳元に落ちた。
「演じ続けろ。いいだろう。覚えておけ、お前がどんな手を使おうと、俺が好きなのは夏実だけだ」
あの日以来、二人は口を利かなくなった。
一方はただ無口になるだけで、もう一方は「わざとらしい芝居」と冷笑して相手にしなかった。
そんな膠着状態は、深谷家の宴まで続いた。
かつての宴では、深谷夫婦に最も寵愛された梨花が常に中心だった。家族が彼女を囲み、世話を焼くたび、浩史が救いの手を差し伸べるのが定例だった。
だが今、深谷家の関心は全て夏実へと移っていた。
彼女は未来の女主人。梨花はただの部外者--違いは明らかだ。
たった半日で、梨花は夏実への待遇を目の当たりにした。
深谷家の伝家の宝石の腕輪は、夏実が玄関を入った瞬間に浩史の母の手で彼女の腕に嵌められた。
前世、梨花はその存在すら知らなかった。
宴の席では、二人の結婚式の日程が話題に上った。
宴は婚約の決定で幕を閉じ、梨花が浩史と共に帰ろうとした時、浩史の母が彼女を呼び止めた。
書斎に入るなり、浩史の母は単刀直入に言った。「梨花さん、浩史から離れてちょうだい」
「彼と夏実はもう結ばれたのよ。あなたがここにいても、恥をかくだけじゃない?」
かつて慈しんでくれた浩史の母の冷たい視線に、梨花の胸が締め付けられた。彼女への好意は、浩史への告白を境に消えていた。誰もが彼女を「厚かましい」と罵った--
梨花は掌を爪で刻みながら答えた。「……ご安心ください。離れます」
そう言い、鞄から移民書類を取り出して浩史の母に差し出した。
「先日、父に連絡して……海外で一緒に暮らすと伝えました。父が婚約者も見つけてくれて。これからは深谷さんの邪魔をしません」
浩史の母は書類を厳しく点検し、ようやく表情を緩めた。「約束を守るのよ」
浩史の母が去ると、梨花は緊張の糸が切れたようにため息をつき、書類を鞄に戻して立ち上がった。
しかし扉を開けた瞬間、入り口に立つ浩史と視線がぶつかった。
「誰から離れるつもりだ?」
梨花の頭が真っ白になった。彼がどこまで聞いていたか--出国の話を悟られたくない焦りから、彼女は首を振った。
「誰でもないです。聞き間違いです」
そう言い残して脇を通り過ぎようとした時、浩史の声が彼女の耳元に届いた。
「海外に行かなくていい。俺と夏実が結婚しても、お前はこの家にいていい。お前の父親とは旧友だ。一生面倒を見てやる」
その言葉に梨花が目を見開いた瞬間、浩史を探しに来た夏実が廊下に凍りついた。
夏実の怨みを含んだ視線が梨花に刺さるまで、彼女は動けなかった。やがて我に返り、その場を駆け出した--
第4話
その日、浩史が言った言葉を、梨花は特に気に留めていなかった。
ただひたすら移民手続きが早く承認されるのを待ち、この地を離れることだけを考えていた。
しかし、夏実は彼女を放っておこうとしなかった。
ある日、夏実は熱心に梨花を買い物に誘い出したが、車に乗って間もなく、梨花は意識を失った。
再び目を覚ました時、彼女は海辺の崖に縛りつけられていた。
反対側には、同じように縛られた夏実の姿があった。
必死にもがき「なぜ?」と問いかけようとしたが、口がテープに塞がれ、くぐもった声に変わった。
夏実はその疑問を読み取ったように冷笑した。
「梨花、私だってあなたを拉致したいわけじゃないのよ。でも、あの日浩史の言葉がずっと気がかりで……彼にとってどちらが大切か、証明したかっただけ」
その言葉に、梨花の胸に冷たい悲哀が広がった。
答えはもう明らかではないのか?
ほどなく、身代金の連絡を受けた浩史が現金を詰めた二つのスーツケースを手に駆けつけた。
「金は持ってきた。二人を解放しろ!」
しかし夏実の指示を受けた犯人たちは動じず、ゆっくりと言い放った。
「深谷さん、俺たちの目的は金じゃない。この二人--一人は旧友の娘、もう一人は婚約者。どちらか一方しか助けられない。選べ」
犯人が縄を緩めた瞬間、崖際の二人は海へと転落しそうになった。
夏実は顔面蒼白で震えた。「浩史……助けて、死にたくない!」
浩史の心臓が高鳴る。「夏実に手を出すな!」
答えは出た。
犯人が満足げに笑う中、わざと怯えたふりをしていた夏実も安堵の息を吐いた。
彼女は感激したように浩史を見つめたが、浩史の視線は無意識に梨花へと向かっていた。
彼女が泣き崩れるかと覚悟したのに、梨花の顔にはただ静寂が漂っている。
なぜか、その表情を見た浩史は不安に駆られた。
しかし次の瞬間、縄を解かれた夏実が浩史に飛び込んできた。
「夏実……」
浩史が抱きしめたその直後、梨花の縄も切られ、彼女が海へと落下していくのを目にした。
「ざぶん!」
海水が梨花を飲み込んだ。無数の力が彼女を深淵へ引きずり込む。
必死に浮上しようとしたが、徐々に力が抜けていった。
まぶたが重くなり、意識が遠のく……
病院で目を覚ました時、ベッドの脇に浩史が座っていた。
充血した目と無精髭だらけの顎は、何日も付き添っていた証だった。
だがもう、彼の守護は必要ない。
長い沈黙の後、梨花が口を開いた。
「深谷さん、私のそばにいなくていいです。橋本さんのところに行ってあげてください。私一人で大丈夫だから」
浩史は複雑な眼差しで彼女を見つめ、やがて立ち去った。
梨花が退院した日は、夏実の誕生日パーティーと重なっていた。
初めての誕生日祝いとあって、浩史は豪勢に準備を整えていた。
フランスから空輸した十万本のバラが会場を埋め尽くし、高価な贈り物が山積みされ、二人の仲睦まじい写真が至るところに飾られていた。
打ち上げ花火が夜空を彩る頃、パーティーはクライマックスを迎えた。
浩史が夏実の腰を引き寄せ、優雅に舞うその背後で、スクリーンには二人の愛らしい映像が流れていた。
ところが突然、スクリーンが暗転した。
代わりに映し出されたのは子供じみたラブレターとスケッチの数々。
梨花の浩史への恋心が、赤裸々に曝け出されたのだ。
場内が騒然とする中、梨花の顔から血の気が引いた。
あの時全部破り捨てたはずなのに……!
スクリーンを止めようとするが、足が釘付けになり、悪意に満ちた囁きが彼女を切り裂いていく。
「婚約目前なのに未練たらしく」
「橋本さんの誕生パーティーなのに、これって公開挑発?」
「橋本さんが不憫だわ」
夏実は異変に気付いた時、顔が真っ青になった。
彼女は梨花を睨みつけると、泣きながら外へ駆け出した。
「夏実!」
浩史が追いかけようとした瞬間、ふと梨花の姿に目が留まり、反射的に彼女の頬を打った。
「ぱん!」
周囲が水を打ったように静まり返った。
「最近大人しいと思ったら……こんな仕掛けをしていたのか、梨花!」
第5話
その一撃の力はあまりにも強く、梨花を地面に叩き付けた。
彼女の頬は瞬く間に腫れ上がり、口角からは血が滲み出ている。
耳の奥で低い音が鳴り続け、視界もかすんで見えなくなった。
震える手で赤く熱い頬に触れた瞬間、堪えていた涙が次々と溢れ落ちた。
浩史に頬を打たれるのはこれが初めてだった。
しかし彼女が状況を飲み込む間もなく、彼の姿は玄関の向こうに消えていた。
梨花は荒い息を整え、慌てて立ち上がって追いかけた。
--前の人生で起きた夏実の事故を、今度こそ防がなければ。
「ゴロゴロ……」
重苦しい雷鳴が雨音に重なり、世界を灰色に染めていた。
雨で、浩史が夏実を腕に縛りつけるように抱きしめている。
夏実は必死にもがき、声を絞り出す。「今日は私にとって大切な日なのに、あの子がそんなことを……!まだあなたが忘れられないなら、私が身を引くわ」
浩史はさらに力を込めて彼女を引き寄せた。「馬鹿を言うな。お前にずっと想いを寄せてきた俺が、梨花になど……他人に押し付けるなんて、俺の心を引き裂くつもりか?」
そう言い終えると、彼は唇を重ねようとした。
その瞬間--
不意に眩しいヘッドライトが二人を照らし出した。
駆けつけた梨花の目に飛び込んだのは、赤く広がる血の海だった。
救急室の赤いランプが点滅する。
医師たちが次々と医療機器を浩史に取り付けるが、彼は自身の傷より先に夏実の処置を迫る。「俺は構わん……彼女を……!」
「でも深谷さん、ご自身が最も重症で--」
「いいから……早く……!」
医師が渋々手術室に夏実を運び込むと、すぐに血の不足が告げられた。
浩史は看護師の制止を振り切り、ベッドから起き上がった。「俺の血を使え」
「でも貧血状態では--」
「早く採れ……!」
血液バックが山積みになる頃、彼の顔は青ざめていた。
夏実の容態が安定すると、ようやく自分も治療台に横たわった。
梨花はそれ以上見ているのが耐えられず、病院を飛び出した。
浩史が夏実を命より大切にしている事実——前の人生で悟っていれば、あのような惨めな最期は避けられたのかもしれない。
今回は流れを変えたはずなのに、結局事故は起こってしまった。
きっかけは彼女のラブレターとスケッチが流出したこと。
でも本当に破り捨てたはずなのに。
考えられるのは、唯一残っていた夏実が故意に公開したという可能性だけだ。
「もう浩史と結ばれているのに、なぜ……」
答えは出ないまま、三日間を虚ろに過ごした梨花の元に、退院した浩史が現れた。
彼が戻ってきて最初に命じたのは、彼女を冷凍倉庫に閉じ込めることだった。
鉄の扉が開いた瞬間、鋭い冷気が全身を貫いた。
真っ白な氷の壁を見つめながら、梨花は乾いた笑いを漏らした。
子供の頃に湖に転落して以来、極度の冷え性になった彼女のために、屋敷は常に暖房が効いていた。
それが今、彼女への罰として利用されている。
「まだ諦めきれず、夏実を傷つけた」という理由で。
震える体を丸めても、温もりは戻らない。歯の根が軋む音だけが空洞に響く。
外で見守る使用人が小声で囁いた。「梨花さん……謝罪なさった方が。この体では耐えられませんよ」
彼女の目頭が熱くなった。
前の人生で犯した過ちなら、納得できた。でも今は無実だ。
それに浩史の心は既に夏実に奪われ、彼女の言い分など聞く耳持たぬだろう。
冷気が肺を切り裂く。瞼に霜が降り、鼓動がゆっくりと遠のいていく。
--そうして、彼女の意識は静かに闇に沈んでいった。
第6話
再び目が覚めたとき、彼女は部屋のベッドに横たわっており、その傍らには冷たい表情を浮かべた浩史が立っていた。
「今回の事件、本来なら三日三晩閉じ込めておくところだが、夏実が心優しくてお前を許し、放してくれと頼んできたんだ」
「お前が未だに俺に執着しているのは知っている。だが中野梨花、よく覚えておけ。十二歳も年下の娘を好きになるはずがない。お前と俺は、絶対にあり得ない」
言葉を残すと、浩史は部屋の扉を勢いよく閉めた。鈍い音が響き、梨花が口にしようとした説明はかき消されてしまった。
彼女は枕元に身を預け、目を閉じて深いため息をつくと、呟いた。
「浩史……本当に、もう好きじゃないから」
その後数日、深谷邸は慌ただしく賑わった。
別荘中の者が、浩史と夏実の迫る結婚式の準備に追われている。夏実は指揮をとりながら、突然梨花の腕を掴んでにこやかに話しかけた。まるで過去のいざこざなどなかったかのように。
「会場の準備はほぼ終わってるの。あとはブライズメイドだけね。梨花さんがピッタリじゃない?この縁起担ぎで、付き合う人ができるかもよ?」
最後は冗談めかした調子で付け加えた。梨花には彼女のような巧みな演技はできず、肘から手を引き抜きかけた瞬間、頭上で低い男声が響いた。
「彼女はブライズメイドにはならない」
二人が振り向くと、浩史が背後に立っていた。
「どうしてダメなの?」夏実は意外そうに眉を寄せた。
浩史は答えず、ふと梨花の方へ視線を移した。最近の彼女は大人しくなり、自分にまとわりつくこともなくなった。だが彼女が将来誰かと付き合うと考えると、胸の奥に鈍い圧迫感が広がる。理由はわからない。
浩史が適当な口実を探そうとした時、梨花が静かに口を開いた。
「私がブライズメイドなんて、ふさわしくありません」
本当は、すぐに海外へ発つ予定だった。この結婚式には、参加できないのだ。
浩史は彼女の言葉に頷き、夏実もようやく諦めた様子だった。ほっとした梨花が踵を返そうとした瞬間、再び夏実の声が追いかけた。
「じゃあ、お祝いの気持ちとして、前にデザインしたあのウェディングドレスを譲ってくれない?私、とっても気に入ってるの」
梨花は思わず浩史を見た。
そのドレスは彼女が十八歳の時にデザインし、コンテストで受賞したものだ。社交界の令嬢たちがこぞって購入を希望したが、全て断ってきた。
これは、自分が結婚する時に着るためだった。浩史と結ばれる日のために。
浩史はその意味を知っているはずなのに、夏実を失望させまいと口を開いた。
「梨花、そのドレスを売ってくれれば、どんな条件でも受け入れる」
梨花は唇を歪ませた。
「結構です。橋本さんがおっしゃる通り、お二人への祝福は表さないと。なら……このドレスを、結婚祝いの贈り物とさせてください」
そう言うと、彼女はブライダルショップに電話をかけた。すぐにスタッフが保管していたドレスを届け、夏実の手に渡った。
夏実は嬉々として試着室へ駆け込み、梨花は無表情でその背中を見送った。そして何事もなかったように自室へ戻っていく。ただ浩史だけが、彼女の後姿を長く見つめていた。
夜明け前、梨花は一人で部屋にこもり荷物をまとめていた。手続きもほぼ終わり、もうすぐこの家を出られる。スーツケースを押し入れに隠し、ベッドに入ろうとした瞬間、扉が勢いよく開かれた。
「ドレスに何を仕込んだ!」
浩史が乱暴に彼女の手首を掴み、怒声を浴びせた。
「夏実が試着したら全身が痒くなり、赤い発疹が出た。梨花……お前、彼女を殺すつもりか!」
薄暗い照明の下、浩史の怒りに震える瞳が、鋭い刃のように梨花を切り裂こうとしていた。
「触ってもいないです!傷つける理由なんて……」
「理由はあるだろう未練があるのは知っている!だが夏実を巻き込むな!」
浩史は彼女をベッドに押し倒すと、氷のように冷たい声で言い放った。
「彼女に何かあれば、お前は……」
話が終わらないうちに、家政婦が慌てて飛び込んできた。
「大変です!橋本様が倒れました!」
「ここから動くな!」
浩史は顔色を変え、そう命じると部屋を駆け出した。
第7話
その夜、深谷家の明かりは一晩中煌々としていた。
梨花はソファに座ったまま身動きもせず、爪の先が掌に食い込み、血の気の引いた手のひらをじっと見つめていた。
痛みすら感じないかのように、壁の柱時計を凝視する。
夜十二時から朝七時まで、彼女はただ時計の動きに目を奪われていた。
時報が鳴り終わる瞬間、玄関から慌ただしい足音が近づいてきた。
浩史の瞳は漆黒で刃のような冷たさを湛えていた。その視線に梨花は背筋が凍りつくのを感じた。
秘書から鞭を受け取った浩史が、一歩一歩と彼女に近づいた。
「中野梨花……お前に分かっているのか?もう少しで夏実と腹の子が危なかったんだぞ」
夏実が妊娠していたのか?
衝撃が頭を駆け抜けた後、梨花はすぐに現実に引き戻された。
そうだ……前世でも、ちょうどこの時期に彼女は身ごもっていた。
今世では自分が夏実を浩史の元へ押しやったのだから、当然の成り行きだった。
思考が中断される中、浩史が懲罰用の鞭を握りしめていた。夏実への義憤に駆られたその姿に、梨花の目頭が熱くなった。
「私がドレスに細工なんてしていないです……彼女を傷つけようなんて思ってもいない。拉致事件に、宴のラブレター、ドレスのトラブル……全部が不自然じゃないですか?仮に私が彼女を陥れようとしても、こんなに繰り返し成功するはずがない」
慎重な浩史ならこの矛盾に気付くだろう--そう信じていた。
だが彼の全身は怒りに震え、冷ややかな声で言い放った。「つまり、最近の事件は全て夏実の自作自演だと?俺が愛し、娶ったのは彼女だ。彼女がお前を陥れる理由などない」
梨花もその点が不可解だった。「私にもわからないです……」
言葉が途切れた瞬間、鞭が空を切り裂く音が響いた。
「融通のきかないやつ!」
背中に走った激痛に、梨花は唇を噛みしめた。浩史の心に住むのは夏実だけだというのに、なぜか彼を信じる淡い期待を抱いてしまった自分が愚かだった。
逃げ出そうとする足を、背後から駆け寄ったボデイガードたちが押さえつけた。
「謝罪しろ!」
鞭が再び振り下ろされ、浩史の怒声が天井に反響した。梨花は震える手で床を掴み、呻き声を押し殺す。
三度目の鞭が背中を裂く。「答えるんだ!お前は過ちを認めるのか!」
しかし俯いたままの梨花は口を閉ざしたまま。誤っていないのに、どうして謝れようか。
浩史の鞭が止まらない。
背中の皮膚が裂け、血が滲む。それでも梨花は首を縦に振らなかった。
ついに秘書が鞭に手をかけた。「浩史様、このままでは命に関わります……」
浩史はようやく鞭を放り投げた。「二度と繰り返すな」
梨花は力を失い、床に額を打ちつけて意識を失った。
その後数日、浩史は帰宅せず。梨花は背中の傷が癒えるまで床に伏せった。
歩けるようになった日、入国管理局から永住権の許可が下りたとの通知が届いた。
荷物をまとめ、スーツケースを引きずりながら玄関を出ようとした時、帰宅した浩史と鉢合わせた。
「また家出ごっこか」彼の声は氷のように冷たい。「何度言わせる?俺への執着を捨てろって。それでもお前は彼女を傷つけようとする。罰を受けて当然だろう」
梨花は疲れ切って俯いた。もう何度同じことを言えば、この人が理解してくれるのだろう。
沈黙する彼女に、浩史は眉間に皺を寄せた。「……良い。気分転換も必要だろう。夏実の胎児が不安定で、俺も結婚式の準備で忙しい。お前がここにいる限り、また何か起こりかねない」
スーツケースを奪い取ると、浩史は言い放った。「空港まで送る」
反論せず、梨花は黙って後を追った。
車が空港まで走った。梨花が黙って荷物を持って車を降りようとしたその時、浩史がようやく口を開いた。「どこ行きのチケットだ?」
梨花が口を開く前に、彼は続けた。「近場の都市にしておけ。式が終わったら迎えに行く」
「わかりました」
梨花は従順に頷き、彼の視界から消えるとすぐに携帯を取り出した。浩史の連絡先を全てブロックし、搭乗口へ歩き出した。
迎えに来るだって?
結構です。浩史。
もう二度と、この場所には戻らない。